日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

たまにはゆるい話を

 親愛なる読者の中には、亀吾郎法律事務所が硬派なブログであると思っているかもしれないが、硬いのはクサガメの甲羅なのであって、本人の頭は至ってゆるい.そんなゆるさをブログにも反映させてみよう.小論をいくつか述べたい.

急接近する巨匠たち:麻婆豆腐について

apartment blinds cabinets chairs
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 以前、私は麻婆豆腐について好きなことを述べた.麻婆豆腐の貢献人である陳建一についても述べた.

 陳建一は圧倒的な技巧と豊富な食材を惜しげもなく我々の前に披露し、「公益社団法人日本中国料理協会」というYouTubeアカウント名で麻婆豆腐界の頂点に最も近いであろう存在であった.頂点に近いために、我々世俗の者にとっては到底及ばない世界でもあった.

 そんな彼が、新しい動画を出した.「陳建一が自宅で作る麻婆豆腐」という前作よりも遥かに力抜けしたようなサムネイルが目を引く.一体どうしたというのか. 

 陳建一がなんと、スーパーマーケットで手に入らない食材を代用して自宅でできる麻婆豆腐を紹介するという動画である.なんという衝撃.遥かなる高みにいた彼は、俗人である我々にその長い手を差し伸べてくれるのだ.

「葉ニンニクはスーパーマーケットにありませんから青ネギで結構です」

「鶏ガラスープを入れるのはうちの店ですが、ご家庭では大変ですから、お水でいいです」(水でいいのか)

「『豆板醤と甜麺醤』はここではユウキ食品さんのを使いましょう、香りが良いんですよ」

 素材は市販のもの、技術は最高峰、とはいっても我々でも簡単に作れるように一般の厨房で調理してくれる.RPG(ロールプレイングゲーム)で言えば、ゲームの序盤からものすごく強い人物が助太刀してくれるような心持ちである.

 というわけで早速私は作ってみた.前回の記事を読んでくださった方のためにいえば、マーマイトは使っていない.麻辣の薫風が鼻孔に侵入し、食欲を駆り立てるいつものプルプルが完成した.私にはおやつのようなごちそうである.美味しかった.妻も美味しいと言ってくれた.喜びは望外近くにあるのだ.

急接近する巨匠たち:アッシュパルマンティエについて

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 もう一人の巨匠をご紹介したい.北海道増毛市出身のフランス料理人といえば、三國清三氏である.彼の名を冠した料理店は都心や郊外にいくつかあるようだが、なかなかに美味しい.実際に彼が腕をふるったのかはわからないが.

 フランス料理というのは、パンチの効いた味付け、こってり、ずっしりとした重量感あるものを私は想起する.そして食材を魅せる、という点で優れた食文化の一つだと思う.かといって、日本の家庭でフランス料理をなにか作るとすれば、あまりイメージがわかないと思う.思いつく限りフレンチトースト(Pain Perdu)が手っ取り早いだろうか.

 亀吾郎法律事務所でも最近はまかない料理として、ガレットを作ることがあった.そば粉をつかったガレットにベーコンと目玉焼きを和えるそれは、そばのクレープのようなサクサクふわふわのとろとろで、朝から幸せが体中の穴という穴から吹き出す.

 そして玉ねぎと人参を炒め、さらにひき肉を加えて炒めたものをグラタン皿にしいて、マッシュしたじゃがいもを覆い、オーブンで200℃二十分程度加熱する.この料理を、我々は夕餉にすることが多く、亀吾郎法律事務所の定番メニューである.この名前を我々は(豚ひき肉だが)コテージパイと呼んでいた.英国料理だと思っていたのだ.

 オテル・ドゥ・ミクニというYouTubeアカウント名の三國清三氏は、上記とほぼまったく同じ工程で調理するものを「アッシュパルマンティエ(Hachis Parmentier)」と言っていた.英国はフランスと百年も戦争するほど仲がいいことは知っていたが、なるほど料理もよく似ているのだと大変勉強になった.確かに、肉と芋はものすごく相性がいい.肉じゃが然り、ハンバーガーとポテト然り.ちなみにHachisという言葉は英語でいうところの、Hash(細かく刻む)である.パルマンティエというのは、人名のようでヨーロッパにじゃがいもの普及に貢献したというAntoine-Augustin Parmentierから取られているようだ.要はじゃがいもおじさんである.すばらしい.

 Cottage PieのCottageは一般的な家を指すから、コテージパイも家庭料理であるし、アッシュパルマンティエも家庭料理だそうだ.亀吾郎法律事務所も知らず識らずのうちに家庭料理を作っていたのだった.やはり喜びは思いがけない.フランス料理は宮廷料理ばかりだと思っていた私は愚かでもあった.同時に美味しい家庭料理を知ることは幸せであった.

作り手の顔が見えるということ

 陳建一氏も三國清三の動画も観ていて感じるのは、「作り手の顔が見えるとほっとする」ということに尽きる.マクドナルドハンバーガーの作り手はわからずとも美味しいのはわかるが、そういうことではなく、作り手の思想がなんとなくわかる、ということと、その思想が共感を呼ぶ、ということのなのだろう.

 レストランに行って、ときどき出くわすのが、料理人自ら我々のところへ来て挨拶をしてくれることだ.

「これから少しずつお出ししますのでね、ゆっくりしていってください」

 なんて言われてしまえば、ゆっくりしないわけにはいかないではないか.開放的なレストランであれば、敢えて厨房と客間の隔たりをなくして、調理風景を見せてくれるところがある.そこまでしなくてもよいと思うが、挨拶してくれるのは個人的に嬉しい.忙しいのだろうから決して無理はしないでほしい.けれどもその心遣いが私にとってはキュンキュンと来るのである.そして、ほとんどの場合、そういったお店の料理はすごく美味しい.反例があるかもしれないから、盲信するつもりはないのだが、私は大事な日や妻と外食する時は作り手の顔がみえるレストランを一つの着目点としている.

 私は今後、じゃがいものガレットや鶏レバーのパテ、コック・オー・ヴァン(Coq au vin)を作ってみようと思っているところだ.料理は実に楽しい.

 かつては、ほんの一握りの師弟たちが名工の技を盗んで研究したであろう味が、簡単に市井に及んでしまうのは時代の流れなのだろう、人によっては少し切なくもあるかもしれない.

 いつも「いいね」をつけてくださる方はもちろん、様々な方に見ていただいて嬉しい限りです.ありがとうございます.

亀吾郎語学教室

تعلم اللغة العربية مع سابورو Learn Arabic with Saburo

三郎(さぶちゃん)
三郎(さぶちゃん)

亀吾郎法律事務所の秘書をしている、三郎です.最近、ごろうちゃんのお尻が気になっています.クンクン匂いをかぎすぎてよく怒られています.(発情期かな)

 今日紹介するテクストは以下の五行です.これだけ?これだけです.さぶちゃんはこれらを文法的に理解するのに何時間もかかりました.大変だけどわかると「ぷよぷよ」や「ツムツム」みたいにポンポン連鎖的にわかってくるんです.というわけでさぶちゃんの頭の中を覗いてみましょう!

رساىل السجن

بقلم عبد اللطيف اللعى

٢٨ مارس ١٩٧٢

ياسين، هند. طفلاي العزيران

أكتب إاكما هذه الرسالة لأقبلكما بحراة بالغة، لتشعرا أنى أفكر فيكما كثيرا.

 一行目のرساىل السجنは、紹介する小説の題名です.発音記号をつけて表記してみましょう.この記事は、アラビア文字28字の語頭、語中、語尾の変化を理解して綴りが記述ないし、PCで入力できていることを前提にしています.なぜなら筆者であるさぶちゃんは頑張って自力で覚えたからです.発音記号(ファトハ、カスラ、ダンマ)をつければ、さぶちゃんはだいたいのアラビア文字を読むことができます.しかし抑揚の付け方がよくわかりません.勉強中ですから.いい教材を探している途中です.

رَسَائلُ السِجْن rasayil alsijnという題名ですが、رساىلというのは手紙のことで、複数形になると、発音が変わるのです.単数ならばرسالة(risāla)なのに、複数になると、語根である、r,s,lは残って、母音は変わるのです.大変だこりゃ.

