ファントム空間論の応用性についての検討

brown pendant lamp hanging on tree near river
Photo by Rachel Xiao on Pexels.com

まえがき

 前の記事で、私は統合失調症に関して沈黙することにした、と述べた.だが疾患の内容や治療方法にはあまり触れず、別の形でファントム空間を取り上げることはできないか、と私は考えた.以下はその言い訳と、これからの抱負である.

 近年、統合失調症は罹患数が減少しているだとか、病勢が弱まっているという指摘がなされることがある.事実かどうかはともかく、それは実臨床でも感じることは多いかもしれない.最近の傾向は気分障碍、不安障碍、発達障碍、認知症、物質使用障碍(アルコール・違法薬物等)なのだろう.だからといって統合失調症の治療がおろそかになってよいわけでは決してないのだが、他に考えなければならぬ疾患群が極めて多様である、ということで良いと思う.

 精神疾患は社会と密接な関わりがあることは多くの指摘がなされている.社会のあり方を無視して疾患の総体を掴むことはできないだろう.流行り廃りがあるといえばやや語弊があるが、発達障碍への関心は年々強まっているし、「自分が発達障碍なのでは」という関心をもって、診察室を訪れる人は多い.

 精神病理学的な考察には、発達障碍圏は自身への志向性に無関心である一方、統合失調症圏は志向性に敏感であるというものもあり、それはなるほど明快な要素ではある.だから自身の志向性に無関心である傾向が多い人々がはたして発達障碍なのかというと、直観ではあまりそんな感じはしないのだが、実際に心理学検査を行うと、有意なDiscrepancyが指摘されることはしばしばである.

 また、先輩の医師が「発達障碍か統合失調症かもしれない」という申し送りや紹介をするとき、「一体どういう文脈で言っているんだ」という疑問を持たざるを得ないことは頻回であった.どうも専門の中でも考えの混在あるいは、区別のついていない医師がいるようである.教科書的な区分が通用しない症例がいるのは重々理解しているが、基本的な症候がわかっているのかどうかアヤシイ先生がいるのは嘆かわしいことだ.

 キーワードとなるのは何らかの「敏感な状態」であるのかもしれない.体系だった幻覚妄想状態はあまりないが、発達障碍圏でも幻覚妄想状態が示唆されることはあるし、いわんや統合失調症をや、である.外界とのつながりが突如断絶し、周囲の世界が大きく変容した感覚を得るようだ.こうした感覚は妄想気分、妄想知覚として説明される.

 とある若い人が目をギラギラさせて、

「アマテラスオオミカミが勅命をくだした声がわたしだけに聞こえるような特定の音声周波数を通して聞こえたのだ!わたしはヨモツヒラサカからイザナミノミコトを帰還させてニニギノミコトとして国産みをすすめるのだ!」

 とかなんとか言っているのは、一次妄想から発展してある種体系だった妄想である(上記は私がつくったデタラメだが).

 一方で、真面目な会社員が次のように言ったとする.「仕事に行くとどうも会社の職員がヒソヒソ話をしている.よく聞こえないので話の内容はわからないが、おそらく私のことに決まっている.私の会社でのミスを知っていて、皆が私を嘲笑し、非難しているだ」というものは、状況によっては、理解できる愁訴である.こうしたものは二次性妄想として、妄想知覚と区別される.

 現象学的な知識を動員してみると、前者は突発的な意味不明な内容について確信している可能性を考える.本来、絶対的所与性である「内在」に深刻な機能不全・機能失調が起きている恐れがある.道端に咲く花をみて、「あれはうんこです」という人はなにかの酷い冗談か深刻な確信形成の病理を抱えていると思う.

 後者の方はある程度合点がいく内容である.周りが話をしているのを見て、「自分の話をしている」という理解が正しいかはどうかとして、「話をしている」という知覚は妥当のように思う.だが、それが自己を巻き込んだものかどうかは、状況によりけりだが、かなり疑わしい.これも「内在」に部分的失調があるのだろう.やはり確信形成に問題があるものとして妄想は存在する.

 最近は、テレビのワイドショー、一般人のインタビューなどで個人が自分の空想を語ることを「妄想する」と言うことを耳にする.

