日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

陽の光

雑然とした中に思わぬ秩序があったりする.

 あくる夏らしい日.それは燦々と降り注ぐ陽光を身に浴びる日でもあり、冷えたビールを飲みたくなる日でもあり、バーベキュー日和ともいえる日.どこかドライブしてもいい.砂浜で日焼けしたくなるような穏やかな日だった.

 私の借りている家には小さな庭がある.庭と言ってもこじんまりとした、砂利の敷き詰めてある平面を言う.ところが嬉しいことにどんどん草が芽生えてきている.蔦は砂利を這い回るかのように伸び、自然発生のようにいつしか立派な植物がもこもこ生えてきて、妙な植生をなしてきている.私は植物の名前をこれっぽっちも知らない.だが、とても気分の良い空間で、私なりに庭らしくなってきた.実はこの庭には何も植えてはならないと契約書に書いてある.しかも生えてきたものは抜いて美化に務めろという.余計な面倒を起こしてほしくないので賃貸物件はこういうことになるのだろう.というわけで決して何かを植えることはしない.そもそも砂利に種を蒔く人は寡聞にして知らない.

 一般的に雑草といわれるものが、我々の思いに反して、立派に生育していく.何もしなくても好きにやってくれている.今では1/3くらいの面積を覆い尽くすようになった.なぜ抜かないのかと言われれば、私なりに美化に努めているからだというのが答えだ.ひねくれているなと言われればそうだが、一面砂利よりも趣があってよろしい.隣の家の人は定期的にまめまめしく抜くので、私も見習って同じことをしてみたが、抜いたところで平面は美しくなるわけでないし、そもそも容易に抜けるものではない。

 私はこれらを抜くことを諦めた。抜いても次々と生えてくるからだ。よく見ればそれぞれ愛嬌があるし、葉の上に佇むカエルを認めるだけでなく、アリがいそいそと歩哨にでかけているのを見る。カメムシは邪魔さえしなければ臭くないのだ.彼らの生活圏を侵すことはどうも心苦しい。生活を脅かしたところでどうせ徒労に終わる.であればありのままにしておいてこれからどのように繁ていくか見ていくほうが楽しそうだ.すでに私は楽しんでいる.勿論、洗濯物を干す場所や公共の空間は逸脱しないようにする.私の生活圏と小さな隣人の生活圏を共有しあい相互不可侵に務めるのが私の考えるところだ.他者からすればさぞかし無精者と思われるかもしれない.それは恒久平和のためには仕方ない.

 自分の思い通りにしたくてもそうはならないのは世の常.どんなに厳しく取り締まっても追い払っても、自分だけの世界でない限り決して思い通りにはならない.それは私の庭だけでなく世界で起きてきたことを見れば自ずから明らかだろう.北風は旅人の衣服を吹き飛ばすことはできなかった.私はやはりあの夏の太陽が好きだ.

気づけばグリーンイグアナ

 先日、妻と淡水魚の水族館を訪ねました.大きな敷地の中には大きな池が会って、その中心にガラス張りのルーブル美術館のような建物があります.水族館の入口には鯉のぼりを模した、何百もの鮎のぼりが風を吸って、元気よく泳いでいました.見物人は少ないのでゆったりと静かな空間で集中して魚を観察することができました.マス、ヤマメ、タナゴ、フナ、オイカワ、コイ、ドジョウ、ウナギ、カエル、イモリ、ザリガニ、サワガニなど淡水でよく観られる生物がゆったり暮らしていて、少し羨ましく思いました.ガラスから差し込む日光が眩しくて、蓮の葉は大きく葉を広げるのとは対称に、我々は瞳孔を小さくして少し暗い館内を探索します.淡水魚だけでなくて海水魚や汽水域の魚も少し展示してあって飽きることがありません.アジ、タイ、マグロ、サメ、ヒラメ、フグ、ウツボ.正直にいうと時々美味しそうだな思うときと、この魚、あな恐ろしと思うことが多かったです.読者諸兄には私の見識の狭さに呆れるかもしれませんね.しかし背びれ尾びれが動くときの一切の無駄の無さと優雅さ、光に反射するウロコ.しなるように動く細長い流線.そしてそれら形態へと至らしめた進化の道筋あるいは万象の妙技にはただただ感嘆するばかりでした.

 水族館や動物園を訪ねるときは、自分(の世界)と動物(の世界)の対比を行うことがもっぱらかと思います.自分の知識と実物を照らし合わせて違いを感じ取り、そこに感動する、思いを共有する、新たな情報を得ることが多いのではないでしょうか.水族館はそれが面白いのです.マリンスポーツをやる人は水中生物の知る力学に感動し競技への新たな着想を掴むのか、芸術家は生き物の息遣いや水と光が作り出す不可思議な空間に魅せられるのか、いずれもどうなのかはわかりませんが、私が少し考えたのは妻とのやり取りを介した以下のようなことです.

 砂場に潜って両眼だけを出しているヒラメを見て私はこう言いました.

「あのヒラメのように、平べったく砂の色とほとんど同じ色合いで景観に潜るというのは全く信じがたい技ではありませんか.ということはヒラメは砂の色と自分が砂に潜るときの体の形をよく理解している、自分が隠れたときにどのような姿になるかをおおよそ知っていて、まるで他者からの眼差しを意識して姿を発展させたかとしか思えないような造形です」

 妻は少し考えて言います.

