妄想の問題

はじめに

 安永浩によるファントム空間論の序論を追っている.これで六回目だ.だというのに、まだファントム空間の話をしていないのはどういうことだ!と怒られるかもしれないが、どうか辛抱強く待っていただきたい.なぜなら、我々は安永のいう「パターン:実存的二元論」を理解せずにファントム空間を理解することはできないからだ.これは安永の親切心である.はじめて見るかたはぜひ、始めから見ていただきたい.

 今回は、妄想について扱ってみる.その前に自我障害の章があるのだが、それはまた別の論考で取り扱うことにしたい.かくいう私も早くファントム空間論を扱いたいのだ.

 妄想とはなにか

 これをうまく説明することは難しい.説明できたとしても、Bertrand Russel(バートランド・ラッセル)が1+1=2の証明に膨大な紙面を費やしたのと同じように、大変な注釈をつける必要がある.いくら目の前の真摯な読者でも、それは苦行でしかない.だがなんとかしてこの記事においてだけでも定義しておきたい.妄想を誤解していただきたくないからである.

 世間でよく知られたものとして、「訂正不能な言辞」「了解不能な言葉」「誤った確信」などがあるだろうと思う.これらはいかにもそれらしいが、幾分の弱点がある.

 日本精神病理学会(私、吾郎も学会員であるが利益相反はない)の「精神科用語シソーラス」から引用するのが最も簡潔であるように思うので、ありがたく引用させていただこう.リンクフリーである.

 妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念ないし信念であり,明らかな反証があっても確信は保持される。妄想と真の信念と区別は,患者が主観的に行いうるものではなく,外部の観察者によって行われる。すなわち,その内容が非蓋然的であることに対する患者の判断が誤っている場合,その確信は妄想とされる。この誤った判断は必然的にその体験に対する病識欠如を生じる。

針間博彦

 コペルニクス的転回が起こる前の世界の人々の多くは天動説を信憑していたが、Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)は科学的観察に基づいて地動説を主張した.よく知られているように彼は妄言を言っているとして異端扱いされた.彼の主張は妄想だったのだろうか.現代の我々からすれば、彼の主張は妄想では無い.だが、当時の人々からすればどうか.彼の思想は教育的、文化的、社会的背景には一致しなかっただろう.明らかな反証かどうかはともかく、宗教的に強力な反論があっても彼は確信しつづけた(それでも地球は動いている).私は現世のクサガメなので、彼らの立場から「妄想だ」というわけにはいかない.妄想というのは、時勢によって、立場によって、解釈が異なる可能性がある.そのことを念頭に入れて論考を追いかけていただきたい.

妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない確信である.

 賛否はあれど、概括的理解ならばこれで良いだろう.では安永はどのように考察をするか.彼は妄想について、我々がどのようにして「意味づけ」をするか.これが重要であるとしている.ほほ〜

 「意味づけ」の重要な点は、「自分はこの事態をこう予測し、それ故こうこうすべきである」という「行動の要請」に関わる局面であるとする.この局面は生命体にとって大変な意義を持つ.というのは、我々が体験の各瞬間に出会うものを「何かの兆候」とみなしているからである.人間だって「雨が降っているから傘をさそう」「曇ってきたから洗濯物を取り込もう」「パトカーが近くにいるからおとなしく走ろう」「遅刻してはいけないから早めに家を出よう」「赤信号だから止まろう」と判断する.それらは「放置すればより危険な、由々しき現実となるであろう事態を、未然に感知しうる、そして行動によって回避しうる」ということであり、この「予感」がないと、生物はあらゆる偶然の危険、環境変化に対応することは出来ない.クサガメだって、脅威があれば首を引っ込めて守りに徹するし、食餌と掃除をしてくれる掃除夫が近づけば、喜んで近づく(なんて賢いんだろうか!).

 ここには体験における「時間」というものが必要になってくると安永はいう.しかしもう少し丁寧にいえば、「現在の意識がこういう構造をとることが、『未来』という時間性をつくる」という方が正しい、と安永はいう.ここで私は木村敏の言葉を思い出す.

 時間とは自己存在の意味方向である

 私達は何かを絶えず予想する.増大する「危険」を感じれば、何らかの行動によって回避する、安全ならばほおっておく.逆にエネルギーがあまれば、ただそれを放散するための手がかりとしてのみ、予感される(湖畔のほとりでキャンプをするとしよう.火をおこし、飯盒炊爨を待っている間、手持ち無沙汰なので丸くて平な小石を探す.それを水平に投擲する.小石を投げるものとして意味づけする).

 これまでの話を「パターン」に応用するとどうなるか.「意味づけ」の方向性A→Bは常に「現在」に立って、「未来」を望む方向にある.原因があるから、結果がある.「原因」の主体性、先行性は自明だ.そして、とある現象を「結果」とみなし、あるいは「過去」にさかのぼって「過去」に生きることもできる.「ここに結果があったのであれば、原因があったに違いない」と、後方視するのは「論理的必然性:logical necessity」である.

「右下腹部を主とする圧痛が生じている、腹部超音波検査で虫垂に相当する位置で輝度が高い.これは腹部臓器の炎症が急激に生じたに違いない;虫垂炎かもしれない」

「夏季の猛暑にとある独居住宅からご遺体が発見された.角膜は白濁し、透見できない;死体現象が生じ、24時間ほど前に死亡したのだろう」

といった具合で、医学において論理的必然性は極めて重要である.だが、こうしたロジックは、原因→結果が前提にあるからこそ、その上で、結果→原因を想定することができる.さきほどの例も、「虫垂炎や付属器疾患かもしれないから、右下腹部に疼痛が生じている」、という論理が先行しているし、経験的に「夏季に、人が亡くなり24時間経過すると角膜が白濁する」ことが知られているから「条件的必然性:contingency」が成立するのだ.

 では統合失調症において「パターン」が逆転するとどうなるのか.我々は彼らの体験を直接追体験できないから、限られた知性によって想像することが必要となる.さしあたり、「原因」が従属し、「結果」が主体となる.つまりは「過去」が支配者で、「未来」が従属する.なんてこったい.ここで安永はK. Schneiderの例をあげる.

 「犬が一方の前脚を高くあげた……これは明らかに天の啓示に違いない……」

 う〜ん、これわかんねぇな状態である.ここで重要なのは、「そうはならんやろ」と切り捨てるのではなく、「どうしてこうなった」と考えることが大切だ.この意味づけは「結果」→「原因」という逆転であった.安永の考察では、このベクトルは絶えずさかのぼって原刺激に向かう流れだという.ここでは犬が前脚をあげたことに相当する.「犬が前脚をあげた」という現象を説明しうるが故にのみ重大である、という形になる.難しいね.安永は、患者は一つの知覚事態に対して、「それには必然の理由が存在しなければならない」という方向を第一義として常に意味づけするように見える、という.私達が前脚をひょいとあげる犬を見て「どうしたんだろう」と未来志向の考えを働かせるのに対して、統合失調症においては「前脚をあげちゃった、大変なことになった!もう取り返しがつかない!」という過去志向の考えを取る、ということになるのだろう.だが、なんとかしてそれを取り繕う(この表現が適当かは私自身疑問だが)ために、啓示や運命、といった予定調和的な言葉遣いになるのだと思われる.そうせざるを得ないのである.よって、このB→Aの体験は「ふと;plötzlich」生じる.予期できない性質をもつ.あとで安永は「不意打ち」という表現を使う.

