「記憶/物語」を読んで 6

photo of person walking near orange leafed trees
Photo by 김 대정 on Pexels.com

Politique de la Mémoire

「記憶のポリティクス」という題はあまりぴんとこない.ポリティクスという言葉はPoliticsのことだろうから、あえて訳すると「政治学」になるのか.では「記憶の政治学」とはなんのことだろうか.これまで、筆者は記憶の暴力性、小説の成り立ち、映像作品におけるリアリズムの欲望について様々な疑問を投げかけてきた.そして私はそれらに対して自分の考えを併記し、彼女の意見に賛同することが多いものの部分的に考えを異にすることもあった.これまでの論を以下にまとめる.

 小説という作品形式は近代ヨーロッパによって成立したものであり、近代社会の要請が小説にナショナリズムといった「ナショナルな経験」「ナショナルな欲望」を接近させることとなった、と岡はいう.そして小説はフィクションである.フィクションであるが故に<現実>における不条理を描き出すこともあれば、リアリズムの表現の代表として映画を筆者は挙げ、<現実>へ近づこうとリアルさを求める「リアリズムの欲望」がかえって<言外の出来事>や<現実>を否認してしまうという危うさを示した.特に、それら作品においてヒューマニズムに代表される「共約可能な普遍的感覚;正義、使命、仁義など」が現れる時、それは私達人間の「不条理な出来事の否認」の裏返しであり、制作に携わる人々の「ナショナルな欲望」が浮かび上がってくるという.

 どうも彼女は「ナショナル」というカタカナ表現にこだわる.なぜNationalの訳語を当てないのかは明らかではない.全国的、国家の、国民の、という形容詞が当てはまりそうだがそれらを用いることはない.理由あってのことだろうが推測の域を出ない.私の見解を示すならば彼女の言わんとする「ナショナル」は「国家(国民)総体(全体)の」、という訳では、型にはまりすぎたのだろう.あえて意味合いをぼかし、言葉からこぼれる余剰部分を掬い上げたかったのかもしれない.私としては少しでも言及して欲しいと思った次第である.

 さて、彼女は、上記を「物語りたいという欲望が、ナショナルな経験、ナショナルな欲望と共犯的に生起する」という表現で示し、その例を邦画に見てみるとする.

 彼女は是枝裕和氏による作品「ワンダフルライフ(英:After Life)1998年」を例に、記憶を他者に語るという行為を考察する.私はこの作品も知らず、観たことがない.そういう人のために著者は作品のあらすじを教えてくれる.

 映画では死者はある建物に集まる.死後の世界がある前提で、彼らはその手前の世界にいるようだ.そこの職員は彼らに面接を行う.

「貴方の一番大切な思い出を一つだけ選んでください」と問い、生前最も幸福であったときの思い出を選ばせる.そしてその時の場面を再現した映画をスタッフが撮る.登場人物は皆死者という設定である.面接員、映像スタッフ皆理由があって、建物にとどまっている.

 特筆すべきは数名を除いて皆職業俳優でない一般人を採用しているという.さらに簡単な状況説明のみが演じ手に与えられるのみでセリフもみなアドリブだ.徹底してごく普通の人々の日常の記憶にこだわることで、ナショナルな欲望とあからさまに結託した作品に対抗しようとする監督の意図もあったに違いない、と彼女は珍しく言い切る.書かれたセリフと演技はアドリブのセリフは前者がどんなに「自然な演技」であろうと、後者の「リアルさ」と全く違うという.

彼女は後者の演じ方を不安、無防備、頼りなさげといった表現で説明する.最も大切な記憶を他者に語るということはどのようなことなのか、彼女にとっては印象的だったようだ.人が記憶を語る、自分にとってかけがえのない出来事の記憶を他者に語ることが、こんなにも人から理解されたいと切実に思い、語りをこんなにも頼りなく不安にしているのだと.

 私は上記の映画を知らないが似たような試みについて、自分はすぐに思いつく.皆さんはどうだろうか.私にとってそれはスタジオジブリの映画作品である.宮崎駿は映画の重要な登場人物に声優と全く縁がなかった人々を起用することで知られている.少し例を挙げると、「風立ちぬ(英:The Wind Rises)2013年」の主人公、堀越二郎の声には庵野秀明を当てているが、彼は勿論声優ではなく撮る側の同業者である.「耳をすませば(英:Whisper of the Heart)1995年」の月島雫の父親には立花隆を当てているし、「となりのトトロ(英:My Neighbor Totoro)1988年」のサツキ、メイの父親は糸井重里が声優を務めている.

