投稿百回目に思うこと

left human hand photo
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誰のどんな問題を解決するのか

 実は亀吾郎法律事務所のブログを開設して今回で百回目の投稿になる.これまでの間、何を書こうかなと考えているうちに身構えてしまい、なかなか記事を書くことができなかった.変に気負ってしまってはいけない.なにを書けばよいのかと事務所のスタッフに訊いてみたら「百回目はおめでたいのだから、めでたいことを書けばよい」という.うーむ.めでたいことが思いつかない.世の中で報道される時事でめでたいことも少ないように思う.やはり世界中がウィルス感染症の話題でもちきりだ.ウィルスの話はたくさんだ.亀吾郎法律事務所は誰にとっても平穏で心安らかに過ごせる場所であるべきだ.だからウィルスの話はしない.

 最近、私、吾郎が考えている話をしたいと思う.私が何を考えているかというと「亀吾郎法律事務所」の方向性に関する問題である.ブログを開設してから実にたくさんの方々に来ていただいた.まずこのことについてお礼申し上げたいと思う.いつもありがとうございます!亀吾郎法律事務所は「法律に門外漢」といういい加減な副題を掲げて精神医学、哲学、語学や一部社会学、芸術について自分の考えを論じてきた.放埒と言われてはやや閉口してしまうのだが、私達自身は自由奔放に記述することができ、スタッフの精神の安定に大きく寄与したように思っている.今後もこの奔放さを継続して自由に言論活動を行っていきたい次第である.

 その方向性の中で私がこの頃気にしているのは「このブログの需要とはなんぞや」という問題である.「いやいや、こんな弱小ブログ、だれも求めてないぞ」という辛辣なご意見は当然あるだろう.それはそうかもしれない.さきほど述べたように、この記事は好き勝手に筆を走らせて記載したにすぎないのだから「このブログの記事が向かう先は画面の向こうの読者」とうそぶいて実は自分のために書いているのだ、と指摘されても否定はできない.ブログの志向性が自己に向かっているというわけだ.記事を書いてカタルシスに浸るのも、読者に志向しているのではなく、実は深層で自分に向けて記事を書いていたのだから究極は自慰的な要素があったわけだ.

「なんという卑劣漢.人非人!なんだかんだいって貴様は自分の事しか考えていないわけか.人でなしめ!悪辣な屑よ」

と罵るのも結構であるが、前述を踏まえたうえで内省を深めてみると、次のようなことを思いつく.確実ではないのだが、間主観的(広く言えば客観的)に考えてみれば、我々と同じブログを書く人々や、物書きというのは文章が他者へ開かれている一方で、それが志向するところはすべからく自己を向いているのではないだろうか、ということだ.それはときに自己治療的であったり、自己愛であったり、自己耽溺、自己欺瞞でもあるように思う.私達が広告を貼り付けてブログを投稿するのは、内心広告収入を得たいという利己主義に基づく行為であるし、たまたま広告主と利益が一致しているだけだ.誰でもやっぱりお金はほしいのだ.誰が読むかわからないのに、誰も来ないかもしれないのに、私のような三文記事を延々と書き連ねるのは、真の利他的な聖人か、平凡で利己的な俗人でしかない.

 こういうことを書くと、他のブロガーの顰蹙を買ってしまって「いいね」がもらえなくなってしまうかもしれないのだが、それはそれで結構なことだと思う.ある意味私の企てが成功したといえる.

 もう一度話をもどそう.私達スタッフは「このブログは誰のどんな問題を解決するのか」ということを考えている.しかしつまるところ志向性は自己の欲望へと行き着くのだという見解に我々は達した.とはいってもその中間項に他者=読者がいるのだから、仮に建前であったとしても、自己の欲望が他者を介在してでも、「誰かの問題」を解決できればいいな、と思っている.本当に.

 そこで亀吾郎法律事務所は以下の二点について考えた.このブログの目指すところ、すなわち理念といったところである.まずは「誰のどんな問題を解決するか」という問に対して、私達は次のように考える.

「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」をユーモアとともに解決するブログ

と銘打つことにしたい.そしてもう一つは、

(社会通念上健全と思われる方向性において)圧倒的に個性的で突き抜けた記事を目指すこと

である.いかがだろうか.このようにした理由の一つに、自分自身もそのような思いを体感していること、広い意味で類似した思いを抱えている人々がどのような心情を抱いているかをよく理解したいという考えがある.それを扱うことによって、単なるブログ執筆に終始しないという自律心が芽生えるし、自身の勉強、記事執筆の動機づけにもなる.そして記事の内容は自分の信条を貫いたものかつ、超絶怒涛、個性あふれるものを目指したいという野心に基づいている.私は医学の出自であるものの、人文科学寄りのテーマに親和的な傾向があると思っている.精神医学という分野の中でとりわけ自然科学とはいえない領域を扱うことによって、インターネットの世界でも明るみにでなかった部分に光を照らすことができるのではないかと思っている.特に精神病理学の役割は大きいのではないかと思う.私が知る限り、精神病理学の文献は非常に難解で文章が硬い.こうしたところがこの学問を高潔にする一方で、とっつきにくさを出してしまっている印象がある.私は私なりにこの学問に理解を示しつつ、若気の至によって何らかの方法で茶化してみたり、現代の流行や事象を例えを用いてこの学問への抵抗を減らして行ければよいかと思っている.また、英語を主とする外国語の翻訳や鑑賞を通して、語学の勉強を行うことや、文学の紹介と通じて、亀吾郎法律事務所の新境地を開拓できたら嬉しい.実際、以前投稿したエジプトのポップ音楽はなかなか好評だったように思う.また、「フォン・ドマルスの原理」の紹介も思いの外、表示数が多かった.

 記事を百書いて、ようやくブログの方向性が見えてきたように思う.先達のブロガーたちが「つべこべ言わず記事を百は書け」という理由もなんとなくわかるような気がする.私達、亀吾郎法律事務所はスタートラインに立ったばかりだということを知る.

 事務所スタッフは「めでたいことを書けば良い」ということだったが、「目出度い」記事ではなく、「愛でたい」記事になってしまった.期せずしてブログ投稿百回目の内容はこれから私達がどのような記事を書いてゆくか、という所信表明のようなものになった.

 これからも亀吾郎法律事務所をよろしくお願いします.私達は「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」に応えられるよう、日々面白おかしく、楽しく記事を投稿し続ける所存です、私達は旅人を吹き飛ばす北風ではなく、ぬくぬくと暖かく旅人を照らす太陽でありたいと心から思っています.

 

英語学習についての個人的見解

楽しくやれたらいい

 自然科学において、最も根拠のある主張、すなわちエビデンスが高いものというのは、メタアナリシス研究に基づく結果だという.その下には無作為対照研究(Randomised Control Trial: RCT)がある.さらにさらに根拠の低い試験や研究があり、最も根拠のないものは、(実は)専門家の意見である.だから専門家の意見をあてにするな、とはいわないが、「自分で取捨選択せよ」ということになる.逆にメタアナリシスの結果で帰無仮説が棄却されたからといってその仮説が正しいわけではない.尤もらしいだけだ.こういった誤解は現代でも続いている.ちなみに私は自然科学の畑を出自に持つが、「尤もらしい」とかいう妙な曖昧さが好きでない.

 さて、私がこれから話すことは自然科学の領域ではない.そもそも自然科学と人文科学というのは境界不明瞭だからあまりそういう話をしても仕方がない.エジプトとリビアの間に南北の直線を引いたようなものだ.どちらかといえば人文科学の話をする.私は亀吾郎法律事務所の職員に過ぎず、英語の先生ではない.専門家でも無い.だから自然科学の序列に従えば、この話は最も信憑性がないことになってしまう.「自分から信頼度をさげるとはやはり愚か者め」とお思いの一部諸兄は、落ち着いていただきたい.この論理でいくとあらゆるYouTubeの投稿者が熱く持論を語る行為がすべて虚しくなってしまう.だがそうでは無いだろう.私は、個人的な経験を未来の他者と分有できるか、可能性に賭けてみたいだけだ.

私の話から

 私にとっての初の語学体験は、公文式の英語のときだったと記憶する.単なるCDプレーヤーから流れる英文を聞いて、適切な回答を記述するトレーニングを要請された.

