「記憶/物語」を読んで 3

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小説の成り立ち、バルザックの「リアル」

 第二章で彼女は「小説」成立の歴史的経緯を概説し、H. Balzacの小説、「Adieu」を例に出来事の暴力性を紹介する.

 まず、小説は近代ヨーロッパにおいて発展した文学形式である、と章が始まる.そうなのか、と私は考えもしなかった事実に不意を突かれた.まず、物語という従来の語りの形式は、共同体の一つの小さな世界で、共同体に帰属する者たちにとって共有されるのと対照的に、小説は、一つのテクストが、地域や共同体を超えて、言語も超えて様々に異なった異質な読者を相手にする点で違うと指摘する.

  試しにOxford Dictionary of Englishを参照すると、物語(narrative)は’a spoken or written account of connected eventsとあり、小説(novel)はa fictitious prose narrative of book length, typically representing character and action with some degree of realism.と記されている.また語源については以下のようである.確かに近代成立以降の概念であることがわかる.

mid 16th century: from Italian novella(storia) ‘new (story)’. The word is also found from late Middle English until 18th century in the sense ‘a novelty, a piece of news’, from Old French novelle.

 小説が物語と異なる理由に、小説の隆盛の要因となった近代の時代背景を彼女は挙げる.一つは近現代の歴史が植民地主義の歴史でもあり、小説が原語のまま、母語を他にする者たちによって読まれる状況が生じたこと、さらに彼らが母語以外の言語で小説を書くという事態が起きたことである.そして製紙技術や印刷技術の科学が不可欠であったし、製本するための資源も要する.書物を輸送させる物流システムの構築も考えねばなるまい.小さなコミュニティを超えて、母語を異にする者たちに作品が読まれるためには、統一言語の存在が必要であり、統一された言語を理解する読者が欠かせなくなる.国家や国語という近代社会において要請された画一的言語、画一的集団が小説を支えたのであると考える.小説は統一された言語を近代社会に要請する一方で、近代社会は、小説が構築する虚構世界に国家を形成するための俯瞰視点を見出したとも指摘する.この指摘は興味深く、俯瞰視点という用語は彼女によって次の章でさらに深堀りされるのであるが、小説が国家と密接な関係にあることを先に読者に喚起する.

 小説は近代ヨーロッパにおいて発展した文学形式である、と筆者は先に述べた.ではヨーロッパ以外はどうなのか、ということについて現代アラブ文学を専門とする彼女の観点が光る.パレスチナ系アメリカ人文学者エドワード・サイード(Edward Said(إدوارد سعيد))の名を挙げ、小説がその性格からして虚構の空間に世界を構築するものだとし、イスラーム教徒にとって被創造物たる人間が、唯一神の創造物とは別の創造を行うことは、イスラームから外れた行い、ビドゥア(بدعة)であるという意見を提示している.小説家が世界を構築するとき、それは自然と創造者の俯瞰視点になる.この考えであれば私達は作品創造という営為のうちに、あるいは国家形成によって不遜にも神に挑み続けていたようである.厳格な一神教ならではの面白い考えである.だが、調べればすぐに現代のアラブ文学は次々と出現していることはわかる.現代では、神の視座に関するウラマーの見解と、「小説」の体裁に類似した文学作品の意義をイスラームの人々はどのように折衷しているのだろうか.

 さて、彼女は西欧に対抗する意見として中東の文人を用いて「超越者の視点」に関する説明を試みているが、我が国における小説の形成も一応参照しておこう.

 加藤周一の「日本文学史序説」によると、近代ヨーロッパで呼ぶ所の世俗的日常的な現実描写を骨子とする物語を「近代小説」とすれば、十世紀の日本宮廷社会では既に「近代小説」に比肩する小説的世界が成立していたという.それは「落窪物語」である.「落窪物語」は継母の継子いじめの話である.一家族をめぐる日常的な事件の詳細、登場人物のそれぞれ異なる性格、人物の相互の心理的関係、非日常的な出来事や超自然的な力を介入させない点で「近代小説」に呼応する.だが、当時は彼らは小説という言葉を用いたわけでもなく、小説形式を成すための文学理論は存在しなかった.明治時代に小説は近代ヨーロッパの変遷を踏襲した坪内逍遥の「小説神髄」(1885-1886)が発表されて初めて、我が国の小説家が誕生したという定説が多い.田山花袋から正宗白鳥に至る「自然主義派」が出現してから様々な派閥が興隆することになる.明治維新の黎明期に青年であった文人らの特徴にも触れられている.彼らは西洋文化との広汎で組織的な、伝統的な教養の深さ、およびの社会の全体に対する関心が指摘されている.特に、文化的伝統の対象化である. 

 ヨーロッパとの接触は、個人的な水準においてそれが深く徹底的であるほど、日本の文化的遺産に対する当事者の自覚を促す.西洋人の偏見に対する反発、あるいは日本の伝統文化を評価する外国人への反応が起こり得る.それは「ナショナリズム」であり、または彼らの日本への評価が普遍的な評価基準に基づくのであれば、それを認めなければならない.日本の立場を擁護する必要もある.岡倉天心はその代表と言って良い.彼はだから英文で「東洋の理想」(1903)と「茶の本」(1906)を書いたのである.鈴木大拙も彼に似る.二人は日本文化を意識的に対象化し、普遍的な為し方で分析と叙述を試みた.しかし普遍的な言語は英語だけではない.森鴎外は西洋言語の散文の正確さと推論の秩序に学び、緻密な日本語の文体を確立している.以後、永井荷風、木下杢太郎、石川淳、中野重治へ続く.夏目漱石は小説の一形式を完成させ、西田幾多郎は独自の文体で哲学的思索をまとめたのであった.彼らの文学的貢献によって統一言語での記述がなされ、また明治政府は近代国家の成立を果たした.小説が要請する条件を満たしたのである.

 国家黎明期においてキリスト教の輸入は十九世紀後半の知識人に影響をもたらしたが、殊に北米系のプロテスタンティズムのキリスト教であり、その教会であった.彼らが近づいたのは宗教性というよりもキリスト教を通じた西洋の言語、思想、文学であったようだ.国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥、岩野泡鳴など「自然主義」小説家らは皆成人前に洗礼を受けたが、五年以内に棄教する潔さがあった.キリスト教の説く、超越的絶対者との関係において定義される正義と、キリストによる原罪の救済という観念は彼らには響かなかった.キリスト教は独立人格の自己同定に根拠を与えるものとして機能したに過ぎない.信仰の棄却に関する精神的痕跡は彼らの文学に見られないと加藤は指摘する(加藤は全部読んだのか……??).

 以上を考えると、日本の近現代文学形成において西洋の接近が重要な要因であることがわかる.ナショナリズムの萌芽を促し、普遍的価値の叙述への道をひらいた.キリスト教への関心は宗教的側面ではなく、あくまで彼らのアイデンティティ形成の手段であり、文学への窓口として利用したということになる.自己実現のために作品創造を行ったとすれば、そこに神の視点という言葉はふさわしくないように思われる.神の衰退かどうかはともかく、とりあえずはメタフィクション的(以下メタ的)な視点ということになるのかもしれない.これは濫喩である.

 だがメタ的な視点が神の視点でないとすれば誰の目線なのだろうか.作者かというとそうとは限らない.筆者は非人称の語り手、という言葉を用いるが、それ以上明示されない.

 兎にも角にも、小説が国家と密接な関係があることを理解した.国家には社会の変革によって国民が巻き込まれる事態、例えば「戦争」や破壊的な出来事のように、不可避な場合がある.逃れられない不条理が個々人に刻みつけるトラウマ(外傷)は、時制を壊し、過去として馴致不能な現在の暴力として回帰する.そうした語ることも水に流すことのできない<出来事>を、小説は時代の要請のもと、身に引き受けたのではないかと筆者は推察する.私達は小説という装置に語りを委ねることを期待したのではないか、それが不可能であるかはわからないが、人々は分有の可能性に賭けたのだと.

 筆者はH. Balzacの小説、「Adieu」を例に挙げる.私は読んだことがないのだが、筆者のあらすじ紹介で概略はつかむことができた.ナポレオン戦争を題材に1830年に書かれたこの作品は、彼女が繰り返し述べてきた、現実の<出来事>の叙述不可能な部分を虚構世界の小説に仮託することで、語り得ない余剰部分を浮かばせるという企てを示しているのではないかという.

