饗宴:1

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 やっと「饗宴」を読み終えることができた.「饗宴」(Symposium)というのは勿論Plato(プラトン)の著作のことなのだが、この和訳は様々な出版社から出ている.私は過去に東大出版会から出た山本巍氏の「饗宴」を購入したことがあって、よし、読むぞ.と意気揚々と読み始めるとPhaedorus(パイドロス)、Pausanias(パウサニアス)、Eryximachus(エリュクシマコス)ら(誰だ君等は!?)の話がなんだか、空を掴むような、お麩を生でかじっているような感じになってしまい、エロス(Eros)賛美の話の深奥まで辿り着かなかったのである.お麩は生でかじったことがないので、今の例えはフィクションだ.

 しかし、こんな重要な著作を読まずにJ. LacanのSéminaire(セミネール)を理解できないであろうと密かに思っている私は、なんとかして読破したいと数年願っていたのだった.どうやら「転移」の章にはPlatoの「饗宴」が大いに関わっているようなのだ.「転移」というのは精神医学や心理学で知られる現象の一つだとだけ述べておく.というのは私にはその現象について語るに十分な知識を持ち合わせていないからだ.大変申し訳ないと思う.

 なぜ「饗宴」も「セミネール」も読んでないくせにそんなことを知っているんだと言われれば、人から聞いたからであると答えるしかない.私はかつてとある場所でこうした古典の抄読会に参加していたことがあった.私はその場でも何もしらない愚か者同然であって、いつも気まずい思いをしていたのだが、そこでG. Hegelに出会い、E. Husserlに出会った.J. Lacanにも当然出会ってしまった.S. Freudもそこにいた.あらゆる先人が次から次へと現れては私にとってはまじないのような言葉をつぶやいては消えてゆく.ドイツ語やフランス語で展開されるのだから堪ったものではない.参加者は皆原書を持っていて、極めて熱心にそれを読んでは「これは本当にいいねぇ」とニヤリとする.気持ち悪い光景ではあったが、同時に憧れを持ってしまった.高度なオタク同士が共通の言語を用いて、秘密の談合をしているような感じがした.以下のような調子だ.

 「ぼかァネ、彼の “Das an und fürsichseiende Wesen aber, welches sich zugleich als Bewußtsein wirklich und sich selbst vorstellt, ist der Geist.”ってところが実に明快でネ、いやァこれは大変なことですよ」(訳:自分自身を「意識」として現実的なものとみなすと同時に、自分自身としてもみなす、このような「即かつ対自的な本質が」「精神」なのだ

 本当に大変なことだった.普段はむっつりしている人々が、なんだかこっそりエロ本を持ち寄って究極に気持ち悪い猥談をしているといったら言いすぎかもしれないが、私からすれば、憧れと尊敬を通り越して悔しさと苛立ちも隠せない状態であった.気持ちを抑えて、とかく私は外国語の勉強を再開し、「エロ本」集めに邁進したのであった.その本の一つが、「饗宴」であった.

 「饗宴」は、ほぼおっさんたちによるエロス(Eros)を讃える飲み会の様子を伝聞形式で描いた紀元前4世紀の作品で、高い文学的価値を持ちつつ哲学的内容が充実した傑作とされる.私は光文社古典新訳文庫から出された中澤務訳を入手し、ようやく読み終えることができた.大変にわかりやすい訳で、おっさんが生き生きと演説をする様子がわかってしまった.十分な解説がついており、これがなければ私は少年愛について誤った理解をしてしまうところだったし、プラトニック・ラブが誤解されて一般に使われていることを知り、Alcibiades(アルキビアデス)のSocrates(ソクラテス)への複雑な感情をわからずに「なんだこの乱痴気な奴は!」と勝手に憤って紙面に爪を立てていたかもしれない.

 一応、私からも「饗宴」のあらすじをお伝えしようと思う.

 ある日、Apollodorus(アポロドロス)とその友人は二人夜道を歩いていると、人から声をかけられ、Apollodorusに、昔Agathon(アガトン)という悲劇作家が悲劇コンクールで優勝した祝勝会を自宅で催したときの話をしてほしいと頼まれる.ApollodorusはAristodemus(アリストデモス)という祝宴に参加したおっさんから聞いた話を話して聞かせるのであった.

 AristodemusはSocratesの弟子で、二人で若い新人作家であるAgathonの家へ向かっていた.Agathonは悲劇コンクールを受賞したばかりで、見知った人々で宴会を行う運びになっていた.なんやかんやでAgathonの家に着く.実は皆は連日宴会続きでかなりグロッキー状態であった.「酒はもうやめにして、何か別のことをやろう、そうだ、『エロス』をみんなで順番に讃えていこうぜ」、とEryximachusという三十路過ぎたお医者さんが提案する.皆快諾.参加者が一人ずつ『エロス』について語り、ついに会場は耽美な領域へと突入する……

 先手は若手のPhaedorus.「エロスは最も古い神で、大変尊いんだぜぇ……」という内容で話始めるのだが、どうも面白くない.教科書的で、背伸びした感覚を受ける.彼は弁論を学んでいるルーキーらしく、盛んに引用をして権威付けをはかるのだが、「あの○○先生も大絶賛!!」といった広告の宣伝みたいで「うーん.どうもありがとう、お疲れ様.もう帰っていいよ」といった感じになる.

 次鋒Pausanias.エロスには二種類あるのだ.と述べ、<天のエロス>と<俗のエロス>に分け、二項対立を以て議論を行う.この二つのエロスは人間の恋愛に大きな影響を与えているとし、美しい愛し方と美しくない愛し方に分かれるという.ほぉ.男性が女性を愛するのは、心ではなくて身体を愛しているから(肉欲)で、それは美しくない愛し方なのだという.美しい愛し方というのは同性愛なのだ.男性を愛するという事自体が美しいんだぜ.と主張する.

 「へぇ、そういう意見もあるんだね……Pausaniasはそういう考えなんだね……」どうやら彼は、現代でもほぼ同義の同性愛者であったようで、彼の主張は自身の嗜好を弁護するようなものだった.なぜこのような主張になったのかは後述する.

