饗宴:3

Creation of Adam

 私はPlatoの「饗宴」の話をしている.作品では古代ギリシアのおっさんたちがそれぞれエロス論を始めるが、最終的にSocratesなる人物がエロスについて徹底的に論証を行う.それはPlatoの考えであるイデア論の中核でもあった.こうして全員を屈服させたのであった.

 すると、泥酔したAlcibiades(アルキビアデス)が入ってくる.Alcibiadesはとんでもない美青年で人望・名声・才能すべてある政治家でもある.僕もAgathonに祝辞を述べに来たのだが入っていいかなと先客に問う.いいとも〜と言ったかは知らないが、皆で招き入れると、Agathonの隣に横になろうとする.そもそもAgathonの隣にはSocratesがいたが、彼は少し場所を空けてあげたのだった.それにしても図々しいぞAlcibiades.シングルベッドに成人男性3人は厳しかろう.Socratesに気づかずに話を続ける彼は、ここにいたもうひとりの方はどなたでしょう、と振り返ると、なんとSocratesッ!!

 「なぜ貴方がこんなところにッ!いつも貴方はそうだ.僕が油断しているといきなり出てきやがる、よりにもよってこの部屋で一番美しいAgathonの隣にいるとはな」

 悪態をつきつつAgthonとSocratesの間に入るAlcibiadesはもっと酒を飲もうじゃないかと皆を煽る.Eryximachusが待ったをかける.さっきまで皆でエロスを讃えていたところだったのだ、君も話をすべきだと.

 Alcibiadesは言う、何を言うんだ.Socratesの前で彼以外を賛美する気にはなれないと.AlcibiadesはSocratesのことが嫌いなのかと思いきや、彼以外賛美しないと言う.わかったわかった、ではそうしたまえ.Socratesを賛美するがいいとEryximachusが言うと、

 「あんたなんてことを言うんだ.マジでそんなこと言っているのかッ」とSocratesを恐れ逆のことを言う.酔っているにせよどうもおかしい.Socratesも「褒めるとかなんとかいって私を笑い者にするのだろう」と言っても取り合わず、「貴方の本当の姿を語ってやる、聞けッ!召使いどもは失せろ!」といって結局は賛美しようとする.好きな男に振られたけれど、まだその男のことを好いている、といっても素直になれない女子高生のような(?)、現代でいうツンデレのような振る舞いをする.なぜPlatoはAlcibiadesの話を挿入したのだろうか.

 Alcibiadesは話を始める.まずSocratesが半身半獣の精霊、Satyr(サテュロス)やSilenus(シレノス)に見た目も似ているという.しかし似ているのは容姿だけでない.

 「みなさんご存知のようにSocratesは美少年が大好きで、いつも美少年につきまといメロメロだ.そして彼は何もものを知らない.そんなところは実にSilenusにそっくりだ.だが、それは上辺の姿.彼は相手の容姿なんてどうでもいいと思っているのだ.この若くて自他ともに認めるイケメンである僕がSocratesに見初められると思いきやどんなに彼に誘っても、それ以上のことにはならなかったのだ」

 と少年期の屈辱を語る.といいつつAlcibiadesはSatyrのうち、笛の名手であるMarsyas(マルシュアス)になぞらえる.彼はそれ以上だと言う.なぜならSocratesは言葉の力のみで人を感動させることができるからで、彼はSocratesの力量を褒め称える.しかしながらその力があまりにも強いために政治家としての自分を滅ぼしかねないとかえってSocratesを避けるようになったのであった.彼に複雑な感情が芽生える.尊敬し思い慕う一方で彼を恐れ避けるようとする自分.この気持を彼は会場に吐露する.

