日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

たまにはゆるい話を

 親愛なる読者の中には、亀吾郎法律事務所が硬派なブログであると思っているかもしれないが、硬いのはクサガメの甲羅なのであって、本人の頭は至ってゆるい.そんなゆるさをブログにも反映させてみよう.小論をいくつか述べたい.

急接近する巨匠たち:麻婆豆腐について

apartment blinds cabinets chairs
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 以前、私は麻婆豆腐について好きなことを述べた.麻婆豆腐の貢献人である陳建一についても述べた.

 陳建一は圧倒的な技巧と豊富な食材を惜しげもなく我々の前に披露し、「公益社団法人日本中国料理協会」というYouTubeアカウント名で麻婆豆腐界の頂点に最も近いであろう存在であった.頂点に近いために、我々世俗の者にとっては到底及ばない世界でもあった.

 そんな彼が、新しい動画を出した.「陳建一が自宅で作る麻婆豆腐」という前作よりも遥かに力抜けしたようなサムネイルが目を引く.一体どうしたというのか. 

 陳建一がなんと、スーパーマーケットで手に入らない食材を代用して自宅でできる麻婆豆腐を紹介するという動画である.なんという衝撃.遥かなる高みにいた彼は、俗人である我々にその長い手を差し伸べてくれるのだ.

「葉ニンニクはスーパーマーケットにありませんから青ネギで結構です」

「鶏ガラスープを入れるのはうちの店ですが、ご家庭では大変ですから、お水でいいです」(水でいいのか)

「『豆板醤と甜麺醤』はここではユウキ食品さんのを使いましょう、香りが良いんですよ」

 素材は市販のもの、技術は最高峰、とはいっても我々でも簡単に作れるように一般の厨房で調理してくれる.RPG(ロールプレイングゲーム)で言えば、ゲームの序盤からものすごく強い人物が助太刀してくれるような心持ちである.

 というわけで早速私は作ってみた.前回の記事を読んでくださった方のためにいえば、マーマイトは使っていない.麻辣の薫風が鼻孔に侵入し、食欲を駆り立てるいつものプルプルが完成した.私にはおやつのようなごちそうである.美味しかった.妻も美味しいと言ってくれた.喜びは望外近くにあるのだ.

急接近する巨匠たち:アッシュパルマンティエについて

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 もう一人の巨匠をご紹介したい.北海道増毛市出身のフランス料理人といえば、三國清三氏である.彼の名を冠した料理店は都心や郊外にいくつかあるようだが、なかなかに美味しい.実際に彼が腕をふるったのかはわからないが.

 フランス料理というのは、パンチの効いた味付け、こってり、ずっしりとした重量感あるものを私は想起する.そして食材を魅せる、という点で優れた食文化の一つだと思う.かといって、日本の家庭でフランス料理をなにか作るとすれば、あまりイメージがわかないと思う.思いつく限りフレンチトースト(Pain Perdu)が手っ取り早いだろうか.

 亀吾郎法律事務所でも最近はまかない料理として、ガレットを作ることがあった.そば粉をつかったガレットにベーコンと目玉焼きを和えるそれは、そばのクレープのようなサクサクふわふわのとろとろで、朝から幸せが体中の穴という穴から吹き出す.

 そして玉ねぎと人参を炒め、さらにひき肉を加えて炒めたものをグラタン皿にしいて、マッシュしたじゃがいもを覆い、オーブンで200℃二十分程度加熱する.この料理を、我々は夕餉にすることが多く、亀吾郎法律事務所の定番メニューである.この名前を我々は(豚ひき肉だが)コテージパイと呼んでいた.英国料理だと思っていたのだ.

 オテル・ドゥ・ミクニというYouTubeアカウント名の三國清三氏は、上記とほぼまったく同じ工程で調理するものを「アッシュパルマンティエ(Hachis Parmentier)」と言っていた.英国はフランスと百年も戦争するほど仲がいいことは知っていたが、なるほど料理もよく似ているのだと大変勉強になった.確かに、肉と芋はものすごく相性がいい.肉じゃが然り、ハンバーガーとポテト然り.ちなみにHachisという言葉は英語でいうところの、Hash(細かく刻む)である.パルマンティエというのは、人名のようでヨーロッパにじゃがいもの普及に貢献したというAntoine-Augustin Parmentierから取られているようだ.要はじゃがいもおじさんである.すばらしい.

 Cottage PieのCottageは一般的な家を指すから、コテージパイも家庭料理であるし、アッシュパルマンティエも家庭料理だそうだ.亀吾郎法律事務所も知らず識らずのうちに家庭料理を作っていたのだった.やはり喜びは思いがけない.フランス料理は宮廷料理ばかりだと思っていた私は愚かでもあった.同時に美味しい家庭料理を知ることは幸せであった.

作り手の顔が見えるということ

 陳建一氏も三國清三の動画も観ていて感じるのは、「作り手の顔が見えるとほっとする」ということに尽きる.マクドナルドハンバーガーの作り手はわからずとも美味しいのはわかるが、そういうことではなく、作り手の思想がなんとなくわかる、ということと、その思想が共感を呼ぶ、ということのなのだろう.

 レストランに行って、ときどき出くわすのが、料理人自ら我々のところへ来て挨拶をしてくれることだ.