 作品に登場するF大佐は、「Adieu」としか言わない狂女に偶然出会った.しばらくしてその女性はかつての恋人Sであったとわかる.過去にSは戦争に従軍するF大佐を追って、ロシアまで赴いた.だが、フランスの敗退によってロシア軍に包囲され大佐は逃げおおせたものの、Sは敵軍の慰み者となってしまったのだ.F大佐が知る恋人としての彼女の最後の言葉は「Adieu」(お別れね)であった.2年もの間蹂躙された彼女は正気を失っていた.大佐はなんとかかつてのSを取り戻そうと奔走するが医療は期待できない.彼がとった最後の手段は、なんと当時の情景を完全に再構成し、記憶を取り戻すことであった.場所、季節、衣服、舞台装置すべて揃えて.

 Sの記憶は、F大佐の壮大なエゴイズムによる、かつての情景を見ることで回帰した.しかし、「Adieu」と元恋人のFに告げるや否や事切れてしまった.Sを失ったFは取り残され、まもなく彼は死を選んだ.Sが亡くなった理由や自殺した理由の類推はいくらでもできるかもしれない.しかし、作品に示されるのは彼らの死だけである.この明文化されない空隙が、読者を容赦なく突き放す.見事に当惑させる.理不尽さや不条理という言葉は浮かぶが、そんな陳腐な言葉では言い尽くせないだろう.

 Sにとって自身を獣以下に貶める転機となった舞台を再び目にすることは、超絶怒涛の暴力である.彼女が思い出したのではなく、まさしく時制を壊された出来事が現実に回帰した好例であろう.なんて酷いことをF大佐はしたのだろう、と思うかもしれない.彼はただSをどうしても取り戻したかったのだ.取り戻すことでSを救済したいと願うFのナルシスティックな心理と、眼前の狂女がSであることを認知したくない彼の否認を知ると、これ以上の言及について私は言葉をよく選ばなければならないと思う.

 この作品はフィクションである.特にF大佐が、記憶を取り戻すために現場の再構成を仕掛けるあたりは小説のなせる業だろう.だが、Sが「Adieu」しか言わないこと、彼女がそれ以上語らないがために、我々はFとSの時間・空間的断絶を感じ、その断絶の中に戦争が刻んだ傷を観取することができるのだろう.

ここまで読んでくださり、ありがとうございます.

 

「記憶/物語」を読んで 2

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 出来事の暴力性、人の無力さ

 小論は前回の投稿の続きになります.未読の方はこちらからご覧ください.

 彼女の論説は二部構成であり、第一部は「記憶の表象と物語の限界」を題する.各部は複数の章からなる.一章は、記憶が「私」という主体が思い出すという能動的作用として表現され、過去の出来事を随時取り出しては参照する記録装置のような心象をもつが、時として記憶は、或いは記憶に媒介された出来事が、「私」の意思とは無関係に瞬時に飛来してくる性質を述べる.この突然の到来に対して「私」は徹底的に無力で、受動的で、制御不能なものとして、自身に襲いかかってくるものでもあるという.この場合、出来事は記憶の中で生々しい現在を生きている.記憶の回帰は根源的な暴力性を秘めているとする.

 その根源的な暴力性の例として、筆者はフラッシュ・バックという現象を挙げる.これは記憶に媒介された暴力的な出来事が想起され、現在の時制において生起する状態である.その瞬間、あのとき感じた自身の感情・感覚が投げ出され、暴力性にさらされる.どんなに忘れたくても.覚醒剤の後遺症として、心的外傷の傷跡として、自閉症スペクトラムの人々にとっても、瞬時の回帰は容赦ない.

 思い出してしまう、回帰する記憶の暴力性の被害者として、日本軍の「慰安婦」とされた女性の体験について岡は述べる.女性らはかつて自分らが被った一連の暴力的な出来事を記憶の回帰とともに、現在形で追体験しているのではないか、と筆者は考察する.もし仮に、明示的な言葉で語ることので出来事が確定するのであれば、我々はすべてを言葉で語らないとならない.すなわち、語れないことは存在しないということになる.だが、先程の「慰安婦」であった女性らは確かに無慈悲な出来事を再体験する苦痛を耐えている事象に反してしまう.筆者は言葉の非万能性に気づく.何かを語ろうとするときに、それが根源的な体験であればあるほど、言語の徹底的な不自由さを感じるのであると.特に自分でも説明し難い体験を、既成の言語で片付けてしまうとき、その居心地の悪さを感じるのではないかと.なんだかしっくりこない感じ、である.両手に掬った砂が隙間からこぼれ落ちてゆくように、語られなかった余剰部分が沢山あるのではないか、と筆者は考える.この筆者の主張に私は強く同意する.

 語られなかった出来事の余剰部分、言葉では切り取ることができなかった余剰部分、出来事の切れ端、という表現を筆者は用いる.時間の経過とともに、これらの多くは忘れ去られ、言葉で語られることのみが出来事となるのではないかと考えるようになる.そして、出来事が言語化されるとき、それは過去形で示される.人が出来事を「過去」について馴致する(実に見事な言い回しだと思う)とき、すなわち人が出来事を過去のものとして飼いならすのではないかと考察する.

 筆者は「出来事が言語化されるとき、それはつねに過去形で表現される」としている.彼女の揚げ足をとる意図は毛頭ないことを断った上で、敢えて出来事を時制変化を用いずに表現することは、特に我が国の文学的物語(narrative)の特徴として、多いに知られているものである.日本語について述べれば、そもそも日本語の文法は現在、過去、未来を鋭く区別しない.

 心のうちに祈念して、目を見ひらいひたれば、風も少し吹よはり、扇も射よげにぞなったりける.与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ.

 上記は「平家物語」において、那須与一が沖の波間に揺れる小舟に差し出した扇を海岸から射落とす場面である.過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法ははるか以前から知られている.矢を放つ主人公の動作のみが現在形である.神仏への祈念と風の静まりから決定的行動へ移る描写の現在形は際立ち、その一瞬の光景を浮かび上がらせる.これは決して暴力的というわけにはいかないだろうが、一気に読み手、聞き手を引き込むという点で、強力な誘導である.強制力を持つわけである.

 一方、近代ヨーロッパ語の場合は、動詞の語尾変化や助動詞と動詞の併用により、出来事の過去・現在・未来を、文法的に明示する.その中でも厳格な文法から一定の緩みを見ることができる.以下の例文を示す.

Alors, une idée l’exaspéra. C’était une saleté que ces dames voulaient lui faire en se conduisant mal chez elle. Oh! Elle voyait clair! …

Émile Zola, Vuillaume, 1876

 その時、一つの考えが頭をよぎって彼女は激しく苛立った.このご婦人方は、彼女の家で無作法に振る舞って、嫌がらせをしたんだ.ああ、はっきりわかるわ.

Dora stopped listening because a dreadful thought had struck her. She ought to give up her seat. She rejected the thought, but it came back. There was no doubt about it. 

Iris Murdoch, The Bell, 1958

 ドーラは恐ろしい考えが急に頭に浮かんできて、会話に耳を傾けるのをやめた.私が席をゆずるのが当然だわ.ドーラはその考えを打ち消したが、再び考えは戻ってきた.譲らなければならない.

 上記はいずれも登場人物の意識にのぼった考えを描出した文である.仏文では自由間接話法(Discours Indirect Libre/Style Indirect Libre)とよび、英文では描出話法(Represented Speech)ともいう.こうした技法を意識の流れ手法(Stream of Consciousness Technique)と呼ぶようである.このような技法は伝達動詞の支配から自由になる話法であるが、時制は必ず間接話法と同様に照応を求められる.時制は自由にはならず、時制が日本語のように読者を現在へ引き込むのではない.読者・聴者の意識が、あたかも作中の登場人物の意識であるかのように、過去へ誘うのであろう.強い言い方をすれば過去へ引きずり込むのだろう.

 おそらく著者が「出来事が言語化されるとき、それはつねに過去形で表現される」と言ったのは、日本語の緩い時間的性質を理解しつつも、印欧語における時制が人を従属させる強制力を念頭においてであろう.それは彼女が別の章でH. Balzacの作品を紹介していることと無縁ではないだろう.

 余談であるがアフロ・アジア語族の一つ、アラビア語について言えば.私の調べた限り直接話法、間接話法は存在するようだ.しかし時制の一致は必須ではないという.文学作品において印欧語のような描出話法があるのかは私の知識不足で伝えることはできない.また、オーストロネシア語族のいくつかは、そもそも時制が存在せず、今日、明日といった語を添えて時間における所在を示すようである.各言語の文法的詳細に触れることは本旨から外れるのでこれ以上触れないでおく.ただ、言語によって、語り手と聞き手の間の引力の度合いが異なるのかもしれない.