 小学二年生か三年生だったか.「あぁ、今日も洒落臭えなぁ」と思って課題をこなしていたところ、全身を駆け巡る極彩色の電撃が一閃.次の英文を書いた.

The hill is high.

私は英文から並々ならぬ霊感を受けた.

「今、自分は文章を作ったぞ」

という猛烈な興奮.当時の自分にとっては第二文型などどうでもよかった.傍から見れば、「いつもぼーっとしている〇〇くんがなんだかニヤニヤしているな、大丈夫かな」くらいだ.しかし、私は独自に創造という営為を成し遂げた、ホモ・サピエンスを自称するに等しいくらいの感動と自負に満ちていた(後にホモ・サピエンスは撤回した).

 この感興は忘れがたい.私に「自分史」というものがあれば間違いなく、世紀の大事件だった.そこから私は狂ったようにCDプレーヤーを再生した.そして聞きすぎて幾つものプレーヤーを破壊した.

 中学一年生の頃にはちょうど、「生き残った魔法使いの少年」が大人気になりつつあるころだった.私は「賢者の石」を一晩で読み終えたが、生ビール中ジョッキ一つでは足りないおっさんのように物足りなかった.実に見事な翻訳だった.どうやら本国では次回作「秘密の部屋」が出ているらしい.私はウズウズした.

「そうか、原著を読めばよい」

 早速あの手この手で入手し、「Philosopher’s Stone」を読み始めた.一頁目から苦戦した.当時の自分には知らない語だらけだった.文法もよくわからない.一文、一文を辞書を引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引きまくった.辞書とは今でも良き友人だ.中学校では朝の十五分間に読書の時間があった.辞書と本を持ち込んで、辞書を引く作業を続けた.辞書を使い倒す習慣が始まったのはこの頃からだろう.現在辞書はほぼ電子化した.Macintoshのパソコンを使っている方は、「辞書」のアプリケーションをぜひ利用していただきたい.大変優れた名脇役だ.私がブログを書く時はこれが欠かせない.中国語、韓国語、ドイツ語、フランス語、スウェーデン語、ノルウェー語、イタリア語、ポルトガル語、アラビア語……類語辞典も一部あるのが良い.

 話を戻そう.第七巻の最終章にたどり着いたときは魂が震えたものだ.その時には大学生になっていたと思う.そこまで時間がかかったのは他にも本を読み始めたからだ.幼児のころに絵本で読んだ「ガリバー旅行記」がとてもとても面白く、原書で読んでみようか、と思い書店で買って読んだときの打ちのめされた感覚も忘れがたい.知っている方ならわかるが、初版が1726年だ.読めなくはないが、古めかしく知らない単語がこれまた並ぶ.私はスラスラ読んで、ガリバーとともにリリパット王国にたどり着き、彼が巨人として火事の宮殿に小便をかける場面を読みたいと思っていたのに、なかなかリリパットにたどり着かなかった.「ガリバー旅行記」は途中で諦めてしまった.受験勉強も差し迫ってきたという事情もあった.Johnathan Swift(ジョナサン・スウィフト)の作品に込めた真意を知るに私は青すぎた.

自分に合う参考書を選ぼう

 やはり、私にとって天啓であり革命とも言える出会いは原仙作の「英文標準問題精講」に尽きる.間違いなくRevelationでありRevolutionだった.今でもズタボロの雑巾のように大事に取っておいている.時々見返してはニヤニヤするし、英文を書く時の参考にする.ヘミングウェイ、ラッセル、エリオット、ウルフ、チャーチル、アインシュタイン、ニュートン、フィッツジェラルド、ミルン、オールビー、ミルトン.

 皆、私の心強い協力者である.故人だが.

 この本が私を受験勉強の苦しみから助けてくれたといっても良い.とはいえこの本は圧倒的に手強い.一般的な日本の大学入試のレベルを超えるだろう.だが、TOEICやTOEFLのひどくつまらない英文を読まされるよりは、はるかに気休めになる.「私が」文を読んでいる、という気にさせる.なんとか理解してみせようぞ、という気概をもたせてくれた.そして文の構造がつかめたときの心地よさといったら.当時の先達が「覚えるくらい何周もしろ」というので私も少なくとも三週はしたはずだ.一周目でつまづいた文章にまた出くわすと、まるで著者たちが「おかえり」と言っている気がしたものだ.

 私はTOEICのような共通試験のスコアで競り合うような議論は好きではない.私もTOEICやTOEFLは何度か受けたが、できればもう受けたくない.就職、入学の足がかりとして用意されるその試験は性質上、「ビジネス」に即した内容が多い.広告、新聞、メール、インタビューなどが題材になっている.どれも架空の内容で全体的に虚無感じるのは私だけか.「試験とはそういうもんだ、おとなしく口を閉じてろ、馬鹿者め」というお叱りがあるかもしれぬ.だがつまらない文をつまらないといって何が悪いのか.作成者の顔が見えない、というのがどうも気に入らない.「はいはい、委託されたのでとりあえず作っておきましたよ」というやっつけ感を感じてしまう.

 それに比べ、英文標準問題精講は、裏表紙に引用元の著者の写真が並んでいる(モノクロのせいか、遺影の様にも見えてしまう).誰某が書いている、とわかるのはとても良い.もちろん出典もある.だから後でさらに読みたくなった時に書店に行けば良いのだ.それに彼らが心血を注いだであろう、文章に見られる技巧、散文へのエネルギーが感じられる.それから編集者である原仙作・中原道喜の訳と解説に安定感がある.

 私にとって、名文や名著とそうでないものの違いを厳格に述べることは出来ない.だから上記の意見は誤解かもしれない.しかし、TOEICなどの勉強は問題の解き方を覚えるだけのような、手段が目的となってしまう危険に陥りやすいと思う.TOEICの先にある目的があれば、努力するに越したことはないだろう.楽しくやれたらいい.もし書き手の顔、意思を感じられるような時事の話題に触れたいのであれば、英字新聞をおすすめする.私は現在、Japan Timesの電子版を購読するようにしている.六ヶ月間の月額百円キャンペーンをやっている.よかったらどうぞ.もちろん利益相反はない.

文法について

 非専門家である私から、英文法について述べられることを挙げるとすれば、一つは、「文型」を意識して読むことだ.これはかなり重要な要素で、おろそかにしている人が多い.もう一つは「これは口語的だとか、文語だからあまり使わない方が良い」という意識を持ちすぎないことだと思う.この軛のせいで損をしている人は多いように思う.文語で書いて何が悪い.会話も文語を基礎にして何がいけないと言うのか.「表現が固いじゃん」固くて何がいけないのか.「もっとCasualな表現あるからそっちのほうがいいよ」という指摘は、表現の幅を自ら狭めているCasualtyに過ぎないと思う.それからまともな文法書を買うことが大切だ.私はロイヤル英文法を持っているが、単色刷りのシンプルな構成と大きな字、索引の充実は好感が持てる.一冊あれば一生使える.これで二度と買わなくて良いのだ.作文や文法について参考書を紹介するならば、さきほどの中原道喜や佐々木高政を挙げる.

聞くことについて

 聞こえた文章を書き取る訓練が最も良いように思う.これは筆記の練習にもなる.かつて私はディクテーションの鬼となったことがあった.「The Phantom of the Opera:オペラ座の怪人」という映像作品がある.小説や劇でも有名だ.Andrew Lloyd Webber という作曲家が映画に向けて書いた曲(どれも壮大だ)があり、私は当時、高校生の頃、自宅にオペラを響かせて歌詞を聞き取り、自作で歌詞カードを作ったことがあった.何百回か、延々とオペラが鳴り響いていたので頭がおかしくなりかけたが、語と語の連結を推測したり、発音と抑揚、文章の構造を考える上で良い訓練になった.オペラの歌詞を聞き取るだけで難易度が高いので、後々流行りのポップスやロック・ミュージックを聴いて歌詞を書き出しては、後日公開されている歌詞と照合する、という遊びをやっていた.高校生にしてはそこそこ狂っていた(やっぱりおかしくなっていたじゃないか!)方だが、自分は楽しんでいたと思う.この訓練は多言語でも応用が効く.今度はアラビア語でやってみようか.

