ファントム空間への誘い

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適用と応用の可能性

 前回、安永浩の仮説である統合失調症理論の序論を説明した.その中でも彼の理論の骨子である「パターン」は英国の幻の哲学者、ウォーコップの考えに大いに影響を受けている.

 「全体」と「部分」、「自分」と「他者」といった対になる概念が存在する.彼に言わせれば実存的二元論ともいうようだが、前項をA、後者をBとすればABの関係は次のようになるだろうと述べた.

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

 AからBへの方向は自明、「どうかんがえてもそうなるでしょ」という関係、論理的必然性だ.

 全体が部分を支配する、という文章は整合性を保つし、実際にそのとおりである.自分があるから他人がいる.これも整合性を保つ.逆の、他人がいるから自分がいる、という文は奇妙だし、そうとはかぎらないだろう.「他人がいるからなんだというのだ」ということになる.「ある条件を満たすと、そのようになってしまう」のが条件的偶然性である.この他、生死、質量といったカテゴリーも同様だ.

 この論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 小高い山を考えてみる.Aの山とそれより低いB山がある.AからBへと川が流れている.と、いえば予想がつくだろう.水流は重力によって従うからだ.これは一つの秩序である.一方向的でもある.A>Bが常に成り立つのが我々の世界だ.

 なぜかBからAへ水が流れる事態が、統合失調症の病理だと述べるのである.つまりはB>Aである.そして安永は、A、Bは連続変数的でもあるという.これを代数に置き換えて、a, bとすればa→0、 b→0ということもありうるという.これは混迷や解離、器質的な疾患による意識障害といえるだろう.ちなみに0になった場合は死んでしまうことと同義だ.ではA=Bはあるのか、と言われれば理屈としてあり得るが(部分の総和が全体ということはある)、これは生命体として非常に緊張を孕んだ危ない状態を示す.自明な論理関係が今にも逆転しそうだからである.だからA>Bでなければならない.

 Aが強いとは主体的体験の切実さ(快にせよ苦にせよ)を、Bが強いとはその「パターン」の分化度の高さ、精密さを、ほぼ意味するであろう.

とも述べている.

 おそらく、これは私の考えであるが、HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか.a, bの変動の起る契機について安永は説明を試みているが、私見ではHSPたる敏感さは後者のほうだろう.以下の通りである.

一、abに対する相対的余剰が動因となって変化が起こる場合.

これは俗にいう、生命的エネルギーに溢れた余りの行動形式がこれにあたる.この際主体はただエネルギー消費のためにのみ、その相手としてB面が求められる.その行動の結果、aが減少しbが増大して、一種の平衡に達して動きが止む.「そうしたいからした」という理解.

二、逆にbの増大傾向のために、(aの余剰が不足を告げ)これが動因となって変化が起る場合.

 この場合は危急に迫られたためのやむを得ない回避行動である.人は健康に生きている限りa≥bであらねばならぬからこのようなB側の強要によってこの釣り合いが破れることは絶対に阻止せねばならない.それはaを増やすか、bを減らすかである.「不安」とは一般にこの補償能力が危殆に瀕したことの信号である.その最後のエネルギー動因過程でもある.「不安」を持ちうる間は均衡はまだまったく破れてはいない.これは「死・回避行動」であり、不快である.「したくてするのではない」という理解.この際、我々は予感される将来の大きな苦痛を、現在の小さなbの段階で回避しようとする.この予感の究極は「死」である.この予感の能力が大きいほど、事態はより小さなbの段階で回避され、「死」からの遠い「合間=時間」を作る.

さて、HSPの話を少ししたが、以下のような特徴があるようだ.出典はこちらである.(当事務所はいかなるサイトとの利益相反はない)

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

 こうした特徴は、前述の「そうしたいからした」、「したくてするのではない」という観念の持ちようによって肯定的にも否定的にも取れるのだろう.この特徴を深堀りするのは、ファントム空間論の詳細に踏み込んだ時にするので、まずは簡単な理解でよい.HSP(Hyper Sensitive Person/People)と呼ばれる人々は先天的・後天的によらず、aとbの値が近いのではないだろうか、という考えは私の仮説として、捉えていただいて、今後の安永の論考に期待したいと思う.

