Rosso Ideation

 一ヶ月ぶりに現象学の話をすることになる.そしてこの記事は亀吾郎法律事務所の50回目の投稿である.当事務所の記事は徐々に一記事あたりの字数が5000字を超えるようになり、原稿用紙12枚に相当する.そう考えると読者はゲンナリするかもしれないが、亀吾郎法律事務所はいつでも開かれているので、読む気になったときにまた立ち寄っていただければと思う.

 さて、前回前々回はFerrari F40の真偽の話から始め、コーヒーやワキガ、サウナの例え話をして、内在ー超越の理解に努めようとした.しかし、E. Husserl自身の思索が進むにつれ、内在ー超越の議論は深みに分け入ってゆく.理解を難しくするのは、内在における「実在的内在」、「構成的内在」の用語にあることを述べた.それから私自身、さらなる理解に努めた.参考書を買って読むこともした.原書の翻訳文を読むよりも腑に落ちる感覚は数倍早い.その参考書の著者はある大学の政治経済学部を卒業したと書いてあるが、肩書は別大学の国際学部教授を経て、さらに他大学の国際教養学部教授となり、哲学者を名乗っている.よほど哲学が好きだったのだろう.出た大学とその人物評価が一致しない好例かもしれない.どこの大学の何の学部を出たかというのはあまり気にしなくても良い.問題は何をしているかだ.かくいう私は何もしていないが.その人の著書は本屋でよく見かけ、哲学のコーナーによく居座っている.そんな無類の求道者が書いているのだから、入門には良いかな、と思って買った次第だ.もし気になる方がいらっしゃればお問い合わせください.竹田青嗣という方で、氏の名前は妻から教わった.妻の教養と優しさは底知らずである.いつもにこにこしながら私はあまり良くわからないから、と謙遜する.一生ついていきます!

 本題に戻る.まずは構成的内在からだ.参考書によれば、こうしたHusserlの理解には「確信」という言葉を補うことで理解が明快になるという.「確信」という言葉は我々医療者の中で、精神医学を主とする業者はビビッと来る(来ないかな?)我々が要請に応じて面接する方々は話題が現実と異なろうと、各々「確信」に基づいて話をすることがあるからである.これを専門的に「妄想」ということがあるが、それについては触れない.病的な確信形成とだけ言及してみる.何を以てして病的なのか、という問に触れないと私の気がすまないからである.加えて言えば、何を以てして、という部分が精神病理学の根幹に迫る問題を抱えているからである.

もし氏の言うように「確信」が現象学の理解の一助となり、学問そのものの本質を突くのであれば、これは勉強しないわけにはいかない.精神医学の学会誌などでも未だに現象学を素地とした議論が活発になされていることも納得がいく.

 前回の記事を再掲する.

例えば、貴方がまたもやコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されている老朽したコーヒーメーカーで作られた酷いコーヒーを性懲りもなく飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとって選択はこれしかない.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、実はコーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る暗褐色の液体.カスのようなものが浮いている.暗褐色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、暗褐色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.

 前回はここで、ん?となった.これを次のように捉え直す.「超越」というのは「内在」において構成される「大災害級のコーヒー」だという意識を、単に意識ではなく、「厄災に等しいコーヒー」だという確信の意識と定義する.(一体どれだけ不味いんだろう、そのコーヒーは)

 確信を持ち込むことで、世界の構成のありようを観取するということは、私達が「内在」において如何にして「対象の確信像」を構成するか、これを解明することである.すなわち、「確信成立の条件」を解明することといえる.

 一切の認識は「内在」において構成される確信である.これは疑いようがない.自分の意識にそういう対象が与えられているという確信.確信不可疑.だからといってもそれが、実在するものに一致するとは限らない.だから上司に次のように釘を刺される.

 「いいかね、君がいつもまずいまずいと言っている液体だが、あれは一応、社の費用で贔屓の珈琲店から仕入れている歴としたブレンドコーヒーなんだ、私も社長も旨いと思って仕入れているんだ.君はそうやっていつも嫌味をいうが、何か他に言いたいことがあるのか.仕事でもそんなこと言ったら承知しないからな」

 自分がどんなに壊滅的な味だと思っていても、実在に一致するとは限らない.周りがどんなに美味しいとありがたく感じていても、自分にとっては、暗褐色の液体のおぞましさを「信憑せざるを得ない」悲劇である.しかし、「主観にとって、対象の実在が不可疑なものとして現れる」という「確信条件」を抽出することができるかもしれない.豆からコーヒーを抽出するのではなく.「確信成立の条件」の鍵はここからはじまる.

 貴方が目の前に映る、特異な深紅の自動車を見たとする.歩道でちらっと見えただけなのでじっくり見て回ることはできない.しかし、我々の内在意識には、ありありとした「2座席ミッドシップレイアウト」や「甲高い音を放つV型8気筒エンジン」、「彫刻の如く削り出されたような吸気孔」「跳ね馬の紋章」などという構造をもった像が与えられるならば、我々はそれをFerrariなのではないか、と感じ、その知覚像を、現実に存在する像と信じざるを得ない

Ferrari 488 GTBと知覚される像を、右から左へと駆けてゆく姿を認めたと仮定する.

 さらに、駆体が走り過ぎる姿を見るとき、可視範囲は次々と連続的に変わる.見える姿は当たり前だが変わっていく.部分部分を徐々に、次々と新しい局面を以て対象性を保ちながら知覚する像を与えられる.側面から後面へと.こうも知覚してしまうと(というのも変だが)一定の条件を与えられると、「信憑せざるを得ない」ことがわかっていただけると思う.もちろん、いくら信憑せざるを得ないとは言っても、実際に駆体が実在に一致することはありえない.確信に過ぎないのだから.それにずるい言い方だが、488GTBだと思ったら実は488 Pistaかもしれないし、F8 Tributoあるいは SF90 Stradaleかもしれない.以上は、「確信成立の条件」の解明の序章である.これは、「私」が対象を客観事物と信じる条件=主観的確信の条件解明に過ぎない.