 次に演説するのはAristophanesのはずだったが、しゃっくりが止まらないという理由でEryximachusに譲る.彼は医師という立場でエロスの説明を試みる.Pausaniasの主張を一部取り入れ、エロスは二種類に分かれるという.ただ、それらは健康なエロスと病的なエロスに分かれる.医術というのは何が美しいエロスで、なにが悪い病気のエロスなのかを見分けることができることだという.身体の優れた健康な部分に従って、そのような方向へ仕向けることが治療なのだともいう.優れた臨床医は身体の中の互いに敵対するものを親和的なものに変化させないといけない、調和を目指すことが必要だと説く.エロスの解釈はさらに広がり世界の調和と不調和を二つのエロスが支配し、調和へ向かって人間の生活に大きな影響を与えているという.うーん.

 ここまで来て、「エロスって結局なんだよぉ」と私は大いに落胆した.最初に買った山本訳を途中で諦めてしまったのは、Phaedorus、Pausanias、Eryximachusの演説を読んでわけがわからなくなったからである.「エロス」ってこんなに多義的なのかと思い、これらが理解できない自分は、もしかすると今後もついていけないのかもしれないと恐ろしくなった.どうもEryximachusは話を大きく広げた感じが否めない.自分の専門領域に話を落とし込んで話をするのは誰でもそうだが、結局「エロス」の話をしていないのではという印象を受けてしまう.こういうお医者さんは現代でも沢山いる.「エロス」は情愛における強い欲動をさすのではないかと、そういう議論の終着を予想した私は狼狽した.

 実はここまでの展開はPlatoの思うつぼで、ここから読者を引き込んでいくのだったことに私は長く気づくことはなかった.もしPhaedorusやPausaniasの話も面白いと思った方がいれば、それはそれで大変結構なことだと思う.

 次にAristophanesの話に移る.実際の彼は保守的な男で、Agathonを揶揄し、Socratesを若者を堕落させた男と評しておりなかなか辛辣だそうだが、ここではPlatoは愉快な男として描き出している.彼の話は結構ぶっ飛んでいるので、結構面白い.妙な説得力と面白さから彼の話は本作で最も知られているそうだ.彼は神話を語り始める.太古の昔、人は現在の人間が二人くっついたものを一人とした球体の生き物だったという.くるくる転がって動いていたそうな.二体の組み合わせで、男、女、アンドロギュノス(両性具有)という3つの性に分かれていた.古代人は力が強く尊大であることから神々に反逆しゼウスの怒りを買う.ゼウスによって古代人は身体を二つに割かれ、現在の人間の姿にしてしまう.人間は二人抱き合ってなんとか戻ろうとするがもとに戻らず次々に死んでゆく.よくこういう話を思いついたものだ.ゼウスは人々が死んでしまうのは困るので、生殖器を移して性交渉ができるように一計を案じ、子孫が残せるようにしたという.この神話から、人間が本来の片割れを探し求め、それと一体化したいという欲動のことをエロスと呼ぶのだという.

 なんだかすごいけれど、どういうことなのだろうか.これって神話でしょう?EryximachusがPausaniusの話を受けたように、AristophanesもEryximachusの話を受けて説明を続ける.それぞれの説法は独立しているように見えて実は受け継いでいるのであった.詳しくはぜひ本編を読んでいただきたい.Eryximachusはエロスが世界の調和を担うという自然的な役割を試みた.Aristophanesは彼の演説を一部引き継いで、エロスが自然的あり方であることを認めつつ、世界の調和を図る動きではなく、個々の人々に内在する動きであると主張した.

「愛する人と一緒になって一つに溶け合い、一つの存在になるのだ.これこそが俺たち人間の太古の姿であり、人間は一つの全体で会ったのだから.そしてこの全体への欲求と追求を表す言葉がエロスだ!」

 彼の主張の要点は「エロスの本質は欠如にあり」というところであり、後の論者にまた受け継がれる内容である.Aristophanesの主張では、欠けた半身を探して合体しなければ幸福になれないということになる.それはジグソーパズルの欠けたピースを探すように特定の半身を見つけるという限定された欲求とも言える.

 Agathonが演説を始める.彼はエロスの本性を説明し始める.第一にエロスは神々の中でひときわ美しいのだと.若く、繊細でしなやかで美しい肌をしているなどという.そしてあらゆる美徳を身に着けているともいう.なんだかPhaedorusの弁舌のような感じを覚える.今でも架空のキャラクターやアイドルグループの敬虔なファンは「推し(おし)」と称してあらゆる修辞法を使って褒め称えるのと同じかもしれない.また飾り立てて褒めちぎる論法はどうなんだろうかと思いきや、聴衆からは大受けするのであった.彼は演説に際して様々なテクニックを用い、論法の構成も整っているし、韻を踏んで音としても美しいからであった.私にはわからなかったのだが、古代ギリシア語で読むと圧巻なのだろう.

次回、SocratesはAgathonと対話を仕掛けるところから続く.

 

Pandemic and Persona

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 以下の記事は2020年7月2日に医学誌The New England Journal of Medicine Perspectiveに掲載されたものを翻訳したものです.記事は無料で読めます.https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp2010377


パンデミックと私のあり方

マイケル W.カーン 医学博士

 誰もがCovid-19のパンデミックとどう向き合っていくか模索していた一方で、私はとある不安げな患者につい最近こんなことを言ったのを思い出した.

「インターネットで『ニューハンプシャー レイクトラウト 記録』で調べてみてはどうでしょうね」

 彼は釣りが好きだった.それで私は先日の新聞記事を思い出したのだった.ちょうど例の感染症が広がる前のころ、にこにこと笑みを浮かべた釣人が誇らしげに超巨大な魚を抱えている記事だった.私は彼がさらっとこの話を流すだろうことはわかっていた.私の言ったことが彼にとって、不吉でもなんでもないのに未だ気になったり、意味深に思われるかもしれない.もしかすれば気晴らしになったか、なんだか落ち着いたかもしれない.釣りに関心のある人なら誰にでも言ったであろうことだった.しかし、医師が患者に言うこととしてそれで良いのだろうか、私のプロ意識は保てるのだろうか.

 精神科医としてのキャリアが40年を迎えるころ、私はコロナウィルスが広がる以前から、私のプロとしてのありよう、つまり患者への姿勢と作法といったものが、徐々に私個人のものへと一層発展してきた.専門的な力量に関する不確かさと疑念が時を経て、より自信と専門性ともよばれるものへ変わってきた.私は患者たちにより自発的に振る舞うことで私はさらに自由になっていくのを感じた.より「ありのままの自分自身のように」、という感じだった.私はある限られた個人の細かなこと、例えば旅行はどこへ行くのか、観たことのある映画などを共有することが心地よくなっている.それと、ユーモアを用いて外部からの調整役と対話の潤滑油を担う心構えがさらにできていると思う.