 彼らは未来形の助動詞使用を封印されているようなものだ.「……でないかもしれない」という疑いはできず、「……に違いない」となる.まるで推理小説に出てくる早合点の刑事のようである.「わかりました!犯人はあいつに違いありません!」

 が、感情的先入観のある正常人とはやはり性質が違う.彼らは結論を先に出して、それから推理をするようにみえる.これは継時的行為である.彼らの論は誤っていようとロジカルである.それ原因→結果のベクトルが正常だからである.ただ考えが浅いだけだ.統合失調症の人々にとってそれは起こり得ない.過去が未来を従属しているので「もう間に合わない」のだ.

 「もう間に合わない」からこそ、「夫が別の女と寝てしまった;夫婦妄想」、「妻とそっくりの偽物にすり替わってしまった;カプグラ症候群」が生じる.「世界が破滅してしまったような感じがする;世界没落体験」、「私のからだはどろどろに溶けて死んでしまった;コタール症候群」といった取り返しのつかない体験を述べるのであろう.

 自己関係づけ

 統合失調症に置いて、かなり普遍的にみられる現象として、「自己関係づけ;Eigenbeziehung」がある.これは「注察妄想」、「あいつが私のことを見ている」といった陳述からも知られている.自意識過剰では無い.

 もともと我々は厳密には違うが「客観的な態度」をとることができる、というのは「主体」が十分に「客体」を統制しているからこそできる.そのことを経験的に我々は知っている.この主従関係が逆転すれば、「客体」が「主体」を支配する.すなわち「他人が自分を見る」、ということが自明である.しかもそこに「結果」→「原因」の逆転が起きているから、「なにかとりかえしのつかないことが自分におきてしまった」となるし、それは「自分に起因するのだ」と信憑せざるを得なくなる.これが外延すると、一切の外界の現象がすべて自分に基づいている、とまで意味づけられる.

 ここで、安永の話す妄想の論考は終わりになるのだが、私達にとって、特にHighly Sensitive Person/People; HSPの方々にとって重要だと思われる注釈があるので、言及しておきたい.以下の神経症という言葉は多義的で難しい用語だが、ひとまず不安障害、社交不安障害、対人恐怖症、視線恐怖症、広場恐怖症といった言葉に置き換えて貰えればと思う.HSPが疾患ではないことを十分理解した上で、置き換えて頂いてもよいと思う.

 (これまで述べた論考において)これらは神経症者にみられるような関係念慮とどんな対照にあるだろうか?

と安永は疑問を投げかける.関係念慮というのは、例えば

「電車の中で、さっき男の人が『チッ』と舌打ちをしたように思う.私のことを見て舌打ちしたのではないかしら」

「職場の上司が、私の方を見てわざと咳払いをした.私がこの前仕事でミスをしたことのあてつけではないか」

といったようなものである.もちろん架空の例である.彼らが他人のまなざしを感じるとしても、それは統合失調症におけるような絶対的所与では無い.正常の了解では他人の「自我」とは自分の「自我」を前提としてその中に含まれ理解されるような順序である.ちょっとややこしいがA,Bのパターンを使って表してみる.

「他人が自分を見ている」了解というのは自分の体験の了解にすぎない、というところがミソである.

A→(A’→B’)→B

→は条件的必然性:contingencyの方向、A’、B’は他者の、A、Bは自分の「パターン」である.自己から発する他人の了解、他人の目を通じて自己了解、と還帰する.流れは正常だ.ただ過剰なのである.強い感情の発露、過剰に「予期」することにより始まり、悩み、悪化する.これは森田正馬でいう「生の欲望」でもある.死の恐怖、病気を恐れる強い力動には、健康でありたい、元気でいたい、しっかり振る舞いたいと努めようとする「生への欲動」が根底にある.

 私は恥ずかしながら森田療法で知られる森田正馬をよく知っていない.しかし彼の説く、「ありのままに生きる」というモットーは多くの人を勇気づけ、共感を与えるものだと思っている.しかし社会がそれを許さない構造になっているようにも思う.完璧主義を求める労働体系、社会規範.緊張感が漂う.公私の分別が曖昧となり自我境界も見えなくなってしまっているようにさえ感じる.A→Bの関係において、Bが力を増しているような社会である.AとBが近接しつつあり、我々はAを強めようと感情を、予期能力を、不安を強めるのだと思う.「繊細さん」は持ち前の素晴らしい才能があるにも関わらずそうした危機に瀕している.この時勢における新型コロナウィルス感染症の大流行が、少しずつ旧態依然であった社会のあり方を見直す機運となっているように感じていることは私だけではないと思う.コロナ禍が収束することを願う気持ちは私も皆さんと同じだが、この混乱を運ぶ災厄が、世界に変革をもたらすトリックスターであらんことをひそかに祈っている.

 

 

 

フォン・ドマルスの原理

統合失調症の思考特性とは

 安永浩の著した「ファントム空間論」に関する話はこれで五回目になる.前回までは序論や幻覚について、著者の論考を追いかけたつもりだ.これからは思考障害に立ち入る.立ち入るにはかなり難しい領域で、しかもブログとなればなかなか表現が難しい.安永自身は、自分の仮説であれば、これも説明可能だと述べている.が、その説明の前に大幅な注釈がついている.そう、フォン・ドマルスの原理(von Domarus’s Principle)である.こちらの方が考察としては興味深いかもしれない.聞いたことがある人はいるだろうか.きっといないだろう.私も知らなかった.興味深いといった理由とはそういうことである.「たぶん誰も知らない」.

 原理というのは事象が成立するための根本となる仕組みのことだ.そして、この原理は精神医学のものだそうだ.つまり、精神現象の根本の根拠だということになる.マジか.

 Eilhard von Domarusという人物はドイツの精神科医である.だがその原理以上のことが一般によく知られていない.どうやら1925年に発表した論文によれば、その原理は多くの統合失調症の患者から帰納的に導き出したものであるとされる.さて、どのような原理か、と言われれば次のようになる.

 統合失調症の患者は『述語が同一であるとその主語を同一視するようになる』という原則に従って行動する.(XがZである、YはZである、故にXはYである)

 読者の中には「へぇ〜、そうなんだ」派と、「ほんとぉ?」派がいると思う.その感覚は間違っていない筈で、信憑するにはいささかアヤシイ.精神医学のメインストリームにはない概念である.(メインストリームでは無いが、重要な黒子である)

 これはこれで興味深い思考様式である.もし上記のX、Y、Zが代数であれば、数学的には成立するのである.以下のようになる.

$$X=Z, Y=Z$$ $$∴X=Y$$

 では、つぎのような文章はどうだろうか.

甲「私は処女です.聖母マリアは処女です.だから私は聖母マリアです」

乙「太陽は一つです.私は一人っ子です.だから私は太陽です」

(そうはならんやろ)

上記二つは実際の症例の言辞である.甲は海外の症例で乙は日本の症例だという.海を超えて奇妙な一致があるのは不思議である.()内は私の心の声だ.

何かがおかしい.どちらともおかしいのはわかるが、何がおかしいのか.数学的な方法であれば成立した関係が、言語ではそうはいかなくなる.なぜおかしいのか皆さんは説明できるだろうか.まずは私なりの見解を説明してみよう.

 前述のXYZは数学的な特性が前提にある.代数と言ったのはそのためだ.だから同じ属性として不等号が成立しうる.だが言語になると、「わたし」「聖母マリア」「太陽」は皆、主部である.「太陽」「処女」「一人っ子」は述部である.単語に課せられた言語的性質がすでに違うため、独立した主・述を等式でしめすことが文章として破綻してしまうのだろう.そしてなにより私たちは単語が属する性質を自明なものとして理解している.