 次は私だけでなく、ほかの人も、通り過ぎる車体が488GTBだと信憑する条件を解明しないとならない.もう少し、仰々しく言うと、「他者もその対象を客観存在と信憑している、と私が確信すること」である.これを用語に換言すると「間主観的確信」の条件である.

 こうした考え方をすると、「超越」という強力な「確信」がなぜ成立するのかわかるようになってくると、Husserlはそういう.へぇ……すごいっすね……

 過去の記事を踏まえて話を続ける.一般的に、「どんな学問でも、それ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのではなかろうか」という考えがある.つまり、どんな学問でも客観存在=認識が成り立つという図式を目指すことで、認識問題を解明できるだろうという考えだ.少なくとも自然科学は客観存在=認識を前提として議論をしている.人文科学ではそうは行かない.いわんや哲学でもだ.何もかも役に立たない.以前もこの話をした.私達が議論してきた話題のうち、「意識」する領域というのは、「万物流転」panta rhei的な領域であると言う.そこはあくまでも、主観的、間主観的な領域なのだから、結局「主観的妥当性」しか得られないのではという疑問が生じる.よって、この領域において妥当な学問的判断がいかに獲得されるのかという問題も生じる.

 考え方をつぎのように変えるのが理解のコツらしい.

 「知覚がどのようにして超越者に的中しうるか」ではなく、「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」をまず考える.主ー客の図式をやめようというわけだ.「絶対所与性」とは内在意識の中で確認される個別的な直観だけなのか.「知覚」「想起」「想像」の直観だけが「絶対所与性」なのだろうか.そういうわけではない.繰り返しで恐縮だが「内在意識」の内省によって、個別的な直観だけでなく、さまざまな「意味」のありよう、「普遍性」も絶対的所与として与えられている.上記の写真を例に考えると、Ferrariの車体の「知覚」を内省して、その特質を捉え、それを判断し命題化する.「あれは一台のFerrari 488 GTBが走っている姿だ」と.命題は「○○は○○である」ように一つの論理形式をとる.もちろんそこには「意味性」(普遍性)を観取するが、個別な意識作用から「超えたもの」でもある.一種の超越たる所以はここにあるようだ.普遍性故に超越の性格を持つものの、構成的内在はやはり絶対所与性である.理由はすぐに後述する.

 「現象学の理念」において、Husserlは「構成的内在」を「志向的内在」ということもある.うわ、めんどくさいな……

 どんな認識体験でも、「志向的対象」を持っている.仮に貴方が、誰かに唆されて高級輸入車を取り扱う車屋さんを訪れたとする(無茶な設定だ).オーデコロンを塗りたくりピチピチのスーツを着た従業員が、こちらの車は素敵ですよ、などと適当なことを言い出す.貴方は下の図のように何台かの車を見ている.赤というのは色に関する個的な知覚であるが、「少し朱色に近いのがRosso Corsaという色です」「鮮やかな発色がRosso Scuderiaです」という説明を受けると、貴方は「ふーん」と思いつつ、これらは兎にも角にも赤だよなという意識が伴ってくる.これは構成的内在である.普遍的意味を持つからだ.さて貴方は二台の車を見て、二台の塗装色の差異に気づくが、これらが、Rosso Scuderiaだの、Rosso Corsaだろうと、そんなことはともかく、「」である.セールスの紹介にこだわらず、「赤」という一般的・普遍的なものに還元する.なぜこれが絶対的所与性なのか.

Rosso Scuderia
Rosso Corsa

 確かにセールスに言われてみれば、色は違うなぁ、でもどっちも赤だよね.という直観が働く(はず).二者は違うが類似していると、直観するのである.これは、類似本質の直観である.この認識は実的な要素とは言えないものの、直観した「ピピッときた!」のであれば「絶対に与えられている」というしかない.くどいようだが、これらの車の客観的実在に関して言えば、どこまでも疑わしさを持つ.実は偽物だった、とか、光の具合でそう見えてしまっているだけかもしれないからとか、夢オチという酷い結末もありうる.だが、これまたくどいが、「内在」の直観として考えれば、これは不可疑なのである.

 では、志向的内在は何なのか、といえば、Husserlの著書には、次のようにある.個的な知覚(赤、V8のエンジン音、跳ね馬の紋章など)にともなって現れる対象の全体像を示す.「これはFerrari 488GTBだ!」というときの「Ferrari 488GTB」が志向的な「対象性」であるという.志向的対象性は動かし難く意識に与えられる点で、絶対的所与性である.現象学において、「実的内在」を経て「志向的内在」に至る関係構造が重要となってくる.

 上記に述べたような方法は現象学的「本質分析」である.認識探求の本質学として現象学はある.意識の本質構造の観取をイデアツィオン(イデア化)とHusserlは呼んだ.

 さて、肝心なことは「絶対的所与性」がどこまで及ぶのか、ということである.実的内在だけでなく、構成的内在も絶対的所与性に入ることは確認できた.それで十分か、といわれればそうではない.ひえっ.例えば、コーヒーに関連して、①「暗褐色」を知覚する場合(知覚作用)もあれば、②知覚せず「暗褐色」について論じているだけの場合(表象)、③自分の暗褐色の知覚直観について口述する場合(陳述)、④さらに直観のあり方の特質を本質的に観取して把握することもできる(イデアツィオン).

①給湯室で淹れたコーヒーを見たときに、「うわぁ暗褐色だ…」と知覚するときの暗褐色

②コーヒーを見なくとも、会話で職場の話題が出たときにふと、思い浮かべてしまうときの暗褐色

③自分にとっての暗褐色とは、どういう知覚体験であるかということを帰宅してから妻に説明する(聞かされる方はたまったものではない)

④毎晩就寝時に独り暗褐色についてひたすら内省し、ついにイデアツィオンしてしまう

 どれも酷だが、意識対象は暗褐色である.同じ対象であっても異なった所与性がある.必ずしも所与性の例は四つだけではない.我々に明証的な所与性として現れる対象は無数にあるだろう.所与性の違いが、経験において、普通の知覚体験なのか、表象なのか、陳述なのか、知覚一般の本質把握なのかという区別を我々に示す.私達はこれらを難なく区別している.だからこそ我々は現実でなんとかやっている.私達はこれら区別の仕方を言葉にして説明するのはかなり難しいが、自分自身に確かに与えられているという揺るぎない感覚において確信し(内的根拠)、区別できているのだという.

