Does the scorpion venom make us dream bright side of Electric vehicle?

Venomous Expect

There are a few things I am curious about. According to the requirement of world society, the internal combustion engines are got rid of as unfit cars these days. As a way of dealing with the environmental issues, I personally think that this is owing to an unavoidable circumstance. However, what worries me is that by this situation suggest that the delight of driving a petrol-powered car may be lost forever. Would I forget the rapturous moment, when throttling an engine the tachometer jumps up high revolution and my sensation when the engine cries with joy? Would I lose memories of the excitement that car and myself accelerates together continuously?

I love the way I insert a key in dashboard and set a starter, then wakes up my partner. For me, it is a bit boring only to push a button, which is quite an easy though. This ritual of starting an engine may gradually fades away, like the sadness that coloured leaves fall from their branch, apart from some automobile manufacturer. But we take for granted that from the tree branch there sprouts young leaves. We are looking forward to see future sprouts. This time, I would like to write about a one of new leaves.

There is an automobile manufacturer in Italy called FIAT. the car maker also known for building “Cinquecento”. We also call it 500 as well. FIAT announced that they produced the brand-new 500. It is a pure electric vehicle. The design very resembles with former 500. I believe that their policy of A segment city car does not change by comparing the width and length of former one and the new one. It is a bit wider and longer than previous model. The body colours shown us were sensual deep navy, pearly shiny sky-blue and sparkling blossom of rose, etcetera. They are all my favourite colours. I am relieved to see its tender design by contrast to the modern car design of sharp gaze like front light, gigantic grill and insensitive angular shape. The new 500 remains coupé! Good-looking car is essential to our mentality. Needless to say that comfy seat, seat position easy to adjust my body are important for me, but I do not care for an ottoman, nor do I need table and television. All I want is just cupholders and battery charging equipment for smartphone, and cruise control. I think that the new 500 is matured and well sophisticated with its price. She is a chic as a whole. My taste for car fit nicely with the electrified 500 in this point of view. I fancy driving a tiny briskly nimble cars. The former one had these characteristics(I will not write about the primary 500 which is known as the car that grandson of Arsène Lupin drove in the japanese film). Cinquecento novantacinque; 595 by Abarth & C. S.p.A has been a spectacularly awesome car. I love the lowest rumbling noise like the stomach groans when drinking down a cup of cooled milk, the machine accelerates with incurable pressure of sounds. The car reminds me of the sense that makes me feel the harmony and unity when changing gears roughly, which share the same perception with us who are naturally brutal, and feels like that the machine car controls its fuel injection system with boldness.

Perhaps I cannot help thinking that the debut of new 500 suggests that Abarth will produce its high performance version of the 500 in the future. But, in order to unleash the power, the more batteries are needed. The more batteries it contains the more weight it has. The lightness gives advantage of driving performance. If it weighs too much, all the goodness of 500 would be spoiled. Internal combustion engine cannot be applied so far. How will they try to modify the vehicle? I must confess that there are a few pessimism in my mind though I am almost looking forward to see the electrified version. There is also an anxiety that my expectation will not come true. If the product will be announced and introduced to Japan, Would the driving pleasure of EV be nice as well as that of petrol vehicle? The one thing, the overwhelming acceleration due to the EV, which can be easily imagined. However, I am not sure about the lingering sensation, which I expect, when stepping on the accelerator.

The symbol of Abarth is the scorpion. Owners and enthusiasts happily speaks “I got poisoned”, The harshness of machine compares with a poison of scorpion. The venom brings us pleasant effects by revving up the rpm with low gear, or groaning sound of idling like troubled intestine. These are our honour to the glories of motorsport legend. So, we would be unhealthily detoxed if these turn to the sound of silence. Otherwise, there might be another venomous effect that is brought by electrification. Is that a new poison that makes us to think we would not need any petrol engines. If it may be true, that would be nice. Polar bears living on the thin ice would also agree with me. It is not true to say that I have no anxiety with electrified vehicle, but I am also expecting the new wave coming with new stimulant. If it is spicy as the Japanese pepper, which is pungent and lingering aroma sprouts in the spring, that must be superb.

I wish that some works which make me think to own someday will arrive in the world.

Thank you for reading so far.

サソリの毒は私達に電気自動車の夢を見せてくれるのか

サソリの毒に期待すること

 気になっていることがある.車から内燃機関が消えていくという時代の要請に従い、世界的に電動化の動きが着々と進んでいる.環境問題に対応するための手段として、私はやむを得ないことだと感じている.しかし、そこに内燃機関が持つ、自動車の官能は損なわれないのだろうか.アクセルペダルを踏み込んだときにレブカウンターが高回転を刻み、エンジンが切なく哭くときに生じる私の感興を、連続的に加速してゆく自分の躯体と興奮を、忘れてしまうことになるのだろうか.

 私は自動車の鍵を差し込んで車のスターターを動かし、エンジンを起動する過程が好きだ.ただボタンを押し込むのはちょっと味気ない.簡単でいいのだが.今後、一部のメーカーを除いて、キーを差し込む儀式もなくなってゆくだろう.色づいた葉が散ってしまうような寂しさを私は感じてしまう.しかし、枝からは再び若葉が出てくることを私達は知っている.どんな若葉が出てくるのかはこれから楽しみだ.今回はそんな若葉の話をしたい.

 FIATというイタリアの自動車会社がある.Cinquecentoという名車で知られるメーカーだ.500とも言う.そのメーカーが新たな500を発表した.電気自動車である.意匠は先代の500によく似ている.わずかに全長や全幅が広がった程度でコンパクトカーとしての思想はぶれていないと思う.発表された外装色は艷やかな濃紺と真珠のような反射の水色、そしてきらめく桜色などである.どれも好みの落ち着いた色だ.全体的に丸みを帯びた姿は、現代の角ばった骨格と鋭い眼光のようなフロントライト、巨大なフロントグリルに抗うような優しい意匠で、私は安心した.しかもクーペだ.やはり見た目は大事だ.座り心地のよい座席、運転姿勢が楽に取れる座面も大切だが、私にオットマンは不要だ.テーブルもテレビも不要だ.ドリンクホルダーと携帯電話の充電機構が備わっていれば良い.内装も幼くない.価格相応の洗練さがある.全体として瀟洒だ.そういう観点で、新型500は私の嗜好に合致していると思う.私は小さくて小気味の良い運転ができる車が好きなのだ.先代はそういう車であった(日本の映画でアルセーヌ・ルパンの孫が運転することで知られる初代500には触れない).そのチューンドカーであるAbarth社のCinquecento novantacinque; 595は特に素晴らしかった.冷たい牛乳を一気に飲んだ時に鳴る腹の音のような唸る低音、度し難い音圧とともに加速する車体.なんとなく雑に燃料を噴射しているような、粗雑なギアチェンジの感覚が元来野放な我々と知覚を共有しているような、親密さと一体感を感じさせる車であった.

 新型の500が登場したということはおそらく、そのチューニングを手掛けるAbarthが何かしらハイパワーモデルを出すのではないかと私は思っている.だが出力を出すにはバッテリーを多く積まないとならない.積むと重量が増す.車にとって軽さは武器だ.せっかくの小気味よさが損なわれてしまう.内燃機関は今後採用出来ない.では一体どのように対策を講じるのだろうか.楽しみであるとともにわずかに不安がよぎる.もしかすれば発表されないかもしれない.仮に発表されて日本に導入されたとしても、その走りは楽しいのだろうか.先に述べた官能とは異なる楽しみがあるのか.期待しても良いのだろうか.電気自動車ゆえのすさまじい加速、それは期待できそうである.しかしアクセルを踏んだ時の加速の伸びは私の期待する感覚に一致するのか.