 安永は「パターン」を用いて説明可能とする.ちなみに上記の二例のような述語の同一性を前提にしている論法を述語論法というらしい.人がある「概念」的把握、ある「判断」作用を行う瞬間、それがあっているかどうかはともかく、その体験には厳たる統一、「全体」の感覚があり、その差別相、「部分」はこれに従属するのみだ、ということが自明になっていなければならない.「概念」や「判断」は全体的把握があるからこそ、「概念」、「判断」である.しかしその概念の明確な限界づけ、判断の分化構造は通常必ずしも完璧ではない.つまり前述のパターンで言えば、Aに対してBが弱すぎる.甘すぎる関係にあるという.だから「概念」、「判断」理解には曖昧さと不正確さがでる.なるほど.たしかに我々は事象の理解、把握をできるだけ正確につとめようとするが、完璧さは日常の絶対条件では無い.スーパーマーケットでうっかり買い物袋を忘れたときにレジ袋を何枚頼むかは、買った品物のすべての体積を理解する必要は決してなく、大雑把な見通しを立てられるかで決まる.

 ある正確な、それ以上説明の余地のない境界と分化をそなえた「概念」、「判断」はAとBが一応限界的な平衡状態にあるという.この場合は、a=bである.その前はa>bであることはわかるだろう.私見になるが全体と部分が非常に近接する状態というのは、HSPとよばれる人たちの先天的特性を表しうるのではないか、つまり、彼らの

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

という特性は部分が全体に迫っているようなAとBが接近している状態であれば説明的であると思うのだ.

 さて、なぜ上記の甲乙の文章がおかしいと我々が感じるのか.言語学的な立場からの考えがあればぜひコメントを頂戴したいが、健常な人が一つの命題を作る時、述部というものは、主部がこの命題をつくる前に持っていたところの「概念」を、何らかの意味でより細かく、より具体的に規定、制約、分化せしめるために要求され、用いられるからだ、と安永はいう.その結果もとの主語概念が損なわれるだけでは無い.棄却されるわけでもない.「よりよく分化された全体」になっただけだ.例えば、

 わかいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうちやまと ひとはいふなり

 (我が庵は 都の巽 しかぞ住む 世を宇治山と 人は言うなり)

喜撰法師

の「わかいほは」から「みやこのたつみ」へと分化されるが、自分の家が京都の東南(巽であり宇治)にあって穏やかな場所(巽)だ、という全体を為している.お上手.

 ではa<bとなった場合、どのような状態になるか.この場合、全体が部分のために要求されてしまう.全体が部分に従属するという異常事態だ.我々は追体験することが出来ないが、「部分」が自明な出発点となる.このために無作為な任意の「全体」が「部分」から誘導される.だが「全体」のようにみえるものは「全体」の意味をもたない仮現の従属的全体であり、むしろ形骸的な結合である.死んだものが生き返って動き出すゾンビである(ゾンビも生と死が逆転した関係といえそうだ.死が生に超克した存在がゾンビであるからだ.だが安永式論考で言えば、これも形骸的結合であろう.つまり私に言わせれば結局ゾンビもその結合であり、「生きている」ようにみえるものは「生きている」意味をもたない仮現の従属的全体である).

 このような異常な判断体験においては、「パターン」の「量的」側面が支配し「質的」面は付随するのみだ.もう少し例を出そう.「メーガン」という女性がなぜかゾンビになったとする.生気がなくなるが肉を求めて生き物に食らいつく.異常な代謝で身体は腐り果て、みるも無残なゾンビになってしまえば、彼女はもはや「メーガン」では無い.「メーガンだったゾンビ」になるだけで、「メーガン」の主体性は失われ、ゾンビという「死>生」の存在の一つになりさがる.(*メーガンに恨みはない)

 このような判断を異常、と記しているが、このようなものはどうやら迷信における命題に多いらしい.例えば、「衣服を左前に着ない」のは日本人なら当たり前だのクラッカーであるが、これも述語論法だ.「死者は左前に衣服を着る」命題に対して、「私が左前に衣服を着る」と、「私=死者」となってしまうから、みんな温泉旅館では右前に浴衣を着るのである.よって異常というのは安永の言葉だが、決してそうも限らない.

 先の「私は聖母マリアです」「私は太陽です」という命題において正常な「全体」は崩壊している可能性がある.安永に言わせればまとまった命題というよりは数式のような並列のようなものである.数というのは極限までに「質」を取り払って、物事の「量」のみをとらえた抽象のことであるから、「太陽が一つ」「私が一つ」という次元で等式は成り立つ.しかし私達は日常で、質をおろそかにすることはないだろう.

 別の症例の対話を出そう.これはDomarusと同時期の精神科医、Silvano Arietiにより報告されたものだ.症例は高等学校相当の学歴である.

問「『書物』とはなんですか」

答「それはどんな書物をあなたが言っているかによります」

問「『テーブル』とは」

答「どんな種類のテーブルですか?木製ですか、磁器、外科用テーブル、それともあなたが食事したいと思っているテーブルのことですか?」

問「人生(Life)とは」

答「私はどんなLifeをさしているのか―雑誌の『LIFE』か、それとも他人を明朗にさせる恋人をさしているのかを知る必要があります」

 採用面接であれば(うわぁ、大変なの来ちゃったよぉ)となるような悲劇だが、精神科臨床ではよくある問答である.非常に奇妙な答えだと思うだろう.基本的には質問の回答として「書物とは、紙片に記された文字、文章をまとめたものです」、「テーブルとはものを乗せるための台です」「人生とは人の生涯です」といったものがあると思う.つまり、共通性抽象を問ういている.その語が何を意味しているか、何を内包しているかを問ういているのだ.だから木製だとか、外科用だとかはどうでもいいのに、症例は部分ばかり気にしてしまっている.これが奇妙さたる所以である.パターンの逆転によって、「非共通」「差別」「量」「具体」といったものが自明に先行する.よって内包するものは二次的な意味しかもたなくなる.安永はこの思考形式は認知症では出現しえないという.統合失調症の患者において言葉が

「それがそういう意味であるから」ではなくて、

「それがそういう意味でなくてはならないから

使われるのだ、といえばより強制力がわかりやすくなるだろう.断言的、妙な言い回しが多く、「…のようだ」「…のように思われる」という比喩や比較表現が苦手だ.ここで安永の注釈について言及しておこう.

 私達は何か感動し、感極まることがあれば、これを他の人にもわかるように伝えたい、と思うことがある.「ブログ」はまさにそういう手段であろう.だが、そうした衝動があるとはいえ、実践が難しいことはよく知っていると思う.感情や漠然とした把握の予感はここでいうa>bであり、本来言葉ではいいえないものがあることを知っている.”「記憶/物語」を読んで”でも深く言及してきた.言葉を無理につかっても表現しても何か表現しえないものが残る、という感じがあるに違いない.表現し得ないけれども、そこにあるのだ、という充実、満足の体験は必ず存在する.私達はインターネットの世界でも「小並感」や(語彙力)という卑下した表現で感興の非分有性を明示することがある.「それはそうだけど、どうしても最後まで表現したい!(あの名工の味を再現したい!)」ということはあまり考えないはずである.なぜなら「言い表せなくてもあるのだ」という実感は何かしら自己完結的なものがあるからだ.

 しかし思考障害が生じている統合失調症の例ではそうしたことの逆転が生じる.表現は被強制的に起こる(しなければならない).形式的命題がでっち上げられるだけで、人間的体験の深み、情感の余韻がないであろう、というのが安永の論である.