だが、もしこれが何らかの機能障碍によって所与性の内的根拠が失われたり、機能失調に陥るとすれば、我々が言うところの精神疾患に当てはまるかもしれない.繰り返しになるが確信形成の条件を解明するというのは、必ずしも哲学の領域だけで有用なのではなく、精神医学の一部の領域(精神病理学)においても有用なのだ.

 さて、「内在」ー「超越」という図式の理解があれば、「客観存在」とは実は内在において形成された「対象確信」であったと気づく.もはや主ー客の図式は不要だ.「確信」として我々に所与されるのは「内在」における所与性に応じた「志向性対象」として構成されるからである.所与性のありようによって、「対象確信」の像が作られる.Husserlはなんとかして、「確信」の根拠として「絶対的所与性」の概念を規定しようとしてきた.「絶対的所与性」が厳密な認識の基礎というわけでもないことがわかってきた.認識が妥当なものであるか、すなわち、普遍的な認識と呼べるには、どのような条件があれば良いのか、それを解明することが要諦である.

 まだもう少し続きます.おそらく次回で最終回になると思われます.次回は間主観的な確信条件について.

 50回を記念し、ここで改めてお礼申し上げます.いつも読んでくださりありがとうございます.主な読者は日本の方ですが、米英仏独豪伊露中といった海外の訪問もちらほらいらっしゃって嬉しく思います.岡倉天心効果は間違いなくあるはず.日本語だけでなく多言語で亀吾郎法律事務所の理念を紹介できればと思っています.

今後ともご贔屓いただけますよう、よろしくお願い申し上げます.

フヱノメノロギシュ・レダクスィヲン:II

この記事を読む前に言っておくッ!おれは先程奴(吾郎)の解説をほんのちょっぴりだが理解した.
い…いや…理解したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのまま今感じたことを話すぜ!
「おれは奴の記事を読んでFerrariの話かと思っていたらいつのまにか現象学の話になっていた」
な…何を言っているのかわからねーと思うが俺も何を解説されたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…トンデモ科学だとかAmwayの勧誘だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 前回の話を簡単に述べる.特に人文科学において「認識の問題」というのがテーマになることがある.「主観と客観が一致する」ということは自然科学ではあたかも自明なのだが、それ故に自然科学では「なぜ主観不一致はありえないのか」を解明することができない.そもそも問題になっていない.これを解明する哲学の試みとして現象学が知られる.従来の考えであった「主観」と「客観」の図式を一旦棄却し、「内在」―「超越」という関係で我々の認識を再確認してみることで人文科学の見失っている認識の可能性を復権する目論見がある.

 「内在」という概念はこれらは絶対不可侵の疑いようのない意識であり、現象学はここからスタートする(現象学的還元).「超越」は「内在」とは対極にある概念であり少しでも疑わしき可疑的な要素をいう.

 ちょっとここで脱線したい.ただでさえお前の話は長いのにどうして脱線するんだ、脱線するのを断るやつがいるか、と叱られるかもしれない.しかし、勇気を以て脱線する.

こんな話をご存知ないだろうか.私の好きな説話を紹介したい.

 昔者莊周夢爲胡蝶.栩栩然胡蝶也. 自喩適志與.不知周也.俄然覺、則蘧蘧然周也. 不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與. 周與胡蝶、則必有分矣.此之謂物化.

              ー『荘子』斉物論第二

 以前のことだが、私、荘周は夢の中で胡蝶となった.喜々として胡蝶になりきっていた.自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞った.荘周であることは全く心にもになかった.ふと目が覚めると、これはなんと、荘周ではないか.さて、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、今夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない.荘周と胡蝶とには確かに形の上では区別があるはずだ.しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものなのだ.

 胡蝶の夢で知られる荘周(莊子)の説話である.これは中国の戦国時代の話であるからHusserlより遥か前だが「内在」―「超越」の話としてもよいのではないだろうか.荘周である姿や胡蝶である姿は可疑的な存在「超越」であるが、自分が自分であるという認識は疑いようのない認識「実的内在」である.

 時は流れ、Descartesも「方法序説(Discours de la méthode)」において夢の話を用いて、主観がどんなかたちで対象をもっていようとその対象が「実在」しているという確証はありえないと主張した.ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかないと気づく(Je pense, donc je suis).Descartesも結局は主客不一致に至った.

 以降、近代哲学はこの問題を「認識問題(Epistemology)」として捉え、解明に挑んできたという.B. Spinoza, D. Hume, I. Kant, W. Hegel, K. Marx, F. Nietzscheらは認識論において有名なおっさんであるようだ.E. Husserlはそのおっさんたちに含まれる.

 認識批判ということをHusserlもする.自明の認識の構図を取り払い、新しい認識の考えを見出すことを試みる.そのためにまずは「主観」―「客観」の一致が真理すなわち客観認識である考え方を一旦中止する.これを業界用語でエポケー(epoché)という.小学生くらいだと「ちょっとタンマ!!」という感じか.判断中止ともいう.この方法によって「客観的認識」や「妥当な認識」というものが一体何なのかを、問い直す.これは何の役に立つのだろうと思う人は、少し考えて貰えれば嬉しいのだが、例えば道を歩くカップルがこんな話をしていたとする.

 女性「ねーねー、私が作った昨日のハンバーグ、どうだった?」

 男性「(中華丼じゃなかったっけ)うーん、フツーだったよ」

 女性「なに、フツーって」

 男性「フツーはフツーだろ」

 女性「それじゃわからないじゃん、美味しいとかないの?普遍的な認識が成立することはないと思うけどさぁ、その言い方は極めて曖昧さと不明晰性が含まれるから、私agreeできない.ほんとあんたって昔からそうだよね、何でも曖昧.私、あんたのそういうとこマジムカつくから.大体、こっちが飯つくってやってるのにろくに手伝わねーし『献立何がいい?』って訊いても『なんでもいい』ってばっかり.あんた何でもいいっていうならさ……」

 ごくフツーの会話かもしれない.Twitterのタイムラインで紛争が勃発がするときは普遍的認識をめぐる対立が少なくないと個人的に思う.「フツー」という言葉は難しい.「フツー性をめぐる揚げ足の取り合い」のような構図になる.もし、仮に、認識論の決着がつくとすれば、上記のカップルの口論は収束するかもしれない.

