ファントム空間論の応用性についての検討

brown pendant lamp hanging on tree near river
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まえがき

 前の記事で、私は統合失調症に関して沈黙することにした、と述べた.だが疾患の内容や治療方法にはあまり触れず、別の形でファントム空間を取り上げることはできないか、と私は考えた.以下はその言い訳と、これからの抱負である.

 近年、統合失調症は罹患数が減少しているだとか、病勢が弱まっているという指摘がなされることがある.事実かどうかはともかく、それは実臨床でも感じることは多いかもしれない.最近の傾向は気分障碍、不安障碍、発達障碍、認知症、物質使用障碍(アルコール・違法薬物等)なのだろう.だからといって統合失調症の治療がおろそかになってよいわけでは決してないのだが、他に考えなければならぬ疾患群が極めて多様である、ということで良いと思う.

 精神疾患は社会と密接な関わりがあることは多くの指摘がなされている.社会のあり方を無視して疾患の総体を掴むことはできないだろう.流行り廃りがあるといえばやや語弊があるが、発達障碍への関心は年々強まっているし、「自分が発達障碍なのでは」という関心をもって、診察室を訪れる人は多い.

 精神病理学的な考察には、発達障碍圏は自身への志向性に無関心である一方、統合失調症圏は志向性に敏感であるというものもあり、それはなるほど明快な要素ではある.だから自身の志向性に無関心である傾向が多い人々がはたして発達障碍なのかというと、直観ではあまりそんな感じはしないのだが、実際に心理学検査を行うと、有意なDiscrepancyが指摘されることはしばしばである.

 また、先輩の医師が「発達障碍か統合失調症かもしれない」という申し送りや紹介をするとき、「一体どういう文脈で言っているんだ」という疑問を持たざるを得ないことは頻回であった.どうも専門の中でも考えの混在あるいは、区別のついていない医師がいるようである.教科書的な区分が通用しない症例がいるのは重々理解しているが、基本的な症候がわかっているのかどうかアヤシイ先生がいるのは嘆かわしいことだ.

 キーワードとなるのは何らかの「敏感な状態」であるのかもしれない.体系だった幻覚妄想状態はあまりないが、発達障碍圏でも幻覚妄想状態が示唆されることはあるし、いわんや統合失調症をや、である.外界とのつながりが突如断絶し、周囲の世界が大きく変容した感覚を得るようだ.こうした感覚は妄想気分、妄想知覚として説明される.

 とある若い人が目をギラギラさせて、

「アマテラスオオミカミが勅命をくだした声がわたしだけに聞こえるような特定の音声周波数を通して聞こえたのだ!わたしはヨモツヒラサカからイザナミノミコトを帰還させてニニギノミコトとして国産みをすすめるのだ!」

 とかなんとか言っているのは、一次妄想から発展してある種体系だった妄想である(上記は私がつくったデタラメだが).

 一方で、真面目な会社員が次のように言ったとする.「仕事に行くとどうも会社の職員がヒソヒソ話をしている.よく聞こえないので話の内容はわからないが、おそらく私のことに決まっている.私の会社でのミスを知っていて、皆が私を嘲笑し、非難しているだ」というものは、状況によっては、理解できる愁訴である.こうしたものは二次性妄想として、妄想知覚と区別される.

 現象学的な知識を動員してみると、前者は突発的な意味不明な内容について確信している可能性を考える.本来、絶対的所与性である「内在」に深刻な機能不全・機能失調が起きている恐れがある.道端に咲く花をみて、「あれはうんこです」という人はなにかの酷い冗談か深刻な確信形成の病理を抱えていると思う.

 後者の方はある程度合点がいく内容である.周りが話をしているのを見て、「自分の話をしている」という理解が正しいかはどうかとして、「話をしている」という知覚は妥当のように思う.だが、それが自己を巻き込んだものかどうかは、状況によりけりだが、かなり疑わしい.これも「内在」に部分的失調があるのだろう.やはり確信形成に問題があるものとして妄想は存在する.

 最近は、テレビのワイドショー、一般人のインタビューなどで個人が自分の空想を語ることを「妄想する」と言うことを耳にする.