「これから少しずつお出ししますのでね、ゆっくりしていってください」

 なんて言われてしまえば、ゆっくりしないわけにはいかないではないか.開放的なレストランであれば、敢えて厨房と客間の隔たりをなくして、調理風景を見せてくれるところがある.そこまでしなくてもよいと思うが、挨拶してくれるのは個人的に嬉しい.忙しいのだろうから決して無理はしないでほしい.けれどもその心遣いが私にとってはキュンキュンと来るのである.そして、ほとんどの場合、そういったお店の料理はすごく美味しい.反例があるかもしれないから、盲信するつもりはないのだが、私は大事な日や妻と外食する時は作り手の顔がみえるレストランを一つの着目点としている.

 私は今後、じゃがいものガレットや鶏レバーのパテ、コック・オー・ヴァン(Coq au vin)を作ってみようと思っているところだ.料理は実に楽しい.

 かつては、ほんの一握りの師弟たちが名工の技を盗んで研究したであろう味が、簡単に市井に及んでしまうのは時代の流れなのだろう、人によっては少し切なくもあるかもしれない.

 いつも「いいね」をつけてくださる方はもちろん、様々な方に見ていただいて嬉しい限りです.ありがとうございます.

お知らせ

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 こんにちは.いつも亀吾郎法律事務所をご贔屓くださりありがとうございます.

 弊事務所はブログを開設してから来月で六ヶ月目になります.投稿した記事がどれだけ閲覧されてきたか確認すべく、Google Analyticsを導入しました.そして検索キーワードを分析するためGoogle Search Consoleを始めました.さらにGoogle AdSenseを申請して、広告掲載を始めることになりました.皆さんも途中から広告があるな、とお気づきになったのではないかと思います.

 サイトの注目度を集め、より多くの人に見てもらうことで私たち事務所スタッフ一同の執筆への動機づけを高めたいと思い、Search Engine Optimisationと呼ばれる検索エンジンに対する工夫も始めることとしました.

 これらは一般的なブログの中で知られた常套手段ですから特別なことでは無いのですが、私たちにとっては見知らぬ世界であり大変新鮮味を感じています.

 何よりも大切なのは、わかりやすく見やすいサイトにすること.知識不足や技術不足でまだまだ納得できていないところは多々ありますが、少しずつ改良を重ねているつもりです.まずはこれまで煩雑だったブログタイトルを簡素なものにしました.

 そして同じシリーズ連載ものは通し番号をつけることで順序がわかるようにしました.今後も同一の規則を適用するようにしていきます.完結した連載ものは何らかの形で再び気軽に見てもらえるように、アーカイブ化を目指そうと思っています.見づらさ等、ご指摘の際は気軽にお願いします.連載ものは以下の通りです.(10月30日現在)

現象学シリーズ:「赤の現象学」に統一 (連載中)

プラトンの饗宴シリーズ:「饗宴」に統一 (完結済み)

茶の本翻訳シリーズ:「The Book of Tea」に統一 (連載中)

時間論シリーズ:「私の時間論」に統一 (完結済み)

超越・脱出シリーズ:「近年の異世界系小説にみる超越と脱出」 (完結済み) 

記憶/物語シリーズ:「記憶/物語を読んで」に統一 (連載中)

 その他記事は単発ものです.例外に大学院時代の課題がありますが試験投稿的側面が強いのでここでは紹介は割愛します.

 自分でいうのもおこがましいですが、どれも自分の記事の独自性に自信を持っています.引用は多いですが、その分、私の頭の中でしかたどり着けないであろう思考をできるだけ開示しているつもりです.翻訳も参照こそすれど、すべて私の文体です!

 もし「これやって!」という希望があれば社会通念にかんがみて快くお受けしたいと思います.もちろん、真面目な話だけでなく、私の好きなゲーム、自動車、料理、旅行の話もしたいと考えています.

 現象学は難しいので、少しずつ気長に連載していきます.焦らず、楽しく.

これからもよろしくお願いします!

*ファントム空間論の連載は都合によりしばらく見合わせます.

麻婆豆腐小論

陳建一、遥かなる景色

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 私は無類の麻婆豆腐好きだ.毎日一食麻婆豆腐があっても大丈夫だ.皆さんはどうだろうか.熱々の豆腐に薫り立つ炸醤(ざーじゃん:肉味噌)、口にほおばるとプルプルの豆腐がとろける.肉の旨味がじわっと溢れる.ほどよく辛い.ご飯によく合う.汗が出てくる.無条件で美味しい.麻婆豆腐はどうやら四川省の料理で、日本には陳建民と陳建一が普及に大きく貢献したと聞く.お陰様で中華料理店には大抵麻婆豆腐がメニューにあるから、様々な麻婆豆腐が食べられる.大変ありがたいことだ.きっと皆さんも好きな麻婆豆腐の味はあると思う.お母さんの味、近所の中華料理店の味、高級レストランの逸品、知人が作ってくれた特別な味.何を基準にするかは各々の経験によるだろうから、正統性を議論するつもりは全く無い.ただ私にとっては地元の中華料理店が基準である.かつてはクックドゥや丸美屋が出している麻婆豆腐のもとを使ったものを食べていたし、自分で作る時もそれらを使っていた.