 というわけでちょっと考えてみよう.まずは誰にとりどんな疑わしさや不明晰性を含まない認識があるのだろうか、というところから出発する.これを「第一の認識」と呼ぶらしい.Husserlの言い方なら「絶対的所与性」.絶対に与る所.それって何でしょう.

 既にDescartes兄貴には認識批判の試みとして方法的懐疑があるのだった.兄貴は、「ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかない(Je pense, donc je suis)」ということから「第一の認識」を見出そうとした.これに倣い、Husserlは自分自身によって内省された「意識作用」を「第一の認識」とした.我々の意識というのは様々な対象を知覚したり、表象したり、判断したりする.自分が目の前で伝説のスポーツカーを間近に見ていると思っていても、それはハリボテかもしれない.莊子が胡蝶の夢を見ているのか、胡蝶が莊子の夢を見ているのかわからないのと同じように、自分がどんな対象を意識のうちに体験したとしても、それが「客観に的中(一致)している」とは限らない.

 とはいえ、対象が実在するかはわからないけれど、それによって「自分の意識に確かに与えられていること」自体は決して誰にも疑えないよね、という確信に着目する.そこでHusserlは「意識対象」としての所与を「絶対的所与性」とみなし「第一の認識」とした.(ちなみに、この絶対的所与性がなんらかの理由によって侵された場合、人はどうなってしまうのだろうかという問いかけは精神病理学の領域であると思う.幻覚や妄想は病的な絶対的所与性であるだろう.絶対的所与であるがゆえに修正はできないのは明らかだ.そもそも修正しようとする方がおこがましい気がする)

 風呂に入る時に温水の感覚を心地よいと感じたその意識作用はありありとしていて、内省的に対象化することができる.こうした知覚体験の構造は誰にとっても共通の構造とみなすことができる.湯船に浸かる時、ちょっとぬるいなとか、少し熱いなと思うのはそれぞれだが、知覚体験が各々に与えられるという意味で、共通だということだ.スーパー銭湯のサウナに寄りロウリュ(löyly)とアウフグース(aufguss)のサービスを受けるときに感じる熱気と香りの心地よさは自分と他人で異なるように知覚体験は同一ではない.こうしたことを「射映」、「地平」というらしいが.説明を省く.

 認識問題の謎という点で中核となっているのは、主観以外は何もわからない、客観というものはどこまでも超越している、つまり決して客観を把握することはできないということだった.それは少し前の記事で触れたが、自分で見直してもわかりにくい内容になっている.大変申し訳ないことは承知している.しかしHusserlの言っていることはどうしようほどもなくわかりにくいのだ.彼の著作自体、その関係が曖昧になっている.「内在」―「超越」の考え方をもう一度振り返ってみる.

 Husserlは2つの「内在」―「超越」構造があるといった.「構成的内在」対「超越」.「実的内在」対「構成的内在」.まず前者を話す.

 前者はいわゆる一般的に知られる「内在」―「超越」.意識体験において実的に見出される所与、知覚や想起ということになる.朝の満員電車で漂う臭気を不覚にも嗅いでしまい、

「くっっっさあぁぁぁ」

と思うのが内在.そこから、

「だれだよ……このワキガ……ちくしょー!ちゃんと制汗剤塗ってから出社しろよな〜」

と感じるのは超越.実際に臭いが発せられているかは確からしくても、少しでも疑わしくば内在を超越する.さらにその臭いがワキガなのかもわからない.別の体臭かもしれないし、人間から生じたものかもわからない.制汗剤は塗ってきたかもしれない.ひどい話をすれば気の所為かもしれない(気の所為で済まされるか馬鹿野郎!).

 後者は「実的内在」―「構成的内在」.

  例えば、貴方がコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されているボロいコーヒーメーカーで作られた不味いコーヒーを飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとってこれしかないのだ.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、コーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る茶色の液体.カスのようなものが浮いている.茶色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、茶色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.うーむ……なんだか後付感半端ねぇなぁ.

 要素である実的内在、それらから帯びてくる意味性が構成的内在.どちらも絶対的所与性であるのがHusserlの考える所であるようだが、構成的内在は内在なのか、超越なのかどうもはっきりしない.構成という言葉を巡っては学者さんの中でも意見が分かれるそうだ.

 余談ではあるが、ある女性の患者さんと面接するときに「実は私の衣類からオヤジのにおいがするんです、誰か男の人が入ってきたのでしょうか」と相談されたことがある.その人は女性だけの病棟に入院していたが、誰しも出入りは専用の鍵がないといけない.誰か侵入に成功しても看護師さんの詰め所の前を通らねばならないので、事実上不可能である.よって男の人が入ってくることはない.聡明な読者の皆さんは「それはきっと(以下略)」と仰るだろうが、それ以上はいけない.患者さんにとって臭いがするのはその人にとって所与される意識体験だから内在.しかしそれがオヤジのものなのかは超越する.オヤジの臭いかどうかは疑念がつきまとうが、オヤジの臭いという対象意味を感取するのは、加齢臭、不快さ、臭いの局在性といった要素で構成されるからであろうか.となるとオヤジ臭さを意識するのは構成的内在になるのか.他者の志向性に敏感な疾患特異性も考慮すべきだろう.

 次回につづく.いつも読んでくださりありがとうございます.

 

フヱノメノロギシュ・レダクスィヲン:I

図1
図2

 上の2つの画像をご覧いただきたい.見る人によって感想がきっと違うと思う.「赤い車だな」と感じるのはきっと共通した意見だろうがそれ以上はどうだろうか.「変な顔だ」「俺はあまり好きではない」「やっぱすげえなぁ」「俺実物で見たことあるよ」「昔乗ってましたね」なんて意見があるかもしれない.「もしかしてFerrari?」「そんなことより今日も暑いね〜!!」

 すでに気づいた方もいるかもしれない.上のうち二つは同じ車ではない.どちらかがどちらかを模したものである.そう言われれば「あぁそういうことか」と理解した人もいると思う.一体何のことを言っているのかさっぱりだという方は安心していただきたい.わざとわからないようにしたのであり、わかる方はほとんどいないはずだから.