「もし宝くじがあたったら一生働かないですむ妄想しちゃいますよね~」

 これは妄想の使い方として正しくない.妄想は空想ではない.妄想は簡単にいえば、「訂正不可能な確信水準の言辞」である.とはいっても、こんなことを真面目に指摘して論破したつもりになるのは非常に痛痛しい人になってしまうのはよくわかっているので人前ではこうしたことは言わないが、私はそう思っている.

 だが、妄想という言葉が誤って広まり、妄想の語義が弱まったと考えると、妄想が世間に親和的になったのかもしれない.妄想の民主化といったらよいのか.前に私は、精神疾患は社会の動きと密接だと述べた.こうした言葉の捉え方の変化が一つの病勢の弱まりに関係しているのではないかとこっそり思っている.決してこの考えを確信しているわけでないことはご理解いただきたい.

 さて、私は社会のもう一つの趨勢として「敏感さ」があるのではないかと思っている.勿論、統合失調症には特有の敏感さがあるのだが、私の言いたいのは疾患とは言えないまでも、「繊細さん」や「Hyper Sensitive Person/People」と呼ばれる人々のことである.どちらかというと、先に挙げた例の後者である.こうした悩みを抱えている方は大変多いのではないか.何しろ書店にいけばこうした「HSP」関連の書籍がとても多い.インターネットの特集やコラムでも「HSP」に関する記事を目にすることもある.

 私も割と、「Sensitive」(敏感)な人種だ.HSPの定義は今後の記事に譲るが、私はこうした「繊細な人」がとても困っているのではないか、生きづらさを感じているのではないか、と常々思っている.

 私はとてもとても膨大な理論を提唱する知恵もなければ経験もないので、大それたことはできないのだが、かつての統合失調症の論理的精神病理であるファントム空間論がその理解の助けになるのではないかと考えた.一体お前は何を言っているんだ.これは統合失調症の病理じゃないか、という批判はあるだろう.それは別に良い.そんなことは知っている.だが、ファントム空間論は、人が取りうる心的距離のことを広くいう仮説である.心的距離、心の間合いとでも言おうか.心の距離感の学問仮説といえば、統合失調症に限らずとも学問的理解を経て、他の心的問題に関する理解に応用できるのではないか.

 少し学問から離れた話をしてみよう.

 「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ・映画を観た私は、エヴァンゲリオン初号機と第四の使徒「サキエル」が死闘を繰り広げるのを観て、「これは心と心の距離感の比喩ではないのかな」と素人ながら感じたものである.特に初号機が使徒の「A.T. フィールド」(絶対不可侵領域・絶対恐怖領域)を破って攻撃する描写は十代の青少年に対する暴力的な心の侵入をよく描写したもののように思った.A. T. フィールドの展開範囲や強度は、ファントム空間論の理解の助けになりそうである(と思ったのだ).

 よってこうしたアニメ作品も積極的に援用して自分の考えを述べてみたい.エヴァンゲリオンに興味のある方は勿論、自分が「HSP」ではないかと思う方、様々な「敏感さ」に思いをはせている方にとって、少しでも安らぎの場となればと思い、私は前回の記事を一部撤回し、ファントム空間論の応用的解釈を目指すこととする.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.今後も興味をもってくだされば幸いです.これは長期連載の予感……!?

沈黙すること

green lawns on hills near river under cloudy sky
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語らないことについて、ファントム空間論について

 私は、ある小説の一部を引用することからこの小論を始めたい.画家夏雄は主人公の一人である.

…夏雄は、決して逞しい生れつきというのではなかったけれども、病弱な衰弱した血の表れのような生いたちでもなかった.…世間的な目からみれば、彼は、”幸福な王子”の種族であった.まことにのびのびと育ち、その育ち方に、精神分析医の嘴を容れられるような材料はどこにもなかった.