 さて、安永はこれまでの説明をもとに、統合失調症理解の応用を行おうとする.彼によれば、真に「統合失調症」なる本質は(正常およびその他の病的事態には決して怒らぬところの次のこと、すなわち)、

 体験の「パターン」において、A、Bの秩序が逆転すること(a<b)、によってほぼ正確、統一的に表しうる、と考える

 と安永はいう.具体的には前回の議論ですべてABを入れ替えれば、新しい体験事態の構造が得られるというのである.この理解は、ユークリッド幾何の公理に対して非ユークリッド幾何の公理が果たす役割に似ているという.よくわかんねぇなこれ、というZ世代の方には「ポケットモンスターダイヤモンド・パール(プラチナ)」におけるギラティナの棲む「やぶれたせかい」である.もっとわかんねぇなこれ…… 同じくゲーム、「サイレント・ヒル」における異世界でもあるか.「SIREN」の屍人や闇人の棲む世界観でも良い(よくない).通常の体験様式が通用しない世界ということだ.

幻覚の問題

 統合失調症における主要な症状を順番に扱ってゆく.とはいっても順番は関係ない.まずは幻覚について扱う.幻覚はどのような状態か、という点について安永は「知覚」あるいは「表象」と共通するものを持つところの一特殊事態、という.なんだそれは?

 まずは正常例のパターンを考える.Aは「みる」主体、Bは「みられる」対象である.Aは体験として「私の」知覚・表象であり、Bは「なにかの」知覚・表象である.「表象」、俗っぽくいえば「イメージする」体験の特性は、Aの支配的な性質によりすべて誘導される.

 逆に「知覚」の特徴はBが場面の力動を支配している.それは刺激として外界から流入するものである.それは表象のように主体的緊張に依存しない.しかし絶えず、主体の予期しなかった新奇な面を供給するという.とはいっても、主体にとっては主体の予期したもの以外は見えない.新奇性の発見はない.Aの力動はどちらかといえば、見えているから見ている、といったやむを得ず動因された因子である.しかしながらこの関係は決してA、Bの関係を破るものではない.

 さて、統合失調症における幻覚は、ある種のパターンを持つのでは、と考えてよさそうである.つまりはa<b である.まずは特徴を確認しておこう.

一、それは全く意識清明と思われる状態において現れる.

二、患者は病識をもたない.

三、その「事実」性が異常に強烈である.

四、にもかかわらず、いわゆる感覚性はうすいようで、内容は一般に断片的で、意味はわかるがはっきり細部まで再生は困難である.

五、多くは自己に向けられた呼びかけとしてきかれる.

六、「直接頭に聞こえる」「腹にきこえる」など常人に想像のつかない奇妙な説明、定位がなされる、等々.

 一、二について、これは臨床家なら納得の症候である.失神や脳血管疾患の意識障碍は病識を持つ.「急にバットで頭をなぐられたような頭痛がしてそのあと…」「あれ、私いままでどうしたんでしょうか」もし、本当に一過性の意識障碍であれば、上記のような病識を持つはずなのだ.よって広義の意識の問題は生じていない.

 症例の声に耳を澄ますと、その「声」は圧倒的に外部の声である.とても図々しい.声が図々しいのではなく、その起こり方が図々しいのである.荻窪のラーメン店の行列で並んでいたら横入りしてくる図々しさである.体験を自分の体験、として支配する力はなく、その蹂躙にまかせるのみである.まさに圧倒的支配.

 となるともはや正常のパターンが通用しなさそうだ.a≥bが通用しないのである.a<bとなっている方が説明的である.ただし、我々がこの事態をそのままに「追体験」することはできない.我々はa≥bだからである.対称性が主体性に先行する、という異常事態が起る.まじで.この事態を体験している人はBから理解すれば、Aもわかる筈だ!というに違いにないと安永はいう.

 自分がいて、他人がいるとわかる.という論理から他人がいて、自分がいるとわかる、といったトンチキな理解になってしまう.ソビエト式倒置法以上のカオスである.(ソビエトでは人がテレビを見るのではない!テレビが人を見るのだ!)

 幻覚では、Bがすべての前提であり、支配者である.これは外的な実在ともいえる.これがあたかも普通の知覚体験であるかのように「声をきいた」と意味づけるしか方法がないのだ.これは彼らなりの応急手段である.

 確かにこれまでの安永の論考を見れば、統合失調症の定義がa<bであることがわかり、生理的幻覚や夢幻状態はa=bであり、bがaを超えることはない.意識障碍では0へと変数が縮小してゆくと考える.