 Abarthの象徴はサソリだ.そのサソリのもつ猛毒にたとえて、通人や所有者は「毒を浴びた」と嬉しそうに語る.その毒性は消化不良の腸蠕動音のような低音のアイドリング、低速ギアで高回転域を回すときの乾いた爆音といった効能をもたらすのである.これらは過去のモータースポーツの栄光への敬意でもある.それらが静寂に帰するとなると、人々は不健康に解毒してしまうだろう.だがもしかすれば電動化による新たな猛毒があるのかもしれない.それはどんな毒性を持つのだろうか.もう内燃機関に戻らなくてもいいと思わせる新手の毒性だろうか.だとすれば、それは実に喜ばしい.薄い氷の上で暮らすホッキョクグマにも喜ばしいかもしれぬ.不安はあるが、私は電動化の波にまじり新たな刺激も押し寄せてくることを期待している.それが春に芽を出す山椒の若葉のように、香り高くてピリリとするのであれば、なおさら素晴らしい.

 いつか事務所の車として所有したい、そう思わせるような作品が世の中に出てくることを願っている.

日々のあれこれ

茶の本について

 記事を投稿してようやく80になった.サイトの連載も少しずつ増えてきたので、伴って徐々に整理をしている.主にURLのスラッグである.それからメニューに過去連載のまとめ(記憶/物語超越・脱出現象学時間論茶の本饗宴)を設けた.ぜひ利用していただきたい.

 思った以上に「茶の本」の反響が多く、主に外国の方の訪問が多い.実に興味深いことだ.一つ、翻訳について説明をしておくと、「茶の本」の原題である「The Book of Tea」はすでに著作権が失効している.だからといって好き勝手して良いというわけではないのは知っていて、著者に敬意を払いつつ翻訳をさせてもらっているということになる.商用に使う気は毛頭なく、もし全翻訳が終わった暁には、青空文庫へのリンクを申請しようかと思っている.もちろん、翻訳に粗があるので全体を読み直して研磨するつもりだ.

アラブ文学について

 大学書林で買った「現代アラブ文学選」は、私にとって貴重なアラビア語のテキストである.現在はハリール・ジブラーンの「預言者」とアブドゥル・ラティーフ・ラアビーの「監獄の手紙」を教材にして翻訳をしながら勉強をしている.アラビア語を勉強して思うことは、アブジャドと呼ばれる子音のみによる文字表記法の普遍性である.我々のうちインターネット・ミームに明るいものは「TDN表記法」という独特の呼名法があることを知っている.これはヘブライ語やアラビア語と同じアブジャドである.この偶然の一致には恐れ入った.

中東精神医学について

 私が医学を志した理由の一つに「狂気」の理解がある.つまり「おかしい」とはどういうことか、ということである.それは精神医学という分野で説明をしようとするのが現代人の理解である.さらにそれは独仏の病理学理論が大いに下地になっていて、我が国でも有数の病理学的考察が勃興した.「ファントム空間論」はその一つである.

 私が考えているのは現代の精神医学の理論体系には西洋アメリカ、一部日本のものが大変であり、そこに中東、アフリカ、アジアが含まれていない.彼らはどのような理解をしてどのようにして精神病病理を捉えているのかは大いなる疑問である.我々と同じ理論体系なのだろうか.それとも中東なりの精神病理学があるのだろうか.

 精神病における言辞として「アッラーAllah」に関する内容、「ムハンマドMuhammad」の血統妄想などはありそうだが、こうした話題は宗教上かなりタブーなはずである.彼らは狂気をどのように取り扱うのだろうか.「ジンJinn」による憑依、とでも今更言うつもりだろうか.すぐに断罪してしまうのでは無いか.

 日本における「対人恐怖症」、朝鮮の「ファビョン火病」、東アジアの「アモックamok」、「コロkoro」の他にポルトガルでは「サンゲ・ドルミドsangue dormido」、ラテンアメリカでは「アタケ・デ・ネルビオスataque de nervious」といった文化結合症候群というものがあるのだから、中東にあっても良さそうである.

 結婚は個人恋愛というより家族、部族の政治的結婚といった印象を持つ.現代であればそれほどないのかもしれないが、結納金が絡んでくる以上、結婚には政治的な権謀術数が尽きないだろう.となれば女性の意向は無視される可能性も高そうだ.フェミニストも激おこぷんぷん丸である.一部は神経症になっても無理はなかろう.だがこれは疾患なのか.彼らはどうやって事態を躱しているのか.

 私はそうしたことを勉強してみたいと思っている.たぶんこの領域でそうした人はだれもいないはずであるか、極めて少ないはずだ.玄奘三蔵のように、私はいつか留学をして文献の理解をしてみたい.いうなれば中東精神医学史、である.

運転について

 自動車の運転をすると気分が落ち着く.考え事をするにはよい空間だと思う.背中から優しく押し出す水平六気筒MA-122型エンジンの動力.サッとキックダウン、意に答えるべく猛チャージするときの美しい音色といったら.PDKは電光の速さでシフトダウンする.コーナーは無駄なブレーキを踏まずに進入し丁寧なステアリングで素早く脱出する.車内全般ものすごく静かでは無いが、なにか優しくも堅牢な殻に包まれている感がある.居心地が良い.外観も素晴らしい.メタリック塗装の光沢はきらめきではなく、ゆったりとした淡い輝きを放つ.空模様によって鈍色になれば青ざめることもある.

 私は近年のフロントグリルが醜悪な車にどうしても親近感を持てない.グリルがでかくなり周りをクロームメッキで覆う趣向はできればみたくない.所有している人には恐縮だし、皆好きな車を買えばいいのは大賛成である.だがそれらがかっこいいという人と私は話が合わないだろう.私は曲線で構成される艷やかなボディの方が好みだ.私は最近、国内の自動車の番組を見なくなった.YouTubeもそうであるが、彼らの抱えている自己欺瞞に満ちた言動が見え透いてしまって、どうも真面目に見れなくなってしまった.じゃあ見なくていいぞ、という声があるかもしれないが、私は本当に最近見ていない.安心していただきたい.YouTubeでは最近は80sや90sのポップスを聞いている.音作り、打ち込みや歌詞の雰囲気が好きだ.あとは陳建一氏と三國清三氏の料理動画、それからクサガメの日光浴動画が多い.

実存について

 最近、亀吾郎法律事務所の三郎(さぶちゃん)が吾郎(ごろうちゃん)に発情していることを知る.お尻の匂いをクンクン嗅いだり、頭突きを食らわせている.なぜ頭突きをするか.私が知りたい.学問的理解でいえば求愛であろう.頭突きをされたメスは性交渉合意のサインを出すと、オスはメスの後方に周り、動物界の例ポージングで交尾を始める.

 さぶちゃんはいささか性急で合意形成が出来ていないのに、交尾をしようとするものだから凸が凹に入らなくて困った顔をしている.ごろうちゃんもごろうちゃんで、無頓着で全く気づく素振りがない.恋愛マンガにおける鈍感な立場だ.頭突きをされてるのだから気づいても良さそうである.頭突きを喰らいすぎて流石にキレているときもある.我々としてはさぶちゃんの恋路を応援したい.

頭突き

 もう一つの応援したい恋路は、某国の王女である.婚約者の母親に関する金銭がらみのスキャンダルが知られ、人々は結婚に反対しているとか.していないとか.少なくともメディアでは結婚に好意的でない印象を持つ.醜聞への食いつきは凄まじい.

 私が当事者であれば、溜まったものでは無い.しょーがねぇだろ好きなんだから.といった具合で、J. P. Sartre によれば実存は本質に先行するようである.好きになった理由を語る術はない.王女の家系をたどるとどうやら伝説級の血脈であるから、権威付けが高まるのだろう、それに媚びる人やそれで生きている人にとって反感を買うのかもしれない.ともかく王室、王家というのは神経症の巣窟のような気がしてならない.侍医は何というのだろうか.「姫、これは試練ですぞ」

 どうか心安らかに万事がうまくいくことを願っているばかりである.

 

お知らせ

beach water steps sand
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 こんにちは.いつも亀吾郎法律事務所をご贔屓くださりありがとうございます.

 弊事務所はブログを開設してから来月で六ヶ月目になります.投稿した記事がどれだけ閲覧されてきたか確認すべく、Google Analyticsを導入しました.そして検索キーワードを分析するためGoogle Search Consoleを始めました.さらにGoogle AdSenseを申請して、広告掲載を始めることになりました.皆さんも途中から広告があるな、とお気づきになったのではないかと思います.