 なぜ彼がこんなにも躍起になって話をするのか.それには古代の性風習である少年愛(Paiderastia)を知る必要がある.成人男性と未成年の少年が性的関係を結ぶものであり、これは古代ギリシア・ローマで広く普及していた.キリスト教が布教される前まではごく当たり前であった.この少年愛は現代のホモセクシュアリティと異なり、対等な関係ではなかったという.成人男性が主導的役割を担い、少年は徹底して従属する必要があった.主従関係は規則で決められ、揺るぐことは認められなかった.成人男性が受動的な立場では決してはあってはならなかった.よってPausaniasが暗に述べていたことは社会的に容認されないものであった.少年が成人すればこの関係は直ちに解消された.少年が成人すると、女性と結婚することを期待され、ほとんどが家庭を持った.成人すると、今度は少年を主導する側となり、女性の愛と並行して行われたのであった.主従関係といっても成人男性には少年を教育することが期待された.師弟関係とはいかないものの、教育者と被教育者との関係を示し、男性社会へのイニシエーション(入会)の機能を持っていたと考えられたという.どうも少年愛というとアヤシイ関係を想定しがちだが、そうではなく、ある種公的な保健体育の授業が行われていたということだろう.性的関係はともかく、風呂場と便所でしか見せられないものについて、小さいうちに正しく教えておかねばなるまいという健全な性教育とすればある程度合点はいく.中学校でこっそり流布するポルノグラフィティよりもはるかにオープンなものだったに違いない.

 SocratesとAlcibiadesはかつて主従関係にあった.AlcibiadesはSocratesが無知ではなく無知のフリをしていることを見抜いており、彼から叡智を授けてもらおうと先述の「交流」を図り自分の若く美しい魅力を振りまいたのであった.しかし当時のAlcibiadesは気づかなかった.Socratesが実は美少年などどうでもよかったということを.Socratesは俗人の関心をむしろ軽蔑していたのであった.Alcibiadesがどんなに色目を使おうと興味なぞ湧かない(Socratesも自制心があったに違いない).Alcibiadesは誤解によって彼から叡智を受けられず、挫折する.

 Alcibiadesは懸命に自分の力量でSocratesに近づこうと努力するも、Socratesが最も重きをおいていたのは、言葉による対話、すなわちエロスそのものであり、不完全たる人間の肉体を利用したAlcibiadesは人間の限界ゆえに失敗するのであった.

 Socratesは示唆的な言葉を彼に残していたが、気づくことはなかった.

「君が私の中に見ている美というのは、君の美しい姿とは比べ物にならないんだろうね.君は美<叡智>と美<肉体>を交換したがっているようだが、君は私よりもはるかに得をすると思っているようだね.『プレミアム・モルツ』と『のどごし生』を交換しているように.でもね、いいかい、もう少し考えてみてよ.私は君が思うほど価値のない男だと、君は気づいていないのかもってね.精神の目が研ぎ澄まされるのは肉眼が衰えた後なんだ.そして君がそうなるのは、うーん、もっとずっと後だなぁ」

 Alcibiadesは失敗し、心に深い傷を負う.こうしてSocratesに愛憎入り交じった感情を抱くようになったのであった.Diotimaの説くエロスの道は非常に険しく、到達することは難しいのだと、SocratesとAlcibiadesの関係を通して読者に訴えかける.Alcibiadesの挿話を入れたのは、彼のような人物であっても成就は困難であることを同じ人間として描き出し、より求道の険しさにリアリティをもたせているに違いない.夜は更けていくが、さらに酔っぱらいの集団がなだれ込み、皆次々に解散してゆく.饗宴は荒れに荒れて終わりを告げる.

 現代だろうと古代だろうと確かにエロスの実現に失敗した人は多かろう.わからない方は過去のスポーツ新聞や週刊誌をご覧になるとよいかもしれない.市井レベルから芸能界まで不倫のスキャンダルは多い.「あんな美人に巡り合ったのにどうして、不倫なんてしちゃったんだ」と思うかもしれない.エロスの求道に失敗したからである.美を見出すのは究極的には外見でなく、言葉による対話であり、最後は肉体的な絆でなく精神的な絆によってである.お互いに尊敬しあえる美学を見いださなければより善いものには出会えはしない.プラトニック・ラブは辞書的には肉体的欲望を伴わない精神的性愛とされるが、肉体的性愛なくして精神的性愛はありえないのが本来の意味であり、肉体的欲望はエロスの過程に過ぎない.人間に内在する激しい欲望が知恵に至るエロスなのである.

 特に芸能界は少なくとも外見はAlcibiadesな人は多いかもしれない.だがそこから昇華するのはごくわずかなのではないだろうか.そういった人は年を重ねても尊敬され続けるに違いない.

