「記憶/物語」を読んで 1

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 出来事、歴史、記憶と物語、これらを理解すること、語り継ぐこと

 私が中学生の頃、夏休みを直前にした暑い日の体育館で全校集会があった.それは「太平洋戦争」に関する講演会で、1945年6月の沖縄戦を生き延びた女学生であった方が当時の<記憶>を語るという、思えば貴重な機会であった.私は何となく近代史に興味が湧いてきた年頃なのか、沖縄戦について、生き証人自らの当時の話を聴くということにかなり期待していた.そういう生徒が他にいたかどうかはわからないがきっと少なかったのではないかと思う.というのも、暑い体育館で一時間超も知らないおばあさんの昔話を聴くと思えば、聞くに堪えないだろう.寝ていた人はいた.だが私は彼らを非難するつもりは無い.私は自分の好奇心を満足する目的で傾聴したのであり、凄惨な地上戦の酷さに多いに共感したものの、ただ好奇を満たす方が優先されたのだと思う.よって私は特殊な例かもしれないが、講演会の本来の趣旨に沿わない一生徒であったことを認め、批判する立場に無い.むしろ戦争の証言に無関心でいる方が、沖縄から遠く離れたとある公立中学校の生徒としては、多数派であったかもしれない.平穏な日常を享受する平成の生徒が夏休みを心待ちにする状況と、半世紀以上前に同じ少年少女だった彼らが、同じ夏、塹壕の中、無慈悲な玉砕指令により手榴弾を手渡されるという、諦観と絶望する状況との乖離が凄まじすぎるのだろうか.

 ただ、過去にこのような惨劇があったことは皆記憶するべきであり、知る機会を公共の場を通じて与えられるべきだと私は考えている.だがその機会をいつ設けるかは難しい課題なのかもしれない.個人的には義務教育の期間に行うのが適当のように思う.時が経つに連れ、時代の生き証人は次第に天寿を全うしてゆくから、証言を依頼することは、もし承諾が得られたとしても本当に希少になってくる.今年で戦後75年である.

 なぜ、あの戦争が起きたのか.この問いに対して丁寧に回答できる人は少ないのではないか.なぜ、戦争を繰り返してはいけないのか.これも合理性を以て説明できる人は限られているように思う.日本では6月、8月になると、あの戦争を二度と繰り返さないように、と戒めの言葉が報道される.毎年慰霊の集会が行われ、追悼の式典が伝えられる.追悼は喪の作業である.戦争に巻き込まれた人の死を悼む、普遍的な癒やしのプロセスである(英霊を参拝する、とはニュアンスが異なる).これらを報道するのは別に良い.伝えるべきは「主に6月23日、8月6日、9日、15日に人々が祈る行為が示す、小さな声の「物語」に耳をすますこと」では無いのか.なぜ、国民総動員で戦争を駆り立てる不条理な<出来事>が行われたのか、私はこどものときからずっと疑問に感じていた.一応の論理と通史は理解したが社会の授業ではそれ以上のことはよくわからなかった.期待していたわけではなかったが、夜7時のニュースも教えてくれなかった.ニュースはいつも事実らしいことを淡々と伝えるだけである.

 「戦争をしてはいけません、戦争を繰り返さないようにしましょう」、わかったわかった、だからなぜいけないのかを教えてくれ.「悲惨だからです」それはそうだが、知りたいことはそうでは無い.こどもの頃のわたしはそう思っていた.それは大人の常識だからなのか.常識だから伝えないのかと.後に私は夜9時のNHKスペシャルや、「映像の世紀」という他国合作ドキュメンタリーを観ることで映画から暗に示される、戦争のおびただしい狂気から初めてそれを否定する理由を感じることができた.また、この<出来事>が実に深く入り組んでいる事態を知る.私は開戦に到る事由を語る難しさを知る.そして私は一連の<記憶>が次第に露と消えてゆき、物語の継承が上手く紡がれていないのではないかと考えた.

 さらに少し歳を重ねて、渡英したとき、現地のテレビで9月2日に見た朝のニュースは、戦勝国の立場としての「Victory over Japan day」を伝えるものであり、私は急速に寒気に近い、英国で居心地の悪さを感じた.「私はかつて敵対した国に今いて、私の国に勝利したことを未だに祝っているのか」と.私自身が直に触れた戦争の影はそれが初めてであったのかもしれない.私の曽祖父が満州に従軍したこと、祖父が尋常小学校で「畏き辺り」に対する不敬をを罰せられそうになった逸話、別の祖父が海軍航空隊を志願したが海軍兵学校の試験に不合格であったような話を耳にする程度であった.世代が進むにつれて、語られる話は信憑性が薄く、内容が短く、あっと驚くようなオチか、「何処其処に行った」という記録のみになってゆく.実の家族の記憶さえも風化してゆくのだ.