 もちろん、これは仮説の域を出ない.統合失調症の病勢が弱まっているとする現代では、こうした派手な症例はほとんど目にすることはないからイメージしづらいかもしれない.「私の知っている人はこうではない」という意見もあるだろう.それはそれで結構だと思う.これですべてが説明できると思っているほど私もぼんくらでは無い.統合失調症がヘテロジニアスな疾患群であることは現代では自明である.とは言っても安永のロジックは見事だと思う.読者の方には、世の中こういうことを考えている人もいるんだな、程度に思ってもらって良いのだが、これは決して衒学的まやかしではなくて、真に病理を理解したいがための血のにじむような思弁の結果であることは述べておかねばならない.

ここまで読んでくださりありがとうございました!

 リンクを多数貼ってありますので、気になったら他の記事も読んでくださいね.こういう議論がお好きな方は西田幾多郎がおすすめです.

 

ファントム空間への誘い

適用と応用の可能性

 前回、安永浩の仮説である統合失調症理論の序論を説明した.その中でも彼の理論の骨子である「パターン」は英国の幻の哲学者、ウォーコップの考えに大いに影響を受けている.

 我々の生きる世界には「全体」と「部分」、「自分」と「他者」といった対になる概念が存在する.彼に言わせれば実存的二元論ともいうようだが、それはともかく前項をA、後者をBとすればABの関係は次のようになるだろうと述べた.

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

 AからBへの方向は自明、「どうかんがえてもそうなるでしょ」という関係、論理的必然性だ.

 全体が部分を支配する、という文章は整合性を保つし、実際にそのとおりである.自分があるから他人がいる.これも整合性を保つ.逆の、他人がいるから自分がいる、という文は奇妙だし、そうとはかぎらないだろう.「他人がいるからなんだというのだ」ということになる.「ある条件を満たすと、そのようになってしまう」のが条件的偶然性である.この他、「生」「死」、「質」「量」といったカテゴリーも同様だ.

 この論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 小高い山を考えてみる.Aの山とそれより低いB山がある.AからBへと川が流れている.と、いえば予想がつくだろう.水流は重力によって従うからだ.これは一つの秩序である.一方向的でもある.我々の感じる論理の自明さは重力の働きに似ている.A>Bが常に成り立つのが我々の世界だ.

 しかしながらなぜかBからAへ水が流れる事態が、統合失調症の病理だと安永は述べるのである.つまりはB>Aである.そして安永は、A、Bは連続変数的な挙動をするという.これを代数に置き換えて、a, bとすればa→0、 b→0ということもありうるという.これは混迷や解離、器質的な疾患による意識障害といえるだろう.ちなみに0になった場合は死んでしまうことと同義だ.ではA=Bはあるのか、と言われれば理屈としてあり得るが(部分の総和が全体ということはある)、これは生命体として非常に緊張を孕んだ危ない状態を示す.自明な論理関係が今にも逆転しそうだからである.だからA>Bでなければならない.

 Aが強いとは主体的体験の切実さ(快にせよ苦にせよ)を、Bが強いとはその「パターン」の分化度の高さ、精密さを、ほぼ意味するであろう.

とも述べている.

 おそらく、これは私の考えであるが、HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか.

 a, bの変動の起る契機について安永は説明を試みているが、私見ではHSPたる敏感さは後者のほうだろう.以下の通りである.

一、abに対する相対的余剰が動因となって変化が起こる場合.

 これは俗にいう、生命的エネルギーに溢れた余りの行動形式がこれにあたる.この際主体はただエネルギー消費のためにのみ、その相手としてB面が求められる.その行動の結果、aが減少しbが増大して、一種の平衡に達して動きが止む.「そうしたいからした」という理解.

二、逆にbの増大傾向のために、(aの余剰が不足を告げ)これが動因となって変化が起る場合.

 この場合は危急に迫られたためのやむを得ない回避行動である.人は健康に生きている限りa≥bであらねばならぬからこのようなB側の強要によってこの釣り合いが破れることは絶対に阻止せねばならない.それはaを増やすか、bを減らすかである.「不安」とは一般にこの補償能力が危殆に瀕したことの信号である.その最後のエネルギー動因過程でもある.「不安」を持ちうる間は均衡はまだまったく破れてはいない.これは「死・回避行動」であり、不快である.「したくてするのではない」という理解.この際、我々は予感される将来の大きな苦痛を、現在の小さなbの段階で回避しようとする.この予感の究極は「死」である.この予感の能力が大きいほど、事態はより小さなbの段階で回避され、「死」からの遠い「合間=時間」を作る.

さて、HSPの話を少ししたが、以下のような特徴があるようだ.出典はこちらである.(当事務所はいかなるサイトとの利益相反はない)

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

 こうした特徴は、前述の「そうしたいからした」、「したくてするのではない」という観念の持ちようによって肯定的にも否定的にも取れるのだろう.この特徴を深堀りするのは、ファントム空間論の詳細に踏み込んだ時にするので、まずは簡単な理解でよい.HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか、という考えは私の仮説として、捉えていただいて、今後の安永の論考に期待したいと思う.

 さて、安永はこれまでの説明をもとに、統合失調症理解の応用を行おうとする.彼によれば、真に「統合失調症」なる本質は(正常およびその他の病的事態には決して怒らぬところの次のこと、すなわち)、

 体験の「パターン」において、A、Bの秩序が逆転すること(a<b)、によってほぼ正確、統一的に表しうる、と考える

 と安永はいう.具体的には前回の議論ですべてABを入れ替えれば、新しい体験事態の構造が得られるというのである.この理解は、ユークリッド幾何の公理に対して非ユークリッド幾何の公理が果たす役割に似ているという.よくわかんねぇなこれ、というZ世代の方には「ポケットモンスターダイヤモンド・パール(プラチナ)」におけるギラティナの棲む「やぶれたせかい」である.もっとわかんねぇなこれ…… 同じくゲーム、「サイレント・ヒル」における異世界でもあるか.「SIREN」の屍人や闇人の棲む世界観でも良い(よくない).なにがいいたいのかというと通常の体験様式が通用しない世界ということだ.

幻覚の問題

 統合失調症における主要な症状を順番に扱ってゆく.とはいっても順番は関係ない.まずは幻覚について扱う.幻覚はどのような状態か、という点について安永は「知覚」あるいは「表象」と共通するものを持つところの一特殊事態、という.なんだそれは?

 まずは正常例のパターンを考える.Aは「みる」主体、Bは「みられる」対象である.Aは体験として「私の」知覚・表象であり、Bは「なにかの」知覚・表象である.「表象」、俗っぽくいえば「イメージする」体験の特性は、Aの支配的な性質によりすべて誘導される、と述べる.

 逆に「知覚」の特徴はBが場面の力動を支配している.それは刺激として外界から流入するものである.それは表象のように主体的緊張に依存しない.しかし絶えず、主体の予期しなかった新奇な面を供給するという.とはいっても、主体にとっては主体の予期したもの以外は見えない.新奇性の発見はない.Aの力動はどちらかといえば、見えているから見ている、といったやむを得ず動因された因子である.しかしながらこの関係は決してA、Bの関係を破るものではない.

 さて、統合失調症における幻覚は、ある種のパターンを持つのでは、と考えてよさそうである.つまりはa<b である.まずは特徴を確認しておこう.

一、それは全く意識清明と思われる状態において現れる.

二、患者は病識をもたない.

三、その「事実」性が異常に強烈である.

四、にもかかわらず、いわゆる感覚性はうすいようで、内容は一般に断片的で、意味はわかるがはっきり細部まで再生は困難である.