「もし宝くじがあたったら一生働かないですむ妄想しちゃいますよね~」

 これは妄想の使い方として正しくない.妄想は空想ではない.妄想は簡単にいえば、「訂正不可能な確信水準の言辞」である.とはいっても、こんなことを真面目に指摘して論破したつもりになるのは非常に痛痛しい人になってしまうのはよくわかっているので人前ではこうしたことは言わないが、私はそう思っている.

 だが、妄想という言葉が誤って広まり、妄想の語義が弱まったと考えると、妄想が世間に親和的になったのかもしれない.妄想の民主化といったらよいのか.前に私は、精神疾患は社会の動きと密接だと述べた.こうした言葉の捉え方の変化が一つの病勢の弱まりに関係しているのではないかとこっそり思っている.決してこの考えを確信しているわけでないことはご理解いただきたい.

 さて、私は社会のもう一つの趨勢として「敏感さ」があるのではないかと思っている.勿論、統合失調症には特有の敏感さがあるのだが、私の言いたいのは疾患とは言えないまでも、「繊細さん」や「Hyper Sensitive Person/People」と呼ばれる人々のことである.どちらかというと、先に挙げた例の後者である.こうした悩みを抱えている方は大変多いのではないか.何しろ書店にいけばこうした「HSP」関連の書籍がとても多い.インターネットの特集やコラムでも「HSP」に関する記事を目にすることもある.

 私も割と、「Sensitive」(敏感)な人種だ.HSPの定義は今後の記事に譲るが、私はこうした「繊細な人」がとても困っているのではないか、生きづらさを感じているのではないか、と常々思っている.

 私はとてもとても膨大な理論を提唱する知恵もなければ経験もないので、大それたことはできないのだが、かつての統合失調症の論理的精神病理であるファントム空間論がその理解の助けになるのではないかと考えた.一体お前は何を言っているんだ.これは統合失調症の病理じゃないか、という批判はあるだろう.それは別に良い.そんなことは知っている.だが、ファントム空間論は、人が取りうる心的距離のことを広くいう仮説である.心的距離、心の間合いとでも言おうか.心の距離感の学問仮説といえば、統合失調症に限らずとも学問的理解を経て、他の心的問題に関する理解に応用できるのではないか.

 少し学問から離れた話をしてみよう.

 「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ・映画を観た私は、エヴァンゲリオン初号機と第四の使徒「サキエル」が死闘を繰り広げるのを観て、「これは心と心の距離感の比喩ではないのかな」と素人ながら感じたものである.特に初号機が使徒の「A.T. フィールド」(絶対不可侵領域・絶対恐怖領域)を破って攻撃する描写は十代の青少年に対する暴力的な心の侵入をよく描写したもののように思った.A. T. フィールドの展開範囲や強度は、ファントム空間論の理解の助けになりそうである(と思ったのだ).

 よってこうしたアニメ作品も積極的に援用して自分の考えを述べてみたい.エヴァンゲリオンに興味のある方は勿論、自分が「HSP」ではないかと思う方、様々な「敏感さ」に思いをはせている方にとって、少しでも安らぎの場となればと思い、私は前回の記事を一部撤回し、ファントム空間論の応用的解釈を目指すこととする.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.今後も興味をもってくだされば幸いです.これは長期連載の予感……!?

赤の現象学:III

 一ヶ月ぶりに現象学の話をすることになる.そしてこの記事は亀吾郎法律事務所の50回目の投稿である.当事務所の記事は徐々に一記事あたりの字数が5000字を超えるようになり、原稿用紙12枚に相当する.そう考えると読者はゲンナリするかもしれないが、亀吾郎法律事務所はいつでも開かれているので、読む気になったときにまた立ち寄っていただければと思う.

 さて、前回前々回はFerrari F40の真偽の話から始め、コーヒーやワキガ、サウナの例え話をして、内在ー超越の理解に努めようとした.しかし、E. Husserl自身の思索が進むにつれ、内在ー超越の議論は深みに分け入ってゆく.理解を難しくするのは、内在における「実在的内在」、「構成的内在」の用語にあることを述べた.それから私自身、さらなる理解に努めた.参考書を買って読むこともした.原書の翻訳文を読むよりも腑に落ちる感覚は数倍早い.その参考書の著者はある大学の政治経済学部を卒業したと書いてあるが、肩書は別大学の国際学部教授を経て、さらに他大学の国際教養学部教授となり、哲学者を名乗っている.よほど哲学が好きだったのだろう.出た大学とその人物評価が一致しない好例かもしれない.どこの大学の何の学部を出たかというのはあまり気にしなくても良い.問題は何をしているかだ.かくいう私は何もしていないが.その人の著書は本屋でよく見かけ、哲学のコーナーによく居座っている.そんな無類の求道者が書いているのだから、入門には良いかな、と思って買った次第だ.もし気になる方がいらっしゃればお問い合わせください.竹田青嗣という方で、氏の名前は妻から教わった.妻の教養と優しさは底知らずである.いつもにこにこしながら私はあまり良くわからないから、と謙遜する.一生ついていきます!