 サイトの注目度を集め、より多くの人に見てもらうことで私たち事務所スタッフ一同の執筆への動機づけを高めたいと思い、Search Engine Optimisationと呼ばれる検索エンジンに対する工夫も始めることとしました.

 これらは一般的なブログの中で知られた常套手段ですから特別なことでは無いのですが、私たちにとっては見知らぬ世界であり大変新鮮味を感じています.

 何よりも大切なのは、わかりやすく見やすいサイトにすること.知識不足や技術不足でまだまだ納得できていないところは多々ありますが、少しずつ改良を重ねているつもりです.まずはこれまで煩雑だったブログタイトルを簡素なものにしました.

 そして同じシリーズ連載ものは通し番号をつけることで順序がわかるようにしました.今後も同一の規則を適用するようにしていきます.完結した連載ものは何らかの形で再び気軽に見てもらえるように、アーカイブ化を目指そうと思っています.見づらさ等、ご指摘の際は気軽にお願いします.連載ものは以下の通りです.(10月30日現在)

現象学シリーズ:「赤の現象学」に統一 (連載中)

プラトンの饗宴シリーズ:「饗宴」に統一 (完結済み)

茶の本翻訳シリーズ:「The Book of Tea」に統一 (連載中)

時間論シリーズ:「私の時間論」に統一 (完結済み)

超越・脱出シリーズ:「近年の異世界系小説にみる超越と脱出」 (完結済み) 

記憶/物語シリーズ:「記憶/物語を読んで」に統一 (連載中)

 その他記事は単発ものです.例外に大学院時代の課題がありますが試験投稿的側面が強いのでここでは紹介は割愛します.

 自分でいうのもおこがましいですが、どれも自分の記事の独自性に自信を持っています.引用は多いですが、その分、私の頭の中でしかたどり着けないであろう思考をできるだけ開示しているつもりです.翻訳も参照こそすれど、すべて私の文体です!

 もし「これやって!」という希望があれば社会通念にかんがみて快くお受けしたいと思います.もちろん、真面目な話だけでなく、私の好きなゲーム、自動車、料理、旅行の話もしたいと考えています.

 現象学は難しいので、少しずつ気長に連載していきます.焦らず、楽しく.

これからもよろしくお願いします!

*ファントム空間論の連載は都合によりしばらく見合わせます.

赤の現象学:III

 一ヶ月ぶりに現象学の話をすることになる.そしてこの記事は亀吾郎法律事務所の50回目の投稿である.当事務所の記事は徐々に一記事あたりの字数が5000字を超えるようになり、原稿用紙12枚に相当する.そう考えると読者はゲンナリするかもしれないが、亀吾郎法律事務所はいつでも開かれているので、読む気になったときにまた立ち寄っていただければと思う.

 さて、前回前々回はFerrari F40の真偽の話から始め、コーヒーやワキガ、サウナの例え話をして、内在ー超越の理解に努めようとした.しかし、E. Husserl自身の思索が進むにつれ、内在ー超越の議論は深みに分け入ってゆく.理解を難しくするのは、内在における「実在的内在」、「構成的内在」の用語にあることを述べた.それから私自身、さらなる理解に努めた.参考書を買って読むこともした.原書の翻訳文を読むよりも腑に落ちる感覚は数倍早い.その参考書の著者はある大学の政治経済学部を卒業したと書いてあるが、肩書は別大学の国際学部教授を経て、さらに他大学の国際教養学部教授となり、哲学者を名乗っている.よほど哲学が好きだったのだろう.出た大学とその人物評価が一致しない好例かもしれない.どこの大学の何の学部を出たかというのはあまり気にしなくても良い.問題は何をしているかだ.かくいう私は何もしていないが.その人の著書は本屋でよく見かけ、哲学のコーナーによく居座っている.そんな無類の求道者が書いているのだから、入門には良いかな、と思って買った次第だ.もし気になる方がいらっしゃればお問い合わせください.竹田青嗣という方で、氏の名前は妻から教わった.妻の教養と優しさは底知らずである.いつもにこにこしながら私はあまり良くわからないから、と謙遜する.一生ついていきます!

 本題に戻る.まずは構成的内在からだ.参考書によれば、こうしたHusserlの理解には「確信」という言葉を補うことで理解が明快になるという.「確信」という言葉は我々医療者の中で、精神医学を主とする業者はビビッと来る(来ないかな?)我々が要請に応じて面接する方々は話題が現実と異なろうと、各々「確信」に基づいて話をすることがあるからである.これを専門的に「妄想」ということがあるが、それについては触れない.病的な確信形成とだけ言及してみる.何を以てして病的なのか、という問に触れないと私の気がすまないからである.加えて言えば、何を以てして、という部分が精神病理学の根幹に迫る問題を抱えているからである.

もし氏の言うように「確信」が現象学の理解の一助となり、学問そのものの本質を突くのであれば、これは勉強しないわけにはいかない.精神医学の学会誌などでも未だに現象学を素地とした議論が活発になされていることも納得がいく.

 前回の記事を再掲する.

例えば、貴方がまたもやコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されている老朽したコーヒーメーカーで作られた酷いコーヒーを性懲りもなく飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとって選択はこれしかない.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、実はコーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る暗褐色の液体.カスのようなものが浮いている.暗褐色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、暗褐色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.

 前回はここで、ん?となった.これを次のように捉え直す.「超越」というのは「内在」において構成される「大災害級のコーヒー」だという意識を、単に意識ではなく、「厄災に等しいコーヒー」だという確信の意識と定義する.(一体どれだけ不味いんだろう、そのコーヒーは)

 確信を持ち込むことで、世界の構成のありようを観取するということは、私達が「内在」において如何にして「対象の確信像」を構成するか、これを解明することである.すなわち、「確信成立の条件」を解明することといえる.

 一切の認識は「内在」において構成される確信である.これは疑いようがない.自分の意識にそういう対象が与えられているという確信.確信不可疑.だからといってもそれが、実在するものに一致するとは限らない.だから上司に次のように釘を刺される.

 「いいかね、君がいつもまずいまずいと言っている液体だが、あれは一応、社の費用で贔屓の珈琲店から仕入れている歴としたブレンドコーヒーなんだ、私も社長も旨いと思って仕入れているんだ.君はそうやっていつも嫌味をいうが、何か他に言いたいことがあるのか.仕事でもそんなこと言ったら承知しないからな」

 自分がどんなに壊滅的な味だと思っていても、実在に一致するとは限らない.周りがどんなに美味しいとありがたく感じていても、自分にとっては、暗褐色の液体のおぞましさを「信憑せざるを得ない」悲劇である.しかし、「主観にとって、対象の実在が不可疑なものとして現れる」という「確信条件」を抽出することができるかもしれない.豆からコーヒーを抽出するのではなく.「確信成立の条件」の鍵はここからはじまる.

 貴方が目の前に映る、特異な深紅の自動車を見たとする.歩道でちらっと見えただけなのでじっくり見て回ることはできない.しかし、我々の内在意識には、ありありとした「2座席ミッドシップレイアウト」や「甲高い音を放つV型8気筒エンジン」、「彫刻の如く削り出されたような吸気孔」「跳ね馬の紋章」などという構造をもった像が与えられるならば、我々はそれをFerrariなのではないか、と感じ、その知覚像を、現実に存在する像と信じざるを得ない

Ferrari 488 GTBと知覚される像を、右から左へと駆けてゆく姿を認めたと仮定する.

 さらに、駆体が走り過ぎる姿を見るとき、可視範囲は次々と連続的に変わる.見える姿は当たり前だが変わっていく.部分部分を徐々に、次々と新しい局面を以て対象性を保ちながら知覚する像を与えられる.側面から後面へと.こうも知覚してしまうと(というのも変だが)一定の条件を与えられると、「信憑せざるを得ない」ことがわかっていただけると思う.もちろん、いくら信憑せざるを得ないとは言っても、実際に駆体が実在に一致することはありえない.確信に過ぎないのだから.それにずるい言い方だが、488GTBだと思ったら実は488 Pistaかもしれないし、F8 Tributoあるいは SF90 Stradaleかもしれない.以上は、「確信成立の条件」の解明の序章である.これは、「私」が対象を客観事物と信じる条件=主観的確信の条件解明に過ぎない.