 余談だが、対話を重んじる精神科医療は患者だろうと家族だろうとパラメディックだろうと対象に<善いもの>を見出そうとする.なぜなら治療や回復の緒(いとぐち)だからである.どんなに疾病に覆い隠されようと深い森羅を分け入って光明を求めようとする点でその信条は同じと思う.しかし目的が手段になりつつある現代において、その求道は困難を極める.挫折したものは少なくないだろうに.

 以上で、「饗宴」の話は終わりになります.最後まで読んでくださりありがとうございます.この作品は私がここ近年で読んだ小説で最高に読み応えのあるものでした.心から感動しました.読んだことのない方にもぜひおすすめしたい古典です.なかでも光文社古典新訳文庫の和訳は特に優れていると思います.

 

饗宴:2

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 「饗宴」ではPhaedorus, Pausanius, Eryximachus, Aristophanes, Agathonら五人が弁舌を奮った.それぞれ独自の話でありつつも前の論者の論点を受け継いで展開され、必ずしも完全に独立した話をしていたわけではなかった.ついにSocratesの番になり、彼の演説が始まるのだが、先にAgathonと対話したいと述べ、先程の彼の論に質問を浴びせる.

Socrates「さっきの話、すげーよかったよ.エロスの本性を説明してからの展開、よかったなぁ.でもさぁ、ちょっといいかな.エロスって『なにかのエロス』なのかい?それともなんともいえないもの?」

Agathon「『なにかのエロス』ですねぇ!」

Socrates「オーケー、オーケー.次に訊くよ.エロスは『なにかのエロス』なのだね.エロスは何かを欲しているのかな、それとも欲していないのかな」

Agathon「欲してるでしょうねぇ」

Socrates「欲してるってことはさぁ、エロスがそれを求めるのはそれを手に入れたとき?そうじゃなくて、所有してないとき?」

Agathon「えっ、所有してないときかと思います、たぶん」

Socrates「たぶんじゃないと思うぜ.必然的にそうなんだと思うけどね.欲するものが何かを欲するのは、それが足りないからであってさ、満ち足りているなら欲しがることもないんじゃないのかな、それって必然じゃないのかな」

Agathon「そうですねぇ」

Socrates「ちょっと質問を変えるぜ.今すでに強い力を持っているのに、強くなりたいって思う人っていると思うかな」

Agathon「ん?それはなさそうですけど……」

Socrates「そうだよね、すでに強いんだから、強いという性質は欠けていないもんね.でもさ、仮にそういうことを言った奴がいるとするよ.健康なのに健康でありたいという人とかね.でもそれって、つまりは将来も健康でありたいってことになるんじゃないのかな、今ある性質を所有し続けたいということにもなると思うんだ」

Agathon「そう言われるとそうですかねぇ、確かになぁ」

Socrates「何かを欲している人はすべからく、自分の手元にない、そこにないものを欲しているってことだね.欲求やエロスが向かう方向性って、自分が持っていないもの、欠けているものってことにならないかな.ちょっとまとめようか.まず、『エロスは何かのエロスである』.そして何かというのは、自身に欠けているもの.オーケー?」

Agathon「オーケーです」

Socrates「さっきの君の演説でこういってたよね.エロスは美しさを求めるもの.醜さは求めないと.それでさっき私がいったことに同意してくれたけど、自分に欠けていて所有していないものを求めるのだと」