五、多くは自己に向けられた呼びかけとしてきかれる.

六、「直接頭に聞こえる」「腹にきこえる」など常人に想像のつかない奇妙な説明、定位がなされる、等々.

 一、二について、これは臨床家なら納得の症候である.失神や脳血管疾患の意識障碍は病識を持つ.「急にバットで頭をなぐられたような頭痛がしてそのあと…」「あれ、私いままでどうしたんでしょうか」もし、本当に一過性の意識障碍であれば、上記のような病識を持つはずなのだ.よって広義の意識の問題は生じていない.

 症例の声に耳を澄ますと、その「声」は圧倒的に外部の声である.とても図々しい.声が図々しいのではなく、その起こり方が図々しいのである.荻窪のラーメン店の行列で並んでいたら横入りしてくる図々しさである.体験を自分の体験、として支配する力はなく、その蹂躙にまかせるのみである.まさに圧倒的支配.

 となるともはや正常のパターンが通用しなさそうだ.a≥bが通用しないのである.a<bとなっている方が説明的である.ただし、我々がこの事態をそのままに「追体験」することはできない.我々はa≥bだからである.対称性が主体性に先行する、という異常事態が起る.まじで.この事態を体験している人はBから理解すれば、Aもわかる筈だ!というに違いにないと安永はいう.

 自分がいて、他人がいるとわかる.という論理から他人がいて、自分がいるとわかる、といったトンチキな理解になってしまう.ソビエト式倒置法以上のカオスである.(ソビエトでは人がテレビを見るのではない!テレビが人を見るのだ!)

 幻覚では、Bがすべての前提であり、支配者である.これは外的な実在ともいえる.これがあたかも普通の知覚体験であるかのように「声をきいた」と意味づけるしか方法がないのだ.これは彼らなりの応急手段である.

 確かにこれまでの安永の論考を見れば、統合失調症の定義がa<bであることがわかり、生理的幻覚や夢幻状態はa=bであり、bがaを超えることはない.意識障碍では0へと変数が縮小してゆくと考える.

 さらになぜ統合失調症においては幻視よりも幻聴が目立つのか、という問いにも一応の解釈を示している.おそらく幻聴は「言語的」機能問題であること.そしてそれが完全に機能するには、「パターン」の分極がかなり強いという生理学的・生物学的特性をもつこと.さらに統合失調症の発病の侵襲によって逆転しやすい破綻性をもつ、ということが想定される.一方、視覚的情報を用いる直観的思考はそれほど「パターン」分極がつよくないらしい.よってa, bが小さくなっても幻視は生じるし.統合失調症の発病においてもこの機構が逆転することはあまりなく、安定しているのであろうという.なかなかに見事なロジックである.ただし、幻視がないのではない.錯覚というよりも強制力を持った現象が生じる.「一つの”顔”が頭につく……」それも無機的で蒼古的な変容を帯びる.これはa<bの萌芽なのだろうと安永はいう.そして徐々に奇怪な幻視の訴えに発展する.

 解離性障碍における離人感についても安永は言及しているが、この辺の考察は結構難しいのでまた理解がおいついた時にでもご説明しようと思う.

ここまで読んでくださりありがとうございます!

 

 

ファントム空間論に到る前に

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了解について

 本編の前にこちらからご覧いただくとよいかもしれません.その続きはこちらにあります.

  分裂病(統合失調症)の基本障碍とはなにか.という問いかけから著者、安永浩の論考は始まる.だから統合失調症を避けずしてファントム空間論を語ることは出来ないのだが、なるべくこの辺りの論理をしっかり抑えつつも適度に流していこうと思う.

 K. Schneiderは統合失調症には一級症状として6-8つの用法があることを指摘した(考想化声、思考奪取、作為体験、対話性幻聴、考想吹入、考想伝播、妄想知覚など).

 こうした症状から他の症状を導き出すことを理想としているのだが、「導き出す」とはどういうことか、という問いかけが残っており、さらなる追求が必要であると述べた.この問題に対する考え方はW. Dilthey, E. Husserlらがもたらした方法的反省の立場が有用だとして、これらをK. Jaspersが精神病理学に導入した.ここで「了解」「説明」という方法の体系が組織付けられた.

 「説明」的な方法論では、無限に仮説的中項を設けることになってしまい、心理現象を本質的に検証することができないという.基本障碍は「説明」的になってはならないと安永はいう.なんのこっちゃ.続けてみよう.

 一方、「記述的分析的」ないし「了解的」な心理現象の理解は「心的連関の直接所与の上に安らって」いる為、前者のような矛盾をもたない、という.どゆこと?心的所与の「全体」から出発して「部分」が分解されていくのであってその逆ではない.「基本障碍」とはこの場合その「全体」をつかむことになるが、それはここの事実の認識を契機とし、土台とはしても、それから構成されるのではなく、そのつど、一次的に把握されるのである.こうした「全体」から「部分」を導き出すことは正当な権利を似て言われ得る、とする.

 そうすると、この立場は「了解不能」という壁に突き当たる.Jaspersによれば、「了解」が限界に行き当たる時は因果的「説明」に到るものとされる.しかしもし「説明」が上記の限界を免れぬとすれば、これは統合失調症の心理学的理解の終末を意味し、統合失調症の症状は、ただの忠実な外面的記載と平面的羅列にとどまってしまうのだろうか.となると、「基本」的な追求も無駄になってしまう.

 これは序文に過ぎないのだが、最初から難解である.私からなんとか大意を抜き出そうとしてみれば、次のようになる.

 ある架空の症例が、「頭のなかで自分と誰かが大声で喧嘩をしている」と述べたとする.K. Schneiderの一級症状の考え方をすると、これはVoices heard arguing、すなわち対話性幻聴である.では対話性幻聴から他の症状を「導く」とはどういうことか、これがよくわからない.そこで、現象学的な考え方を使ってみることになる、K. Jaspersがまとめた方法には、「了解」「説明」という二つの考え方が用いられた.

 了解というのは精神現象を把握する方法である.「悔しくて怒る」というのは「悔しい」という精神現象と「怒っている」という精神現象の連続である.これらは感情移入的、共感的なものとして了解できる、という.(インターネット用語でいえば『わかりみが深い』かな?)「悔しい」と「怒っている」はそれぞれ関連がある.それゆえに怒っている人を見て、「悔しがっているんだろうな」、だとか悔しがっている人を見て「怒ってるのかな」と思うのは自然だ、ということだ.「心的連関の直接所与の上に安らっている」というのはそういうことである.だがこれらは因果律とは似ていて、異なるもので、「悲しいから泣く」という現象は連関と因果律を思わせるが、「嬉し泣き」も存在する.「嬉しい」と「泣く」という意味の連関はその人をとりまく状況や本人の発言との関連においてその都度了解できるのだ.

 しかし、ゲラゲラ笑っている人を見て、「この人、さぞかし悔しいんだろうなぁ」とは思わない.フヒヒヒヒと笑っている人に「なぜ笑っているの?」と尋ねて「悔しいからに決まってるでしょ!フヒヒヒヒ」と言われたら、「エッ???」となるはずだ.

これが了解不能という現象で、ある精神現象と関係のない精神現象が生じた場合は、「これもうわかんねぇな」という状態に陥る.

 こうなった場合、私たちは、その背後に病的な身体的過程(精神病)を想定し因果的な説明を求めることにした.したというか、そうせざるを得ない.「なにか病気だからこうなっちゃったのかな」という推理が働く.通常の意味連関が共有されず、精神現象とのつながりに異質さを生じさせるのが、了解不能である.