 これまで述べた表現はあくまで文学上の技巧であり、作者ないし語り手が主体となり、主体が出来事を従えている場合と考える.主体は(文法上の制約の限り)、<出来事>を自在に扱えるように見えるが、やはり、言語が<現実>に対して本質的にはらみもつズレ(齟齬)のために、馴致、従属は不完全であると彼女は述べる.

 さらに、人と出来事の関係において、出来事が回帰する時の、人の徹底的無力さと出来事の圧倒的制圧力を考えれば、人が出来事を語るのではなく、出来事がそれ自身を人に語らしむと言えるのではないかと考察する.この点についても私は全く同感である.私が想起し、知覚した事物を表現しようとする時、それは言語のみに頼らなければならないが、心に残ったその心象をすべて表現しようとするには、言葉では到底太刀打ちできない.遠足や旅行から帰ってきた小学生くらいのこどもが、「みんなで◯◯に行ったんだ.とても楽しかったよ」と月並みな感想を述べたとしても大人がそれを聞いて嬉しく思うのは、彼らが言外に漂わせる幸福の余剰を、無意識に感じるからであろう.私達は知らずして出来事の雄弁さを知っているのである.しかし、その余韻を私達が正確に観取することはできないのは自明である.幸福な記憶は勿論、絶滅収容所にいたユダヤ人や、「慰安婦」とされた女性らが体験した出来事の際立った暴力性は、それが半世紀以上経ってもなお、現在の暴力として回帰する、そのような性質にあるという点にある.出来事と私達の生の時間は一致せず、回帰する出来事は時制が破壊されているという.故にその暴力性の深みを我々が観取することは難しい.だが、それが仮に我々が現在、生起している出来事であるとしたら、私達は語ることができるだろうか.暴力を受けている間、呻き声や声なき嗚咽以外、何を語れるのだろうかと、彼女は問う.そして次のように問題を提起する.

 暴力的な出来事の、それについては語ることができないという点にこそ、その出来事の暴力性の核心が存在するような、そのような<出来事>について、私たちは、いかにしたらその<出来事>の記憶を分有することができるのだろうか.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.筆者の問いに対して私なりに考えを落とし込めたらよいなと思っています.もう少し続けていきたいと思っています.

 

 

The Book of Tea: 茶の本 <対訳>

Chapter IV The Tea Room

第四章  茶室

To European architects brought up to the traditions of stone and brick construction, our Japanese method of building with wood and bamboo seems scarcely worthy to be ranked as architecture. It is but quite recently that a competent student of Western architecture has recognised and paid tribute to the remarkable perfection of our great temples. Such being the case as regards our classic architecture, we could hardly expect the outsider to appreciate the subtle beauty of the tea-room, its principles of construction and decoration being entirely different from those of the West.

The tea-room (the Sukiya) does not pretend to be other than a mere cottage – a straw hut, as we call it. The original ideographs for Sukiya mean the Adobe of Fancy. Latterly the various tea-masters substituted various Chinese characters according to their conception of the tea-room, and the term Sukiya may signify the Adobe of Vacancy or the Adobe of the Unsymmetrical. It is an adobe of Fancy inasmuch as it is an ephemeral structure built to house a poetic impulse. It is an Adobe of the Vacancy inasmuch as it is devoid of an ornamentation except for what may be placed in it to satisfy some aesthetic need of the moment. It is an Adobe of the Unsymmetrical inasmuch as it is consecrated to the worship of the Imperfect, purposely leaving some thing unfinished for the play of the imagination to complete. The ideals of Teaism have since the sixteenth century influenced our architecture to such degree that the ordinary Japanese interior of the present day, on account of the extreme simplicity and chasteness of its scheme of decoration, appears to foreigners almost barren.

The first independent tea-room was the creation of Senno-Soyeki, commonly know by his later name of Rikiu, the greatest of all tea-masters, who, in the sixteenth century, under the patronage of Taiko Hideyoshi, instituted and brought to a high state of perfection the formalities of the Tea-Ceremony. The proportions of the tea-room had been previously determined by Jowo – a famous tea-master of the fifteenth century. The early tea-room consisted merely of a portion of the ordinary drawing-room partitioned off by screens for the purpose of the tea-gathering. The portion partitioned off was called the Kakoi(enclosure), a name still applied to those tea-rooms which are built into a house and are not independent constructions. The Sukiya consists of the tea-room proper, designed to accommodate not more than five persons, a number suggestive of the saying “more than the Graces and less than the Muses,” an anteroom (midsuya) where the tea utensils are washed and arranged before being brought in, a portico(machiai) in which the guests wait until they receive the summons to enter the tea-room is unimpressive in appearance. It is smaller than the smallest of Japanese houses, while the materials used in its construction are intended to give the suggestion of refined poverty. yet we must remember that all this is the result of profound artistic forethought , and that the details have been worked out with care perhaps even greater than that expended on the building of the richest palaces and temples. A good tea-room is more costly than an ordinary mansion, for the selection of its materials, as well as its workmanship, requires immense care and precision. Indeed, the carpenters employed by the tea-masters form a distinct and highly honoured class among artisans, their work being no less delicate than that of the makers of lacquer cabinets.

The tea-room is not only different from any production of Western architecture, but also contrasts strongly with the classical architecture of Japan itself. Our ancient noble edifices, whether secular or ecclesiastical, were not to be despised even as regards their mere size. The few that have been spared in the disastrous conflagrations of centuries are still capable of aweing us by the grandeur and richness of their decoration. Huge pillars of wood from two to three feet in diameter and from thirty to forty feet high, supported, by a complicated network under the weight of the tile-covered slanting roofs. The material and mode of construction, though weak against fire, proved itself strong against earthquakes and was well suited to the climatic conditions of the country. In the Golden Hall of Horiuji and the Pagoda of Yakushiji, we have noteworthy examples of the buildings have practically stood intact for nearly twelve centuries. The interior of the old temples and palaces was profusely decorated. In the Hoōdo temple at Uji, dating from the tenth century, we can still see the elaborate canopy and gilded baldachins, many-coloured and inlaid with mirrors and mother-of-pearl, as well as remains of the paintings and sculpture which formerly covered the walls. Later at Nikko and in the Nijo castle in Kyoto, we see structural beauty sacrificed to a wealth of ornamentation which in colour and exquisite detail equals the utmost gorgeousness of Arabian or Moorish effort.

 石と煉瓦を積み立てる伝統に育ってきたヨーロッパの建築家にとって、日本人の木と竹で家を建てる方法は全く建築に値しないと考えるであろう.しかしここ最近西洋建築の有能な学徒が我らの大寺院の素晴らしい完璧を認め、賛辞を送るようになった.我々の古典建築に関してもこの具合であるから、茶室の微妙な美しさ、その建築と装飾の原則が西洋のそれとは全くことなるものを外部が鑑賞できることを私達は全く期待し得ない.

 

 茶室(数寄屋)はただの小屋でありそれ以上望むものではない.いわゆる藁屋と呼ぶに過ぎない.元来の数寄屋の表意は「好き屋」である.最近では様々な茶の宗匠が茶室に対する自分の考えに応じて漢字を当てたので、数寄屋の意味は空き家か数寄屋になっている.詩的な衝動で建てられた儚い構造物であるからこそ「数寄屋」なのだ.その瞬間のある種唯美的必要を満たすために設けられたものを除いて、調度品を欠いているからこそ「空き家」なのである.故意に、あるものを完成への想像するため戯れに未完成にして、不完全を敬い聖別するからこそ数寄屋なのである.茶道の理念は十六世紀以来、我が国の建築に現在の日本の内装という点である程度影響を及ぼしたが、装飾構造の極度の簡素と貞淑のために、外国人にとってはほとんど荒廃したように見えるのである.

