読書という泳ぎ方

事務所の愛らしい花々

 私が最後に記事を投稿したのは8月10日だった.ということは今このとき書いているのは14日であるから4日空いたことになる.なんだか随分間が空いた気がしてしまう.だからどうしたんだと言われると、別になんでもないです、ただ私が思ったことをつぶやいただけです.といった具合だ.

 正直にいうと、次に何を書こうか悩んでいる.決して強がって言っているわけではないし、ネタが無いわけでないのだけれど、ネタをうまく統合することができていない.今読んでいる本をざっくり言うと、3,4冊はあるだろうか.その紹介でもしようか.

 一つはJ. Lacanの”Séminaire VIII”の「転移」(Le Transfert).以前、「饗宴」の話をしたが、ついに読み終えることができた.次に「饗宴」について言及されている「転移」にトライしてみようという気になり読み進めているところだ.うーん、読んでいる途中の感想を言うのは難しいが、サザエつぼ焼きを食べるときやぶどうの粒を食べるときと似ている.ちょいちょい手間がかかる.それにサザエもぶどうもあまり好きでない.言い回しに引っかかることも多数、知らない引用がこれでもかと出てくる.その都度中断して出典を調べる.いちいち変な例えを出してくるのは、私に似ているかもしれない.これは不覚だった.こんなことを言うのは訳者に失礼だと思うが、文章がわかりにくい.確かに口述したものを訳するのだから困難を極めるだろう.だが、あんな日本語を話す人はいないであろう口調で書かれているので、ちょっと気味が悪い.じゃあ、お前が翻訳やれよ、とおっしゃる方がいるかもしれない.翻訳を馬鹿にしているわけでは決してない.誓ってない.返事は次の通りである.いつかやりますからちょっと時間をください.

 Lacanの膨大な知識の奥深さたるや.一体どのくらいの書物を読んだのだろう.どれだけいろんなものを見聞きしたのだろう.ギリシア語も通じているとはたまげたなぁ.そんな気持ちである.確かに難解と言われるだけはある.Nürburgring(ドイツ最難関のサーキット)とは言わないが、Circuit de Spa-Francorchamps(ベルギーの名サーキット)を疾走するくらい難しさはある.ゲーム(Gran Turismo Sport)でしか走ったことはないが、手に汗握る緊張と集中力を要する.なんとかして理解したい、その気持は揺らいでいない.

 もう一つはS. Freudの「精神分析入門」(Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse).こちらも分析家の本だが、なかなかにくどい.噛み切れないスルメイカを食べているような気持ちだ.チータラのほうがはるかに良い(チータラを知らない人はコンビニやスーパーマーケットに行こう!).錯誤行為という章を読んでいるが、想定されうるあらゆる批判を躱すための懇切丁寧な説明がなされている.大変長く続いているので、彼のものを書く姿勢がなんとなく見える.意図しない行為を行ってしまうことを錯誤行為というが、20世紀初頭では極めてセンセーショナルな話題であったのだろう.わかったわかった、先生、もう十分堪能しました!と言っても「ワシの解説はあと108頁まであるぞ」というくらい見事な丁寧ぶりである.書評のようなものはいつか書きたいと思っている.

 さらに読んでいるのは、「五月の読書」独文学者、翻訳家であり文芸評論家でもあった故高橋英夫の未収録エッセイ集を集めたものである.なんでお前は全然毛色の違う本を読んでいるのか、誰か唆した者がいるのかと問われれば、そうである.実に巧妙に教唆する者がいる.だが、それが良い.私は好き勝手に本を読んでいて、どれもほとんど一貫性がないし、文筆家の執筆背景を吹き飛ばしてでも読んでしまう.要するにおバカなのである.そんな愚人におバカなりの本の読み方を教えてくださる実に奇特な方である.ちゃんと世の中のアンテナを張って、清濁併せ呑んで、しなやかに文章を書け、そんなことを言っていたような言っていなかったような.