 しかし、どこかしら、兄弟のなかで彼一人ちがっていたのである.両親はその微妙な較差の性質がつかめなかったので、永いこと恐怖に似た感情で彼を見まもった.それにしても夏雄はまことに心のやさしい息子で、その上末っ子で両親にも兄や姉にもこよなく愛され、自分がどこかちがっているかを自分自身にも感づかせないように育てられた.こうして当然のことながら、一人の自覚のない芸術家が誕生した.これは病気のうちでもっとも警戒すべき、自覚症状のない病気に似たものだった.

 山形家のような一族、まったく市民的な家庭から、どうして芸術家が一人忽然として生れて来たかは、解きがたい謎であった.あたりの物象に何ら注意を払わず、ひたすら社会と人間との関係に生き、そう生きることに何ら疑いを抱かずにいる人々の間に、ただ眺め、感じ、描くために生れついたような人物が出てくるとは!これは事実、親戚一同の尽きせぬ話題になったが、結局は才能という便利な一言で片付けられた.

(彼の作品「落日」が新聞社賞を受け、彼は世間的に有名になるが)

…その大人しく人を傷つけることを好まない典雅な性質は、あいかわらず誰からも愛され、彼が疲れて席を外そうと思う時は、持ち前の幾分憂鬱な子供っぽい微笑を人に示せばよかった.自分の名声と彼はほとんど没交渉に暮していた.人間社会に対して疎遠な、それでいてこれといった冷たさのない、いわば微笑を含んだ離隔をつねに持してきた夏雄は、何も新しい事態に処して態度を新たにする必要がなかった.すべてが自分の上に起った事件だという実感が少しもない.彼の人生には「何かが起る」ということはありえない.夏雄の目は依然として、自分の好きなもの、美しいと思うものをしか見ない.そのほかのものは目に入らないのである.

 しかしある時、彼が戸外でスケッチをしていると、一見して美術大学の学生だということがわかる四、五人の若い男女が背後を通り過ぎる.

…不自然な無言のまま、一人が口笛を吹き、夏雄の背後に全部の靴音がやや遠ざかったように思われたとき、夏雄は女の囁き声が、山気の透明のせいか、いやにはっきりと耳立つのをきいた.

「あれ、たしか山形夏雄だわ.売り出したと思って、いい気なもんね」

 夏雄はわが耳を疑った.この種の言葉を人の口からきいたことがなかったのである.

 自分が傷つくよりも先に、彼を驚かせたことは、何一つ悪いことをしないのに、自分の些細な名声が世間のどこかであの若者たちを傷つけていたという発見である.この若者たちに、自分が確実に愛されていないという思いは、大げさにいえば一種の失寵のように彼の心に響いた.「ある人は僕を愛さない!」…この驚くべき事実.それでいて、彼を本当に驚かしたのはこの事実そのものではなかった.そんなことは以前から百も承知であった筈なのに、百も承知であった筈のものに、これだけ驚かされたということが、彼を二重に驚かした.あの娘の、山気をよぎってひびいたほんの一言の生温かい声のために、彼と外界との構図は潰え、遠近法は崩れてしまった.

三島由紀夫、「鏡子の家」、新潮社、1959年

 ここからさらに彼は「風景から拒まれている」のを感じ「色彩ばかり押し寄せる夢」を見る.やがて、富士の樹海が眼前で「消えてゆき」、世界が「妙にけばけばしい象徴的構図をもった」混乱に陥るに至る.

 皆さんはどのような感想を抱くだろうか.私は三島をあまり読んだことが無いのだが、これは迫真の描写であり、よくもまぁ見事に書いたものだなといった感想をもった.

 こうした描写は、現代でいう統合失調症の発病過程を見ているような気持ちになる.同じ業界にいる多くの人々はこの文章を読んで、夏雄を注意深く観察しようと思うだろう.このような体験は「分裂病のはじまり」*という二十世紀初頭の精神科医クラウス・コンラート(Klaus Conrad)の著書における「トレマ期」という「なんとなく不気味な感じ」(妄想気分)から「富士の樹海が消えてゆく」世界没落体験、「アポフェニー期」という経過が相当しそうである.とはいっても疾患が明示されているわけでもないのでこれ以上の言及は無粋である.それにこれはフィクションである.