 聞く人によって印象は異なるが、私の感想はみなボソボソと声がこもっていて、なんだか話が苦手そうな人なのだろうな、である.だが、世の中の公職に就く男性で口が立つ人は放送業界や芸能界、演劇界、観光業界など限られた人だろう.私の家族は皆スピーチがかなり下手である.堀越二郎は設計士、雫の父親は図書館勤務、サツキとメイの父親は学者である.皆それぞれ大事な家族がいて、その口調は素朴で温かみがある.

 雫の父親が小説家を目指す娘に向かって「自分のやりたいことは思い切りやってごらんなさい」というセリフは明らかなぎこちなさが滲んでいるのであるが、それが良い.声優業とは違う畑の人を起用した恩恵が重要なシーンで効果的に活かされていると思う.

 プロの声優は自分の声、口調、抑揚に職業人としての自負と経験がある.勿論それ故、大変尊い人材であることは言わずもがなであるが、だからこそ「不安」や「逡巡」、「迷い」がないのだ.したがって筆者は確信に満ちた自然さが、人が出来事の記憶を他者と分有すべくその記憶を語る際に、決して持ち得ないと主張する.俳優の語りには自分の語りが受け止められないかもしれないという不安ゆえの、他者への呼びかけの声が決定的に欠けている、という.そうは言っても俳優、声優を皆素人にするわけにもいかない.彼女の主張は凡そ理解できるものではある.映像作品に出てくる俳優が引っ張りだこだと他の作品でも大役をはるが、私にとっては「この人・この声また出てきたなぁ」であり、「よくもまあこんなくさいセリフを言えたものだ」と冷めた目で見てしまう(それが良いのかもしれないが).

 先程の「ワンダフル・ライフ」の大きな筋は、戦争のために無意味に死んだ青年が、他者との関係性において自らの生の意味を捉え直し、生を肯定する物語であるそうだ.これは、無意味な死それ自体に意味を充填し、ナショナルな物語の中に包摂することで、無意味な死という出来事それ自体を否認するような欺瞞、あるいはナショナルな欲望を否定したところに成立しているように見える、と彼女はいう.そして、この映画は本当にナショナルな欲望と無縁なのだろうか、と続ける.ん?

 自己の生を肯定するということに対して作品は暖かいまなざしを向けている.他者との関係性において自分の生を肯定することと、無意味な死のその無意味さを否認するがために、そこに意味を充填することは、同じではない.同じではないが、しかし、今、この国に生起している事態は、ナショナルな自己肯定の欲望に貫かれているものであると思う.そのとき、自己の生を肯定することの大切さを説くことは、こうしたナショナルな自己肯定の欲望と親和性を発揮することにはならないのだろうか.その危険はないのだろうか.

 この本が初めて出されたのは2000年である(世紀末である).よって「今、この国に生起している事態」とは今から二十年前の事態である.幸いにして北斗の拳のような荒廃した世界ではない.筆者のいうナショナルな自己肯定の欲望とは一体なんのことだろう.彼女によれば、ここ数年の日本社会のを見れば、ナショナルな欲望に基づいた記憶の横領、物語の横領という事態がさかんに起きている、のだそうだ.具体的には何を指すのだろうか.

 一つ、文脈から明らかであるのは著書に度々言及される「従軍慰安婦」問題であろうか.手強いテーマで緊張するが簡単に触れておくことにする.この問題は1991年に金学順(キム・ハクスン)が自ら慰安婦にされたことを名乗り出たことが発端の先駆けであるように思う.当時は首相の訪韓目前であり、政府は官房長官談話を発表、首脳会談での謝罪が行われた.1993年の河野談話は政府側の公式調査結果を公表、軍の関与を認め、以来政府の公式見解となっている.この経緯を踏まえて学校教科書に慰安婦に関する記述が出現し、問題は大きく注目された.

 一方で1992年に秦郁彦の済州島調査によって「強制連行」が事実でないとされた.藤岡信勝らによる自由主義史観研究会というグループが「自虐史観」的教科書記述を挙げて「慰安婦問題」に反撃した.そのような経緯もあって上記問題についての教科書的記述は減少したようだ.歴史再認識的動きと対する動きの論争は続いている.1995年の首相談話発表、アジア女性基金の設立といった動きはあったが個人補償を否定したものであり、対象の一部は受け取りを拒否したのであった.