 こうした緩い関係は私と患者の境界をどっちつかずにするわけではない.当たり前だが、私は個人的な問題を患者に共有することはないし、公にすることもない.例を述べると、家の修理や調べ物について患者の助言を強く頼むこともない.しかしプロとしての私と普段の私の違いというのはなくなってきている.私は一人の温かい専門家であると同時に一人の人間なのだという感じがしている.そういった結びつきこそが、より確かで私を元気づけるのと同様に、しばし患者にとって治療的であるように思われるのだ.

 そしてパンデミックは訪れた.サミュエル・ジョンソン氏の言葉1を言い換えれば、これからウィルスが押し寄せてくるという見通しがあるとなると私の思考は見事研ぎ澄まされた.臨床的な優先事項がより明確になって、実際、パソコンでの遠隔医療面接するという数週間の経験が、そうでもなければ理解にかなり時間を要したであろう、プロであるがゆえのフットワークの軽さが、どれだけ危険であるか、共有されたかがわかったのだ.私は時折、いかほど患者が家族や友人の情緒的かつ身体的な健康について取り合っているか訊くだけでなく、それらについて探りを入れることで面会を始めることがある.次に患者が私が元気か、家族の様子はどうだとか尋ねてくると、私はおおよそ隠さず話すようにしている.私は患者がいくらか体を動かしているのかどうかや、いかに独りぼっちな気持ちを抱えているかを尋ねている.患者の中には日々のルーチンはそれほど変わっておらず、人との距離を取ることはかえって棚ぼたのように思うものもいる.

 私は皆が日々をどのように過ごしているか訊くのが好きだ.ある患者は読んでいる本をパソコン内蔵カメラに映るように抱えていたので私にはその背表紙が見えたことがあった.オンライン面接の間、患者の猫が画面の中に突然飛び出してきて、いかに動物が患者の健康にとってかけがえないものであるかを彼女の顔から読み取れたこともある.私は患者の住まいをビデオツアーすることで思った以上に暮らしぶりが落ち着いていることを知り安心したのであった.時々私はZoom2上の精神科医というより地元のお医者さんのような気持ちになる.

 私はまた、動画面接の締めをしようとするとき、思いがけず小さく手を振ってさよならを伝えようとしていることに気づいた.それは少なくとも悪いことではないように感じている.遠隔医療の身体的な近接感の無さがこうした型破りと新鮮味を生み出し、医師患者関係のぎこちなさをほぐしていくのだろう.医師と患者は歴史を紡ぐ体験を共有している.塹壕の中に無神論者はいない3と言われているように、この大惨事と無縁な人はほとんどいない.

 この危機はそれゆえ一つの機会をもたらす.ウィルスに対する我々の同じ脆さのおかげで、医師にとってそうでなければ何年もかかるであろう事実がすぐに認識できるのだ.事実とはすなわち我々は患者とどこも違うところはなくて、病気でない人とごく自然に付き合うように、そうすることが彼らにとって大変嬉しいことであって、我々を気楽にしてくれるということだ.医師というのはしばしばある種の仰々しい役を演じる職業意識と、そういった態度から逸脱して過度な気さくさや、対人の線引に関する問題が生まれるのではないかと懸念する.これらは考えなければならない現実の問題である(しかし臨床での結びつきを犠牲にすることなく考えなければならない).伝統的な医学の作法や態度というのは確かに学ぶ必要がある.しかし、ジャズの偉人、チャーリー・パーカー4が即興の秘訣とはコード変更を学ぶことであり、忘れることでもあるというのを私は思い出す.私は上手く患者と馴染む一つの方法は医学の職業意識についての標準的な教育を受けることと、それをまさに忘れるのでなく、自分自身の中に溶け込ませ反芻することなのだと思う.

 話はまとまらなかったかもしれないが、私は、パンデミックの行方が、多く謎に包まれ(心の奥底では楽観視できる)中で、皆が『医者らしく振る舞うこと』が型にはまった態度を意味するものではなくて、より心に根ざしたものを理想的には意味するのだとより広く気づくやもしれないと考えている.


 ボストンのハーバード・メディカルスクールおよびベス・イスラエル・ディコネス・メディカルセンターより.

 この記事は2020年5月6日にNEJM.orgに出版されたものです.


訳注:

1: “Depend upon it, sir, when a man knows he is to be hanged in a fortnight, it concentrates his mind wonderfully.” Life of Johnson, Vol. 3, 1776-1780

 「閣下、状況次第です.これから絞首刑になると知れば人は皆見事に思考を研ぎ澄ますものです」(筆者の拙訳).Samuel Johnson (1709-1784) は英国の文筆家.文壇の大御所と言われる.上記の文章をもじったもの.絞首刑をコロナウィルスの猛威に言い換えている.

2: Zoom Video Communications, Inc. が提供するウェブ会議サービスのこと.コロナ禍によってビデオ会議が急速に普及した.

3: “There are no atheists in foxholes.” 「塹壕の中に無神論者はいない」極度の緊張を強いられる場面では誰しも神頼みをする、よって無神論者はいないという格言.出典は不明.

4: Charlie Parker Jr. (1920-1955)は米国の名ジャズプレイヤー.モダンジャズの創始者と言われる.


感想:

 翻訳は実に難しい.日英は主述の形が異なるので、どのように配置するのかは苦心した.原文を読んでいただければわかるが、かなりの超訳(迷訳か誤訳)がある.遠慮なくご指摘いただきたいと思う.一方で、大変勉強になった.私の尊敬する先達が言っていたことが身にしみる.例えば、sportsmanを調べると、運動選手を意味すると思いがちだが、それでは本文で全く意味が通らない.アウトドアを楽しむ人、釣り人のような意味もあると知って、sportの多義性には恐れ入った次第だ.また、Personaの訳は人格といった言葉をよく使うが、語義の解釈を吟味して、かなり訳を柔軟にした.