*分裂病という呼称は現在では用いないが、中井久夫による訳本は上記であるため、あえて採用している.精神医学的な諸問題において筆者は多くの人と同じアンチスティグマの立場であることを断っておく.

見出しの「ファントム空間論」はれっきとした統合失調症の仮説である.日本の精神科医である安永浩によって提唱された.とはいっても薬物治療が主体の現代では生物学的理解が進み、こうした病理学的理論は下火であるが、(たぶん)根強いファンは少なくない(はず).時折、精神病理学の学術誌において「ファントム空間論」の引用を見ることがある.決してオカルトではないし、とんでも空想科学でもない.先程の三島由紀夫の引用は、安永浩自身が引用したものを私が借用したに過ぎない.

 では「ファントム空間論」とはなにか.説明することは極めて難しい.難しいゆえに長期連載しようと思っていたし、自分自身の理解のために文章化したいと思っていた.

 しかしながら、この小論を書くにあたって、まずは統合失調症を説明しなければ、と思った.ではどのように説明したものか、と考えた.ならば、誰にむけて説明をするべきなのか、という疑問が浮かぶ.読者.それはそうだが、顔の見えない読者は様々で、どこまでの射程を想像すべきかはかなり難しいことになる.

 そして何よりも一体、私にどれだけこの疾患群を語る資格があるのだろうかという疑問である.世の中にはわかってないくせにわかったふりをして威張っている人が多い.そういう人に限ってやたらと声がでかくてうるさい.私はそうはなりたくないし、いざ語ろうと思うと(足がすくむというより)口から言葉が出ない.私の意見では無いが、例えとして「言語の危機」、「父性喪失」といったものが聞かれることもある.これらは様々な立場から出てきた業界用語である.これを一般に運用することはかなり危険である.ましてや、私がこの重要な疾患群を無責任に語ることは大変な問題である.

 言葉の持つ力は凄まじい.それだからこそ、その暴力性をもっとも蒙るのが統合失調症である.言語は自己を内面から転覆させてしまう.それは自己形成の危機である.よって「読者のために」「自分のために」というナルシスティックな動機で疾患を語る、ということは、治療者の立場であるはずの自分が最も加害する側に加担してしまうという恐ろしい事態でもある.亀吾郎法律事務所は誰にとっても安らぎの場所であるのに、そうなっては本末顛倒だ.法律事務所スタッフ一同、徹夜で協議した.

 協議の結果、私はひとまず勇退することにしようと思う.最近の私の考えは「語り得ないものについては沈黙すべき」である.この考えは自分の本来の性質を反映したものでもあるし、最近読んだばかりの「記憶/物語」に鼓吹されたことも大きい.だから、「この疾患は斯々然々で……」という説明を辞めにして、三島が「鏡子の家」で病態を語らずして圧倒的に描写したように、私吾郎も語らずして語ることを目指してみようと思う.

 では如何にして語るか.大それた方法論はないから、これまで通り、翻訳や評論、文学作品を下敷きにして私見を加えていく形で私なりの分有可能性を模索したい.私が恐れをなした、というよりは患者さんへの敬意と疾患への畏敬の念と捉えていただきたい次第である.

吾郎
吾郎

亀吾郎法律事務所の所長です.事務所のほとんどの記事を書いております.最近甲長が19.9cmになりました.

私の時間論:急

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 このシリーズでは始めに、古代の人々はそれぞれの生活圏で異なる時間の見方をしているとの指摘を確認し、それぞれ時間を有限の線分、無限の円環、始点があって終点のない無限直線、始点はなく終点のみの無限直線に大別されるとした.人は過去から未来へ流れる直線と、天体運動のように循環する時間をうまく組み合わせ、歴史を紡いできた.特に、時間が過去から未来へ不可逆的に流れる感覚は私達にとって自明であるように思われるが、それは正しいのだろうかという疑問を私はふと思いついてしまったために、こうしてブログに思考過程を開陳した.私なりに書物を読んでいくうちに、なぜかループ量子重力理論に出くわした.そしてトランプカードゲームの大富豪で宇宙を例えるという頓痴気なことを始めた.それは宇宙の「特殊」性を説明するためであって、偶々私達から見ると、世界に時間が流れているように感じているに過ぎない.