 説明というのは、病的な身体過程を想定するのではなく、心理現象として、「この人は過去にこういう体験があったからそれがきっかけで、ゲラゲラ笑っているのだろう」という仮説を挟んでいくものである.つまり、可能性は無限大になる.あらゆる可能性が考えられてしまう.

「ゲラゲラ笑っているのに悔しがっているというのは、実は心理学的には否認の状態で、実際、彼の心的状態はどちらかというと悲哀の反応に近く……」

 なんてごちゃごちゃしてくると、もはや取り付く島もない.無限に仮説的中項を設けることで本質上検証ができない、というのはそういうことである.

 だが、了解不能なものに対しては説明を試みるしか無いのである.Jaspersは、わからないもの<了解不能>は、因果的説明にいきつく、という.ところでもし、「説明」がさきほどの統合失調症心理の探求限界に行き当たらない、なんてことがあったとすると、もはや統合失調症を理解することはできなくなってしまうのでは?という恐れが生じかねないと安永は言う.それは「了解」に関する誤解であるとし、以下重要なことを述べる.

 心理現象界の作用形式を掴み、秩序付ける認識は体験から直接導き出されてゆく方向になされるべきで、(そうすれば「説明」的認識の意義もその中で正当に-「了解」を限定規制するものとして-位置づけられてくるが)

もしこの順序を逆にすると(「説明」だけから出発すると「了解」は永久に現れてこないから)背理となる.

 以下、吾郎なりの理解を以下に記してみる.

 こころの世界がどのように私達に働いているかを理解し、その世界の法則がどのようなものかを感じるということは、実際に経験したことから直にわかっていく(了解→説明)流れが大事である.(そうすれば、「説明」することで理解できる、という立場もまっとうに「了解」の立場を自然と決めることとして位置づけられるから)もしこの順番が逆になると、「悲しいから泣いている」という現象を理解するときに、説明が先行してしまうと、無限の注釈がつくことになってしまう.つまりいつまでたっても「了解」が出てこなくなってしまう(畢竟おかしい話になる)から、逆説的に正しいのだ.

 ここで要点をまとめておきたい.

 精神現象は「了解」していくことで、こころの世界の働きを知ることができるが、もし「了解不能」となった場合は、因果律に基づいて「説明」することが必要となる.そういうわけで「了解」→「説明」という流れが大筋となるがその逆は決してありえない.

 K. Schneiderの提示した一級症状というのは、「思考奪取」「考想化声」「作為体験」などである.これらは教科書的にも統合失調症の症候として現代もよく掲載されている.だが、これらがあるからといって、決して統合失調症とは限らないのである.脳腫瘍によってもこのような状態は起きるし、ステロイド多量服用でもそうなる.エリテマトーデスでもそうなるのだ.これが一次的な症状、根幹の症状として他のすべての症候を網羅できるかと言うと、大きな誤りだ、ということを安永は言いたいのである.これはファントム空間論への布石である.彼はもっと大きな「基本障碍」があるのではないかと考えるのである.E. MinkowskiやH. Bergson, L. Binswanger, E. Straus, J. Zutt, K. Goldstein, K. Conrad, 西丸四方らの考えを紹介してゆく.だが、どれも基本障碍を説明するものとしては、扱いが難しかったり、安易な説明的概念になってしまうとした.もし、「基本障碍」があるとすれば、それは相当抽象度が高い次元のものだろうと、彼は想定している.そこで彼は以下の考え方を紹介する.

パターンとは

 彼は「パターン」と呼ぶ概念を提唱する.暫定的訳語に「実存的二元構造」と注を付けているが、この際「パターン」で良い.

「パターン」とはなにか.彼は英国の哲学者、O. S. Wauchope(ウォーコップ)の考え方に示唆を受けているという.私は全く知らないし、哲学史で輝く人物では無い.生年没年も不詳、著作は唯一”Deviation into Sense – The Nature of Explanation”のみであり、英文学者である深瀬基寛(1895-1966)がいなければ、我が国には知られることがなかったであろう、「幻のポケモン」のような人物である.

 私達は、「自」「他」、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といったカテゴリーの一対を知っている.これらは基本的に論理学的定着された形式的概念として使われることがほとんどであるが、安永はもう少し突っ込んで考えている.

 これらは皆違ったものではあるが、各々の対の内部構造においてなにか特異なものを共通にもつように思わないだろうか、と読者に問いかける.これらにはなにかある相互連帯的関係が感じられないだろうか、と.どうしたんだ安永くん、急に.

 彼はこうした特異性を以下のように抽出する.「自」「他」の前者をA、後者をBとする.他の三対も同様である.すると、次のような形でAとBは一般化できるという.

一、 A, Bは各々の見地において完全な分極をなし、第三のものCが介在する余地はない.また一方を欠いては成立しない.

二、 体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることは出来ない.それは人が体験自体から出発すれば直接「わかる」というほかない.自らが議論の出発点になりうるのみである(この意味で公理的、明証的である).

三、 上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験にあらわれてくるゆえ、導かれ、理解されうる.

四、 その逆は成立しない(!)すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない.

 この第四項は特に重要であるとする.それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とは言い得ないことを意味している.そしてこのことの承認こそが、この論文で主張する方法論の背骨となる.

 私達が生きている限り、「自」という意味がどんなものかなんとなく知っている.「意識的に」では無いが、「体験的に」知っている.自分のことは自分なのだから直接「わかる」だろう、そうしてわかる以外にない、という理屈だ.だが、「自」でないものが必ず存在する.「他」である.「自」があるからこそ、「自」でないものを「他」ということができるから、命題一、二は理解できるだろう.

 「自」があるからこそ、「他」が理解できる.この流れがすごく大切である.この順序が逆転すると、おかしくなる.私達は「純粋な他」というものを想起できない.「他」を考えれば考えるほど、気が遠くなり「体験の彼岸へ遠ざかるため」理解できない.これは、R. Descartesの「我思う故に我あり」と同じように、どこまでも疑いに疑い抜いた挙げ句、自分だけは疑いようがない、ということと結局は同じである.

 自分とは、私達の体験にとって「他でもない、という以上のなにか」である.「体験世界は自我・非自我でできている」という命題は「了解」できる.しかし次はどうだろうか.

 「体験世界は他・非他」で出来ている」

非他ってなんだよ?ってことになる.意味不明である.つまりどういうことか.もともとの体験構造に、「自」の支配性、優越性を見るのである.ベクトルで表記すると次のようになるだろうか.

$$\overrightarrow{ 自他 }$$ はあり得るが、$$\overrightarrow{ 他自 }$$ はあり得ない.

別の言い方をすれば、

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

故に$$\overrightarrow{ AB }$$ は「実存」的な方向である.

 もちろん、「自」「他」だけでなく、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といった対も同様に考えることができる.こうしたカテゴリに着目し一般化したのはどうもウォーコップが初めてらしい.

 以上を総括しよう.

 前述のような論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造関係を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 安永はこの「パターン」の説明に相当な紙面を割いている.詳しく知りたくなった人はぜひ書店へ!と言ってもこの本は書店にはほとんどないだろうし、知りたくなった人もあまりいなさそうだから、本論で追補したいと思う.

 次回、統合失調症への適用について.いつも読んでくださりありがとうございます.

ファントム空間論の応用性についての検討

brown pendant lamp hanging on tree near river
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まえがき

 前の記事で、私は統合失調症に関して沈黙することにした、と述べた.だが疾患の内容や治療方法にはあまり触れず、別の形でファントム空間を取り上げることはできないか、と私は考えた.以下はその言い訳と、これからの抱負である.