 初めて独立した茶室が生み出したのは千宗易、のちに千利休の名で知られた、最も偉大な茶の宗匠であり十六世紀に太閤秀吉の庇護下で茶の湯の形式を定めて完成させ、高みの領域に至らしめた.茶室の広さは以前に十五世紀の有名な宗匠紹鷗によって定められていた.初期の茶室は茶会のため屏風で仕切った普通の居間に過ぎなかった.仕切りの一部は「囲い」と呼ばれ、その名前は未だ、家の中に作られ、独立した建物でない茶室に使われている.数寄屋は、「グレース神の数より多く、ミューズ神の数よりも少ない」という諺の暗示する数、五人よりも少ない人数を歓待するために設計された茶室と、茶器を茶室に持ち込む前に洗って並べておく控えの間「水屋」と、客が茶室に招来されるまで待つ玄関「待合」と、茶室と待合をつなぐ庭の小道を「露地」からなる.茶室の見た目は印象的ではない.それは最も小さい日本の家屋よりも小さく、その建築に使われた材質は洗練された貧しさを暗示する意図が秘められている.すべてこのことは深い技芸的先見から出たものであり、その細部に仕上げられた配慮は、最も豪奢な御殿や寺院よりに払われたものよりも周到であることを記憶せねばなるまい.良い茶室は普通の邸宅よりも費用がかかっている.職人の手腕と同様に、材質の選択に途轍もない配慮と精密性が求められるからである.実際、茶人に雇われる大工は、職人の中で一目置かれ、名誉あるもので、その仕事は漆器職人のそれに劣らぬ、細心の手際を要するものである.

 茶室はあらゆる西洋建築と異なるだけでなく、日本の古典建築そのものと強烈な対照をなしている.我々の古代の気高い殿堂は、俗的であろうと宗教的であろうと、単なる大きさでさえも軽蔑しがたいものであった.世紀の大災害を免れたものごく少数は未だその装飾の豪華絢爛さで我らに畏敬の念を抱かせる力を持っている.直径二、三尺、高さ三十尺から四十尺の巨大な木の柱は傾斜した瓦屋根の重さのもと複雑な網状の斗栱によって支えられる.材質と建築の様式は火に弱いものの、地震に強いことを証明し国の気候条件に適していた.法隆寺の金堂と薬師寺の塔は、十二世紀近く無傷で実際に立っていることの顕著な例であろう.古刹と宮殿の内装は惜しみなく装飾されていた.宇治の鳳凰堂では十世紀から我々は精巧な玉座と金襴の天蓋、かつての壁画や精巧な彫像はもとより、多彩な色とはめ込まれた鏡、螺鈿細工を見ることができる.後の日光や京都の二条城のように、優美な細部と色彩において、我々はアラビア様式やムーア様式の豪華絢爛に等しい装飾の豊かさに構造上の美しさを犠牲にした例を見ることができる.

 ながらく時間が空いてしまいました.季節の変わり目で油断して少し体調を崩したのでした.涼しいどころか寒くなりましたね.鍋物が美味しくなる季節です.久しぶりの対訳です.

サムギョプサル、そして

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 言葉には流行り廃りがあって、流行語として広く君臨することもあれば、死語として常用されなくなり、少数勢力の慰みや学術者の研究材料になるのかもしれない.私は流行語大賞などの報道にはてんで興味がないから、今どんな言葉が流布しているといったことは知らない.しかし、ある一つの言葉は最近、我が亀吾郎法律事務所で使われるようになってきた.

 先日、所内で焼肉を行った.とはいっても題名の通り、豚の三枚肉を切って焼いたに過ぎない.だが、焼肉屋に行くのとは別格の味わいであって、至福の時間であったように思う.今回はその話をしながら事務所内の流行語を紹介したい.

 私は、亀吾郎法律事務所の掃除夫であるが、同時に厨人でもあることが多い.私は如何に珍味珍品を用いず一般の食料品店で調達できる品を使って、事務所の皆さんに享楽してもらうかを念頭に置いて調理している.そういったときに動画サイトを参照して、料理をつくることが増えてきた.おそらくこういう風潮は多くの家庭にもありそうで、何だか料理本の売れ行きが低迷しそうな雰囲気である.簡単さ、手軽さ、そういった料理で美味しさが確約されるのであれば、確かに人気は出る.人は一過性の爆発的な人気を「バズる」、という現象で捉えるようである.きっと英語のbuzzから借用しているのだろうが、あまり「バズって」しまってもブンブン蝿が飛び交っているようで喧しいのも事実である.「バズる」ことは一部、動画の再生回数を増やすため、金銭収入を得るため、といった背後の目的によって行われることもあるかもしれない.不興を買ってでも話題性を瞬間的に生み出す方法は、人々の憤怒を焚き付けて電子の海を炎上させる.その度倫理観が問われることはあるが、一時的な快楽を求めるためにすぐに人々は油をせっせと注いでいる.

 湯船にコーラを張って浸かる様子を放送する、クジを全部買ってクジ屋のメンツを潰す、分厚い氷の塊に融点限界の金属球を上から落とす、一日で北海道と沖縄を旅行するなどといった珍奇な行動があることを見聞きした.酔っ払ってやっているのかと思えば、おおよそ皆素面である.中には四大天使と同じ名を名乗り常に仮面を被っている頓痴気な人もいる.よくもまぁそんなことを白昼素面でやれるなという興醒めを私は感じてしまう.革命家を自称し不登校を貫徹する児童も出現した.視聴者の快楽刺激に対する感覚閾値が徐々に上がって、生半可な刺激では不感症となり、さらなる刺激を欲しがる人々の需要に求めるべく放映者は奇天烈さを増してゆく.過剰な刺激物質に対して受容体を増やし、なんとかして生理的平衡を保つような、薬剤過感受性の病理に近いことを私は考えてしまう.P. Valéryも「精神の危機」で似たようなことを述べていたと思う.「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という言葉があるが、全人類阿呆になってしまったほうがいいのだろうか.古くから宋書に伝わる袁粲の例え話として、「狂泉」が知られるので紹介しておこう.

 昔有一国,国有一水、号曰狂泉.国人飲此水,無不狂,唯国君穿井而汲、独得无恙.国人既並狂、反謂国主之不狂為狂、於是聚謀、共執国主、療其狂疾.火艾針薬、莫不必具.国主不任其苦、於是到泉所酌而飲之.飲畢便狂.君臣大小、其狂若一、衆乃歓然.我既不狂、難以独立、比亦欲試飲此水.

沈約、「宋書」巻八十九、袁粲伝

「昔ある国に、ひとつだけ水飲み場があって、狂泉と呼ばれていた.国民はこの水を飲んでいたので皆狂ってしまっていた.唯一王だけが井戸を掘って水を汲んでいたので、無事でいた.国民は軒並み狂っていたので、かえって国王の狂っていないのを狂っていると思い込み、皆で謀って国主を執え、国王の病気を治そうとして、モグサや針や薬など、あらゆる手を尽くした.国王は治療の苦しみに耐えきれず、泉へ行って水を汲んで飲んだ.そして飲み終わるやいなや狂ってしまった.君主も臣下も大人も子供も同じように狂ったので、皆はやっと喜んだ」と、ここまで話した袁粲は「私はもとより狂っていないものの、たった独りで貫き通すのも難しい.それで最近では、私も試しに狂泉を飲んでみようかと思うようになった」と.

 この寓話はおそらく、語り継がれ時を越えて詩人Khalil Gibranの耳に入ったのだろう.著作「The Madman(狂人)」の「The Wise King(賢王)」には極めて類似した話がある.原文のみ紹介したい.私がこの関連を知ったのは妻のお陰である.妻は私よりも博覧強記なのだ!

The Wise King
Once there ruled in the distant city of Wirani a king who was both mighty and wise. And he was feared for his might and loved for his wisdom.

Now, in the heart of that city was a well, whose water was cool and crystalline, from which all the inhabitants drank, even the king and his courtiers; for there was no other well.

One night when all were asleep, a witch entered the city, and poured seven drops of strange liquid into the well, and said, “From this hour he who drinks this water shall become mad.”

Next morning all the inhabitants, save the king and his lord chamberlain, drank from the well and became mad, even as the witch had foretold.

And during that day the people in the narrow streets and in the market places did naught but whisper to one another, “The king is mad. Our king and his lord chamberlain have lost their reason. Surely we cannot be ruled by a mad king. We must dethrone him.”

That evening the king ordered a golden goblet to be filled from the well. And when it was brought to him he drank deeply, and gave it to his lord chamberlain to drink.

And there was great rejoicing in that distant city of Wirani, because its king and its lord chamberlain had regained their reason.

K. Gibran, The Wise King, The Madman

 このような話からどのような寓意を読み取るかは読者の感性に委ねられる.私訳は別の機会にしよう.難しい英文ではないのできっとすぐ読めてしまうはずだ.