 まず、宇宙全体に共通の「今」はない.地球の「今」とアルファ・ケンタウリの「今」は違う.アルファ・ケンタウリは太陽系に最も近い恒星だが4光年の距離があるという.星間電話が確立して、地球からアルファ・ケンタウリにいる異星人に電話をかけたとする(何語で?).信号がアルファ・ケンタウリに届くまで4年かかる.幸運が重なって、異星人が電話に出てくれた!それってアルファ・ケンタウリの今にとっては、地球の4年前のことなのか?これマジ?C. Rovelliによれば、この問は無駄だという.イタリアンレストランに行って、「すみませぇん、ペンネマシマシカラメマシオリーブオイルスクナメニンニクください」とラーメン二郎式で注文するくらいトンチンカンで、「高校の通学にフォーミュラカーで行ってもいいですか、スリックタイヤで」と訊くようなものだという.改めていうと、「今」は大域的ではなく、局所的だ.二人がけのソファに座っているヤングな男女のカップルくらいの距離であれば、「今」は存在する.彼氏の講釈を聞かずスマホをいじっている彼女に、彼氏がいじけて「ねぇ『今』なにしてんの?俺は『今』、宇宙について語っているんだぜ」と問いかけることは意味がある.ちょっと例えが無茶だが.

 時間が流れるリズムは質量や重力場によって異なることをA. Einsteinが説明した.彼の記述する時間と空間は、重力場によってぷるるんっと揺れ動く巨大な黒ごまプリン(ゼリーでもフルーチェでもいい)に私達が内包される一部分であった.ところがどっこい、この世界は量子的.あらゆるものは離散的、すなわち散り散りバラバラに動く.ぷるるんっと動くように見えた巨大な黒ごまプリンは実は白黒のモンタージュが絶えず不規則に動いていて、偶々黒ごまプリンに見えていたにすぎない.もしかすればドラゴンフルーツの断面かもしれないし白米に刻み海苔がかかっているのかもしれない.つまりは時空の記述は近似的で曖昧であったということだ.物理学の根本をたどるとそこには時空はなくて、過去も未来もないということが、ループ量子重力理論が教えてくれることであった.しかし、きっと例の彼女はぶすっとして

 「ふーん.黒ごまプリンでもなんでも良いけどさ.べつに嫌いじゃないし.だからなんなの?」

 ということになるから、もう一度私達の世界に立ち返ってみよう.ちょっと気まずいカップルの世界でもある.私にとって気になるのはどうして自分達の多くは時間が流れているように感じられるのだろうか、ということであった.

 ちょうど別の目的で私はE. Husserlの”Die Idee der Phänomenologie” (邦題:現象学の理念)を読んでいるところであった.他にも彼についての解説本を読んでいると、現象学の目指さんとするところが段々明らかになってくる喜びと、ポンティアック・フィエロベースのF40レプリカと本物のフェラーリ・F40の違いを私たちは如何にして認識するかを考えることができた.(現象学的還元をもとにした見分け方はまた記事にする予定だ)そんな中、この時間に関する論考で多いに参考になった”L’ordine del tempo”に奇しくも、Husserlの「時間の構成」について考案した図(図1)が引用されているではないか.私は密かに歓喜した.Rovelliからすれば引用は必然であろうが、私からすれば偶然である.これも量子力学の思し召しか.

図1 Husserlの考案した図はもっとそっけない.

 この図を説明する前に、最初の問に立ち返る.なぜ私達は時間の流れを感じることができるのかと.端的にいえばそれは私達が「記憶」し「予測」することができるからだという.さらにいうと、私達の脳神経系は膨大な神経細胞のネットワークによって、受け取った感覚刺激を処理しその過程でパターンを認識、そこから予測をしようとする生き物だ.私達がいる現在は過去の軌跡の上にいて、それは描こうとしている彗星の尾でもある.お父さんと少年が仲睦まじくキャッチボールができるのはお父さんにも少年にもボールの軌跡がわかるし、どこに落下するか予想がつくからだ.よほど鈍臭くなければ.