Agathon「ええ、そうですね」

Socrates「となると、エロスはすでに美しいのに、美しさを欠いていてそれを所有していないことになってしまうなぁ」

Agathon「あれれ?そうなっちゃうなぁ」

Socrates「美しさを欠いていて、美しさを手に入れていないものを美しいといえるのだろうか」

Agathon「僕は言わないと思います、まぁ」

Socrates「もうちょっとだけ質問に答えてほしいんだけどね、よいものってのは美しくもあるのかな」

Agathon「でしょうね……」

Socrates「君の言い分だと、エロスは美しさを欠いている.よいものは美しさだという.となればエロスはよいものを欠いていることになるなぁ」

Agathon「Socrates、勘弁してくださいよもう……」

Socrates「いいぜぇ」

 SocratesはことごとくAgathonを論破してしまう.なんだこのおっさん!?、なんだこのやりとりは!?と思っても仕方がなかろう.そこからついにSocratesがエロスについて話を始めるのだが、彼は自分から考えを話すのではなく、Diotima(ディオティマ)なる女性との対談を用いて説明を試みる.Diotimaは謎に満ちた女性で、出身以外は語られず年齢も明らかでない.おそらくDiotimaは架空の存在で、Platoが作品の演出のため設定した人物である.彼女は老婆なのかもしれないし、妙齢の婦人なのかもしれない.これは読者の想像力に委ねられている.中澤訳では威厳溢れた人物像として描かれている.DiotimaとSocratesのやりとりはAgathonがSocratesに論駁されたように、DiotimaがSocratesに問いかけ、論証を試みる.エロスはもしや美しくないのだろうかとDiotimaに尋ねるSocratesは「言葉を慎め」とピシャっとはねのけられる.こわい.

 お前は美しくないものは、必ず醜いと思っているのかと逆に尋ねる.そうだというSocratesにこうも尋ねる.賢くないものは愚かなのかと.賢さと愚かさの間に何かあることに気づかないのかと問う.

 Diotimaは言う.それは「思っていることは正しいのに、それをうまく説明できない、そんな状態だ.きちんと説明もできないのにどうして知識といえるのか.しかし、それは愚かというわけではない.<正しい思い: orthos doxa>というのはこのようなもので、賢さと愚かさの間にあるものだ」

 エロスとは美醜の中間の存在だと述べ、その例として賢愚の中間、orthos doxaを挙げている(オーソドックスの語源だろう).エロスは美しくもあり、醜くもあるという.人間の認知の状態に中間的状態を認める考えはPlatoの哲学の一つであり、この「饗宴」にもそれが反映されているという.確かに、中間的状態を設定しないことには、相反する二極のみで世の中をうまく説明できるとは思えない.旬より少し早い時期に恋人と苺狩りに行ったとする.早熟の苺を摘んで食べると、甘くもあり酸っぱくもある.ネパール人やインド人の経営するカレー屋のカレーは最大の辛さとものすごく甘口だけでは繁盛しない.お店によって辛さの段階はあるが、中間的状態を認めない限り、カレーは辛い食べ物でもあり口当たりのよい食べ物でもあるという二面性を説明できないだろう.(双極性障碍における抑うつ混合状態は中間的状態といってよいのだろうか)

 ではエロスは一体何なのか.これまでの演者はエロスを神と扱い美徳の頂点であるとした.しかし本質は欠如にあり、補完のため世界の調和ないし個々人の調和へ導く存在とし讃えてきた.Diotimaから始まる論証はエロスが欠如したものであること、エロスとは何かの性質についてのエロスであることを念頭に、必ずしも美の極致でないと述べる.

 Diotimaはエロスとはダイモン(精霊)だと述べる.えっ.もっと詳しくいうと神と人間の間にある超自然的な霊的存在だという.ダイモンは神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させる役割があるとする.彼女の言葉を用いてみよう.

「ダイモンは人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える.すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける.そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させるのだ.このダイモンが媒介となり、全ての占いは執り行われる.司祭は供物を捧げたり、秘儀を行ったり、呪文を唱えたり、あらゆる種類の予言や魔法を使うが、そのような司祭の技術もまたダイモンが媒介となる.神と人間が直に交わることはない.」

 この言葉を現代で真に受けるとちょっと隣人から距離を置かれそうだが、私は媒介という言葉がしっくりくると思う.彼女の考えを応用してみると、空気はダイモンの一つではないだろうか.私達の発する言葉は空気が振動することで音となり響く.熱によって空気は燃焼して炎となり光を放つ.供物を材料や素材に言い換え、秘儀を研究や実験、呪文を詩歌とし、予言、魔法をそれぞれ予測、科学とすれば、神(の為せる業である様々な現象)に人はダイモンを通して交わることができよう.これは過大解釈だろうか.考えすぎだろうか.

