投稿百回目に思うこと

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誰のどんな問題を解決するのか

 実は亀吾郎法律事務所のブログを開設して今回で百回目の投稿になる.これまでの間、何を書こうかなと考えているうちに身構えてしまい、なかなか記事を書くことができなかった.変に気負ってしまってはいけない.なにを書けばよいのかと事務所のスタッフに訊いてみたら「百回目はおめでたいのだから、めでたいことを書けばよい」という.うーむ.めでたいことが思いつかない.世の中で報道される時事でめでたいことも少ないように思う.やはり世界中がウィルス感染症の話題でもちきりだ.ウィルスの話はたくさんだ.亀吾郎法律事務所は誰にとっても平穏で心安らかに過ごせる場所であるべきだ.だからウィルスの話はしない.

 最近、私、吾郎が考えている話をしたいと思う.私が何を考えているかというと「亀吾郎法律事務所」の方向性に関する問題である.ブログを開設してから実にたくさんの方々に来ていただいた.まずこのことについてお礼申し上げたいと思う.いつもありがとうございます!亀吾郎法律事務所は「法律に門外漢」といういい加減な副題を掲げて精神医学、哲学、語学や一部社会学、芸術について自分の考えを論じてきた.放埒と言われてはやや閉口してしまうのだが、私達自身は自由奔放に記述することができ、スタッフの精神の安定に大きく寄与したように思っている.今後もこの奔放さを継続して自由に言論活動を行っていきたい次第である.

 その方向性の中で私がこの頃気にしているのは「このブログの需要とはなんぞや」という問題である.「いやいや、こんな弱小ブログ、だれも求めてないぞ」という辛辣なご意見は当然あるだろう.それはそうかもしれない.さきほど述べたように、この記事は好き勝手に筆を走らせて記載したにすぎないのだから「このブログの記事が向かう先は画面の向こうの読者」とうそぶいて実は自分のために書いているのだ、と指摘されても否定はできない.ブログの志向性が自己に向かっているというわけだ.記事を書いてカタルシスに浸るのも、読者に志向しているのではなく、実は深層で自分に向けて記事を書いていたのだから究極は自慰的な要素があったわけだ.

「なんという卑劣漢.人非人!なんだかんだいって貴様は自分の事しか考えていないわけか.人でなしめ!悪辣な屑よ」

と罵るのも結構であるが、前述を踏まえたうえで内省を深めてみると、次のようなことを思いつく.確実ではないのだが、間主観的(広く言えば客観的)に考えてみれば、我々と同じブログを書く人々や、物書きというのは文章が他者へ開かれている一方で、それが志向するところはすべからく自己を向いているのではないだろうか、ということだ.それはときに自己治療的であったり、自己愛であったり、自己耽溺、自己欺瞞でもあるように思う.私達が広告を貼り付けてブログを投稿するのは、内心広告収入を得たいという利己主義に基づく行為であるし、たまたま広告主と利益が一致しているだけだ.誰でもやっぱりお金はほしいのだ.誰が読むかわからないのに、誰も来ないかもしれないのに、私のような三文記事を延々と書き連ねるのは、真の利他的な聖人か、平凡で利己的な俗人でしかない.

 こういうことを書くと、他のブロガーの顰蹙を買ってしまって「いいね」がもらえなくなってしまうかもしれないのだが、それはそれで結構なことだと思う.ある意味私の企てが成功したといえる.

 もう一度話をもどそう.私達スタッフは「このブログは誰のどんな問題を解決するのか」ということを考えている.しかしつまるところ志向性は自己の欲望へと行き着くのだという見解に我々は達した.とはいってもその中間項に他者=読者がいるのだから、仮に建前であったとしても、自己の欲望が他者を介在してでも、「誰かの問題」を解決できればいいな、と思っている.本当に.

 そこで亀吾郎法律事務所は以下の二点について考えた.このブログの目指すところ、すなわち理念といったところである.まずは「誰のどんな問題を解決するか」という問に対して、私達は次のように考える.

「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」をユーモアとともに解決するブログ

と銘打つことにしたい.そしてもう一つは、

(社会通念上健全と思われる方向性において)圧倒的に個性的で突き抜けた記事を目指すこと

である.いかがだろうか.このようにした理由の一つに、自分自身もそのような思いを体感していること、広い意味で類似した思いを抱えている人々がどのような心情を抱いているかをよく理解したいという考えがある.それを扱うことによって、単なるブログ執筆に終始しないという自律心が芽生えるし、自身の勉強、記事執筆の動機づけにもなる.そして記事の内容は自分の信条を貫いたものかつ、超絶怒涛、個性あふれるものを目指したいという野心に基づいている.私は医学の出自であるものの、人文科学寄りのテーマに親和的な傾向があると思っている.精神医学という分野の中でとりわけ自然科学とはいえない領域を扱うことによって、インターネットの世界でも明るみにでなかった部分に光を照らすことができるのではないかと思っている.特に精神病理学の役割は大きいのではないかと思う.私が知る限り、精神病理学の文献は非常に難解で文章が硬い.こうしたところがこの学問を高潔にする一方で、とっつきにくさを出してしまっている印象がある.私は私なりにこの学問に理解を示しつつ、若気の至によって何らかの方法で茶化してみたり、現代の流行や事象を例えを用いてこの学問への抵抗を減らして行ければよいかと思っている.また、英語を主とする外国語の翻訳や鑑賞を通して、語学の勉強を行うことや、文学の紹介と通じて、亀吾郎法律事務所の新境地を開拓できたら嬉しい.実際、以前投稿したエジプトのポップ音楽はなかなか好評だったように思う.また、「フォン・ドマルスの原理」の紹介も思いの外、表示数が多かった.

 記事を百書いて、ようやくブログの方向性が見えてきたように思う.先達のブロガーたちが「つべこべ言わず記事を百は書け」という理由もなんとなくわかるような気がする.私達、亀吾郎法律事務所はスタートラインに立ったばかりだということを知る.

 事務所スタッフは「めでたいことを書けば良い」ということだったが、「目出度い」記事ではなく、「愛でたい」記事になってしまった.期せずしてブログ投稿百回目の内容はこれから私達がどのような記事を書いてゆくか、という所信表明のようなものになった.

 これからも亀吾郎法律事務所をよろしくお願いします.私達は「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」に応えられるよう、日々面白おかしく、楽しく記事を投稿し続ける所存です、私達は旅人を吹き飛ばす北風ではなく、ぬくぬくと暖かく旅人を照らす太陽でありたいと心から思っています.

 

妄想の問題

はじめに

 安永浩によるファントム空間論の序論を追っている.これで六回目だ.だというのに、まだファントム空間の話をしていないのはどういうことだ!と怒られるかもしれないが、どうか辛抱強く待っていただきたい.なぜなら、我々は安永のいう「パターン:実存的二元論」を理解せずにファントム空間を理解することはできないからだ.これは安永の親切心である.はじめて見るかたはぜひ、始めから見ていただきたい.

 今回は、妄想について扱ってみる.その前に自我障害の章があるのだが、それはまた別の論考で取り扱うことにしたい.かくいう私も早くファントム空間論を扱いたいのだ.

 妄想とはなにか

 これをうまく説明することは難しい.説明できたとしても、Bertrand Russel(バートランド・ラッセル)が1+1=2の証明に膨大な紙面を費やしたのと同じように、大変な注釈をつける必要がある.いくら目の前の真摯な読者でも、それは苦行でしかない.だがなんとかしてこの記事においてだけでも定義しておきたい.妄想を誤解していただきたくないからである.

 世間でよく知られたものとして、「訂正不能な言辞」「了解不能な言葉」「誤った確信」などがあるだろうと思う.これらはいかにもそれらしいが、幾分の弱点がある.

 日本精神病理学会(私、吾郎も学会員であるが利益相反はない)の「精神科用語シソーラス」から引用するのが最も簡潔であるように思うので、ありがたく引用させていただこう.リンクフリーである.

 妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念ないし信念であり,明らかな反証があっても確信は保持される。妄想と真の信念と区別は,患者が主観的に行いうるものではなく,外部の観察者によって行われる。すなわち,その内容が非蓋然的であることに対する患者の判断が誤っている場合,その確信は妄想とされる。この誤った判断は必然的にその体験に対する病識欠如を生じる。

針間博彦

 コペルニクス的転回が起こる前の世界の人々の多くは天動説を信憑していたが、Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)は科学的観察に基づいて地動説を主張した.よく知られているように彼は妄言を言っているとして異端扱いされた.彼の主張は妄想だったのだろうか.現代の我々からすれば、彼の主張は妄想では無い.だが、当時の人々からすればどうか.彼の思想は教育的、文化的、社会的背景には一致しなかっただろう.明らかな反証かどうかはともかく、宗教的に強力な反論があっても彼は確信しつづけた(それでも地球は動いている).私は現世のクサガメなので、彼らの立場から「妄想だ」というわけにはいかない.妄想というのは、時勢によって、立場によって、解釈が異なる可能性がある.そのことを念頭に入れて論考を追いかけていただきたい.

妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない確信である.

 賛否はあれど、概括的理解ならばこれで良いだろう.では安永はどのように考察をするか.彼は妄想について、我々がどのようにして「意味づけ」をするか.これが重要であるとしている.ほほ〜

 「意味づけ」の重要な点は、「自分はこの事態をこう予測し、それ故こうこうすべきである」という「行動の要請」に関わる局面であるとする.この局面は生命体にとって大変な意義を持つ.というのは、我々が体験の各瞬間に出会うものを「何かの兆候」とみなしているからである.人間だって「雨が降っているから傘をさそう」「曇ってきたから洗濯物を取り込もう」「パトカーが近くにいるからおとなしく走ろう」「遅刻してはいけないから早めに家を出よう」「赤信号だから止まろう」と判断する.それらは「放置すればより危険な、由々しき現実となるであろう事態を、未然に感知しうる、そして行動によって回避しうる」ということであり、この「予感」がないと、生物はあらゆる偶然の危険、環境変化に対応することは出来ない.クサガメだって、脅威があれば首を引っ込めて守りに徹するし、食餌と掃除をしてくれる掃除夫が近づけば、喜んで近づく(なんて賢いんだろうか!).