 それからは政権の改編を経て、問題は鍋の底についた黒焦げのようになり現在に至ることは皆さんもご存知であろう.料理で鍋を焦がすと、焦げ付きを落とすのは大変だ.ごしごし擦ると鍋は傷つくし、放おっておくと美しくない.とはいっても気になってしまう.断っておくが、私は特定の政治的立場に立って主張をするものでもなければ、委託をされたわけでもない.なるべく中立的な自発的な考えに基づいて記している.そうそう、私は一介のクサガメに過ぎない.こういった話は高橋哲哉「歴史/修正主義」に詳しい.

 もし従軍慰安婦は強制されたものではなかったと仮定すると、従軍したのは、兵士の慰みとなったのは自身の意思で、ということになるだろう.自国は併合され、創氏改名、皇民化政策を行った国に対して、そもそも好意的な感情を朝鮮の人々は持つことができるだろうか.

 この同化政策は二十世紀初頭の国政の自然な風潮だったのだ、西欧列強も同じように植民地主義のもとで占領支配をしたではないか.我が国は教育施設やインフラを整えたのだぞ.西欧の勢力に対抗するには致し方なかったのだ.という反論は予想されるが、それは国のメンツとしてであり、いわゆるナショナルな欲望、ということだろう.それは理由にならないように思う.安易に同列に語ることは危険だろう.

 本当に強制しなかったと言うには、無理があるのではないか.妙齢の女性らが、占領政策を敷く見知らぬ男性に貞操を捧げるのか.言語による疎通がままならない相手との性交渉に強制力がなかったといえるのだろうか.確かに自ら生計を立てるために身体を売ることをした女性はいるかもしれぬ.反対する人は、官兵の強制ではなく、貧困のために自ら業者を通じて身体を売ったのだ、というやもしれぬ.貧困なら仕方ないとでもいうのか.それは朝鮮人仲介者が悪いという論にしたい意図が見えてしまう.未来をまだ見ぬ伴侶と結ばれることを願う女性らが、占領兵との性交渉を進んで承諾するだろうか.

 また、淋菌、クラミジア、梅毒、その他ウイルス感染症のリスクを承知で性交渉する選択せざるを得ないのは人間の尊厳と生計を天秤にかけ、悩み抜いたあらゆる選択肢のうち最後ではないのか.甘言、虚言による巧みな誘い、脅迫は広義の強制力ではないだろうか.私の考えていることはおかしいだろうか.

 筆者が言いたい記憶の横領、物語の横領というのは具体的に語られない.あくまで類推になるが、著書の第三章、「物語の陥穽」が手がかりになるだろう.否定論者や修正主義者、その他の意見に対する強力な対抗手段は、私が思いつく限り、出来事の生き証人を召喚し、実際に彼らの前で語ってもらうことだ.それは筆者も似たことを考えている.だが、それは拷問の論理であると彼女は述べる.これは深く考えなくてもわかることだが、次回に触れることにしたい.「ワンダフル・ライフ」がナショナルな欲望と無縁なのかどうかについても.

いつも読んでくださりありがとうございます.

「記憶/物語」を読んで 3

Photo by Alvaro Matzumura on Pexels.com

小説の成り立ち、バルザックの「リアル」

 第二章で彼女は「小説」成立の歴史的経緯を概説し、H. Balzacの小説、「Adieu」を例に出来事の暴力性を紹介する.

 まず、小説は近代ヨーロッパにおいて発展した文学形式である、と章が始まる.そうなのか、と私は考えもしなかった事実に不意を突かれた.まず、物語という従来の語りの形式は、共同体の一つの小さな世界で、共同体に帰属する者たちにとって共有されるのと対照的に、小説は、一つのテクストが、地域や共同体を超えて、言語も超えて様々に異なった異質な読者を相手にする点で違うと指摘する.

  試しにOxford Dictionary of Englishを参照すると、物語(narrative)は’a spoken or written account of connected eventsとあり、小説(novel)はa fictitious prose narrative of book length, typically representing character and action with some degree of realism.と記されている.また語源については以下のようである.確かに近代成立以降の概念であることがわかる.

mid 16th century: from Italian novella(storia) ‘new (story)’. The word is also found from late Middle English until 18th century in the sense ‘a novelty, a piece of news’, from Old French novelle.