 近年、統合失調症は罹患数が減少しているだとか、病勢が弱まっているという指摘がなされることがある.事実かどうかはともかく、それは実臨床でも感じることは多いかもしれない.最近の傾向は気分障碍、不安障碍、発達障碍、認知症、物質使用障碍(アルコール・違法薬物等)なのだろう.だからといって統合失調症の治療がおろそかになってよいわけでは決してないのだが、他に考えなければならぬ疾患群が極めて多様である、ということで良いと思う.

 精神疾患は社会と密接な関わりがあることは多くの指摘がなされている.社会のあり方を無視して疾患の総体を掴むことはできないだろう.流行り廃りがあるといえばやや語弊があるが、発達障碍への関心は年々強まっているし、「自分が発達障碍なのでは」という関心をもって、診察室を訪れる人は多い.

 精神病理学的な考察には、発達障碍圏は自身への志向性に無関心である一方、統合失調症圏は志向性に敏感であるというものもあり、それはなるほど明快な要素ではある.だから自身の志向性に無関心である傾向が多い人々がはたして発達障碍なのかというと、直観ではあまりそんな感じはしないのだが、実際に心理学検査を行うと、有意なDiscrepancyが指摘されることはしばしばである.

 また、先輩の医師が「発達障碍か統合失調症かもしれない」という申し送りや紹介をするとき、「一体どういう文脈で言っているんだ」という疑問を持たざるを得ないことは頻回であった.どうも専門の中でも考えの混在あるいは、区別のついていない医師がいるようである.教科書的な区分が通用しない症例がいるのは重々理解しているが、基本的な症候がわかっているのかどうかアヤシイ先生がいるのは嘆かわしいことだ.

 キーワードとなるのは何らかの「敏感な状態」であるのかもしれない.体系だった幻覚妄想状態はあまりないが、発達障碍圏でも幻覚妄想状態が示唆されることはあるし、いわんや統合失調症をや、である.外界とのつながりが突如断絶し、周囲の世界が大きく変容した感覚を得るようだ.こうした感覚は妄想気分、妄想知覚として説明される.

 とある若い人が目をギラギラさせて、

「アマテラスオオミカミが勅命をくだした声がわたしだけに聞こえるような特定の音声周波数を通して聞こえたのだ!わたしはヨモツヒラサカからイザナミノミコトを帰還させてニニギノミコトとして国産みをすすめるのだ!」

 とかなんとか言っているのは、一次妄想から発展してある種体系だった妄想である(上記は私がつくったデタラメだが).

 一方で、真面目な会社員が次のように言ったとする.「仕事に行くとどうも会社の職員がヒソヒソ話をしている.よく聞こえないので話の内容はわからないが、おそらく私のことに決まっている.私の会社でのミスを知っていて、皆が私を嘲笑し、非難しているだ」というものは、状況によっては、理解できる愁訴である.こうしたものは二次性妄想として、妄想知覚と区別される.

 現象学的な知識を動員してみると、前者は突発的な意味不明な内容について確信している可能性を考える.本来、絶対的所与性である「内在」に深刻な機能不全・機能失調が起きている恐れがある.道端に咲く花をみて、「あれはうんこです」という人はなにかの酷い冗談か深刻な確信形成の病理を抱えていると思う.

 後者の方はある程度合点がいく内容である.周りが話をしているのを見て、「自分の話をしている」という理解が正しいかはどうかとして、「話をしている」という知覚は妥当のように思う.だが、それが自己を巻き込んだものかどうかは、状況によりけりだが、かなり疑わしい.これも「内在」に部分的失調があるのだろう.やはり確信形成に問題があるものとして妄想は存在する.

 最近は、テレビのワイドショー、一般人のインタビューなどで個人が自分の空想を語ることを「妄想する」と言うことを耳にする.

「もし宝くじがあたったら一生働かないですむ妄想しちゃいますよね~」

 これは妄想の使い方として正しくない.妄想は空想ではない.妄想は簡単にいえば、「訂正不可能な確信水準の言辞」である.とはいっても、こんなことを真面目に指摘して論破したつもりになるのは非常に痛痛しい人になってしまうのはよくわかっているので人前ではこうしたことは言わないが、私はそう思っている.

 だが、妄想という言葉が誤って広まり、妄想の語義が弱まったと考えると、妄想が世間に親和的になったのかもしれない.妄想の民主化といったらよいのか.前に私は、精神疾患は社会の動きと密接だと述べた.こうした言葉の捉え方の変化が一つの病勢の弱まりに関係しているのではないかとこっそり思っている.決してこの考えを確信しているわけでないことはご理解いただきたい.

 さて、私は社会のもう一つの趨勢として「敏感さ」があるのではないかと思っている.勿論、統合失調症には特有の敏感さがあるのだが、私の言いたいのは疾患とは言えないまでも、「繊細さん」や「Hyper Sensitive Person/People」と呼ばれる人々のことである.どちらかというと、先に挙げた例の後者である.こうした悩みを抱えている方は大変多いのではないか.何しろ書店にいけばこうした「HSP」関連の書籍がとても多い.インターネットの特集やコラムでも「HSP」に関する記事を目にすることもある.

 私も割と、「Sensitive」(敏感)な人種だ.HSPの定義は今後の記事に譲るが、私はこうした「繊細な人」がとても困っているのではないか、生きづらさを感じているのではないか、と常々思っている.

 私はとてもとても膨大な理論を提唱する知恵もなければ経験もないので、大それたことはできないのだが、かつての統合失調症の論理的精神病理であるファントム空間論がその理解の助けになるのではないかと考えた.一体お前は何を言っているんだ.これは統合失調症の病理じゃないか、という批判はあるだろう.それは別に良い.そんなことは知っている.だが、ファントム空間論は、人が取りうる心的距離のことを広くいう仮説である.心的距離、心の間合いとでも言おうか.心の距離感の学問仮説といえば、統合失調症に限らずとも学問的理解を経て、他の心的問題に関する理解に応用できるのではないか.

 少し学問から離れた話をしてみよう.

 「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ・映画を観た私は、エヴァンゲリオン初号機と第四の使徒「サキエル」が死闘を繰り広げるのを観て、「これは心と心の距離感の比喩ではないのかな」と素人ながら感じたものである.特に初号機が使徒の「A.T. フィールド」(絶対不可侵領域・絶対恐怖領域)を破って攻撃する描写は十代の青少年に対する暴力的な心の侵入をよく描写したもののように思った.A. T. フィールドの展開範囲や強度は、ファントム空間論の理解の助けになりそうである(と思ったのだ).

 よってこうしたアニメ作品も積極的に援用して自分の考えを述べてみたい.エヴァンゲリオンに興味のある方は勿論、自分が「HSP」ではないかと思う方、様々な「敏感さ」に思いをはせている方にとって、少しでも安らぎの場となればと思い、私は前回の記事を一部撤回し、ファントム空間論の応用的解釈を目指すこととする.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.今後も興味をもってくだされば幸いです.これは長期連載の予感……!?

沈黙すること

green lawns on hills near river under cloudy sky
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語らないことについて、ファントム空間論について

 私は、ある小説の一部を引用することからこの小論を始めたい.画家夏雄は主人公の一人である.

…夏雄は、決して逞しい生れつきというのではなかったけれども、病弱な衰弱した血の表れのような生いたちでもなかった.…世間的な目からみれば、彼は、”幸福な王子”の種族であった.まことにのびのびと育ち、その育ち方に、精神分析医の嘴を容れられるような材料はどこにもなかった.