 この二者を提示して何を言いたいのか.以前の記事で予告した伏線を回収するために今回特集を組んだ.それでも何を言っているのかわからないぞ、という方.ご辛抱いただきたい.この記事は事前の知識がなくても問題ないように作っているつもりなので.

 図1、図2のどちらかは、Ferrari F40と呼ばれるFerrari社が製作した自動車のレプリカの写真である.

「へぇ、そうなんだぁ」という声が聞こえてきそうだ.「ふむふむ、やっぱりそうだったんだね」という洞察に長けた方もいらっしゃるかもしれない.だが、もし違いに気づいた方がいれば、何をもって違うといえるのだろうか.

「ほら、フロントバンパーの形状が違うじゃない、図1は薄いけど図2は厚みがある」

確かにそうかもしれない.でも気の所為かもしれない.

「そんなこと言われたら自信ないよ、ずるいって」

 そういうご意見は真っ当なものだ.まぁ写真だけじゃなくて他にも色々な角度から吟味した方が良いだろう.だがこのブログの性質上、平面以上のことはできない.悪しからず.

 さて、自分の見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうものといったものは人にとってかけがえのない感覚で、それらを頼りに私達は生活している.「この魚、鮮度がよさそうだからこれにしよう」と考えてスーパーマーケットで買い物をするし、「以前にしまっておいた煮物、なんだか酸っぱいな、傷んじゃったのかな」と味見をする.

 オンラインで買い物をするときもレビューをよく見て、「なんだか良さそうだからこれにしよう」と考えて決めることも往々にしてよくあることだろう.失敗することもしばしばだが.人々は皆自分の感じたことをもとに判断を下して、意見を述べたり記録する.そうした判断、実践の積み重ねが学問、芸術、文化となっていつしか手の届かない領域まで延長され、広がってゆく.

 「あの先生はあぁ言っていたけれど、私は違うように思う.私はこうだと思うから、私の考えを広めたい」

という人がいたとする.その人は研究者の中でも若手の気鋭であるが、師事する先生の考えはどうしても相容れなかった.新しい学派を興してこれを主流にしようとする.新学派と旧学派が生まれる.

 「どちらとも何をいっているんだ、論点がガバガバじゃないか」という勢力も出てくる.論壇は混迷を極める.徐々に複数の学派が対立して、主流派なぞは存在しなくなり、終いには「かめはめ派」や「唐紅に水くくると派」といった泡沫学派が誕生する.(一体何の学問だろう?)

 このような事態が生じるのはなぜか、という問に対してある哲学者は「主観」―「客観」の不一致が生じるからだ、と言う.自分が思っていることと、世の中で知れまわっていることは一致しないという.そうかも.結局のところ、自分は主観であって、客観になりえない.「客観的に見て」という言い方も畢竟するに主観的な物言いである.

 そういう意見もあるけど、光の速さって誰から見ても一緒じゃない?長さだって、メートル原器があるし、そもそも定規とか巻き尺があるから長さは皆から見ても一緒ですよね.温度も同じことが言えますよね.単位は違っても換算すれば結局同じ話じゃないですか、貴方何がいいたいんですか?

 という辛辣なご意見もいただくに違いない.仰る通りで、光速、温度などは高度な内容を追求しない限りは自明な基本概念や単位と考えられている.しかし、それはすでに「主観」―「客観」を一致したとみなして議論を進めているのではないか?あたかも当然の如く、光の速さは均一だとか数学・物理学の議論が自明性を帯びているからだとされているからでは?私は光速の絶対性や数学の学問の正しさを学術的に論じることはできない.だがおそらく多くの人々は、ごく自然に1+1が2であることを経験的に理解する.自然現象を観察し、帰納的に導くことで公理や法則を発見する.こういった自然科学において、「主観」―「客観」の一致は暗黙に認められている.認めないわけにはいかない.でないと学問が瓦解してしまう.

 ところが、人文科学においてはそうは問屋が卸さない.先程述べた事例があちこちで生じている.例えば心理学はFreud派もいればJung派もいる.Adler派、Klein派……きりがない.政治学においてもイデオロギー対立は生じたままであるし、歴史を巡って、異なる学派はいつも喧嘩ばかりしている.学問を超えてインターネット掲示板でもツイッターでも激しいレスバトルが繰り広げられる.認知科学と称して心の動きを調べる研究があるじゃないかという指摘はあるかもしれない.しかし、それは心という機能が存在するという事前の了解に基づいた研究であり、実証的科学の域を出ない.認識の根本の可能性に迫ってはいない.なぜこんなことになっているのか.

 それはE. Husserlの言葉を借りると近代哲学以来の「認識問題」における謎、すなわち「主観」ー「客観」が一致しない謎が解明されないからだという.またHusserlかぁ…… ほんと亀吾郎法律事務所はHusserlばっかりだなぁ……

 「えっ、じゃあ解明されたら、そのごちゃごちゃした学説や学派は一つのなるのかな」という問に対する答えは今のところない.解明されていないのに解明してからのことを考えるのはちょっと気が早い.でもなんとか、その謎を解き明かしてみようとする努力はなされてきた.

 「認識問題に関する謎」つまりそれは「『主観』―『客観』は決して一致しない」という哲学的原理(以下、「主客不一致」)から出発するが、その解明の試みはR. Descartes, I. Kant, D. Humeらが挑んできたという.結局のところ彼らの意見では主客は一致しないという結論になっている.その後の流れは一度割愛する.

 一方、数学的妥当性など自然科学の分野で主客は一致していることが自明となっている.客観的な認識、妥当な認識によって人類は月面に着陸し、音速を超え、インターネットで世界をつないだわけだ.謎が明らかではないのに、我々は主客一致を前提とした自然科学の確からしさを知っている.なぜだろうか.これをHusserlは次のように問いかけた.