 私は日本近現代史を専門とする加藤陽子氏をはじめ様々な人々の書物で、上記の問いを理解しようと試みた.確かに氏のある著書は私の抱いていた疑問と同じ問いかけをしている.高校生と同じ目線に立って、或いは「自分が戦時中の官吏の立場だとしたら」という条件仮定に基づいて論考を進めている.かなり久しく時間が経ってしまったのでどんな内容か詳細に述べることはできない.だが、歴史的事象をなるべく当事者と同じ等身大の目線で捉え、どのように重大な局面での意思決定を為したかが推し量れる興味深い著作であった.

 書籍を読み進めていくうちに、極めて専門性の高い人物による、多数の文献と賛否両論の先行研究に基づいて記された著書に対して、(当然かもしれないが)真っ向と対立し、ときに辛辣な意見を述べる有形無形の存在が一定数いることに気づく.それは大きな声であり、決して無視できない勢力である.もちろん耳を傾けるべきではある.こうした声は南京大虐殺、従軍慰安婦といった負の<出来事>に関してもこだまする.そのようなことはなかったのだ、それは各々の任意で行われたのだ、もはや過ぎたことなのだ、と.歴史修正主義、記憶の風化、過去の清算.様々な用語が脳裏をよぎる.私達は「歴史」という一本の線を歩んできたと思えば、振り返ると二本、三本と沢山の線の軌跡があるように見える.一体私達はどの線を歩いてきたのだろうか、さきほどまで信憑していたはずの「物語」が疑わしくなってきてしまいそうになる.自尊心を煽り、過去から現在の自国の尊厳を保とうとする声、たどってきた線の正当性を高らかに述べる声が鳴り響く.それらはときに聞き心地が良く、魅惑的でもある.私は妖精の声に釣られて森林を逍遥する旅人か、セイレーンの声に誘われて航海する彷徨える船乗りか.

 急転直下の如く、突如何もかもがわからなくなってくる事態に陥った.私は歴史や物語、伝承を一体どのように理解したら良いのか.<出来事>を生きた証人の高齢化と減少、世代を経て薄れてゆく記憶、それに伴い枝分かれする物語.なぜ<出来事>が起きたのかを理解するには、物語の伝承を語り手の意思に忠実に行う方法についても考えなければならなくなる.忠実に行う方法があればの話だが.


 私は、岩波書店から出版されている「記憶/物語」(著者:岡真理)という論説を読んだ.(無論、妻の本である)この論考は2000年に書かれたもので、私が手に取っているその本は2014年に第14刷が発刊されたようだ.広く長く読まれている証左なのかと思う.110数頁の読み物で、じっくり考えながら読むには良い分量であった.私にとって上記のことを考える好機となった.

 彼女の考察は、レバノン郊外にある「タッル・ザアタル」(Tel al Zaatar(مذبحة تل الزعتر))、(香辛料の)タイムの繁れる丘と呼ばれる地域で、1976年8月12日にパレスチナ人虐殺が起きた<出来事>から始まる.その<出来事>を綴ったパレスチナ人作家であるリアーナ・バドル(Liana Badr(ليانة بدر))の小説「鏡の目」(The Eye of the Mirror)を読んで浮かんだ疑問を彼女は述べる.そして以下のような問題提起を行う.

 <出来事>の記憶を分有するとはいかにしたら可能だろうか.<出来事>の記憶が他者と分有されるためには、<出来事>は、まず語らねばなるまい.伝えられねばなるまい.<出来事>の記憶が、他者と、真に分有されうるような形で<出来事>の記憶を物語る、とはどういうことだろうか.そのような物語は果たして可能なのか.存在しうるのか.存在するとすれば、それはリアリズムの精度の問題なのだろうか.無数の問いが生起する.

 さまざまな<出来事>をめぐって、私たちが記憶の抗争のただなかにおかれている現在、<出来事>の記憶の分有の可能性について考えることには、クリティカルな意味がある.以下の小論で、これらの問題の一旦について考えてみたい.

 分有するという動詞は、一つのものを皆で分かち合って所有するという意味である.こうした彼女の問題提起は私にとって大いに刺激であり、解決ができるかどうかともかく、これら諸問題に対する考え方を見つめ直す絶好の機会と考えたのであった.

小論はもちろん続きます.読んでくださってありがとうございます.

私の時間論:序

 ようやく取り組んでいたG. W. F. Hegel(ヘーゲル)の歴史哲学講義を読み終えようとしている.人間の精神が自由に向かって進んでいく過程が世界の歴史である、という彼の考えはその後の歴史哲学を推し進めてゆく一つの偉大な動きだと思う.精神が自由を求めて成長する冒険譚という筋書きは私の好奇心ををくすぐる.しかし私にとっては結局精神とはなんだろうかということが気になっている.以前記事にした、P. Valéry(ヴァレリー)と精神についての拙い私見はHegel(ヘーゲル)後のものなので、彼が精神をどう捉えているかは、別の著作を読むことにしたい.