 次は私だけでなく、ほかの人も、通り過ぎる車体が488GTBだと信憑する条件を解明しないとならない.もう少し、仰々しく言うと、「他者もその対象を客観存在と信憑している、と私が確信すること」である.これを用語に換言すると「間主観的確信」の条件である.

 こうした考え方をすると、「超越」という強力な「確信」がなぜ成立するのかわかるようになってくると、Husserlはそういう.へぇ……すごいっすね……

 過去の記事を踏まえて話を続ける.一般的に、「どんな学問でも、それ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのではなかろうか」という考えがある.つまり、どんな学問でも客観存在=認識が成り立つという図式を目指すことで、認識問題を解明できるだろうという考えだ.少なくとも自然科学は客観存在=認識を前提として議論をしている.人文科学ではそうは行かない.いわんや哲学でもだ.何もかも役に立たない.以前もこの話をした.私達が議論してきた話題のうち、「意識」する領域というのは、「万物流転」panta rhei的な領域であると言う.そこはあくまでも、主観的、間主観的な領域なのだから、結局「主観的妥当性」しか得られないのではという疑問が生じる.よって、この領域において妥当な学問的判断がいかに獲得されるのかという問題も生じる.

 考え方をつぎのように変えるのが理解のコツらしい.

 「知覚がどのようにして超越者に的中しうるか」ではなく、「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」をまず考える.主ー客の図式をやめようというわけだ.「絶対所与性」とは内在意識の中で確認される個別的な直観だけなのか.「知覚」「想起」「想像」の直観だけが「絶対所与性」なのだろうか.そういうわけではない.繰り返しで恐縮だが「内在意識」の内省によって、個別的な直観だけでなく、さまざまな「意味」のありよう、「普遍性」も絶対的所与として与えられている.上記の写真を例に考えると、Ferrariの車体の「知覚」を内省して、その特質を捉え、それを判断し命題化する.「あれは一台のFerrari 488 GTBが走っている姿だ」と.命題は「○○は○○である」ように一つの論理形式をとる.もちろんそこには「意味性」(普遍性)を観取するが、個別な意識作用から「超えたもの」でもある.一種の超越たる所以はここにあるようだ.普遍性故に超越の性格を持つものの、構成的内在はやはり絶対所与性である.理由はすぐに後述する.

 「現象学の理念」において、Husserlは「構成的内在」を「志向的内在」ということもある.うわ、めんどくさいな……

 どんな認識体験でも、「志向的対象」を持っている.仮に貴方が、誰かに唆されて高級輸入車を取り扱う車屋さんを訪れたとする(無茶な設定だ).オーデコロンを塗りたくりピチピチのスーツを着た従業員が、こちらの車は素敵ですよ、などと適当なことを言い出す.貴方は下の図のように何台かの車を見ている.赤というのは色に関する個的な知覚であるが、「少し朱色に近いのがRosso Corsaという色です」「鮮やかな発色がRosso Scuderiaです」という説明を受けると、貴方は「ふーん」と思いつつ、これらは兎にも角にも赤だよなという意識が伴ってくる.これは構成的内在である.普遍的意味を持つからだ.さて貴方は二台の車を見て、二台の塗装色の差異に気づくが、これらが、Rosso Scuderiaだの、Rosso Corsaだろうと、そんなことはともかく、「」である.セールスの紹介にこだわらず、「赤」という一般的・普遍的なものに還元する.なぜこれが絶対的所与性なのか.

Rosso Scuderia
Rosso Corsa

 確かにセールスに言われてみれば、色は違うなぁ、でもどっちも赤だよね.という直観が働く(はず).二者は違うが類似していると、直観するのである.これは、類似本質の直観である.この認識は実的な要素とは言えないものの、直観した「ピピッときた!」のであれば「絶対に与えられている」というしかない.くどいようだが、これらの車の客観的実在に関して言えば、どこまでも疑わしさを持つ.実は偽物だった、とか、光の具合でそう見えてしまっているだけかもしれないからとか、夢オチという酷い結末もありうる.だが、これまたくどいが、「内在」の直観として考えれば、これは不可疑なのである.

 では、志向的内在は何なのか、といえば、Husserlの著書には、次のようにある.個的な知覚(赤、V8のエンジン音、跳ね馬の紋章など)にともなって現れる対象の全体像を示す.「これはFerrari 488GTBだ!」というときの「Ferrari 488GTB」が志向的な「対象性」であるという.志向的対象性は動かし難く意識に与えられる点で、絶対的所与性である.現象学において、「実的内在」を経て「志向的内在」に至る関係構造が重要となってくる.

 上記に述べたような方法は現象学的「本質分析」である.認識探求の本質学として現象学はある.意識の本質構造の観取をイデアツィオン(イデア化)とHusserlは呼んだ.

 さて、肝心なことは「絶対的所与性」がどこまで及ぶのか、ということである.実的内在だけでなく、構成的内在も絶対的所与性に入ることは確認できた.それで十分か、といわれればそうではない.ひえっ.例えば、コーヒーに関連して、①「暗褐色」を知覚する場合(知覚作用)もあれば、②知覚せず「暗褐色」について論じているだけの場合(表象)、③自分の暗褐色の知覚直観について口述する場合(陳述)、④さらに直観のあり方の特質を本質的に観取して把握することもできる(イデアツィオン).

①給湯室で淹れたコーヒーを見たときに、「うわぁ暗褐色だ…」と知覚するときの暗褐色

②コーヒーを見なくとも、会話で職場の話題が出たときにふと、思い浮かべてしまうときの暗褐色

③自分にとっての暗褐色とは、どういう知覚体験であるかということを帰宅してから妻に説明する(聞かされる方はたまったものではない)

④毎晩就寝時に独り暗褐色についてひたすら内省し、ついにイデアツィオンしてしまう

 どれも酷だが、意識対象は暗褐色である.同じ対象であっても異なった所与性がある.必ずしも所与性の例は四つだけではない.我々に明証的な所与性として現れる対象は無数にあるだろう.所与性の違いが、経験において、普通の知覚体験なのか、表象なのか、陳述なのか、知覚一般の本質把握なのかという区別を我々に示す.私達はこれらを難なく区別している.だからこそ我々は現実でなんとかやっている.私達はこれら区別の仕方を言葉にして説明するのはかなり難しいが、自分自身に確かに与えられているという揺るぎない感覚において確信し(内的根拠)、区別できているのだという.

だが、もしこれが何らかの機能障碍によって所与性の内的根拠が失われたり、機能失調に陥るとすれば、我々が言うところの精神疾患に当てはまるかもしれない.繰り返しになるが確信形成の条件を解明するというのは、必ずしも哲学の領域だけで有用なのではなく、精神医学の一部の領域(精神病理学)においても有用なのだ.

 さて、「内在」ー「超越」という図式の理解があれば、「客観存在」とは実は内在において形成された「対象確信」であったと気づく.もはや主ー客の図式は不要だ.「確信」として我々に所与されるのは「内在」における所与性に応じた「志向性対象」として構成されるからである.所与性のありようによって、「対象確信」の像が作られる.Husserlはなんとかして、「確信」の根拠として「絶対的所与性」の概念を規定しようとしてきた.「絶対的所与性」が厳密な認識の基礎というわけでもないことがわかってきた.認識が妥当なものであるか、すなわち、普遍的な認識と呼べるには、どのような条件があれば良いのか、それを解明することが要諦である.

 まだもう少し続きます.おそらく次回で最終回になると思われます.次回は間主観的な確信条件について.

 50回を記念し、ここで改めてお礼申し上げます.いつも読んでくださりありがとうございます.主な読者は日本の方ですが、米英仏独豪伊露中といった海外の訪問もちらほらいらっしゃって嬉しく思います.岡倉天心効果は間違いなくあるはず.日本語だけでなく多言語で亀吾郎法律事務所の理念を紹介できればと思っています.