話すことについて

 話すことは不肖あまり自信がない.発音と抑揚の付け方は幾分か指南できると思う.ただし私は非専門家だから、最も信頼におけない人材であることを断った上で話をする.発音に関して、海外で暮らしていないと発音が上手にならないのではないか、そう思っている人が多すぎて気の毒である.そんなことはない.小林克也という反例がいる.彼は大変きれいな英語を話すラジオDJで、彼は実に堂々と、崩れた英語を話す海外の連中と会話を成立させる.あっぱれである.彼の流暢さは抑揚の置き方にある.山下達郎もきれいな英語を話すと思う.Ride on Time〜

 また、RとLの違いにこだわりすぎる人が多い.聞き取れるに越したことはないが、初学者には酷だ.そういう人はイギリス英語を身に着けたら良いのではないか.Rの発音があまり気にならなくなる.それに子音をしっかり発音するので、文字と発音が一致して、きれいに聞こえる.私は中学生くらいに気づいてそうすることにした.かつてユース・ホステルの相部屋にいた英国人の青年と話をしたときに「君はいいイギリス英語を話すね」とお世辞を言われたのは良い思い出だった.あれは世辞だ.自慢話はこれくらいにしよう.

 先天的なバイリンガル、すなわち幼少期に外国に滞在したという、外国語のOSをインストールできた人々は外国語を話す時に脳内言語設定が切り替わるようだが、私はそうはいかない.だが、切り替わらなくたって良いじゃないか.言語体系の異なる我々が頑張って、別の言語を覚えようとしているのだ、文法がわかるだけでも素晴らしいと自信に思ったほうがいい.私だったら頭の中でおちおち英作文をする.ゆっくり丁寧に考えたら良い.

まとめ

 大した話はできなかったが、自分の主張は伝えられたのでこれでよしとする.結局は「学問に王道はなし」、ということになる.しかしながら原仙作によれば捷径はある.だから嘆かないでほしい.楽しく突き抜けるのがいいと思う.自分にとって親和性の良い題材を選ぶことが良いだろう.

 最後にミルトンの詩を紹介して締めよう.これは以前の亀吾郎語学教室でも引用した.語学を勉強する時はいつもこれを意識する.我々は地獄から這い出ようとする魔王サタンと同じだ.

Long is the way

And hard, that out of Hell leads up to Light.

Gates of adamant,

Barring us out, prohibit all ingress.

–John Milton, Paradise Lost

私の小論にお付き合いくださりありがとうございました.

The Book of Tea: 20

Acknowledgement

謝辞

訳者あとがき

 かねがね私は「訳者あとがき」というものを書きたいと思っていた.ついにその日が来るとは!私にとって初の長編翻訳の完成だ.訳者あとがき、と記すことができ、大変光栄に思う.すごく嬉しくて感慨深い.

 読者の方はどのように感じてくださっただろうか.拙い翻訳だと思われるのも無理はない.天心の英文が素晴らしいと感じてくださったなら、訳者冥利に尽きる.私の目的はほとんど成就したと言ってよいだろう.彼の「茶の本」は七章に分かれている.どれも彼の知識の奥深さを語り、日本文化が海外に正しく評価されていない怒りと、自国ですらも理解されていない嘆きを冷静に、しかし情熱的に語る.

 天心は若くして英文に親しんだ.Ernest Fenollosa(アーネスト・フェノロサ)と知り合い、助手として彼の美術品収集に助力したことはよく知られている.英語との親和性が高い彼の描く文学世界は、美しく格調高く、しめやかであると思う.特に最終章は圧巻である.利休の死を描く最期の茶会は私にとって、彼がやはり日本人なのだと強く思う特徴があった.

 利休が門弟を招いて、彼らが待合に入った瞬間.時制が現在に回帰するのだ.詳しくいえばAs they look into–からである.これまでの評論はもっぱら過去形で説明を行ってきたのだが、この利休の最期の描写は、弟子たちの悲しみと緊張感に溢れる空気感をリアルタイムで説明するものである.

 この時制に関する日本語の特性は、以前の記事で紹介した.せっかくのなので再度掲載しておこう.

 敢えて出来事を時制変化を用いずに表現することは、特に我が国の文学的物語(narrative)の特徴として、多いに知られているものである.日本語について述べれば、そもそも日本語の文法は現在、過去、未来を鋭く区別しない.

 心のうちに祈念して、目を見ひらいひたれば、風も少し吹よはり、扇も射よげにぞなったりける.与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ.

 上記は「平家物語」において、那須与一が沖の波間に揺れる小舟に差し出した扇を海岸から射落とす場面である.過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法ははるか以前から知られている.矢を放つ主人公の動作のみが現在形である.神仏への祈念と風の静まりから決定的行動へ移る描写の現在形は際立ち、その一瞬の光景を浮かび上がらせる.これは決して暴力的というわけにはいかないだろうが、一気に読み手、聞き手を引き込むという点で、強力な誘導である.強制力を持つわけである.

 一方、近代ヨーロッパ語の場合は、動詞の語尾変化や助動詞と動詞の併用により、出来事の過去・現在・未来を、文法的に明示する.その中でも厳格な文法から一定の緩みを見ることができる.以下の例文を示す.

Alors, une idée l’exaspéra. C’était une saleté que ces dames voulaient lui faire en se conduisant mal chez elle. Oh! Elle voyait clair! …

Émile Zola, Vuillaume, 1876

 その時、一つの考えが頭をよぎって彼女は激しく苛立った.このご婦人方は、彼女の家で無作法に振る舞って、嫌がらせをしたんだ.ああ、はっきりわかるわ.

Dora stopped listening because a dreadful thought had struck her. She ought to give up her seat. She rejected the thought, but it came back. There was no doubt about it. 

Iris Murdoch, The Bell, 1958

 ドーラは恐ろしい考えが急に頭に浮かんできて、会話に耳を傾けるのをやめた.私が席をゆずるのが当然だわ.ドーラはその考えを打ち消したが、再び考えは戻ってきた.譲らなければならない.

 上記はいずれも登場人物の意識にのぼった考えを描出した文である.仏文では自由間接話法(Discours Indirect Libre/Style Indirect Libre)とよび、英文では描出話法(Represented Speech)ともいう.こうした技法を意識の流れ手法(Stream of Consciousness Technique)と呼ぶようである.このような技法は伝達動詞の支配から自由になる話法であるが、時制は必ず間接話法と同様に照応を求められる.時制は自由にはならず、時制が日本語のように読者を現在へ引き込むのではない.読者・聴者の意識が、あたかも作中の登場人物の意識であるかのように、過去へ誘うのであろう.強い言い方をすれば過去へ引きずり込むのだろう.

「記憶/物語」を読んで 2

 寡聞にして私は、時制のゆるい英文表現をこれ以外に知らない.おそらくあるのだろうが、限定的なのだろうと思われる.岡倉天心が日本人であるからこそ、彼以外に為し得ない日英ハイブリッドとも言える文学的表現の醍醐味を私達は味わうことができる.少なくとも私はそのように理解し、心躍らせながら作品を読み、翻訳をした.もう一度是非ご覧いただこう.In art the Present is the eternal.という句が沁みる.

–On the day destined for his self-immolation, Rikiu invited his chief disciples to a last tea-ceremony. Mournfully at the appointed time the guests met at the portico. As they look into the garden path trees seem to shudder, and in the rustling of their leaves are heard the whispers of homeless ghosts. Like solemn sentinels before the gates of Hades stand the grey stone lanterns. A wave of rare incense is wafted from the tea-room; it is the summons which bids the guests to enter. One by one they advance and take their places. In the tokonoma hangs a kakenoma, –a wonderful writing by an ancient monk dealing with the evanescence of all earthly things. The singing kettle, as it boils over the brazier, sounds like some cicada pouring forth this woes to departing summer. Soon the host enters the rooms. Each in turn is served with tea, and each in turn silently drains his cup, the host last of all. According to established etiquette, the chief guest now asks permission to examine the tea-equipage. Rikiu places the various articles before them, with the kakemono. After all have expressed admiration of their beauty, Rikiu presents one of them to each of the assembled company as a souvenir. The bowl alone he keeps. ‘Never again shall this cup, polluted by the lips of misfortune, be used by man.” He speaks, and breaks the vessel into fragments.

