Rosso Ideation

 一ヶ月ぶりに現象学の話をすることになる.そしてこの記事は亀吾郎法律事務所の50回目の投稿である.当事務所の記事は徐々に一記事あたりの字数が5000字を超えるようになり、原稿用紙12枚に相当する.そう考えると読者はゲンナリするかもしれないが、亀吾郎法律事務所はいつでも開かれているので、読む気になったときにまた立ち寄っていただければと思う.

 さて、前回前々回はFerrari F40の真偽の話から始め、コーヒーやワキガ、サウナの例え話をして、内在ー超越の理解に努めようとした.しかし、E. Husserl自身の思索が進むにつれ、内在ー超越の議論は深みに分け入ってゆく.理解を難しくするのは、内在における「実在的内在」、「構成的内在」の用語にあることを述べた.それから私自身、さらなる理解に努めた.参考書を買って読むこともした.原書の翻訳文を読むよりも腑に落ちる感覚は数倍早い.その参考書の著者はある大学の政治経済学部を卒業したと書いてあるが、肩書は別大学の国際学部教授を経て、さらに他大学の国際教養学部教授となり、哲学者を名乗っている.よほど哲学が好きだったのだろう.出た大学とその人物評価が一致しない好例かもしれない.どこの大学の何の学部を出たかというのはあまり気にしなくても良い.問題は何をしているかだ.かくいう私は何もしていないが.その人の著書は本屋でよく見かけ、哲学のコーナーによく居座っている.そんな無類の求道者が書いているのだから、入門には良いかな、と思って買った次第だ.もし気になる方がいらっしゃればお問い合わせください.竹田青嗣という方で、氏の名前は妻から教わった.妻の教養と優しさは底知らずである.いつもにこにこしながら私はあまり良くわからないから、と謙遜する.一生ついていきます!

 本題に戻る.まずは構成的内在からだ.参考書によれば、こうしたHusserlの理解には「確信」という言葉を補うことで理解が明快になるという.「確信」という言葉は我々医療者の中で、精神医学を主とする業者はビビッと来る(来ないかな?)我々が要請に応じて面接する方々は話題が現実と異なろうと、各々「確信」に基づいて話をすることがあるからである.これを専門的に「妄想」ということがあるが、それについては触れない.病的な確信形成とだけ言及してみる.何を以てして病的なのか、という問に触れないと私の気がすまないからである.加えて言えば、何を以てして、という部分が精神病理学の根幹に迫る問題を抱えているからである.

もし氏の言うように「確信」が現象学の理解の一助となり、学問そのものの本質を突くのであれば、これは勉強しないわけにはいかない.精神医学の学会誌などでも未だに現象学を素地とした議論が活発になされていることも納得がいく.

 前回の記事を再掲する.

例えば、貴方がまたもやコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されている老朽したコーヒーメーカーで作られた酷いコーヒーを性懲りもなく飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとって選択はこれしかない.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、実はコーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る暗褐色の液体.カスのようなものが浮いている.暗褐色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、暗褐色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.

 前回はここで、ん?となった.これを次のように捉え直す.「超越」というのは「内在」において構成される「大災害級のコーヒー」だという意識を、単に意識ではなく、「厄災に等しいコーヒー」だという確信の意識と定義する.(一体どれだけ不味いんだろう、そのコーヒーは)

 確信を持ち込むことで、世界の構成のありようを観取するということは、私達が「内在」において如何にして「対象の確信像」を構成するか、これを解明することである.すなわち、「確信成立の条件」を解明することといえる.

 一切の認識は「内在」において構成される確信である.これは疑いようがない.自分の意識にそういう対象が与えられているという確信.確信不可疑.だからといってもそれが、実在するものに一致するとは限らない.だから上司に次のように釘を刺される.

 「いいかね、君がいつもまずいまずいと言っている液体だが、あれは一応、社の費用で贔屓の珈琲店から仕入れている歴としたブレンドコーヒーなんだ、私も社長も旨いと思って仕入れているんだ.君はそうやっていつも嫌味をいうが、何か他に言いたいことがあるのか.仕事でもそんなこと言ったら承知しないからな」

 自分がどんなに壊滅的な味だと思っていても、実在に一致するとは限らない.周りがどんなに美味しいとありがたく感じていても、自分にとっては、暗褐色の液体のおぞましさを「信憑せざるを得ない」悲劇である.しかし、「主観にとって、対象の実在が不可疑なものとして現れる」という「確信条件」を抽出することができるかもしれない.豆からコーヒーを抽出するのではなく.「確信成立の条件」の鍵はここからはじまる.