 しかし、どこかしら、兄弟のなかで彼一人ちがっていたのである.両親はその微妙な較差の性質がつかめなかったので、永いこと恐怖に似た感情で彼を見まもった.それにしても夏雄はまことに心のやさしい息子で、その上末っ子で両親にも兄や姉にもこよなく愛され、自分がどこかちがっているかを自分自身にも感づかせないように育てられた.こうして当然のことながら、一人の自覚のない芸術家が誕生した.これは病気のうちでもっとも警戒すべき、自覚症状のない病気に似たものだった.

 山形家のような一族、まったく市民的な家庭から、どうして芸術家が一人忽然として生れて来たかは、解きがたい謎であった.あたりの物象に何ら注意を払わず、ひたすら社会と人間との関係に生き、そう生きることに何ら疑いを抱かずにいる人々の間に、ただ眺め、感じ、描くために生れついたような人物が出てくるとは!これは事実、親戚一同の尽きせぬ話題になったが、結局は才能という便利な一言で片付けられた.

(彼の作品「落日」が新聞社賞を受け、彼は世間的に有名になるが)

…その大人しく人を傷つけることを好まない典雅な性質は、あいかわらず誰からも愛され、彼が疲れて席を外そうと思う時は、持ち前の幾分憂鬱な子供っぽい微笑を人に示せばよかった.自分の名声と彼はほとんど没交渉に暮していた.人間社会に対して疎遠な、それでいてこれといった冷たさのない、いわば微笑を含んだ離隔をつねに持してきた夏雄は、何も新しい事態に処して態度を新たにする必要がなかった.すべてが自分の上に起った事件だという実感が少しもない.彼の人生には「何かが起る」ということはありえない.夏雄の目は依然として、自分の好きなもの、美しいと思うものをしか見ない.そのほかのものは目に入らないのである.

 しかしある時、彼が戸外でスケッチをしていると、一見して美術大学の学生だということがわかる四、五人の若い男女が背後を通り過ぎる.

…不自然な無言のまま、一人が口笛を吹き、夏雄の背後に全部の靴音がやや遠ざかったように思われたとき、夏雄は女の囁き声が、山気の透明のせいか、いやにはっきりと耳立つのをきいた.

「あれ、たしか山形夏雄だわ.売り出したと思って、いい気なもんね」

 夏雄はわが耳を疑った.この種の言葉を人の口からきいたことがなかったのである.

 自分が傷つくよりも先に、彼を驚かせたことは、何一つ悪いことをしないのに、自分の些細な名声が世間のどこかであの若者たちを傷つけていたという発見である.この若者たちに、自分が確実に愛されていないという思いは、大げさにいえば一種の失寵のように彼の心に響いた.「ある人は僕を愛さない!」…この驚くべき事実.それでいて、彼を本当に驚かしたのはこの事実そのものではなかった.そんなことは以前から百も承知であった筈なのに、百も承知であった筈のものに、これだけ驚かされたということが、彼を二重に驚かした.あの娘の、山気をよぎってひびいたほんの一言の生温かい声のために、彼と外界との構図は潰え、遠近法は崩れてしまった.

三島由紀夫、「鏡子の家」、新潮社、1959年

 ここからさらに彼は「風景から拒まれている」のを感じ「色彩ばかり押し寄せる夢」を見る.やがて、富士の樹海が眼前で「消えてゆき」、世界が「妙にけばけばしい象徴的構図をもった」混乱に陥るに至る.

 皆さんはどのような感想を抱くだろうか.私は三島をあまり読んだことが無いのだが、これは迫真の描写であり、よくもまぁ見事に書いたものだなといった感想をもった.

 こうした描写は、現代でいう統合失調症の発病過程を見ているような気持ちになる.同じ業界にいる多くの人々はこの文章を読んで、夏雄を注意深く観察しようと思うだろう.このような体験は「分裂病のはじまり」*という二十世紀初頭の精神科医クラウス・コンラート(Klaus Conrad)の著書における「トレマ期」という「なんとなく不気味な感じ」(妄想気分)から「富士の樹海が消えてゆく」世界没落体験、「アポフェニー期」という経過が相当しそうである.とはいっても疾患が明示されているわけでもないのでこれ以上の言及は無粋である.それにこれはフィクションである.

*分裂病という呼称は現在では用いないが、中井久夫による訳本は上記であるため、あえて採用している.精神医学的な諸問題において筆者は多くの人と同じアンチスティグマの立場であることを断っておく.

見出しの「ファントム空間論」はれっきとした統合失調症の仮説である.日本の精神科医である安永浩によって提唱された.とはいっても薬物治療が主体の現代では生物学的理解が進み、こうした病理学的理論は下火であるが、(たぶん)根強いファンは少なくない(はず).時折、精神病理学の学術誌において「ファントム空間論」の引用を見ることがある.決してオカルトではないし、とんでも空想科学でもない.先程の三島由紀夫の引用は、安永浩自身が引用したものを私が借用したに過ぎない.

 では「ファントム空間論」とはなにか.説明することは極めて難しい.難しいゆえに長期連載しようと思っていたし、自分自身の理解のために文章化したいと思っていた.

 しかしながら、この小論を書くにあたって、まずは統合失調症を説明しなければ、と思った.ではどのように説明したものか、と考えた.ならば、誰にむけて説明をするべきなのか、という疑問が浮かぶ.読者.それはそうだが、顔の見えない読者は様々で、どこまでの射程を想像すべきかはかなり難しいことになる.

 そして何よりも一体、私にどれだけこの疾患群を語る資格があるのだろうかという疑問である.世の中にはわかってないくせにわかったふりをして威張っている人が多い.そういう人に限ってやたらと声がでかくてうるさい.私はそうはなりたくないし、いざ語ろうと思うと(足がすくむというより)口から言葉が出ない.私の意見では無いが、例えとして「言語の危機」、「父性喪失」といったものが聞かれることもある.これらは様々な立場から出てきた業界用語である.これを一般に運用することはかなり危険である.ましてや、私がこの重要な疾患群を無責任に語ることは大変な問題である.

 言葉の持つ力は凄まじい.それだからこそ、その暴力性をもっとも蒙るのが統合失調症である.言語は自己を内面から転覆させてしまう.それは自己形成の危機である.よって「読者のために」「自分のために」というナルシスティックな動機で疾患を語る、ということは、治療者の立場であるはずの自分が最も加害する側に加担してしまうという恐ろしい事態でもある.亀吾郎法律事務所は誰にとっても安らぎの場所であるのに、そうなっては本末顛倒だ.法律事務所スタッフ一同、徹夜で協議した.

 協議の結果、私はひとまず勇退することにしようと思う.最近の私の考えは「語り得ないものについては沈黙すべき」である.この考えは自分の本来の性質を反映したものでもあるし、最近読んだばかりの「記憶/物語」に鼓吹されたことも大きい.だから、「この疾患は斯々然々で……」という説明を辞めにして、三島が「鏡子の家」で病態を語らずして圧倒的に描写したように、私吾郎も語らずして語ることを目指してみようと思う.

 では如何にして語るか.大それた方法論はないから、これまで通り、翻訳や評論、文学作品を下敷きにして私見を加えていく形で私なりの分有可能性を模索したい.私が恐れをなした、というよりは患者さんへの敬意と疾患への畏敬の念と捉えていただきたい次第である.

吾郎
吾郎

亀吾郎法律事務所の所長です.事務所のほとんどの記事を書いております.最近甲長が19.9cmになりました.