 さらになぜ統合失調症においては幻視よりも幻聴が目立つのか、という問いにも一応の解釈を示している.おそらく幻聴は「言語的」機能問題であること.そしてそれが完全に機能するには、「パターン」の分極がかなり強いという生理学的・生物学的特性をもつこと.さらに統合失調症の発病の侵襲によって逆転しやすい破綻性をもつ、ということが想定される.一方、視覚的情報を用いる直観的思考はそれほど「パターン」分極がつよくないらしい.よってa, bが小さくなっても幻視は生じるし.統合失調症の発病においてもこの機構が逆転することはあまりなく、安定しているのであろうという.なかなかに見事なロジックである.ただし、幻視がないのではない.錯覚というよりも強制力を持った現象が生じる.「一つの”顔”が頭につく……」それも無機的で蒼古的な変容を帯びる.これはa<bの萌芽なのだろうと安永はいう.そして徐々に奇怪な幻視の訴えに発展する.

 解離性障碍における離人感についても安永は言及しているが、この辺の考察は結構難しいのでまた理解がおいついた時にでもご説明しようと思う.

ここまで読んでくださりありがとうございます!

 

 

 

ファントム空間論に到る前に

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了解について

 本編の前にこちらからご覧いただくとよいかもしれません.その続きはこちらにあります.

  分裂病(統合失調症)の基本障碍とはなにか.という問いかけから著者、安永浩の論考は始まる.だから統合失調症を避けずしてファントム空間論を語ることは出来ないのだが、なるべくこの辺りの論理をしっかり抑えつつも適度に流していこうと思う.

 K. Schneiderは統合失調症には一級症状として6-8つの用法があることを指摘した(考想化声、思考奪取、作為体験、対話性幻聴、考想吹入、考想伝播、妄想知覚など).

 こうした症状から他の症状を導き出すことを理想としているのだが、「導き出す」とはどういうことか、という問いかけが残っており、さらなる追求が必要であると述べた.この問題に対する考え方はW. Dilthey, E. Husserlらがもたらした方法的反省の立場が有用だとして、これらをK. Jaspersが精神病理学に導入した.ここで「了解」「説明」という方法の体系が組織付けられた.

 「説明」的な方法論では、無限に仮説的中項を設けることになってしまい、心理現象を本質的に検証することができないという.基本障碍は「説明」的になってはならないと安永はいう.なんのこっちゃ.続けてみよう.

 一方、「記述的分析的」ないし「了解的」な心理現象の理解は「心的連関の直接所与の上に安らって」いる為、前者のような矛盾をもたない、という.どゆこと?心的所与の「全体」から出発して「部分」が分解されていくのであってその逆ではない.「基本障碍」とはこの場合その「全体」をつかむことになるが、それはここの事実の認識を契機とし、土台とはしても、それから構成されるのではなく、そのつど、一次的に把握されるのである.こうした「全体」から「部分」を導き出すことは正当な権利を似て言われ得る、とする.

 そうすると、この立場は「了解不能」という壁に突き当たる.Jaspersによれば、「了解」が限界に行き当たる時は因果的「説明」に到るものとされる.しかしもし「説明」が上記の限界を免れぬとすれば、これは統合失調症の心理学的理解の終末を意味し、統合失調症の症状は、ただの忠実な外面的記載と平面的羅列にとどまってしまうのだろうか.となると、「基本」的な追求も無駄になってしまう.

 これは序文に過ぎないのだが、最初から難解である.私からなんとか大意を抜き出そうとしてみれば、次のようになる.

 ある架空の症例が、「頭のなかで自分と誰かが大声で喧嘩をしている」と述べたとする.K. Schneiderの一級症状の考え方をすると、これはVoices heard arguing、すなわち対話性幻聴である.では対話性幻聴から他の症状を「導く」とはどういうことか、これがよくわからない.そこで、現象学的な考え方を使ってみることになる、K. Jaspersがまとめた方法には、「了解」「説明」という二つの考え方が用いられた.