 貴方が目の前に映る、特異な深紅の自動車を見たとする.歩道でちらっと見えただけなのでじっくり見て回ることはできない.しかし、我々の内在意識には、ありありとした「2座席ミッドシップレイアウト」や「甲高い音を放つV型8気筒エンジン」、「彫刻の如く削り出されたような吸気孔」「跳ね馬の紋章」などという構造をもった像が与えられるならば、我々はそれをFerrariなのではないか、と感じ、その知覚像を、現実に存在する像と信じざるを得ない

Ferrari 488 GTBと知覚される像を、右から左へと駆けてゆく姿を認めたと仮定する.

 さらに、駆体が走り過ぎる姿を見るとき、可視範囲は次々と連続的に変わる.見える姿は当たり前だが変わっていく.部分部分を徐々に、次々と新しい局面を以て対象性を保ちながら知覚する像を与えられる.側面から後面へと.こうも知覚してしまうと(というのも変だが)一定の条件を与えられると、「信憑せざるを得ない」ことがわかっていただけると思う.もちろん、いくら信憑せざるを得ないとは言っても、実際に駆体が実在に一致することはありえない.確信に過ぎないのだから.それにずるい言い方だが、488GTBだと思ったら実は488 Pistaかもしれないし、F8 Tributoあるいは SF90 Stradaleかもしれない.以上は、「確信成立の条件」の解明の序章である.これは、「私」が対象を客観事物と信じる条件=主観的確信の条件解明に過ぎない.

 次は私だけでなく、ほかの人も、通り過ぎる車体が488GTBだと信憑する条件を解明しないとならない.もう少し、仰々しく言うと、「他者もその対象を客観存在と信憑している、と私が確信すること」である.これを用語に換言すると「間主観的確信」の条件である.

 こうした考え方をすると、「超越」という強力な「確信」がなぜ成立するのかわかるようになってくると、Husserlはそういう.へぇ……すごいっすね……

 過去の記事を踏まえて話を続ける.一般的に、「どんな学問でも、それ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのではなかろうか」という考えがある.つまり、どんな学問でも客観存在=認識が成り立つという図式を目指すことで、認識問題を解明できるだろうという考えだ.少なくとも自然科学は客観存在=認識を前提として議論をしている.人文科学ではそうは行かない.いわんや哲学でもだ.何もかも役に立たない.以前もこの話をした.私達が議論してきた話題のうち、「意識」する領域というのは、「万物流転」panta rhei的な領域であると言う.そこはあくまでも、主観的、間主観的な領域なのだから、結局「主観的妥当性」しか得られないのではという疑問が生じる.よって、この領域において妥当な学問的判断がいかに獲得されるのかという問題も生じる.

 考え方をつぎのように変えるのが理解のコツらしい.

 「知覚がどのようにして超越者に的中しうるか」ではなく、「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」をまず考える.主ー客の図式をやめようというわけだ.「絶対所与性」とは内在意識の中で確認される個別的な直観だけなのか.「知覚」「想起」「想像」の直観だけが「絶対所与性」なのだろうか.そういうわけではない.繰り返しで恐縮だが「内在意識」の内省によって、個別的な直観だけでなく、さまざまな「意味」のありよう、「普遍性」も絶対的所与として与えられている.上記の写真を例に考えると、Ferrariの車体の「知覚」を内省して、その特質を捉え、それを判断し命題化する.「あれは一台のFerrari 488 GTBが走っている姿だ」と.命題は「○○は○○である」ように一つの論理形式をとる.もちろんそこには「意味性」(普遍性)を観取するが、個別な意識作用から「超えたもの」でもある.一種の超越たる所以はここにあるようだ.普遍性故に超越の性格を持つものの、構成的内在はやはり絶対所与性である.理由はすぐに後述する.