 小説が物語と異なる理由に、小説の隆盛の要因となった近代の時代背景を彼女は挙げる.一つは近現代の歴史が植民地主義の歴史でもあり、小説が原語のまま、母語を他にする者たちによって読まれる状況が生じたこと、さらに彼らが母語以外の言語で小説を書くという事態が起きたことである.そして製紙技術や印刷技術の科学が不可欠であったし、製本するための資源も要する.書物を輸送させる物流システムの構築も考えねばなるまい.小さなコミュニティを超えて、母語を異にする者たちに作品が読まれるためには、統一言語の存在が必要であり、統一された言語を理解する読者が欠かせなくなる.国家や国語という近代社会において要請された画一的言語、画一的集団が小説を支えたのであると考える.小説は統一された言語を近代社会に要請する一方で、近代社会は、小説が構築する虚構世界に国家を形成するための俯瞰視点を見出したとも指摘する.この指摘は興味深く、俯瞰視点という用語は彼女によって次の章でさらに深堀りされるのであるが、小説が国家と密接な関係にあることを先に読者に喚起する.

 小説は近代ヨーロッパにおいて発展した文学形式である、と筆者は先に述べた.ではヨーロッパ以外はどうなのか、ということについて現代アラブ文学を専門とする彼女の観点が光る.パレスチナ系アメリカ人文学者エドワード・サイード(Edward Said(إدوارد سعيد))の名を挙げ、小説がその性格からして虚構の空間に世界を構築するものだとし、イスラーム教徒にとって被創造物たる人間が、唯一神の創造物とは別の創造を行うことは、イスラームから外れた行い、ビドゥア(بدعة)であるという意見を提示している.小説家が世界を構築するとき、それは自然と創造者の俯瞰視点になる.この考えであれば私達は作品創造という営為のうちに、あるいは国家形成によって不遜にも神に挑み続けていたようである.厳格な一神教ならではの面白い考えである.だが、調べればすぐに現代のアラブ文学は次々と出現していることはわかる.現代では、神の視座に関するウラマーの見解と、「小説」の体裁に類似した文学作品の意義をイスラームの人々はどのように折衷しているのだろうか.

 さて、彼女は西欧に対抗する意見として中東の文人を用いて「超越者の視点」に関する説明を試みているが、我が国における小説の形成も一応参照しておこう.

 加藤周一の「日本文学史序説」によると、近代ヨーロッパで呼ぶ所の世俗的日常的な現実描写を骨子とする物語を「近代小説」とすれば、十世紀の日本宮廷社会では既に「近代小説」に比肩する小説的世界が成立していたという.それは「落窪物語」である.「落窪物語」は継母の継子いじめの話である.一家族をめぐる日常的な事件の詳細、登場人物のそれぞれ異なる性格、人物の相互の心理的関係、非日常的な出来事や超自然的な力を介入させない点で「近代小説」に呼応する.だが、当時は彼らは小説という言葉を用いたわけでもなく、小説形式を成すための文学理論は存在しなかった.明治時代に小説は近代ヨーロッパの変遷を踏襲した坪内逍遥の「小説神髄」(1885-1886)が発表されて初めて、我が国の小説家が誕生したという定説が多い.田山花袋から正宗白鳥に至る「自然主義派」が出現してから様々な派閥が興隆することになる.明治維新の黎明期に青年であった文人らの特徴にも触れられている.彼らは西洋文化との広汎で組織的な、伝統的な教養の深さ、およびの社会の全体に対する関心が指摘されている.特に、文化的伝統の対象化である. 

 ヨーロッパとの接触は、個人的な水準においてそれが深く徹底的であるほど、日本の文化的遺産に対する当事者の自覚を促す.西洋人の偏見に対する反発、あるいは日本の伝統文化を評価する外国人への反応が起こり得る.それは「ナショナリズム」であり、または彼らの日本への評価が普遍的な評価基準に基づくのであれば、それを認めなければならない.日本の立場を擁護する必要もある.岡倉天心はその代表と言って良い.彼はだから英文で「東洋の理想」(1903)と「茶の本」(1906)を書いたのである.鈴木大拙も彼に似る.二人は日本文化を意識的に対象化し、普遍的な為し方で分析と叙述を試みた.しかし普遍的な言語は英語だけではない.森鴎外は西洋言語の散文の正確さと推論の秩序に学び、緻密な日本語の文体を確立している.以後、永井荷風、木下杢太郎、石川淳、中野重治へ続く.夏目漱石は小説の一形式を完成させ、西田幾多郎は独自の文体で哲学的思索をまとめたのであった.彼らの文学的貢献によって統一言語での記述がなされ、また明治政府は近代国家の成立を果たした.小説が要請する条件を満たしたのである.