 余談だが、現代でも和製ホラーゲームにおいて名高い「SIRENシリーズ」には、上記の類似した構造を見ることができる(私見だが大変な恐怖体験に近い.迂闊に動画サイトで検索すると後悔するかもしれないし、オススメ動画にホラーばかりが並ぶ悲劇になるから安易な視聴はオススメしない).エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」も類似した計画であろう.狂気とは誰にとって、狂気なのか.私が狂っていないという確信は信憑に足るのだろうか.何を以てして狂気というのか.こうした問題提起はまた別の機会にして、サムギョプサルの話に戻ろう.とかく私がここまで引っ張って言いたかったのは、現代のマスメディアについて、狂気が狂気を内包している構造のために、視聴者と投稿者、運営全てである総体が狂気じみていれば皆健全に見えてしまうような恐ろしさがあるのではないか、ということだ.かく言う私も狂人の一人かもしれないから、これ以上強くは主張しない.

 奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入出前迅速落書無用な動画サイトの中にも、秀逸だと思うものはいくつかあって、私がサムギョプサルを作ったのはそれがきっかけであった.スーパーマーケットに売っている豚バラ肉ブロックが特売で売っている時は、皆さんもサムギョプサルを夕餉に考慮してもいいかもしれない.消費期限が近くなって値引きしているときは買い時かもしれない.腐敗と熟成は表裏一体であるから、かえって旨味が増していると楽観すれば、正しく調理する限り問題ない.自宅にキムチがあれば上出来である.動画投稿者である料理研究家はキムチは優れた調味料であり食材であると言う.この言葉の意味は実際にバラ肉から出た脂でキムチを炒めたときに身に染みる.味もよく沁みる.葉野菜(レタス、サンチュ)があれば、肉を巻いて食べると、食欲をそそる香ばしい薫りと溢れる肉々しさに透き通る清涼感を感じ、抜群の相性を感じる.大葉、エゴマがあると、家族が集う円卓に和やかな静寂が訪れるはずだ.我々は白米は食べずに肉400gと野菜でのみ完結した.これで十分お腹いっぱいになるし充実感もある.糖質制限をしている人にも吉報だ.肉の脂身は加熱段階で溶けていくので過剰に気にすることはない.

 日本国内の韓国料理店へは何度か行って、美味しいビビンバやトッポギ、スンドゥブ、チヂミ、クッパ、サムゲタンを食べたことはあった.どれも舌鼓を打つ優れた料理だと思う.韓国、国内のみならず、遠い異国の料理を食べたりすると、実際に訪れて、作り手の顔を見てみたいと思うようになる.どんな人が作って、どんな人が食べているのか、なぜその調理法なのか、と.動画サイトのいくつかは投稿者が調理することが多いので、作り手の顔が見えて、親近感が湧くこともある.その人がどんな思想に基づいてレシピを考案したのか、どのような経験があってそこに行き着いたのか、完全でなくとも思いをはせることができる.料理の動画はそのような意味で見ると面白いものがいくつかある.私が見た動画はそういうものであった.変な動画を観て笑い転げるのもいいが、私はカメの甲羅干し動画や、料理動画、音楽だけがかかり続ける静止画が好きだ.


 我が事務所の流行語について戻ろう.一般には「多人数でルールに基づいて競い合い、結果最も優れていると認められること」を「優勝」というのに対して、近年では(4−5年前のようだが)「優勝」を「非常に良い気持ちになる、心地よくなる」といった肯定的な感動を表すのに使うことがあるようだ.今も流行っているのかは知らない.所謂インターネットスラングであるから、多用は禁物だ.使いすぎるとやや痛々しくなる.オジサンは特に.

 「今日は、山岡家でプレミアム塩豚骨と餃子のセットで優勝しない?」「明日は休みだから、コンビニで酒とツマミを買って、三人で酒盛りして優勝しようや」といった感じで使う.幸福の余韻を「優勝してしまった」といって表現することもある.

 かくして我々もサムギョプサルを食して「優勝」した.夫婦二人とも「優勝」してしまった.大変美味だった.焼き肉店に行くと結構値段が高く付くが、自宅サムギョプサルであれば、案外気軽に勝利宣言できてしまう.それに敗北者はいない.もしかすれば誰も敗北を喫せず、肯定的感情のみ残るから流行ったのかもしれない.言葉が生まれた背景に、学校教育における平等性の問題だとか、現代社会の競争原理に対する抵抗などといった考えがひょっとしてあるのかな、と一寸脳裏を過ぎったが、考え過ぎだ.きっと違うだろう.ともかく我々の事務所内では「優勝」が少しだけ流行っている.きっと時間が経てば廃れてしまうだろう.私達の事務所と現実世界では流れる時間が異なっている.

 時間の流れが異なれど秋の日は釣瓶落とし、であり、やはり秋は夕暮れ、である.そして天高く馬肥ゆる秋でもある.読書の秋、食欲の秋.皆さんはどんな秋をお過ごしでしょうか.誰にとっても飽きの来ない日々が訪れますように.

あまりまとまりませんでしたが、ここまで読んでくださりありがとうございます.

 

 

What I have in my mind

This article is a translation of previous one.

When I was browsing books about great writers or writings, I coincidentally made the acquaintance of other writers frequently, that mainly attracted me in the past, whereas I had suspended further research on them. I never anticipated to find out the notification in the book that one and another had actually met or they had been in the same place before, or he/she had been quoted as an example of their story. That was like unexpectedly completing a piece of gigantic jigsaw puzzle which is very hard in the process of making, I felt an ease which was the same sense of fitting something accurately in my heart. If I were to see as a flying creature the vast ground from the highest view among obscure clouds, it might be as well as seeing slight landscape through a chink which is getting wider. So I would fain tell viewers about my tiny experiences which are short, and to write down my prospect as well.

At first, I would like to mention of Khalil Gibran. I brought my mind to the translation of his poetry had been arranged among the works of Kamiya Mieko in the section of Misuzu Shobo in some bookshops since long time ago. I wondered his name supposed to be originated from west Asia, and I thumbed through one of Kamiya’s book. After that I knew that Kamiya Mieko was in the department of Psychiatry of Tokyo University, school of medicine, in which Kinoshita Mokutaro(Ohta Masao) was belong to the department of Dermatology as a professor. Such connection has directly nothing to do with literary meaning, however, people may get close each other unconsciously by somewhat called a gravity, I must say.

I learnt that Gibran was born in Lebanon, where the former Ottoman empire had occupied, and he has been famous for his poetry, especially “The Prophet” has been read worldwide. It is true that his works translated in Japanese are available in remote cities of Japan as well, nevertheless the original version can be purchased only online if living in local cities. It is all the more difficult to buy other language edition. The other day I found that Gibran firstly conceived the idea of “The Prophet” in Arabic. He went to the America in his youth and learnt skills of English, then he also went back home to receive higher education of Arabic.

Fortunately I got an ebook of “The Prophet” in English and Arabic version. I am not get used to read in Kindle, but it was a good purchase that I got it within 1,000Yen. As I read the introduction, that says it took twenty years to translate in Arabic. What a long journey it is! I cannot understand the concept of price tagging when I came across such a valuable book that is affordable less than 1,000Yen. I am also a member of Kindle unlimited in Amazon.com, so I am able to read the Japanese translation by Sakuma Takeshi for free. Then I have started to read it. What I felt was that it was easy to read and not many pages. But I have to mention that read easily and be comprehensible are not the same. The energy that the writer brought his heart to bear upon every single words must be so immense that I have to read it thoroughly. This is one of my utmost happiness to realise that I can examine it many times. As for the title “The Prophet”, it is a story like a manual of life course, the prophet Almustafa(المصطفى), teaches lessons to people who need guidance. I have not read the original poetry yet so it is not the time to speak of it. And I have got the reasonable reference book for studying Arabic at last, I would like to reverse translate gradually by using this ebook. Someday I would be happy to introduce the study result.

Secondly, I would fain speak of Rabindranath Tagore. Recently, I have very been attracted by the fact that non-English born person such as Gibran creates great English writings. Needless to say, Okakura Tenshin who is inordinately contributed to Kamegoro Law Firm is the one of greatest writer from non-Anglosphere, I believe. It is tremendously shameful for me to tell you that I thought that nothing better than using own language when expressing one’s own culture. How stupid I am! That is not true. At least Tenshin himself succeeded in attempting it in literature. Of course Gibran must have accomplished, not to mention Tagore and other writers who I do not know. I am very excited to know the fact all the more that Tenshin and Tagore knew each other, and visited their countries. It is said that Tagore has been to Tenshin’s tombstone when he died. Tagore was in Izura! He wrote “Gitanjali(গীতাঞ্জলি)” in Bengali, later on he wrote it again in English. Someday, I wish I could read his work.