 次のالسجنというのは牢屋のことです.定冠詞الがあるので限定詞です.つまり筆者がいる牢屋、ということを表しています.この作者であるアブドゥル・ラティーフ・ラアビーは思想犯ということで禁固刑を言い渡されたのでした.この作品は、そんな彼が自分の奥さんとこどもに向けて書いた書簡集というわけです.1970年代のモロッコの政治はわかりませんが、自分の考えが政体にそぐわないから投獄されるのはどこも一緒ですね.さぶちゃんはクサガメなので、人間の法律は適用されません.安心.

 というわけでرساىل السجنは監獄の手紙、といったように訳されます.

次はبقلم عبد اللطيف اللعبىですが、بقلمというのは、英語でいうwritten by… に相当します.بقامはbiqalami と読みます.発音記号をつけると、بِقَاَمِとなります.بــ(bi)というのは前置詞で、名詞にピッタリくっつくのです.分離前置詞と非分離前置詞があるので、これまた大変ですが、بــ(bi)は非分離前置詞です.with に近い意味を表します.となると、بــの後には名詞だということがわかります.قلم(qalam)というのは、ペンのことを指します.英語ならば、with pen ということになります.アラビア語は表現にスペースを取らないんですね!その次の句は、著者の名前です.アブドゥル・ラティーフ・ラアビーと表記するのに、عبد اللتيف اللعبىと綴るのです.アブドゥルというのは、عبد+ال アブド+アルの発音をリエゾンしたものなのです.我々は便宜上アブドゥルで区切ってますが、アラビア語では違うのでした.ちなみにアブドゥルの「ア」はアルファベットの「A」と違う発音なので、正確に変換しようとしても、日本語では表記に限界があるのです.残念!さぶちゃんは「ع」の音を普段から鳴き声で使っているので、たぶん大丈夫です.

 次にいきましょう.28というのはアラビア文字で٢٨と綴ります.数字は左から右に読みます.そもそも28はアラビア数字っていうのにどうしてアラビア語では違うの?ということになりますが、アラビア語では数字をインド数字というのでした.紛らわしいですね.こういうたらい回しは他の言葉でも見つかります.

 七面鳥のことを英語で「turkey」(トルコの鳥)といいますね.じゃあトルコでは七面鳥をなんというのかな.

 トルコ語では「hindi」(インドの鳥)というんですって.

 えっ、インドだと七面鳥ってなんていうの?

「peru」(ペルーの鳥)といいます……

 まさか、ペルーの人は七面鳥を「トルコの鳥」なんて言わないよね???

 そのまさかでケチュア語(ペルーの言葉)では「turkia」(トルコの鳥)というのでした.医療のたらい回しが問題になっていますが、七面鳥もたらい回しにあっていたのです.

 これを見て、面白いなぁと思った方は語学の親和性がありそうですね.うわっ、めんどくせぇ、と思った方は正直な方に違いありません.

 脱線してしまいましたが、٢٨ مارس ١٩٧٢というのは1972年、3月28日のことです.月を数字でなく、単語であらわすのは、西洋と似てますね.مَارِسْというのはmarīsつまりMarchを表します.北アフリカではヨーロッパの借用なのか、レバノンの方言と違うようですね.日本も3月を弥生というし、お互い様ですね.

 ようやく本文です.ここでは、筆者のこどもである二人の名前から始まります.ياسينは(Yasin)という男性の名前で、هنذ(Hind)は女性の名前です.名前の後にはطفلاي العزانは私の愛しいこどもたち、という意味になります.طفلとはこども、という意味.そこに、一人称(私)属格(〜の)がつくのでاطفالى(aṭfali)となる…はずなのですが、著書にはطفلاى(taflāyi)とあります.持っている辞書ではأطفالىとしかないのだけれど、これはもしかして、マグリブ方言?インターネットの翻訳サイトでは著書と同じ綴りが出てきたので、間違いではないと思うのです.ご存知の方がいれば教えて欲しいと思います.勿論自分で調べます…ReversoというサイトかGoogle翻訳くらいしかアラビア語の発音を教えてくれません.

 つづくالعزانには定冠詞الがありますね.عزيزというのは愛する、という形容詞なのですが、先行する名詞は私のこども、という特定のものなので、形容詞も限定にあわせる規則にそって、定冠詞が付きます.定冠詞がつくと語尾はダンマ、「u」で終わるので、al’azizanuとなる(はず).

ياسن هنذ، طِفْلاي العزان

Yasin, Hind, tiflay al’azizanu (ヤスィーン、ヒンド、私の愛しいこどもたち)

最後にもう一文.

أكتب إاكما هذه الرسالة لأقبلكما بحراة بالغة، لتشعرا أنى أفكر فيكما كثيرا.

先に発音記号をつけてみましょう(これが大変なんです).

أكْتَبَ إلَيكُمَا هَذِهِ الرِسالة لِأُقبَّلَكْمَابِحَرارة بَالِغة، لِتَشْعرَا أَنَى أُفَكَّر فِيكْمَا كَثيرَا.

これをラテン文字に変換すると、

aktaba ilaykuma hadhihi alrisalatu liqabbalakuma biḥarara bali’gatun, litash’ara ana afikuma kathira.

 となる(はず).読みはこれで良いとしましょう.最初の語、اكتبは、英語にするならば、「I write」、اليكماは前置詞、الىに二人称双数、対格のكماをつけて「いらーぃくま」みたいに読みます.これは英語のto youに相当しますね.英語ではYouが一人だろうと、何人だろうと、すべてYouですが、アラビア語では一人と二人と、三人以上を区別するのでした(なんてこったい).目とか耳は便利かもしれません.ここではヤスィーンとヒンドを念頭にしているので、二人です.

 هذهというのは指示形容詞で「これ」に当たりますが、指示するものが女性であれば、形も変わるのです.男性ならهذاになります.الرسالةこれはタイトルにもあった手紙です.「この手紙」は特定されているので、定冠詞が付きます.(ターマルブータの説明は省略させてください)よって英語ならばthis letterです.

 次は、لِأُقبَّكْمَاですが、これを理解するのにものすごく時間がかかりました.これをわかりやすく分解すると ل ا قبل كماで意味が分かれます.لは前置詞で「for」に相当するもの「というのは」、اは一人称主格の「I」、「私は」にあたります.そしてقبلは「kiss」という動詞です.كماは先程説明した二人称双数、対格です.よって、英語にすると見通しがよくなります.for I kiss two of youといった感じでしょうか.

 次はبِحَرارةですが、بـــは前置詞でした.حرارةとは「暖かさ」を表す名詞です.女性名詞には皆語尾にةが付きます.(これがターマルブータです)つまり、with warmthという英訳ができそうです.その次はبالغةですが、bali’gatunという発音で、「ものすごく」という形容詞になります.ここまでを続けてみましょうか.

I write this letter to you, for I send you hottest kisses.

私はあなたに手紙を書いています、熱いキスをするために.

 なかなか情熱的ですね.もう一息いきましょうか.لتشعراこれも分解してみます.ل ت شع اになりますが、先程やったように、لは前置詞.تというのは二人称を表す語根で、تと اで、ある種類の動詞を挟むと、「あなた達(二人)は〜する」という意味になるのです(参考書ではن اとتだけど、これも方言かな).だから、شعرがわかれば、意味がわかってしまいます.やったぜ.شعرは「feel」という意味に近く、すべてくっつければ、for you to feelになります.انى(ana)は前置詞ですが、これは分離前置詞というものです.「whenever」に近い意味のようですが、これって接続詞のような感じかな?手持ちの辞書や参考書でははっきりしません.Googleで訳すると、thatになるので、関係詞のような働きでしょうか.

 もしそうであれば、仮that以下の語の意味がわかります.

أفكرفيكما كشرا.

أفكرはأ とفكرに分かれますが、أは「私は」という一人称主格、فكرは「考える」という動詞です.そして、فيكماは前置詞であるفيと、二人称対格がくっついたものです.英語ならば、「of you」 といったところでしょうか.كثيراというのは、「a lot」という形容詞ですから、以下の通りになると思います.

I think of you so much.

 すべて表記しましょう.