今後ともご贔屓いただけますよう、よろしくお願い申し上げます.

赤の現象学:I

図1
図2

 上の2つの画像をご覧いただきたい.見る人によって感想がきっと違うと思う.「赤い車だな」と感じるのはきっと共通した意見だろうがそれ以上はどうだろうか.「変な顔だ」「俺はあまり好きではない」「やっぱすげえなぁ」「俺実物で見たことあるよ」「昔乗ってましたね」なんて意見があるかもしれない.「もしかしてFerrari?」「そんなことより今日も暑いね〜!!」

 すでに気づいた方もいるかもしれない.上のうち二つは同じ車ではない.どちらかがどちらかを模したものである.そう言われれば「あぁそういうことか」と理解した人もいると思う.一体何のことを言っているのかさっぱりだという方は安心していただきたい.わざとわからないようにしたのであり、わかる方はほとんどいないはずだから.

 この二者を提示して何を言いたいのか.以前の記事で予告した伏線を回収するために今回特集を組んだ.それでも何を言っているのかわからないぞ、という方.ご辛抱いただきたい.この記事は事前の知識がなくても問題ないように作っているつもりなので.

 図1、図2のどちらかは、Ferrari F40と呼ばれるFerrari社が製作した自動車のレプリカの写真である.

「へぇ、そうなんだぁ」という声が聞こえてきそうだ.「ふむふむ、やっぱりそうだったんだね」という洞察に長けた方もいらっしゃるかもしれない.だが、もし違いに気づいた方がいれば、何をもって違うといえるのだろうか.

「ほら、フロントバンパーの形状が違うじゃない、図1は薄いけど図2は厚みがある」

確かにそうかもしれない.でも気の所為かもしれない.

「そんなこと言われたら自信ないよ、ずるいって」

 そういうご意見は真っ当なものだ.まぁ写真だけじゃなくて他にも色々な角度から吟味した方が良いだろう.だがこのブログの性質上、平面以上のことはできない.悪しからず.

 さて、自分の見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうものといったものは人にとってかけがえのない感覚で、それらを頼りに私達は生活している.「この魚、鮮度がよさそうだからこれにしよう」と考えてスーパーマーケットで買い物をするし、「以前にしまっておいた煮物、なんだか酸っぱいな、傷んじゃったのかな」と味見をする.

 オンラインで買い物をするときもレビューをよく見て、「なんだか良さそうだからこれにしよう」と考えて決めることも往々にしてよくあることだろう.失敗することもしばしばだが.人々は皆自分の感じたことをもとに判断を下して、意見を述べたり記録する.そうした判断、実践の積み重ねが学問、芸術、文化となっていつしか手の届かない領域まで延長され、広がってゆく.

 「あの先生はあぁ言っていたけれど、私は違うように思う.私はこうだと思うから、私の考えを広めたい」

という人がいたとする.その人は研究者の中でも若手の気鋭であるが、師事する先生の考えはどうしても相容れなかった.新しい学派を興してこれを主流にしようとする.新学派と旧学派が生まれる.

 「どちらとも何をいっているんだ、論点がガバガバじゃないか」という勢力も出てくる.論壇は混迷を極める.徐々に複数の学派が対立して、主流派なぞは存在しなくなり、終いには「かめはめ派」や「唐紅に水くくると派」といった泡沫学派が誕生する.(一体何の学問だろう?)

 このような事態が生じるのはなぜか、という問に対してある哲学者は「主観」―「客観」の不一致が生じるからだ、と言う.自分が思っていることと、世の中で知れまわっていることは一致しないという.そうかも.結局のところ、自分は主観であって、客観になりえない.「客観的に見て」という言い方も畢竟するに主観的な物言いである.

 そういう意見もあるけど、光の速さって誰から見ても一緒じゃない?長さだって、メートル原器があるし、そもそも定規とか巻き尺があるから長さは皆から見ても一緒ですよね.温度も同じことが言えますよね.単位は違っても換算すれば結局同じ話じゃないですか、貴方何がいいたいんですか?

 という辛辣なご意見もいただくに違いない.仰る通りで、光速、温度などは高度な内容を追求しない限りは自明な基本概念や単位と考えられている.しかし、それはすでに「主観」―「客観」を一致したとみなして議論を進めているのではないか?あたかも当然の如く、光の速さは均一だとか数学・物理学の議論が自明性を帯びているからだとされているからでは?私は光速の絶対性や数学の学問の正しさを学術的に論じることはできない.だがおそらく多くの人々は、ごく自然に1+1が2であることを経験的に理解する.自然現象を観察し、帰納的に導くことで公理や法則を発見する.こういった自然科学において、「主観」―「客観」の一致は暗黙に認められている.認めないわけにはいかない.でないと学問が瓦解してしまう.

 ところが、人文科学においてはそうは問屋が卸さない.先程述べた事例があちこちで生じている.例えば心理学はFreud派もいればJung派もいる.Adler派、Klein派……きりがない.政治学においてもイデオロギー対立は生じたままであるし、歴史を巡って、異なる学派はいつも喧嘩ばかりしている.学問を超えてインターネット掲示板でもツイッターでも激しいレスバトルが繰り広げられる.認知科学と称して心の動きを調べる研究があるじゃないかという指摘はあるかもしれない.しかし、それは心という機能が存在するという事前の了解に基づいた研究であり、実証的科学の域を出ない.認識の根本の可能性に迫ってはいない.なぜこんなことになっているのか.

 それはE. Husserlの言葉を借りると近代哲学以来の「認識問題」における謎、すなわち「主観」ー「客観」が一致しない謎が解明されないからだという.またHusserlかぁ…… ほんと亀吾郎法律事務所はHusserlばっかりだなぁ……

 「えっ、じゃあ解明されたら、そのごちゃごちゃした学説や学派は一つのなるのかな」という問に対する答えは今のところない.解明されていないのに解明してからのことを考えるのはちょっと気が早い.でもなんとか、その謎を解き明かしてみようとする努力はなされてきた.

 「認識問題に関する謎」つまりそれは「『主観』―『客観』は決して一致しない」という哲学的原理(以下、「主客不一致」)から出発するが、その解明の試みはR. Descartes, I. Kant, D. Humeらが挑んできたという.結局のところ彼らの意見では主客は一致しないという結論になっている.その後の流れは一度割愛する.

 一方、数学的妥当性など自然科学の分野で主客は一致していることが自明となっている.客観的な認識、妥当な認識によって人類は月面に着陸し、音速を超え、インターネットで世界をつないだわけだ.謎が明らかではないのに、我々は主客一致を前提とした自然科学の確からしさを知っている.なぜだろうか.これをHusserlは次のように問いかけた.

 事象そのものを的確に捉える認識の可能性に反省を巡らすとき、我々を悩ます様々な難題.例えば、それ自体として存在する事象と認識との一致はいかにして確信されるのか.認識はいかにして事象そのものに「的中する」のか.

 主客不一致が真であれば、そもそもなぜ「客観認識」というものが可能なのか(なぜ「的中」しうるのか).いや、じつは不可能なのか.自然科学でなされる主客一致が、なぜ人文科学でなし得ないのか.それはつまり、「認識」の本質とは何か、ということになってくる.

 Husserlによると、この謎を解く手がかりが一つだけある.認識の本質を紐解く方法論が現象学である.

 その方法を現象学的還元(Phänomenologische Reduktion)という.おお〜なんだかかっこいいじゃん.

 問題を解決するためには、「主観」という「客観」対立概念を一度棄てる.その代わりに別の図式で考えてみる.「内在(immanenz)」―「超越(tranzendeniuz)」という関係で.    

ん?

 まず「内在」は現象学的にいうと(Husserlの考えに基づいていうと)、内省によって捉えられる「意識」のありようをいう.誰でも、自分の知覚体験がどんな具合かは内省して見て取れる(知覚を知覚できる).ダジャレで言うと、「おしっこが近くなったことを『尿意』と知覚する」.「内在」は決して「心」だとか心理学的な用語ではない.「心の中」にあるものが内在で、それ以外を「超越」と考えるのはいけない.心理学は哲学ではない.まったく違う.