 しかしながら明くる日、地元の中華料理店で何気なく麻婆豆腐を注文したところ天地がひっくり返るほどの美味であった.「うますぎる!」市販のソースを悪く言うつもりは無い.とはいってももはや市販のそれを買う気にはならなくなってしまった.病みつきである.なにか秘密の葉っぱを隠し味に使っているのかな?ということは決してなくて、中国大陸から伝わる、一般的なレシピに則っていることを知ったのだった.

 では一般的なレシピとはなんぞや、ということになる.おそらく大多数が賛同するであろう麻婆豆腐の作り方を紹介している動画が一つの参考になるだろう.陳建一の紹介する以下の動画である.こんな麻婆豆腐、自分で作ってみたい!という希望を胸に私はワクワクしながら観た.ここまでは良かった.

 ご覧になってわかるのが、真紅の麻辣とよく染み込んだであろう豆腐.炸醤とはこのことを言うのかという驚き.思ったよりも手が込んでいるのだった.

 「肉を炒める時、よく音を聴いてください.焚き火の音がします」

おっ.本当だ.確かに焚き火だ.こうして臭みをとるんだな.なるほど、次はなんですか.

 「手前どもはこの調味料を使います」という陳建一氏.ウンウン、何を使うんですか.甜麺醤.ウンウン.え?自家製?ブレンドもの?そんなの無いよ.

 「うちで使う豆板醤は郫県豆板醤で、三年もの.四川省から取り寄せました、そしてこれは辣椒粉、四川省から取り寄せた一味唐辛子です.そして大事なのが朝天椒」

 うーん.初めて聞いたなぁ.ぴーしぇん豆板醤もないし、らーじゃおふぇんもない.ちゃおてぃえんじゃおも知らないなぁ.なんだか真似できないなぁ.

 「豆鼓を刻んだものを入れます、紹興酒とお醤油をいれます、さらに葉ニンニクをいれてください」

 「最後にかならず山椒をかけてください、これ本当に香りがいいんです」

 大変美味しそうで涎がこぼれてくる一方、要求する食材が別の惑星にあるような感じで、手が出せない.葉ニンニクも手に入りそうにない.唯一山椒はある.これは私でもできる.とは言えど重要な調味料がない.私は思わず握りこぶしを作り、爪が手のひらに食い込む.ぐぬぬぬ.中華鍋もないし紹興酒もうちには無いから、これは到底つくれないと思ってしまった.恐るべし、陳建一.やはりクックドゥで我慢しないといけませんか.

 とは思いつつもできる範囲で真似してみることにした.葉ニンニクは青ネギで代用.豆板醤はスーパーで売っている李錦記のものを使う.ラー油は市販のものをぴゅぴゅっとぶっかける.紹興酒はもちろんないのでふつーの料理酒を使った.豆腐もめんどうだったが塩茹でまでした.甜麺醤がないのでべつのものを使った(後述).豆鼓は無いので省略.

 結局、出来たには出来たが、出来損ないの麻婆豆腐になってしまった.香りは立たないしやたら辛くて、真っ黒.それにしょっぱい.ひき肉には申し訳ないことをした.もちろん完食したが気落ちしてしまった.別の日に口直しで例の中華料理店で麻婆豆腐を食べてきた.いつもと変わらずうまかった.

 お前の腕が悪いのではないか、というご指摘は謹んでお受けしたい.確かにそうかもしれない.できるだけ手元にある食材で、名工の味に近づいてみたい.私のリアリズムの欲望は、現地では調達できない<食材>、それゆえ再現不能な<味>、<情報>の余剰、「食べてくれる人」の存在の否認と結びついていた.

 その後も性懲りも無く麻婆豆腐を作り続けた.作り続けていたある日.リアリズムの欲求が突き抜けて完全にマッド・サイエンティストのようになった私はとんでもないことをひらめいてしまった.アルキメデスの気持ちが少しわかったかもしれない.

 マーマイト(Marmite)が代用になるのではないか?

 

 マーマイトをご存知でない諸兄もいると思う.ベジマイト(Vegemite)は知っているだろうか.簡単にいえば真っ黒なペーストだ.ビールの醸造で堆積した酵母をもとに作った食べ物である.マーマイトとベジマイトは厳密には異なるようだが、ここではその話は控えておく.私はかつてニュージーランドを二度訪れたことがあり、そこでベジマイトとマーマイトをそれぞれ購入した.なぜか.それは私なりの好奇心であった.どうやら現地の人々、主に大英帝国の影響を受けたアングロサクソン系のオトモダチはトーストに塗るらしい.私も英国やニュージーランドにいた頃、試しに塗ってみたことがある.

 正直に言えば、「もっとマシな食い方があるのではないか」という感想だ.これだから英国料理は…という批判が生まれるかもしれないが、そういう趣旨では無い.私はフルブレークファストが好きだし、向こうの人々が作るカレーも大変好みだ.ジャンキーなフィッシュアンドチップスも酢をかけて食う彼らの気持ちが良く分かる.ブラックプディングのどす黒い濃厚な味はご褒美である.若干豆の煮込みは飽きる.

 だが、マーマイト.これはもう少し工夫しがいがあるのではと思っている.購入動機はそれだ.私は料理に詳しいわけではないから高尚な話はできない.