 この医師は実に気さくな先生なのだろう.かといって本文にもある通り、公私混同をしていない.彼はコロナ禍によって、柔軟な面接をするように意識したと言っているようだが、きっと前から従来の医師の型にはまらないような臨床をおそらく長く続けてきたに違いない.私は精神科における遠隔医療は部分的に有益があると思う.しかし、ビデオ通話だと面接の場の雰囲気が失われる気がするのだ.診察室で繰り広げられる緊張感やある種の張り詰めた空気感というのは臨床での極めて重要な要素だと考える.しかし、カーン医師はかえって患者の日常の一コマが切り取られ画面に映し出されることでより自然な関係性を見い出せると考えているようだ.これは確かにさもありなんである.

 日本における潜在的な需要は極めて多いだろう.精神科医療資源の少ない地域、離島在住、引きこもりや、DVなどの事情により別居を余儀なくさせられている人、災害や事故によって通院ができない人も当てはまる.ただ、その需要をいかに見極めて、その中でどのように必要なインフラを供給していくかが課題だろう.ビデオ会議ツールの使用にあたっては医療と企業の利益相反がないように協議する必要はあるし、面接時間や適応を十分に検討せずに遠隔医療を広げてしまうと、かえって適切な医療の分配が行われず、医療者の多大な疲労が強く懸念されかねない.

 今後も記事を選んで翻訳を行いたいと思っています.ご意見、ご感想いつでもお待ちしております.

私の時間論:急

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 このシリーズでは始めに、古代の人々はそれぞれの生活圏で異なる時間の見方をしているとの指摘を確認し、それぞれ時間を有限の線分、無限の円環、始点があって終点のない無限直線、始点はなく終点のみの無限直線に大別されるとした.人は過去から未来へ流れる直線と、天体運動のように循環する時間をうまく組み合わせ、歴史を紡いできた.特に、時間が過去から未来へ不可逆的に流れる感覚は私達にとって自明であるように思われるが、それは正しいのだろうかという疑問を私はふと思いついてしまったために、こうしてブログに思考過程を開陳した.私なりに書物を読んでいくうちに、なぜかループ量子重力理論に出くわした.そしてトランプカードゲームの大富豪で宇宙を例えるという頓痴気なことを始めた.それは宇宙の「特殊」性を説明するためであって、偶々私達から見ると、世界に時間が流れているように感じているに過ぎない.

 まず、宇宙全体に共通の「今」はない.地球の「今」とアルファ・ケンタウリの「今」は違う.アルファ・ケンタウリは太陽系に最も近い恒星だが4光年の距離があるという.星間電話が確立して、地球からアルファ・ケンタウリにいる異星人に電話をかけたとする(何語で?).信号がアルファ・ケンタウリに届くまで4年かかる.幸運が重なって、異星人が電話に出てくれた!それってアルファ・ケンタウリの今にとっては、地球の4年前のことなのか?これマジ?C. Rovelliによれば、この問は無駄だという.イタリアンレストランに行って、「すみませぇん、ペンネマシマシカラメマシオリーブオイルスクナメニンニクください」とラーメン二郎式で注文するくらいトンチンカンで、「高校の通学にフォーミュラカーで行ってもいいですか、スリックタイヤで」と訊くようなものだという.改めていうと、「今」は大域的ではなく、局所的だ.二人がけのソファに座っているヤングな男女のカップルくらいの距離であれば、「今」は存在する.彼氏の講釈を聞かずスマホをいじっている彼女に、彼氏がいじけて「ねぇ『今』なにしてんの?俺は『今』、宇宙について語っているんだぜ」と問いかけることは意味がある.ちょっと例えが無茶だが.

 時間が流れるリズムは質量や重力場によって異なることをA. Einsteinが説明した.彼の記述する時間と空間は、重力場によってぷるるんっと揺れ動く巨大な黒ごまプリン(ゼリーでもフルーチェでもいい)に私達が内包される一部分であった.ところがどっこい、この世界は量子的.あらゆるものは離散的、すなわち散り散りバラバラに動く.ぷるるんっと動くように見えた巨大な黒ごまプリンは実は白黒のモンタージュが絶えず不規則に動いていて、偶々黒ごまプリンに見えていたにすぎない.もしかすればドラゴンフルーツの断面かもしれないし白米に刻み海苔がかかっているのかもしれない.つまりは時空の記述は近似的で曖昧であったということだ.物理学の根本をたどるとそこには時空はなくて、過去も未来もないということが、ループ量子重力理論が教えてくれることであった.しかし、きっと例の彼女はぶすっとして

 「ふーん.黒ごまプリンでもなんでも良いけどさ.べつに嫌いじゃないし.だからなんなの?」

 ということになるから、もう一度私達の世界に立ち返ってみよう.ちょっと気まずいカップルの世界でもある.私にとって気になるのはどうして自分達の多くは時間が流れているように感じられるのだろうか、ということであった.

 ちょうど別の目的で私はE. Husserlの”Die Idee der Phänomenologie” (邦題:現象学の理念)を読んでいるところであった.他にも彼についての解説本を読んでいると、現象学の目指さんとするところが段々明らかになってくる喜びと、ポンティアック・フィエロベースのF40レプリカと本物のフェラーリ・F40の違いを私たちは如何にして認識するかを考えることができた.(現象学的還元をもとにした見分け方はまた記事にする予定だ)そんな中、この時間に関する論考で多いに参考になった”L’ordine del tempo”に奇しくも、Husserlの「時間の構成」について考案した図(図1)が引用されているではないか.私は密かに歓喜した.Rovelliからすれば引用は必然であろうが、私からすれば偶然である.これも量子力学の思し召しか.

図1 Husserlの考案した図はもっとそっけない.

 この図を説明する前に、最初の問に立ち返る.なぜ私達は時間の流れを感じることができるのかと.端的にいえばそれは私達が「記憶」し「予測」することができるからだという.さらにいうと、私達の脳神経系は膨大な神経細胞のネットワークによって、受け取った感覚刺激を処理しその過程でパターンを認識、そこから予測をしようとする生き物だ.私達がいる現在は過去の軌跡の上にいて、それは描こうとしている彗星の尾でもある.お父さんと少年が仲睦まじくキャッチボールができるのはお父さんにも少年にもボールの軌跡がわかるし、どこに落下するか予想がつくからだ.よほど鈍臭くなければ.