 ここには体験における「時間」というものが必要になってくると安永はいう.しかしもう少し丁寧にいえば、「現在の意識がこういう構造をとることが、『未来』という時間性をつくる」という方が正しい、と安永はいう.ここで私は木村敏の言葉を思い出す.

 時間とは自己存在の意味方向である

 私達は何かを絶えず予想する.増大する「危険」を感じれば、何らかの行動によって回避する、安全ならばほおっておく.逆にエネルギーがあまれば、ただそれを放散するための手がかりとしてのみ、予感される(湖畔のほとりでキャンプをするとしよう.火をおこし、飯盒炊爨を待っている間、手持ち無沙汰なので丸くて平な小石を探す.それを水平に投擲する.小石を投げるものとして意味づけする).

 これまでの話を「パターン」に応用するとどうなるか.「意味づけ」の方向性A→Bは常に「現在」に立って、「未来」を望む方向にある.原因があるから、結果がある.「原因」の主体性、先行性は自明だ.そして、とある現象を「結果」とみなし、あるいは「過去」にさかのぼって「過去」に生きることもできる.「ここに結果があったのであれば、原因があったに違いない」と、後方視するのは「論理的必然性:logical necessity」である.

「右下腹部を主とする圧痛が生じている、腹部超音波検査で虫垂に相当する位置で輝度が高い.これは腹部臓器の炎症が急激に生じたに違いない;虫垂炎かもしれない」

「夏季の猛暑にとある独居住宅からご遺体が発見された.角膜は白濁し、透見できない;死体現象が生じ、24時間ほど前に死亡したのだろう」

といった具合で、医学において論理的必然性は極めて重要である.だが、こうしたロジックは、原因→結果が前提にあるからこそ、その上で、結果→原因を想定することができる.さきほどの例も、「虫垂炎や付属器疾患かもしれないから、右下腹部に疼痛が生じている」、という論理が先行しているし、経験的に「夏季に、人が亡くなり24時間経過すると角膜が白濁する」ことが知られているから「条件的必然性:contingency」が成立するのだ.

 では統合失調症において「パターン」が逆転するとどうなるのか.我々は彼らの体験を直接追体験できないから、限られた知性によって想像することが必要となる.さしあたり、「原因」が従属し、「結果」が主体となる.つまりは「過去」が支配者で、「未来」が従属する.なんてこったい.ここで安永はK. Schneiderの例をあげる.

 「犬が一方の前脚を高くあげた……これは明らかに天の啓示に違いない……」

 う〜ん、これわかんねぇな状態である.ここで重要なのは、「そうはならんやろ」と切り捨てるのではなく、「どうしてこうなった」と考えることが大切だ.この意味づけは「結果」→「原因」という逆転であった.安永の考察では、このベクトルは絶えずさかのぼって原刺激に向かう流れだという.ここでは犬が前脚をあげたことに相当する.「犬が前脚をあげた」という現象を説明しうるが故にのみ重大である、という形になる.難しいね.安永は、患者は一つの知覚事態に対して、「それには必然の理由が存在しなければならない」という方向を第一義として常に意味づけするように見える、という.私達が前脚をひょいとあげる犬を見て「どうしたんだろう」と未来志向の考えを働かせるのに対して、統合失調症においては「前脚をあげちゃった、大変なことになった!もう取り返しがつかない!」という過去志向の考えを取る、ということになるのだろう.だが、なんとかしてそれを取り繕う(この表現が適当かは私自身疑問だが)ために、啓示や運命、といった予定調和的な言葉遣いになるのだと思われる.そうせざるを得ないのである.よって、このB→Aの体験は「ふと;plötzlich」生じる.予期できない性質をもつ.あとで安永は「不意打ち」という表現を使う.

 彼らは未来形の助動詞使用を封印されているようなものだ.「……でないかもしれない」という疑いはできず、「……に違いない」となる.まるで推理小説に出てくる早合点の刑事のようである.「わかりました!犯人はあいつに違いありません!」

 が、感情的先入観のある正常人とはやはり性質が違う.彼らは結論を先に出して、それから推理をするようにみえる.これは継時的行為である.彼らの論は誤っていようとロジカルである.それ原因→結果のベクトルが正常だからである.ただ考えが浅いだけだ.統合失調症の人々にとってそれは起こり得ない.過去が未来を従属しているので「もう間に合わない」のだ.

 「もう間に合わない」からこそ、「夫が別の女と寝てしまった;夫婦妄想」、「妻とそっくりの偽物にすり替わってしまった;カプグラ症候群」が生じる.「世界が破滅してしまったような感じがする;世界没落体験」、「私のからだはどろどろに溶けて死んでしまった;コタール症候群」といった取り返しのつかない体験を述べるのであろう.

 自己関係づけ

 統合失調症に置いて、かなり普遍的にみられる現象として、「自己関係づけ;Eigenbeziehung」がある.これは「注察妄想」、「あいつが私のことを見ている」といった陳述からも知られている.自意識過剰では無い.

 もともと我々は厳密には違うが「客観的な態度」をとることができる、というのは「主体」が十分に「客体」を統制しているからこそできる.そのことを経験的に我々は知っている.この主従関係が逆転すれば、「客体」が「主体」を支配する.すなわち「他人が自分を見る」、ということが自明である.しかもそこに「結果」→「原因」の逆転が起きているから、「なにかとりかえしのつかないことが自分におきてしまった」となるし、それは「自分に起因するのだ」と信憑せざるを得なくなる.これが外延すると、一切の外界の現象がすべて自分に基づいている、とまで意味づけられる.

 ここで、安永の話す妄想の論考は終わりになるのだが、私達にとって、特にHighly Sensitive Person/People; HSPの方々にとって重要だと思われる注釈があるので、言及しておきたい.以下の神経症という言葉は多義的で難しい用語だが、ひとまず不安障害、社交不安障害、対人恐怖症、視線恐怖症、広場恐怖症といった言葉に置き換えて貰えればと思う.HSPが疾患ではないことを十分理解した上で、置き換えて頂いてもよいと思う.

 (これまで述べた論考において)これらは神経症者にみられるような関係念慮とどんな対照にあるだろうか?

と安永は疑問を投げかける.関係念慮というのは、例えば

「電車の中で、さっき男の人が『チッ』と舌打ちをしたように思う.私のことを見て舌打ちしたのではないかしら」

「職場の上司が、私の方を見てわざと咳払いをした.私がこの前仕事でミスをしたことのあてつけではないか」

といったようなものである.もちろん架空の例である.彼らが他人のまなざしを感じるとしても、それは統合失調症におけるような絶対的所与では無い.正常の了解では他人の「自我」とは自分の「自我」を前提としてその中に含まれ理解されるような順序である.ちょっとややこしいがA,Bのパターンを使って表してみる.

「他人が自分を見ている」了解というのは自分の体験の了解にすぎない、というところがミソである.

A→(A’→B’)→B

→は条件的必然性:contingencyの方向、A’、B’は他者の、A、Bは自分の「パターン」である.自己から発する他人の了解、他人の目を通じて自己了解、と還帰する.流れは正常だ.ただ過剰なのである.強い感情の発露、過剰に「予期」することにより始まり、悩み、悪化する.これは森田正馬でいう「生の欲望」でもある.死の恐怖、病気を恐れる強い力動には、健康でありたい、元気でいたい、しっかり振る舞いたいと努めようとする「生への欲動」が根底にある.

 私は恥ずかしながら森田療法で知られる森田正馬をよく知っていない.しかし彼の説く、「ありのままに生きる」というモットーは多くの人を勇気づけ、共感を与えるものだと思っている.しかし社会がそれを許さない構造になっているようにも思う.完璧主義を求める労働体系、社会規範.緊張感が漂う.公私の分別が曖昧となり自我境界も見えなくなってしまっているようにさえ感じる.A→Bの関係において、Bが力を増しているような社会である.AとBが近接しつつあり、我々はAを強めようと感情を、予期能力を、不安を強めるのだと思う.「繊細さん」は持ち前の素晴らしい才能があるにも関わらずそうした危機に瀕している.この時勢における新型コロナウィルス感染症の大流行が、少しずつ旧態依然であった社会のあり方を見直す機運となっているように感じていることは私だけではないと思う.コロナ禍が収束することを願う気持ちは私も皆さんと同じだが、この混乱を運ぶ災厄が、世界に変革をもたらすトリックスターであらんことをひそかに祈っている.

 

 

 

フォン・ドマルスの原理

統合失調症の思考特性とは

 安永浩の著した「ファントム空間論」に関する話はこれで五回目になる.前回までは序論や幻覚について、著者の論考を追いかけたつもりだ.これからは思考障害に立ち入る.立ち入るにはかなり難しい領域で、しかもブログとなればなかなか表現が難しい.安永自身は、自分の仮説であれば、これも説明可能だと述べている.が、その説明の前に大幅な注釈がついている.そう、フォン・ドマルスの原理(von Domarus’s Principle)である.こちらの方が考察としては興味深いかもしれない.聞いたことがある人はいるだろうか.きっといないだろう.私も知らなかった.興味深いといった理由とはそういうことである.「たぶん誰も知らない」.

 原理というのは事象が成立するための根本となる仕組みのことだ.そして、この原理は精神医学のものだそうだ.つまり、精神現象の根本の根拠だということになる.マジか.

 Eilhard von Domarusという人物はドイツの精神科医である.だがその原理以上のことが一般によく知られていない.どうやら1925年に発表した論文によれば、その原理は多くの統合失調症の患者から帰納的に導き出したものであるとされる.さて、どのような原理か、と言われれば次のようになる.

 統合失調症の患者は『述語が同一であるとその主語を同一視するようになる』という原則に従って行動する.(XがZである、YはZである、故にXはYである)

 読者の中には「へぇ〜、そうなんだ」派と、「ほんとぉ?」派がいると思う.その感覚は間違っていない筈で、信憑するにはいささかアヤシイ.精神医学のメインストリームにはない概念である.(メインストリームでは無いが、重要な黒子である)

 これはこれで興味深い思考様式である.もし上記のX、Y、Zが代数であれば、数学的には成立するのである.以下のようになる.

$$X=Z, Y=Z$$ $$∴X=Y$$

 では、つぎのような文章はどうだろうか.