 というわけでエロスはダイモンたる媒介である.Diotimaはエロスのもつ性質をエロスの出自の話に託し、神話を用いて説明を行う.神話は便利なものだ.神話は虚構でありながらも普遍的真理を貫く.PlatoはDiotimaの姿を借りて読者を引き込む.エロスの父母は機知と策略の神Pholus(ポロス)と窮乏の神Penia(ペニア)であるという.PeniaはPholusが酒によって寝ている隙に交わり身ごもったのだからなかなか床上手である.両親の性質を受けついだエロスは常にあらゆるものが足りないのだが、それを手に入れるために常に術策を講じる存在となったのだという.その性質のうち、最も重要なのが知恵であった.知恵は最も美しいものの一つであり、それを追い求めることこそが哲学である.(Philosophy =Philia(愛する人) + Sophia(叡智))*なお医学用語に筋力低下を表すサルコペニアが知られるが、Sarx(筋肉) + Penia(欠乏)と考えれば合点がいく.

 では欠乏していながらも術策によって知恵を求めるダイモンたるエロスは人間にどんなことをするのだろうか.その問に答えるにはなぜエロスが美しいものを愛するのかを考えなければいけないという.Socratesはエロスが自分のものにしたいからだと述べるがその目的を説明することができない.Diotimaは美を善にして考えろと言う.美しいものを所有したいのと同じく、よいものを所有したいためである.となると、この場合Diotimaの言いたいオチは「幸福になる」がためであった.人は皆幸福になりたいと思う.それはいつの時代も同じで、幸せのために人はよいものをもとめようとする.この考え方は我々の腑に落ちるところだと思う.Diotimaは幸福追求を「常に」おこなう存在と条件をつける.これはエロスの永遠性と不死性を説明する根幹となる.

 さて、どうやってエロスはその目的を成就させるのか.それは美しいものの中で子をなすことだという.身体的にも心の場合であっても.身体の場合はつまるところセックスだという.なーんだ.男女の交わりによって子をなすことで、死から逃れられるという.確かに、一個体は死を迎えるが、子をなせばゲノム情報は次の世代へ伝えられる.美しいもの・よいものと交わることでその性質は未来へ受け継がれる.永遠と不死にあずかる方法である.

 ところで、こう思う方もいるだろう.「自分はそこまで美人でもないしどちらかというとブスで、美や愛とは無縁だろうと思っている謙虚な全国の紳士淑女の皆さん」、お待たせしました!ここでいう美や善というのはあくまで主観的なものであろう.人によって仮面ライダークウガが好きな人がいればジオウが好きな人もいる.エヴァンゲリオンで綾波レイが好みであれば、惣流(式波)アスカ・ラングレーが好きな人もいる.ふくよかな人が好きな人もいればスレンダーな人好きな人もいるし、野獣のような肉体に憧れる人もいれば華奢な少年にときめく人もいるだろう.すべてはダイモンの思し召しである.ある対象について肯定的な評価をもったときに生じる感情は「美しい」であって、逆は「醜い」となるわけだ.「萌え」という言葉も似ているのではないだろうか.だから貴方が誰かを好きになるように、きっと貴方を慕ってくれる人はいる.少なくともPlatoはそう思っている.

 この図式は身体に限らず心の中でも成立するという.心のなかに宿す子というのは知恵や様々な美徳であり、次第にそれを欲するようになる.人は美しいパートナーに話をし、心を交わし「子」を生み、育てようとするのだと.上記におけるセックスに相当するのは言葉による対話である.美しい人に話を投げかけ導こうとする営みが永遠の「子」を継承させることになるのであるとDiotimaはいう.要するに精神に働くエロスは哲学的対話であり、「子」は生物学的な遺伝子、「gene」(ジーン)に相当する文化的な遺伝子、「meme」(ミーム)といっても良いかもしれない.

 「さてSocrates、ここからはエロスの道の秘儀.究極にして最高の奥義.私についてこれるかな」Diotimaは上のように述べ、最後の教えを授ける.エロスの最高秘奥義ってなんだそれは.皆さんもよければ着いてきていただきたい.