 了解というのは精神現象を把握する方法である.「悔しくて怒る」というのは「悔しい」という精神現象と「怒っている」という精神現象の連続である.これらは感情移入的、共感的なものとして了解できる、という.(インターネット用語でいえば『わかりみが深い』かな?)「悔しい」と「怒っている」はそれぞれ関連がある.それゆえに怒っている人を見て、「悔しがっているんだろうな」、だとか悔しがっている人を見て「怒ってるのかな」と思うのは自然だ、ということだ.「心的連関の直接所与の上に安らっている」というのはそういうことである.だがこれらは因果律とは似ていて、異なるもので、「悲しいから泣く」という現象は連関と因果律を思わせるが、「嬉し泣き」も存在する.「嬉しい」と「泣く」という意味の連関はその人をとりまく状況や本人の発言との関連においてその都度了解できるのだ.

 しかし、ゲラゲラ笑っている人を見て、「この人、さぞかし悔しいんだろうなぁ」とは思わない.フヒヒヒヒと笑っている人に「なぜ笑っているの?」と尋ねて「悔しいからに決まってるでしょ!フヒヒヒヒ」と言われたら、「エッ???」となるはずだ.

これが了解不能という現象で、ある精神現象と関係のない精神現象が生じた場合は、「これもうわかんねぇな」という状態に陥る.

 こうなった場合、私たちは、その背後に病的な身体的過程(精神病)を想定し因果的な説明を求めることにした.したというか、そうせざるを得ない.「なにか病気だからこうなっちゃったのかな」という推理が働く.通常の意味連関が共有されず、精神現象とのつながりに異質さを生じさせるのが、了解不能である.

 説明というのは、病的な身体過程を想定するのではなく、心理現象として、「この人は過去にこういう体験があったからそれがきっかけで、ゲラゲラ笑っているのだろう」という仮説を挟んでいくものである.つまり、可能性は無限大になる.あらゆる可能性が考えられてしまう.

「ゲラゲラ笑っているのに悔しがっているというのは、実は心理学的には否認の状態で、実際、彼の心的状態はどちらかというと悲哀の反応に近く……」

 なんてごちゃごちゃしてくると、もはや取り付く島もない.無限に仮説的中項を設けることで本質上検証ができない、というのはそういうことである.

 だが、了解不能なものに対しては説明を試みるしか無いのである.Jaspersは、わからないもの<了解不能>は、因果的説明にいきつく、という.ところでもし、「説明」がさきほどの統合失調症心理の探求限界に行き当たらない、なんてことがあったとすると、もはや統合失調症を理解することはできなくなってしまうのでは?という恐れが生じかねないと安永は言う.それは「了解」に関する誤解であるとし、以下重要なことを述べる.

 心理現象界の作用形式を掴み、秩序付ける認識は体験から直接導き出されてゆく方向になされるべきで、(そうすれば「説明」的認識の意義もその中で正当に-「了解」を限定規制するものとして-位置づけられてくるが)

もしこの順序を逆にすると(「説明」だけから出発すると「了解」は永久に現れてこないから)背理となる.

 以下、吾郎なりの理解を以下に記してみる.

 こころの世界がどのように私達に働いているかを理解し、その世界の法則がどのようなものかを感じるということは、実際に経験したことから直にわかっていく(了解→説明)流れが大事である.(そうすれば、「説明」することで理解できる、という立場もまっとうに「了解」の立場を自然と決めることとして位置づけられるから)もしこの順番が逆になると、「悲しいから泣いている」という現象を理解するときに、説明が先行してしまうと、無限の注釈がつくことになってしまう.つまりいつまでたっても「了解」が出てこなくなってしまう(畢竟おかしい話になる)から、逆説的に正しいのだ.

 ここで要点をまとめておきたい.

 精神現象は「了解」していくことで、こころの世界の働きを知ることができるが、もし「了解不能」となった場合は、因果律に基づいて「説明」することが必要となる.そういうわけで「了解」→「説明」という流れが大筋となるがその逆は決してありえない.

 K. Schneiderの提示した一級症状というのは、「思考奪取」「考想化声」「作為体験」などである.これらは教科書的にも統合失調症の症候として現代もよく掲載されている.だが、これらがあるからといって、決して統合失調症とは限らないのである.脳腫瘍によってもこのような状態は起きるし、ステロイド多量服用でもそうなる.エリテマトーデスでもそうなるのだ.これが一次的な症状、根幹の症状として他のすべての症候を網羅できるかと言うと、大きな誤りだ、ということを安永は言いたいのである.これはファントム空間論への布石である.彼はもっと大きな「基本障碍」があるのではないかと考えるのである.E. MinkowskiやH. Bergson, L. Binswanger, E. Straus, J. Zutt, K. Goldstein, K. Conrad, 西丸四方らの考えを紹介してゆく.だが、どれも基本障碍を説明するものとしては、扱いが難しかったり、安易な説明的概念になってしまうとした.もし、「基本障碍」があるとすれば、それは相当抽象度が高い次元のものだろうと、彼は想定している.そこで彼は以下の考え方を紹介する.