甲「私は処女です.聖母マリアは処女です.だから私は聖母マリアです」

乙「太陽は一つです.私は一人っ子です.だから私は太陽です」

(そうはならんやろ)

上記二つは実際の症例の言辞である.甲は海外の症例で乙は日本の症例だという.海を超えて奇妙な一致があるのは不思議である.()内は私の心の声だ.

何かがおかしい.どちらともおかしいのはわかるが、何がおかしいのか.数学的な方法であれば成立した関係が、言語ではそうはいかなくなる.なぜおかしいのか皆さんは説明できるだろうか.まずは私なりの見解を説明してみよう.

 前述のXYZは数学的な特性が前提にある.代数と言ったのはそのためだ.だから同じ属性として不等号が成立しうる.だが言語になると、「わたし」「聖母マリア」「太陽」は皆、主部である.「太陽」「処女」「一人っ子」は述部である.単語に課せられた言語的性質がすでに違うため、独立した主・述を等式でしめすことが文章として破綻してしまうのだろう.そしてなにより私たちは単語が属する性質を自明なものとして理解している.

 安永は「パターン」を用いて説明可能とする.ちなみに上記の二例のような述語の同一性を前提にしている論法を述語論法というらしい.人がある「概念」的把握、ある「判断」作用を行う瞬間、それがあっているかどうかはともかく、その体験には厳たる統一、「全体」の感覚があり、その差別相、「部分」はこれに従属するのみだ、ということが自明になっていなければならない.「概念」や「判断」は全体的把握があるからこそ、「概念」、「判断」である.しかしその概念の明確な限界づけ、判断の分化構造は通常必ずしも完璧ではない.つまり前述のパターンで言えば、Aに対してBが弱すぎる.甘すぎる関係にあるという.だから「概念」、「判断」理解には曖昧さと不正確さがでる.なるほど.たしかに我々は事象の理解、把握をできるだけ正確につとめようとするが、完璧さは日常の絶対条件では無い.スーパーマーケットでうっかり買い物袋を忘れたときにレジ袋を何枚頼むかは、買った品物のすべての体積を理解する必要は決してなく、大雑把な見通しを立てられるかで決まる.

 ある正確な、それ以上説明の余地のない境界と分化をそなえた「概念」、「判断」はAとBが一応限界的な平衡状態にあるという.この場合は、a=bである.その前はa>bであることはわかるだろう.私見になるが全体と部分が非常に近接する状態というのは、HSPとよばれる人たちの先天的特性を表しうるのではないか、つまり、彼らの

「Depth」深く考える

「Overstimulation」過剰に刺激を受けやすい

「Empathy & Emotional」共感力が高く、感情豊か

「Subtlety」わずかな刺激を察知

という特性は部分が全体に迫っているようなAとBが接近している状態であれば説明的であると思うのだ.

 さて、なぜ上記の甲乙の文章がおかしいと我々が感じるのか.言語学的な立場からの考えがあればぜひコメントを頂戴したいが、健常な人が一つの命題を作る時、述部というものは、主部がこの命題をつくる前に持っていたところの「概念」を、何らかの意味でより細かく、より具体的に規定、制約、分化せしめるために要求され、用いられるからだ、と安永はいう.その結果もとの主語概念が損なわれるだけでは無い.棄却されるわけでもない.「よりよく分化された全体」になっただけだ.例えば、

 わかいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうちやまと ひとはいふなり

 (我が庵は 都の巽 しかぞ住む 世を宇治山と 人は言うなり)

喜撰法師

の「わかいほは」から「みやこのたつみ」へと分化されるが、自分の家が京都の東南(巽であり宇治)にあって穏やかな場所(巽)だ、という全体を為している.お上手.

 ではa<bとなった場合、どのような状態になるか.この場合、全体が部分のために要求されてしまう.全体が部分に従属するという異常事態だ.我々は追体験することが出来ないが、「部分」が自明な出発点となる.このために無作為な任意の「全体」が「部分」から誘導される.だが「全体」のようにみえるものは「全体」の意味をもたない仮現の従属的全体であり、むしろ形骸的な結合である.死んだものが生き返って動き出すゾンビである(ゾンビも生と死が逆転した関係といえそうだ.死が生に超克した存在がゾンビであるからだ.だが安永式論考で言えば、これも形骸的結合であろう.つまり私に言わせれば結局ゾンビもその結合であり、「生きている」ようにみえるものは「生きている」意味をもたない仮現の従属的全体である).

 このような異常な判断体験においては、「パターン」の「量的」側面が支配し「質的」面は付随するのみだ.もう少し例を出そう.「メーガン」という女性がなぜかゾンビになったとする.生気がなくなるが肉を求めて生き物に食らいつく.異常な代謝で身体は腐り果て、みるも無残なゾンビになってしまえば、彼女はもはや「メーガン」では無い.「メーガンだったゾンビ」になるだけで、「メーガン」の主体性は失われ、ゾンビという「死>生」の存在の一つになりさがる.(*メーガンに恨みはない)

 このような判断を異常、と記しているが、このようなものはどうやら迷信における命題に多いらしい.例えば、「衣服を左前に着ない」のは日本人なら当たり前だのクラッカーであるが、これも述語論法だ.「死者は左前に衣服を着る」命題に対して、「私が左前に衣服を着る」と、「私=死者」となってしまうから、みんな温泉旅館では右前に浴衣を着るのである.よって異常というのは安永の言葉だが、決してそうも限らない.

 先の「私は聖母マリアです」「私は太陽です」という命題において正常な「全体」は崩壊している可能性がある.安永に言わせればまとまった命題というよりは数式のような並列のようなものである.数というのは極限までに「質」を取り払って、物事の「量」のみをとらえた抽象のことであるから、「太陽が一つ」「私が一つ」という次元で等式は成り立つ.しかし私達は日常で、質をおろそかにすることはないだろう.

 別の症例の対話を出そう.これはDomarusと同時期の精神科医、Silvano Arietiにより報告されたものだ.症例は高等学校相当の学歴である.

問「『書物』とはなんですか」

答「それはどんな書物をあなたが言っているかによります」

問「『テーブル』とは」

答「どんな種類のテーブルですか?木製ですか、磁器、外科用テーブル、それともあなたが食事したいと思っているテーブルのことですか?」

問「人生(Life)とは」

答「私はどんなLifeをさしているのか―雑誌の『LIFE』か、それとも他人を明朗にさせる恋人をさしているのかを知る必要があります」

 採用面接であれば(うわぁ、大変なの来ちゃったよぉ)となるような悲劇だが、精神科臨床ではよくある問答である.非常に奇妙な答えだと思うだろう.基本的には質問の回答として「書物とは、紙片に記された文字、文章をまとめたものです」、「テーブルとはものを乗せるための台です」「人生とは人の生涯です」といったものがあると思う.つまり、共通性抽象を問ういている.その語が何を意味しているか、何を内包しているかを問ういているのだ.だから木製だとか、外科用だとかはどうでもいいのに、症例は部分ばかり気にしてしまっている.これが奇妙さたる所以である.パターンの逆転によって、「非共通」「差別」「量」「具体」といったものが自明に先行する.よって内包するものは二次的な意味しかもたなくなる.安永はこの思考形式は認知症では出現しえないという.統合失調症の患者において言葉が

「それがそういう意味であるから」ではなくて、

「それがそういう意味でなくてはならないから

使われるのだ、といえばより強制力がわかりやすくなるだろう.断言的、妙な言い回しが多く、「…のようだ」「…のように思われる」という比喩や比較表現が苦手だ.ここで安永の注釈について言及しておこう.

 私達は何か感動し、感極まることがあれば、これを他の人にもわかるように伝えたい、と思うことがある.「ブログ」はまさにそういう手段であろう.だが、そうした衝動があるとはいえ、実践が難しいことはよく知っていると思う.感情や漠然とした把握の予感はここでいうa>bであり、本来言葉ではいいえないものがあることを知っている.”「記憶/物語」を読んで”でも深く言及してきた.言葉を無理につかっても表現しても何か表現しえないものが残る、という感じがあるに違いない.表現し得ないけれども、そこにあるのだ、という充実、満足の体験は必ず存在する.私達はインターネットの世界でも「小並感」や(語彙力)という卑下した表現で感興の非分有性を明示することがある.「それはそうだけど、どうしても最後まで表現したい!(あの名工の味を再現したい!)」ということはあまり考えないはずである.なぜなら「言い表せなくてもあるのだ」という実感は何かしら自己完結的なものがあるからだ.

 しかし思考障害が生じている統合失調症の例ではそうしたことの逆転が生じる.表現は被強制的に起こる(しなければならない).形式的命題がでっち上げられるだけで、人間的体験の深み、情感の余韻がないであろう、というのが安永の論である.

 もちろん、これは仮説の域を出ない.統合失調症の病勢が弱まっているとする現代では、こうした派手な症例はほとんど目にすることはないからイメージしづらいかもしれない.「私の知っている人はこうではない」という意見もあるだろう.それはそれで結構だと思う.これですべてが説明できると思っているほど私もぼんくらでは無い.統合失調症がヘテロジニアスな疾患群であることは現代では自明である.とは言っても安永のロジックは見事だと思う.読者の方には、世の中こういうことを考えている人もいるんだな、程度に思ってもらって良いのだが、これは決して衒学的まやかしではなくて、真に病理を理解したいがための血のにじむような思弁の結果であることは述べておかねばならない.

ここまで読んでくださりありがとうございました!

 リンクを多数貼ってありますので、気になったら他の記事も読んでくださいね.こういう議論がお好きな方は西田幾多郎がおすすめです.

 

An Elephant in Japan

view of elephant in water
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了解不能に出くわすとき

A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion.

The Elephant in the room

 初めに断っておくと、亀吾郎法律事務所の理念は「法律に門外漢」である.実際のところは政治にも門外漢である.だから以下の論考に政治の話は無しである.クサガメの吾郎、三郎には政治がわからぬ.

 「Go To キャンペーン」は日本の経済政策の一つだという.その政策の是非を巡って議論がなされているのはご周知の通りだ.その中で私を躓かせ、悩ませていることがある.無論、政策のことではない.

