近年の異世界系小説に見る超越と脱出:2

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  初めていらした方は前回の記事から御覧くださいね.

なぜ、浦島太郎と盧生はそれぞれ異世界に転移したのか.また、なぜ二人の物語が現在まで残っているのか.他界への憧憬はあったにせよ、二人はきっと他界で幸福や快楽を得ようとしたわけではない.一度も行ったことがないはずなのだから.

 私達は彼らの出発の理由に脱出の願望を見出す.識者の言葉を借用すれば、「欣求浄土」に先行する「厭離穢土」の一貫性というようだ.「厭離穢土」(おんりえど)は此の世を厭い、地獄を恐れること.「欣求浄土」(ごんぐじょうど)は死後極楽浄土へ往くのを願うことをいう.どういうことだろうか.それには日本における共同社会の特色を確認しておこう.ムラ社会の占有する土地の境界が明瞭であること、社会的にもムラの内に住む人と外に住む人との差別が強いこと、ムラの空間が外に対して閉鎖的であることが主な特徴とされる.

 ムラ社会のような共同体は構成員の安全を(建前上は)保証するが、成員個人の自由を極度に制限し、その圧力は日常生活のあらゆる局面に及ぶことがある.個人にとっては耐え難いほどに窮屈なものである.共同体や集団の習慣が制度化され厳密に組織化されたのは17世紀以降の幕藩体制および天皇制官僚国家のもと急激な工業化過程にあった社会であったとする指摘がある.共同体は農村から会社、日本国に及ぶ.共同体の境界は明瞭で出入りは困難である.集団の統制力は厳格で、逸脱には制裁を備える.共同体の内部にいる人員は誰もが満足することはなく、ひたすら鬱憤がたまるほうが自然であろう.不満の蓄積は想像に難くない.潜在的な不満の爆発的表現は、集団的伊勢参りである「抜け参り」「お蔭参り」が挙げられるようだ.これは一時的な脱出と考える.だが脱出してどうする? 伊勢に行っても結局はトボトボ戻るほかない.祈祷してもご利益はすぐには機能しない.伊勢は理想郷でもない.アマテラスの聖地ではあるが.異世界とは違う.

 「今」ここからとにかく脱出することが重要である.「欣求浄土」に先行する「厭離穢土」を私なりの言葉で言えば、

 「嗚呼、うちの職場に隕石でも落ちてきたりして壊滅的になくならないかなァ、こんなところもう嫌で嫌でしかたない.家に帰ってもどいつもこいつもギャーギャーうるせえし.休日はやることないし、クタクタだし.寝るだけで休みは潰れる.もう終わりにしてぇ(終わらないのは知ってるけど).それかいっそ消えてしまいたい、ふわっと煙みたいに……どうなってもいいからサ」

 余計わからないという指摘をいただくかもしれない.つまり、「この現実は窮屈で退屈で汚らわしい、(天国とかどうでもいいから)とにかく此の世から逃げたい」ということだ.

 この脱出願望は現状に苦しんでいる人にとってきっと共感的だ.どんな世界に脱出するかはわからないが、浦島と盧生の例からすれば、空間的に現世から可能な限り遠ければ良く、時間の流れ方も現実と異なれば良い.さてどうしようか.

もう少しつづきます.