「記憶/物語」を読んで 2

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 出来事の暴力性、人の無力さ

 小論は前回の投稿の続きになります.未読の方はこちらからご覧ください.

 彼女の論説は二部構成であり、第一部は「記憶の表象と物語の限界」を題する.各部は複数の章からなる.一章は、記憶が「私」という主体が思い出すという能動的作用として表現され、過去の出来事を随時取り出しては参照する記録装置のような心象をもつが、時として記憶は、或いは記憶に媒介された出来事が、「私」の意思とは無関係に瞬時に飛来してくる性質を述べる.この突然の到来に対して「私」は徹底的に無力で、受動的で、制御不能なものとして、自身に襲いかかってくるものでもあるという.この場合、出来事は記憶の中で生々しい現在を生きている.記憶の回帰は根源的な暴力性を秘めているとする.

 その根源的な暴力性の例として、筆者はフラッシュ・バックという現象を挙げる.これは記憶に媒介された暴力的な出来事が想起され、現在の時制において生起する状態である.その瞬間、あのとき感じた自身の感情・感覚が投げ出され、暴力性にさらされる.どんなに忘れたくても.覚醒剤の後遺症として、心的外傷の傷跡として、自閉症スペクトラムの人々にとっても、瞬時の回帰は容赦ない.

 思い出してしまう、回帰する記憶の暴力性の被害者として、日本軍の「慰安婦」とされた女性の体験について岡は述べる.女性らはかつて自分らが被った一連の暴力的な出来事を記憶の回帰とともに、現在形で追体験しているのではないか、と筆者は考察する.もし仮に、明示的な言葉で語ることので出来事が確定するのであれば、我々はすべてを言葉で語らないとならない.すなわち、語れないことは存在しないということになる.だが、先程の「慰安婦」であった女性らは確かに無慈悲な出来事を再体験する苦痛を耐えている事象に反してしまう.筆者は言葉の非万能性に気づく.何かを語ろうとするときに、それが根源的な体験であればあるほど、言語の徹底的な不自由さを感じるのであると.特に自分でも説明し難い体験を、既成の言語で片付けてしまうとき、その居心地の悪さを感じるのではないかと.なんだかしっくりこない感じ、である.両手に掬った砂が隙間からこぼれ落ちてゆくように、語られなかった余剰部分が沢山あるのではないか、と筆者は考える.この筆者の主張に私は強く同意する.

 語られなかった出来事の余剰部分、言葉では切り取ることができなかった余剰部分、出来事の切れ端、という表現を筆者は用いる.時間の経過とともに、これらの多くは忘れ去られ、言葉で語られることのみが出来事となるのではないかと考えるようになる.そして、出来事が言語化されるとき、それは過去形で示される.人が出来事を「過去」について馴致する(実に見事な言い回しだと思う)とき、すなわち人が出来事を過去のものとして飼いならすのではないかと考察する.

 筆者は「出来事が言語化されるとき、それはつねに過去形で表現される」としている.彼女の揚げ足をとる意図は毛頭ないことを断った上で、敢えて出来事を時制変化を用いずに表現することは、特に我が国の文学的物語(narrative)の特徴として、多いに知られているものである.日本語について述べれば、そもそも日本語の文法は現在、過去、未来を鋭く区別しない.

 心のうちに祈念して、目を見ひらいひたれば、風も少し吹よはり、扇も射よげにぞなったりける.与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ.

 上記は「平家物語」において、那須与一が沖の波間に揺れる小舟に差し出した扇を海岸から射落とす場面である.過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法ははるか以前から知られている.矢を放つ主人公の動作のみが現在形である.神仏への祈念と風の静まりから決定的行動へ移る描写の現在形は際立ち、その一瞬の光景を浮かび上がらせる.これは決して暴力的というわけにはいかないだろうが、一気に読み手、聞き手を引き込むという点で、強力な誘導である.強制力を持つわけである.

 一方、近代ヨーロッパ語の場合は、動詞の語尾変化や助動詞と動詞の併用により、出来事の過去・現在・未来を、文法的に明示する.その中でも厳格な文法から一定の緩みを見ることができる.以下の例文を示す.

Alors, une idée l’exaspéra. C’était une saleté que ces dames voulaient lui faire en se conduisant mal chez elle. Oh! Elle voyait clair! …

Émile Zola, Vuillaume, 1876

 その時、一つの考えが頭をよぎって彼女は激しく苛立った.このご婦人方は、彼女の家で無作法に振る舞って、嫌がらせをしたんだ.ああ、はっきりわかるわ.