「私は自然選択説というものを学んだことがあります」

「ほう」

「進化を説明するとき、自然環境が生物に無目的に起きる変異を選択し、進化に方向性を与えると」

「つまり、ヒラメは意識せずにあのようになったと」

「ええ、学者はそういいます、私はそう教わりました」

 妻はいつも冷静です.

「では、ヒラメの擬態と同じように、イカもタツノオトシゴが岩陰や海藻に紛れて身を隠すようになったのは、彼らの意識するところではない.しかし数ある子孫に現れた個性のうち生存に適さなかったものが、長い歴史の中で徐々に淘汰され、適したものがいつしか形質として選択される、と」「あんなに見事なのに.ナナフシの節足やハナカマキリの色彩もガの紋様は自身の体躯を客観的に認知せずにああなるだろうかねぇ」

「貴方の言いたいことはわかります、でも私はそういう知識を持っていると言ったに過ぎません」

「すごいねぇ」

 私は少し気まずくなって、妻の顔を見ずにガラス越しのヒラメと目を合わせようとしたのですが、ヒラメはじっと考え事をしているようで私にとりあってくれませんでした.

「少し喉が乾いたね、休憩しようか」「あすこのベンチがいい」「ええ」

 私達は日光が燦々と輝く外の景色を眺めながら休むことにしました.燕がヒューッと急降下して勢いよく高く揚がるのを見て、近くに巣があるんだね、帰りに見に行ってみようか、などと話をしました.蓮の花が咲き乱れ、アメンボがスイーッスイーッと水面を揺らします.実にのどかな光景に目を見張りました.ずっとこういう時間がつづくことはないと思いながらそれぞれヒラメのようにじっと考え事をしていたように思います.少し時が経って奥に進むと世界の淡水魚コーナーと称して、主に南米の熱帯に生息する巨大魚が展示されていました.いや、どちらかというと我々が見られていたのかもしれません.ピラルクーが悠々と泳ぎ、近くにはポルカドットスティングレイが張り付き、カンディルやピラニアがちょこちょこ水の中をかけっこしています.自分が水の中にいたら堪らないだろうと思いながら水中に設置されたガラスチューブを歩き、地上に上がります.外から見てルーブルの四面体のように見えたのは熱帯雨林を模した環境を保つためのガラスだったのです.鬱蒼とした森の中を歩いている気分で、なかなかおもしろいものでした.目の前にオウムのような鳥がいるのもびっくりしました.あとから知るとインコのようでしたが、妻は息が早くてあまり調子がよくなさそうだと心配していました.ほかにも何かいるかとキョロキョロしてみてもなかなか見つからないので立ち止まっていると、妻が

「ねぇちょっと、あれ」

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 2mくらいの近さでそれは大きなイグアナが日光浴をしていたではありませんか.まったく物音せずにずっと林の定位置にいたのです.あんなに近くでイグアナを見ることはなかったし、気づかなかったこともびっくりです.かといって向こうは何かこちらに気を使うわけでもなく自分のことをしていたので、あたりに漂う空気は穏やかなものでした.怖いと思う気持ちは全然なくて、なんだか昔から知っている仲間に偶然出くわしたような嬉しい気持ちがしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと.

 帰ってから妻と話したことを調べてみました.もしかしたら私がヒラメを見て言ったことはJ. Lamarck(1744-1829) の唱えた用不用説に近いのかもしれません.現在進化論の潮流は妻が教えてくれたC. Darwinによる自然選択説にあるようですが、素人ながら確かによく観察と熟考を経て得られた学説だと思います.この自然選択説は変異は自然が淘汰し、偶然が支配するサバサバした学説であって、進化の過程において生物がああしよう、こうなりたいという密かな思いを排除したものとも考えられます.私自身、もっと知らなければならないことが沢山あるのを承知で言いますが、どんな生き物でも個々なりの密やかな思いがあっていいはずだと思います.これを主体性といえば少しすっきりした言い方になりますが、各々が形態・機能変化へ向かう何らかの力動が働いている、究極的には進化へと至る推進力<精神といっていいのだろうか?>が存在しているように感じるのです.私はロマンチックな話が好きなのでこういう考え方になりますが、この世界が確率や偶然だけでできているのではあまりにつまらなくありませんか.運命がきまぐれによって決まってしまうような考えはある意味単純明快ですが、我々がみな運命の囚われになるのは惨めでしょう.何か私達にとって捉えがたい生命固有の志向性が働いているだとか、運命に抗うベクトルが備わっているような、そんなある種の不可思議な方向づけがあるとしたら、僕らはカメレオンやタコともっと寄り添っていける気がするのです.

 こんな話、うちの事務所のスタッフくらいしか聞いてくれないかと思いましたが、あとで定向進化説(Orthogenesis)やNeo-Lamarckismといった生命の内的方向性を考える学説があると知りました.私よりずっと前に似たようなことを考えている人がいると知って、自分の凡庸さに気づきつつ、共感してくれそうな人が少しでもいるのだと思うとほっとしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと思う気持ちと同じでした.