I write this letter to you, because I send my hottest kisses and want you to feel that I think of you so much.

といった具合でしょうか.日本語にしてみましょう.

 私があなたたちに手紙を書いているのは、あなたたちに熱いキスをし、二人に私があなたたちのことを想っていると感じてもらうためなんだよ.

 色々と瑕疵はあると思いますが、独学でも多少は頑張れそうです.ただ、今後も記事にするのはとてつもなく大変ですので、これを連載するのはちょっとむずかしいかなぁ.

 なぜ、さぶちゃんがこんなことをしたか、と問われれば、いくつかの狙いがあります.一つは、さぶちゃんはアラビア語に憧れがあるから.これがとてつもなく大きいです.そして、二つ目は、「外国語は意外と簡単」だとか「日常会話はすぐできる!」という世の中にはびこる無責任な妄言を打ち壊すためです.さぶちゃんはかれこれアラビア語の勉強を半年以上しています.しかしながら日常会話は厳しいですし、単語を200もまだ覚えていません.自分にあう教材を探すのも大変です.YouTubeは良い教材になりうるかもしれませんが、すくなくともアラビア語の初学者にとってYouTubeは過酷です.ではどうすればよいのか.それはさぶちゃんも探している途中なので偉そうなことは言えません.ただ、もしオリエントの言葉を勉強したいという奇特な方がいましたら、なるべくその光明となれるよう、頑張って勉強したいと思っているところです.

Long is the way

And hard, that out of Hell leads up to Light.

Gates of adamant,

Barring us out, prohibit all ingress.

John Milton, Paradise Lost

 語学の勉強で苦労している方へ上記の詩を捧げます.ここまで大変お疲れ様でした.お付き合いくださった方にお礼申し上げます.以下、五行の和訳です.


監獄の手紙

アブドゥル・ラティーフ・ラアビー著

1972年3月28日

 ヤスィーン、ヒンド、私のいとしいこどもたちへ

 私があなたたちに手紙を書いているのは、あなたたちに熱いキスをし、二人に私があなたたちのことを想っていると感じてもらうためなんだよ.

沈黙すること

green lawns on hills near river under cloudy sky
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語らないことについて、ファントム空間論について

 私は、ある小説の一部を引用することからこの小論を始めたい.画家夏雄は主人公の一人である.

…夏雄は、決して逞しい生れつきというのではなかったけれども、病弱な衰弱した血の表れのような生いたちでもなかった.…世間的な目からみれば、彼は、”幸福な王子”の種族であった.まことにのびのびと育ち、その育ち方に、精神分析医の嘴を容れられるような材料はどこにもなかった.

 しかし、どこかしら、兄弟のなかで彼一人ちがっていたのである.両親はその微妙な較差の性質がつかめなかったので、永いこと恐怖に似た感情で彼を見まもった.それにしても夏雄はまことに心のやさしい息子で、その上末っ子で両親にも兄や姉にもこよなく愛され、自分がどこかちがっているかを自分自身にも感づかせないように育てられた.こうして当然のことながら、一人の自覚のない芸術家が誕生した.これは病気のうちでもっとも警戒すべき、自覚症状のない病気に似たものだった.

 山形家のような一族、まったく市民的な家庭から、どうして芸術家が一人忽然として生れて来たかは、解きがたい謎であった.あたりの物象に何ら注意を払わず、ひたすら社会と人間との関係に生き、そう生きることに何ら疑いを抱かずにいる人々の間に、ただ眺め、感じ、描くために生れついたような人物が出てくるとは!これは事実、親戚一同の尽きせぬ話題になったが、結局は才能という便利な一言で片付けられた.

(彼の作品「落日」が新聞社賞を受け、彼は世間的に有名になるが)

…その大人しく人を傷つけることを好まない典雅な性質は、あいかわらず誰からも愛され、彼が疲れて席を外そうと思う時は、持ち前の幾分憂鬱な子供っぽい微笑を人に示せばよかった.自分の名声と彼はほとんど没交渉に暮していた.人間社会に対して疎遠な、それでいてこれといった冷たさのない、いわば微笑を含んだ離隔をつねに持してきた夏雄は、何も新しい事態に処して態度を新たにする必要がなかった.すべてが自分の上に起った事件だという実感が少しもない.彼の人生には「何かが起る」ということはありえない.夏雄の目は依然として、自分の好きなもの、美しいと思うものをしか見ない.そのほかのものは目に入らないのである.

 しかしある時、彼が戸外でスケッチをしていると、一見して美術大学の学生だということがわかる四、五人の若い男女が背後を通り過ぎる.

…不自然な無言のまま、一人が口笛を吹き、夏雄の背後に全部の靴音がやや遠ざかったように思われたとき、夏雄は女の囁き声が、山気の透明のせいか、いやにはっきりと耳立つのをきいた.

「あれ、たしか山形夏雄だわ.売り出したと思って、いい気なもんね」

 夏雄はわが耳を疑った.この種の言葉を人の口からきいたことがなかったのである.

 自分が傷つくよりも先に、彼を驚かせたことは、何一つ悪いことをしないのに、自分の些細な名声が世間のどこかであの若者たちを傷つけていたという発見である.この若者たちに、自分が確実に愛されていないという思いは、大げさにいえば一種の失寵のように彼の心に響いた.「ある人は僕を愛さない!」…この驚くべき事実.それでいて、彼を本当に驚かしたのはこの事実そのものではなかった.そんなことは以前から百も承知であった筈なのに、百も承知であった筈のものに、これだけ驚かされたということが、彼を二重に驚かした.あの娘の、山気をよぎってひびいたほんの一言の生温かい声のために、彼と外界との構図は潰え、遠近法は崩れてしまった.

三島由紀夫、「鏡子の家」、新潮社、1959年

 ここからさらに彼は「風景から拒まれている」のを感じ「色彩ばかり押し寄せる夢」を見る.やがて、富士の樹海が眼前で「消えてゆき」、世界が「妙にけばけばしい象徴的構図をもった」混乱に陥るに至る.

 皆さんはどのような感想を抱くだろうか.私は三島をあまり読んだことが無いのだが、これは迫真の描写であり、よくもまぁ見事に書いたものだなといった感想をもった.

 こうした描写は、現代でいう統合失調症の発病過程を見ているような気持ちになる.同じ業界にいる多くの人々はこの文章を読んで、夏雄を注意深く観察しようと思うだろう.このような体験は「分裂病のはじまり」*という二十世紀初頭の精神科医クラウス・コンラート(Klaus Conrad)の著書における「トレマ期」という「なんとなく不気味な感じ」(妄想気分)から「富士の樹海が消えてゆく」世界没落体験、「アポフェニー期」という経過が相当しそうである.とはいっても疾患が明示されているわけでもないのでこれ以上の言及は無粋である.それにこれはフィクションである.

*分裂病という呼称は現在では用いないが、中井久夫による訳本は上記であるため、あえて採用している.精神医学的な諸問題において筆者は多くの人と同じアンチスティグマの立場であることを断っておく.

見出しの「ファントム空間論」はれっきとした統合失調症の仮説である.日本の精神科医である安永浩によって提唱された.とはいっても薬物治療が主体の現代では生物学的理解が進み、こうした病理学的理論は下火であるが、(たぶん)根強いファンは少なくない(はず).時折、精神病理学の学術誌において「ファントム空間論」の引用を見ることがある.決してオカルトではないし、とんでも空想科学でもない.先程の三島由紀夫の引用は、安永浩自身が引用したものを私が借用したに過ぎない.

 では「ファントム空間論」とはなにか.説明することは極めて難しい.難しいゆえに長期連載しようと思っていたし、自分自身の理解のために文章化したいと思っていた.

 しかしながら、この小論を書くにあたって、まずは統合失調症を説明しなければ、と思った.ではどのように説明したものか、と考えた.ならば、誰にむけて説明をするべきなのか、という疑問が浮かぶ.読者.それはそうだが、顔の見えない読者は様々で、どこまでの射程を想像すべきかはかなり難しいことになる.