 彼の歴史観は人間が自由を求めて前進してゆく、歴史的人間中心主義である.これは「日本文化の時間と空間」(加藤周一著)にも言及されている.つまりは近代ヨーロッパの歴史意識を生んだユダヤ・キリスト教的な時間の捉え方をしている.天地創造から始まり、世界の終末を述べる.時間は始めと終わりがある線分、一回限りの有限の非可逆的な時間経過をたどるという.有限の時間はその全体を考え、見透かすことができる.歴史的出来事の意味は過去・未来の出来事との関係において決定される.時間は構造化され、特定の終局へ絶えず前進してゆく考えは目標へ向かう運動としての歴史という観念に結びつく.これは”Exodus”「出エジプト記」に代表されるという.イスラエル人がエジプトを出て約束の地に建国したことは、彼らが彼ら自身の自由意志で選択したことにほかならない.歴史は人間の自由な決断の結果であるとする.イスラエル人は歴史記述の関心を歴史の目標と歴史的出来事の間の関係に注いだのである.この時間概念は現在のヨーロッパ世界の下地となっていることに私は驚いたのであったが、時間の類型に関する彼の著述を読み進めていくと、さらに私の狭量さが浮かび上がる.時間の類型はいくつかの概念に分類して考えられるという.

 一つは上に述べた、有限の線分を前進する時間である.二つ目は、古代ギリシア人による円周上を無限に循環する時間、三つ目は古代中国での無限の直線を一定方向に流れる時間、第四は始めなく終わりある時間.弥勒信仰による一種の終末論が挙げられる.第五は始めあり終わりない時間で、唐代の中国で現れた末法思想に基づく考えである.

 どれもそれぞれの文化的背景に沿った怜悧な分析である.では実際のところ私達はどんな時間の中に生きているのだろうか.私は高校物理学でニュートン力学を学んだ.この力学はユークリッド空間で規定され、時間は過去から未来へ均一に進む.数学においても時間は均一に進行するものとして取り扱った.でなければ到底私では理解できなくなってしまう.相対性理論は知識として知っている.光速は不変の速度であるから異なる慣性系では時空間が歪む.日常の物理学で光速に近い速度のものは想定しないから近似してニュートン力学を用いてよいことはおおよそ分かる.だいたい地球に住んでいる人にとっては時間の進み方は均一なのであろう.ただ時間の始原と終末については言及がない.言及がないのは当然であろう.任意の時間を考えれば問題は設定できるのだから.よほど凝った問題を作る場合を除く.しかし、始原は気になるだろう.始めが気になる人は終わりも気になるだろう.始めに関してはビッグバン(膨張宇宙説)のこと、というのはおそらく教養として広く知られていると思う.では終局はどうなのか.A. Augustinus(アウグスティヌス)に言わせれば「私は知らない」.知っている人は極めて少ないと思う.確信の水準で知っている人は何か深刻な問題を抱えている可能性がある.私にそっと教えてほしい.

 私達の暮らす世界の時間がどのようなものかよくわからない以上、歴史の記述もそれが本当に正しいのか、ちょっと怪しくなってくる.いや、決してオカルト的話に帰結させたいのではなくて、私達がごく当たり前に思っているであろう、「時間は過去から未来へ直線を前進する流れ」が至極受け入れやすくて、説明も容易すぎるのである.感覚的に正しい感じはする.いい香りのするご飯は美味しいに違いないという直感と似ている.フェラーリのつくる新型V型8気筒エンジンは素晴らしい音を奏でるに決まっているという感覚でもある.薫香を黄昏に溶かす葉巻の味は格別なのかもしれない.しかし、当たり前のことを少しうがった見方で捉えてみるのが私の癖である.ただこうした疑問に取り合ってくれる人は少ない.そもそも問題提起できる場所も少ないように思う.「いいからさっさとご飯たべちゃいなさい」「そういうのいいから仕事終わった?」「でも君は〇〇卒だよねぇ、それじゃあいくら考えてもだめさ」「吾郎クン、変わってるよネ」そんなことを言われる気がしてしまう.話を戻す.では、循環する時間を考えると説明しやすいものはあるか.天体運動や四季の移ろいがある地域では説得力があるかもしれない.循環するのに円運動である必要はあるか.楕円か.富士スピードウェイのような複合する曲線か.ボロメオの輪でもいいじゃないか.歴史は繰り返すという言葉もある.栄枯盛衰、盛者必衰の理.火葬場で燃えた私の遺骨は埋葬されてから大地の微生物によって分解され、土壌を豊かにする.新たな生命の糧となる.これでは輪廻になってしまう.しかし輪廻では歴史を記述することは難しそうである.できなくはないが手塚治虫くらいである.何を言いたいのかわからない方はぜひ「火の鳥」をご覧になってほしい.兎にも角にもあらゆる事象を一元的に説明できる強い言説が必要だ.私の頭の中も駄菓子の超ひもQが絡み合ってしまうかのようにこんがらがってしまった.

 こういうときはどうするか.とりあえず寝るに限る.その後に新しい著作を読んで知識を得る.できれば議論をする.ということになりそうだ.このテーマはシリーズ化してみようと思っているので、自分なりに理解を深めてから思考を整理すべく文章に出力したい次第である.次作にご期待頂ければ幸いである.