 たとえば音楽を聴くとき、一つの音の意味はその前後の音で決まる.もし私達が常に一瞬の存在であれば、音楽は成立し得ない.私達が音楽を聴いて感動するのは記憶して予測するからだ.この例えを用いたのはA. Augustinusで、さらにE. Husserlでもある.いつの世界も偉大なおっさんはいる.Husserlは音楽をヒントに、時間の構成を図式化した.それが図1である.点Aがなぜ点Aなのかはわからない.何かの頭文字かもしれないが、名前は何でも良いんじゃないか.点Aから出発して、任意のある瞬間Eにいるとする.線分AEは時間経過を表したもので、線分EA’は瞬間Eの「記憶または予想」である.感傷的にいうと「思い出や計画」である.もっとキザに言えば「君と夏の終り、将来の夢、大きな希望忘れない 10年後の8月また出会えるの信じて」みたいなものだろう.

 線分EA’では漸進的沈下によって(図次第では浮上でもいいと思うが)AがA’に運ばれる.これらの現象が時間を構成するのはどの瞬間EにもP’やA’が存在するからである.なにが言いたいのかというと、Husserlおじさんは、時間の現象学の源は線分AEという客観的な現象の連続ではなくて、(主観的な)記憶であり、予想、すなわち図の垂直線、線分EA’としているということだ.記憶や予想をかっこよくいえば、過去把持(Rentation)、未来把持(Protention)というらしいがこの際どうでも良いか.一応まとめると、現在(任意の点E)という時間意識は、一様な均質な時間のある一点ではなくて、過去把持と未来把持を含んだ、幅ないし厚みのあるものだとする.厚みってなんだよーって思うかもしれないが、奥行きと表現してもいいと思う.つまり図1における水平方向とは異なる方向へ垂線を引ければどこでもよさそうだ.

 Husserlに続いて別のおっさんであるM. Heideggerは時間について次のように記しているという.「時間は、そこに人間存在がある限りにおいて時間化する」と.

 また、”À la recherche du temps perdu”(邦題:失われた時を求めて)で知られるM. Proustはこういう.「現実は、記憶のみによって形成される」こうした引用はRovelliが引いたものだが、実にはっとさせられる.ここで私からも独自に引用をしてみたい.日本における現象学と精神病理学の立場で知られているのは、自己の存在構造を考察した木村敏である.彼の時間論は簡単に言えば次の通りである.

「時間とは自己存在の意味方向である」

 この文章を見つけたとき、目からウロコというのはこういうことだと思った.なぜ私達が時間の流れを感じるのかという至極明快な答えであると思う.彼は研究者であるけども、もちろん優れた臨床医でもあるから、純粋な思惟だけでなく患者の言葉をもとに論考を発展させる.これは説得力をもつと思う.これまで何度も述べたように、なぜか私達は、過去、現在、未来という方向に時間が流れるように感じている.しかし、何らかの病的な理由によって時間体験が障碍された人々は、時間の方向性を知的に理解しているとはいえ、自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を感じざるを得ない.そうした喪失感をもつ人々というのは、離人症という状態にある方々であると木村はいう.離人・離人感というのは精神医学における一現象である.一般的には解離症状に含まれる.解離とは「本来は感覚、記憶、同一性を統合した一人の『私』が「心の安寧を保つ場所が見つからない」ことによって覚醒水準としての意識は保たれているのに、『私』の統合が失われた状態」をいう.よって健忘や遁走、混迷、フラッシュバック、人格交代など様々な症状を呈する.これについては筆者の過去の記事にもあるのでよかったら御覧いただきたい.

 中でも離人感というのは、意識変容によって周囲世界と自己の間に距離が生じた状態で、「何をしていても自分がしているという実感がない」、「生きている実感がない」、「自分の体が生身の人間として感じられない」、などの自己や外界に関するリアリティの喪失を述べる症状である.通常であれば、過去から現在、未来へと一方向になめらかに流れるものとして体験されるはずの時間が、流れを失い、無数の「今」のちらばりとして体験されてしまう.

「なんだか時間が経つ感覚が全然ないんです.ばらばらになっちゃって.全然進んでいかないんです」

 彼らが自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を同時に感じるのは偶然ではないと木村はいう.その理由は、私達の時間体験に過去が過ぎ去って帰らないものであり、未来が未だこないものであるという「以前」と「以後」の方向性を与えているのは、「私がいつか死んでいく有限な存在である」という自己存在のリアリティから生じる「生の既存性」と「死の未来性」だからである.過去、現在、未来という時間の流れは「自己存在の意味方向」を本質としている.自分が今生きているとわかっていて、なおかつ、いつか死ぬとわかっているからこそ、時間という一方向のベクトルが生じるのである.よって離人症のように自己存在のリアリティが喪失した場合、時間体験の異常は必然となる.

 精神疾患を有する方々において時間空間の認識に困難を生じることは解離性障害に限ったことではないと思う.特に統合失調症は自己存在の危機に直面する特徴的な疾患であると思う.私はある苛烈な陽性症状(幻覚・妄想)を呈した方を止む無く保護室に収容した経験がある.早期に治療介入し、自体が鎮静するまでしばらく時間がかかったのだが、ようやく落ち着いて保護室から一般病室へ移れる許可を出すため、私が保護室を訪ねると、

「あぁ、先生.どうしたんですか.そういえばさっきお願いしたオヤツの件、どうなりましたか」

とケロッとしていて、長らく保護室にいたことに気を留める様子がない.もちろん毎日回診はするからずっと私と会わないわけではない.スタッフも巡回するのだが、「早くここから出してくれ」とも言わず、オヤツのことを訊く.私とその人をつなぐ時間と空間が断絶した印象を持った.そして「今」関心のあるオヤツのことを尋ねるのであった.保護室という特殊な部屋が一つ要因だったかもしれない.しかしそれを加味しても若輩である私の受けた衝撃はとてつもなかった.木村の言葉を借りれば、「既存性としての事実性」が失われており、現在の自己存在の根拠が成立していない状態であったのだと思う(なぜ自分がここにいるのか知らない).

 以上、時間の方向性が生じる理由について論じてきた.私なりの答えはこうだ.

 自分には生きてきた記憶があって、今も生きている実感がある.そしていつか死ぬことを知っている.その存在のあり方に方向づけが生じる.それを時間と呼ぶのだと.

 だから私達が過去から現在、未来へと不可逆的に流れていく感覚がするのは私達が生きている限り自明である.そう感じるのは決して変ではないし、疑問を感じることもおかしなことではない.