 「おしっこに行きたくなる感覚は自分だけに与えられた感覚であるから、これは自分にとって申し分なく全くの疑わしさなく、『尿意』である」

 あるいは、

 「あの物体が『Ferrari F40だ』という感覚は自分にとって疑いのないものである、この感覚は誰がなんと言おうと不可侵である」そういった感じだろう.たぶん現象学をおしっことFerrariで例えたのは私だけか.

 さて、内在という概念がものすごくピュアなものであることを説明したところで、Husserlおじさんの話をよく聞いてみる.「内在」は「実的内在」と「明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」にはっきり分かれるんだね、という.この区別が大事なのだとHusserlは言うのだ.

 まず「実的内在」とはなんぞや.これは「どう考えても、どうあがいても誰にとっても現に疑いようのない方法で自らを与えているもの」(=絶対的所与性)を言う.

 つまり、図1、図2を見て、「赤い」「角張っている」「車輪があるな」といった知覚、想起、想像などの「個別な直観」をいう.要はパーツである.要素と言っても良さそうだ.

「いやいや、どう見ても緑ですよ!いやーなんといってもこの球体はすばらしいなぁ!!」ということにはならないから、やはり認識における「決して誰も疑えない契機(要素)」である.

 もう一つは明証的に構成された内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」.これは長すぎるので「構成的内在」と呼ぶ人が多い.それは何か.

 それは実的内在を受けて構成された「対象的意味」をいう.例を述べる.

 図1、図2を見て、こう洞察する.「赤くて角張っていて、車輪があって……ワイド&ローなボディに大きなリアウィング.抑揚のないボディで2ドアだろうから、これはクーペボディか.エアインテークがドア後方にあるからミッドシップレイアウトだな.スポーツカーかレーシングカーかな.少しタレ目のようなヘッドライト、その後ろに格納されたハイビームのリトラクタブルライト、サイドミラーがあるから公道走行できるんだろう.じゃあナンバーが取得できるスポーツカーだな.ボンネットの前方にわずかに見えるロゴはおそらく跳ね馬の紋章だ、とすればFerrari F40だろうか」といった具合だ.

 Husserlの言わんとすることは、ある知覚体験を持つとき、「内在」には必ずこの2つの要素の「所与性」が存在するが、これら二つはどちらも絶対の絶対に絶対に疑えない契機(要素)であるということ.二つとも明証的な所与性である(この明証性が病的に破綻した場合はおそらく精神病圏へ足を踏み入れるのだろう).

 では、超越とはなんだろうか.念の為申し上げておくと、これまで拙作のブログ記事を読んでくださった方は超越を混同してしまうかもしれない.ここで出てくる超越は全く別の使い方をする.哲学における超越は結構重要な用語なので誤解して欲しくない.

 「内在」は絶対に疑えない要素、「超越」は反対に、必ず「疑わしさ(可疑性)」を持つ.また、例を出そう.

 図1、図2を見て「これらはFerrari F40だ」と思ったとする.これを「内在」―「超越」で考える.「これらはFerrari F40だ」という認識は実は「超越」的な認識である.

 なぜか.実はどちらもFerrariではなくてPontiac社のFieroかもしれないからだ.Pontiac FieroはFerrari F40のレプリカベースでよく知られている.失礼な言い方をすると劣化レプリカである.もしかすれば車ではなくて、精巧に作られたハリボテかもしれない.実在性がわずかでも疑わしいもの(可疑的であるもの)は皆「超越」といわれる.すべての超越的認識は可疑性をもつ.この点に関してHusserlおじさんはしつこい.

 あれ?さっきF40の説明の件で構成的内在って言ってなかったっけ?ごちゃごちゃしてくる方がいるかもしれない.しっかり言っておくと、F40の実在性に関しては可疑的なのだということだが、図を見て「これらはFerrari F40だ」と思う意識体験自体は、決して疑いようのないものだということだ.わからない?大丈夫.まだ話は終わっていないから.

 車の写真を見せられたと思ったらいつのまにか哲学の話になっていた、と思った方がいらっしゃればそれは筆者冥利に尽きる.この話はもう少し連載するので興味を持ってくださったらとても嬉しい.ご期待いただければ幸いである.

ここまで読んでくださってありがとうございます.

 

 

 

黄昏ミッドシップ

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 晴れた夏の日の夕暮れになると、決まって雨が降る.遠くから雷雲が見えてあたりが急に暗くなる.こもった低音が鳴り響いて、陽光を覆い隠すと、薄暗い灰色の空からポタポタと雫がこぼれ落ちてきて、途端に止めどなくすべての空間を雨が隙間なく敷き詰めてしまう.細い稲光が少し現れて、いつ音が鳴るか、待ち構える.だれもが知っている夕立.日中の熱を溜め込んだアスファルトから湿気がムンムンと漏れ出して独特の臭いを感じる.早く帰りたいな.これから帰ろうと思っていたのに.傘がないな、困ったな.あそこに雷が落ちたんじゃないか、うちは大丈夫だろうか.止むまでちょっと待っておこうかしら、そんな考えが飛び交いそうな日が多くなった.

 私は職場へ少し忘れ物を取りに事務所の社用車で外出していたのだが、それを取って家に帰る途中だった.盆の半ばで幹線道路は少し空いていたあの日だった.遠くの空が危ない色を放っていて今にも降り出しそうな、いや、まだ大丈夫そうだろうと逡巡.すると、ボタッとフロントガラスに一滴、二滴.すぐに数え切れなくなって、ワイパーを動かす.それでも視界が確保しづらくてやや焦る.速度を落とす.未だに豪雨の時に車のワイパーの動く間隔を二番目にすべきか三番目にすべきか悩んでいる.ちょうど良さというのは難しいものだと思う.雨の日はいつも考え事が多くなる.それはいいことなのかもしれない.

 雨音はいつしか途切れない連続音となってザーッザーッと、それ以上に水が無秩序に跳ねる音を奏でる.後ろから聞こえるエンジンの音だけではなくて、タイヤが路面の水をかき分ける音.前の車が巻き上げる水しぶき.様々な情報が雨になると一気に押し寄せてくる.

 ボツボツと音がするのは屋根に伝わる雨音だ.私は番傘を差したことがないからわからないが、布製の屋根に音するのは番傘に響く雨だと風雅なことを言う人が自動車業界でいたそうだ.洋傘でも似た音をするだろうから私は一般的な傘、ということにしておくが、確かに傘を打つ水の雫は、こういう音をする.私は事務所の車を贔屓しているからかもしれないが、いい音だと思っている.ハードトップの屋根にはない音をする.少し前時代的というか、旧世代というのだろうか.そんな考えが思い浮かぶ.どうか誤解しないでいただきたいが、前時代的という言葉に悪意は毛頭ない.もともと車には屋根がなかったのだから.

 ソフトトップ、つまり布製の屋根の車はめっきり数がなくなっているのか、と思えば実はそこまでではない.自動車メーカーのサイトを見れば幌付きの車を売っているところはある.マツダはその好例だろうし、マツダ・ロードスターは路上でよく見かける.本田技研工業のホンダ・S660もよくよく見かける.かつて販売されていたS2000もホンダ・ビートも幌がついていたし、今もちょいちょい走っている.日産自動車のZ34ロードスターも稀に認める.もしかすれば外国車の方が幌付きの車と聞いて思い浮かべる人は多いかもしれない.英国だとRoadster, Drophead Coupe, 独仏ではCabriolet. 米国ならConvertibleといった表現で形容されると思う.どれも私からすればワクワクする言葉である.もちろん、屋根の開放を可能にする用語はいくつもあるのは承知している.しかしそれの詳説は本旨から逸れるので割愛する.

