「記憶/物語」を読んで 4

スピルバーグの「リアル」

 三章は物語の陥穽という題である.陥穽とは落とし穴のようなものだ.今度は映画作品を批評することで、<出来事>の分有可能性を探ってゆく.スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)の「Saving Private Ryan: 1998」はよく知られた戦争映画であろう.第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において行方不明となったライアン一等兵を探すため、米軍上層部からミラー大尉は特別部隊を編成するよう司令を受ける.ライアンは上に三人兄弟がいたが全員ヨーロッパ戦線で死亡したという.もしライアン兄弟が全員死んでしまい、それが報道されれば本土の合衆国民に厭戦気分が広がるであろうと軍部は判断した、という事情になっている.決してライアンの母親を慮ってはいない.戦争継続のためである.

 軍部の立場であれば、巨視的な視線で検討をするのだろう.国民、メディア、同盟国、政府などそれぞれとの関係性を鑑みて戦争を進めることはおおよそ予想はつく.どうやらSole Survivor Policyという、国防総省の指令に基づくものらしい.この作品はフィクションだが、史実ではとある五兄弟の全員戦死により、世論の注目を集め上記規定が作られた.また、別の四兄弟の一人を除いて全員死亡したことが、作品の基となっているようである.

 さて、映画はノルマンディー上陸作戦「Operation Neptune」の舞台、オマハ・ビーチから始まる.多数の兵士を乗せた上陸用舟艇が浜辺に集結、連合軍の総力をかけてドイツに攻め込む作戦であった.舟艇が着岸した瞬間に敵に狙撃されて死ぬ者、砲弾で木っ端微塵になる者、四肢のいずれかが吹き飛ぶか、腹部外傷で腸管が脱出する者、敵味方問わずおぞましい光景が延々と続く.迫真の戦闘描写である.どうやら映像史に残る20分らしい.つまらない表現で恐縮だが、見事、圧巻である.銃声、装備、兵器は可能な限り本物を使用しているようであるから、好事家も涎を垂らす設定であろう.「リアリティ」にこだわり抜いた作品として名高いはずだ.

 だが「記憶/物語」の著者、岡真理はこうした世間の評価に対して率直な疑問をぶつける.これは「リアル」なのか、と.我々(のほとんど)は実際に従軍していないのに、実戦経験も無いのになぜ「リアリティ」を感じるのかと.「リアルさ」に関する疑義である.何を言うんだ、設定も装備も本物に限りなく忠実なんだぞ、映像も従軍カメラマンの目線で撮っているし、時代考証もばっちりだ.これこそ「リアル」じゃないか.これ以上なにを望むんだと反論があるかもしれない.反論に対する彼女の意見は後述する.

 筆者は同監督の作品、「Jurassic Park: 1993」にも「リアルさ」に対する指摘を行う.コンピュータ・グラフィックスで再現した恐竜の動きは「リアル」だと評価を得て、大ヒットとなり続編などが作られ、テーマパークの一要素にもなっている.恐竜、特にティラノサウルスに対する我々の認知は「トカゲのようなツヤツヤの肌で、獰猛な肉食生物」ということになったと思う.図鑑や映画で観る恐竜のイラストは皆勇ましくて、学童の頃の私を虜にした.だが、研究が進むにつれて、「実は羽毛があったのではないか、もっとずんぐりした体躯だったのでは」という仮説も浮上、それをもとにした予想図を見ると、なんだか出来損ないの七面鳥のようで、かっこよさはあまり感じられなくなってしまった.とは言えどフサフサの恐竜も私は好きである.

 (ドラえもんとその一味を除いて)誰も恐竜を見たことがないのに、「リアル」だ、という感想は前述の戦争映画に対する感想と同じ水準であると、筆者は言う.もちろん製作者らは当時の科学的な考察に基づいた再現をしたはずである.彼女はそれを非難するのではない.リアルさを追求することによって監督は何を目指していたのだろうか、監督は現実を再現することは可能であると信じていたのではないかと考えるのである.彼の作る映像作品によって.