 たとえば音楽を聴くとき、一つの音の意味はその前後の音で決まる.もし私達が常に一瞬の存在であれば、音楽は成立し得ない.私達が音楽を聴いて感動するのは記憶して予測するからだ.この例えを用いたのはA. Augustinusで、さらにE. Husserlでもある.いつの世界も偉大なおっさんはいる.Husserlは音楽をヒントに、時間の構成を図式化した.それが図1である.点Aがなぜ点Aなのかはわからない.何かの頭文字かもしれないが、名前は何でも良いんじゃないか.点Aから出発して、任意のある瞬間Eにいるとする.線分AEは時間経過を表したもので、線分EA’は瞬間Eの「記憶または予想」である.感傷的にいうと「思い出や計画」である.もっとキザに言えば「君と夏の終り、将来の夢、大きな希望忘れない 10年後の8月また出会えるの信じて」みたいなものだろう.

 線分EA’では漸進的沈下によって(図次第では浮上でもいいと思うが)AがA’に運ばれる.これらの現象が時間を構成するのはどの瞬間EにもP’やA’が存在するからである.なにが言いたいのかというと、Husserlおじさんは、時間の現象学の源は線分AEという客観的な現象の連続ではなくて、(主観的な)記憶であり、予想、すなわち図の垂直線、線分EA’としているということだ.記憶や予想をかっこよくいえば、過去把持(Rentation)、未来把持(Protention)というらしいがこの際どうでも良いか.一応まとめると、現在(任意の点E)という時間意識は、一様な均質な時間のある一点ではなくて、過去把持と未来把持を含んだ、幅ないし厚みのあるものだとする.厚みってなんだよーって思うかもしれないが、奥行きと表現してもいいと思う.つまり図1における水平方向とは異なる方向へ垂線を引ければどこでもよさそうだ.

 Husserlに続いて別のおっさんであるM. Heideggerは時間について次のように記しているという.「時間は、そこに人間存在がある限りにおいて時間化する」と.

 また、”À la recherche du temps perdu”(邦題:失われた時を求めて)で知られるM. Proustはこういう.「現実は、記憶のみによって形成される」こうした引用はRovelliが引いたものだが、実にはっとさせられる.ここで私からも独自に引用をしてみたい.日本における現象学と精神病理学の立場で知られているのは、自己の存在構造を考察した木村敏である.彼の時間論は簡単に言えば次の通りである.

「時間とは自己存在の意味方向である」

 この文章を見つけたとき、目からウロコというのはこういうことだと思った.なぜ私達が時間の流れを感じるのかという至極明快な答えであると思う.彼は研究者であるけども、もちろん優れた臨床医でもあるから、純粋な思惟だけでなく患者の言葉をもとに論考を発展させる.これは説得力をもつと思う.これまで何度も述べたように、なぜか私達は、過去、現在、未来という方向に時間が流れるように感じている.しかし、何らかの病的な理由によって時間体験が障碍された人々は、時間の方向性を知的に理解しているとはいえ、自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を感じざるを得ない.そうした喪失感をもつ人々というのは、離人症という状態にある方々であると木村はいう.離人・離人感というのは精神医学における一現象である.一般的には解離症状に含まれる.解離とは「本来は感覚、記憶、同一性を統合した一人の『私』が「心の安寧を保つ場所が見つからない」ことによって覚醒水準としての意識は保たれているのに、『私』の統合が失われた状態」をいう.よって健忘や遁走、混迷、フラッシュバック、人格交代など様々な症状を呈する.これについては筆者の過去の記事にもあるのでよかったら御覧いただきたい.

 中でも離人感というのは、意識変容によって周囲世界と自己の間に距離が生じた状態で、「何をしていても自分がしているという実感がない」、「生きている実感がない」、「自分の体が生身の人間として感じられない」、などの自己や外界に関するリアリティの喪失を述べる症状である.通常であれば、過去から現在、未来へと一方向になめらかに流れるものとして体験されるはずの時間が、流れを失い、無数の「今」のちらばりとして体験されてしまう.