 幌型の屋根しかり、可動式屋根の車はどうも気取った奴が乗る印象を持たれている気がする.私だけだろうか.「いや、別にそんなことは気にもかけていませんでした」とか、「あぁ、そうなんですねぇ」という方は多分車には興味があまりない方なのかもしれない.寛容な方とお見受けする.それはそれで別の物事に関心を持たれているに違いないので千差万別あってとてもいいと思う.

 鼻息荒げて、「そんなことは決してないのだ!!諸君、聞き給え」とか、「そうだそうだ、どいつもこいつもみんな気取った奴だ、けしからん!プロレタリアートの敵め!」と思う方はどうか落ち着いていただきたい.反対する人は、二輪車の意見も聞かねばなるまい.二輪車こそ人間が風を受ける乗り物だが、それはプロレタリアだけの乗り物ではないのはご承知だろう.決しては私は熱狂的なファンではないし、かといって反対派を徹底的に論駁するつもりはない.そんなことで記事を書くのではない.どちらかといえば、私は所有する側だから擁護する立場になるのだが、幌付きの車は色々なことを気づかせてくれるのだと述べたい.それに気取ってもいないし、たまには気取ってもよいのでは.

 屋根を空けると、もちろん風が入ってくる.熱い風.冷たい風.心地よい風もあれば、堆肥の芳しい風も運んでくる.煙の臭いがすれば、あぁあそこでなにかを燃しているのかなと思いを巡らせ、牛糞の臭いがするとここには一次産業の営みがあるのだなと気づく.「ここは臭いね」と苦笑いをして隣の乗員と語らう.草花の香りに気づくことはもちろんだ.「この辺はもう花が咲いたんだねぇ」周囲の情景により一層近づいていくことができる.車の名前に風を由来とするものが多いのは偶然ではないはず.アクセルペダルを踏めばクランクシャフトの回転が高まり、車の息遣いもわかる.タイヤが路面を掴む感触がグッとわかりやすくなる.SUVの流行る今ならば、雪道を屋根を開けて走る面白さがあるのだろう.マフラーから鳴る排気音は屋根がしまったときに聞こえるものより生き生きしている.電話越しに聞く恋人の声よりも実際に会って聞く声の方が嬉しいのと似ている.情報量ははるかに多くなる.周りの車の音も聞こえるから注意は一層しやすくなる.車は鋼鉄の工業製品だが、それに生命の躍動を見出すような情動を私は感じる.「車に恋い焦がれるつもりか、この変態め!」という辛辣な御仁もいるかもしれない.しかしだ.陶器の置物に心を奪われたり、画材を塗りたくった平面を、これは芸術だ!というのと原則は同じだと私は思っている.

 車の動きに心を寄せて、狙った角度に操舵しスロットルを緩める、また正中に戻して踏み込む.単純な一連の動作だが奥深く、実は難しくて楽しい.これはどんな車でも言えることなので野暮な表現だが、幌のついた車はいわゆる「スポーツ」性が高め、つまり運動性能が高い部類であったり、余計な装備を省いているものが多いから(賛否あるかもしれない)、心身一如を実感できる.雨が降っても、一部の車を除けば大抵、すぐに屋根はしまうことができる.だから走行中びしょ濡れなんてことはあまりないし、雨漏れはまったくないものだと思って良いのではないか.幌の手入れが大変じゃないかと気にする方もいるかもしれない.販売店で詳しい話を聞けるはずだ.特に難しいことはない.メーカーが大衆に面倒なことを課すわけなかろう、と私は思っている.実際に私は水で汚れを落として細かい汚れを個別に除くだけで、何もしていない.特別気を揉む必要はないだろう.他の車と同じように愛情をもって接すれればよいのだから.

 「幌なんて、無駄無駄.贅沢品じゃない、屋根があったって走るじゃないの.むしろ荷物が詰める場所はなくなるし、かえって不便でしかないでしょ!」よくご存知ですね.確かに収納力は劣るかもしれない.それは逃れられぬ業かもしれぬ.しかし弁護する立場でいえばほとんどのメーカーは積載力と幌の収納機構を両立させようと苦心してきた.そして美観を損ねることなく両立に成功した車は存在する.エンジン搭載位置を前後タイヤ軸の間かつ、座席後方にするMid-ship(ミッドシップ)であれば前方と後方に積載箇所を設けることができる.とはいっても通常のフロントエンジンのセダンやステーションワゴンにはかなわない.エンジンを前方に配置しつつ幌のある車も輸入車には特に多い.結局積載力は犠牲になってしまうが、それを上回る特異な官能は言葉に尽くせないと思う.きっと賛同してくださる方がいると思う.

 もしそれでも無駄だ、と思う方はまぁそれでもいいかもしれない.そういう方もいらして良いと思う.だが、無駄だという価値判断は結局のところ主観的なものであり、曖昧なものにすぎないと私は思う.無駄をどのように定義するかはその人次第であろう.だからあらゆる反論はこちらが公序良俗を犯さない限り、雲散霧消にして消え失せてしまうであろう.動物を飼っている人にとって彼らは愛する家族であるが、嫌いな人にとっては憎むべき対象かもしれぬ.写真が好きな人は撮影装置に愛着をもち、被写体にも思いを寄せる.現像した写真を額縁に入れて満悦するのは無駄だろうか.骨董品だって人によっては遺物でしかないが、それが考古学的に芸術的に価値があろうとなかろうと最終的に価値を決めるのはそれを愛するものだろう.

 したがって、私は幌付きの車でいいと思っている.北海道を一週間くらい旅したときの感想を記事にしたことがあるのでよければご覧になっていただければと思う.

 私は以上のことを考えながら帰路に就いた.雨の日は、こんなことばかり考えながら運転している.いつの間にか雨はやんで、私は家の前の玄関にいた.その日の夕飯は何だったろうか.唐揚げだったかな.

 

談話異聞録

Hegelを読む所長.

 以下は亀吾郎法律事務所の職員である吾郎と三郎の雑談.

三郎「吾郎ちゃん、ついに超越と脱出の話を書き終えたねぇ、大変だったねぇ」

吾郎「うむ、大変だつたな.話をどのように纏めるかが難しくてな.さぶちやんには随分助けてもらつた.ありがたう」

三郎「まだ自分で問題提起するシリーズは終わってないけどね.あれはどうなるのさ」

吾郎「勿論、構想を大いに練つてゐるところだ.もう少し自分の中で知識を受肉せねばなるまい」

三郎「どういう展開になるかちょっとだけ教えてよ」

吾郎「無論いいだろう.実は木村敏の考え方を御紹介するつもりだ.時間についての彼の洞察は見事と言わざるを得まい」

三郎「そんなにすごいのかぁ、楽しみだねぇ.そういえば事務所の掃除夫のことなんだけど」

吾郎「いつも吾輩の口述を文章化して投稿してくれる奴のことか.他にも彼奴は賃料を払う、税金を払つたり、人間界と折り合いをつけてくれるな.納付額を見て具合を悪くしたようで大丈夫なのか.いつも掃除は雑だが、甲羅磨きが上手くなつてきた.彼奴がどうかしたか、最近独逸製の合成食に飽きてきたと伝えてくれ」

三郎「段々読者の皆さんが増えてきて嬉しいって言ってたよ、僕もテトラレプトミンは飽きてきたよ.でも吾郎ちゃん、鶏むね肉とかお刺身の血合いのところ食べすぎて具合悪くなったことあったでしょ.掃除夫の奥さんが心配してるから駄目だよ、また入院したら大変だよ」

吾郎「ぐぬぬ.あれより上等なものが市販化されているではないか」

三郎「レプトミンスーパーのこと?あれ美味しいよね.エビの香りがしてさぁ.あれ食べるともとのレプトミンには戻れないよ、でも掃除夫は値段が高いから渋ってるんだって」

吾郎「そうか.だが彼奴等はこの前伊太利亜料理店に行つてStrangozziやTagliatelleなるパスタを鱈腹食べたと聞いたぞ、妻の方は仔羊の炙り肉を注文したそうだし、掃除夫は偉そうに豚肉の網焼き肉を食べて『この豚は間違いなく徳の高い豚だ!前世で大変尊い徳を積んだに違いない.豚への価値観が変わる大変な代物だ!』と変なことをほざいていたと」