 これまでのエロスの営みを正しく続けると、人はある地点に到達する.当初は若く美しいパートナーに恋い焦がれ身体的に精神的に絆を深めあって行くと、いつしか自分もパートナーも老いてゆく.かつての美しさは失われたかのように思われても、人は見かけの美や世俗的な美に対する探求ではなく、究極的な美を対象に見出す.これがエロスの深奥、美のイデアだ.話し言葉で言えば、こんな感じだろうか.「私があの人を好いたのは、あの人が美しい容姿であったのは勿論だが、次第にあの人の何気ない仕草や考え方、価値観を尊敬するようになったからだ.老いた今でもあの人の笑顔は私を幸福にしてくれるし、これまでの記憶は薄れつつあっても大切な思い出は当時の情動とともにある.私があの人を慕ったのは見かけの美しさでなく、私はあの人に中に美学を認めたからだ」

 結婚式や披露宴に出たことはあるだろうか.司会が新郎新婦の馴れ初めを語るとき、「いつしか二人は惹かれ合い、お互いを尊敬するようになっていきました」というのを聞いたことがあると思う.このくだりは、エロス道のプロセスを述べているのだろう.美のイデアは個々人の美のように不完全なものでなく、完全であり唯一のものである.つまり、誰にとっても時代を超えてもどこであっても美しく、善いものであるのだ.

 Diotimaの語る話は「美の梯子」として知られているそうだ.一個人の持つ美が昇華してイデアに到達する思想こそPlatoのイデア論の核であった.Platoはこれを架空の人物に仮託して自身の師であるSocratesに語らせることで、論述を強固にしているのだろう.

 次回でこのシリーズは最後.Alcibiadesが乱入して宴会が荒れます.お楽しみに.

 これまでもそうですが、いつもここまで読んでくださり大変うれしく思います.ありがとうございます.執筆の励みになっています.読者の方々が次々増えているのを知って事務所スタッフ一同喜んでいます.

 

 

饗宴:1

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 やっと「饗宴」を読み終えることができた.「饗宴」(Symposium)というのは勿論Plato(プラトン)の著作のことなのだが、この和訳は様々な出版社から出ている.私は過去に東大出版会から出た山本巍氏の「饗宴」を購入したことがあって、よし、読むぞ.と意気揚々と読み始めるとPhaedorus(パイドロス)、Pausanias(パウサニアス)、Eryximachus(エリュクシマコス)ら(誰だ君等は!?)の話がなんだか、空を掴むような、お麩を生でかじっているような感じになってしまい、エロス(Eros)賛美の話の深奥まで辿り着かなかったのである.お麩は生でかじったことがないので、今の例えはフィクションだ.

 しかし、こんな重要な著作を読まずにJ. LacanのSéminaire(セミネール)を理解できないであろうと密かに思っている私は、なんとかして読破したいと数年願っていたのだった.どうやら「転移」の章にはPlatoの「饗宴」が大いに関わっているようなのだ.「転移」というのは精神医学や心理学で知られる現象の一つだとだけ述べておく.というのは私にはその現象について語るに十分な知識を持ち合わせていないからだ.大変申し訳ないと思う.

 なぜ「饗宴」も「セミネール」も読んでないくせにそんなことを知っているんだと言われれば、人から聞いたからであると答えるしかない.私はかつてとある場所でこうした古典の抄読会に参加していたことがあった.私はその場でも何もしらない愚か者同然であって、いつも気まずい思いをしていたのだが、そこでG. Hegelに出会い、E. Husserlに出会った.J. Lacanにも当然出会ってしまった.S. Freudもそこにいた.あらゆる先人が次から次へと現れては私にとってはまじないのような言葉をつぶやいては消えてゆく.ドイツ語やフランス語で展開されるのだから堪ったものではない.参加者は皆原書を持っていて、極めて熱心にそれを読んでは「これは本当にいいねぇ」とニヤリとする.気持ち悪い光景ではあったが、同時に憧れを持ってしまった.高度なオタク同士が共通の言語を用いて、秘密の談合をしているような感じがした.以下のような調子だ.

 「ぼかァネ、彼の “Das an und fürsichseiende Wesen aber, welches sich zugleich als Bewußtsein wirklich und sich selbst vorstellt, ist der Geist.”ってところが実に明快でネ、いやァこれは大変なことですよ」(訳:自分自身を「意識」として現実的なものとみなすと同時に、自分自身としてもみなす、このような「即かつ対自的な本質が」「精神」なのだ

 本当に大変なことだった.普段はむっつりしている人々が、なんだかこっそりエロ本を持ち寄って究極に気持ち悪い猥談をしているといったら言いすぎかもしれないが、私からすれば、憧れと尊敬を通り越して悔しさと苛立ちも隠せない状態であった.気持ちを抑えて、とかく私は外国語の勉強を再開し、「エロ本」集めに邁進したのであった.その本の一つが、「饗宴」であった.