The ceremony is over; the guest with difficulty restraining their tears, take their last farewell and leave the room. One one only, the nearest and dearest, is requested to remain and the end. Rikiu then removes his tea-gown and carefully folds it upon the mat, thereby disclosing the immaculate white death robe which it had hitherto concealed. Tenderly he gazes on the shining blade of the fatal dagger, and in exquisite verse thus addresses it:

 すべて時制は現在形なのだ.天心はおそらく、このことを意図して書いたのではないか.だとすれば天心は大変な才覚を忍ばせている.ずるいというか恨めしいというか.利休の門弟が入室した瞬間に、時制が現在に回帰するのだ.私達は、利休とその門弟との最期の茶会に参席しているような臨場感に包まれる.ぐいと一気に引き込まれる.そして利休が自刃する瞬間までもが、現在にある.そう、自刃し、辞世の句を読むまでは.

“Welcome to thee,

O sword of eternity!

Through Buddha

And through Dharma alike

Thou hast cleft thy way.”

With a smile upon his face Rikiu passed forth into the unknown.

 利休の絶唱は原文では以下のものとなる.

人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺提る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛

「力囲希咄」(りきいきとつ)とは「腸をしぼって思わず発する一喝、一声」を言う.唐木順三をして「㘞地一声の怒電」というようである.静かな諦念とは相容れない激しい気負いなのだという.

「㘞地一声の怒電はまさに対立の頂点であったが故に、その故を以て対立を超える」

 これはヘーゲルの弁証法的な考えに通ずる命題である.

 あまりイメージがつかない人は、武論尊による「北斗の拳」が大いに参考になるだろう.ケンシロウに経絡秘孔を突かれ敗北する人々は「あべし」、「ひでぶ」といった声をあげて死亡する.これこそ力囲希咄、㘞地一声の怒電であろう.形容しがたい声とでもいうのか.断末魔の叫びともいえる.この声を以て人は死を、諦念を超越しようとする.

 だが、天心の英文にはその「力囲希咄」に相応するものがない.なぜか.様々な訳者のあとがきにもその考察がある.決して、天心にとって利休の死は弁証法的な対立がテーマではなかった.止揚することが本意ではない.利休が彼岸へ渡ることで、

Harmony with the great rhythm of the universe

となることが重要なのであったという.私も強く同調する.天心にとって死の超克などどうでもよかった.従容として死を受け入れ、永遠の世界へ潔く旅立つことを良しとした.それが日本人の、日本文化の真髄なのだと.これは手塚治虫による「火の鳥」が理解の参考になる.登場人物は皆生への希求が甚だしく、死を恐れる.しかし、火の鳥は死を恐れず、一つの超生命体ともいうべき「コスモゾーン」への融合を受け入れるよう優しくも厳しく諭す.おそらく、天心の思い描く世界はこの「コスモゾーン」への融合、死との融和であった.幸いにして、この思想は引き継がれた.

 しかし、不幸にして天心は敗北した.西洋文明の怒涛のロジックに負けた.もちろん、我々も負けた.死をいたずらに美化する我が国の虚飾が作られた.圧倒的な敗北だ.作品には天心の諦観が、ペシミズムが浮かばれる.そして、我々の中に、私のようなものが天心の心情に投影を果たす.だから、天心の労苦は無駄ではない.天心は負けたが、彼の理念は生き続けている.この作品も宇宙の偉大な調律に調和し、世界中で愛され続けているのだ.私もこの調律に調和すべく、拙い翻訳を行ったわけである.翻訳の質としては敗北だが、これはこれでよい.こうして皆さんにお届けできたのだから.

本当にありがとうございました.

帰納と演繹、アイデンティティ

音楽の嗜好について

 亀吾郎法律事務所のごろうちゃんとさぶちゃんの間で、奇しくも一致した見解がある.今回はそれについて話をするとともに、世の中の難しい質問に対するトラブルシューティングを試みたい.


「好きな音楽は何ですか」「最近何聴いているの」

と訊かれるとやや返答に困ってしまうことがないだろうか.

「ウ~ン、IncognitoやJamiroquaiのようなアシッド・ジャズかなぁ」「何聴いているって言われても新旧の曲だからなぁ」「Nile Rodgersのような楽曲もいいかも」「うん」

 熱烈なファンや説明がうまい人でない限り、「好きな音楽」を説明することは難しいのではないか.ジャンルを答えればいいのか、アーティストを答えればいいのか.曲名なのか.演奏のとあるパートなのか、声なのか.

 例えば、さぶちゃんはPost Maloneの”The Circles”という曲が気に入っているが、決して他の曲が好きなわけではない.ごろうちゃんはHiroshi Watanabeの“Get it by your hands”という曲がフェイバリットなのだが、他の曲に詳しいわけではない.

 要するに「へぇ、Post Maloneが好きなんだ」と誤解されたくないのである.せっかくのいい声なのにライブ中も喫煙しているので、肺がんや喉頭がんなどの発がんリスクが高くて医療人としてヒヤヒヤする.歌手生命が危ぶまれる.さらにはいつの間にか入れ墨だらけになってしまい容姿も正直に言えば、怖い系の人になってしまった.発言の途中に必ず、Fで始まる用語を使うので、無作法な人なのかなと心配になる.つまり、人柄には惹かれない.歌唱力は抜群だが、他の曲に対する感動はそこまでとはいかない.とはいっても、”The Circles”は歌詞もメロディも郷愁を誘う美しいロック・ミュージックだと思う.

 つまり、もっと簡単にいうと、質問者が勝手に帰納的結論を導かないでほしいと思うことがある.前提が真だからといって、結論が真では無いのだ.ごろうちゃんが「虹」が好きだからと言って、「電気グルーヴ」が好き、ということにはならない.

 では、「ロック」が好きなのか、と言われるとこれまた難しい.ロック・ミュージックは多義的過ぎる.ごろうちゃんとさぶちゃんは、面倒くさがりなので「そうです」と答えるそうだ.相手がどのような文脈で言っているかわからない場合は、「そうです」といってそうそうに議論を切り上げることにする事が多い.

 ロックにもグラム・ロックや、グランジ・ロック、メタル、カントリーなど様々だ.一つのジャンルのなかに複数の下位分類があることは我々はよく知っている.しかし私達は日常の会話でそれを無意識に忘れてしまうことがあるのかもしれない.

 つまり、これらから何を述べたいのかといえば、「好きな音楽はなにか」という問いに対して、「〇〇です」という回答は難しいということ、そして私達亀吾郎法律事務所のスタッフは「曲一つひとつに対して愛着を持つのであって、よほどその音楽家に通じていない限り、どのアーティストが好きだ、とはいえない」ということだ.

 この議論は他のカテゴリについてもいえると思う.文学もそうかもしれない.好きな旅行先、好きな車、好きな衣服のブランド.皆さんはうまく説明できるだろうか.

 我々、亀吾郎法律事務所が提案するこうした質問に対する回答は、

「うーん、一概に言えないですね」「あなたはいかがですか」

というものである.あぁ、なんと凡庸なのだろうか.だが聞き手の意図を、文脈を確認するためにはこれが無難だ.相手がどのような答え方をするかで、自分の態度を決めればよい.答えがある人は自分の言葉を紡げば良い.このテーマは答えをもたない人のためにある.J. Lacanによれば、自分の欲望は他者の欲望だ、という.自分が何を欲しているかは、他者が何を求めているかを知ればよい.

 会話はひどく難しい.

ここまでありがとうございました.

Does the scorpion venom make us dream bright side of Electric vehicle?

Venomous Expect

There are a few things I am curious about. According to the requirement of world society, the internal combustion engines are got rid of as unfit cars these days. As a way of dealing with the environmental issues, I personally think that this is owing to an unavoidable circumstance. However, what worries me is that by this situation suggest that the delight of driving a petrol-powered car may be lost forever. Would I forget the rapturous moment, when throttling an engine the tachometer jumps up high revolution and my sensation when the engine cries with joy? Would I lose memories of the excitement that car and myself accelerates together continuously?