 「現象学の理念」において、Husserlは「構成的内在」を「志向的内在」ということもある.うわ、めんどくさいな……

 どんな認識体験でも、「志向的対象」を持っている.仮に貴方が、誰かに唆されて高級輸入車を取り扱う車屋さんを訪れたとする(無茶な設定だ).オーデコロンを塗りたくりピチピチのスーツを着た従業員が、こちらの車は素敵ですよ、などと適当なことを言い出す.貴方は下の図のように何台かの車を見ている.赤というのは色に関する個的な知覚であるが、「少し朱色に近いのがRosso Corsaという色です」「鮮やかな発色がRosso Scuderiaです」という説明を受けると、貴方は「ふーん」と思いつつ、これらは兎にも角にも赤だよなという意識が伴ってくる.これは構成的内在である.普遍的意味を持つからだ.さて貴方は二台の車を見て、二台の塗装色の差異に気づくが、これらが、Rosso Scuderiaだの、Rosso Corsaだろうと、そんなことはともかく、「」である.セールスの紹介にこだわらず、「赤」という一般的・普遍的なものに還元する.なぜこれが絶対的所与性なのか.

Rosso Scuderia
Rosso Corsa

 確かにセールスに言われてみれば、色は違うなぁ、でもどっちも赤だよね.という直観が働く(はず).二者は違うが類似していると、直観するのである.これは、類似本質の直観である.この認識は実的な要素とは言えないものの、直観した「ピピッときた!」のであれば「絶対に与えられている」というしかない.くどいようだが、これらの車の客観的実在に関して言えば、どこまでも疑わしさを持つ.実は偽物だった、とか、光の具合でそう見えてしまっているだけかもしれないからとか、夢オチという酷い結末もありうる.だが、これまたくどいが、「内在」の直観として考えれば、これは不可疑なのである.

 では、志向的内在は何なのか、といえば、Husserlの著書には、次のようにある.個的な知覚(赤、V8のエンジン音、跳ね馬の紋章など)にともなって現れる対象の全体像を示す.「これはFerrari 488GTBだ!」というときの「Ferrari 488GTB」が志向的な「対象性」であるという.志向的対象性は動かし難く意識に与えられる点で、絶対的所与性である.現象学において、「実的内在」を経て「志向的内在」に至る関係構造が重要となってくる.

 上記に述べたような方法は現象学的「本質分析」である.認識探求の本質学として現象学はある.意識の本質構造の観取をイデアツィオン(イデア化)とHusserlは呼んだ.

 さて、肝心なことは「絶対的所与性」がどこまで及ぶのか、ということである.実的内在だけでなく、構成的内在も絶対的所与性に入ることは確認できた.それで十分か、といわれればそうではない.ひえっ.例えば、コーヒーに関連して、①「暗褐色」を知覚する場合(知覚作用)もあれば、②知覚せず「暗褐色」について論じているだけの場合(表象)、③自分の暗褐色の知覚直観について口述する場合(陳述)、④さらに直観のあり方の特質を本質的に観取して把握することもできる(イデアツィオン).

①給湯室で淹れたコーヒーを見たときに、「うわぁ暗褐色だ…」と知覚するときの暗褐色

②コーヒーを見なくとも、会話で職場の話題が出たときにふと、思い浮かべてしまうときの暗褐色

③自分にとっての暗褐色とは、どういう知覚体験であるかということを帰宅してから妻に説明する(聞かされる方はたまったものではない)

④毎晩就寝時に独り暗褐色についてひたすら内省し、ついにイデアツィオンしてしまう

 どれも酷だが、意識対象は暗褐色である.同じ対象であっても異なった所与性がある.必ずしも所与性の例は四つだけではない.我々に明証的な所与性として現れる対象は無数にあるだろう.所与性の違いが、経験において、普通の知覚体験なのか、表象なのか、陳述なのか、知覚一般の本質把握なのかという区別を我々に示す.私達はこれらを難なく区別している.だからこそ我々は現実でなんとかやっている.私達はこれら区別の仕方を言葉にして説明するのはかなり難しいが、自分自身に確かに与えられているという揺るぎない感覚において確信し(内的根拠)、区別できているのだという.

だが、もしこれが何らかの機能障碍によって所与性の内的根拠が失われたり、機能失調に陥るとすれば、我々が言うところの精神疾患に当てはまるかもしれない.繰り返しになるが確信形成の条件を解明するというのは、必ずしも哲学の領域だけで有用なのではなく、精神医学の一部の領域(精神病理学)においても有用なのだ.

 さて、「内在」ー「超越」という図式の理解があれば、「客観存在」とは実は内在において形成された「対象確信」であったと気づく.もはや主ー客の図式は不要だ.「確信」として我々に所与されるのは「内在」における所与性に応じた「志向性対象」として構成されるからである.所与性のありようによって、「対象確信」の像が作られる.Husserlはなんとかして、「確信」の根拠として「絶対的所与性」の概念を規定しようとしてきた.「絶対的所与性」が厳密な認識の基礎というわけでもないことがわかってきた.認識が妥当なものであるか、すなわち、普遍的な認識と呼べるには、どのような条件があれば良いのか、それを解明することが要諦である.