パターンとは

 彼は「パターン」と呼ぶ概念を提唱する.暫定的訳語に「実存的二元構造」と注を付けているが、この際「パターン」で良い.

「パターン」とはなにか.彼は英国の哲学者、O. S. Wauchope(ウォーコップ)の考え方に示唆を受けているという.私は全く知らないし、哲学史で輝く人物では無い.生年没年も不詳、著作は唯一”Deviation into Sense – The Nature of Explanation”のみであり、英文学者である深瀬基寛(1895-1966)がいなければ、我が国には知られることがなかったであろう、「幻のポケモン」のような人物である.

 私達は、「自」「他」、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といったカテゴリーの一対を知っている.これらは基本的に論理学的定着された形式的概念として使われることがほとんどであるが、安永はもう少し突っ込んで考えている.

 これらは皆違ったものではあるが、各々の対の内部構造においてなにか特異なものを共通にもつように思わないだろうか、と読者に問いかける.これらにはなにかある相互連帯的関係が感じられないだろうか、と.どうしたんだ安永くん、急に.

 彼はこうした特異性を以下のように抽出する.「自」「他」の前者をA、後者をBとする.他の三対も同様である.すると、次のような形でAとBは一般化できるという.

一、 A, Bは各々の見地において完全な分極をなし、第三のものCが介在する余地はない.また一方を欠いては成立しない.

二、 体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることは出来ない.それは人が体験自体から出発すれば直接「わかる」というほかない.自らが議論の出発点になりうるのみである(この意味で公理的、明証的である).

三、 上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験にあらわれてくるゆえ、導かれ、理解されうる.

四、 その逆は成立しない(!)すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない.

 この第四項は特に重要であるとする.それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とは言い得ないことを意味している.そしてこのことの承認こそが、この論文で主張する方法論の背骨となる.

 私達が生きている限り、「自」という意味がどんなものかなんとなく知っている.「意識的に」では無いが、「体験的に」知っている.自分のことは自分なのだから直接「わかる」だろう、そうしてわかる以外にない、という理屈だ.だが、「自」でないものが必ず存在する.「他」である.「自」があるからこそ、「自」でないものを「他」ということができるから、命題一、二は理解できるだろう.

 「自」があるからこそ、「他」が理解できる.この流れがすごく大切である.この順序が逆転すると、おかしくなる.私達は「純粋な他」というものを想起できない.「他」を考えれば考えるほど、気が遠くなり「体験の彼岸へ遠ざかるため」理解できない.これは、R. Descartesの「我思う故に我あり」と同じように、どこまでも疑いに疑い抜いた挙げ句、自分だけは疑いようがない、ということと結局は同じである.

 自分とは、私達の体験にとって「他でもない、という以上のなにか」である.「体験世界は自我・非自我でできている」という命題は「了解」できる.しかし次はどうだろうか.

 「体験世界は他・非他」で出来ている」

非他ってなんだよ?ってことになる.意味不明である.つまりどういうことか.もともとの体験構造に、「自」の支配性、優越性を見るのである.ベクトルで表記すると次のようになるだろうか.

$$\overrightarrow{ 自他 }$$ はあり得るが、$$\overrightarrow{ 他自 }$$ はあり得ない.

別の言い方をすれば、

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

故に$$\overrightarrow{ AB }$$ は「実存」的な方向である.

 もちろん、「自」「他」だけでなく、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といった対も同様に考えることができる.こうしたカテゴリに着目し一般化したのはどうもウォーコップが初めてらしい.

 以上を総括しよう.

 前述のような論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造関係を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 安永はこの「パターン」の説明に相当な紙面を割いている.詳しく知りたくなった人はぜひ書店へ!と言ってもこの本は書店にはほとんどないだろうし、知りたくなった人もあまりいなさそうだから、本論で追補したいと思う.

 次回、統合失調症への適用について.いつも読んでくださりありがとうございます.