 ようやく賢人たちに追いつくことができたとでも言おうか.いやいや追いつくなんておこがましい.正しく言えばなんとか先人たちの巨大な肩に乗って、少し高いところを見渡せるようになったに過ぎないのだろう.でも本当にこれで理解しているのかな、という不安もある.物理学の先端からの検討、哲学者らの見解、病的な状態からの考察.様々な立場から共通のテーマについて考えを巡らせることができたのは有意義であった.私自身の立場としては、やはり「なぜ病的な状態が生じるのか」という疑問に尽きる.ただこれは極めて難題で、分子生物学的な知見と精神病理学的な検討など学問の複合的な連携が不可欠といえる.まぁ、硬い話はここまでにしよう.

 私にとって生きてきた証は、幼い頃からの記憶と撮りためた思い出の写真と手垢で汚れた本であったり、車のオドメータに記録される走行距離でもある.育てている草木が成長していく感覚や、車に乗って風を感じる時、亀吾郎法律事務所のスタッフが楽しげである姿を見る時に生の充足を感じる.そして、それらがいつか露と消える儚さに心做しか胸騒ぎがする.

車のオドメータは37270kmを刻んだ.

 ここまで読んでくださってありがとうございました.今後も亀吾郎法律事務所をよろしくお願い申し上げます.

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:5

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 過去の連載はこちらをどうぞ.1 2 3 4

 脱出と超越について話をしてきた.日本の伝説、異世界系小説、解離.それらの脱出願望を見出し、文献を引用しつつ私なりに概説を試みた.最後にもう一つ脱出方法を取り上げ、試論を終えようと思う.

 思いつく方法は自ら命を絶つこと、自殺を考えざるを得ない.人には生における耐え難い苦しみや辛さから逃れるため、死を希求する動きがある.また時勢や状況によって死を選択しなければならないこともあった(生きて虜囚の辱めを受けず).

 自殺という言葉を様々な立場から確認してみる.世界保健機関(WHO)によれば「自殺という行為は単一の原因でなく、多くの要因が重層的に関わり合うことで帰結する現象」とする.なお、倫理学者でもあるI. Kantは「自殺は第一に意図的に引き起こされねばならず、第二に当事者自身の行為の直接の結果でなければならない」.一方、近代の自殺研究の嚆矢であるÉ. Durkheim(デュルケーム)は「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける」という.

 定義はともかく、自殺は死への脱出と超越と言える.一つとして帰還はない.……ないのだが、転生として新たな生への帰還を成し遂げてしまうことがフィクションではある.実は前に述べた異世界系小説における転移の方法に、「自殺」がかなり多い.かなりといっても全体の何割が、といった概数は生憎示すことはできない.刻一刻と作品は生み出されているからだ.しかし、ランキング上位作品や、完結済みの作品において自ら死を選択するという手段は容易に認められる(メディア化された作品に自殺からの転生は見つからなかった).現世での主人公はブラック企業の社畜として疲労困憊している描写が散見される.悪辣な上司、連日常態化した徹夜勤務.このような状況が続けば大抵の人間は、抑うつ状態、うつ病に陥る可能性は十分にあると考える.過労が自殺のリスク因であることは知られた事実だが、こうしたこととは相反して、上記の記載が見受けられるということは、作者自身の現実を部分的に投影しているとして捉えても考えすぎではなかろう.作者らが自殺を企図したかどうかは明らかではないが、少なくとも自殺念慮が消極的にせよ存在していたのではないかと私は考えてしまう.小説を書く行為ができるならばある程度は生へのエネルギーがあるだろうと思うので、抑うつ状態にしては軽度なのかもしれない.だが自殺を通した異世界転移は歓迎し難い.なぜかと問われれば、もし仮に自殺による転生の物語が完成度が高く好評で、大衆の支持を得たとする.ギャルから高級官僚まで好評だ.ややもすれば自殺という行動に関して一定の誤解が生じる恐れがある.んなわけねーだろポンコツぅ、と思うかもしれないが、どうかんがえてもありえねーだろ、ということを人間は平気でしてしまうし思い込んでしまう.人類史を振り返れば明らかだろう.竹槍を投擲して鋼鉄の飛翔体を落とそうとする帝国があったような.

 自殺という行為だけでない.その要因たる社会構造を暗に肯定しかねないと考えるからだ.私は少ない経験ながらも若い人から高齢の方まで、悲痛な面持ちで診察室を訪ねてくる患者さんを相手にしてきた.皆職場を契機にうつ病や適応障害といった診断名になる.どなたも口を揃えて言うのは、休むにも休めなくて……私がいないと……仕事がなくなってしまったら……

 そういった言葉はとてもとても良くわかる.それぞれの言葉に対して私なりに説得力のある説明を試みたつもりだが、それではあまりに時間が足りなかった.一人の診察にかけられる時間は極めてわずかだった.たかが5分ではわずかな時間に何かしたくても神の言葉でない限り、その人を健康な世界へ導き勇気づけることは私にとってはあまりにも難しい.社会資源を目一杯使おうという言葉は聞こえがいいが、私のいたところでは資源は足りていなかった.だが「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と言われているようで悔しくてたまらなかった.抗うつ薬をいくら出しても真のリカバリには遠いことは目に見えていた.如何に数を捌くかが求められた.私はその職場を離れることになった.今考えただけでも吐き気がする.そして私自身の不甲斐なさと力量不足があったことを認めざるを得ない.私は今でも申し訳ない気持ちでいるし、何か他にできたのではないかとずっと悔やんでいる.恥ずかしい話だが、私は電話相談や面接で「死にたい」という患者さんに「自殺してはいけない理由」をうまく説明できたと思ったことがないことをここに告白する.どう説明したらよいかかれこれ考えているが未だに名案が浮かばない.誓ってこれまで一度たりと手を抜いたことはなかったが、職業人として失格なのではと思うこともある.

 疾患は人の病的な要素を抽出して還元したものを言うだろう.血圧が高い状態で臨床的に問題なものを高血圧症、血糖値が高く様々な合併症を引き起こしうる病態を糖尿病と言ったりする.それはわかる.だが、月の残業時間が120時間以上で休日出勤が当たり前で、給料は良くないし、残業手当はでない.そんなうちに睡眠不足で慢性的に疲労があって、不安や焦りもあるし、死にたくて……そんな貴方はなんと適応障害です!社会に適応できていないから適応障害です.そんな馬鹿な.私はそういう考え方を好まない.社会構造を吟味せず個人の適応能力にゆだねて診断を下さざるを得ない現在の診断基準や社会のあり方は問題だと思う.隠さずに言えば社会の方に病理の比重が大きく存在していると思っている.だが、日本の社会構造を容易に変えられるかと問われると、そうはうまくいかない.これから私自身、社会学、労働研究、日本人の文化的背景をさらに学ぶ必要があると考えている.