 まだもう少し続きます.おそらく次回で最終回になると思われます.次回は間主観的な確信条件について.

 50回を記念し、ここで改めてお礼申し上げます.いつも読んでくださりありがとうございます.主な読者は日本の方ですが、米英仏独豪伊露中といった海外の訪問もちらほらいらっしゃって嬉しく思います.岡倉天心効果は間違いなくあるはず.日本語だけでなく多言語で亀吾郎法律事務所の理念を紹介できればと思っています.

今後ともご贔屓いただけますよう、よろしくお願い申し上げます.

フヱノメノロギシュ・レダクスィヲン:I

図1
図2

 上の2つの画像をご覧いただきたい.見る人によって感想がきっと違うと思う.「赤い車だな」と感じるのはきっと共通した意見だろうがそれ以上はどうだろうか.「変な顔だ」「俺はあまり好きではない」「やっぱすげえなぁ」「俺実物で見たことあるよ」「昔乗ってましたね」なんて意見があるかもしれない.「もしかしてFerrari?」「そんなことより今日も暑いね〜!!」

 すでに気づいた方もいるかもしれない.上のうち二つは同じ車ではない.どちらかがどちらかを模したものである.そう言われれば「あぁそういうことか」と理解した人もいると思う.一体何のことを言っているのかさっぱりだという方は安心していただきたい.わざとわからないようにしたのであり、わかる方はほとんどいないはずだから.

 この二者を提示して何を言いたいのか.以前の記事で予告した伏線を回収するために今回特集を組んだ.それでも何を言っているのかわからないぞ、という方.ご辛抱いただきたい.この記事は事前の知識がなくても問題ないように作っているつもりなので.

 図1、図2のどちらかは、Ferrari F40と呼ばれるFerrari社が製作した自動車のレプリカの写真である.

「へぇ、そうなんだぁ」という声が聞こえてきそうだ.「ふむふむ、やっぱりそうだったんだね」という洞察に長けた方もいらっしゃるかもしれない.だが、もし違いに気づいた方がいれば、何をもって違うといえるのだろうか.

「ほら、フロントバンパーの形状が違うじゃない、図1は薄いけど図2は厚みがある」

確かにそうかもしれない.でも気の所為かもしれない.

「そんなこと言われたら自信ないよ、ずるいって」

 そういうご意見は真っ当なものだ.まぁ写真だけじゃなくて他にも色々な角度から吟味した方が良いだろう.だがこのブログの性質上、平面以上のことはできない.悪しからず.

 さて、自分の見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうものといったものは人にとってかけがえのない感覚で、それらを頼りに私達は生活している.「この魚、鮮度がよさそうだからこれにしよう」と考えてスーパーマーケットで買い物をするし、「以前にしまっておいた煮物、なんだか酸っぱいな、傷んじゃったのかな」と味見をする.

 オンラインで買い物をするときもレビューをよく見て、「なんだか良さそうだからこれにしよう」と考えて決めることも往々にしてよくあることだろう.失敗することもしばしばだが.人々は皆自分の感じたことをもとに判断を下して、意見を述べたり記録する.そうした判断、実践の積み重ねが学問、芸術、文化となっていつしか手の届かない領域まで延長され、広がってゆく.

 「あの先生はあぁ言っていたけれど、私は違うように思う.私はこうだと思うから、私の考えを広めたい」

という人がいたとする.その人は研究者の中でも若手の気鋭であるが、師事する先生の考えはどうしても相容れなかった.新しい学派を興してこれを主流にしようとする.新学派と旧学派が生まれる.

 「どちらとも何をいっているんだ、論点がガバガバじゃないか」という勢力も出てくる.論壇は混迷を極める.徐々に複数の学派が対立して、主流派なぞは存在しなくなり、終いには「かめはめ派」や「唐紅に水くくると派」といった泡沫学派が誕生する.(一体何の学問だろう?)

 このような事態が生じるのはなぜか、という問に対してある哲学者は「主観」―「客観」の不一致が生じるからだ、と言う.自分が思っていることと、世の中で知れまわっていることは一致しないという.そうかも.結局のところ、自分は主観であって、客観になりえない.「客観的に見て」という言い方も畢竟するに主観的な物言いである.