Dora stopped listening because a dreadful thought had struck her. She ought to give up her seat. She rejected the thought, but it came back. There was no doubt about it. 

Iris Murdoch, The Bell, 1958

 ドーラは恐ろしい考えが急に頭に浮かんできて、会話に耳を傾けるのをやめた.私が席をゆずるのが当然だわ.ドーラはその考えを打ち消したが、再び考えは戻ってきた.譲らなければならない.

 上記はいずれも登場人物の意識にのぼった考えを描出した文である.仏文では自由間接話法(Discours Indirect Libre/Style Indirect Libre)とよび、英文では描出話法(Represented Speech)ともいう.こうした技法を意識の流れ手法(Stream of Consciousness Technique)と呼ぶようである.このような技法は伝達動詞の支配から自由になる話法であるが、時制は必ず間接話法と同様に照応を求められる.時制は自由にはならず、時制が日本語のように読者を現在へ引き込むのではない.読者・聴者の意識が、あたかも作中の登場人物の意識であるかのように、過去へ誘うのであろう.強い言い方をすれば過去へ引きずり込むのだろう.

 おそらく著者が「出来事が言語化されるとき、それはつねに過去形で表現される」と言ったのは、日本語の緩い時間的性質を理解しつつも、印欧語における時制が人を従属させる強制力を念頭においてであろう.それは彼女が別の章でH. Balzacの作品を紹介していることと無縁ではないだろう.

 余談であるがアフロ・アジア語族の一つ、アラビア語について言えば.私の調べた限り直接話法、間接話法は存在するようだ.しかし時制の一致は必須ではないという.文学作品において印欧語のような描出話法があるのかは私の知識不足で伝えることはできない.また、オーストロネシア語族のいくつかは、そもそも時制が存在せず、今日、明日といった語を添えて時間における所在を示すようである.各言語の文法的詳細に触れることは本旨から外れるのでこれ以上触れないでおく.ただ、言語によって、語り手と聞き手の間の引力の度合いが異なるのかもしれない.

 これまで述べた表現はあくまで文学上の技巧であり、作者ないし語り手が主体となり、主体が出来事を従えている場合と考える.主体は(文法上の制約の限り)、<出来事>を自在に扱えるように見えるが、やはり、言語が<現実>に対して本質的にはらみもつズレ(齟齬)のために、馴致、従属は不完全であると彼女は述べる.

 さらに、人と出来事の関係において、出来事が回帰する時の、人の徹底的無力さと出来事の圧倒的制圧力を考えれば、人が出来事を語るのではなく、出来事がそれ自身を人に語らしむと言えるのではないかと考察する.この点についても私は全く同感である.私が想起し、知覚した事物を表現しようとする時、それは言語のみに頼らなければならないが、心に残ったその心象をすべて表現しようとするには、言葉では到底太刀打ちできない.遠足や旅行から帰ってきた小学生くらいのこどもが、「みんなで◯◯に行ったんだ.とても楽しかったよ」と月並みな感想を述べたとしても大人がそれを聞いて嬉しく思うのは、彼らが言外に漂わせる幸福の余剰を、無意識に感じるからであろう.私達は知らずして出来事の雄弁さを知っているのである.しかし、その余韻を私達が正確に観取することはできないのは自明である.幸福な記憶は勿論、絶滅収容所にいたユダヤ人や、「慰安婦」とされた女性らが体験した出来事の際立った暴力性は、それが半世紀以上経ってもなお、現在の暴力として回帰する、そのような性質にあるという点にある.出来事と私達の生の時間は一致せず、回帰する出来事は時制が破壊されているという.故にその暴力性の深みを我々が観取することは難しい.だが、それが仮に我々が現在、生起している出来事であるとしたら、私達は語ることができるだろうか.暴力を受けている間、呻き声や声なき嗚咽以外、何を語れるのだろうかと、彼女は問う.そして次のように問題を提起する.

 暴力的な出来事の、それについては語ることができないという点にこそ、その出来事の暴力性の核心が存在するような、そのような<出来事>について、私たちは、いかにしたらその<出来事>の記憶を分有することができるのだろうか.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.筆者の問いに対して私なりに考えを落とし込めたらよいなと思っています.もう少し続けていきたいと思っています.