 よって私は安易に自殺をしてほしくない.それがフィクションであっても.自殺をさらっと容認する社会はあってはならないと思う.表現の自由に則って好きなように作品を作るのはいい.沢山創作されるべきだ.だが、懸命に魂をすり減らしてもなお生きようと必死でいる方々を貶めるようなことは厳に慎まねばならない.かといって私はなろう系の一部の投稿者を批判するつもりは毛頭ない.ただ一つ言っておくと、自殺によって転生した後、ケロリとして異世界になじむ作品の描き方は葛藤を表出する人間らしくない.自殺を念慮するとき、その人には凄まじい死への欲動と生への渇望(タナトスとエロス)が入り乱れる.相反する考えが思考を支配するほどの強烈な葛藤が生じる.そんな葛藤を経て死を選んだはずの主人公が転生したとしたら、「なぜ俺は死ねなかったのか」と深く絶望しても不思議ではない.

 結局、脱出は困難である.私は論考を書き進めながら、どんな結末になるかは私の筆任せにしていた.まぁ楽観できる結語を期待するのは難しい.一応、一時的な脱出は可能だ.旅行は脱出だが、死ぬまで旅行を続けることは現実的でない.帰還することが前提になる.亡命という手段はあるが、日本人はほとんどその選択肢をとらないだろう.もう一つは空想へ脱出すること.しかしこれは虚構にすぎず儚いものだ.それでもよければ脱出してもいいが、現実への諦念が色濃くなる.解離.これは条件付きの脱出だが、尋常ならざる苦痛が伴う.例外的な手段と考えるべきだ.そして自殺.究極の手段.たった一度きり.すべてが終わるが、本当にすべて終わる.苦しみも悲しみも消える.だが、かけがえのない存在や生きていたとき感じた正の感情、思い出、何もかも消えてしまう.そして死を考え続け、選ぶことはとてつもなく辛い作業だ.残された人にとっても.

 近年の異世界系小説に見る脱出と超越の話はここまでになる.あまりうまくまとまらなかったが、私が長く考えていたことを文章にすることができたのでひとまずほっとしている.言葉足らずのところや言い回しがくどいところもあるかもしれない.そうした批判は真摯に受け止めたい.こうして文章を書くことで私はもっともっと学ばなければならないことに気づく.途方もなく.さぁ、どこから勉強しようかという気にもなる.私の力不足は勉強への動機づけの一つとなっている.

 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました.皆様の寛容さと忍耐強さには脱帽です.亀吾郎法律事務所は今後も特集を組んで、様々なテーマに果敢に挑んで行きたいと思っています.ご声援よろしくお願い申し上げます.

 

 

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:4

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 これまでにわたって、私は日本では古来よりムラ社会構造が個人の脱出願望に関係しているという考察を引用し、近年盛り上がりをみせる異世界系小説(なろう系とも)の構造を検討した.日本のファンタジーゲーム人気により浸透したであろう共通の世界観は人をひきつけ、様々な媒体へ、経済活動へつながっており、小説家ブームに火をつけている.異世界転移は古来からありふれた筋書きだが、この脱出はいずれも虚構に過ぎない.といっては元も子もないのだが.

過去の連載はこちらからどうぞ. 1 2 3

 脱出と超越の方法は私たち(亀吾郎法律事務所)が考えつく限り、あと2通り存在する.亡命や羇旅ではない.一つは解離という現象.もう一つは自ら命を絶つこと.だが過程においては耐え難い苦痛が生じ、社会的にも医学的にも問題をはらむ.

 解離とは、なにかが離れてゆくこと、剥がれることをいう.その何かは様々だが、医学的には人体の組織が剥がれること(大動脈解離など)、もう一つは人格が離れてゆくこと.ここでは後者の方を扱う(正常な現象としての解離もある;つまらない話の間、聞いていたことを覚えていない、好きなことに没頭して周りに気づかない、大切な人を失った悲しみで気を失ってしまう).もう少し詳しく言えば、「意識が、外傷的事象(トラウマ)を切り離す」という文脈で用いられる.

 病的な解離は精神科の臨床でよく認める現象だ.医学的には解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder: DID)と言われる.この考えは解離概念の始祖であるP. Janet(フランスの精神科医)に始まる.解離性障害では健忘や人格交代、離人感といった症状・現象が生じる.全生活史健忘といって、自分の生い立ちや名前など個人情報を忘れてしまうことがある.離人感は自分が自分でないような感覚、どこか別の場所から自分を見ているような感覚.多重人格は一個人一人格の状態から、人格を切り離して別の人格に交代させてしまう現象をいう.自分が自分でなくなる、アイデンティティの危機である.

 なぜこのような事態が生じるのか.取り上げられる成因として、性的虐待、情緒的、言語的、身体的虐待、ネグレクト、親の保護の欠如、安全な愛着の欠如などが知られている.多くは家族など大切な人の人間関係に由来する外傷体験とされる.学校でのいじめも大きな要因だ.本来、傷を癒やすものとして機能されるべき愛着関係での虐待は筆舌に尽くしがたい心の傷を生み出す.使われた自分、原因である自分、汚い自分、未来のない自分.

 否定的な自己意識は自分を傷つける.自殺とも無縁ではない.こんな自分でいたくない、認めたくない.絶対に認められない.こんな場所にいたくない、こんな時間が早く過ぎ去ってほしい.辛くて辛くてたまらないと.当人の感じる苦痛は計り知れない.