 もし、スピルバーグ監督が実際にオマハ・ビーチの作戦を経験していたら、彼は「Saving Private Ryan」を同じリアリティで描くだろうか、と彼女は怜悧な指摘をする.「そりゃそういう作品だもの、同じリアリティで作るでしょ」と意見があるかもしれない.ではもし恐竜を見たことがあったと仮定するならばどうだろうか.映画に映る恐竜が想像の産物であることは自明である.だが、フェイクに対して「リアル」だということは、参照されるべき<本物>の存在を想起させることで、「リアル」ではないことを逆説的に語ってしまうと筆者はいう.所詮はよくできた偽物扱いになってしまうという考えである.リアルという言葉を彼女は「限りなく真実味のあるもの」という文脈で、本物や真実と使い分けていると思う.「リアル」は直線に限りなく接近する漸近線に過ぎない.「Saving Private Ryan」に使用される兵装、銃声、爆風、そして吹き飛ぶ腕.どれも「リアル」だがそれ以上ではない.作品には「Adieu」のような時間・空間の断絶、回帰する暴力性は見当たらない.銃、爆弾など見てわかる暴力である.彼にはリアリズムの欲望が貫かれているという.だが説明できない出来事、抑圧された記憶は登場しない.同監督の1993年の作品、「Schindler’s List」に対しても彼女は次のような意見を述べる.

 ホロコーストという<出来事>の体験が、リアルに再現できるような出来事として再現されてしまっているという事実、まさにリアルに再現するという当の行為により、再現されたもののリアルさの距離を測定することができる、参照することができるような出来事としてホロコーストがありうるかのように語ってしまっている

 「リアリティの追求によって現実を再現することは可能である」という監督の信条が真ならば、「現実の再現が可能ではないのは、リアリティの追求がないからだ」、という対偶の命題も真のはずである.しかし、「フラッシュ・バック」現象を思い起こしていただきたい.暴力的な出来事は、リアリティの追求とは無縁に瞬時に回帰するのではなかったか.または、CPUの高度な演算性能やグラフィックボードの描画性能の向上を備えた現代のコンピュータ・ゲーム市場は今や、流麗な三次元空間を展開し、物理現象を再現したコンテンツで溢れている.人物の動き、表情はモーションキャプチャで録画されたものを仮想空間に生き生きと作り出す.リアリティが追求されている結果、「Call of Duty」シリーズ、「Battlefield」シリーズといった軍事系一人称視点シューティングゲームは、精細な描画と生々しい動きの登場人物らによって、第二次大戦の戦場や冷戦における代理戦争の場面を再構成し、刺激的な娯楽にしてしまった.今や売れ筋コンテンツとして圧倒的である.建前上年齢制限があるので、お父さんお母さんの名義で購入し、こっそり遊んでいるキッズもいるかもしれない.

 いやいや、ゲームでしょ、なに熱くなってんだよと思うかもしれないが、映画もゲームも同じ水準では無いのか.いずれもリアリズムの欲望が貫徹しているが、我々はそれらがフィクションであることを知っているではないか.「Call of Duty」シリーズは様々な人物が操作可能なキャラクターとして登場するが、私の知る限り残忍な兵士はおらず、拷問や暴行、私刑を行うことはない.あくまで任務に忠実な兵士であり、国防や解放といった大義に基づいて作戦を実行する(オンラインプレイを除く).確かにリアリズムは追求されているが、殺人を正当化する大義が与えられている影に、虐殺、暴行といった<出来事>はまるで見えないもののように感じられる.否認なのだろうか.だが、これは誰の否認なのかはわからない.配給会社(Electronic Arts)か.プロデューサーなのだろうか.脚本家なのか(シリーズ七作品が発売されているが脚本家は一致していない).とはいってもテレビゲームという娯楽が戦争を取り扱えないのではないかという懸念があるかもしれないので私なりの擁護をしたい.戦争というテーマを取り扱ったゲーム作品において、私が秀逸だと思うのは、小島秀夫氏による「メタルギア」シリーズである.彼のプロットは複雑だが、独自のユーモアと見え透いたフィクション性が登場人物を浮き彫りにするのだろうと思う. 

 以上から私は岡の指摘をようやく理解する.彼女の主張は基本的に背理である.一見妥当だと思われる命題が逆説的な意味を含むということを彼女は繰り返していると考える.まどろっこしいようだが、これは筆者の思索過程の開示であり、難しいテーマと対峙するその姿勢は稀有なものであろう.妥当だと思われる命題を盲信することで我々が嵌ってしまう陥穽を気づかせてくれるのかもしれない.

 リアリズムの欲望とは、言葉で説明できない<出来事>、それゆえ再現不能な<現実>、<出来事>の余剰、「他者」の存在の否認と結びついている.

いつも読んでくださってありがとうございます.