I love the way I insert a key in dashboard and set a starter, then wakes up my partner. For me, it is a bit boring only to push a button, which is quite an easy though. This ritual of starting an engine may gradually fades away, like the sadness that coloured leaves fall from their branch, apart from some automobile manufacturer. But we take for granted that from the tree branch there sprouts young leaves. We are looking forward to see future sprouts. This time, I would like to write about a one of new leaves.

There is an automobile manufacturer in Italy called FIAT. the car maker also known for building “Cinquecento”. We also call it 500 as well. FIAT announced that they produced the brand-new 500. It is a pure electric vehicle. The design very resembles with former 500. I believe that their policy of A segment city car does not change by comparing the width and length of former one and the new one. It is a bit wider and longer than previous model. The body colours shown us were sensual deep navy, pearly shiny sky-blue and sparkling blossom of rose, etcetera. They are all my favourite colours. I am relieved to see its tender design by contrast to the modern car design of sharp gaze like front light, gigantic grill and insensitive angular shape. The new 500 remains coupé! Good-looking car is essential to our mentality. Needless to say that comfy seat, seat position easy to adjust my body are important for me, but I do not care for an ottoman, nor do I need table and television. All I want is just cupholders and battery charging equipment for smartphone, and cruise control. I think that the new 500 is matured and well sophisticated with its price. She is a chic as a whole. My taste for car fit nicely with the electrified 500 in this point of view. I fancy driving a tiny briskly nimble cars. The former one had these characteristics(I will not write about the primary 500 which is known as the car that grandson of Arsène Lupin drove in the japanese film). Cinquecento novantacinque; 595 by Abarth & C. S.p.A has been a spectacularly awesome car. I love the lowest rumbling noise like the stomach groans when drinking down a cup of cooled milk, the machine accelerates with incurable pressure of sounds. The car reminds me of the sense that makes me feel the harmony and unity when changing gears roughly, which share the same perception with us who are naturally brutal, and feels like that the machine car controls its fuel injection system with boldness.

Perhaps I cannot help thinking that the debut of new 500 suggests that Abarth will produce its high performance version of the 500 in the future. But, in order to unleash the power, the more batteries are needed. The more batteries it contains the more weight it has. The lightness gives advantage of driving performance. If it weighs too much, all the goodness of 500 would be spoiled. Internal combustion engine cannot be applied so far. How will they try to modify the vehicle? I must confess that there are a few pessimism in my mind though I am almost looking forward to see the electrified version. There is also an anxiety that my expectation will not come true. If the product will be announced and introduced to Japan, Would the driving pleasure of EV be nice as well as that of petrol vehicle? The one thing, the overwhelming acceleration due to the EV, which can be easily imagined. However, I am not sure about the lingering sensation, which I expect, when stepping on the accelerator.

The symbol of Abarth is the scorpion. Owners and enthusiasts happily speaks “I got poisoned”, The harshness of machine compares with a poison of scorpion. The venom brings us pleasant effects by revving up the rpm with low gear, or groaning sound of idling like troubled intestine. These are our honour to the glories of motorsport legend. So, we would be unhealthily detoxed if these turn to the sound of silence. Otherwise, there might be another venomous effect that is brought by electrification. Is that a new poison that makes us to think we would not need any petrol engines. If it may be true, that would be nice. Polar bears living on the thin ice would also agree with me. It is not true to say that I have no anxiety with electrified vehicle, but I am also expecting the new wave coming with new stimulant. If it is spicy as the Japanese pepper, which is pungent and lingering aroma sprouts in the spring, that must be superb.

I wish that some works which make me think to own someday will arrive in the world.

Thank you for reading so far.

肌寒い雨の日

macro photography of water dew of glass
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ブログ開設七ヶ月目を迎えて

 2020年6月4日に亀吾郎法律事務所を立ち上げて半年がたった.12月5日現在で七ヶ月目となる.まだまだ七ヶ月か.という気持ちと、もう七ヶ月かという気持ちが4:6くらいで混合し一つの名状しがたい感慨となっている.

 半年が経過したところで、簡単にこれまでを振り返ってみることにする.以下は亀吾郎法律事務所を訪れた人、表示数(PV)、記事投稿数である.

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Table 1

 基本的に各項目は右肩あがりで表示数が増えている.フォロワーもWordpressだけで32人、ソーシャルメディアで10人.純粋に嬉しく思う.特に驚いているのが海外からの訪問数が安定して増えていることである.カナダ、アメリカ、オーストラリア、インド、中国あたりが特に多い.やはり英語での記事投稿が貢献しているのだろうか、それとも翻訳記事が目を引くのだろうか.この辺の考察はもうしばらく時間をかけてみないとわからないが、良い兆候のように思うので、このまま外国語記事も増やしてみたいと思う.目指すはオリエント世界である.アッサラーム・アライクム.

 投稿数は10月を除けば、一応は一ヶ月に14記事投稿している.概算すれば5000〜6000文字の記事をコンスタントに書いているので、記事の質はさておき、厚みとしては適当なものを続けられているように思う.このままのペースで淡々と続けられれば良い.

成功報酬型広告について

 亀吾郎法律事務所は広告を掲載して報酬を得る仕組みとして、Google Adsenseというものを申請している.掲載を始めたのは10月くらいだったか、当時50記事も満たなかった状態だったが、幸運にも審査は一度で通過することができた.あまりにも個性が強すぎたせいかもしれない.ちなみに広告収入の総計は$1.31(邦貨換算で136円)である.これならば駄菓子が買えるのだから、なかなか文章の力というのはすごいものだと驚かされる. 広告収入は二次的な目的である.私の真の企ては、自分の思考の整理と自分が勉強したことや考察の可視化である.そこにちょっとしたお小遣いが入るのであれば、様々な脳内報酬系が刺激されるのだから、決して悪くはない.広告が邪魔だと思う方は面目ないと思う.AdBlockなどを導入して広告を消していただくのは自由である.

 さらに弊事務所は成功報酬型広告にも足を突っ込むことにした.通常の法律事務所にはできないことをするのが、亀吾郎法律事務所の圧倒的な強みである.つまりは事務所の記事にAmazon Japanの広告を掲載、広告を通じて購買に至った顧客がいた場合に、吾郎ちゃんとさぶちゃんに成功報酬が支払われる、という具合である.実はこれはまだ始めたばかりで、180日以内に一定の実績を積まないと継続できないため、正式な運用では無い.広告とはいってもその形式はこちらである程度選べるので、主張が強くないものを記事の最後にまとめて掲載するようにしている.ほとんどは書籍である.亀吾郎法律事務所が選んだ主題に関連する書籍を掲載している程度であり、視覚的な邪魔にはあまりならないと思う.書籍の画像をクリックするとAmazon.co.jpにジャンプする.他の読者の批評、値段、関連書籍を見比べてぜひ参考にしていただければと思っている.弊事務所では成功報酬型広告を文末の参考文献程度に扱っていると考えてほしい.

今後の連載について

 初見以外の読者の方ならご存知だろうが、そろそろ「The Book of Tea」の翻訳が終焉を迎える.最後は千利休が力囲希咄の〇〇をするようだからぜひ楽しみにしてほしいと思っている.

 私が考えているのは、次回作のことだ.次の翻訳は何にしようかな、と思案している最中で、既に翻訳されたものよりは、未翻訳の珍品を発掘して翻訳したいという邪な考えが私の脳内を占拠している.Rabindranath Tagoreも良いのだが既に高良とみによる優れた翻訳がある.Iris Murdochもなかなか面白そうであるが、長編小説の翻訳であるとこちらの気力が持たない可能性がある.う〜ん、難しい.

 おいおい、現象学ファントム空間論が残ってるじゃないか、という熱心な読者もいるかもしれない.その通りである.こちらは同時進行でちびちびやっていく.現象学がご無沙汰であるのは、やはり扱うテーマが重厚だからで、決してサボりではない.Edmund Husserlのみで現象学を扱うのはいささか無理があるように思っていて、ネタを収集するべく現在渉猟に出かけているのである.まずはMartin Heideggerの「存在と時間」を読んでから構想を練るつもりだ.決して中途半端にはしないのでどうか楽しみに待ってもらえれば幸いだ.そもそも「確信成立条件」をブログで示そうなどという目的は壮大にもほどがあるだろう.時間がかかるに決まっている.

