サソリの毒は私達に電気自動車の夢を見せてくれるのか

サソリの毒に期待すること

 気になっていることがある.車から内燃機関が消えていくという時代の要請に従い、世界的に電動化の動きが着々と進んでいる.環境問題に対応するための手段として、私はやむを得ないことだと感じている.しかし、そこに内燃機関が持つ、自動車の官能は損なわれないのだろうか.アクセルペダルを踏み込んだときにレブカウンターが高回転を刻み、エンジンが切なく哭くときに生じる私の感興を、連続的に加速してゆく自分の躯体と興奮を、忘れてしまうことになるのだろうか.

 私は自動車の鍵を差し込んで車のスターターを動かし、エンジンを起動する過程が好きだ.ただボタンを押し込むのはちょっと味気ない.簡単でいいのだが.今後、一部のメーカーを除いて、キーを差し込む儀式もなくなってゆくだろう.色づいた葉が散ってしまうような寂しさを私は感じてしまう.しかし、枝からは再び若葉が出てくることを私達は知っている.どんな若葉が出てくるのかはこれから楽しみだ.今回はそんな若葉の話をしたい.

 FIATというイタリアの自動車会社がある.Cinquecentoという名車で知られるメーカーだ.500とも言う.そのメーカーが新たな500を発表した.電気自動車である.意匠は先代の500によく似ている.わずかに全長や全幅が広がった程度でコンパクトカーとしての思想はぶれていないと思う.発表された外装色は艷やかな濃紺と真珠のような反射の水色、そしてきらめく桜色などである.どれも好みの落ち着いた色だ.全体的に丸みを帯びた姿は、現代の角ばった骨格と鋭い眼光のようなフロントライト、巨大なフロントグリルに抗うような優しい意匠で、私は安心した.しかもクーペだ.やはり見た目は大事だ.座り心地のよい座席、運転姿勢が楽に取れる座面も大切だが、私にオットマンは不要だ.テーブルもテレビも不要だ.ドリンクホルダーと携帯電話の充電機構が備わっていれば良い.内装も幼くない.価格相応の洗練さがある.全体として瀟洒だ.そういう観点で、新型500は私の嗜好に合致していると思う.私は小さくて小気味の良い運転ができる車が好きなのだ.先代はそういう車であった(日本の映画でアルセーヌ・ルパンの孫が運転することで知られる初代500には触れない).そのチューンドカーであるAbarth社のCinquecento novantacinque; 595は特に素晴らしかった.冷たい牛乳を一気に飲んだ時に鳴る腹の音のような唸る低音、度し難い音圧とともに加速する車体.なんとなく雑に燃料を噴射しているような、粗雑なギアチェンジの感覚が元来野放な我々と知覚を共有しているような、親密さと一体感を感じさせる車であった.

 新型の500が登場したということはおそらく、そのチューニングを手掛けるAbarthが何かしらハイパワーモデルを出すのではないかと私は思っている.だが出力を出すにはバッテリーを多く積まないとならない.積むと重量が増す.車にとって軽さは武器だ.せっかくの小気味よさが損なわれてしまう.内燃機関は今後採用出来ない.では一体どのように対策を講じるのだろうか.楽しみであるとともにわずかに不安がよぎる.もしかすれば発表されないかもしれない.仮に発表されて日本に導入されたとしても、その走りは楽しいのだろうか.先に述べた官能とは異なる楽しみがあるのか.期待しても良いのだろうか.電気自動車ゆえのすさまじい加速、それは期待できそうである.しかしアクセルを踏んだ時の加速の伸びは私の期待する感覚に一致するのか.

 Abarthの象徴はサソリだ.そのサソリのもつ猛毒にたとえて、通人や所有者は「毒を浴びた」と嬉しそうに語る.その毒性は消化不良の腸蠕動音のような低音のアイドリング、低速ギアで高回転域を回すときの乾いた爆音といった効能をもたらすのである.これらは過去のモータースポーツの栄光への敬意でもある.それらが静寂に帰するとなると、人々は不健康に解毒してしまうだろう.だがもしかすれば電動化による新たな猛毒があるのかもしれない.それはどんな毒性を持つのだろうか.もう内燃機関に戻らなくてもいいと思わせる新手の毒性だろうか.だとすれば、それは実に喜ばしい.薄い氷の上で暮らすホッキョクグマにも喜ばしいかもしれぬ.不安はあるが、私は電動化の波にまじり新たな刺激も押し寄せてくることを期待している.それが春に芽を出す山椒の若葉のように、香り高くてピリリとするのであれば、なおさら素晴らしい.

 いつか事務所の車として所有したい、そう思わせるような作品が世の中に出てくることを願っている.