 高橋英夫のエッセイは他に「蜜蜂の果樹園」というものがあり、こちらは読了した.どちらも短編で、読みやすい文章で変な緊張感が必要ない.緩やかな勾配の田舎道をのんびり運転するくらいの気分だ.気楽に読めてしまう.おやつをポリポリ食べるような感覚である.氏には失礼かもしれないが、「おっとっと」をこどもの頃にサクサク食べていたのを思い出す感じであった.実に気さくな方で温かみのある文章だなと思っている.だが、時折ハッと息を呑むような文章を見つけてしまう.彼の哲学が随所に挿入されている.手塚富雄、リルケ、ホフマンスタール、ゲーテ、堀辰雄……彼の生涯とともにあった師や詩歌、文人が眩くキラキラ光を放つ.

 少しだけ、高橋英夫の随想から文章を紹介したいと思う.「蜜蜂の果樹園」『古めかしくも初々しく』より、

…創作はいかに古くても駄作でも、建て前としては、賞味期限とは関係がない.翻訳にはいかに名訳でも賞味期限がつきまとう.但、鷗外訳『即興詩人』(原作アンデルセン)は例外である.ここで私が言いたいのは、賞味期限のあるものをないものよりもジャンルとして下位と見る旧来の通念は考え直す必要がある、ということだ.

<中略>

 『一幕物』から感じた古さとは別に、新しさ、初々しさもあったことを最後に言いたい.「現代思想」というリルケ紹介の一文に、「優しい、情深い、それかと思ふと、忽然武士的に花やかになつて」「併し底には幾多の幻怪なものが潜んでゐる大海の面に、可愛らしい小々波がうねつてゐるやう」などとあるのは、ドイツの文学界に忽然と現れた新人リルケの文学的特徴がまだ誰にもよく把握できなかった当時、鷗外が語学力と感性を全開状態にして、新しいものを読みとり感じ分けようとしていた証拠といえよう.それはリルケより十何歳か年上の鷗外が、リルケに惹かれて自ずと見せた初々しさというものだった.

 なかなか深みと含みがある文章なのではないかなと思う.翻訳家としての翻訳に関する彼の矜持のようなものを感じる.言葉というのは、我が身世にふるながめせしまに色褪せていくときがある.かといって、どんなに古かろうと優れた翻訳は、それだけで立派な創作である.翻訳は決して原文に従属しない.翻訳は二次的著作物ではない.力強いメッセージを感じる.鷗外の引用を見れば、なんとも昔の言い回しだなぁと思うが、この文章はリルケをよく知らなかった鷗外が、なんとか手探りで彼を知ろうとした翻訳家の最前線の証拠であったと知れば、翻訳業への畏敬が自然と浮かんでくる.極めて斬新なものだったのだろうと苦労が忍ばれる.

 最後に、私は仏語検定の公式問題集を買って、コツコツお勉強をしている.正確に言えば読書ではないのかもしれない.実用書や参考書と言うべきものだが、私のいびつなアンテナを広げるために必要な本である.仏語を初めて学んだのは大学生の頃で、それから熟成と発酵を重ね、2,3年前にもう一度自学で勉強を始めた.それからまた時間がなくなってしまったので、3度目のスタートを最近切ったのであった.なぜいまさら参考書を買ったのかと問われれば、自分の語学力を客観するには、公的機関の用意する問題を一定の率で解答することが目安になると考えたからである.それまではG. Maupassant の短編集を買って、チマチマ辞書を引きながら文章を解体する作業をしていた.Maupassantは読んでいて楽しい.アラビア語の28文字を自学したときもそうだったが、やはり語学は面白い.なぞの文字列が徐々に意味のあるものとして浮かび上がってくる感覚はたまらない.この感動は初学のときも、英語を長年やって今でも新しいことを知ったときに出現する、何かが弾ける感覚に似ている.それは心地よい余韻を伴う.

 もっと深く早く知りたい、知悉したいという気持ちには際限がない.しかしそうはいかない現実と私の限られた頭脳のために知識の習得進行はゆっくりだ.今の所、それでも後退も後悔もしていないと思っている.

 深く広い文学の海を泳ぐのは楽しい.だが息継ぎをするのも大事だ.私は現代日本語と現代の英語の泳ぎ方はおおよそわかるようになってきたが、ほかはまだまだ途上である.いつか地中海や紅海を泳ぐようになりたい.併し底には幾多の幻怪なものが潜んでゐるかもしれないから、用心して飲み込まれないようにしなければ.というわけで今回の記事は、私の息継ぎの時間である.息を大きく吸い、感性を全開にして、また深く潜っていこう.

 

ここまで読んでくださりありがとうございました.