 国家黎明期においてキリスト教の輸入は十九世紀後半の知識人に影響をもたらしたが、殊に北米系のプロテスタンティズムのキリスト教であり、その教会であった.彼らが近づいたのは宗教性というよりもキリスト教を通じた西洋の言語、思想、文学であったようだ.国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥、岩野泡鳴など「自然主義」小説家らは皆成人前に洗礼を受けたが、五年以内に棄教する潔さがあった.キリスト教の説く、超越的絶対者との関係において定義される正義と、キリストによる原罪の救済という観念は彼らには響かなかった.キリスト教は独立人格の自己同定に根拠を与えるものとして機能したに過ぎない.信仰の棄却に関する精神的痕跡は彼らの文学に見られないと加藤は指摘する(加藤は全部読んだのか……??).

 以上を考えると、日本の近現代文学形成において西洋の接近が重要な要因であることがわかる.ナショナリズムの萌芽を促し、普遍的価値の叙述への道をひらいた.キリスト教への関心は宗教的側面ではなく、あくまで彼らのアイデンティティ形成の手段であり、文学への窓口として利用したということになる.自己実現のために作品創造を行ったとすれば、そこに神の視点という言葉はふさわしくないように思われる.神の衰退かどうかはともかく、とりあえずはメタフィクション的(以下メタ的)な視点ということになるのかもしれない.これは濫喩である.

 だがメタ的な視点が神の視点でないとすれば誰の目線なのだろうか.作者かというとそうとは限らない.筆者は非人称の語り手、という言葉を用いるが、それ以上明示されない.

 兎にも角にも、小説が国家と密接な関係があることを理解した.国家には社会の変革によって国民が巻き込まれる事態、例えば「戦争」や破壊的な出来事のように、不可避な場合がある.逃れられない不条理が個々人に刻みつけるトラウマ(外傷)は、時制を壊し、過去として馴致不能な現在の暴力として回帰する.そうした語ることも水に流すことのできない<出来事>を、小説は時代の要請のもと、身に引き受けたのではないかと筆者は推察する.私達は小説という装置に語りを委ねることを期待したのではないか、それが不可能であるかはわからないが、人々は分有の可能性に賭けたのだと.

 筆者はH. Balzacの小説、「Adieu」を例に挙げる.私は読んだことがないのだが、筆者のあらすじ紹介で概略はつかむことができた.ナポレオン戦争を題材に1830年に書かれたこの作品は、彼女が繰り返し述べてきた、現実の<出来事>の叙述不可能な部分を虚構世界の小説に仮託することで、語り得ない余剰部分を浮かばせるという企てを示しているのではないかという.

 作品に登場するF大佐は、「Adieu」としか言わない狂女に偶然出会った.しばらくしてその女性はかつての恋人Sであったとわかる.過去にSは戦争に従軍するF大佐を追って、ロシアまで赴いた.だが、フランスの敗退によってロシア軍に包囲され大佐は逃げおおせたものの、Sは敵軍の慰み者となってしまったのだ.F大佐が知る恋人としての彼女の最後の言葉は「Adieu」(お別れね)であった.2年もの間蹂躙された彼女は正気を失っていた.大佐はなんとかかつてのSを取り戻そうと奔走するが医療は期待できない.彼がとった最後の手段は、なんと当時の情景を完全に再構成し、記憶を取り戻すことであった.場所、季節、衣服、舞台装置すべて揃えて.

 Sの記憶は、F大佐の壮大なエゴイズムによる、かつての情景を見ることで回帰した.しかし、「Adieu」と元恋人のFに告げるや否や事切れてしまった.Sを失ったFは取り残され、まもなく彼は死を選んだ.Sが亡くなった理由や自殺した理由の類推はいくらでもできるかもしれない.しかし、作品に示されるのは彼らの死だけである.この明文化されない空隙が、読者を容赦なく突き放す.見事に当惑させる.理不尽さや不条理という言葉は浮かぶが、そんな陳腐な言葉では言い尽くせないだろう.

 Sにとって自身を獣以下に貶める転機となった舞台を再び目にすることは、超絶怒涛の暴力である.彼女が思い出したのではなく、まさしく時制を壊された出来事が現実に回帰した好例であろう.なんて酷いことをF大佐はしたのだろう、と思うかもしれない.彼はただSをどうしても取り戻したかったのだ.取り戻すことでSを救済したいと願うFのナルシスティックな心理と、眼前の狂女がSであることを認知したくない彼の否認を知ると、これ以上の言及について私は言葉をよく選ばなければならないと思う.

 この作品はフィクションである.特にF大佐が、記憶を取り戻すために現場の再構成を仕掛けるあたりは小説のなせる業だろう.だが、Sが「Adieu」しか言わないこと、彼女がそれ以上語らないがために、我々はFとSの時間・空間的断絶を感じ、その断絶の中に戦争が刻んだ傷を観取することができるのだろう.

ここまで読んでくださり、ありがとうございます.