 豆鼓は黒豆を発酵させたもの、甜麺醤は小麦に麹と塩を混ぜた発酵食品.マーマイトはビール酵母の沈殿物である.起源は別だが、発酵というプロセスは似ていると思う.さらに、これは私のきのせいでなければよいのだが、マーマイトは豆鼓の香りに似ている.もしわからなければ大徳寺納豆と同じ香りがすると言ったらよいか.味も似ている.大徳寺納豆は麹で発酵させているから確かに豆鼓と似ている.私は密かにマーマイトは豆鼓や甜麺醤に近接した食品ではないかと思っている.

 というわけで早速試してみたのだ.上手くいく気がして心躍る思いであった.具体的にどう使うのかというと、炸醤を作るときにひき肉に混ぜる.

 だが、マーマイトの粘性が高くて、溶けにくいことよ.熱を加えてもなかなか溶けないのだ.なんとかして私は鬼の形相でひき肉と融合させた.フライパンから独特の香ばしさが漂う.いい感じだ.

 あとは先程と同じ要領だ.豆板醤を適切なタイミングで混ぜ、豆腐と合わせる.工夫を凝らして、さぁ完成!……と言いたかったのだが、なかなかうまく行かないのが世の常である.味見すると、どうしても渋みが麻婆豆腐の邪魔をする.コクがあるといえばその通りではある.コクがくどい.それからややしょっぱい.マーマイトに含まれる塩気を考慮していなかったのだ.

 結局、失敗に終わったといっておこう.決してまずくないものであったが、他所様に提供するにははばかられるメニューかもしれない.なんと例えてよいだろうか、表現が難しい.自己弁護のようで恥ずかしいが何となく方向性は悪くないかな、とわずかな手応えを感じた程度であった.

 あまりマーマイトにこだわらずにその後は適度な労力の麻婆豆腐を作るようになった.動画サイトでさらに調べてみると、様々な料理研究家が各々の工夫を凝らし、お手軽で美味しい麻婆豆腐を開発していることがわかった.皆それぞれが口にするのは、「これが一番だと思う」という自信である.その自信は動画には見えないところで培った努力の賜物なのだろう.動画では一番美味しいところを見せるが、影では相当の失敗を重ねていると推察する.探求と工夫に裏打ちされた自信であるに違いながら、私はそれぞれに「貴方こそナンバーワンです」と言って賛辞を贈りたい.

 麻婆豆腐の動画を沢山見て共通した部分があることに気づく.それについて一応私の意見を述べておしまいにしておきたい.

 ・炸醤を作る上で、ひき肉をしっかり炒めること.焚き火の音がするくらいという表現でも良いし、肉汁が透き通るくらい炒めるという基準でも良い.そうでないと肉の臭みが抜けないのだ.

 ・麻婆豆腐はいかに豆腐を美味しく食べるか、という企てがあるそうだ.そのためには豆腐の余分な水分を抜くことが重要である.その方法はいくつかある.一つは陳建一が教えるように塩茹ですること.茹で上がるタイミングは豆腐がダンスするまで(陳建一曰く).或いは、キッチンペーパーで包んで電子レンジで加熱する方法.私は後者が簡単なのでこちらを採用している.

 ・豆腐は絹でも木綿でも良い.私はプルプル感を得ようと絹を使っていたが、崩れやすいので木綿に切り替えた.事前に豆腐を賽の目切りにする方法が多数だが、鍋に入れて混ぜる時に崩れやすいために、一丁まるごと入れてから、お玉で雑に崩す方法もある.私は後者を採用した.自宅で作るのなら見栄えはそこまで重視しないからだ.審美主義の方なら前者がいいかもしれない.表面積を増やすことで味の浸透が深まる.

 ・調味料をどこまで使うかは、料理する人がどこまで求道者なのかによる.簡単さを求めるなら、豆板醤さえあればあとは市販の調味料で作ることもできる(コウケンテツ曰く).しかし、究極を求めたい、という人ならば唐辛子の選定や醤の味にこだわってもいいだろう.注意すべきはリアリズムの欲望はエゴイズムとナルシズムに接近する恐れがある.カレーづくりと似ている.料理会の暗黒面ともいえる.

 私は学生の頃はどちらかというと、パラケルススのような錬金術師を目指していた.完璧を目指していたのだ.だがどうあがいても金は作れない.それがわかるまでだいぶ時間がかかった.べつに金でなくても良い.似た色の真鍮でも良いではないかと最近は考えている.私は土井善晴という料理研究家を知ってから、彼の料理に関する言葉を聞いてかなり力を抜いて料理することができるようになったと思う.あまり頑張らなくて良いのだ.ご飯とおかずがあればそれでごちそうだ.一緒に食べてくれる人がいて、美味しいと言ってくれれば、それで良いじゃないか.私はもうこのままで良いと思っている(マーマイトの研究は極秘で続けたいけれど).

 今回はかなりゆるく記事を書きました.お気に召していただけたら嬉しいです.麻婆豆腐についての忌憚のないご意見もお待ちしています.マーマイトに関する独自研究も大歓迎です.緩急をつけてこれからも楽しく記事を書いていきます.どうぞよろしくおねがいします.