 「Go To 〇〇」という呼称そのもののことだ.どうして「Go To TRAVEL」などという英文法を破壊する名称を採用したのだろうか.この「Go To」シリーズは他にもEAT、EVENT、商店街で構成されるようだが、(商店街も含めて)おかしい.何がおかしいのかわからない方がいないことを願って話を続ける.

 「Go」という動詞は自動詞という扱いだ.よって第一文型のS+Vを取ることがほとんどだろう.The Sun goes down. のような用法になる.つまりsunが主語、goesが述語、downは副詞である.He goes to Lebanon.であれば、to は前置詞であり、Lebanonは名詞だ.自動詞には副詞や前置詞があとにつくことを我々は知っているはずだ.そしてgo to と来れば、場所に関する名詞が来る、そういう想定をすべき、と自然と頭はスタンバイする.

 だのに、to のあとが、さらに動詞とはどういう了見なのだろうか.商店街を除いて.そもそも商店街は日本語だ.eat, travel には名詞の意味もあるが、まず使わない.eventは事象であり、場所ではない.

 八百萬歩譲って、to以下の動詞が to不定詞だとしよう.(この仮定がすでに破綻しているのだが)すると、「Go to eat」は「食べに行け」ということになる.なんだか偉そうな言い方になる.だがそれでも言い訳として苦しい.「Go to travel」は「旅立ちに行け」なのか.こんな無茶苦茶を通すのは無理だろう.Commaで区切りでもしないと意味が通らない.そもそもCommaで区切ったところで意味不明である.event は名詞なので、to不定詞の定義から外れる.前提が「Go to キャンペーン」である.to不定詞なら区切りがおかしい.

 「まぁまぁ、そんな硬いこと言わないでさぁ.景気刺激策ってことで.キャッチーなコピーがほしかったんだよ.なんとなくわかりそうなやつ、って感じ」

といった擁護が出てくるのはわかる.一応、和製英語なりの言葉の伝達力を理解しているつもりだ.だが、それでいいのかという躓きが私を悩ませる.

 貴方は自分の子供や近くの学童、学生から「Go toトラベルって言い方おかしくないの」と指摘されたときに合理的な説明ができるだろうか.

 「あれはね、和製英語なんだ.政府も英文としては間違っているって知っているんだ、あはははは、君は賢いねぇ」

 という返答は欺罔でしかない.間違った用法をそのまま使う馬鹿がいてたまるか.国民を統制するトップが外国の文法を誤用する事態があってよいのか.しかも世界の大多数が使う言語の文法を誤用している.学校教育では正しい文法を指導し、理解するよう教育された我々が、なんと景気刺激策の呼称に英文法の誤用を公称するという奇妙奇天烈な事態が生じているのだ.そして、その呼称が採用される過程で(異を唱えたものがいたと信じたいが)誰かの発案でそのまま通ってしまったであろうという悲劇である.日本語を使えばいいのに.

 さらに極めつけは、それが報道で国民に伝えられてもその呼称に違和感を感じる反応が少なく感じる、ということである.そもそも報道もそのまま伝えているのだから、聞いている身としては、なんだか気味が悪い.目の前に巨大な糞があってものすごく激臭がしているはずなのに、みんな知らん顔をしているような感じである.このような状況を、”The elephant in the room”という.手持ちの辞書であるOxford Dictionary of Englishによれば、

A major problem or controversial issue which is obviously present but is avoided as a subject for discussion.(明らかに存在している大きな問題或いは賛否両論の話題が、議論の主題として避けられている)

とある.面白い表現である.これも否認の一つなのだろう.日本人の感覚でいえば、空気を読むということと縁がありそうだ.だが否認だとすればなぜ、そうするのか.それを考える必要がある.

 哲学者であり、精神病理学の嚆矢であるK. Jaspersは「了解不能な精神現象は、背後に病的な身体的過程を想定し、因果的な説明を想定する」といった.つまり、わからないものに対して我々は背景に何かしらの病理を感じ取り、徹底的にロジカルに現象を説明するしかない.

 Go to Eat, Go to Travel, Go to Event, Go to 商店街はいずれも私にとって、了解不能である.そして文法的異論がほとんどみられない事態も了解しがたい.このような状況がなにかの因果律で起きているのだとしたら、実に興味深い.ぜひ一刻も早く知りたいと思う.なぜならそうでないと我々は、この状況が了解不能なものとして日本中にはびこる病理を想定しないといけないのだから.

 皆さんの周りにゾウはいないだろうか.もし、見えているのだとしたらそれは幻覚ではなくて、貴方が気づいているけれど気づいていないふりをしているモノの正体かもしれない.

 

ここまで読んでくださりありがとうございました.

日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

ファントム空間論に到る前に

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了解について

 本編の前にこちらからご覧いただくとよいかもしれません.その続きはこちらにあります.

  分裂病(統合失調症)の基本障碍とはなにか.という問いかけから著者、安永浩の論考は始まる.だから統合失調症を避けずしてファントム空間論を語ることは出来ないのだが、なるべくこの辺りの論理をしっかり抑えつつも適度に流していこうと思う.

 K. Schneiderは統合失調症には一級症状として6-8つの用法があることを指摘した(考想化声、思考奪取、作為体験、対話性幻聴、考想吹入、考想伝播、妄想知覚など).

 こうした症状から他の症状を導き出すことを理想としているのだが、「導き出す」とはどういうことか、という問いかけが残っており、さらなる追求が必要であると述べた.この問題に対する考え方はW. Dilthey, E. Husserlらがもたらした方法的反省の立場が有用だとして、これらをK. Jaspersが精神病理学に導入した.ここで「了解」「説明」という方法の体系が組織付けられた.

 「説明」的な方法論では、無限に仮説的中項を設けることになってしまい、心理現象を本質的に検証することができないという.基本障碍は「説明」的になってはならないと安永はいう.なんのこっちゃ.続けてみよう.

 一方、「記述的分析的」ないし「了解的」な心理現象の理解は「心的連関の直接所与の上に安らって」いる為、前者のような矛盾をもたない、という.どゆこと?心的所与の「全体」から出発して「部分」が分解されていくのであってその逆ではない.「基本障碍」とはこの場合その「全体」をつかむことになるが、それはここの事実の認識を契機とし、土台とはしても、それから構成されるのではなく、そのつど、一次的に把握されるのである.こうした「全体」から「部分」を導き出すことは正当な権利を似て言われ得る、とする.

 そうすると、この立場は「了解不能」という壁に突き当たる.Jaspersによれば、「了解」が限界に行き当たる時は因果的「説明」に到るものとされる.しかしもし「説明」が上記の限界を免れぬとすれば、これは統合失調症の心理学的理解の終末を意味し、統合失調症の症状は、ただの忠実な外面的記載と平面的羅列にとどまってしまうのだろうか.となると、「基本」的な追求も無駄になってしまう.

 これは序文に過ぎないのだが、最初から難解である.私からなんとか大意を抜き出そうとしてみれば、次のようになる.

 ある架空の症例が、「頭のなかで自分と誰かが大声で喧嘩をしている」と述べたとする.K. Schneiderの一級症状の考え方をすると、これはVoices heard arguing、すなわち対話性幻聴である.では対話性幻聴から他の症状を「導く」とはどういうことか、これがよくわからない.そこで、現象学的な考え方を使ってみることになる、K. Jaspersがまとめた方法には、「了解」「説明」という二つの考え方が用いられた.

 了解というのは精神現象を把握する方法である.「悔しくて怒る」というのは「悔しい」という精神現象と「怒っている」という精神現象の連続である.これらは感情移入的、共感的なものとして了解できる、という.(インターネット用語でいえば『わかりみが深い』かな?)「悔しい」と「怒っている」はそれぞれ関連がある.それゆえに怒っている人を見て、「悔しがっているんだろうな」、だとか悔しがっている人を見て「怒ってるのかな」と思うのは自然だ、ということだ.「心的連関の直接所与の上に安らっている」というのはそういうことである.だがこれらは因果律とは似ていて、異なるもので、「悲しいから泣く」という現象は連関と因果律を思わせるが、「嬉し泣き」も存在する.「嬉しい」と「泣く」という意味の連関はその人をとりまく状況や本人の発言との関連においてその都度了解できるのだ.

 しかし、ゲラゲラ笑っている人を見て、「この人、さぞかし悔しいんだろうなぁ」とは思わない.フヒヒヒヒと笑っている人に「なぜ笑っているの?」と尋ねて「悔しいからに決まってるでしょ!フヒヒヒヒ」と言われたら、「エッ???」となるはずだ.

これが了解不能という現象で、ある精神現象と関係のない精神現象が生じた場合は、「これもうわかんねぇな」という状態に陥る.

 こうなった場合、私たちは、その背後に病的な身体的過程(精神病)を想定し因果的な説明を求めることにした.したというか、そうせざるを得ない.「なにか病気だからこうなっちゃったのかな」という推理が働く.通常の意味連関が共有されず、精神現象とのつながりに異質さを生じさせるのが、了解不能である.

 説明というのは、病的な身体過程を想定するのではなく、心理現象として、「この人は過去にこういう体験があったからそれがきっかけで、ゲラゲラ笑っているのだろう」という仮説を挟んでいくものである.つまり、可能性は無限大になる.あらゆる可能性が考えられてしまう.

「ゲラゲラ笑っているのに悔しがっているというのは、実は心理学的には否認の状態で、実際、彼の心的状態はどちらかというと悲哀の反応に近く……」

 なんてごちゃごちゃしてくると、もはや取り付く島もない.無限に仮説的中項を設けることで本質上検証ができない、というのはそういうことである.

 だが、了解不能なものに対しては説明を試みるしか無いのである.Jaspersは、わからないもの<了解不能>は、因果的説明にいきつく、という.ところでもし、「説明」がさきほどの統合失調症心理の探求限界に行き当たらない、なんてことがあったとすると、もはや統合失調症を理解することはできなくなってしまうのでは?という恐れが生じかねないと安永は言う.それは「了解」に関する誤解であるとし、以下重要なことを述べる.

 心理現象界の作用形式を掴み、秩序付ける認識は体験から直接導き出されてゆく方向になされるべきで、(そうすれば「説明」的認識の意義もその中で正当に-「了解」を限定規制するものとして-位置づけられてくるが)

もしこの順序を逆にすると(「説明」だけから出発すると「了解」は永久に現れてこないから)背理となる.