 「饗宴」は、ほぼおっさんたちによるエロス(Eros)を讃える飲み会の様子を伝聞形式で描いた紀元前4世紀の作品で、高い文学的価値を持ちつつ哲学的内容が充実した傑作とされる.私は光文社古典新訳文庫から出された中澤務訳を入手し、ようやく読み終えることができた.大変にわかりやすい訳で、おっさんが生き生きと演説をする様子がわかってしまった.十分な解説がついており、これがなければ私は少年愛について誤った理解をしてしまうところだったし、プラトニック・ラブが誤解されて一般に使われていることを知り、Alcibiades(アルキビアデス)のSocrates(ソクラテス)への複雑な感情をわからずに「なんだこの乱痴気な奴は!」と勝手に憤って紙面に爪を立てていたかもしれない.

 一応、私からも「饗宴」のあらすじをお伝えしようと思う.

 ある日、Apollodorus(アポロドロス)とその友人は二人夜道を歩いていると、人から声をかけられ、Apollodorusに、昔Agathon(アガトン)という悲劇作家が悲劇コンクールで優勝した祝勝会を自宅で催したときの話をしてほしいと頼まれる.ApollodorusはAristodemus(アリストデモス)という祝宴に参加したおっさんから聞いた話を話して聞かせるのであった.

 AristodemusはSocratesの弟子で、二人で若い新人作家であるAgathonの家へ向かっていた.Agathonは悲劇コンクールを受賞したばかりで、見知った人々で宴会を行う運びになっていた.なんやかんやでAgathonの家に着く.実は皆は連日宴会続きでかなりグロッキー状態であった.「酒はもうやめにして、何か別のことをやろう、そうだ、『エロス』をみんなで順番に讃えていこうぜ」、とEryximachusという三十路過ぎたお医者さんが提案する.皆快諾.参加者が一人ずつ『エロス』について語り、ついに会場は耽美な領域へと突入する……

 先手は若手のPhaedorus.「エロスは最も古い神で、大変尊いんだぜぇ……」という内容で話始めるのだが、どうも面白くない.教科書的で、背伸びした感覚を受ける.彼は弁論を学んでいるルーキーらしく、盛んに引用をして権威付けをはかるのだが、「あの○○先生も大絶賛!!」といった広告の宣伝みたいで「うーん.どうもありがとう、お疲れ様.もう帰っていいよ」といった感じになる.

 次鋒Pausanias.エロスには二種類あるのだ.と述べ、<天のエロス>と<俗のエロス>に分け、二項対立を以て議論を行う.この二つのエロスは人間の恋愛に大きな影響を与えているとし、美しい愛し方と美しくない愛し方に分かれるという.ほぉ.男性が女性を愛するのは、心ではなくて身体を愛しているから(肉欲)で、それは美しくない愛し方なのだという.美しい愛し方というのは同性愛なのだ.男性を愛するという事自体が美しいんだぜ.と主張する.

 「へぇ、そういう意見もあるんだね……Pausaniasはそういう考えなんだね……」どうやら彼は、現代でもほぼ同義の同性愛者であったようで、彼の主張は自身の嗜好を弁護するようなものだった.なぜこのような主張になったのかは後述する.

 次に演説するのはAristophanesのはずだったが、しゃっくりが止まらないという理由でEryximachusに譲る.彼は医師という立場でエロスの説明を試みる.Pausaniasの主張を一部取り入れ、エロスは二種類に分かれるという.ただ、それらは健康なエロスと病的なエロスに分かれる.医術というのは何が美しいエロスで、なにが悪い病気のエロスなのかを見分けることができることだという.身体の優れた健康な部分に従って、そのような方向へ仕向けることが治療なのだともいう.優れた臨床医は身体の中の互いに敵対するものを親和的なものに変化させないといけない、調和を目指すことが必要だと説く.エロスの解釈はさらに広がり世界の調和と不調和を二つのエロスが支配し、調和へ向かって人間の生活に大きな影響を与えているという.うーん.