 本題に戻る.まずは構成的内在からだ.参考書によれば、こうしたHusserlの理解には「確信」という言葉を補うことで理解が明快になるという.「確信」という言葉は我々医療者の中で、精神医学を主とする業者はビビッと来る(来ないかな?)我々が要請に応じて面接する方々は話題が現実と異なろうと、各々「確信」に基づいて話をすることがあるからである.これを専門的に「妄想」ということがあるが、それについては触れない.病的な確信形成とだけ言及してみる.何を以てして病的なのか、という問に触れないと私の気がすまないからである.加えて言えば、何を以てして、という部分が精神病理学の根幹に迫る問題を抱えているからである.

もし氏の言うように「確信」が現象学の理解の一助となり、学問そのものの本質を突くのであれば、これは勉強しないわけにはいかない.精神医学の学会誌などでも未だに現象学を素地とした議論が活発になされていることも納得がいく.

 前回の記事を再掲する.

例えば、貴方がまたもやコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されている老朽したコーヒーメーカーで作られた酷いコーヒーを性懲りもなく飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとって選択はこれしかない.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、実はコーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る暗褐色の液体.カスのようなものが浮いている.暗褐色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、暗褐色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.

 前回はここで、ん?となった.これを次のように捉え直す.「超越」というのは「内在」において構成される「大災害級のコーヒー」だという意識を、単に意識ではなく、「厄災に等しいコーヒー」だという確信の意識と定義する.(一体どれだけ不味いんだろう、そのコーヒーは)

 確信を持ち込むことで、世界の構成のありようを観取するということは、私達が「内在」において如何にして「対象の確信像」を構成するか、これを解明することである.すなわち、「確信成立の条件」を解明することといえる.

 一切の認識は「内在」において構成される確信である.これは疑いようがない.自分の意識にそういう対象が与えられているという確信.確信不可疑.だからといってもそれが、実在するものに一致するとは限らない.だから上司に次のように釘を刺される.

 「いいかね、君がいつもまずいまずいと言っている液体だが、あれは一応、社の費用で贔屓の珈琲店から仕入れている歴としたブレンドコーヒーなんだ、私も社長も旨いと思って仕入れているんだ.君はそうやっていつも嫌味をいうが、何か他に言いたいことがあるのか.仕事でもそんなこと言ったら承知しないからな」

 自分がどんなに壊滅的な味だと思っていても、実在に一致するとは限らない.周りがどんなに美味しいとありがたく感じていても、自分にとっては、暗褐色の液体のおぞましさを「信憑せざるを得ない」悲劇である.しかし、「主観にとって、対象の実在が不可疑なものとして現れる」という「確信条件」を抽出することができるかもしれない.豆からコーヒーを抽出するのではなく.「確信成立の条件」の鍵はここからはじまる.

 貴方が目の前に映る、特異な深紅の自動車を見たとする.歩道でちらっと見えただけなのでじっくり見て回ることはできない.しかし、我々の内在意識には、ありありとした「2座席ミッドシップレイアウト」や「甲高い音を放つV型8気筒エンジン」、「彫刻の如く削り出されたような吸気孔」「跳ね馬の紋章」などという構造をもった像が与えられるならば、我々はそれをFerrariなのではないか、と感じ、その知覚像を、現実に存在する像と信じざるを得ない

Ferrari 488 GTBと知覚される像を、右から左へと駆けてゆく姿を認めたと仮定する.