 以下、吾郎なりの理解を以下に記してみる.

 こころの世界がどのように私達に働いているかを理解し、その世界の法則がどのようなものかを感じるということは、実際に経験したことから直にわかっていく(了解→説明)流れが大事である.(そうすれば、「説明」することで理解できる、という立場もまっとうに「了解」の立場を自然と決めることとして位置づけられるから)もしこの順番が逆になると、「悲しいから泣いている」という現象を理解するときに、説明が先行してしまうと、無限の注釈がつくことになってしまう.つまりいつまでたっても「了解」が出てこなくなってしまう(畢竟おかしい話になる)から、逆説的に正しいのだ.

 ここで要点をまとめておきたい.

 精神現象は「了解」していくことで、こころの世界の働きを知ることができるが、もし「了解不能」となった場合は、因果律に基づいて「説明」することが必要となる.そういうわけで「了解」→「説明」という流れが大筋となるがその逆は決してありえない.

 K. Schneiderの提示した一級症状というのは、「思考奪取」「考想化声」「作為体験」などである.これらは教科書的にも統合失調症の症候として現代もよく掲載されている.だが、これらがあるからといって、決して統合失調症とは限らないのである.脳腫瘍によってもこのような状態は起きるし、ステロイド多量服用でもそうなる.エリテマトーデスでもそうなるのだ.これが一次的な症状、根幹の症状として他のすべての症候を網羅できるかと言うと、大きな誤りだ、ということを安永は言いたいのである.これはファントム空間論への布石である.彼はもっと大きな「基本障碍」があるのではないかと考えるのである.E. MinkowskiやH. Bergson, L. Binswanger, E. Straus, J. Zutt, K. Goldstein, K. Conrad, 西丸四方らの考えを紹介してゆく.だが、どれも基本障碍を説明するものとしては、扱いが難しかったり、安易な説明的概念になってしまうとした.もし、「基本障碍」があるとすれば、それは相当抽象度が高い次元のものだろうと、彼は想定している.そこで彼は以下の考え方を紹介する.

パターンとは

 彼は「パターン」と呼ぶ概念を提唱する.暫定的訳語に「実存的二元構造」と注を付けているが、この際「パターン」で良い.

「パターン」とはなにか.彼は英国の哲学者、O. S. Wauchope(ウォーコップ)の考え方に示唆を受けているという.私は全く知らないし、哲学史で輝く人物では無い.生年没年も不詳、著作は唯一”Deviation into Sense – The Nature of Explanation”のみであり、英文学者である深瀬基寛(1895-1966)がいなければ、我が国には知られることがなかったであろう、「幻のポケモン」のような人物である.

 私達は、「自」「他」、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といったカテゴリーの一対を知っている.これらは基本的に論理学的定着された形式的概念として使われることがほとんどであるが、安永はもう少し突っ込んで考えている.

 これらは皆違ったものではあるが、各々の対の内部構造においてなにか特異なものを共通にもつように思わないだろうか、と読者に問いかける.これらにはなにかある相互連帯的関係が感じられないだろうか、と.どうしたんだ安永くん、急に.

 彼はこうした特異性を以下のように抽出する.「自」「他」の前者をA、後者をBとする.他の三対も同様である.すると、次のような形でAとBは一般化できるという.

一、 A, Bは各々の見地において完全な分極をなし、第三のものCが介在する余地はない.また一方を欠いては成立しない.

二、 体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることは出来ない.それは人が体験自体から出発すれば直接「わかる」というほかない.自らが議論の出発点になりうるのみである(この意味で公理的、明証的である).

三、 上の前提さえあればBは「Aでない方の面」といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験にあらわれてくるゆえ、導かれ、理解されうる.

四、 その逆は成立しない(!)すなわちBを公理として出発することはできないし、また「Bでない方」といったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない.

 この第四項は特に重要であるとする.それはこれらの対が、単純に相対的な、可換的に平等な対立とは言い得ないことを意味している.そしてこのことの承認こそが、この論文で主張する方法論の背骨となる.

 私達が生きている限り、「自」という意味がどんなものかなんとなく知っている.「意識的に」では無いが、「体験的に」知っている.自分のことは自分なのだから直接「わかる」だろう、そうしてわかる以外にない、という理屈だ.だが、「自」でないものが必ず存在する.「他」である.「自」があるからこそ、「自」でないものを「他」ということができるから、命題一、二は理解できるだろう.

 「自」があるからこそ、「他」が理解できる.この流れがすごく大切である.この順序が逆転すると、おかしくなる.私達は「純粋な他」というものを想起できない.「他」を考えれば考えるほど、気が遠くなり「体験の彼岸へ遠ざかるため」理解できない.これは、R. Descartesの「我思う故に我あり」と同じように、どこまでも疑いに疑い抜いた挙げ句、自分だけは疑いようがない、ということと結局は同じである.

 自分とは、私達の体験にとって「他でもない、という以上のなにか」である.「体験世界は自我・非自我でできている」という命題は「了解」できる.しかし次はどうだろうか.

 「体験世界は他・非他」で出来ている」

非他ってなんだよ?ってことになる.意味不明である.つまりどういうことか.もともとの体験構造に、「自」の支配性、優越性を見るのである.ベクトルで表記すると次のようになるだろうか.

$$\overrightarrow{ 自他 }$$ はあり得るが、$$\overrightarrow{ 他自 }$$ はあり得ない.

別の言い方をすれば、

一つの方向(BのAへの関係)においては「論理的必然性」の関係である.

他の方向(AのBへの関係)においては「条件的偶然性」の関係である.

故に$$\overrightarrow{ AB }$$ は「実存」的な方向である.

 もちろん、「自」「他」だけでなく、「質」「量」、「全体」「部分」、「統一」「差別」といった対も同様に考えることができる.こうしたカテゴリに着目し一般化したのはどうもウォーコップが初めてらしい.

 以上を総括しよう.

 前述のような論理関係にあるA、Bという概念対の対立構造を、またさらにそれを生み出す基盤となり、それによって記述されうるような体験の構造関係を、一般に「パターン」と呼ぶ.

 安永はこの「パターン」の説明に相当な紙面を割いている.詳しく知りたくなった人はぜひ書店へ!と言ってもこの本は書店にはほとんどないだろうし、知りたくなった人もあまりいなさそうだから、本論で追補したいと思う.

 次回、統合失調症への適用について.いつも読んでくださりありがとうございます.

ファントム空間論の応用性についての検討

brown pendant lamp hanging on tree near river
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まえがき

 前の記事で、私は統合失調症に関して沈黙することにした、と述べた.だが疾患の内容や治療方法にはあまり触れず、別の形でファントム空間を取り上げることはできないか、と私は考えた.以下はその言い訳と、これからの抱負である.

 近年、統合失調症は罹患数が減少しているだとか、病勢が弱まっているという指摘がなされることがある.事実かどうかはともかく、それは実臨床でも感じることは多いかもしれない.最近の傾向は気分障碍、不安障碍、発達障碍、認知症、物質使用障碍(アルコール・違法薬物等)なのだろう.だからといって統合失調症の治療がおろそかになってよいわけでは決してないのだが、他に考えなければならぬ疾患群が極めて多様である、ということで良いと思う.

 精神疾患は社会と密接な関わりがあることは多くの指摘がなされている.社会のあり方を無視して疾患の総体を掴むことはできないだろう.流行り廃りがあるといえばやや語弊があるが、発達障碍への関心は年々強まっているし、「自分が発達障碍なのでは」という関心をもって、診察室を訪れる人は多い.

 精神病理学的な考察には、発達障碍圏は自身への志向性に無関心である一方、統合失調症圏は志向性に敏感であるというものもあり、それはなるほど明快な要素ではある.だから自身の志向性に無関心である傾向が多い人々がはたして発達障碍なのかというと、直観ではあまりそんな感じはしないのだが、実際に心理学検査を行うと、有意なDiscrepancyが指摘されることはしばしばである.

 また、先輩の医師が「発達障碍か統合失調症かもしれない」という申し送りや紹介をするとき、「一体どういう文脈で言っているんだ」という疑問を持たざるを得ないことは頻回であった.どうも専門の中でも考えの混在あるいは、区別のついていない医師がいるようである.教科書的な区分が通用しない症例がいるのは重々理解しているが、基本的な症候がわかっているのかどうかアヤシイ先生がいるのは嘆かわしいことだ.

 キーワードとなるのは何らかの「敏感な状態」であるのかもしれない.体系だった幻覚妄想状態はあまりないが、発達障碍圏でも幻覚妄想状態が示唆されることはあるし、いわんや統合失調症をや、である.外界とのつながりが突如断絶し、周囲の世界が大きく変容した感覚を得るようだ.こうした感覚は妄想気分、妄想知覚として説明される.

 とある若い人が目をギラギラさせて、

「アマテラスオオミカミが勅命をくだした声がわたしだけに聞こえるような特定の音声周波数を通して聞こえたのだ!わたしはヨモツヒラサカからイザナミノミコトを帰還させてニニギノミコトとして国産みをすすめるのだ!」

 とかなんとか言っているのは、一次妄想から発展してある種体系だった妄想である(上記は私がつくったデタラメだが).

 一方で、真面目な会社員が次のように言ったとする.「仕事に行くとどうも会社の職員がヒソヒソ話をしている.よく聞こえないので話の内容はわからないが、おそらく私のことに決まっている.私の会社でのミスを知っていて、皆が私を嘲笑し、非難しているだ」というものは、状況によっては、理解できる愁訴である.こうしたものは二次性妄想として、妄想知覚と区別される.

 現象学的な知識を動員してみると、前者は突発的な意味不明な内容について確信している可能性を考える.本来、絶対的所与性である「内在」に深刻な機能不全・機能失調が起きている恐れがある.道端に咲く花をみて、「あれはうんこです」という人はなにかの酷い冗談か深刻な確信形成の病理を抱えていると思う.

 後者の方はある程度合点がいく内容である.周りが話をしているのを見て、「自分の話をしている」という理解が正しいかはどうかとして、「話をしている」という知覚は妥当のように思う.だが、それが自己を巻き込んだものかどうかは、状況によりけりだが、かなり疑わしい.これも「内在」に部分的失調があるのだろう.やはり確信形成に問題があるものとして妄想は存在する.