 そして何よりも一体、私にどれだけこの疾患群を語る資格があるのだろうかという疑問である.世の中にはわかってないくせにわかったふりをして威張っている人が多い.そういう人に限ってやたらと声がでかくてうるさい.私はそうはなりたくないし、いざ語ろうと思うと(足がすくむというより)口から言葉が出ない.私の意見では無いが、例えとして「言語の危機」、「父性喪失」といったものが聞かれることもある.これらは様々な立場から出てきた業界用語である.これを一般に運用することはかなり危険である.ましてや、私がこの重要な疾患群を無責任に語ることは大変な問題である.

 言葉の持つ力は凄まじい.それだからこそ、その暴力性をもっとも蒙るのが統合失調症である.言語は自己を内面から転覆させてしまう.それは自己形成の危機である.よって「読者のために」「自分のために」というナルシスティックな動機で疾患を語る、ということは、治療者の立場であるはずの自分が最も加害する側に加担してしまうという恐ろしい事態でもある.亀吾郎法律事務所は誰にとっても安らぎの場所であるのに、そうなっては本末顛倒だ.法律事務所スタッフ一同、徹夜で協議した.

 協議の結果、私はひとまず勇退することにしようと思う.最近の私の考えは「語り得ないものについては沈黙すべき」である.この考えは自分の本来の性質を反映したものでもあるし、最近読んだばかりの「記憶/物語」に鼓吹されたことも大きい.だから、「この疾患は斯々然々で……」という説明を辞めにして、三島が「鏡子の家」で病態を語らずして圧倒的に描写したように、私吾郎も語らずして語ることを目指してみようと思う.

 では如何にして語るか.大それた方法論はないから、これまで通り、翻訳や評論、文学作品を下敷きにして私見を加えていく形で私なりの分有可能性を模索したい.私が恐れをなした、というよりは患者さんへの敬意と疾患への畏敬の念と捉えていただきたい次第である.

吾郎
吾郎

亀吾郎法律事務所の所長です.事務所のほとんどの記事を書いております.最近甲長が19.9cmになりました.

お知らせ

beach water steps sand
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 こんにちは.いつも亀吾郎法律事務所をご贔屓くださりありがとうございます.

 弊事務所はブログを開設してから来月で六ヶ月目になります.投稿した記事がどれだけ閲覧されてきたか確認すべく、Google Analyticsを導入しました.そして検索キーワードを分析するためGoogle Search Consoleを始めました.さらにGoogle AdSenseを申請して、広告掲載を始めることになりました.皆さんも途中から広告があるな、とお気づきになったのではないかと思います.

 サイトの注目度を集め、より多くの人に見てもらうことで私たち事務所スタッフ一同の執筆への動機づけを高めたいと思い、Search Engine Optimisationと呼ばれる検索エンジンに対する工夫も始めることとしました.

 これらは一般的なブログの中で知られた常套手段ですから特別なことでは無いのですが、私たちにとっては見知らぬ世界であり大変新鮮味を感じています.

 何よりも大切なのは、わかりやすく見やすいサイトにすること.知識不足や技術不足でまだまだ納得できていないところは多々ありますが、少しずつ改良を重ねているつもりです.まずはこれまで煩雑だったブログタイトルを簡素なものにしました.

 そして同じシリーズ連載ものは通し番号をつけることで順序がわかるようにしました.今後も同一の規則を適用するようにしていきます.完結した連載ものは何らかの形で再び気軽に見てもらえるように、アーカイブ化を目指そうと思っています.見づらさ等、ご指摘の際は気軽にお願いします.連載ものは以下の通りです.(10月30日現在)

現象学シリーズ:「赤の現象学」に統一 (連載中)

プラトンの饗宴シリーズ:「饗宴」に統一 (完結済み)

茶の本翻訳シリーズ:「The Book of Tea」に統一 (連載中)

時間論シリーズ:「私の時間論」に統一 (完結済み)

超越・脱出シリーズ:「近年の異世界系小説にみる超越と脱出」 (完結済み) 

記憶/物語シリーズ:「記憶/物語を読んで」に統一 (連載中)

 その他記事は単発ものです.例外に大学院時代の課題がありますが試験投稿的側面が強いのでここでは紹介は割愛します.

 自分でいうのもおこがましいですが、どれも自分の記事の独自性に自信を持っています.引用は多いですが、その分、私の頭の中でしかたどり着けないであろう思考をできるだけ開示しているつもりです.翻訳も参照こそすれど、すべて私の文体です!

 もし「これやって!」という希望があれば社会通念にかんがみて快くお受けしたいと思います.もちろん、真面目な話だけでなく、私の好きなゲーム、自動車、料理、旅行の話もしたいと考えています.

 現象学は難しいので、少しずつ気長に連載していきます.焦らず、楽しく.

これからもよろしくお願いします!

*ファントム空間論の連載は都合によりしばらく見合わせます.

瑣末な報告と大きな感謝

 

 こんにちは.そろそろ来月頭で亀吾郎法律事務所が設立されて実は四ヶ月くらいになります.WordPressのアカウントを取得し、ホームページを公開したのは2020年の6月3日でした.記事を初投稿したのは6月4日になります.

 当初から現在に至るまで迷走し続けていますが、どうにか四ヶ月近く記事を投稿してこられたのは望外でした.この記事で総投稿数は56になります.記事の内容に依らず一月あたり14記事投稿しているのでした.毎日はどうしても難しいですがなんとか継続できているのは嬉しいことです.毎日投稿なさっているブロガーの方々は私からすれば脱帽ものです.恐れ入ります.

 今回の記事は数合わせ的な狙いがございます.ですから今まで以上に中身がございません.とは言ってもせっかく来てくださった方を邪険にしたくはありませんので、亀吾郎法律事務所の過去4ヶ月の統計情報を公開してみようかと思います.

 以下は個人を特定するものではございません.

June/6月July/7月August/8月September/9月Total/計
Views/表示数1206345085511813
Visitors/訪問25768080261
Likes/いいね16532752148
 

 ご覧の通り、ブログ界では圧倒的な弱小でございます.「ハッハー!俺の所の方が多いぜぇ」と思う方もいるかもしれません.大変結構なことです.

 次は訪問する人の出身国を列挙しました.

Country/国Views/表示数
1Japan1717
2China27
3Australia24
4USA20
5France12
6Mexico3
7Italy2
8UK2
9Indonesia2
10Germany1
11Greece1
12Russia1
13Finland1

 圧倒的に日本が多いです.日本語で記事を書いているから当然ですよね.ですが思った以上に外国からお客さんが来るのは驚きでした.嬉しいですね.フィンランドやロシアの方はどうやってきたのでしょう.

 そして最後は最も表示数の多かった記事を公開します.あくまで記事に限定しています.

Article/記事Views/表示数
1ニュー・ジャック・スイングに寄せて22
2美味しいピザを食べよう 結婚式を間近で見るということ 自分で問題を提起するシリーズ:序 北海道走行回想録20
3談話異聞録 Pandemic and Persona 本を整頓するということ19
4秋の芸術鑑賞会 読書という泳ぎ方 近年の異世界系小説に見る超越と脱出:117
5亀吾郎法律事務所が目指す所 暴食ライフ、ベルゼブブと化した若輩 亀吾郎法律事務所の仕事について What I have in my mind16
6サムギョプサル、そして 私の考えていること The Book of Tea: 茶の本 其の弐②15
リンクを貼りました.よかったらどうぞ!

 うーん.20も満たないとなんとも言えない感じです.まったく統計学的有意差はないでしょうね.まぁ一喜一憂せず続けようと思っているので、特に気にしておりません.どんどん続けて投稿数が100を超えたらまた検討してみようと考えています.

 ブログは読者の皆さんがいるからこそ成立するものです.これからも忘れないで続けていきます.いいね、がついたり訪問数が増えると何だがお小遣いが増えるみたいで嬉しいものです.いつもありがとうございます.これからもどうぞご愛顧くださりますよう、亀吾郎法律事務所スタッフ一同励んで参ります!よろしくお願いします.

「キーボード」の話

 こんにちは.吾郎です.近日私達の住む所は天気が穏やかで、摂氏25度、湿度54%と温度計に示されていました.こんな気候は、夏の英国のバース(Bath)やブライトン(Brighton)、米国加州のナパ(Napa)、ソノマ(Sonoma)を思い出します.北海道も似たような空気感でした.皆さんはいかがお過ごしですか.私達はこんな気候がずっと続いたらなぁと、みんなで話しておりました.