「なんだか時間が経つ感覚が全然ないんです.ばらばらになっちゃって.全然進んでいかないんです」

 彼らが自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を同時に感じるのは偶然ではないと木村はいう.その理由は、私達の時間体験に過去が過ぎ去って帰らないものであり、未来が未だこないものであるという「以前」と「以後」の方向性を与えているのは、「私がいつか死んでいく有限な存在である」という自己存在のリアリティから生じる「生の既存性」と「死の未来性」だからである.過去、現在、未来という時間の流れは「自己存在の意味方向」を本質としている.自分が今生きているとわかっていて、なおかつ、いつか死ぬとわかっているからこそ、時間という一方向のベクトルが生じるのである.よって離人症のように自己存在のリアリティが喪失した場合、時間体験の異常は必然となる.

 精神疾患を有する方々において時間空間の認識に困難を生じることは解離性障害に限ったことではないと思う.特に統合失調症は自己存在の危機に直面する特徴的な疾患であると思う.私はある苛烈な陽性症状(幻覚・妄想)を呈した方を止む無く保護室に収容した経験がある.早期に治療介入し、自体が鎮静するまでしばらく時間がかかったのだが、ようやく落ち着いて保護室から一般病室へ移れる許可を出すため、私が保護室を訪ねると、

「あぁ、先生.どうしたんですか.そういえばさっきお願いしたオヤツの件、どうなりましたか」

とケロッとしていて、長らく保護室にいたことに気を留める様子がない.もちろん毎日回診はするからずっと私と会わないわけではない.スタッフも巡回するのだが、「早くここから出してくれ」とも言わず、オヤツのことを訊く.私とその人をつなぐ時間と空間が断絶した印象を持った.そして「今」関心のあるオヤツのことを尋ねるのであった.保護室という特殊な部屋が一つ要因だったかもしれない.しかしそれを加味しても若輩である私の受けた衝撃はとてつもなかった.木村の言葉を借りれば、「既存性としての事実性」が失われており、現在の自己存在の根拠が成立していない状態であったのだと思う(なぜ自分がここにいるのか知らない).

 以上、時間の方向性が生じる理由について論じてきた.私なりの答えはこうだ.

 自分には生きてきた記憶があって、今も生きている実感がある.そしていつか死ぬことを知っている.その存在のあり方に方向づけが生じる.それを時間と呼ぶのだと.

 だから私達が過去から現在、未来へと不可逆的に流れていく感覚がするのは私達が生きている限り自明である.そう感じるのは決して変ではないし、疑問を感じることもおかしなことではない.

 ようやく賢人たちに追いつくことができたとでも言おうか.いやいや追いつくなんておこがましい.正しく言えばなんとか先人たちの巨大な肩に乗って、少し高いところを見渡せるようになったに過ぎないのだろう.でも本当にこれで理解しているのかな、という不安もある.物理学の先端からの検討、哲学者らの見解、病的な状態からの考察.様々な立場から共通のテーマについて考えを巡らせることができたのは有意義であった.私自身の立場としては、やはり「なぜ病的な状態が生じるのか」という疑問に尽きる.ただこれは極めて難題で、分子生物学的な知見と精神病理学的な検討など学問の複合的な連携が不可欠といえる.まぁ、硬い話はここまでにしよう.

 私にとって生きてきた証は、幼い頃からの記憶と撮りためた思い出の写真と手垢で汚れた本であったり、車のオドメータに記録される走行距離でもある.育てている草木が成長していく感覚や、車に乗って風を感じる時、亀吾郎法律事務所のスタッフが楽しげである姿を見る時に生の充足を感じる.そして、それらがいつか露と消える儚さに心做しか胸騒ぎがする.

車のオドメータは37270kmを刻んだ.

 ここまで読んでくださってありがとうございました.今後も亀吾郎法律事務所をよろしくお願い申し上げます.

亀吾郎法律事務所が目指すところ What our office aims for

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.