 最近は、テレビのワイドショー、一般人のインタビューなどで個人が自分の空想を語ることを「妄想する」と言うことを耳にする.

「もし宝くじがあたったら一生働かないですむ妄想しちゃいますよね~」

 これは妄想の使い方として正しくない.妄想は空想ではない.妄想は簡単にいえば、「訂正不可能な確信水準の言辞」である.とはいっても、こんなことを真面目に指摘して論破したつもりになるのは非常に痛痛しい人になってしまうのはよくわかっているので人前ではこうしたことは言わないが、私はそう思っている.

 だが、妄想という言葉が誤って広まり、妄想の語義が弱まったと考えると、妄想が世間に親和的になったのかもしれない.妄想の民主化といったらよいのか.前に私は、精神疾患は社会の動きと密接だと述べた.こうした言葉の捉え方の変化が一つの病勢の弱まりに関係しているのではないかとこっそり思っている.決してこの考えを確信しているわけでないことはご理解いただきたい.

 さて、私は社会のもう一つの趨勢として「敏感さ」があるのではないかと思っている.勿論、統合失調症には特有の敏感さがあるのだが、私の言いたいのは疾患とは言えないまでも、「繊細さん」や「Hyper Sensitive Person/People」と呼ばれる人々のことである.どちらかというと、先に挙げた例の後者である.こうした悩みを抱えている方は大変多いのではないか.何しろ書店にいけばこうした「HSP」関連の書籍がとても多い.インターネットの特集やコラムでも「HSP」に関する記事を目にすることもある.

 私も割と、「Sensitive」(敏感)な人種だ.HSPの定義は今後の記事に譲るが、私はこうした「繊細な人」がとても困っているのではないか、生きづらさを感じているのではないか、と常々思っている.

 私はとてもとても膨大な理論を提唱する知恵もなければ経験もないので、大それたことはできないのだが、かつての統合失調症の論理的精神病理であるファントム空間論がその理解の助けになるのではないかと考えた.一体お前は何を言っているんだ.これは統合失調症の病理じゃないか、という批判はあるだろう.それは別に良い.そんなことは知っている.だが、ファントム空間論は、人が取りうる心的距離のことを広くいう仮説である.心的距離、心の間合いとでも言おうか.心の距離感の学問仮説といえば、統合失調症に限らずとも学問的理解を経て、他の心的問題に関する理解に応用できるのではないか.

 少し学問から離れた話をしてみよう.

 「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ・映画を観た私は、エヴァンゲリオン初号機と第四の使徒「サキエル」が死闘を繰り広げるのを観て、「これは心と心の距離感の比喩ではないのかな」と素人ながら感じたものである.特に初号機が使徒の「A.T. フィールド」(絶対不可侵領域・絶対恐怖領域)を破って攻撃する描写は十代の青少年に対する暴力的な心の侵入をよく描写したもののように思った.A. T. フィールドの展開範囲や強度は、ファントム空間論の理解の助けになりそうである(と思ったのだ).

 よってこうしたアニメ作品も積極的に援用して自分の考えを述べてみたい.エヴァンゲリオンに興味のある方は勿論、自分が「HSP」ではないかと思う方、様々な「敏感さ」に思いをはせている方にとって、少しでも安らぎの場となればと思い、私は前回の記事を一部撤回し、ファントム空間論の応用的解釈を目指すこととする.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.今後も興味をもってくだされば幸いです.これは長期連載の予感……!?

The Book of Tea: 12

macro photography of green leaf
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Adobe of Fancy

Hello. The chapter four ends in this page and we’ll move on next chapter later. The translation was quite challenging but so comfy to me when the work came to the end. His style of writing is vigorous, contains a profound knowledge, and full of overwhelming passion. I can but manage to appreciate it by reading hundred times and trying to find what Tenshin meant to claim.


The name, Adobe of Fancy, implies a structure created to meet some individual artistic requirement. The tea-room is made for the tea-master, not the tea-master for the tea-room. It is not intended for posterity and is therefore ephemeral. The idea that everyone should have a house of his own is based on an ancient custom of the Japanese race, Shinto superstition ordaining that every dwelling should be evacuated on the death of its chief occupant. Perhaps there may have been some unrealised sanitary reason for this practice. Another early custom was that a newly built house should be provided for each couple that married. It is on account of such customs that we find the Imperial capitals so frequently removed from one site to another in ancient days. The rebuilding, every twenty years, of Ise Temple, the supreme shrine of the Sun-Goddess, is an example of one of these ancient rites which still obtain at the present day. The observance of these customs was only possible with some such form of construction as that furnished by our system of wooden architecture, easily pulled down, easily built up. A more lasting style, employing brick and stone, would have rendered migrations impracticable, as indeed they became when the more stable and massive wooden construction of China was adopted by us after the Nara period.

 数寄家、趣味の家という名はある芸術的な要求を満たすために作られた建造物であるという意味を含む.茶室は茶の宗匠のために作られたのであり、茶室のための茶の宗匠が作られたのではない.後世のためではなく、それゆえに儚い.誰もが自前の家を持つべきだという考えは日本人の古代の慣習に基づき、神道の迷信が命ずるところには、すべての住宅が家長の死ぬ際は避引き払わなければならない.おそらくなんらかの無意識な衛生概念のために実践されたのであろう.

 もう一つの早期の慣習とは新婚の各々の夫婦に新築を与えるべきだというものであった.そうした慣習は遷都のためであるとわかる.伊勢神宮は、改装は二十年毎に行われる.崇高な太陽女神の神殿であるが、古代のしきたりを今でも保っている一例である.こうした慣習を観察することは、あるいくらかの建築様式、すなわち、たやすく壊し、たやすく建てることのできる木造建築の我が国の体系により備えられるものとしてのみはじめて可能であった.

 より耐久性のある、煉瓦と石を用いるものがあるが、これによって転居が不可能になって、安定し強靭な中国の木造建築が奈良時代以降に用いられた.事実、移動は不可能となった.

With the predominance of Zen individualism in the fifteenth century, however, the old idea became imbued with a deeper significance as conceived in connection with the tea-room. Zennism, with the Buddhist theory of evanescence and its demands for the mastery of spirit over matter, recognised the house only as temporary refuge for the body. The body itself was but as a hut in the wilderness, a flimsy shelter made by tying together the grasses that grew around, –when these ceased to be bound together they again became resolved into the original waste. In the tea-room fugitiveness is suggested in the thatched roof, frailty in the slender pillars, lightness in the bamboo support, apparent carelessness in the use of commonplace materials. The eternal is to be found only in the spirit which, embodied in these simple surroundings, beautifies them with the subtle light of its refinement.

 しかしながら、禅の個人主義の優勢に伴い十五世紀には、古い思想は、茶室との関係において得られたものとして、より深い意味が吹き込まれた.

 禅道は、仏教徒の無常の理論と精神が物質を優越することを修得するためのその要請を伴って、肉体を一時的な避難のための家としてみなされた.肉体そのものは荒野に建てられた小屋に過ぎず、地面に生える草を結びあわせて作られた脆いしのぎ、それらが解けてしまうと再び荒れ地に戻るのである.茶室において儚さとは藁葺き屋根を意味し、細い柱の脆さ、竹の支えの軽さ、ありふれた物質をつかうことの見え透いた無造作なところに込められている.

 永遠とは精神にのみ見られる、すなわち、素朴な環境に体現し、みずからの上品なかすかな光とともに美化するものの中においてのみである.

That the tea-room should be built to suit some individual taste is an enforcement of the principle of vitality in art. Art, to be fully appreciated, must be true to contemporaneous life. It is not that we should ignore the claims of posterity, but that we should seek to enjoy the present more. It is not that we should disregard the creations of the past, but that we should try to assimilate them into our consciousness. Slavish conformity to traditions and formulas fetters the expression of individuality in architecture. We can but weep over those senseless imitations of European buildings which one beholds in modern Japan. We marvel why, among the most progressive Western nations, architecture should be so devoid of originality, so replete with repetitions of obsolete styles. Perhaps we are now passing through an age of democratisation in art, while awaiting the rise of some princely master who shall establish a new dynasty. Would that we loved the ancients more and copied them less! It has been said that the Greeks were great because they never drew from the antique.

 茶室が個人の好みに合わせるために建てられるべきというのは芸術における生命力の原理の強い主張である.芸術を、十分な理解に耐えるためには、同時代の生活にとり真実でならなければならない.私達が後代の主張を無視するべきであるというのではなくて、現在をより享受せよということである.過去の創造物を無視するというわけではなく、自分の意識に吸収しようとすべきである.伝統と形式への奴隷のような従順とは建築において個人主義の表現の枷である.

 我々は現代日本にそびえるヨーロッパ建築の風情のない模倣を嘆かざるを得ない.我々は驚く.なぜ最も先進的な西洋国家の中で建築がかくも独創を欠いて、時代遅れの様式を繰り返しているのはなぜかと.

 おそらく我々は芸術の民主主義化の時代にいるのだが、一方で新たな王朝を築く名君の勃興を待っている.願わくば昔を愛するより多く、模倣を少なくすることを!ギリシアが優れていたのは彼らが古代様式の域から脱していないことにあると言われている.

The term, Adobe of Vacancy, besides conveying the Taoist theory of the all-containing involves the conception of a continued need of change in decorative motives. The tea-room is absolutely empty, except for what may be placed there temporarily to satisfy some aesthetic mood. Some special art object is brought in for the occasion, and everything else is selected and arranged to enhance the beauty of the principal theme. One cannot listen to listen to different pieces of music at the same time, a real comprehension of the beautiful being possible only through concentration upon some central motive. Thus it will be seen that the system of decoration in our tea-rooms is opposed to that which obtains in the West, where the interior of a house is often converted into a museum. To a Japanese, accustomed to simplicity of ornamentation and frequent change of decorative method, a Western interior permanently filled with a vast array of pictures, statuary, and bric-à-brac gives the impression of mere vulgar display of riches. It calls for mighty wealth of appreciation to enjoy the constant sight of even a masterpiece, and limitless indeed must be the capacity for artistic feeling in those who can exist day after day in the midst of such confusion of colour and form as is to be often seen in the homes of Europe and America.