 さらに、駆体が走り過ぎる姿を見るとき、可視範囲は次々と連続的に変わる.見える姿は当たり前だが変わっていく.部分部分を徐々に、次々と新しい局面を以て対象性を保ちながら知覚する像を与えられる.側面から後面へと.こうも知覚してしまうと(というのも変だが)一定の条件を与えられると、「信憑せざるを得ない」ことがわかっていただけると思う.もちろん、いくら信憑せざるを得ないとは言っても、実際に駆体が実在に一致することはありえない.確信に過ぎないのだから.それにずるい言い方だが、488GTBだと思ったら実は488 Pistaかもしれないし、F8 Tributoあるいは SF90 Stradaleかもしれない.以上は、「確信成立の条件」の解明の序章である.これは、「私」が対象を客観事物と信じる条件=主観的確信の条件解明に過ぎない.

 次は私だけでなく、ほかの人も、通り過ぎる車体が488GTBだと信憑する条件を解明しないとならない.もう少し、仰々しく言うと、「他者もその対象を客観存在と信憑している、と私が確信すること」である.これを用語に換言すると「間主観的確信」の条件である.

 こうした考え方をすると、「超越」という強力な「確信」がなぜ成立するのかわかるようになってくると、Husserlはそういう.へぇ……すごいっすね……

 過去の記事を踏まえて話を続ける.一般的に、「どんな学問でも、それ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのではなかろうか」という考えがある.つまり、どんな学問でも客観存在=認識が成り立つという図式を目指すことで、認識問題を解明できるだろうという考えだ.少なくとも自然科学は客観存在=認識を前提として議論をしている.人文科学ではそうは行かない.いわんや哲学でもだ.何もかも役に立たない.以前もこの話をした.私達が議論してきた話題のうち、「意識」する領域というのは、「万物流転」panta rhei的な領域であると言う.そこはあくまでも、主観的、間主観的な領域なのだから、結局「主観的妥当性」しか得られないのではという疑問が生じる.よって、この領域において妥当な学問的判断がいかに獲得されるのかという問題も生じる.

 考え方をつぎのように変えるのが理解のコツらしい.

 「知覚がどのようにして超越者に的中しうるか」ではなく、「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」をまず考える.主ー客の図式をやめようというわけだ.「絶対所与性」とは内在意識の中で確認される個別的な直観だけなのか.「知覚」「想起」「想像」の直観だけが「絶対所与性」なのだろうか.そういうわけではない.繰り返しで恐縮だが「内在意識」の内省によって、個別的な直観だけでなく、さまざまな「意味」のありよう、「普遍性」も絶対的所与として与えられている.上記の写真を例に考えると、Ferrariの車体の「知覚」を内省して、その特質を捉え、それを判断し命題化する.「あれは一台のFerrari 488 GTBが走っている姿だ」と.命題は「○○は○○である」ように一つの論理形式をとる.もちろんそこには「意味性」(普遍性)を観取するが、個別な意識作用から「超えたもの」でもある.一種の超越たる所以はここにあるようだ.普遍性故に超越の性格を持つものの、構成的内在はやはり絶対所与性である.理由はすぐに後述する.

 「現象学の理念」において、Husserlは「構成的内在」を「志向的内在」ということもある.うわ、めんどくさいな……

 どんな認識体験でも、「志向的対象」を持っている.仮に貴方が、誰かに唆されて高級輸入車を取り扱う車屋さんを訪れたとする(無茶な設定だ).オーデコロンを塗りたくりピチピチのスーツを着た従業員が、こちらの車は素敵ですよ、などと適当なことを言い出す.貴方は下の図のように何台かの車を見ている.赤というのは色に関する個的な知覚であるが、「少し朱色に近いのがRosso Corsaという色です」「鮮やかな発色がRosso Scuderiaです」という説明を受けると、貴方は「ふーん」と思いつつ、これらは兎にも角にも赤だよなという意識が伴ってくる.これは構成的内在である.普遍的意味を持つからだ.さて貴方は二台の車を見て、二台の塗装色の差異に気づくが、これらが、Rosso Scuderiaだの、Rosso Corsaだろうと、そんなことはともかく、「」である.セールスの紹介にこだわらず、「赤」という一般的・普遍的なものに還元する.なぜこれが絶対的所与性なのか.