記事の英訳について

 翻訳といえば、岡真理による「記憶/物語」の評論を英訳してみようと思って、すでに一話は英訳してみたのだった.正直にいえば自信がない.突然聖人君子のような人がスッと現れて無償で添削してくれる、なんてことがあればいいが、あるわけないので、どんどん突き進むのみである.この特集も最後まで完結させて、日英の記事として海外にも分有したいと思う.

 というわけで、私にとっては書きたいことが土山のようにある.ネタがつきることはないだろう.書くことも辛くない.むしろ作品が完成すると一種のカタルシスすら感じる.だが、私の凡庸な頭脳ではこれ以上の投稿スピードは出せないし、記事をまとめる力もそこまでない.千手観音くらい手があればなぁ、なんてことも考えたが、それはそれで大変だろう.

最後に 

 本記事はとある楽曲を紹介して締めくくりたい.私にとって今日のような肌寒い冬の曇天には宇多田ヒカルの曲が特にしっくりくるのである.

♪心の電波 届いてますか 罪人たちの Heart Station

 亀吾郎法律事務所が皆さんのHeart Stationであればいいなと密かに願っております.ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

An Elephant in Japan

view of elephant in water
Photo by Pixabay on Pexels.com

了解不能に出くわすとき

A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion.

The Elephant in the room

 初めに断っておくと、亀吾郎法律事務所の理念は「法律に門外漢」である.実際のところは政治にも門外漢である.だから以下の論考に政治の話は無しである.クサガメの吾郎、三郎には政治がわからぬ.

 「Go To キャンペーン」は日本の経済政策の一つだという.その政策の是非を巡って議論がなされているのはご周知の通りだ.その中で私を躓かせ、悩ませていることがある.無論、政策のことではない.

 「Go To 〇〇」という呼称そのもののことだ.どうして「Go To TRAVEL」などという英文法を破壊する名称を採用したのだろうか.この「Go To」シリーズは他にもEAT、EVENT、商店街で構成されるようだが、(商店街も含めて)おかしい.何がおかしいのかわからない方がいないことを願って話を続ける.

 「Go」という動詞は自動詞という扱いだ.よって第一文型のS+Vを取ることがほとんどだろう.The Sun goes down. のような用法になる.つまりsunが主語、goesが述語、downは副詞である.He goes to Lebanon.であれば、to は前置詞であり、Lebanonは名詞だ.自動詞には副詞や前置詞があとにつくことを我々は知っているはずだ.そしてgo to と来れば、場所に関する名詞が来る、そういう想定をすべき、と自然と頭はスタンバイする.

 だのに、to のあとが、さらに動詞とはどういう了見なのだろうか.商店街を除いて.そもそも商店街は日本語だ.eat, travel には名詞の意味もあるが、まず使わない.eventは事象であり、場所ではない.

 八百萬歩譲って、to以下の動詞が to不定詞だとしよう.(この仮定がすでに破綻しているのだが)すると、「Go to eat」は「食べに行け」ということになる.なんだか偉そうな言い方になる.だがそれでも言い訳として苦しい.「Go to travel」は「旅立ちに行け」なのか.こんな無茶苦茶を通すのは無理だろう.Commaで区切りでもしないと意味が通らない.そもそもCommaで区切ったところで意味不明である.event は名詞なので、to不定詞の定義から外れる.前提が「Go to キャンペーン」である.to不定詞なら区切りがおかしい.

 「まぁまぁ、そんな硬いこと言わないでさぁ.景気刺激策ってことで.キャッチーなコピーがほしかったんだよ.なんとなくわかりそうなやつ、って感じ」

といった擁護が出てくるのはわかる.一応、和製英語なりの言葉の伝達力を理解しているつもりだ.だが、それでいいのかという躓きが私を悩ませる.

 貴方は自分の子供や近くの学童、学生から「Go toトラベルって言い方おかしくないの」と指摘されたときに合理的な説明ができるだろうか.

 「あれはね、和製英語なんだ.政府も英文としては間違っているって知っているんだ、あはははは、君は賢いねぇ」

 という返答は欺罔でしかない.間違った用法をそのまま使う馬鹿がいてたまるか.国民を統制するトップが外国の文法を誤用する事態があってよいのか.しかも世界の大多数が使う言語の文法を誤用している.学校教育では正しい文法を指導し、理解するよう教育された我々が、なんと景気刺激策の呼称に英文法の誤用を公称するという奇妙奇天烈な事態が生じているのだ.そして、その呼称が採用される過程で(異を唱えたものがいたと信じたいが)誰かの発案でそのまま通ってしまったであろうという悲劇である.日本語を使えばいいのに.

 さらに極めつけは、それが報道で国民に伝えられてもその呼称に違和感を感じる反応が少なく感じる、ということである.そもそも報道もそのまま伝えているのだから、聞いている身としては、なんだか気味が悪い.目の前に巨大な糞があってものすごく激臭がしているはずなのに、みんな知らん顔をしているような感じである.このような状況を、”The elephant in the room”という.手持ちの辞書であるOxford Dictionary of Englishによれば、

A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion.(明らかに存在している大きな問題或いは賛否両論の話題が、議論の主題として避けられている)

とある.面白い表現である.これも否認の一つなのだろう.日本人の感覚でいえば、空気を読むということと縁がありそうだ.だが否認だとすればなぜ、そうするのか.それを考える必要がある.

 哲学者であり、精神病理学の嚆矢であるK. Jaspersは「了解不能な精神現象は、背後に病的な身体的過程を想定し、因果的な説明を想定する」といった.つまり、わからないものに対して我々は背景に何かしらの病理を感じ取り、徹底的にロジカルに現象を説明するしかない.

 Go to Eat, Go to Travel, Go to Event, Go to 商店街はいずれも私にとって、了解不能である.そして文法的異論がほとんどみられない事態も了解しがたい.このような状況がなにかの因果律で起きているのだとしたら、実に興味深い.ぜひ一刻も早く知りたいと思う.なぜならそうでないと我々は、この状況が了解不能なものとして日本中にはびこる病理を想定しないといけないのだから.

 皆さんの周りにゾウはいないだろうか.もし、見えているのだとしたらそれは幻覚ではなくて、貴方が気づいているけれど気づいていないふりをしているモノの正体かもしれない.

 

ここまで読んでくださりありがとうございました.

日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

たまにはゆるい話を

 親愛なる読者の中には、亀吾郎法律事務所が硬派なブログであると思っているかもしれないが、硬いのはクサガメの甲羅なのであって、本人の頭は至ってゆるい.そんなゆるさをブログにも反映させてみよう.小論をいくつか述べたい.

急接近する巨匠たち:麻婆豆腐について

apartment blinds cabinets chairs
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 以前、私は麻婆豆腐について好きなことを述べた.麻婆豆腐の貢献人である陳建一についても述べた.

 陳建一は圧倒的な技巧と豊富な食材を惜しげもなく我々の前に披露し、「公益社団法人日本中国料理協会」というYouTubeアカウント名で麻婆豆腐界の頂点に最も近いであろう存在であった.頂点に近いために、我々世俗の者にとっては到底及ばない世界でもあった.

 そんな彼が、新しい動画を出した.「陳建一が自宅で作る麻婆豆腐」という前作よりも遥かに力抜けしたようなサムネイルが目を引く.一体どうしたというのか. 

 陳建一がなんと、スーパーマーケットで手に入らない食材を代用して自宅でできる麻婆豆腐を紹介するという動画である.なんという衝撃.遥かなる高みにいた彼は、俗人である我々にその長い手を差し伸べてくれるのだ.

「葉ニンニクはスーパーマーケットにありませんから青ネギで結構です」

「鶏ガラスープを入れるのはうちの店ですが、ご家庭では大変ですから、お水でいいです」(水でいいのか)

「『豆板醤と甜麺醤』はここではユウキ食品さんのを使いましょう、香りが良いんですよ」

 素材は市販のもの、技術は最高峰、とはいっても我々でも簡単に作れるように一般の厨房で調理してくれる.RPG(ロールプレイングゲーム)で言えば、ゲームの序盤からものすごく強い人物が助太刀してくれるような心持ちである.