 先日、荷物を送るために、宅急便の事務所に行きました.メルカリというオンライン上で個人が物品の売買を可能にするサービスを利用して、匿名の相手へ配送を依頼しました.送料などの支払はオンラインでなされる為、金銭のやり取りは其の場で行わず、必要最低限の接触で済みました.携帯電話に作成されるQRコードを店舗で読み取ってもらうだけでした.今のご時世に即しためずらしく合理的な仕組みだなと関心しておりました.その背景でなされる手続きはどのくらい大変なのかはわかりませんが、現場の方々にとっても円滑なシステムであることを願っています.

 私達はわけあって、「キーボード」を送る必要がありました.店先でこんなやりとりがありました.

「中身はなんですか」

「キーボードです」

「あぁ、キーボード、楽器ってことね、梱包は大丈夫ですか」

「いえ、パソコンのキーボードでして.ちゃんと包んであります」

とっさにキーボードを打つ仕草をしながら私は言いました.

「あら、パソコンの方ね.すみません、キーボードっててっきり楽器の方かと.笑われちゃうわね」

「いえいえ、こちらこそすみません」

 こうして和やかに手続きは終わりました.帰り道、さぶちゃんと少し話をしました.

「キーボードと言つても、楽器の方もあるんだねえ.我々はパソコンのキーボードを送るつもりだつたから、そつちの方は思いもよらなかつた」

「そうだねぇ.向こうは自分を卑下していたけど、そんなことないよね」

「パソコンのキーボードを打つ動作も、楽器のキーボードを打鍵する動作も同じだからなあ、あの仕草は全くの無駄だつたなあ、お笑いだね」

 私はキーボードは「パソコンの」だと信じきっていたので、今回のやり取りは全く不意を突かれたものでした.思い込みというのはその時に覆されるまでずっと続くのですから、結構怖いもので、いかに私達の確信形成というのは脆く不備があるものかと実感したのでした.そうした齟齬は問題事にならずに済んだのは幸運であったと思います.


 確信を形成する機構について、というと大風呂敷を広げてしまうテーマですが、現象学ないし精神医学を学ぶ身として、私達の認知に於いて時に深刻なエラーを引き起こしうる、この誤った確信或いは歪んだ認知、というのはやはりよく追求すべき領域なのだと考えます.統合失調症や覚醒剤精神病に代表される幻覚妄想状態だけではなく、後天的かつ不可逆的な神経認知領域の変化すなわち認知症、自己の容姿に対する認知変化が引き起こす醜形恐怖症などの不安障碍圏、摂食障害といった病態はいずれも自己の確信形成に重大な機能不全・失調が起きているのでしょう.勿論、双極性障碍や大うつ病といった気分障碍圏でも認知の歪みが生じてしまいます(心気妄想など).そして言うまでもなく、健常とされている医学的に問題の指摘されていない人々でさえも.

 確信成立の条件を解明することと、それが生物学的な次元でどのように反映されるか.そして打開策を現実世界にどう活用させるか.よく精神科臨床は「話聞いていればいいよね」のような誤解を受けますが(個人の感想です)、私個人の意見が許せば、極めて高度な戦略性が要求される治療学で、一手一手のミスが命取りになる将棋やチェスといったボードゲームにも通ずるものがあるかなと考えます.対象の確信の度合いが強ければ強いほど、治療者と対象との認識の差が大きいほど治療介入は困難を究めるものです.綿密な調査と学問的に裏打ちされた方法論によって初めて適切な面接は可能になると私は信じています.

 今回の事務所でのやり取りは相手の寛大な度量のおかげで、終始穏やかな雰囲気で進みました.人と人との対話が斯くの如く温和なものであれば、もう少し世間は秋の美しい空気のように和やかなのかもしれません.ですが先日の某国の大統領選挙戦にかかる公開討論会を見る限り、恒久平和は暫く先のようです.

 It is scarcely an exaggeration to say that at present mankind as a species is insane and that nothing is so urgent upon us as the recovery of mental self-control. We call an individual insane if his ruling ideas are so much out of adjustment to his circumstances that he is a danger to himself and others. This definition of insanity seems to cover the entire human species at the present time, and it is no figure of speech but a plain statement of fact, that man has to ‘pull his mind together’ or perish. To perish or to enter upon a phase of mature power and effort. No middle way seems open to him. He has to go up or down. He cannot stay at what he is.

H. G. Wells, A Short History of the World, 1922

 種としての現在の人類は常軌を逸しており、自制心の回復ほど我々にとって急務であるものは無いと言っても過言ではあるまい.個人に占めている考えが周囲に対してあまりにも調和を欠いているために自他ともに危険を及ぼすことを我々は個人の狂気と呼ぶ.この狂気の定義は現在の人類すべてに当てはまるように思われ、そして文飾無しに事実を明白に述べると、人類は「心を引き締める」か滅ぶかである.滅び去るか、成熟した能力と奮闘の段階へ進むかである.人類に中間の道は開かれていないようだ.昇っていくか堕ちてゆくかしかない.現在の精神状態ではいられないのである.

H. G. ウェルズ、 世界史概観、1922年

100年前の人類が正気でないとしたら現在の人類はどんなものでしょう?

ここまで読んでくださってありがとうございます.

秋の芸術鑑賞会

さぶちゃんの絵画評論

さぶちゃん

 こんにちは.亀吾郎法律事務所の秘書、三郎と言います.さぶちゃん、と呼ばれています.いつも吾郎ちゃん並びに弊事務所の記事をご贔屓くださりありがとうございます!今回は私が初めての投稿として、事務所に飾っている絵画について紹介しようと思います.

 まずはこちらの絵をご覧ください.下の絵はオーギュスト・ルノワール(Paul-Auguste Renoir)の作品です.19世紀のフランスの印象派画家です.邦題は「雨傘」っていうのかな.吾郎ちゃんと以前、休暇でロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れた時に、作品を気に入ってポスターを買ったんです.お土産に欲しい作品がいっぱいあって、一つだけ選ぶのに苦労しました.

Les Parapluies, Paul-Auguste Renoir, 1880-1886, Oil, Canvas, National Gallery, London

 皆さんはご覧になってどのような印象を持ったかはわかりませんが、我々は良いなと思って買いました.芸術論や美術史は詳しくないので薀蓄は語れないけれど、良いと思った所を紹介します.

 この絵は全体的に群青色です.良い色ですよね.みんなが傘をさしているから雨が降っているのかなと考えるのが妥当かと思います.薄暗い雰囲気は空模様や人の着ている服の色調から伺われるのかもしれません.ですがそれを打ち消すように、人々の表情が素敵で、我々はそこに惹かれました.特に、向かって左の女性.雨傘の題名にもかかわらず独りだけ傘をさしていません.そもそも持っていません.空のバスケットを持ち、スカートを少しだけまくりあげる姿は、これからどこかへ小走りしようとしているのかな、笑ってはいないが、穏やかな表情からは何か良いことがあるのかな、そんな予感を感じました.後ろにいる男性はもしかすれば女性が傘を持っていないのを察して傘に入れてあげようとしているのかもしれません.それは親切心で?或いは下心で?想像力を掻き立てます.ですが女性は後ろに気づいている様子がなさそうです.女性は自分のことでいっぱいなのか、別の相手を思い浮かべているのか.ただ彼女の目線はこちらを見ているようにも思います.

 向かって右側は家族連れでしょうか.母親と思われる女性が微笑んで、少女を見つめています.少女もにこにことこちらを見ているようです.少女が持っているのは輪回し「hoop & stick」で、遊び道具です.どこかで買ってもらったのかしら.その少女の姉であろう右端の女性は帽子をかぶっているので表情が見えません.もし彼女らが家族であればきっと裕福な家庭なのでしょう.衣服の装飾が豊かで左の女性の質素な服装と対照的です.かといって左の女性は健康的な印象を受けます.貧相ではありません.

 雨傘をささない若い女性と母親と一緒のあどけない少女.どちらもこちらを見ているようですが、我々の方には何があるのでしょう?