 ここまで来て、「エロスって結局なんだよぉ」と私は大いに落胆した.最初に買った山本訳を途中で諦めてしまったのは、Phaedorus、Pausanias、Eryximachusの演説を読んでわけがわからなくなったからである.「エロス」ってこんなに多義的なのかと思い、これらが理解できない自分は、もしかすると今後もついていけないのかもしれないと恐ろしくなった.どうもEryximachusは話を大きく広げた感じが否めない.自分の専門領域に話を落とし込んで話をするのは誰でもそうだが、結局「エロス」の話をしていないのではという印象を受けてしまう.こういうお医者さんは現代でも沢山いる.「エロス」は情愛における強い欲動をさすのではないかと、そういう議論の終着を予想した私は狼狽した.

 実はここまでの展開はPlatoの思うつぼで、ここから読者を引き込んでいくのだったことに私は長く気づくことはなかった.もしPhaedorusやPausaniasの話も面白いと思った方がいれば、それはそれで大変結構なことだと思う.

 次にAristophanesの話に移る.実際の彼は保守的な男で、Agathonを揶揄し、Socratesを若者を堕落させた男と評しておりなかなか辛辣だそうだが、ここではPlatoは愉快な男として描き出している.彼の話は結構ぶっ飛んでいるので、結構面白い.妙な説得力と面白さから彼の話は本作で最も知られているそうだ.彼は神話を語り始める.太古の昔、人は現在の人間が二人くっついたものを一人とした球体の生き物だったという.くるくる転がって動いていたそうな.二体の組み合わせで、男、女、アンドロギュノス(両性具有)という3つの性に分かれていた.古代人は力が強く尊大であることから神々に反逆しゼウスの怒りを買う.ゼウスによって古代人は身体を二つに割かれ、現在の人間の姿にしてしまう.人間は二人抱き合ってなんとか戻ろうとするがもとに戻らず次々に死んでゆく.よくこういう話を思いついたものだ.ゼウスは人々が死んでしまうのは困るので、生殖器を移して性交渉ができるように一計を案じ、子孫が残せるようにしたという.この神話から、人間が本来の片割れを探し求め、それと一体化したいという欲動のことをエロスと呼ぶのだという.

 なんだかすごいけれど、どういうことなのだろうか.これって神話でしょう?EryximachusがPausaniusの話を受けたように、AristophanesもEryximachusの話を受けて説明を続ける.それぞれの説法は独立しているように見えて実は受け継いでいるのであった.詳しくはぜひ本編を読んでいただきたい.Eryximachusはエロスが世界の調和を担うという自然的な役割を試みた.Aristophanesは彼の演説を一部引き継いで、エロスが自然的あり方であることを認めつつ、世界の調和を図る動きではなく、個々の人々に内在する動きであると主張した.

「愛する人と一緒になって一つに溶け合い、一つの存在になるのだ.これこそが俺たち人間の太古の姿であり、人間は一つの全体で会ったのだから.そしてこの全体への欲求と追求を表す言葉がエロスだ!」

 彼の主張の要点は「エロスの本質は欠如にあり」というところであり、後の論者にまた受け継がれる内容である.Aristophanesの主張では、欠けた半身を探して合体しなければ幸福になれないということになる.それはジグソーパズルの欠けたピースを探すように特定の半身を見つけるという限定された欲求とも言える.

 Agathonが演説を始める.彼はエロスの本性を説明し始める.第一にエロスは神々の中でひときわ美しいのだと.若く、繊細でしなやかで美しい肌をしているなどという.そしてあらゆる美徳を身に着けているともいう.なんだかPhaedorusの弁舌のような感じを覚える.今でも架空のキャラクターやアイドルグループの敬虔なファンは「推し(おし)」と称してあらゆる修辞法を使って褒め称えるのと同じかもしれない.また飾り立てて褒めちぎる論法はどうなんだろうかと思いきや、聴衆からは大受けするのであった.彼は演説に際して様々なテクニックを用い、論法の構成も整っているし、韻を踏んで音としても美しいからであった.私にはわからなかったのだが、古代ギリシア語で読むと圧巻なのだろう.

次回、SocratesはAgathonと対話を仕掛けるところから続く.