 というわけで早速私は作ってみた.前回の記事を読んでくださった方のためにいえば、マーマイトは使っていない.麻辣の薫風が鼻孔に侵入し、食欲を駆り立てるいつものプルプルが完成した.私にはおやつのようなごちそうである.美味しかった.妻も美味しいと言ってくれた.喜びは望外近くにあるのだ.

急接近する巨匠たち:アッシュパルマンティエについて

potatoes
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 もう一人の巨匠をご紹介したい.北海道増毛市出身のフランス料理人といえば、三國清三氏である.彼の名を冠した料理店は都心や郊外にいくつかあるようだが、なかなかに美味しい.実際に彼が腕をふるったのかはわからないが.

 フランス料理というのは、パンチの効いた味付け、こってり、ずっしりとした重量感あるものを私は想起する.そして食材を魅せる、という点で優れた食文化の一つだと思う.かといって、日本の家庭でフランス料理をなにか作るとすれば、あまりイメージがわかないと思う.思いつく限りフレンチトースト(Pain Perdu)が手っ取り早いだろうか.

 亀吾郎法律事務所でも最近はまかない料理として、ガレットを作ることがあった.そば粉をつかったガレットにベーコンと目玉焼きを和えるそれは、そばのクレープのようなサクサクふわふわのとろとろで、朝から幸せが体中の穴という穴から吹き出す.

 そして玉ねぎと人参を炒め、さらにひき肉を加えて炒めたものをグラタン皿にしいて、マッシュしたじゃがいもを覆い、オーブンで200℃二十分程度加熱する.この料理を、我々は夕餉にすることが多く、亀吾郎法律事務所の定番メニューである.この名前を我々は(豚ひき肉だが)コテージパイと呼んでいた.英国料理だと思っていたのだ.

 オテル・ドゥ・ミクニというYouTubeアカウント名の三國清三氏は、上記とほぼまったく同じ工程で調理するものを「アッシュパルマンティエ(Hachis Parmentier)」と言っていた.英国はフランスと百年も戦争するほど仲がいいことは知っていたが、なるほど料理もよく似ているのだと大変勉強になった.確かに、肉と芋はものすごく相性がいい.肉じゃが然り、ハンバーガーとポテト然り.ちなみにHachisという言葉は英語でいうところの、Hash(細かく刻む)である.パルマンティエというのは、人名のようでヨーロッパにじゃがいもの普及に貢献したというAntoine-Augustin Parmentierから取られているようだ.要はじゃがいもおじさんである.すばらしい.

 Cottage PieのCottageは一般的な家を指すから、コテージパイも家庭料理であるし、アッシュパルマンティエも家庭料理だそうだ.亀吾郎法律事務所も知らず識らずのうちに家庭料理を作っていたのだった.やはり喜びは思いがけない.フランス料理は宮廷料理ばかりだと思っていた私は愚かでもあった.同時に美味しい家庭料理を知ることは幸せであった.

作り手の顔が見えるということ

 陳建一氏も三國清三の動画も観ていて感じるのは、「作り手の顔が見えるとほっとする」ということに尽きる.マクドナルドハンバーガーの作り手はわからずとも美味しいのはわかるが、そういうことではなく、作り手の思想がなんとなくわかる、ということと、その思想が共感を呼ぶ、ということのなのだろう.

 レストランに行って、ときどき出くわすのが、料理人自ら我々のところへ来て挨拶をしてくれることだ.

「これから少しずつお出ししますのでね、ゆっくりしていってください」

 なんて言われてしまえば、ゆっくりしないわけにはいかないではないか.開放的なレストランであれば、敢えて厨房と客間の隔たりをなくして、調理風景を見せてくれるところがある.そこまでしなくてもよいと思うが、挨拶してくれるのは個人的に嬉しい.忙しいのだろうから決して無理はしないでほしい.けれどもその心遣いが私にとってはキュンキュンと来るのである.そして、ほとんどの場合、そういったお店の料理はすごく美味しい.反例があるかもしれないから、盲信するつもりはないのだが、私は大事な日や妻と外食する時は作り手の顔がみえるレストランを一つの着目点としている.

 私は今後、じゃがいものガレットや鶏レバーのパテ、コック・オー・ヴァン(Coq au vin)を作ってみようと思っているところだ.料理は実に楽しい.

 かつては、ほんの一握りの師弟たちが名工の技を盗んで研究したであろう味が、簡単に市井に及んでしまうのは時代の流れなのだろう、人によっては少し切なくもあるかもしれない.

 いつも「いいね」をつけてくださる方はもちろん、様々な方に見ていただいて嬉しい限りです.ありがとうございます.

亀吾郎語学教室

تعلم اللغة العربية مع سابورو Learn Arabic with Saburo

三郎(さぶちゃん)
三郎(さぶちゃん)

亀吾郎法律事務所の秘書をしている、三郎です.最近、ごろうちゃんのお尻が気になっています.クンクン匂いをかぎすぎてよく怒られています.(発情期かな)

 今日紹介するテクストは以下の五行です.これだけ?これだけです.さぶちゃんはこれらを文法的に理解するのに何時間もかかりました.大変だけどわかると「ぷよぷよ」や「ツムツム」みたいにポンポン連鎖的にわかってくるんです.というわけでさぶちゃんの頭の中を覗いてみましょう!

رساىل السجن

بقلم عبد اللطيف اللعى

٢٨ مارس ١٩٧٢

ياسين، هند. طفلاي العزيران

أكتب إاكما هذه الرسالة لأقبلكما بحراة بالغة، لتشعرا أنى أفكر فيكما كثيرا.

 一行目のرساىل السجنは、紹介する小説の題名です.発音記号をつけて表記してみましょう.この記事は、アラビア文字28字の語頭、語中、語尾の変化を理解して綴りが記述ないし、PCで入力できていることを前提にしています.なぜなら筆者であるさぶちゃんは頑張って自力で覚えたからです.発音記号(ファトハ、カスラ、ダンマ)をつければ、さぶちゃんはだいたいのアラビア文字を読むことができます.しかし抑揚の付け方がよくわかりません.勉強中ですから.いい教材を探している途中です.

رَسَائلُ السِجْن rasayil alsijnという題名ですが、رساىلというのは手紙のことで、複数形になると、発音が変わるのです.単数ならばرسالة(risāla)なのに、複数になると、語根である、r,s,lは残って、母音は変わるのです.大変だこりゃ.

 次のالسجنというのは牢屋のことです.定冠詞الがあるので限定詞です.つまり筆者がいる牢屋、ということを表しています.この作者であるアブドゥル・ラティーフ・ラアビーは思想犯ということで禁固刑を言い渡されたのでした.この作品は、そんな彼が自分の奥さんとこどもに向けて書いた書簡集というわけです.1970年代のモロッコの政治はわかりませんが、自分の考えが政体にそぐわないから投獄されるのはどこも一緒ですね.さぶちゃんはクサガメなので、人間の法律は適用されません.安心.

 というわけでرساىل السجنは監獄の手紙、といったように訳されます.

次はبقلم عبد اللطيف اللعبىですが、بقلمというのは、英語でいうwritten by… に相当します.بقامはbiqalami と読みます.発音記号をつけると、بِقَاَمِとなります.بــ(bi)というのは前置詞で、名詞にピッタリくっつくのです.分離前置詞と非分離前置詞があるので、これまた大変ですが、بــ(bi)は非分離前置詞です.with に近い意味を表します.となると、بــの後には名詞だということがわかります.قلم(qalam)というのは、ペンのことを指します.英語ならば、with pen ということになります.アラビア語は表現にスペースを取らないんですね!その次の句は、著者の名前です.アブドゥル・ラティーフ・ラアビーと表記するのに、عبد اللتيف اللعبىと綴るのです.アブドゥルというのは、عبد+ال アブド+アルの発音をリエゾンしたものなのです.我々は便宜上アブドゥルで区切ってますが、アラビア語では違うのでした.ちなみにアブドゥルの「ア」はアルファベットの「A」と違う発音なので、正確に変換しようとしても、日本語では表記に限界があるのです.残念!さぶちゃんは「ع」の音を普段から鳴き声で使っているので、たぶん大丈夫です.

 次にいきましょう.28というのはアラビア文字で٢٨と綴ります.数字は左から右に読みます.そもそも28はアラビア数字っていうのにどうしてアラビア語では違うの?ということになりますが、アラビア語では数字をインド数字というのでした.紛らわしいですね.こういうたらい回しは他の言葉でも見つかります.