 「空き家」という言葉は万物が含有するという道教徒の理論を伝えるだけでなく、装飾的な主体において絶えず変化する必要があるという概念をもっている.いくらかの審美的雰囲気を一時的に満たすために、配置すべきものを除いて、茶室はまったくの空虚である.

 状況によって何らかの特別な芸術品が持ち込まれるが、すべては原理的な題目の美しさを強化するために選定され配置される.異なる音色を同時に聞き分ける人はいない.中枢の主題へ集中することでのみ美的存在の真の鑑賞は可能になる.このようにして茶室における装飾の体系は西洋、邸宅の内装がしばしば美術館に変わるところ、において持っているものの対極である.

 日本人にとって、装飾の簡素さや装飾方法の頻繁の変化に親しんでいる我々にとって、西洋の内装の変わることなくずらりと並んだ絵画、像、骨董品が富豪のただの卑しい陳列という印象を与える.

 一つの傑作でさえも常に鑑賞を楽しむためには大きな鑑賞の豊かさが必要である.ヨーロッパやアメリカの家庭でしばしば見られる色彩と様式のそうした混乱のさなかに何日もいられる者における芸術的感性とは、実に無限を要するのであるにちがいない.

“The Adobe of the Unsymmetrical” suggests another phase of our decorative scheme. The absence of symmetry in Japanese art objects has been often commented on by Western critics. This, also, is a result of a working out through Zennism of Taoist ideals. Confucianism, with its deep-seated idea of dualism, and Northern Buddhism with worship of a trinity, were in no way opposed to the expression of symmetry. As a matter of fact, if we study the ancient bronzes of China or the religious arts of the Tang dynasty and the Nara period, we shall recognise a constant striving after symmetry. The decoration of our classical interiors was decidedly regular in its arrangement. The Taoist and Zen conception of perfection, however, was different. The dynamite nature of their philosophy laid more stress upon the process through which perfection was sought than upon perfection itself. True beauty could be discovered only by one who mentally completed the incomplete. The virility of life and art lay in its possibilities for growth. In the tea-room it is left for each guest in imagination to complete the total effect in relation to himself. Since Zennism has come become that prevailing mode of thought, the art of the extreme Orient has purposely avoided the symmetrical as expressing not only completion but repetition. Uniformity of design was considered as fatal to the freshness of imagination. Thus, landscapes, birds, and flowers became the human figure, the latter being present in the person of the beholder himself. We are often too much in evidence as it is, and in spite of our vanity even self-regard is apt to become monotonous.

 「非対称の家」は我々の装飾的様式のもう一つの段階であることを意味している.日本美術品において対称を欠くことに対して西洋の批評家の指摘を受けてきた.これもまた、道教徒思想の禅道を通じて築かれた結果である.

 儒教の二元論の考えに深く根ざすもものと、仏教の三位一体の崇拝は対称性の表現に反対するものではない.事実、古代の中国の青銅あるいは唐王朝と奈良時代の宗教芸術を学ぶとすれば、我々は対称性の絶え間ない努力を認める.我が国の古典的内装の装飾は決定的に規則的配列である.しかしながら道教徒と禅の完全の理念は異なっていた.彼ら哲学の動的本質は、完全とは、完全そのものよりも完全を探求する過程を重視することにある.

 真の美は精神的に、不完全なものを完成させたものによってのみ発見される.生命の力強さとは成長の可能性にある.茶室では、全体の効果が自身との関わりのなかで完成なものにするために客人各々の想像力に委ねられる.禅道が現在も残る思考の様式となって以来、極東の芸術は表現としての対称性を完全だけでなく、反復をも故意に避けた.

 意匠の画一性は想像力の新鮮味にとり致命的と考えられた.そうして、風景、鳥、花が人物像よりも好ましい主題となった.後者はそれを所有するひとそのものである.我々はありのままの自己を表現することが余計すぎていて、我々の空虚さにもかかわらず自己認識は単調になりがちである.

In the tea-room the fear of repetition is a constant presence. The various objects for the decoration of a room should be so selected that no colour or design shall be repeated. If you have a living flower, a painting of flowers is not allowable. If you are using a round kettle, the water pitcher should be angular. A cup with a black glaze should not be associated with a tea-caddy of black lacquer. In placing a vase on an incense burner on the tokonoma, care should be taken not to put it in  the exact centre, lest it divide the space into equal halves. The pillar of the tokonoma should be of a different kind of wood from the other pillars, in order to break any suggestion of monotony in the room.

 茶室では反復を避けようとする考えが持続しているのである.部屋の装飾に対する多彩な事物は選択されても色や意匠は反復されるべきではない.生花があれば、花の絵は不要である.丸い茶釜があれば、水差しは角張ったものであるべきだ.黒釉の茶碗は漆塗りの黒茶筒と合わせるべきではない.床の間に香炉や花瓶を配置するときは、中央に置くのではないようにして、それが均等に半分に空間を割かないようにすべきである.床の間の柱は他の柱とは異なる木材であるべきで、部屋の単調性を破るようにすべきである.

Here again the Japanese method of interior decoration differs from that of the Occident, where we see objects arrayed symmetrically on mantelpieces and elsewhere. In Western houses we are often confronted with what appears to us useless reiteration. We find it trying to talk to a man while his full-length portrait stares at us from behind his back. We wonder which is real, he of the picture or he who talks, and feel a curious conviction that one of them must be fraud. Many a time have we sat at a festive board contemplating, with a secret shock to on the dining-room walls. Why these pictured victims of chase and sport, the elaborate carvings of fishes and fruit? Why the display of family plates, reminding us of those who have dined and are dead?

 ここでまた、日本の室内装飾方法が西洋の、我々が見る事物がマントルピースやどこもかしこもに対称に並べてあるところのそれと異は異なる.西洋の邸宅において我々はしばしば無用の繰り返しのように思われるものに出くわす.ある男が彼の等身大の肖像画が飾ってある前で当人と話をしていることがある.我々はどちらが本物なのかと思うのである.絵の男か、話をしている男か、そしてどれかが偽物だという奇妙な確信をもつのである.

 我々は宴会に着座して、晩餐会の壁に密かな衝撃を何度も受ける.なぜ狩りの犠牲の絵が、魚や果物の精巧な彫刻が描かれているのか.なぜかつてともに食事し、亡くなったことを思い起こすような家紋の描かれた器が並んでいるのだろうか.

The simplicity of the tea-room and its freedom from vulgarity make it truly a sanctuary from the vexations of the outer world. There and there alone can one consecrate himself to undisturbed adoration of the beautiful. In the sixteen century the tea-room afforded a welcome respite from labour to the fierce warriors and statesman engaged in the unification and reconstruction of Japan. In the seventeenth century, after the strict formalism of the Tokugawa rule had been developed, it offered the only opportunity possible for the free communion of artistic spirits. Before a great work of art there was no distinction between daimyo, samurai, and commoner, Nowadays industrialism is making true refinement more difficult all the world over. Do we not need the tea-room more than ever?

 茶室の簡素さと粗野からの自由が外界の苛立たしさを解き放つ聖域なのである.そうして美の礼賛を煩わされずに身を捧げることを可能にするのである.十六世紀において茶室は歓待を提供し、荒くれ者の戦士と日本の再興と統合に従事する者が労働からの休息を提供する.十七世紀において、徳川の厳格な形式主義が確立してからの後、茶室は芸術的精神の自由な親交に対する唯一の機会をもたらした.

 偉大な芸術作品の前に大名、侍、そして領主に違いはなかった.今日、産業主義が世界中で真の風雅をより困難にしている.我々はこれまでないほど茶室が必要なときはないのではないか.

 いつもありがとうございます.

Goro
Goro

The chief editor and translator of Kamegoro Law Firm.

お知らせ

beach water steps sand
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 こんにちは.いつも亀吾郎法律事務所をご贔屓くださりありがとうございます.

 弊事務所はブログを開設してから来月で六ヶ月目になります.投稿した記事がどれだけ閲覧されてきたか確認すべく、Google Analyticsを導入しました.そして検索キーワードを分析するためGoogle Search Consoleを始めました.さらにGoogle AdSenseを申請して、広告掲載を始めることになりました.皆さんも途中から広告があるな、とお気づきになったのではないかと思います.

 サイトの注目度を集め、より多くの人に見てもらうことで私たち事務所スタッフ一同の執筆への動機づけを高めたいと思い、Search Engine Optimisationと呼ばれる検索エンジンに対する工夫も始めることとしました.

 これらは一般的なブログの中で知られた常套手段ですから特別なことでは無いのですが、私たちにとっては見知らぬ世界であり大変新鮮味を感じています.

 何よりも大切なのは、わかりやすく見やすいサイトにすること.知識不足や技術不足でまだまだ納得できていないところは多々ありますが、少しずつ改良を重ねているつもりです.まずはこれまで煩雑だったブログタイトルを簡素なものにしました.

 そして同じシリーズ連載ものは通し番号をつけることで順序がわかるようにしました.今後も同一の規則を適用するようにしていきます.完結した連載ものは何らかの形で再び気軽に見てもらえるように、アーカイブ化を目指そうと思っています.見づらさ等、ご指摘の際は気軽にお願いします.連載ものは以下の通りです.(10月30日現在)

現象学シリーズ:「赤の現象学」に統一 (連載中)

プラトンの饗宴シリーズ:「饗宴」に統一 (完結済み)

茶の本翻訳シリーズ:「The Book of Tea」に統一 (連載中)

時間論シリーズ:「私の時間論」に統一 (完結済み)

超越・脱出シリーズ:「近年の異世界系小説にみる超越と脱出」 (完結済み) 

記憶/物語シリーズ:「記憶/物語を読んで」に統一 (連載中)

 その他記事は単発ものです.例外に大学院時代の課題がありますが試験投稿的側面が強いのでここでは紹介は割愛します.

 自分でいうのもおこがましいですが、どれも自分の記事の独自性に自信を持っています.引用は多いですが、その分、私の頭の中でしかたどり着けないであろう思考をできるだけ開示しているつもりです.翻訳も参照こそすれど、すべて私の文体です!