 ある一コマを切り取った、まるで写真のようですが、写真よりも画面からにじみ出る情報の余韻は多いように思いますし、それだけ我々が感じる何かは多彩に見えるのでしょう.群青ですが.

 我々はこの絵画のミステリー性に魅了されたと言っていいと思います.ルノワールの絵画の中ではこの絵はすごく有名ではないと思いますが、とても気に入っています.皆さんもロンドンを訪れる機会があれば、ぜひ美術館へ!ほとんど無料ですから!英国の芸術における度量の大きさたるや……大抵空いてるしなぁ.日本の都会の美術館はごったがえしてるからね…… 吾郎ちゃんはテート・ブリテンが好きだけど、私はナショナル・ギャラリーが好きです.掃除夫はテート・モダンも良いよって言ってたっけ.近くにバラ・マーケット(Borough Market)があるから、ご飯食べたりして……眺めてるだけでも楽しいです. 英国のご飯、酷評されていますけれど、そういうこと言う人は残念ですね.いつか英国の旅行の話も特集したいです.

これが事務所に飾っているポスターです.賃貸物件だから壁に掛けられず、残念.

 次はこちらの一枚.

無題、S. O. 製作年不詳、油彩、キャンバス、亀吾郎法律事務所

 こちらは日本のとある現代洋画家が描いたものです.これまで数々の賞を受賞したという立派な現役の画家さんです.我々の数少ない知人の中で、縁あって譲っていただいたものになります.お会いしたのは数回になりますが、大変元気な方です.海外を飛び回って芸術家仲間と絵を描いていたんですって.粋過ぎ!アトリエも拝見しましたが、高校の部室みたいなカオスがなんだかなつかしくて心地よかったです.

 写真を部分的にぼかしていますが、プライバシーのためです.下に生えているのは豆苗ですね.切っても伸びてくるのが豆苗の可愛らしいところです.

 さて、この絵は秋の那須高原だそうです.ということは奥にそびえるのは那須連山なのでしょうか.にしてもこの絵を描いた時はさぞかし良い天気だったのでしょう.快晴の空にうねるような雲.秋の雲はこんな感じですよね.風が吹いていて、雲が少しずつ動いていて、静的な絵ではあるが、動的な要素がしっかりあります.涼しい空気が肌をなでる感じが伝わってくるようです.目の前の草木は紅葉で鮮やかに色づいていますが奥の景色も紅葉が始まっていることがわかります.きれいな色遣いだと思いませんか.たくさん絵を描いてきた人だからできる色遣いなのかなと思います.木の葉の描写は陰影と重ね塗りを用いて立体的に表現されています.かといって写実的過ぎず表現の陳腐化が避けられていると思います.私と吾郎ちゃんは、かつて北海道の旭岳に行ったことを思い出しました.そのときも鮮やかな紅葉が見事で、ちょうど例の絵のような美しさでした.クリックすると拡大されるのでぜひご覧になってくださいね.

 似ていませんか?空気感、地平.色づく草木.写真は吾郎ちゃんが撮ったものです.なかなかよく撮れていると身内ながら思います.とはいっても絵の生み出す空気感と全然違いますね.北海道の話もいつかしましょうか.旭岳には二回登頂しましたよ!

 実は私、絵の左側にある断崖の部分、ちらっと描いてありますが、画家の技巧が垣間見えて好きなんです.勿論他の箇所は素敵なのですが、あえて全体を描かなかったところは作者の謙虚さがあるのかな、とか、ついつい考えてしまいます.岩肌を描くのは難しいと思うんです.影になっていると尚更.それをさり気なく描いている.すごいなぁと思ってしまいます.

 いかがだったでしょうか.絵について語れることは少ないですが、絵にまつわる思い出はたくさんあります.絵のいいところはどれも物語性を持っていることでしょうか.絵だけではないですね.どんな創造物、作品もみな物語を持っていて、どれも雄弁だけれど、静かに語る、そんな感じがします.亀吾郎法律事務所にはまだ他にも作品があるので、機会があれば紹介しますね.イタリアの絵があるんです.

 吾郎ちゃんはこの前食べたサムギョプサルにあまりにも興奮しすぎて記事がまとまらなくなっちゃったと反省していました.今度から気をつけると言っています.今後とも暖かく見守ってご愛顧いただければと思います.

さぶちゃん

ここまで読んでくださってありがとうございます.

 

焼肉の話

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 言葉には流行り廃りがあって、流行語として広く君臨することもあれば、死語として常用されなくなり、少数勢力の慰みや学術者の研究材料になるのかもしれない.私は流行語大賞などの報道にはてんで興味がないから、今どんな言葉が流布しているといったことは知らない.しかし、ある一つの言葉は最近、我が亀吾郎法律事務所で使われるようになってきた.

 先日、所内で焼肉を行った.とはいっても題名の通り、豚の三枚肉を切って焼いたに過ぎない.だが、焼肉屋に行くのとは別格の味わいであって、至福の時間であったように思う.今回はその話をしながら事務所内の流行語を紹介したい.

 私は、亀吾郎法律事務所の掃除夫であるが、同時に厨人でもあることが多い.私は如何に珍味珍品を用いず一般の食料品店で調達できる品を使って、事務所の皆さんに享楽してもらうかを念頭に置いて調理している.そういったときに動画サイトを参照して、料理をつくることが増えてきた.おそらくこういう風潮は多くの家庭にもありそうで、何だか料理本の売れ行きが低迷しそうな雰囲気である.簡単さ、手軽さ、そういった料理で美味しさが確約されるのであれば、確かに人気は出る.人は一過性の爆発的な人気を「バズる」、という現象で捉えるようである.きっと英語のbuzzから借用しているのだろうが、あまり「バズって」しまってもブンブン蝿が飛び交っているようで喧しいのも事実である.「バズる」ことは一部、動画の再生回数を増やすため、金銭収入を得るため、といった背後の目的によって行われることもあるかもしれない.不興を買ってでも話題性を瞬間的に生み出す方法は、人々の憤怒を焚き付けて電子の海を炎上させる.その度倫理観が問われることはあるが、一時的な快楽を求めるためにすぐに人々は油をせっせと注いでいる.

 湯船にコーラを張って浸かる様子を放送する、クジを全部買ってクジ屋のメンツを潰す、分厚い氷の塊に融点限界の金属球を上から落とす、一日で北海道と沖縄を旅行するなどといった珍奇な行動があることを見聞きした.酔っ払ってやっているのかと思えば、おおよそ皆素面である.中には四大天使と同じ名を名乗り常に仮面を被っている頓痴気な人もいる.よくもまぁそんなことを白昼素面でやれるなという興醒めを私は感じてしまう.革命家を自称し不登校を貫徹する児童も出現した.視聴者の快楽刺激に対する感覚閾値が徐々に上がって、生半可な刺激では不感症となり、さらなる刺激を欲しがる人々の需要に求めるべく放映者は奇天烈さを増してゆく.過剰な刺激物質に対して受容体を増やし、なんとかして生理的平衡を保つような、薬剤過感受性の病理に近いことを私は考えてしまう.P. Valéryも「精神の危機」で似たようなことを述べていたと思う.「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という言葉があるが、全人類阿呆になってしまったほうがいいのだろうか.古くから宋書に伝わる袁粲の例え話として、「狂泉」が知られるので紹介しておこう.

 昔有一国,国有一水、号曰狂泉.国人飲此水,無不狂,唯国君穿井而汲、独得无恙.国人既並狂、反謂国主之不狂為狂、於是聚謀、共執国主、療其狂疾.火艾針薬、莫不必具.国主不任其苦、於是到泉所酌而飲之.飲畢便狂.君臣大小、其狂若一、衆乃歓然.我既不狂、難以独立、比亦欲試飲此水.

