「記憶/物語」を読んで 7

ancient temple ruins in lebanon
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  表象の不可能性を超えて

 このシリーズもなんと七部になってしまった.ようやく第二部、「表象の不可能性を超えて」に入るわけだが、前回の記事の最後で、私は拷問の論理という言葉を使った.これはどういうことなのか.そして筆者はどうして映画「ワンダフル・ライフ」にナショナルな欲望があるか懸念をしているのか.そこから考えてみることにしたい.

 拷問の論理、それは決して理解することは難しくない.例えば、貴方の弱点を最も苦手な人に教えなければならないと仮定する.弱点なんかありませんよ、という人はいないはずだ.自分の容姿について、家族について、自分の過去について、能力について、性格について.思い返すことすらためらわれる記憶・物語が人によってはあるかもしれない.それを誰かに打ち明けることは大変辛い作業だ.友人、家族、上司、主治医、警察、行政.いじめの体験、家庭内暴力の経験、心的外傷の記憶、勤務中の苦痛.特に自分の尊厳が侵されるような出来事は屈辱に等しい.

 そういった苦痛の体験を語ることがためらわれるのだから、他人に同じことを依頼するのは、よほどの無神経な人か、真に必要がある人かであろう(治療、捜査、法律など).無論前者はお断りである.後者ですらとても辛いに違いない.だから、従軍慰安婦とされた方々に、その劣悪な記憶を証言してもらうことは大変な困難である.筆者も次のような強い表現で綴る.

 <出来事>の<真実>を証す証言に触れたなら、その<真実>を、<出来事>を否定する歴史修正主義者たちの眼前に突きつけて、お前たちはこれでも抗弁するのかと、言ってやりたいとわたしも思う.だが、このとき、自らの傷ついたからだを切り裂いて、その内部をえぐり出すような証言であるからこそ、そこに<出来事>の<真実>が証されているのだとするなら、それは何と、グロテスクなことだろう.<中略>いったいどれだけの苦痛に身をよじって証言すれば、<真実>を語ったことになるのだろう?

 そう、胸くそ悪いほどグロテスクなのだ.このような事態を考える時、類似した構造が現代でも続いているという悲しさを、私は伊藤詩織さんの抱える係争によって思い起こす.

 もしそういった証言を我々が語るとすれば、そこには私達が苦痛を感じたわけではないがために、証言に説得力が生じないのでは、<真実>が十分に語られないのでは、と懸念するのである.では、やはり心の傷を抉るような証言が必要なのだろうか.なぜ自分を苦しめてまで語ることをしなければならないのか.それは、単に歴史修正主義者のような勢力だけでは無い、と彼女はいう.戦後の日本社会の<出来事>に対する歴史的忘却、そして<出来事>を否定する人々に対する日本人の非力さであると.我々にも責任があるという.私の解釈を言えば、この非力さは我々の否認や回避なのだろう.彼女も否認という言葉を用いている.非力さとは自分が彼女らの拷問に加担しているという事実を見ないですますことだと言う.彼女らに語らせ、歴史修正主義者の言説を否定しようとすることは錯誤的だと述べる.

 ではどうしろと言うのか.それに対して彼女の考えはこうである.

 私たちは、言葉が媒介する意味を見るのではなく、言葉のズレ、<出来事>とそれを表すために語られた言葉のあいだの果てしない乖離、断絶こそ、見るべきなのではないか.その言葉は、<出来事>を意味しているのではなく、<出来事>との断絶を、その断絶のうちに現れている<出来事>の、他者には想像不能な暴力の深さを指し示しているのでは無いだろうか.

 当事者が語る証言によってのみ私達はその出来事の重みを感じるのではない.むしろ証言が何重にも媒介を経ることによって陳腐化され、常套句と化してしまうことにより、気の遠くなるようなギャップを感じることで、我々は、当事者が語ろうとするリアリティに思いを馳せることができるのだと.

 直観するにはなかなか難しい.だが、こうしたことは現在でもインターネット・スラングにある「小並感(こなみかん)」として説明できるかもしれない.聞いたことがある人ない人いるであろうから、簡単に述べてみよう.小並感とは「学生みの想」を縮めたものだ.出典は明示しない.各自で調べていただいた方が良い.

 例えば貴方が二十代の大学生だと仮定する.大学の友人と新作映画を観に行ったとしよう.お互いに感想を言い合う際、「最後のシーンが良かった」なんて言葉を友人の口から聞いたとしたら、「なんて陳腐な表現だろう」「なんて具体性に欠けるつまらない表現だろう」「もっとマシな表現があるだろう」と思うかもしれない.或いは、自分が上記の感想を述べた時、「自分でもなんて貧弱な表現を使ってしまったのだろう、小学生じゃあるまいし」と感じるかもしれない.

「(これは表現力が成人に比べてまだ乏しい)小学生並みの感想に近いなぁ」という、一種の揶揄表現である.多くは自分の表現力を卑下する、自虐的に用いる表現である.別に小学生である必要はないと個人的に思う.さすがに小学生に失礼だろう.大人でも小学生に劣るひどい言語能力が示唆される人はいる.

 それはともかく、「小並感」は実際体験する出来事とその経験についての証言とのギャップが強いことを表すと考えて良いだろう.岡の表現を借りれば出来事と物語の乖離とでもいえば良いのか.「小並感」は皮肉と侮蔑と揶揄と自虐が入り交じる表現であり、用法は特殊だが、体験と語りの断絶を知る、という意味ではおそらく上記の筆者の考えを理解するのに役立つだろう.なお、岡は慰安婦として実名で名乗った金学順の証言、「わたしは女の歓びを知らない」という証言の「女の歓び」たる陳腐さに衝撃を受けたと記している.そして女性の心理に通暁している触れ込みの男性作家が大衆小説で使いそうな、手垢にまみれた言葉と評している.すごい(小並感).