 そういう意見もあるけど、光の速さって誰から見ても一緒じゃない?長さだって、メートル原器があるし、そもそも定規とか巻き尺があるから長さは皆から見ても一緒ですよね.温度も同じことが言えますよね.単位は違っても換算すれば結局同じ話じゃないですか、貴方何がいいたいんですか?

 という辛辣なご意見もいただくに違いない.仰る通りで、光速、温度などは高度な内容を追求しない限りは自明な基本概念や単位と考えられている.しかし、それはすでに「主観」―「客観」を一致したとみなして議論を進めているのではないか?あたかも当然の如く、光の速さは均一だとか数学・物理学の議論が自明性を帯びているからだとされているからでは?私は光速の絶対性や数学の学問の正しさを学術的に論じることはできない.だがおそらく多くの人々は、ごく自然に1+1が2であることを経験的に理解する.自然現象を観察し、帰納的に導くことで公理や法則を発見する.こういった自然科学において、「主観」―「客観」の一致は暗黙に認められている.認めないわけにはいかない.でないと学問が瓦解してしまう.

 ところが、人文科学においてはそうは問屋が卸さない.先程述べた事例があちこちで生じている.例えば心理学はFreud派もいればJung派もいる.Adler派、Klein派……きりがない.政治学においてもイデオロギー対立は生じたままであるし、歴史を巡って、異なる学派はいつも喧嘩ばかりしている.学問を超えてインターネット掲示板でもツイッターでも激しいレスバトルが繰り広げられる.認知科学と称して心の動きを調べる研究があるじゃないかという指摘はあるかもしれない.しかし、それは心という機能が存在するという事前の了解に基づいた研究であり、実証的科学の域を出ない.認識の根本の可能性に迫ってはいない.なぜこんなことになっているのか.

 それはE. Husserlの言葉を借りると近代哲学以来の「認識問題」における謎、すなわち「主観」ー「客観」が一致しない謎が解明されないからだという.またHusserlかぁ…… ほんと亀吾郎法律事務所はHusserlばっかりだなぁ……

 「えっ、じゃあ解明されたら、そのごちゃごちゃした学説や学派は一つのなるのかな」という問に対する答えは今のところない.解明されていないのに解明してからのことを考えるのはちょっと気が早い.でもなんとか、その謎を解き明かしてみようとする努力はなされてきた.

 「認識問題に関する謎」つまりそれは「『主観』―『客観』は決して一致しない」という哲学的原理(以下、「主客不一致」)から出発するが、その解明の試みはR. Descartes, I. Kant, D. Humeらが挑んできたという.結局のところ彼らの意見では主客は一致しないという結論になっている.その後の流れは一度割愛する.

 一方、数学的妥当性など自然科学の分野で主客は一致していることが自明となっている.客観的な認識、妥当な認識によって人類は月面に着陸し、音速を超え、インターネットで世界をつないだわけだ.謎が明らかではないのに、我々は主客一致を前提とした自然科学の確からしさを知っている.なぜだろうか.これをHusserlは次のように問いかけた.

 事象そのものを的確に捉える認識の可能性に反省を巡らすとき、我々を悩ます様々な難題.例えば、それ自体として存在する事象と認識との一致はいかにして確信されるのか.認識はいかにして事象そのものに「的中する」のか.

 主客不一致が真であれば、そもそもなぜ「客観認識」というものが可能なのか(なぜ「的中」しうるのか).いや、じつは不可能なのか.自然科学でなされる主客一致が、なぜ人文科学でなし得ないのか.それはつまり、「認識」の本質とは何か、ということになってくる.

 Husserlによると、この謎を解く手がかりが一つだけある.認識の本質を紐解く方法論が現象学である.

 その方法を現象学的還元(Phänomenologische Reduktion)という.おお〜なんだかかっこいいじゃん.

 問題を解決するためには、「主観」という「客観」対立概念を一度棄てる.その代わりに別の図式で考えてみる.「内在(immanenz)」―「超越(tranzendeniuz)」という関係で.    

ん?

 まず「内在」は現象学的にいうと(Husserlの考えに基づいていうと)、内省によって捉えられる「意識」のありようをいう.誰でも、自分の知覚体験がどんな具合かは内省して見て取れる(知覚を知覚できる).ダジャレで言うと、「おしっこが近くなったことを『尿意』と知覚する」.「内在」は決して「心」だとか心理学的な用語ではない.「心の中」にあるものが内在で、それ以外を「超越」と考えるのはいけない.心理学は哲学ではない.まったく違う.