I think that it is a huge encouragement for me to know that such people who are from non-Anglosphere write English literature. Particularly as for myself, who live in the world of totally different linguistic family, is quite an incentive.

I sometimes write articles in English, which are not praiseworthy contents and I think I am at best the third-rate writer. There must be many errors in my sentences. But I would like to keep writing my blog in English with my style. Then I would like to sophisticate my essay writing technique, not to be contented with the present situation, humbly tolerate the critics of others and review retrospectively by myself.

Finally, I would fain end the article by introducing a songwriter from Iceland. His name is Ásgeir Trausti. He speaks Icelandic but also good at writing beautiful lyrics in English.

Glistening nighttime dew, and she is walking with me.  

From the house of red, I hear a child crying.  

Foxes heading home, their prey hangs from their jaws.

And the forest knows, but it won’t share the secret.

When the king takes sides, leaving moral minds; soldiers take their share. Nighthawks seem to sense that now is the time.  

Deep inside them burns the raging fire of life.

He’ll take back what he owns.

Death cannot take hold, if I can keep momentum.  

Fortresses of stone, turn into crystal tears soothed by southern winds; I’ve found my strength now.  

And nobody knows, and we must keep their secret.

When the king takes sides, leaving moral minds; soldiers take their share. Nighthawks seem to sense that now is the time.

Deep inside them burns the raging fire of life.

He’ll take back what he owns.

When the king takes sides, leaving moral minds; soldiers take their share. Nighthawks seem to sense that now is the time.

Deep inside them burns the raging fire of life.

He’ll take back what he owns.

Dýrð í dauðaþögn, 2012 (In the Silence, 2013)

Thank you for reading.

私の考えていること

 ある一つの著作なり文人について読み調べると、思いがけずとある箇所で他の著作家について記されていることがある.その著作家というのは以前から関心を寄せていた人物であることが多い一方で、それ以上の関心を留保していたことがよくあった.引用のこともあれば、実際に人物らが出会っていた、同じ場所を出入りしていたということを知る.作りかけのジグソーパズルの一ピースが意図せず偶然当てはまるような感覚で、心の中でもぴたりと符合する心地よい感覚を覚える.私が飛翔体となって巨大な地上の文学を暗雲たる空から俯瞰するとすれば、雲と雲の切れ目が少しだけ広くなって、わずかに地上の景色が見えるような、そんな感じでもある.そんなことが何度かあったから、それについて短いけれどお伝えすることとし、私の展望と合わせてここに記そうと思う.

 一つは、Khalil Gibran (ハリール・ジブラーン)のこと.私は、ずっと前から書店のみすず書房のコーナーに、神谷美恵子の著作が並んでいて、その中にGibranの詩訳が置いてあったのが気になっていた.名前からして西アジア出身の人物かな、という類推のもと、パラパラと本をめくったことがあった.神谷美恵子は木下杢太郎(太田正雄)が皮膚科教授であったころの東大医局に出入りしていたと後に知った.こうした縁は文学上直接な関係があったわけではないにせよ、人々は何らかの奇妙な引力でお互いに惹かれ合うのかもしれない.そういうしかない.

 Gibranは当時オスマン帝国の支配下にあったレバノンの出身であること、詩作がよく知られていること、特に「The Prophet:預言者」が世界中で翻訳されていることを私は知った.和文翻訳は確かに大きな書店でも並んでいて、有名だ.だが、原文は地方では通信販売でしか手に入らない.他言語であれば尚更である.私は別の時期に、GibranがThe Prophetを最初はアラビア語で構想を練ったことを知る.彼は若い頃に渡米し英語の素養を身につけるが、帰国しアラビア語の高等教育をも学んでいる.

 幸運にもアラビア語版と原文同時収録の電子書籍を手に入れることができた.私はあまりKindleを使わないから不慣れだが、1000円未満で入手できたのは良い.本の紹介を見ると訳に20年ほどかけたと書いてある.何という長い旅路であることか.これが1000円未満程度になってしまうとは物の価値はよくわからない.私はKindle unlimitedにも入っているから佐久間彪訳の邦訳を無料で読むことができる.そして早速読んでみた.私が感じたのは、思ったほど分量がないことと大変読みやすいということであった.ただ、読みやすいのとわかりやすいというのは意味が異なる.一言一句にかけるエネルギー量が他の作品と違うであろうから、何度もよく読む必要がある.これは何度も味わえるということだから、嬉しいことこの上ない.預言者という題名であるが、人生における手引きのような感覚で、預言者アルムスタファ(المصطفى)が人々に助言を与えるといった内容だ.私は原文を読んでいないから書評はこれからとなる.そして私はアラビア語の勉強に相応しいであろう教材をようやく入手できたから少しずつ、勉強がてら逆翻訳してみようと思っている.近いうちに紹介したいと思う.

 もう一つはRabindranath Tagore(ラビンドラナート・タゴール)のこと.私は最近、Gibranのように非英語圏の人物が優れた英文を著す、という事実に大変心惹かれている.勿論、亀吾郎法律事務所でお世話になっている岡倉天心も非英語圏の優れた著述家であろうと私は思っている.このようなことを言うのは無知を晒すようで恥ずかしいのであるが、私は、自国文化のことを表現するのに自国の言語以上に優れたものはないと思っていたことがあった.何という愚かさ.そんなことはないのだ.少なくとも天心はその試みにおいて成功している.もちろんGibranも成し遂げているのだろう.そしてTagoreも、私の知らない数多くの文人達も.私は天心とTagoreが親交を持ち、両者が互いに行き来したという事実を知り、益々興味が湧いている.Tagoreは天心の死後に彼の墓を訪れているという.Tagoreは五浦にいたことがあったのか.彼ははベンガル語でGitanjali (ギタンジャリ:গীতাঞ্জলি)を著し、後に英文で同著を書いたという.いつか彼の作品を読んでみたいと思っている.

 こうした人々が非母国語で文学作品を創作するというのは、心做しか大いに勇気づけられるものではないのかなと思う.特に語族が大きく異なる文化圏に暮らしている身としては.

 時々私は英文をブログに載せるが、どう贔屓目に見ても私の英文はよくできているとは思えない.様々な瑕疵があるに違いない.だが私は私なりの英文を書いていこうと考えている.そして後から見直してみたり、他者の批評を謹んで受けて少しずつ良いものを目指していきたい.

 最後に、アイスランド出身の作曲家の歌詞を紹介してお終いにしたい.彼はÁsgeir Trausti(アウスゲイル・トロスティ).彼の母語は勿論アイスランド語であるが、英語の美しい詩を書いている.

King and Cross

Glistening nighttime dew, and she is walking with me.  

From the house of red, I hear a child crying.  

Foxes heading home, their prey hangs from their jaws.

And the forest knows, but it won’t share the secret.

When the king takes sides, leaving moral minds; soldiers take their share. Nighthawks seem to sense that now is the time.  

Deep inside them burns the raging fire of life.

He’ll take back what he owns.

Death cannot take hold, if I can keep momentum.  

Fortresses of stone, turn into crystal tears soothed by southern winds; I’ve found my strength now.  

And nobody knows, and we must keep their secret.

When the king takes sides, leaving moral minds; soldiers take their share. Nighthawks seem to sense that now is the time.

Deep inside them burns the raging fire of life.

He’ll take back what he owns.

When the king takes sides, leaving moral minds; soldiers take their share. Nighthawks seem to sense that now is the time.

Deep inside them burns the raging fire of life.

He’ll take back what he owns.

In the Silence, 2013

寿司からはじまる偽装工作

The Book of Tea: 茶の本

Photo by Rajesh TP on Pexels.com

 吾郎君、一体君はいつになったら現象学の続きを書くのかね、と気になる読者がいるかも知れない.心配ご無用である.まだ考えがまとまっていないだけだ.例え話をしてごまかすことにする.