 七面鳥のことを英語で「turkey」(トルコの鳥)といいますね.じゃあトルコでは七面鳥をなんというのかな.

 トルコ語では「hindi」(インドの鳥)というんですって.

 えっ、インドだと七面鳥ってなんていうの?

「peru」(ペルーの鳥)といいます……

 まさか、ペルーの人は七面鳥を「トルコの鳥」なんて言わないよね???

 そのまさかでケチュア語(ペルーの言葉)では「turkia」(トルコの鳥)というのでした.医療のたらい回しが問題になっていますが、七面鳥もたらい回しにあっていたのです.

 これを見て、面白いなぁと思った方は語学の親和性がありそうですね.うわっ、めんどくせぇ、と思った方は正直な方に違いありません.

 脱線してしまいましたが、٢٨ مارس ١٩٧٢というのは1972年、3月28日のことです.月を数字でなく、単語であらわすのは、西洋と似てますね.مَارِسْというのはmarīsつまりMarchを表します.北アフリカではヨーロッパの借用なのか、レバノンの方言と違うようですね.日本も3月を弥生というし、お互い様ですね.

 ようやく本文です.ここでは、筆者のこどもである二人の名前から始まります.ياسينは(Yasin)という男性の名前で、هنذ(Hind)は女性の名前です.名前の後にはطفلاي العزانは私の愛しいこどもたち、という意味になります.طفلとはこども、という意味.そこに、一人称(私)属格(〜の)がつくのでاطفالى(aṭfali)となる…はずなのですが、著書にはطفلاى(taflāyi)とあります.持っている辞書ではأطفالىとしかないのだけれど、これはもしかして、マグリブ方言?インターネットの翻訳サイトでは著書と同じ綴りが出てきたので、間違いではないと思うのです.ご存知の方がいれば教えて欲しいと思います.勿論自分で調べます…ReversoというサイトかGoogle翻訳くらいしかアラビア語の発音を教えてくれません.

 つづくالعزانには定冠詞الがありますね.عزيزというのは愛する、という形容詞なのですが、先行する名詞は私のこども、という特定のものなので、形容詞も限定にあわせる規則にそって、定冠詞が付きます.定冠詞がつくと語尾はダンマ、「u」で終わるので、al’azizanuとなる(はず).

ياسن هنذ، طِفْلاي العزان

Yasin, Hind, tiflay al’azizanu (ヤスィーン、ヒンド、私の愛しいこどもたち)

最後にもう一文.

أكتب إاكما هذه الرسالة لأقبلكما بحراة بالغة، لتشعرا أنى أفكر فيكما كثيرا.

先に発音記号をつけてみましょう(これが大変なんです).

أكْتَبَ إلَيكُمَا هَذِهِ الرِسالة لِأُقبَّلَكْمَابِحَرارة بَالِغة، لِتَشْعرَا أَنَى أُفَكَّر فِيكْمَا كَثيرَا.

これをラテン文字に変換すると、

aktaba ilaykuma hadhihi alrisalatu liqabbalakuma biḥarara bali’gatun, litash’ara ana afikuma kathira.

 となる(はず).読みはこれで良いとしましょう.最初の語、اكتبは、英語にするならば、「I write」、اليكماは前置詞、الىに二人称双数、対格のكماをつけて「いらーぃくま」みたいに読みます.これは英語のto youに相当しますね.英語ではYouが一人だろうと、何人だろうと、すべてYouですが、アラビア語では一人と二人と、三人以上を区別するのでした(なんてこったい).目とか耳は便利かもしれません.ここではヤスィーンとヒンドを念頭にしているので、二人です.

 هذهというのは指示形容詞で「これ」に当たりますが、指示するものが女性であれば、形も変わるのです.男性ならهذاになります.الرسالةこれはタイトルにもあった手紙です.「この手紙」は特定されているので、定冠詞が付きます.(ターマルブータの説明は省略させてください)よって英語ならばthis letterです.

 次は、لِأُقبَّكْمَاですが、これを理解するのにものすごく時間がかかりました.これをわかりやすく分解すると ل ا قبل كماで意味が分かれます.لは前置詞で「for」に相当するもの「というのは」、اは一人称主格の「I」、「私は」にあたります.そしてقبلは「kiss」という動詞です.كماは先程説明した二人称双数、対格です.よって、英語にすると見通しがよくなります.for I kiss two of youといった感じでしょうか.

 次はبِحَرارةですが、بـــは前置詞でした.حرارةとは「暖かさ」を表す名詞です.女性名詞には皆語尾にةが付きます.(これがターマルブータです)つまり、with warmthという英訳ができそうです.その次はبالغةですが、bali’gatunという発音で、「ものすごく」という形容詞になります.ここまでを続けてみましょうか.

I write this letter to you, for I send you hottest kisses.

私はあなたに手紙を書いています、熱いキスをするために.

 なかなか情熱的ですね.もう一息いきましょうか.لتشعراこれも分解してみます.ل ت شع اになりますが、先程やったように、لは前置詞.تというのは二人称を表す語根で、تと اで、ある種類の動詞を挟むと、「あなた達(二人)は〜する」という意味になるのです(参考書ではن اとتだけど、これも方言かな).だから、شعرがわかれば、意味がわかってしまいます.やったぜ.شعرは「feel」という意味に近く、すべてくっつければ、for you to feelになります.انى(ana)は前置詞ですが、これは分離前置詞というものです.「whenever」に近い意味のようですが、これって接続詞のような感じかな?手持ちの辞書や参考書でははっきりしません.Googleで訳すると、thatになるので、関係詞のような働きでしょうか.

 もしそうであれば、仮that以下の語の意味がわかります.

أفكرفيكما كشرا.

أفكرはأ とفكرに分かれますが、أは「私は」という一人称主格、فكرは「考える」という動詞です.そして、فيكماは前置詞であるفيと、二人称対格がくっついたものです.英語ならば、「of you」 といったところでしょうか.كثيراというのは、「a lot」という形容詞ですから、以下の通りになると思います.

I think of you so much.

 すべて表記しましょう.

I write this letter to you, because I send my hottest kisses and want you to feel that I think of you so much.

といった具合でしょうか.日本語にしてみましょう.

 私があなたたちに手紙を書いているのは、あなたたちに熱いキスをし、二人に私があなたたちのことを想っていると感じてもらうためなんだよ.

 色々と瑕疵はあると思いますが、独学でも多少は頑張れそうです.ただ、今後も記事にするのはとてつもなく大変ですので、これを連載するのはちょっとむずかしいかなぁ.

 なぜ、さぶちゃんがこんなことをしたか、と問われれば、いくつかの狙いがあります.一つは、さぶちゃんはアラビア語に憧れがあるから.これがとてつもなく大きいです.そして、二つ目は、「外国語は意外と簡単」だとか「日常会話はすぐできる!」という世の中にはびこる無責任な妄言を打ち壊すためです.さぶちゃんはかれこれアラビア語の勉強を半年以上しています.しかしながら日常会話は厳しいですし、単語を200もまだ覚えていません.自分にあう教材を探すのも大変です.YouTubeは良い教材になりうるかもしれませんが、すくなくともアラビア語の初学者にとってYouTubeは過酷です.ではどうすればよいのか.それはさぶちゃんも探している途中なので偉そうなことは言えません.ただ、もしオリエントの言葉を勉強したいという奇特な方がいましたら、なるべくその光明となれるよう、頑張って勉強したいと思っているところです.

Long is the way

And hard, that out of Hell leads up to Light.

Gates of adamant,

Barring us out, prohibit all ingress.

John Milton, Paradise Lost

 語学の勉強で苦労している方へ上記の詩を捧げます.ここまで大変お疲れ様でした.お付き合いくださった方にお礼申し上げます.以下、五行の和訳です.


監獄の手紙

アブドゥル・ラティーフ・ラアビー著

1972年3月28日

 ヤスィーン、ヒンド、私のいとしいこどもたちへ

 私があなたたちに手紙を書いているのは、あなたたちに熱いキスをし、二人に私があなたたちのことを想っていると感じてもらうためなんだよ.