三郎「変なことを言うのはいつもだよ.何かの一周年と納車三周年を記念して、ということらしいよ.法律事務所も一周年を迎えたらお祝いだね、僕らも車が修理から戻って来たらドライブ行こうよ、早く乾いた6気筒の音が聴きたい.なんでも新しいブレーキパッドがPAGIDなんだって?」

吾郎「よく知つているね.なんでも制動力と耐久力を兼ね合わせるようだ.金は掃除夫が払うと言つていた.吾輩は西日本の方へ行つてみたいなァ、温泉や神社仏閣、美術館、景勝地を巡つて心を揺らす体験をしたい」

三郎「吾郎ちゃんはそういうの好きだよね.僕は車のシートに包まれると固定力があって、いい意味で狭いから密閉感があって.車の中に入り込むというか一体感を感じるような.赤子が卵の中にいるような安心感ってのは言いすぎかもしれないけど、ほっとするんだ.エンジンが真後ろにあるからなのかな.幌を開けて風に当たるのもいいけど、雨音が幌を打つ音も好き.」

吾郎「さぶちやんはポエチツクなところがあるな、ドライブは雨でも楽しいのは同感だ、休みをとつて脱出しようか」

北海道走行回想録

 以下は過去に妻と旅行に出かけたときの自動車短評です.あえて略語や略称を使っていますが、ご宥恕ください.

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 いつだったか初秋にフェリーを使って北海道を訪れた.車両の前後に二人1週間分の荷物を積んでの旅行であったが、そこそこ重量感を感じる走行だった。自然吸気ゆえの立ち上がりを常に自覚する加速感であるが、今回はそれをより一層感じるものであった。かといって苦しそうな加速というわけではないのだが、普段使いの加速感をよく知っている自分としてはもう一声欲しかったのは正直なところである。しかしながら十分な働きをしてくれたのは事実で、幌を開けて20度くらいの気温で公道走行する分には風が凪いで心地良い。五感を刺激し決して速度だけが車を優越するものではないのだと気づかせてくれる。決して性能が悪いと言っているわけではない。細かい話をすると、PDKはグランドツアーには優れたシフトチェンジをした。加速が必要な時はキックダウンによって瞬時に2速まで落ち猛チャージによって、一気にスポーツカー足らしめる官能的な炸裂音を伴う。しかし、ある程度速度が達して満足すると、素早くオーバードライブになるべく7速に入るため、ある程度ギアを低く保つには積極的にパドルシフトでマニュアルにするか、スポーツモードで引っ張る必要がある。ガンガン走るのも元気がいるし、同乗者をのせてそんな走りをし過ぎても興が冷めるわけで、流石に緩急は必要だ。北海道にはいろは坂のようなタイトカーブが多いわけではなく、高速コーナーの方が多く、長いのでクロスレシオのギア比の車の方が総合的に良い。ボクスターはその辺、ケチのつけようがない。PASMを使用してみたが、推定100キロ増の車重ではすでにサスペンションは硬さをもっており、快適性が無駄に損なわれる可能性が高かった。北海道の郊外の路面はおおよそ不整であるために凹凸を拾い、ハンドルも流されるほどに敏感に路面状況を伝えてくる。決して車が悪いわけではなく、道路環境の劣悪さが大きな誘引だろう。したがって、今回の旅行ではアクティブサスペンションはほとんど使用せずノーマルライドでの走行を主とした。同乗者がいることも配慮してである。冷暖房やナビゲーションシステムの使いやすさは通常通りであった。レーダー探知機も有効活用し、一度ネズミ捕りに美瑛で遭遇した他はヒヤリハットすることはなかった。時代の潮流だろうが、煽り運転や煽られる運転に一層気を配る運転でもあった。風貌からはこちらが煽る側に立ちそうな装いなのだろうが、基本的に当方は流れに乗って適材適所で追い越しをかけるくらいだから至極真っ当な運転をしたように思う。

 かなり恐怖を抱いたのは日高峠の濃霧の中、登坂車線の追い越し側を一定の速度で巡航していたところ、一瞬にしてスイフトスポーツが後方視界に出現、よもや突かれるくらいの距離まで詰められていたことであった。酷く狼狽した、というか狼狽える隙もなく接近され、左から強引な追い越しを受けたのは衝撃であった。ポルシェがスズキに負けるなんて、という幼稚な次元ではなくて、優劣どころか、濃霧の夕方で視界不良な状況において極めて自己中心的な運転をするものがいるのかと思うと、いかに自分が気をつけていようとも事故が避けられない運命もあるのだと思った。ハンドルを握っているうちはこの恐れが付きまとうのだろうと感じるしかなかった。まして、これからの運転が一人だけではなくて、一緒に乗ってくれる人がいるものになるのだから尚更のことである。ボクスターの欠点は左後方視界の不良である。左からの接近が感じられにくいのである。ミラーでも死角が存在する。特に追越車線を走るときに左からの近接が生じると緊張感を感じないまま一寸先が暗転する可能性がある。よって、常に後方視界は気を配っている。走行の半分は後方確認といっても過言ではないくらいの配慮がいると思う。

 それ以外は心配なく時間が過ぎた。一足早い冬の訪れを肌で感じることができた。この時間が私だけのものではなく、一瞬一瞬を一緒に感じてくれた人がいたのは私の最大の喜びである。ボクスターでのグランドツアーを敢行するなら期間は1週間未満がベストだろう。パワーウェイトレシオの問題があるように思われる。SやGTSなら話は違うかもしれない。982ならではのターボだったら許容できるかもしれない。おそらく911やパナメーラの方が豪華で優雅に北海道を走行できるだろう。荷物も入るしパナメーラなら四人載せても一級の走りをするに違いない。しかし、私の身の丈にはボクスターで良い。決して速くないが、それ以上のものを感じることができると思う。異論はあるだろうが、この考えとそれに至るまで私たちが走ってきた時間は不可侵の領域である。

自動車について独り言つ

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 思ったことを書きます。

 最近のことに限らず、車を運転していると周囲の自動車のほとんどは制限速度にとらわれず走行しており、道路法規の速度制限は効力をなしていないように思う日々が続いています。

 かといって著しい速度で走行する車両はほとんどおらず道路環境に比して円滑な道路状況として機能していることが多いと思っています。

YouTubeなどの動画サイトを観ると、コクピットにぼかしを入れて車両の評価をするものが大多数ではないでしょうか。

 徹底的に解説を試みる、と謳いつつも車速についての感想は個々人の感性と洞察の豊かさに期待するしかない、道路法規を根底とした制約を自らに課しているぎこちなさや窮屈さ、他者からの凡ゆる眼差しを無視できない緊張感を私は感じてしまいます。

 一方で、此の車は法規に則って運転しても痛快で十分だ、と評する投稿は随所で認められます。これまた投稿者の実は苦しげな心中のようにも思えてしまいます。

 並立を意味する「も」という副助詞が示すように、法規を守らない場合の想定を許す表現がある以上、公的な場で速度を超えたときの愉悦を知っているとしか思えないのです。

 では彼等が無法者なのかと言うと、瞬間的にはそうなのかもしれませんが、冒頭で述べたように、彼らは柔軟に巡航している人々のごく一部なのだと考える方が親切かつ妥当でしょう。

 先程から速度の話ばかりしていますが、車の話をするときは皆、自動車のあらゆる事象に人間の心的動揺が生じ、加速への高揚感や操舵の一体感だけでなく各人の情緒的な物語を挿入して共感を誘うことは一般的かと思いますし、私自身も大いに享受しているところです。

 そういった要素では皆雄弁になり、それぞれの修辞で自動車を語るのは印象的です(流石に排気音を「咆哮」と喩えるのは陳腐であるように思います)が、速度性能になると、息を潜めて曖昧になり、申し訳程度に0-100㎞/h所要時間に言及する方が殊更気になってしまいます。

 近年の自動車性能の向上と相関しないように思われる速度制限は、実勢速度に即したと主張する制定側の見解を考慮に入れてもどうも合点がいかないものです.