Rosso Scuderia
Rosso Corsa

 確かにセールスに言われてみれば、色は違うなぁ、でもどっちも赤だよね.という直観が働く(はず).二者は違うが類似していると、直観するのである.これは、類似本質の直観である.この認識は実的な要素とは言えないものの、直観した「ピピッときた!」のであれば「絶対に与えられている」というしかない.くどいようだが、これらの車の客観的実在に関して言えば、どこまでも疑わしさを持つ.実は偽物だった、とか、光の具合でそう見えてしまっているだけかもしれないからとか、夢オチという酷い結末もありうる.だが、これまたくどいが、「内在」の直観として考えれば、これは不可疑なのである.

 では、志向的内在は何なのか、といえば、Husserlの著書には、次のようにある.個的な知覚(赤、V8のエンジン音、跳ね馬の紋章など)にともなって現れる対象の全体像を示す.「これはFerrari 488GTBだ!」というときの「Ferrari 488GTB」が志向的な「対象性」であるという.志向的対象性は動かし難く意識に与えられる点で、絶対的所与性である.現象学において、「実的内在」を経て「志向的内在」に至る関係構造が重要となってくる.

 上記に述べたような方法は現象学的「本質分析」である.認識探求の本質学として現象学はある.意識の本質構造の観取をイデアツィオン(イデア化)とHusserlは呼んだ.

 さて、肝心なことは「絶対的所与性」がどこまで及ぶのか、ということである.実的内在だけでなく、構成的内在も絶対的所与性に入ることは確認できた.それで十分か、といわれればそうではない.ひえっ.例えば、コーヒーに関連して、①「暗褐色」を知覚する場合(知覚作用)もあれば、②知覚せず「暗褐色」について論じているだけの場合(表象)、③自分の暗褐色の知覚直観について口述する場合(陳述)、④さらに直観のあり方の特質を本質的に観取して把握することもできる(イデアツィオン).

①給湯室で淹れたコーヒーを見たときに、「うわぁ暗褐色だ…」と知覚するときの暗褐色

②コーヒーを見なくとも、会話で職場の話題が出たときにふと、思い浮かべてしまうときの暗褐色

③自分にとっての暗褐色とは、どういう知覚体験であるかということを帰宅してから妻に説明する(聞かされる方はたまったものではない)

④毎晩就寝時に独り暗褐色についてひたすら内省し、ついにイデアツィオンしてしまう

 どれも酷だが、意識対象は暗褐色である.同じ対象であっても異なった所与性がある.必ずしも所与性の例は四つだけではない.我々に明証的な所与性として現れる対象は無数にあるだろう.所与性の違いが、経験において、普通の知覚体験なのか、表象なのか、陳述なのか、知覚一般の本質把握なのかという区別を我々に示す.私達はこれらを難なく区別している.だからこそ我々は現実でなんとかやっている.私達はこれら区別の仕方を言葉にして説明するのはかなり難しいが、自分自身に確かに与えられているという揺るぎない感覚において確信し(内的根拠)、区別できているのだという.

だが、もしこれが何らかの機能障碍によって所与性の内的根拠が失われたり、機能失調に陥るとすれば、我々が言うところの精神疾患に当てはまるかもしれない.繰り返しになるが確信形成の条件を解明するというのは、必ずしも哲学の領域だけで有用なのではなく、精神医学の一部の領域(精神病理学)においても有用なのだ.

 さて、「内在」ー「超越」という図式の理解があれば、「客観存在」とは実は内在において形成された「対象確信」であったと気づく.もはや主ー客の図式は不要だ.「確信」として我々に所与されるのは「内在」における所与性に応じた「志向性対象」として構成されるからである.所与性のありようによって、「対象確信」の像が作られる.Husserlはなんとかして、「確信」の根拠として「絶対的所与性」の概念を規定しようとしてきた.「絶対的所与性」が厳密な認識の基礎というわけでもないことがわかってきた.認識が妥当なものであるか、すなわち、普遍的な認識と呼べるには、どのような条件があれば良いのか、それを解明することが要諦である.

 まだもう少し続きます.おそらく次回で最終回になると思われます.次回は間主観的な確信条件について.

 50回を記念し、ここで改めてお礼申し上げます.いつも読んでくださりありがとうございます.主な読者は日本の方ですが、米英仏独豪伊露中といった海外の訪問もちらほらいらっしゃって嬉しく思います.岡倉天心効果は間違いなくあるはず.日本語だけでなく多言語で亀吾郎法律事務所の理念を紹介できればと思っています.

今後ともご贔屓いただけますよう、よろしくお願い申し上げます.