 早朝に漁港へ行くと、ねじり鉢巻をしたおじさんたちが沢山集っていて、お魚を求めて遥々やってきた人々を迎え討つ.一方、良い鮮魚を良い値段で探そうと買い手は必死だ.どれにしようか、あれにしようか.今日はアレ入ってないの?そっかぁ.代わりに何があるって?へぇ、いいじゃない.ソレちょうだいよ.なんていうかもしれない.素材を仕入れて自分の店に戻るとあとは店主のお気に召すままである.魚を捌いて仕込みをする.丁寧に不要な部分を取り出して可食部を洗練させるべく、技工を凝らす.鮮魚故の身の若さから、少し熟成させて旨味を引き出すこともあるかもしれない.客の手元に料理が供され、彼らの口腔内で食材が崩壊するまで、食材は究極完全体として最高の姿であり続けるが、それは蜉蝣の命よりも短い.儚いものよ.あれだけ懸命に探しやっとの思いで手に入れた逸品を、我々の臼歯で擦り潰され、舌で転がされ、消化液と混ざり分解されてしまうのだ.そして皆、液体か粘性の高い褐色の汚物を放り出す.寿司屋で握られたばかりの寿司を口に運んで飲み込むまでの短さ.どうしようもなく美味い.美味いと感じる記憶は永劫だが、その永劫は実際は一瞬であることを知り、その一瞬は消失する.消えたものは姿かたちを変えて、また回帰する.また寿司屋に行けば同じネタが食べられる.しかし同じといってもネタの同一性は連続的ではないことは自明である.以前食べたコハダはもはや貴方の排泄物であり、糞尿でなければ、下水かもしれないし、新たな土壌の肥やしになっているやもしれぬ.

 つまりどういうことかと言われれば、現象学の続編は「準備中」というわけだ.筆者は今まさにネタを仕込んでいる.しかしネタを仕込む時間がどんなにかかっても、公開されて読まれるときは、大抵一瞬である.人々の忘却の彼方へネタが霧散するのはとても切ないからじっくりコトコト準備しようと思っている.一応私なりの職人気質風情はあるので、良いものをお値打ち価格(無償)で提供したい.それをつまらないと思うかどうかは結局お客さんにお任せするしかないのだが.ゴミのような記事を量産する方にはなりたくない.勿体ぶって言うと、亀吾郎法律事務所文芸部哲学科現象学教室は普請中である.お待ちくだされば幸いかな.岡倉天心でお茶を濁すとしよう、と言うと天心に「茶気がなさすぎる」と怒られてしまう.以下、三章の訳文です.粗茶ですがどうぞ.

The germ of Taoist speculation may be found long before the advent of Laotse, surnamed the Long-Eared. The archaic records of China, especially the Book of Changes, foreshadow his thought. But the great respect paid to the laws and customs of that classic period of Chinese civilisation which culminated with the establishment of the Chow dynasty in the sixteenth century B. C., kept the development of individualism in check for a long while, so that it was not until after the disintegration of the Chow dynasty and the establishment of innumerable independent of kingdoms that it was able to blossom forth in the luxuriance of free-thought. Laotse and Soshi (Chuangtse) were both Southerners and the greatest exponents of the New School. On the other hand Confucius with his numerous disciples aimed at retaining ancestral conventions. Taoism cannot be understood without some knowledge of Confucianism and vice versa.

We have said that the Taoist Absolute was the Relative. In ethics the Taoist railed at the laws and the moral codes of society, for to them right and wrong were but relative terms. Definition is always limitation – the “fixed” and “unchangeless” are but terms expressive of a stoppage of growth. Said Kutsugen, – “The Sages move the world.” Our standards of morality are begotten of past needs of society, but is society to remain always the same? The observance of communal traditions involves a constant sacrifice of the individual to the state. Education, in order to keep up the mighty delusuion, encourages a species of ignorance. People are not taught to be really virtuous, but to behave properly. We are wicked because we are frightfully self-conscious. We never forgive others because we know that we ourselves are in the wrong. We nurse a conscious because we are afraid to tell the truth to others; we take refuge in pride because we are afraid to tell the truth to ourselves. How can one be serious with the world when the world itself is so ridiculous! The spirit of barter is everywhere. Humour and Chastity! Behold the complacent salesman retailing the Good and True. One can even buy a so-called Religion, which is really but common morality sanctified with flowers and music. Rob the Church of her accessories and what remains behind? Yet the trusts thrive marvellously, for the prices are absurdly cheap, – a prayer for a ticket to heaven, a diploma for an honourable citizenship. Hide yourself under a bushel quickly, for if your real usefulness were known to the world you would soon be knocked down to the highest bidder by the public auctioneer. Why do men and women like to advertise themselves so much? Is it not but an instinct derived from the days of slavery?

The virility of the idea lies not less in its power of breaking through contemporary thought than in its capacity for dominating subsequent movements. Taoism was an active power during the Shin dynasty, that epoch of Chinese unification from which we derive the name China. It would be interesting had we time to note its influence on contemporary thinkers, the mathematicians, writers on law and war, the mystics and alchemists and the later nature-poets of the Yangtse-Kiang. We should not even ignore those speculators on Reality who doubted whether a white horse was real because he was white, or because he was solid, nor the Conversationalists of the Six dynasties who, like the Zen philosophers, revelled in discussions concerning the Pure and the Abstract. Above all we should pay homage to Taoism for what it has done toward the formation of the Celestial character, giving to it a certain capacity for reserve and refinement as “warm as jade.” Chinese history is full of instances in which the votaries of Taoism, princes and hermits alike, followed with varied and interesting results the teachings of their creed. The tale will not be without its quota of instruction and amusement. It will be rich in anecdotes, allegories, and aphorisms. We would fain be on speaking terms with the delightful emperor who never died because he never lived. We may ride the wind with Liehtse and find it absolutely quiet because we ourselves are the wind, or dwell in mid-air with the Aged One of the Hoang-Ho, who lived betwixt Heaven and Earth because he was subject to neither the one nor the other. Even in that grotesque apology for Taoism which we find in China at the present day, we can revel in a wealth of imagery impossible to find in any other cult.

 道教徒の思索の萌芽は老子、長耳の翁とあだ名された人物が到来する遥か前に見出されるだろう.中国の古代の記録、特に「易経」が、彼の思想の先触れである.しかし紀元前十六世紀に周王朝創始とともに最高潮に達した中国文明の古典時代の法と慣習に払われた大いなる敬意は長きにわたり個人主義の発展を阻害した.個人主義が自由思想へと花開くことが可能となったのは、周王朝が解体し諸王国が独立して樹立した後からであった.

 老子と莊子は二人共南部出身の新学派の偉大な代表人物であった.一方で孔子と数多くの門弟は古くからの慣習を保持しようと目指してきた.道教は儒教の知識を知らずして理解はできず、逆も然りである.

 道教徒の「絶対」は「相対」だと我々は述べた.倫理学において道教徒が社会の法と道徳律を罵倒したのは彼らにとって善悪は相対的な用語にすぎなかったからであった.定義には制約がつきまとう.「一定」と「不変」は異なる用語だが成長の停止を表す.屈原は次のように述べた.「賢者は世界とともに動く」.我々の道徳の基準は社会の過去の必要で生まれたものである.しかし社会はまったく同じ状態であるだろうか.共同社会の伝統を遵守することは、個人が国家に対して常に犠牲を払うことである.教育というのは、多いな幻想に追従するため、無知の種を奨励するのである.人々は真に貞淑を教わるのではなく、真っ当に振る舞うことを教わるのである.我々が不徳であるのはあまりにも自意識がすぎるからだ.我々は他者を許すことが決してないのは、自分たちが間違っていると知っているからだ.我々は良心を大切にするのは真実を他に伝えるのを恐れるからである.自身に真実を伝えることを恐れるから自負に訴える.世間そのものが馬鹿げているのにどうして世間に真面目でいられるのか.物々交換の精神はそこら中にある.ユーモアと純潔だと.「善」だの「真」だのを商売にする独善的な商人を見たまえ.人は所謂信仰を買うことはできるが、花と音楽で聖別された通例の道徳にすぎない.教会からそうしたお飾りを取り去って何が残るのか.しかし企業連中は大繁盛だ.値段は呆れるほど易いからだ.天国行きの切符を手に入れるための祈りも、名誉市民の免状も.急いで自分の天賦を隠すのだ.貴方の本当に役立つものが世界に知られると、競売にかけられ最高入札額で落札されるだろう.なぜ男も女もそんなに自分を広告したがるのだ.奴隷時代に由来する本能なのではないか.