 

 

焼肉の話

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 言葉には流行り廃りがあって、流行語として広く君臨することもあれば、死語として常用されなくなり、少数勢力の慰みや学術者の研究材料になるのかもしれない.私は流行語大賞などの報道にはてんで興味がないから、今どんな言葉が流布しているといったことは知らない.しかし、ある一つの言葉は最近、我が亀吾郎法律事務所で使われるようになってきた.

 先日、所内で焼肉を行った.とはいっても題名の通り、豚の三枚肉を切って焼いたに過ぎない.だが、焼肉屋に行くのとは別格の味わいであって、至福の時間であったように思う.今回はその話をしながら事務所内の流行語を紹介したい.

 私は、亀吾郎法律事務所の掃除夫であるが、同時に厨人でもあることが多い.私は如何に珍味珍品を用いず一般の食料品店で調達できる品を使って、事務所の皆さんに享楽してもらうかを念頭に置いて調理している.そういったときに動画サイトを参照して、料理をつくることが増えてきた.おそらくこういう風潮は多くの家庭にもありそうで、何だか料理本の売れ行きが低迷しそうな雰囲気である.簡単さ、手軽さ、そういった料理で美味しさが確約されるのであれば、確かに人気は出る.人は一過性の爆発的な人気を「バズる」、という現象で捉えるようである.きっと英語のbuzzから借用しているのだろうが、あまり「バズって」しまってもブンブン蝿が飛び交っているようで喧しいのも事実である.「バズる」ことは一部、動画の再生回数を増やすため、金銭収入を得るため、といった背後の目的によって行われることもあるかもしれない.不興を買ってでも話題性を瞬間的に生み出す方法は、人々の憤怒を焚き付けて電子の海を炎上させる.その度倫理観が問われることはあるが、一時的な快楽を求めるためにすぐに人々は油をせっせと注いでいる.

 湯船にコーラを張って浸かる様子を放送する、クジを全部買ってクジ屋のメンツを潰す、分厚い氷の塊に融点限界の金属球を上から落とす、一日で北海道と沖縄を旅行するなどといった珍奇な行動があることを見聞きした.酔っ払ってやっているのかと思えば、おおよそ皆素面である.中には四大天使と同じ名を名乗り常に仮面を被っている頓痴気な人もいる.よくもまぁそんなことを白昼素面でやれるなという興醒めを私は感じてしまう.革命家を自称し不登校を貫徹する児童も出現した.視聴者の快楽刺激に対する感覚閾値が徐々に上がって、生半可な刺激では不感症となり、さらなる刺激を欲しがる人々の需要に求めるべく放映者は奇天烈さを増してゆく.過剰な刺激物質に対して受容体を増やし、なんとかして生理的平衡を保つような、薬剤過感受性の病理に近いことを私は考えてしまう.P. Valéryも「精神の危機」で似たようなことを述べていたと思う.「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という言葉があるが、全人類阿呆になってしまったほうがいいのだろうか.古くから宋書に伝わる袁粲の例え話として、「狂泉」が知られるので紹介しておこう.

 昔有一国,国有一水、号曰狂泉.国人飲此水,無不狂,唯国君穿井而汲、独得无恙.国人既並狂、反謂国主之不狂為狂、於是聚謀、共執国主、療其狂疾.火艾針薬、莫不必具.国主不任其苦、於是到泉所酌而飲之.飲畢便狂.君臣大小、其狂若一、衆乃歓然.我既不狂、難以独立、比亦欲試飲此水.

沈約、「宋書」巻八十九、袁粲伝

「昔ある国に、ひとつだけ水飲み場があって、狂泉と呼ばれていた.国民はこの水を飲んでいたので皆狂ってしまっていた.唯一王だけが井戸を掘って水を汲んでいたので、無事でいた.国民は軒並み狂っていたので、かえって国王の狂っていないのを狂っていると思い込み、皆で謀って国主を執え、国王の病気を治そうとして、モグサや針や薬など、あらゆる手を尽くした.国王は治療の苦しみに耐えきれず、泉へ行って水を汲んで飲んだ.そして飲み終わるやいなや狂ってしまった.君主も臣下も大人も子供も同じように狂ったので、皆はやっと喜んだ」と、ここまで話した袁粲は「私はもとより狂っていないものの、たった独りで貫き通すのも難しい.それで最近では、私も試しに狂泉を飲んでみようかと思うようになった」と.

 この寓話はおそらく、語り継がれ時を越えて詩人Khalil Gibranの耳に入ったのだろう.著作「The Madman(狂人)」の「The Wise King(賢王)」には極めて類似した話がある.原文のみ紹介したい.私がこの関連を知ったのは妻のお陰である.妻は私よりも博覧強記なのだ!

The Wise King
Once there ruled in the distant city of Wirani a king who was both mighty and wise. And he was feared for his might and loved for his wisdom.

Now, in the heart of that city was a well, whose water was cool and crystalline, from which all the inhabitants drank, even the king and his courtiers; for there was no other well.

One night when all were asleep, a witch entered the city, and poured seven drops of strange liquid into the well, and said, “From this hour he who drinks this water shall become mad.”

Next morning all the inhabitants, save the king and his lord chamberlain, drank from the well and became mad, even as the witch had foretold.

