「記憶/物語」を読んで 5

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 Deceit

  「記憶/物語」の著者、岡真理は1998年の映画、「Saving Private Ryan」を例に、「戦争とは人が不条理な死を死ぬという<出来事>であること、主体的な選択が根源的に否定される体験である」という措定を述べ、Spielberg監督の上記作品や、「Schindler’s List」にはその命題の否認があると指摘した.それはライアン一等兵が選んだ大義によって、シンドラー氏のリストに名前が記され絶滅収容所行きを免れたことによって.絶滅収容所を生還した多くの人が語るように、そこは人間の主体的な選択が存在しない.存在が根源的に否定されている.無意味に死ぬ日常が果てしなく続く世界である.だがライアンは自分だけが軍部の命令によって救出されるという不条理を選択せず、仲間とともに前線に留まる.彼は自分の正義を貫き、救出部隊の兵士も彼の選択を尊重するのである.ライアンを救うことは、自分を省みず正義を貫く彼を救出するという大義なのであるから.

 ではなぜ否認するのだろうか.彼女の論には明らかな答えは示されていない.

 これら作品は、観客を、<出来事>の「真実」を領有する主体とする.「ヒューマニズム」と「エンターテイメント」の見事な融合.だが、それは、誰の、どのような欲望に奉仕しているのだろうか.という問いかけのみである.

 否認の背景に関して、彼女は後述するが先に私から述べておくと、我々人間の「ヒューマニズム」所以であるからだろう.筆者はこれを「共約可能な普遍的感覚」という術語で換言している.不条理な事象が受け入れがたいものであることを我々は自明としている.我々は一定の合理的説明を期待する.特に営利が目的となる創作物は観客が享楽することが求められる.要するにウケないものは売れない.ブログで稼ごうと考える人は読者のウケを狙うのが必然だろう.私達は根底では他者を意識している.よって、「誰の、どのような欲望に奉仕しているのだろうか」という問いに対する一つの答えは、私達自身であろう.だが、どのような欲望なのかは、もう少し論考を読みすすめることで考えてみたい.

 第四章は、物語の欺瞞/欺瞞の物語と題する.彼女は以下の人物を紹介する.オーストリア・ハンガリー帝国で出生、ハンガリー系ユダヤ人の父を持つブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim)はダッハウ強制収容所およびブーヘンヴァルト強制収容所で計一年間過ごしたことのある人物である.絶滅収容所となる前に釈放されて米国に亡命し、心理学者として自閉症研究において知られたそうだ(私は全く知らない).蛇足だが彼は自閉症が後天的なものと主張する、現代では全く信憑されていない説を提示し、学会で話題を呼んだ.(著書では精神分析医とあるが、PsychoanalysisとPsychologyは全く異なる分野であり、彼の場合は心理学者が妥当だろう.だがベッテルハイム自身は心理学を正式に修めたわけではなく、後世様々な理由から非難されている)

 彼の学術的主張はさておき、彼はナチスによるユダヤ人絶滅政策を「ホロコースト」と呼ぶことに異議を唱える.「ホロコースト(Holocaust)」は「完全に焼く」を意味するギリシア語の訳であり、日本語では全燔祭という宗教的用語が当てはまる.Holocaustという言葉はそもそも獣を丸焼きにして神に捧げる宗教的儀式を含む.ユダヤ人らを収容所の焼却室で焼いたことから連想したであろうと述べる.こうした由来を知ると、用語としては全くたちの悪いものである.

 絶滅収容所で虐殺されたユダヤ人は、ユダヤ人であるだけで理不尽にも殺害された.全くユダヤ教と関係ない生活を送った人も多数いた.宗教的な含意のある言葉でこれを呼ぶことは、偽りの宗教的神聖さを与え、彼らが無意味な死を選んだという<真実>に直面する人間の尊厳を奪ってしまうからだと.

 絶滅収容所から生還した人々は自分だけが生き延びてしまったという体験によって心に傷を負う.彼らは自分が生き残ったのは、収容所で殺された者に代わり、自分がより良く行き残された命を生きる使命を負うと考えるようにしていると、ベッテルハイムに手紙をよこす.

 しかし、ベッテルハイムは辛くも一蹴する.そのような「使命」などない.貴方がもし「使命」を授かったのなら、収容所で亡くなった人々はそのような「使命」なく死んだのであり、そこに死の理由が生じるからだ、と.ベッテルハイムにとって彼らのような方便は自己欺瞞に過ぎないという.厳しい指摘である(ベッテルハイムは児童を癒やす立場でありながらも、患者に対して不適切な言動、虐待を行った事について数々の批判があり事実であれば、彼は発言する立場として不適当だろう).

 どうなのだろう.<真実>に直面しろというのは、理不尽で耐え難い惨劇と向き合うことであり、これを強いるのは苦しい瞬間の連続を強いることである.筆者もそれは一つの暴力性ではないかという.もし虐殺という<出来事>を可能にした欺瞞の犯罪性を我々が批難しなければならないとすれば、自らにも欺瞞を拒否しなければならないという倫理的命令が生じる.私はヨハネによる福音書、第八章二節−十一節を考えてしまう.以下の通りだ.