沈約、「宋書」巻八十九、袁粲伝

「昔ある国に、ひとつだけ水飲み場があって、狂泉と呼ばれていた.国民はこの水を飲んでいたので皆狂ってしまっていた.唯一王だけが井戸を掘って水を汲んでいたので、無事でいた.国民は軒並み狂っていたので、かえって国王の狂っていないのを狂っていると思い込み、皆で謀って国主を執え、国王の病気を治そうとして、モグサや針や薬など、あらゆる手を尽くした.国王は治療の苦しみに耐えきれず、泉へ行って水を汲んで飲んだ.そして飲み終わるやいなや狂ってしまった.君主も臣下も大人も子供も同じように狂ったので、皆はやっと喜んだ」と、ここまで話した袁粲は「私はもとより狂っていないものの、たった独りで貫き通すのも難しい.それで最近では、私も試しに狂泉を飲んでみようかと思うようになった」と.

 この寓話はおそらく、語り継がれ時を越えて詩人Khalil Gibranの耳に入ったのだろう.著作「The Madman(狂人)」の「The Wise King(賢王)」には極めて類似した話がある.原文のみ紹介したい.私がこの関連を知ったのは妻のお陰である.妻は私よりも博覧強記なのだ!

The Wise King
Once there ruled in the distant city of Wirani a king who was both mighty and wise. And he was feared for his might and loved for his wisdom.

Now, in the heart of that city was a well, whose water was cool and crystalline, from which all the inhabitants drank, even the king and his courtiers; for there was no other well.

One night when all were asleep, a witch entered the city, and poured seven drops of strange liquid into the well, and said, “From this hour he who drinks this water shall become mad.”

Next morning all the inhabitants, save the king and his lord chamberlain, drank from the well and became mad, even as the witch had foretold.

And during that day the people in the narrow streets and in the market places did naught but whisper to one another, “The king is mad. Our king and his lord chamberlain have lost their reason. Surely we cannot be ruled by a mad king. We must dethrone him.”

That evening the king ordered a golden goblet to be filled from the well. And when it was brought to him he drank deeply, and gave it to his lord chamberlain to drink.

And there was great rejoicing in that distant city of Wirani, because its king and its lord chamberlain had regained their reason.

K. Gibran, The Wise King, The Madman

 このような話からどのような寓意を読み取るかは読者の感性に委ねられる.私訳は別の機会にしよう.難しい英文ではないのできっとすぐ読めてしまうはずだ.

 余談だが、現代でも和製ホラーゲームにおいて名高い「SIRENシリーズ」には、上記の類似した構造を見ることができる(私見だが大変な恐怖体験に近い.迂闊に動画サイトで検索すると後悔するかもしれないし、オススメ動画にホラーばかりが並ぶ悲劇になるから安易な視聴はオススメしない).エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」も類似した計画であろう.狂気とは誰にとって、狂気なのか.私が狂っていないという確信は信憑に足るのだろうか.何を以てして狂気というのか.こうした問題提起はまた別の機会にして、サムギョプサルの話に戻ろう.とかく私がここまで引っ張って言いたかったのは、現代のマスメディアについて、狂気が狂気を内包している構造のために、視聴者と投稿者、運営全てである総体が狂気じみていれば皆健全に見えてしまうような恐ろしさがあるのではないか、ということだ.かく言う私も狂人の一人かもしれないから、これ以上強くは主張しない.

 奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入出前迅速落書無用な動画サイトの中にも、秀逸だと思うものはいくつかあって、私がサムギョプサルを作ったのはそれがきっかけであった.スーパーマーケットに売っている豚バラ肉ブロックが特売で売っている時は、皆さんもサムギョプサルを夕餉に考慮してもいいかもしれない.消費期限が近くなって値引きしているときは買い時かもしれない.腐敗と熟成は表裏一体であるから、かえって旨味が増していると楽観すれば、正しく調理する限り問題ない.自宅にキムチがあれば上出来である.動画投稿者である料理研究家はキムチは優れた調味料であり食材であると言う.この言葉の意味は実際にバラ肉から出た脂でキムチを炒めたときに身に染みる.味もよく沁みる.葉野菜(レタス、サンチュ)があれば、肉を巻いて食べると、食欲をそそる香ばしい薫りと溢れる肉々しさに透き通る清涼感を感じ、抜群の相性を感じる.大葉、エゴマがあると、家族が集う円卓に和やかな静寂が訪れるはずだ.我々は白米は食べずに肉400gと野菜でのみ完結した.これで十分お腹いっぱいになるし充実感もある.糖質制限をしている人にも吉報だ.肉の脂身は加熱段階で溶けていくので過剰に気にすることはない.

 日本国内の韓国料理店へは何度か行って、美味しいビビンバやトッポギ、スンドゥブ、チヂミ、クッパ、サムゲタンを食べたことはあった.どれも舌鼓を打つ優れた料理だと思う.韓国、国内のみならず、遠い異国の料理を食べたりすると、実際に訪れて、作り手の顔を見てみたいと思うようになる.どんな人が作って、どんな人が食べているのか、なぜその調理法なのか、と.動画サイトのいくつかは投稿者が調理することが多いので、作り手の顔が見えて、親近感が湧くこともある.その人がどんな思想に基づいてレシピを考案したのか、どのような経験があってそこに行き着いたのか、完全でなくとも思いをはせることができる.料理の動画はそのような意味で見ると面白いものがいくつかある.私が見た動画はそういうものであった.変な動画を観て笑い転げるのもいいが、私はカメの甲羅干し動画や、料理動画、音楽だけがかかり続ける静止画が好きだ.


 我が事務所の流行語について戻ろう.一般には「多人数でルールに基づいて競い合い、結果最も優れていると認められること」を「優勝」というのに対して、近年では(4−5年前のようだが)「優勝」を「非常に良い気持ちになる、心地よくなる」といった肯定的な感動を表すのに使うことがあるようだ.今も流行っているのかは知らない.所謂インターネットスラングであるから、多用は禁物だ.使いすぎるとやや痛々しくなる.オジサンは特に.

 「今日は、山岡家でプレミアム塩豚骨と餃子のセットで優勝しない?」「明日は休みだから、コンビニで酒とツマミを買って、三人で酒盛りして優勝しようや」といった感じで使う.幸福の余韻を「優勝してしまった」といって表現することもある.

 かくして我々もサムギョプサルを食して「優勝」した.夫婦二人とも「優勝」してしまった.大変美味だった.焼き肉店に行くと結構値段が高く付くが、自宅サムギョプサルであれば、案外気軽に勝利宣言できてしまう.それに敗北者はいない.もしかすれば誰も敗北を喫せず、肯定的感情のみ残るから流行ったのかもしれない.言葉が生まれた背景に、学校教育における平等性の問題だとか、現代社会の競争原理に対する抵抗などといった考えがひょっとしてあるのかな、と一寸脳裏を過ぎったが、考え過ぎだ.きっと違うだろう.ともかく我々の事務所内では「優勝」が少しだけ流行っている.きっと時間が経てば廃れてしまうだろう.私達の事務所と現実世界では流れる時間が異なっている.

 時間の流れが異なれど秋の日は釣瓶落とし、であり、やはり秋は夕暮れ、である.そして天高く馬肥ゆる秋でもある.読書の秋、食欲の秋.皆さんはどんな秋をお過ごしでしょうか.誰にとっても飽きの来ない日々が訪れますように.

あまりまとまりませんでしたが、ここまで読んでくださりありがとうございます.

 

 

黄昏ミッドシップ

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 晴れた夏の日の夕暮れになると、決まって雨が降る.遠くから雷雲が見えてあたりが急に暗くなる.こもった低音が鳴り響いて、陽光を覆い隠すと、薄暗い灰色の空からポタポタと雫がこぼれ落ちてきて、途端に止めどなくすべての空間を雨が隙間なく敷き詰めてしまう.細い稲光が少し現れて、いつ音が鳴るか、待ち構える.だれもが知っている夕立.日中の熱を溜め込んだアスファルトから湿気がムンムンと漏れ出して独特の臭いを感じる.早く帰りたいな.これから帰ろうと思っていたのに.傘がないな、困ったな.あそこに雷が落ちたんじゃないか、うちは大丈夫だろうか.止むまでちょっと待っておこうかしら、そんな考えが飛び交いそうな日が多くなった.