And during that day the people in the narrow streets and in the market places did naught but whisper to one another, “The king is mad. Our king and his lord chamberlain have lost their reason. Surely we cannot be ruled by a mad king. We must dethrone him.”

That evening the king ordered a golden goblet to be filled from the well. And when it was brought to him he drank deeply, and gave it to his lord chamberlain to drink.

And there was great rejoicing in that distant city of Wirani, because its king and its lord chamberlain had regained their reason.

K. Gibran, The Wise King, The Madman

 このような話からどのような寓意を読み取るかは読者の感性に委ねられる.私訳は別の機会にしよう.難しい英文ではないのできっとすぐ読めてしまうはずだ.

 余談だが、現代でも和製ホラーゲームにおいて名高い「SIRENシリーズ」には、上記の類似した構造を見ることができる(私見だが大変な恐怖体験に近い.迂闊に動画サイトで検索すると後悔するかもしれないし、オススメ動画にホラーばかりが並ぶ悲劇になるから安易な視聴はオススメしない).エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」も類似した計画であろう.狂気とは誰にとって、狂気なのか.私が狂っていないという確信は信憑に足るのだろうか.何を以てして狂気というのか.こうした問題提起はまた別の機会にして、サムギョプサルの話に戻ろう.とかく私がここまで引っ張って言いたかったのは、現代のマスメディアについて、狂気が狂気を内包している構造のために、視聴者と投稿者、運営全てである総体が狂気じみていれば皆健全に見えてしまうような恐ろしさがあるのではないか、ということだ.かく言う私も狂人の一人かもしれないから、これ以上強くは主張しない.

 奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入出前迅速落書無用な動画サイトの中にも、秀逸だと思うものはいくつかあって、私がサムギョプサルを作ったのはそれがきっかけであった.スーパーマーケットに売っている豚バラ肉ブロックが特売で売っている時は、皆さんもサムギョプサルを夕餉に考慮してもいいかもしれない.消費期限が近くなって値引きしているときは買い時かもしれない.腐敗と熟成は表裏一体であるから、かえって旨味が増していると楽観すれば、正しく調理する限り問題ない.自宅にキムチがあれば上出来である.動画投稿者である料理研究家はキムチは優れた調味料であり食材であると言う.この言葉の意味は実際にバラ肉から出た脂でキムチを炒めたときに身に染みる.味もよく沁みる.葉野菜(レタス、サンチュ)があれば、肉を巻いて食べると、食欲をそそる香ばしい薫りと溢れる肉々しさに透き通る清涼感を感じ、抜群の相性を感じる.大葉、エゴマがあると、家族が集う円卓に和やかな静寂が訪れるはずだ.我々は白米は食べずに肉400gと野菜でのみ完結した.これで十分お腹いっぱいになるし充実感もある.糖質制限をしている人にも吉報だ.肉の脂身は加熱段階で溶けていくので過剰に気にすることはない.

 日本国内の韓国料理店へは何度か行って、美味しいビビンバやトッポギ、スンドゥブ、チヂミ、クッパ、サムゲタンを食べたことはあった.どれも舌鼓を打つ優れた料理だと思う.韓国、国内のみならず、遠い異国の料理を食べたりすると、実際に訪れて、作り手の顔を見てみたいと思うようになる.どんな人が作って、どんな人が食べているのか、なぜその調理法なのか、と.動画サイトのいくつかは投稿者が調理することが多いので、作り手の顔が見えて、親近感が湧くこともある.その人がどんな思想に基づいてレシピを考案したのか、どのような経験があってそこに行き着いたのか、完全でなくとも思いをはせることができる.料理の動画はそのような意味で見ると面白いものがいくつかある.私が見た動画はそういうものであった.変な動画を観て笑い転げるのもいいが、私はカメの甲羅干し動画や、料理動画、音楽だけがかかり続ける静止画が好きだ.


 我が事務所の流行語について戻ろう.一般には「多人数でルールに基づいて競い合い、結果最も優れていると認められること」を「優勝」というのに対して、近年では(4−5年前のようだが)「優勝」を「非常に良い気持ちになる、心地よくなる」といった肯定的な感動を表すのに使うことがあるようだ.今も流行っているのかは知らない.所謂インターネットスラングであるから、多用は禁物だ.使いすぎるとやや痛々しくなる.オジサンは特に.

 「今日は、山岡家でプレミアム塩豚骨と餃子のセットで優勝しない?」「明日は休みだから、コンビニで酒とツマミを買って、三人で酒盛りして優勝しようや」といった感じで使う.幸福の余韻を「優勝してしまった」といって表現することもある.

 かくして我々もサムギョプサルを食して「優勝」した.夫婦二人とも「優勝」してしまった.大変美味だった.焼き肉店に行くと結構値段が高く付くが、自宅サムギョプサルであれば、案外気軽に勝利宣言できてしまう.それに敗北者はいない.もしかすれば誰も敗北を喫せず、肯定的感情のみ残るから流行ったのかもしれない.言葉が生まれた背景に、学校教育における平等性の問題だとか、現代社会の競争原理に対する抵抗などといった考えがひょっとしてあるのかな、と一寸脳裏を過ぎったが、考え過ぎだ.きっと違うだろう.ともかく我々の事務所内では「優勝」が少しだけ流行っている.きっと時間が経てば廃れてしまうだろう.私達の事務所と現実世界では流れる時間が異なっている.