 姦通罪で捕まったとある女性を連れて、律法学者らがイエス・キリストを試すために問う.「こいつは律法なら石打の死刑だが、貴方はどうする」と.イエスは「あなた方のなかで罪のないものが、石を投げつけなさい」と答えたらしい.これを聞いた人々は次々に立ち去って、誰も石を投げなかった、という件である.石を投げなかった人々は立派な倫理的態度だと思う.

 我々は聖書の律法学者らのように高度な倫理的態度を取ることができるだろうか.私には自信がない.私だったらついうっかりイエスに石を投げてしまうかもしれない.姦通ではなくとも、暴力的な出来事を体験した当人がその経験になんらかの意味付けを行い、生きていくことが欺瞞なのだとしたら、欺瞞だと指摘したその人も、類似した境遇において自身を欺罔せずに生きていかなければならないのだ.

 筆者はこう続ける.「ひとつだけたしかなことは、出来事の暴力を生きのびるためであれ、そこに偽りの意味を充填することは、そのような不条理を生起せしめた暴力の根源をも欺瞞のうちに、生かし続けることになる」

 つまり、「使命」や「大義」という偽りの意味を詰め込むことは、その人にとって不条理であった出来事を否認することであり、自分自身をも騙すことになるという.確かに彼女の主張は的を得ているかもしれない.しかし、前述した通り、私達は事象に対して一定の合理的な説明を期待するものである.それが何ら商業主義と無縁であっても、それが一個人の、政治的思惑や集団の心理と無縁であったとしても、何かしら意味づけを行うことによってその個人の生きる原動力になるとすれば、それは妥当なのではないか.私は書架にあるV. フランクル(V. E. Frankl)の「Ein Psychologe Erlebt Das Konzentrationslager(邦題:夜と霧)」を取り出し、何か私の考えを支持してくれるものはないかパラパラめくった.最後の締めくくりにヒントを見つけた.

 「収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをもこもごもに言いあったものだ.わたしたちは、幸せなど意に介さなかった.わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった.にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった.少なからぬ数の解放された人々が、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない.そうは言っても、精神医をめげさせることはできない.その反対に、奮い立たせる.ここには使命感を呼び覚ますものがある」

 フランクルは1944年にアウシュヴィッツに送られ、3日後にダッハウの支所、テュルクハイムに移送された過去をもつ.上記の作品は彼の収容所体験をもとに記されたものである.彼の身分や境遇としてはベッテルハイムと似ている.だが、フランクルが記したその内容は、決して厳しいものではなく、その対極の姿勢に根ざすものに思う.彼は、暴力的な出来事を体験した本人であり、その苦痛は計り知れないものだ.だが彼は奮起し、使命感を呼び覚まされたと述べている.この言葉は決して偽りの意味を充填したものではないだろう.彼は不条理を伴う出来事を否認してもいないだろうし、否認する理由がないように思うのだ.

 よってベッテルハイムないし、筆者の考えには反例があるのではと私個人は思う.そう気づけたことで私は少し安堵している部分もある.なにしろ暴力性と向き合い続けることは辛く苦しい.「Adieu」におけるSのように心を閉ざすほかないだろう.私は、彼女の論である「ひとつだけたしかなことは、出来事の暴力を生きのびるためであれ、そこに偽りの意味を充填することは、そのような不条理を生起せしめた暴力の根源をも欺瞞のうちに、生かし続けることになる」措定は、条件付きで成立すると考えたほうが良いのではないか.確かに存在が根底から否定される不条理な世界において主体的な選択などないかもしれない.だがそれはフランクルの著作において、魂の教導ともいえる彼の収容所での演説は、そのような絶望の中で生きる意味を改めて考えさせるものであり、彼が困難とともにした人々が皆、尊厳を失ったわけではないのだ.

 そうこう考えて読みすすめるうちに、筆者も似たことを考えていることに気づく.私が条件付きで、と指摘したことについてである.それは彼女の言葉でいう「ナショナルな欲望」が大きく関係している.次章、記憶のポリティクスで語られる.

 筆者の思考開示を私の思考が追いかけていく.私に生じた疑問を彼女の文章に尋ねて、私は答えを見出す.まるで対話しているような感覚だ.一つひとつの文章を丁寧に読んでいく過程は存外楽しい.私がこのタイミングで「夜と霧」をまた広げるとは思わなかった.手元にあって良かったと心から思った本だ.

 いつもありがとうございます.本当は「記憶/物語」に関する感想を三部くらいで完結させるつもりでしたが、楽しくなってしまい、五部でも終わりそうにありません.開き直ってこのまま気長に投稿を続けようと思っています.途中で雑に終わらせるつもりはありませんから、現象学、「茶の本」の翻訳、雑記、これらを混ぜつつ、書評を書いていこうと思っている次第です.