 私は職場へ少し忘れ物を取りに事務所の社用車で外出していたのだが、それを取って家に帰る途中だった.盆の半ばで幹線道路は少し空いていたあの日だった.遠くの空が危ない色を放っていて今にも降り出しそうな、いや、まだ大丈夫そうだろうと逡巡.すると、ボタッとフロントガラスに一滴、二滴.すぐに数え切れなくなって、ワイパーを動かす.それでも視界が確保しづらくてやや焦る.速度を落とす.未だに豪雨の時に車のワイパーの動く間隔を二番目にすべきか三番目にすべきか悩んでいる.ちょうど良さというのは難しいものだと思う.雨の日はいつも考え事が多くなる.それはいいことなのかもしれない.

 雨音はいつしか途切れない連続音となってザーッザーッと、それ以上に水が無秩序に跳ねる音を奏でる.後ろから聞こえるエンジンの音だけではなくて、タイヤが路面の水をかき分ける音.前の車が巻き上げる水しぶき.様々な情報が雨になると一気に押し寄せてくる.

 ボツボツと音がするのは屋根に伝わる雨音だ.私は番傘を差したことがないからわからないが、布製の屋根に音するのは番傘に響く雨だと風雅なことを言う人が自動車業界でいたそうだ.洋傘でも似た音をするだろうから私は一般的な傘、ということにしておくが、確かに傘を打つ水の雫は、こういう音をする.私は事務所の車を贔屓しているからかもしれないが、いい音だと思っている.ハードトップの屋根にはない音をする.少し前時代的というか、旧世代というのだろうか.そんな考えが思い浮かぶ.どうか誤解しないでいただきたいが、前時代的という言葉に悪意は毛頭ない.もともと車には屋根がなかったのだから.

 ソフトトップ、つまり布製の屋根の車はめっきり数がなくなっているのか、と思えば実はそこまでではない.自動車メーカーのサイトを見れば幌付きの車を売っているところはある.マツダはその好例だろうし、マツダ・ロードスターは路上でよく見かける.本田技研工業のホンダ・S660もよくよく見かける.かつて販売されていたS2000もホンダ・ビートも幌がついていたし、今もちょいちょい走っている.日産自動車のZ34ロードスターも稀に認める.もしかすれば外国車の方が幌付きの車と聞いて思い浮かべる人は多いかもしれない.英国だとRoadster, Drophead Coupe, 独仏ではCabriolet. 米国ならConvertibleといった表現で形容されると思う.どれも私からすればワクワクする言葉である.もちろん、屋根の開放を可能にする用語はいくつもあるのは承知している.しかしそれの詳説は本旨から逸れるので割愛する.

 幌型の屋根しかり、可動式屋根の車はどうも気取った奴が乗る印象を持たれている気がする.私だけだろうか.「いや、別にそんなことは気にもかけていませんでした」とか、「あぁ、そうなんですねぇ」という方は多分車には興味があまりない方なのかもしれない.寛容な方とお見受けする.それはそれで別の物事に関心を持たれているに違いないので千差万別あってとてもいいと思う.

 鼻息荒げて、「そんなことは決してないのだ!!諸君、聞き給え」とか、「そうだそうだ、どいつもこいつもみんな気取った奴だ、けしからん!プロレタリアートの敵め!」と思う方はどうか落ち着いていただきたい.反対する人は、二輪車の意見も聞かねばなるまい.二輪車こそ人間が風を受ける乗り物だが、それはプロレタリアだけの乗り物ではないのはご承知だろう.決しては私は熱狂的なファンではないし、かといって反対派を徹底的に論駁するつもりはない.そんなことで記事を書くのではない.どちらかといえば、私は所有する側だから擁護する立場になるのだが、幌付きの車は色々なことを気づかせてくれるのだと述べたい.それに気取ってもいないし、たまには気取ってもよいのでは.

 屋根を空けると、もちろん風が入ってくる.熱い風.冷たい風.心地よい風もあれば、堆肥の芳しい風も運んでくる.煙の臭いがすれば、あぁあそこでなにかを燃しているのかなと思いを巡らせ、牛糞の臭いがするとここには一次産業の営みがあるのだなと気づく.「ここは臭いね」と苦笑いをして隣の乗員と語らう.草花の香りに気づくことはもちろんだ.「この辺はもう花が咲いたんだねぇ」周囲の情景により一層近づいていくことができる.車の名前に風を由来とするものが多いのは偶然ではないはず.アクセルペダルを踏めばクランクシャフトの回転が高まり、車の息遣いもわかる.タイヤが路面を掴む感触がグッとわかりやすくなる.SUVの流行る今ならば、雪道を屋根を開けて走る面白さがあるのだろう.マフラーから鳴る排気音は屋根がしまったときに聞こえるものより生き生きしている.電話越しに聞く恋人の声よりも実際に会って聞く声の方が嬉しいのと似ている.情報量ははるかに多くなる.周りの車の音も聞こえるから注意は一層しやすくなる.車は鋼鉄の工業製品だが、それに生命の躍動を見出すような情動を私は感じる.「車に恋い焦がれるつもりか、この変態め!」という辛辣な御仁もいるかもしれない.しかしだ.陶器の置物に心を奪われたり、画材を塗りたくった平面を、これは芸術だ!というのと原則は同じだと私は思っている.

 車の動きに心を寄せて、狙った角度に操舵しスロットルを緩める、また正中に戻して踏み込む.単純な一連の動作だが奥深く、実は難しくて楽しい.これはどんな車でも言えることなので野暮な表現だが、幌のついた車はいわゆる「スポーツ」性が高め、つまり運動性能が高い部類であったり、余計な装備を省いているものが多いから(賛否あるかもしれない)、心身一如を実感できる.雨が降っても、一部の車を除けば大抵、すぐに屋根はしまうことができる.だから走行中びしょ濡れなんてことはあまりないし、雨漏れはまったくないものだと思って良いのではないか.幌の手入れが大変じゃないかと気にする方もいるかもしれない.販売店で詳しい話を聞けるはずだ.特に難しいことはない.メーカーが大衆に面倒なことを課すわけなかろう、と私は思っている.実際に私は水で汚れを落として細かい汚れを個別に除くだけで、何もしていない.特別気を揉む必要はないだろう.他の車と同じように愛情をもって接すれればよいのだから.

 「幌なんて、無駄無駄.贅沢品じゃない、屋根があったって走るじゃないの.むしろ荷物が詰める場所はなくなるし、かえって不便でしかないでしょ!」よくご存知ですね.確かに収納力は劣るかもしれない.それは逃れられぬ業かもしれぬ.しかし弁護する立場でいえばほとんどのメーカーは積載力と幌の収納機構を両立させようと苦心してきた.そして美観を損ねることなく両立に成功した車は存在する.エンジン搭載位置を前後タイヤ軸の間かつ、座席後方にするMid-ship(ミッドシップ)であれば前方と後方に積載箇所を設けることができる.とはいっても通常のフロントエンジンのセダンやステーションワゴンにはかなわない.エンジンを前方に配置しつつ幌のある車も輸入車には特に多い.結局積載力は犠牲になってしまうが、それを上回る特異な官能は言葉に尽くせないと思う.きっと賛同してくださる方がいると思う.

 もしそれでも無駄だ、と思う方はまぁそれでもいいかもしれない.そういう方もいらして良いと思う.だが、無駄だという価値判断は結局のところ主観的なものであり、曖昧なものにすぎないと私は思う.無駄をどのように定義するかはその人次第であろう.だからあらゆる反論はこちらが公序良俗を犯さない限り、雲散霧消にして消え失せてしまうであろう.動物を飼っている人にとって彼らは愛する家族であるが、嫌いな人にとっては憎むべき対象かもしれぬ.写真が好きな人は撮影装置に愛着をもち、被写体にも思いを寄せる.現像した写真を額縁に入れて満悦するのは無駄だろうか.骨董品だって人によっては遺物でしかないが、それが考古学的に芸術的に価値があろうとなかろうと最終的に価値を決めるのはそれを愛するものだろう.

 したがって、私は幌付きの車でいいと思っている.北海道を一週間くらい旅したときの感想を記事にしたことがあるのでよければご覧になっていただければと思う.

 私は以上のことを考えながら帰路に就いた.雨の日は、こんなことばかり考えながら運転している.いつの間にか雨はやんで、私は家の前の玄関にいた.その日の夕飯は何だったろうか.唐揚げだったかな.