 時間の流れが異なれど秋の日は釣瓶落とし、であり、やはり秋は夕暮れ、である.そして天高く馬肥ゆる秋でもある.読書の秋、食欲の秋.皆さんはどんな秋をお過ごしでしょうか.誰にとっても飽きの来ない日々が訪れますように.

あまりまとまりませんでしたが、ここまで読んでくださりありがとうございます.

 

 

The Book of Tea: 7

Chapter III 第三章

Taoism and Zennism 道教と禅道

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Take eggs out from refrigerator, crack two or three of them and pour into bowl, then beat. Put a piece of butter into a flying-pan. Make a fire and melt it until the butter covers the surface. When the pan gets enough heated, pour beaten eggs into the pan, then stir them as fast as possible with your full energy.

When eggs become soft-scrambled, put away from the fire and let them cool. About 30 seconds of silence. Take off the remains of eggs on the edge of pan with spatula, at this time, you may mix in other ingredients. Put the pan on the fire again with a high heat, tidy up a shape like spindle. Use wrist pliably to turn over the cuisine on the pan, then serve it in a plate. Need ketchup? Help yourself.

This is an irreplaceable moment. If a stew is a long-distance race, this cuisine is a sprint. This is a race to the finish in an instant. Winner is for those who cook the dish better.

A hot omelette is always an outstanding masterpiece. Many will adore the creamy taste of omelette. The sauce of yolk overflows when corrupting the perfect creation, this is a breathtaking moment but also a painful time. The mild saltness of butter is awesome. You can put in sliced cheese, mushrooms, beacon, chopped vegetables are fantastic. minced meat are greatly welcomed. An omelette adopts every ingredients and embodies with itself. The definition of the legitimate omelette cannot be decided forever. because whoever the chef, such as the Spanish, the French, the Taiwanese, or the Iranian, always make excellent omelettes in their styles. Egg dishes were the beloved of people since the era of an ancient empire, they eagerly took pains and enjoyed the completion of recipe, by studying how to heat or to mix with other ingredients.

 冷蔵庫から鶏卵を取り出す.二、三個割って、器に入れて溶き卵にする.フライパンに牛酪を入れる.火をつけて溶かし表面を油で覆う.フライパンを十分に温めたら溶き卵を注ぎ、全身全霊で一気にかき混ぜる.

 

 半熟になってきたら、火からフライパンを離し、少し冷ます.約30秒の静寂.縁についた卵を箆で剥がし、ここで具材を任意で放る.再び火にかけ、紡錘状に形を整えてゆく.手首をうまく使ってパン上でひっくり返す.皿に盛る.ケチャップはお好みで.

 

 この時間は刹那.煮込み料理が長距離走なら、この料理は短距離走だ.一瞬で勝負がつく.美味しくできれば優勝だ.

 

 出来上がったオムレツは美味しい.ふわふわなオムレツが好きな人は多い.崩すと中からとろっと溢れる卵液.牛酪の塩加減が絶妙だ.中に乾酪があっても良いし、茸でも、ベーコンでも良い.刻んだ野菜も良いし、挽肉と和えたって良い.オムレツは具材を受容し自らと一体化する.勿論、もっと変性させて固くしても良い.スペイン風でも、フランス風でも、台湾風でもイラン風でも美味しいに違いない.だからオムレツの定義は難しい.何が正統なオムレツかはどうでもよい.古代の帝国から鶏卵料理は人々に寵愛され、その生命の器をどのように熱して、どのような具材と混ぜるか、苦心し、完成を楽しんできた.

と、ここまでは英文和文ともに私の文章.以下は天心の訳になります.オムレツの礼賛、いかがでしたか.


The connection of Zennism with tea is proverbial. We have already remarked that the tea-ceremony was a development of the Zen ritual. The name of Laotse, the founder of Taoism, is also intimately associated with the history of tea. It is written in the Chinese school manual concerning the origin of habits and customs that the ceremony of offering tea to a guest began with Kwanyin, a well-known disciple of Laotse, who first at the gate of the Han Pass presented to the “Old Philosopher” a cup of the golden elixir. We shall not stop to discuss the authenticity of such tales, which are valuable, however, as a confirming the early use of the beverage by the Taoists. Our interest in Taoism and Zennism here lies mainly in those ideas regarding life and art which are so embodied in what we call Teaism.

It is to be regretted that as yet there appears to be no adequate presentation of the Taoists and Zen doctrines in any foreign language, though we have had several laudable attempts.

Translation is always a treason, and as a Ming author observes, can at its best be only the reverse side of brocade, – all the threads are there, but not the subtlety of colour or design. But, after all, what great doctrine is there which is easy to expound? The ancient sages never put their teachings in systematic form. They spoke in paradoxes, for they were afraid of uttering half-truths. They began by talking like fools and ended by making their hearers wise. Laotse himself, with his quaint humour, says “If people of inferior intelligence hear of the Tao, they laugh immensely. It would be the Tao unless they laughed at it.”