 前に触れた作品「ワンダフル・ライフ」は日本の映画だ.だからキャストは皆日本人である.言語は日本語である.そりゃそうだろう、と思うのも無理はない.だが筆者の着眼点はそこなのだ.死者は日本人だけではない.当たり前だ.しかしながら映画に出てくるのは日本人だけだ.その他の国籍の人はどうしたのか.ナイジェリア人はどうするのか.中国とインドの国境の紛争地帯の人はどちらなのか.レバノンにルーツを持つ親のもとブラジルで生まれ、レバノンに戻るもフランス語の高等教育を受けた人はどうなるのか.戸籍がない人はどうするのか.ゴリラやチンパンジーはどうなるか.カメはどうなのか.

 「うわぁ、めんどくさい人だなぁ」と思うかもしれないが、それは私だけではなく、筆者もそういう性質の人だろう.たまたま日本人の団体が来たんでしょ.という解釈も悪くは無いが、面接する人も日本人なのだ.もし顔つきが日本人に似ているブータン国籍の人が来たとしたら対応に苦慮するだろう.つまり、記憶の分有をテーマにする作品が問題にするのは、言葉で語りうるような出来事の記憶なのだ.語り得ない出来事の記憶は排除されていることが前提である.それでいいのか、と彼女は考えているわけである.

 こうした仮定は決して虚構ではなく、今、この日本社会が抱えている事態そのものであると岡は言う.日本語が話せない外国人が適切な通訳がおらず法廷に立たされている事態である.そんなの知らん、日本に来て事件を犯したのが悪いんだ、という意見に対して、逆の立場であればどうしようか.貴方が海外を渡航中に冤罪で逮捕勾留されたとする.或いは異国の禁忌を無自覚に犯して不敬罪で逮捕されてもいい.貴方は旅行会社が何でもやってくれるツアーに任せきりで、貴方は日本で高等学校まで英語の教育を受けたはずなのに英語はろくすっぽ話せない.もごもごして戸惑っていると、険しい顔をした役人が来て、わけのわからない内容を早口で話している.貴方は法廷でも何も話せないし何も聞き取れない.ああ可愛そうに.

 私達は日本にいる限り、言語という躓きようがない手段があたかも自明のように感じられるため、言語で躓く人たちの存在を忘れてはいないだろうか.と筆者は呼びかけているのである.「ワンダフル・ライフ」だけでなく、物語が言語や国籍で先立って分類されているとしたら、難民はどうなってしまうのだろうか.創氏改名を余儀なくされ、いつの間にか天皇の赤子になっていた朝鮮人は、何人なのだろうか.「ワンダフル・ライフ」に登場するとしたら何語で語るべきなのか、と.

 ナショナルな欲望とは、戦争という<出来事>の暴力を現在の物語として生きざるを得ない他者の存在を想起する契機を欠落させ、自らの被害だけを記憶し、想起しているという点にある.それは他者の否認である.ナショナリズムの分有であると筆者は結ぶ.私達はそのような社会を生きている.様々な媒体を通じて気づかないうちに否認をしているかもしれないのだ.ニュースで報道されないこと、テレビに映らない人、新聞に書かれない出来事.いつの間にか存在を棄却している.私達は語られないことに対して、思いを馳せていくことも必要なのだ.私達は知ろうとしなければならない.

 第二部の序章「転移する記憶」において、記憶は他者によって分有されなければならない、と筆者はいう.出来事は分有されなければ、記憶の彼方に放擲されて永遠に忘れられてしまう.よって<出来事>の外部にいる他者へ、道筋を作るために記憶を語り継ぐ必要がある.しかしながら、ここでジレンマが生じる.

 これまでの筆者の論を振り返れば、ひたすらに出来事というのは言語化できないということだった.言葉にするにはあまりにも、出来事が持つ余剰が大きすぎて、両手で掬う砂が隙間から落ちるようにポロポロとこぼれる.出来事と言葉との距離はとてつもなく遠く離れている.なんとかして近づこうとするがかえってリアリズムの欲望が、語られないものを忘却の彼方に置き去ってしまう危険があることを知った.

  <出来事>の記憶を分有するとはいかにしたら可能だろうか.<出来事>の記憶が他者と分有されるためには、<出来事>は、まず語らねばなるまい.伝えられねばなるまい.<出来事>の記憶が、他者と、真に分有されうるような形で<出来事>の記憶を物語る、とはどういうことだろうか.

最初に筆者が問題提起したことを記す.私達はまだ答えにたどり着いていない.そもそもたどり着くのかもわからない.だが漸く我々はそれを吟味検討する準備が整ったようでもある.第一部はその下ごしらえであった.さて、筆者はどのように料理していくのか.またもや意味深な命題が投げかけられる.

 人が<出来事>を領有するのではなく、<出来事>が人を領有するのだ.

 一見、ただの倒置のようだが……どういうことだろうか.

 いつもありがとうございます.ここまで読み進めてきましたが、難しい内容ですよね.私はここで山頭火の句を思い出します.

分け入っても分け入っても青い山

 まだまだ青い山は続くようです.よかったらこのまま一緒に縦走しませんか.