 もし「これやって!」という希望があれば社会通念にかんがみて快くお受けしたいと思います.もちろん、真面目な話だけでなく、私の好きなゲーム、自動車、料理、旅行の話もしたいと考えています.

 現象学は難しいので、少しずつ気長に連載していきます.焦らず、楽しく.

これからもよろしくお願いします!

*ファントム空間論の連載は都合によりしばらく見合わせます.

「記憶/物語」を読んで 5

photography of night sky
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 Deceit

  「記憶/物語」の著者、岡真理は1998年の映画、「Saving Private Ryan」を例に、「戦争とは人が不条理な死を死ぬという<出来事>であること、主体的な選択が根源的に否定される体験である」という措定を述べ、Spielberg監督の上記作品や、「Schindler’s List」にはその命題の否認があると指摘した.それはライアン一等兵が選んだ大義によって、シンドラー氏のリストに名前が記され絶滅収容所行きを免れたことによって.絶滅収容所を生還した多くの人が語るように、そこは人間の主体的な選択が存在しない.存在が根源的に否定されている.無意味に死ぬ日常が果てしなく続く世界である.だがライアンは自分だけが軍部の命令によって救出されるという不条理を選択せず、仲間とともに前線に留まる.彼は自分の正義を貫き、救出部隊の兵士も彼の選択を尊重するのである.ライアンを救うことは、自分を省みず正義を貫く彼を救出するという大義なのであるから.

 ではなぜ否認するのだろうか.彼女の論には明らかな答えは示されていない.

 これら作品は、観客を、<出来事>の「真実」を領有する主体とする.「ヒューマニズム」と「エンターテイメント」の見事な融合.だが、それは、誰の、どのような欲望に奉仕しているのだろうか.という問いかけのみである.

 否認の背景に関して、彼女は後述するが先に私から述べておくと、我々人間の「ヒューマニズム」所以であるからだろう.筆者はこれを「共約可能な普遍的感覚」という術語で換言している.不条理な事象が受け入れがたいものであることを我々は自明としている.我々は一定の合理的説明を期待する.特に営利が目的となる創作物は観客が享楽することが求められる.要するにウケないものは売れない.ブログで稼ごうと考える人は読者のウケを狙うのが必然だろう.私達は根底では他者を意識している.よって、「誰の、どのような欲望に奉仕しているのだろうか」という問いに対する一つの答えは、私達自身であろう.だが、どのような欲望なのかは、もう少し論考を読みすすめることで考えてみたい.

 第四章は、物語の欺瞞/欺瞞の物語と題する.彼女は以下の人物を紹介する.オーストリア・ハンガリー帝国で出生、ハンガリー系ユダヤ人の父を持つブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim)はダッハウ強制収容所およびブーヘンヴァルト強制収容所で計一年間過ごしたことのある人物である.絶滅収容所となる前に釈放されて米国に亡命し、心理学者として自閉症研究において知られたそうだ(私は全く知らない).蛇足だが彼は自閉症が後天的なものと主張する、現代では全く信憑されていない説を提示し、学会で話題を呼んだ.(著書では精神分析医とあるが、PsychoanalysisとPsychologyは全く異なる分野であり、彼の場合は心理学者が妥当だろう.だがベッテルハイム自身は心理学を正式に修めたわけではなく、後世様々な理由から非難されている)

 彼の学術的主張はさておき、彼はナチスによるユダヤ人絶滅政策を「ホロコースト」と呼ぶことに異議を唱える.「ホロコースト(Holocaust)」は「完全に焼く」を意味するギリシア語の訳であり、日本語では全燔祭という宗教的用語が当てはまる.Holocaustという言葉はそもそも獣を丸焼きにして神に捧げる宗教的儀式を含む.ユダヤ人らを収容所の焼却室で焼いたことから連想したであろうと述べる.こうした由来を知ると、用語としては全くたちの悪いものである.

 絶滅収容所で虐殺されたユダヤ人は、ユダヤ人であるだけで理不尽にも殺害された.全くユダヤ教と関係ない生活を送った人も多数いた.宗教的な含意のある言葉でこれを呼ぶことは、偽りの宗教的神聖さを与え、彼らが無意味な死を選んだという<真実>に直面する人間の尊厳を奪ってしまうからだと.

 絶滅収容所から生還した人々は自分だけが生き延びてしまったという体験によって心に傷を負う.彼らは自分が生き残ったのは、収容所で殺された者に代わり、自分がより良く行き残された命を生きる使命を負うと考えるようにしていると、ベッテルハイムに手紙をよこす.

 しかし、ベッテルハイムは辛くも一蹴する.そのような「使命」などない.貴方がもし「使命」を授かったのなら、収容所で亡くなった人々はそのような「使命」なく死んだのであり、そこに死の理由が生じるからだ、と.ベッテルハイムにとって彼らのような方便は自己欺瞞に過ぎないという.厳しい指摘である(ベッテルハイムは児童を癒やす立場でありながらも、患者に対して不適切な言動、虐待を行った事について数々の批判があり事実であれば、彼は発言する立場として不適当だろう).

 どうなのだろう.<真実>に直面しろというのは、理不尽で耐え難い惨劇と向き合うことであり、これを強いるのは苦しい瞬間の連続を強いることである.筆者もそれは一つの暴力性ではないかという.もし虐殺という<出来事>を可能にした欺瞞の犯罪性を我々が批難しなければならないとすれば、自らにも欺瞞を拒否しなければならないという倫理的命令が生じる.私はヨハネによる福音書、第八章二節−十一節を考えてしまう.以下の通りだ.

 姦通罪で捕まったとある女性を連れて、律法学者らがイエス・キリストを試すために問う.「こいつは律法なら石打の死刑だが、貴方はどうする」と.イエスは「あなた方のなかで罪のないものが、石を投げつけなさい」と答えたらしい.これを聞いた人々は次々に立ち去って、誰も石を投げなかった、という件である.石を投げなかった人々は立派な倫理的態度だと思う.

 我々は聖書の律法学者らのように高度な倫理的態度を取ることができるだろうか.私には自信がない.私だったらついうっかりイエスに石を投げてしまうかもしれない.姦通ではなくとも、暴力的な出来事を体験した当人がその経験になんらかの意味付けを行い、生きていくことが欺瞞なのだとしたら、欺瞞だと指摘したその人も、類似した境遇において自身を欺罔せずに生きていかなければならないのだ.

 筆者はこう続ける.「ひとつだけたしかなことは、出来事の暴力を生きのびるためであれ、そこに偽りの意味を充填することは、そのような不条理を生起せしめた暴力の根源をも欺瞞のうちに、生かし続けることになる」

 つまり、「使命」や「大義」という偽りの意味を詰め込むことは、その人にとって不条理であった出来事を否認することであり、自分自身をも騙すことになるという.確かに彼女の主張は的を得ているかもしれない.しかし、前述した通り、私達は事象に対して一定の合理的な説明を期待するものである.それが何ら商業主義と無縁であっても、それが一個人の、政治的思惑や集団の心理と無縁であったとしても、何かしら意味づけを行うことによってその個人の生きる原動力になるとすれば、それは妥当なのではないか.私は書架にあるV. フランクル(V. E. Frankl)の「Ein Psychologe Erlebt Das Konzentrationslager(邦題:夜と霧)」を取り出し、何か私の考えを支持してくれるものはないかパラパラめくった.最後の締めくくりにヒントを見つけた.

 「収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをもこもごもに言いあったものだ.わたしたちは、幸せなど意に介さなかった.わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった.にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった.少なからぬ数の解放された人々が、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない.そうは言っても、精神医をめげさせることはできない.その反対に、奮い立たせる.ここには使命感を呼び覚ますものがある」

 フランクルは1944年にアウシュヴィッツに送られ、3日後にダッハウの支所、テュルクハイムに移送された過去をもつ.上記の作品は彼の収容所体験をもとに記されたものである.彼の身分や境遇としてはベッテルハイムと似ている.だが、フランクルが記したその内容は、決して厳しいものではなく、その対極の姿勢に根ざすものに思う.彼は、暴力的な出来事を体験した本人であり、その苦痛は計り知れないものだ.だが彼は奮起し、使命感を呼び覚まされたと述べている.この言葉は決して偽りの意味を充填したものではないだろう.彼は不条理を伴う出来事を否認してもいないだろうし、否認する理由がないように思うのだ.

 よってベッテルハイムないし、筆者の考えには反例があるのではと私個人は思う.そう気づけたことで私は少し安堵している部分もある.なにしろ暴力性と向き合い続けることは辛く苦しい.「Adieu」におけるSのように心を閉ざすほかないだろう.私は、彼女の論である「ひとつだけたしかなことは、出来事の暴力を生きのびるためであれ、そこに偽りの意味を充填することは、そのような不条理を生起せしめた暴力の根源をも欺瞞のうちに、生かし続けることになる」措定は、条件付きで成立すると考えたほうが良いのではないか.確かに存在が根底から否定される不条理な世界において主体的な選択などないかもしれない.だがそれはフランクルの著作において、魂の教導ともいえる彼の収容所での演説は、そのような絶望の中で生きる意味を改めて考えさせるものであり、彼が困難とともにした人々が皆、尊厳を失ったわけではないのだ.

 そうこう考えて読みすすめるうちに、筆者も似たことを考えていることに気づく.私が条件付きで、と指摘したことについてである.それは彼女の言葉でいう「ナショナルな欲望」が大きく関係している.次章、記憶のポリティクスで語られる.

 筆者の思考開示を私の思考が追いかけていく.私に生じた疑問を彼女の文章に尋ねて、私は答えを見出す.まるで対話しているような感覚だ.一つひとつの文章を丁寧に読んでいく過程は存外楽しい.私がこのタイミングで「夜と霧」をまた広げるとは思わなかった.手元にあって良かったと心から思った本だ.

 いつもありがとうございます.本当は「記憶/物語」に関する感想を三部くらいで完結させるつもりでしたが、楽しくなってしまい、五部でも終わりそうにありません.開き直ってこのまま気長に投稿を続けようと思っています.途中で雑に終わらせるつもりはありませんから、現象学、「茶の本」の翻訳、雑記、これらを混ぜつつ、書評を書いていこうと思っている次第です.