 私達は、どこか自分の居場所を求める.居心地がいい場所.自分が自分らしくいられる場所.現実であろうと幻想であろうと.解離の本態は安心できる現実の居場所がないことにあるだろう.そういった場合、幻想の居場所を求めてもおかしくはない.幻想を求めれば現実との結びつきは希薄になる.自己同一性の危機に陥った場合、私達は自分を守る働きがあるとされる.これは「防衛機制」という.これはS. Freudがもともと心的葛藤を対処する術語を、軍事用語である防衛から転用したようだ.カッコつけたくなるよね.つまり、自分自身の立場が脅かされると、自分を守ろうと、自分を空間的に、時間的に自分自身から切り離す.「解離」という防衛が働いていると精神科職業人は考える.エヴァンゲリオンを観たことがある人は、機体(人造人間エヴァンゲリオン)に搭乗するパイロットの生命が脅かされた場合、パイロットをエヴァンゲリオンから強制射出するシーンを思い出していただきたい.私はあんな感じを考える.観たことのない方はYouTubeで新劇場版が公開されているので、よければどうぞ.エヴァンゲリオンは人の心の動きのメタファーを巧みに描写しているような感じがする.私見だが.十代の承認に関する問題も内包しているように思う.

 解離について着想を譲ってくれたさぶちゃん.最近は大きくなってずっしり重くなった.嬉しいなぁ.

 話をもとに戻そう.解離は脱出と超越の一つなのではないかと、事務所のさぶちゃんが教えてくれた.それには私も全面的に同意である.解離で「こころ」は現実から隔てられた空間へ超越する.これをdetachment(離隔)とよび、現実感の喪失、離脱体験、離人感になる.時間的に超越する場合、これをcompartmentalisation(区画化)と呼ぶ.記憶をなくす(健忘)、人格を交代させること(人格交代)で、それまで自身がたどってきた人生の軌跡を断絶してしまう.だが、これらはだいぶ好ましくない.数ある防衛機制の中でも未熟な段階とされる.切り離された人格は容易に統合されない.どのようにして治療を行っていくかは医師にとっても難しい分野だと考える.そもそも人格の統合が治療目標かどうかは議論されている最中である.

 治療の上で私が考える大切なことを一つ言っておくとすれば、それは患者の安全保障を重視することだろうと思う.その意味で入院は安全保障の契機になる.居心地の良い場所を見出すことで、人格を切り離す必要がなくなるかもしれない.そのためには治療者と患者の治療同盟が欠かせないのだが、これはこれで難しい.いつまでも入院するわけにもいかないので、患者と彼らを取り巻く関係者との折衝技術は勿論、適切な対人関係の構築を身につけていただかなくてはならない.マナー講習会を受けてもマナーが身につかないのと同じように、簡単なことではない.

 解離に関する研究は、神経心理学的な基盤において、意識のニューラルネットワークという見地からも盛んに議論されている.解離に関する話は一度保留して、いつかご紹介できればと思う.

次回、最終回! いい加減終わらせないとね……

 

 

 

亀吾郎法律事務所が目指すところ What our office aims for

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.

 

最後の課題

大学院課題8:なぜ統合失調症は異種的(heterogenous)なのか説明せよ。

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 統合失調症における家系研究や遺伝子研究がなされてきたが、必ずしも遺伝形式に則らない発現が報告されている他、家庭や生育環境によって発症から病態の経過が異なる.また生化学研究で用いられる生理検体が非均一であり、病態の把握可能なバイオマーカーがいまだ同定されていないため、統合失調症が一つの疾患である保証がない.よって統合失調症を単一の疾患と捉えるよりも異種性を生じる複数の病態からなる疾患群と仮定せざるをえないため.

課題2つ分

大学院課題6:不眠の原因となる5つの頭文字Pについて説明しなさい.

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 痛み、かゆみ、咳などの身体的要因(physical)、寝室環境の変化、騒音光などによる環境変化である生理的要因(physiological)、薬物の副作用や離脱による睡眠妨害がおこる薬理学的要因(pharmacological)、心配事やストレスなどによる緊張の高まりで生じる心理的要因(psychological)、気分障害や不安障害などの精神疾患に合併する不眠(psychiatric)が挙げられる.

大学院課題7:セロトニン症候群とドパミン神経系の関係を述べよ。またセロトニン症候群の既往のある患者に、安全に使用できると思われる抗うつ薬は何か。

 セロトニン症候群症例の50%近くにドパミン神経系の関与と思われる症状が認められたと報告があり、D1受容体刺激が体温上昇を引き起こしている可能性が指摘された.動物モデルの実験で、仮説通りセロトニン症候群にはドパミン神経系の興奮が関与し、D1受容体拮抗薬が高体温抑制に至った.Sternbachはセロトニン症候群は5HT1A受容体刺激によるものと提唱しているが、5HT1A受容体刺激薬は体温を低下させる作用がある.一方、5HT2A受容体刺激薬が高体温を引き起こすのではないかという懸念から動物モデルの実験で、5HT2A受容体刺激を行うと体温上昇が有意に認められた.以上の薬理学特性から、D1受容体拮抗作用と5HT2A受容体拮抗作用をもつmirtazapineが有用になりうると考えられた.さらに動物モデルでの試験でmirtazapineがセロトニン症候群の高体温を抑制した結果から、セロトニン症候群の既往のある患者に使用できると思われる抗うつ薬はmirtazapineといえる.

課題はあと半分くらい

大学院課題4:2000年代以降、精神疾患患者の増大により向精神薬、特に抗うつ薬の市場は活性化しているが、一部の製薬会社は新規抗うつ薬の開発から撤退する動きを見せている.その理由を説明せよ.

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 各国で向精神薬の売上が増大することにより行政の財政を圧迫するほどの問題が生じたこと、同種薬の開発に対する批判が相次いだことが挙げられるが、最たる理由はモノアミン仮設を超えた新規抗うつ薬が標的とする分子同定が困難であることが考えられるだろう.他にも英国のように認知行動療法のエビデンスが蓄積され、抗うつ薬以外の治療法にも行政が目を向けるようになったことも指摘される.

こういう課題もある

大学院課題2:中世までの精神医学の歴史は組織的迫害の歴史でもあり、精神疾患患者は処罰にも似た残酷な扱いを受けていた.その概要について説明せよ.

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 中世まで、人々は合理的説明のつかない現象は超常現象と捉えていたとされる.精神疾患も神や悪魔といった超越的存在の為せる業と考えられ、なにか「悪いもの」が体の中に入ることによって生じるとしていた.精神の座をめぐる議論は有史以来続いていたが、治療法あるいは処置は上記の考えによって瀉血、浣腸、熱湯をかける、穿頭するといったものであった.

 模範解答を見るとあんまり頑張ってかかなくてもいいんだということがわかりました.