 事象そのものを的確に捉える認識の可能性に反省を巡らすとき、我々を悩ます様々な難題.例えば、それ自体として存在する事象と認識との一致はいかにして確信されるのか.認識はいかにして事象そのものに「的中する」のか.

 主客不一致が真であれば、そもそもなぜ「客観認識」というものが可能なのか(なぜ「的中」しうるのか).いや、じつは不可能なのか.自然科学でなされる主客一致が、なぜ人文科学でなし得ないのか.それはつまり、「認識」の本質とは何か、ということになってくる.

 Husserlによると、この謎を解く手がかりが一つだけある.認識の本質を紐解く方法論が現象学である.

 その方法を現象学的還元(Phänomenologische Reduktion)という.おお〜なんだかかっこいいじゃん.

 問題を解決するためには、「主観」という「客観」対立概念を一度棄てる.その代わりに別の図式で考えてみる.「内在(immanenz)」―「超越(tranzendeniuz)」という関係で.    

ん?

 まず「内在」は現象学的にいうと(Husserlの考えに基づいていうと)、内省によって捉えられる「意識」のありようをいう.誰でも、自分の知覚体験がどんな具合かは内省して見て取れる(知覚を知覚できる).ダジャレで言うと、「おしっこが近くなったことを『尿意』と知覚する」.「内在」は決して「心」だとか心理学的な用語ではない.「心の中」にあるものが内在で、それ以外を「超越」と考えるのはいけない.心理学は哲学ではない.まったく違う.

 「おしっこに行きたくなる感覚は自分だけに与えられた感覚であるから、これは自分にとって申し分なく全くの疑わしさなく、『尿意』である」

 あるいは、

 「あの物体が『Ferrari F40だ』という感覚は自分にとって疑いのないものである、この感覚は誰がなんと言おうと不可侵である」そういった感じだろう.たぶん現象学をおしっことFerrariで例えたのは私だけか.

 さて、内在という概念がものすごくピュアなものであることを説明したところで、Husserlおじさんの話をよく聞いてみる.「内在」は「実的内在」と「明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」にはっきり分かれるんだね、という.この区別が大事なのだとHusserlは言うのだ.

 まず「実的内在」とはなんぞや.これは「どう考えても、どうあがいても誰にとっても現に疑いようのない方法で自らを与えているもの」(=絶対的所与性)を言う.

 つまり、図1、図2を見て、「赤い」「角張っている」「車輪があるな」といった知覚、想起、想像などの「個別な直観」をいう.要はパーツである.要素と言っても良さそうだ.

「いやいや、どう見ても緑ですよ!いやーなんといってもこの球体はすばらしいなぁ!!」ということにはならないから、やはり認識における「決して誰も疑えない契機(要素)」である.

 もう一つは明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」.これは長すぎるので「構成的内在」と呼ぶ人が多い.それは何か.

 それは実的内在を受けて構成された「対象的意味」をいう.例を述べる.

 図1、図2を見て、こう洞察する.「赤くて角張っていて、車輪があって……ワイド&ローなボディに大きなリアウィング.抑揚のないボディで2ドアだろうから、これはクーペボディか.エアインテークがドア後方にあるからミッドシップレイアウトだな.スポーツカーかレーシングカーかな.少しタレ目のようなヘッドライト、その後ろに格納されたハイビームのリトラクタブルライト、サイドミラーがあるから公道走行できるんだろう.じゃあナンバーが取得できるスポーツカーだな.ボンネットの前方にわずかに見えるロゴはおそらく跳ね馬の紋章だ、とすればFerrari F40だろうか」といった具合だ.

 Husserlの言わんとすることは、ある知覚体験を持つとき、「内在」には必ずこの2つの要素の「所与性」が存在するが、これら二つはどちらも絶対の絶対に絶対に疑えない契機(要素)であるということ.二つとも明証的な所与性である(この明証性が病的に破綻した場合はおそらく精神病圏へ足を踏み入れるのだろう).

 では、超越とはなんだろうか.念の為申し上げておくと、これまで拙作のブログ記事を読んでくださった方は超越を混同してしまうかもしれない.ここで出てくる超越は全く別の使い方をする.哲学における超越は結構重要な用語なので誤解して欲しくない.

 「内在」は絶対に疑えない要素、「超越」は反対に、必ず「疑わしさ(可疑性)」を持つ.また、例を出そう.

 図1、図2を見て「これらはFerrari F40だ」と思ったとする.これを「内在」―「超越」で考える.「これらはFerrari F40だ」という認識は実は「超越」的な認識である.

 なぜか.実はどちらもFerrariではなくてPontiac社のFieroかもしれないからだ.Pontiac FieroはFerrari F40のレプリカベースでよく知られている.失礼な言い方をすると劣化レプリカである.もしかすれば車ではなくて、精巧に作られたハリボテかもしれない.実在性がわずかでも疑わしいもの(可疑的であるもの)は皆「超越」といわれる.すべての超越的認識は可疑性をもつ.この点に関してHusserlおじさんはしつこい.

 あれ?さっきF40の説明の件で構成的内在って言ってなかったっけ?ごちゃごちゃしてくる方がいるかもしれない.しっかり言っておくと、F40の実在性に関しては可疑的なのだということだが、図を見て「これらはFerrari F40だ」と思う意識体験自体は、決して疑いようのないものだということだ.わからない?大丈夫.まだ話は終わっていないから.

 車の写真を見せられたと思ったらいつのまにか哲学の話になっていた、と思った方がいらっしゃればそれは筆者冥利に尽きる.この話はもう少し連載するので興味を持ってくださったらとても嬉しい.ご期待いただければ幸いである.

ここまで読んでくださってありがとうございます.

 

 

 

自分で問題を提起するシリーズ:急

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 このシリーズでは始めに、古代の人々はそれぞれの生活圏で異なる時間の見方をしているとの指摘を確認し、それぞれ時間を有限の線分、無限の円環、始点があって終点のない無限直線、始点はなく終点のみの無限直線に大別されるとした.人は過去から未来へ流れる直線と、天体運動のように循環する時間をうまく組み合わせ、歴史を紡いできた.特に、時間が過去から未来へ不可逆的に流れる感覚は私達にとって自明であるように思われるが、それは正しいのだろうかという疑問を私はふと思いついてしまったために、こうしてブログに思考過程を開陳した.私なりに書物を読んでいくうちに、なぜかループ量子重力理論に出くわした.そしてトランプカードゲームの大富豪で宇宙を例えるという頓痴気なことを始めた.それは宇宙の「特殊」性を説明するためであって、偶々私達から見ると、世界に時間が流れているように感じているに過ぎない.