 「おしっこに行きたくなる感覚は自分だけに与えられた感覚であるから、これは自分にとって申し分なく全くの疑わしさなく、『尿意』である」

 あるいは、

 「あの物体が『Ferrari F40だ』という感覚は自分にとって疑いのないものである、この感覚は誰がなんと言おうと不可侵である」そういった感じだろう.たぶん現象学をおしっことFerrariで例えたのは私だけか.

 さて、内在という概念がものすごくピュアなものであることを説明したところで、Husserlおじさんの話をよく聞いてみる.「内在」は「実的内在」と「明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」にはっきり分かれるんだね、という.この区別が大事なのだとHusserlは言うのだ.

 まず「実的内在」とはなんぞや.これは「どう考えても、どうあがいても誰にとっても現に疑いようのない方法で自らを与えているもの」(=絶対的所与性)を言う.

 つまり、図1、図2を見て、「赤い」「角張っている」「車輪があるな」といった知覚、想起、想像などの「個別な直観」をいう.要はパーツである.要素と言っても良さそうだ.

「いやいや、どう見ても緑ですよ!いやーなんといってもこの球体はすばらしいなぁ!!」ということにはならないから、やはり認識における「決して誰も疑えない契機(要素)」である.

 もう一つは明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」.これは長すぎるので「構成的内在」と呼ぶ人が多い.それは何か.

 それは実的内在を受けて構成された「対象的意味」をいう.例を述べる.

 図1、図2を見て、こう洞察する.「赤くて角張っていて、車輪があって……ワイド&ローなボディに大きなリアウィング.抑揚のないボディで2ドアだろうから、これはクーペボディか.エアインテークがドア後方にあるからミッドシップレイアウトだな.スポーツカーかレーシングカーかな.少しタレ目のようなヘッドライト、その後ろに格納されたハイビームのリトラクタブルライト、サイドミラーがあるから公道走行できるんだろう.じゃあナンバーが取得できるスポーツカーだな.ボンネットの前方にわずかに見えるロゴはおそらく跳ね馬の紋章だ、とすればFerrari F40だろうか」といった具合だ.

 Husserlの言わんとすることは、ある知覚体験を持つとき、「内在」には必ずこの2つの要素の「所与性」が存在するが、これら二つはどちらも絶対の絶対に絶対に疑えない契機(要素)であるということ.二つとも明証的な所与性である(この明証性が病的に破綻した場合はおそらく精神病圏へ足を踏み入れるのだろう).

 では、超越とはなんだろうか.念の為申し上げておくと、これまで拙作のブログ記事を読んでくださった方は超越を混同してしまうかもしれない.ここで出てくる超越は全く別の使い方をする.哲学における超越は結構重要な用語なので誤解して欲しくない.

 「内在」は絶対に疑えない要素、「超越」は反対に、必ず「疑わしさ(可疑性)」を持つ.また、例を出そう.

 図1、図2を見て「これらはFerrari F40だ」と思ったとする.これを「内在」―「超越」で考える.「これらはFerrari F40だ」という認識は実は「超越」的な認識である.

 なぜか.実はどちらもFerrariではなくてPontiac社のFieroかもしれないからだ.Pontiac FieroはFerrari F40のレプリカベースでよく知られている.失礼な言い方をすると劣化レプリカである.もしかすれば車ではなくて、精巧に作られたハリボテかもしれない.実在性がわずかでも疑わしいもの(可疑的であるもの)は皆「超越」といわれる.すべての超越的認識は可疑性をもつ.この点に関してHusserlおじさんはしつこい.

 あれ?さっきF40の説明の件で構成的内在って言ってなかったっけ?ごちゃごちゃしてくる方がいるかもしれない.しっかり言っておくと、F40の実在性に関しては可疑的なのだということだが、図を見て「これらはFerrari F40だ」と思う意識体験自体は、決して疑いようのないものだということだ.わからない?大丈夫.まだ話は終わっていないから.

 車の写真を見せられたと思ったらいつのまにか哲学の話になっていた、と思った方がいらっしゃればそれは筆者冥利に尽きる.この話はもう少し連載するので興味を持ってくださったらとても嬉しい.ご期待いただければ幸いである.

ここまで読んでくださってありがとうございます.