The Tao literally means a Path. it has been severally translated as the Way, the Absolute, the Law, Nature, Supreme Reason, the Mode. These renderings are not incorrect, for the use of the term by the Taoists differs according to the subject-matter of the inquiry. Laotse himself spoke of it thus: “There is a thing which is all-containing, which was born before the existence of Heaven and Earth. How silent! How solitary! It stands alone and changes not. It revolves without danger to itself and is the mother of the universe. I do not know its name and so call it the Path. With reluctance I call it the Infinite. Infinity is the Fleeting, the Fleeting is the Vanishing, the vanishing is the Reverting.” The Tao is in the Passage rather than the Path. It is the spirit of Cosmic Change, – the eternal growth which returns upon itself to produce new forms. It recoils upon itself like the dragon, the beloved symbol of the Taoists. It folds and unfolds as do the clouds. The Tao might be spoken of as the Great Transition. Subjectivity it is the Mood of the Universe. Its Absolute is the Relative.

It should be remembered in the first place that Taoism, like its legitimate successor Zennism, represents the individualistic trend of the Southern Chinese mind in contradistinction to the communism of Northern China which expressed itself in Confucianism. The Middle Kingdom is as vast as Europe and has a differentiation of idiosyncrasies marked by the two great river systems which traverse it. The Yangtse-Kiang and Hoang-Ho are respectively the Mediterranean and the Baltic. Even to-day, in spite of centuries of unification, the Southern Celestial differs in his thoughts and beliefs from his Northern brother as a member of the Latin race differs from the Teuton. In ancient days when communication was even more difficult than at present, and especially during the feudal period, this difference in thought was most pronounced. The art and poetry of the one breathes an atmosphere entirely distinct from that of the other. In Laotse and his followers and in Kutsugen, the forerunner of the Yangtse-Kiang nature poets, we find an idealism quite inconsistent with the prosaic ethical notions of their contemporary northern writers. Laotse lived five centuries before the Christian Era.


 禅道と茶の結びつきはよく知られている.我々は既に茶会が禅道の儀礼の発展であることについて述べてきた.道教の創始である老子の名も、茶の歴史と密接である.慣習と風俗の起源に関する中国の指南書に、客に茶を提供する儀礼が記されており、茶会は老子の門弟で有名な関伊が函谷関で「老賢者」に初めて一杯の黄金の霊薬を振る舞ったことが始まりとされている.我々はそのような話の真偽を論じることを止めはしない.しかしながら、道教徒による茶の古い使用を確証するものとしてその話には価値がある.道教と禅道に対する我々の関心は主に、茶道に体現する人生と芸術に関するこうした思想にあるのだ.

 

 我々は幾度と尊ぶべき試みを行ってきたのにも関わらず、道教徒と禅宗の教義を表す適当な外国文がないことは遺憾である.

 翻訳というのは常に背信である.そして、ある明朝の著作家が述べるように、せいぜい最善を尽くしても錦織の裏でしかない.あらゆる錦糸は織り込まれても彩色と意匠の精緻はない.しかし結局、説明するのが容易い偉大な教義とは何であろうか.古の賢人は系統だった形式で説法をすることは決してなかった.彼らは逆説的に話をした.というのは半分正しいことを述べることを恐れたからである.彼らは愚者のように話し始め、聞き手が賢くなるよう話し終えたのだ.老子自身、奇警なユーモアを備え、「知性の劣る人が『道』を聞けば、笑い転げるであろう.笑われない限りは『道』ではない」と言ったのだ.

「道」は文字通り、「路」を意味する.それは「方法」、「絶対」、「法」、「自然」、「最上の理性」、「様式」と幾度も訳されてきた.これらの言葉は誤ってはいない.質問の主題によって道教徒が用いる言葉が異なるからだ.老子自身このように述べている.「万物を有する物が存在する、それは天地の存在以前に生まれたのだ.なんと静かなことか.なんと寂しいことか.独り立っていて変わることはない.自身を巻き込むが危険がなく、宇宙の母なのである.私はその名を知らないから『道』と呼ぼう.気が進まないが『無限』と呼ぼう.『無限』とは『一瞬』であり、『一瞬』とは『消滅』である.『消滅』とは『回帰』である.『道』とは『路』よりも『径』である.『道』は『宇宙変化』の精神であり、新たな形を生み出すため自身へと回帰する永遠の成長である.自身に返る龍のように、道教徒に愛された象徴である.雲のように立ち込め、溶けてゆく.『道』は『大きな過渡期』として話されるのだろう.主体としては『宇宙』の『様式』である.その『絶対』は『相対』である」

はじめに覚えておくべきは、禅宗が道教の正統な後継者であるように、道教は、儒教として表される中国北方の共産主義と異なって、中国南部の精神の個人主義的傾向を表している.中華王国はヨーロッパと同じ広さであり、特異性の分化が、横断して流れる二つの大河によって生まれた.揚子江と黄河は地中海とバルト海に相当する.今日でさえ、統一の世紀にも関わらず、南方中国は、ラテン系とチュートン系で異なるように、思想と信条が北方の同胞と異なるのである.古代の時代には意思疎通は現代よりもますます困難であり、特に封建時代の間、思想の差異は最も著しいものであった.技芸と詩歌は他方とは全く異なる空気感を生み出す.老子とその門弟において、揚子江の自然詩人先駆者である屈原において、我々は現代の北部文人の散文的で倫理的観念とはまったく不一致な理念を見出す.老子はキリスト教の時代五世紀以前に生きていたのである.