 まず、宇宙全体に共通の「今」はない.地球の「今」とアルファ・ケンタウリの「今」は違う.アルファ・ケンタウリは太陽系に最も近い恒星だが4光年の距離があるという.星間電話が確立して、地球からアルファ・ケンタウリにいる異星人に電話をかけたとする(何語で?).信号がアルファ・ケンタウリに届くまで4年かかる.幸運が重なって、異星人が電話に出てくれた!それってアルファ・ケンタウリの今にとっては、地球の4年前のことなのか?これマジ?C. Rovelliによれば、この問は無駄だという.イタリアンレストランに行って、「すみませぇん、ペンネマシマシカラメマシオリーブオイルスクナメニンニクください」とラーメン二郎式で注文するくらいトンチンカンで、「高校の通学にフォーミュラカーで行ってもいいですか、スリックタイヤで」と訊くようなものだという.改めていうと、「今」は大域的ではなく、局所的だ.二人がけのソファに座っているヤングな男女のカップルくらいの距離であれば、「今」は存在する.彼氏の講釈を聞かずスマホをいじっている彼女に、彼氏がいじけて「ねぇ『今』なにしてんの?俺は『今』、宇宙について語っているんだぜ」と問いかけることは意味がある.ちょっと例えが無茶だが.

 時間が流れるリズムは質量や重力場によって異なることをA. Einsteinが説明した.彼の記述する時間と空間は、重力場によってぷるるんっと揺れ動く巨大な黒ごまプリン(ゼリーでもフルーチェでもいい)に私達が内包される一部分であった.ところがどっこい、この世界は量子的.あらゆるものは離散的、すなわち散り散りバラバラに動く.ぷるるんっと動くように見えた巨大な黒ごまプリンは実は白黒のモンタージュが絶えず不規則に動いていて、偶々黒ごまプリンに見えていたにすぎない.もしかすればドラゴンフルーツの断面かもしれないし白米に刻み海苔がかかっているのかもしれない.つまりは時空の記述は近似的で曖昧であったということだ.物理学の根本をたどるとそこには時空はなくて、過去も未来もないということが、ループ量子重力理論が教えてくれることであった.しかし、きっと例の彼女はぶすっとして

 「ふーん.黒ごまプリンでもなんでも良いけどさ.べつに嫌いじゃないし.だからなんなの?」

 ということになるから、もう一度私達の世界に立ち返ってみよう.ちょっと気まずいカップルの世界でもある.私にとって気になるのはどうして自分達の多くは時間が流れているように感じられるのだろうか、ということであった.

 ちょうど別の目的で私はE. Husserlの”Die Idee der Phänomenologie” (邦題:現象学の理念)を読んでいるところであった.他にも彼についての解説本を読んでいると、現象学の目指さんとするところが段々明らかになってくる喜びと、ポンティアック・フィエロベースのF40レプリカと本物のフェラーリ・F40の違いを私たちは如何にして認識するかを考えることができた.(現象学的還元をもとにした見分け方はまた記事にする予定だ)そんな中、この時間に関する論考で多いに参考になった”L’ordine del tempo”に奇しくも、Husserlの「時間の構成」について考案した図(図1)が引用されているではないか.私は密かに歓喜した.Rovelliからすれば引用は必然であろうが、私からすれば偶然である.これも量子力学の思し召しか.

図1 Husserlの考案した図はもっとそっけない.

 この図を説明する前に、最初の問に立ち返る.なぜ私達は時間の流れを感じることができるのかと.端的にいえばそれは私達が「記憶」し「予測」することができるからだという.さらにいうと、私達の脳神経系は膨大な神経細胞のネットワークによって、受け取った感覚刺激を処理しその過程でパターンを認識、そこから予測をしようとする生き物だ.私達がいる現在は過去の軌跡の上にいて、それは描こうとしている彗星の尾でもある.お父さんと少年が仲睦まじくキャッチボールができるのはお父さんにも少年にもボールの軌跡がわかるし、どこに落下するか予想がつくからだ.よほど鈍臭くなければ.

 たとえば音楽を聴くとき、一つの音の意味はその前後の音で決まる.もし私達が常に一瞬の存在であれば、音楽は成立し得ない.私達が音楽を聴いて感動するのは記憶して予測するからだ.この例えを用いたのはA. Augustinusで、さらにE. Husserlでもある.いつの世界も偉大なおっさんはいる.Husserlは音楽をヒントに、時間の構成を図式化した.それが図1である.点Aがなぜ点Aなのかはわからない.何かの頭文字かもしれないが、名前は何でも良いんじゃないか.点Aから出発して、任意のある瞬間Eにいるとする.線分AEは時間経過を表したもので、線分EA’は瞬間Eの「記憶または予想」である.感傷的にいうと「思い出や計画」である.もっとキザに言えば「君と夏の終り、将来の夢、大きな希望忘れない 10年後の8月また出会えるの信じて」みたいなものだろう.

 線分EA’では漸進的沈下によって(図次第では浮上でもいいと思うが)AがA’に運ばれる.これらの現象が時間を構成するのはどの瞬間EにもP’やA’が存在するからである.なにが言いたいのかというと、Husserlおじさんは、時間の現象学の源は線分AEという客観的な現象の連続ではなくて、(主観的な)記憶であり、予想、すなわち図の垂直線、線分EA’としているということだ.記憶や予想をかっこよくいえば、過去把持(Rentation)、未来把持(Protention)というらしいがこの際どうでも良いか.一応まとめると、現在(任意の点E)という時間意識は、一様な均質な時間のある一点ではなくて、過去把持と未来把持を含んだ、幅ないし厚みのあるものだとする.厚みってなんだよーって思うかもしれないが、奥行きと表現してもいいと思う.つまり図1における水平方向とは異なる方向へ垂線を引ければどこでもよさそうだ.

 Husserlに続いて別のおっさんであるM. Heideggerは時間について次のように記しているという.「時間は、そこに人間存在がある限りにおいて時間化する」と.

 また、”À la recherche du temps perdu”(邦題:失われた時を求めて)で知られるM. Proustはこういう.「現実は、記憶のみによって形成される」こうした引用はRovelliが引いたものだが、実にはっとさせられる.ここで私からも独自に引用をしてみたい.日本における現象学と精神病理学の立場で知られているのは、自己の存在構造を考察した木村敏である.彼の時間論は簡単に言えば次の通りである.

「時間とは自己存在の意味方向である」

 この文章を見つけたとき、目からウロコというのはこういうことだと思った.なぜ私達が時間の流れを感じるのかという至極明快な答えであると思う.彼は研究者であるけども、もちろん優れた臨床医でもあるから、純粋な思惟だけでなく患者の言葉をもとに論考を発展させる.これは説得力をもつと思う.これまで何度も述べたように、なぜか私達は、過去、現在、未来という方向に時間が流れるように感じている.しかし、何らかの病的な理由によって時間体験が障碍された人々は、時間の方向性を知的に理解しているとはいえ、自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を感じざるを得ない.そうした喪失感をもつ人々というのは、離人症という状態にある方々であると木村はいう.離人・離人感というのは精神医学における一現象である.一般的には解離症状に含まれる.解離とは「本来は感覚、記憶、同一性を統合した一人の『私』が「心の安寧を保つ場所が見つからない」ことによって覚醒水準としての意識は保たれているのに、『私』の統合が失われた状態」をいう.よって健忘や遁走、混迷、フラッシュバック、人格交代など様々な症状を呈する.これについては筆者の過去の記事にもあるのでよかったら御覧いただきたい.

 中でも離人感というのは、意識変容によって周囲世界と自己の間に距離が生じた状態で、「何をしていても自分がしているという実感がない」、「生きている実感がない」、「自分の体が生身の人間として感じられない」、などの自己や外界に関するリアリティの喪失を述べる症状である.通常であれば、過去から現在、未来へと一方向になめらかに流れるものとして体験されるはずの時間が、流れを失い、無数の「今」のちらばりとして体験されてしまう.

「なんだか時間が経つ感覚が全然ないんです.ばらばらになっちゃって.全然進んでいかないんです」

 彼らが自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を同時に感じるのは偶然ではないと木村はいう.その理由は、私達の時間体験に過去が過ぎ去って帰らないものであり、未来が未だこないものであるという「以前」と「以後」の方向性を与えているのは、「私がいつか死んでいく有限な存在である」という自己存在のリアリティから生じる「生の既存性」と「死の未来性」だからである.過去、現在、未来という時間の流れは「自己存在の意味方向」を本質としている.自分が今生きているとわかっていて、なおかつ、いつか死ぬとわかっているからこそ、時間という一方向のベクトルが生じるのである.よって離人症のように自己存在のリアリティが喪失した場合、時間体験の異常は必然となる.

 精神疾患を有する方々において時間空間の認識に困難を生じることは解離性障害に限ったことではないと思う.特に統合失調症は自己存在の危機に直面する特徴的な疾患であると思う.私はある苛烈な陽性症状(幻覚・妄想)を呈した方を止む無く保護室に収容した経験がある.早期に治療介入し、自体が鎮静するまでしばらく時間がかかったのだが、ようやく落ち着いて保護室から一般病室へ移れる許可を出すため、私が保護室を訪ねると、

「あぁ、先生.どうしたんですか.そういえばさっきお願いしたオヤツの件、どうなりましたか」

とケロッとしていて、長らく保護室にいたことに気を留める様子がない.もちろん毎日回診はするからずっと私と会わないわけではない.スタッフも巡回するのだが、「早くここから出してくれ」とも言わず、オヤツのことを訊く.私とその人をつなぐ時間と空間が断絶した印象を持った.そして「今」関心のあるオヤツのことを尋ねるのであった.保護室という特殊な部屋が一つ要因だったかもしれない.しかしそれを加味しても若輩である私の受けた衝撃はとてつもなかった.木村の言葉を借りれば、「既存性としての事実性」が失われており、現在の自己存在の根拠が成立していない状態であったのだと思う(なぜ自分がここにいるのか知らない).

 以上、時間の方向性が生じる理由について論じてきた.私なりの答えはこうだ.

 自分には生きてきた記憶があって、今も生きている実感がある.そしていつか死ぬことを知っている.その存在のあり方に方向づけが生じる.それを時間と呼ぶのだと.

 だから私達が過去から現在、未来へと不可逆的に流れていく感覚がするのは私達が生きている限り自明である.そう感じるのは決して変ではないし、疑問を感じることもおかしなことではない.

 ようやく賢人たちに追いつくことができたとでも言おうか.いやいや追いつくなんておこがましい.正しく言えばなんとか先人たちの巨大な肩に乗って、少し高いところを見渡せるようになったに過ぎないのだろう.でも本当にこれで理解しているのかな、という不安もある.物理学の先端からの検討、哲学者らの見解、病的な状態からの考察.様々な立場から共通のテーマについて考えを巡らせることができたのは有意義であった.私自身の立場としては、やはり「なぜ病的な状態が生じるのか」という疑問に尽きる.ただこれは極めて難題で、分子生物学的な知見と精神病理学的な検討など学問の複合的な連携が不可欠といえる.まぁ、硬い話はここまでにしよう.

 私にとって生きてきた証は、幼い頃からの記憶と撮りためた思い出の写真と手垢で汚れた本であったり、車のオドメータに記録される走行距離でもある.育てている草木が成長していく感覚や、車に乗って風を感じる時、亀吾郎法律事務所のスタッフが楽しげである姿を見る時に生の充足を感じる.そして、それらがいつか露と消える儚さに心做しか胸騒ぎがする.

車のオドメータは37270kmを刻んだ.

 ここまで読んでくださってありがとうございました.今後も亀吾郎法律事務所をよろしくお願い申し上げます.

亀吾郎法律事務所が目指すところ What our office aims for

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.