 続発的な諸運動を支配する能力に劣らず、同時代の思想を突破する力に、道教思想の雄渾はある.道教は、支那という名が得られた中国統一の始まりである秦王朝の間、実質的力を持っていた.もし同じ時代の思想家、数学者、兵法家、神秘主義者、錬金術者そして揚子江の後期自然詩人が蒙るその影響を私達が記す時間はないが、それは興味深いであろう.白馬が本物なのはそれが白いからだ、あるいは固体だからである故かと考える「実在」思想家や、禅学者のように「純粋」と「抽象」に関する議論に耽った六朝の保守派を無視するべきではない.とりわけ、我々はみな「翡翠のように暖かい」慎みと清廉の能力を授け、中国の特性形成にむけて成し得た道教に敬意を払うべきである.中国の歴史は道教の唱道者、王侯や隠者も同じく、信条の教えを説く多彩で面白い説話で溢れている.説話は説法と愉悦が必ず割り当てられている.逸話や寓話、金言が存分に含まれている.我々は喜んで、生きていないから死んでもいない愉快な皇帝と話をしたいものだ.我々は風そのものなのだから、列子と風に乗り、絶対の静寂を探そう.或いは黄河の翁たちが、天でも地でもない故に天地の間に暮らしたように、彼らとともに中空にとどまろう.今日の中国で我々が見出す奇抜な弁明の道教にさえも、我々は他のいかなる信仰では見つけられない豊富な空想話を楽しむことができるのだ.

 なかなか翻訳は骨が折れる作業ですが、天心の言わんとするところを感じる瞬間、すっと風が吹いてきて気持ちが良いのです.特に第二段落は圧巻です.世間が馬鹿げているのにどうして真面目でいられる?この頃から世の中は馬鹿げているのだなぁ、やっぱりそうなんだなぁ.亀吾郎法律事務所も俗っぽくなって試しに広告掲載を始めましたが、収益は一切ございません!やったぜ.

 ”Why do men and women like to advertise themselves so much? Is it not but an instinct derived from the days of slavery?”「なんでみんなそんなに広告好きなの?奴隷根性抜けてないんじゃないの?」と言われてしまえば返す言葉もございません.拝金主義?所詮亀吾郎法律事務所も俗人の集いなのかもしれない.でも俗人でない人っているのかしら.

 ここまで読んでくださりありがとうございました.

Freude am Rühren かきまぜる喜び

The Book of Tea: 茶の本 Chapter III 第三章

Taoism and Zennism 道教と禅道

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Take eggs out from refrigerator, crack two or three of them and pour into bowl, then beat. Put a piece of butter into a flying-pan. Make a fire and melt it until the butter covers the surface. When the pan gets enough heated, pour beaten eggs into the pan, then stir them as fast as possible with your full energy.

When eggs become soft-scrambled, put away from the fire and let them cool. About 30 seconds of silence. Take off the remains of eggs on the edge of pan with spatula, at this time, you may mix in other ingredients. Put the pan on the fire again with a high heat, tidy up a shape like spindle. Use wrist pliably to turn over the cuisine on the pan, then serve it in a plate. Need ketchup? Help yourself.

This is an irreplaceable moment. If a stew is a long-distance race, this cuisine is a sprint. This is a race to the finish in an instant. Winner is for those who cook the dish better.

A hot omelette is always an outstanding masterpiece. Many will adore the creamy taste of omelette. The sauce of yolk overflows when corrupting the perfect creation, this is a breathtaking moment but also a painful time. The mild saltness of butter is awesome. You can put in sliced cheese, mushrooms, beacon, chopped vegetables are fantastic. minced meat are greatly welcomed. An omelette adopts every ingredients and embodies with itself. The definition of the legitimate omelette cannot be decided forever. because whoever the chef, such as the Spanish, the French, the Taiwanese, or the Iranian, always make excellent omelettes in their styles. Egg dishes were the beloved of people since the era of an ancient empire, they eagerly took pains and enjoyed the completion of recipe, by studying how to heat or to mix with other ingredients.

 冷蔵庫から鶏卵を取り出す.二、三個割って、器に入れて溶き卵にする.フライパンに牛酪を入れる.火をつけて溶かし表面を油で覆う.フライパンを十分に温めたら溶き卵を注ぎ、全身全霊で一気にかき混ぜる.

 

 半熟になってきたら、火からフライパンを離し、少し冷ます.約30秒の静寂.縁についた卵を箆で剥がし、ここで具材を任意で放る.再び火にかけ、紡錘状に形を整えてゆく.手首をうまく使ってパン上でひっくり返す.皿に盛る.ケチャップはお好みで.

 

 この時間は刹那.煮込み料理が長距離走なら、この料理は短距離走だ.一瞬で勝負がつく.美味しくできれば優勝だ.

 

 出来上がったオムレツは美味しい.ふわふわなオムレツが好きな人は多い.崩すと中からとろっと溢れる卵液.牛酪の塩加減が絶妙だ.中に乾酪があっても良いし、茸でも、ベーコンでも良い.刻んだ野菜も良いし、挽肉と和えたって良い.オムレツは具材を受容し自らと一体化する.勿論、もっと変性させて固くしても良い.スペイン風でも、フランス風でも、台湾風でもイラン風でも美味しいに違いない.だからオムレツの定義は難しい.何が正統なオムレツかはどうでもよい.古代の帝国から鶏卵料理は人々に寵愛され、その生命の器をどのように熱して、どのような具材と混ぜるか、苦心し、完成を楽しんできた.

と、ここまでは英文和文ともに私の文章.以下は天心の訳になります.オムレツの礼賛、いかがでしたか.


The connection of Zennism with tea is proverbial. We have already remarked that the tea-ceremony was a development of the Zen ritual. The name of Laotse, the founder of Taoism, is also intimately associated with the history of tea. It is written in the Chinese school manual concerning the origin of habits and customs that the ceremony of offering tea to a guest began with Kwanyin, a well-known disciple of Laotse, who first at the gate of the Han Pass presented to the “Old Philosopher” a cup of the golden elixir. We shall not stop to discuss the authenticity of such tales, which are valuable, however, as a confirming the early use of the beverage by the Taoists. Our interest in Taoism and Zennism here lies mainly in those ideas regarding life and art which are so embodied in what we call Teaism.

It is to be regretted that as yet there appears to be no adequate presentation of the Taoists and Zen doctrines in any foreign language, though we have had several laudable attempts.

Translation is always a treason, and as a Ming author observes, can at its best be only the reverse side of brocade, – all the threads are there, but not the subtlety of colour or design. But, after all, what great doctrine is there which is easy to expound? The ancient sages never put their teachings in systematic form. They spoke in paradoxes, for they were afraid of uttering half-truths. They began by talking like fools and ended by making their hearers wise. Laotse himself, with his quaint humour, says “If people of inferior intelligence hear of the Tao, they laugh immensely. It would be the Tao unless they laughed at it.”

The Tao literally means a Path. it has been severally translated as the Way, the Absolute, the Law, Nature, Supreme Reason, the Mode. These renderings are not incorrect, for the use of the term by the Taoists differs according to the subject-matter of the inquiry. Laotse himself spoke of it thus: “There is a thing which is all-containing, which was born before the existence of Heaven and Earth. How silent! How solitary! It stands alone and changes not. It revolves without danger to itself and is the mother of the universe. I do not know its name and so call it the Path. With reluctance I call it the Infinite. Infinity is the Fleeting, the Fleeting is the Vanishing, the vanishing is the Reverting.” The Tao is in the Passage rather than the Path. It is the spirit of Cosmic Change, – the eternal growth which returns upon itself to produce new forms. It recoils upon itself like the dragon, the beloved symbol of the Taoists. It folds and unfolds as do the clouds. The Tao might be spoken of as the Great Transition. Subjectivity it is the Mood of the Universe. Its Absolute is the Relative.

It should be remembered in the first place that Taoism, like its legitimate successor Zennism, represents the individualistic trend of the Southern Chinese mind in contradistinction to the communism of Northern China which expressed itself in Confucianism. The Middle Kingdom is as vast as Europe and has a differentiation of idiosyncrasies marked by the two great river systems which traverse it. The Yangtse-Kiang and Hoang-Ho are respectively the Mediterranean and the Baltic. Even to-day, in spite of centuries of unification, the Southern Celestial differs in his thoughts and beliefs from his Northern brother as a member of the Latin race differs from the Teuton. In ancient days when communication was even more difficult than at present, and especially during the feudal period, this difference in thought was most pronounced. The art and poetry of the one breathes an atmosphere entirely distinct from that of the other. In Laotse and his followers and in Kutsugen, the forerunner of the Yangtse-Kiang nature poets, we find an idealism quite inconsistent with the prosaic ethical notions of their contemporary northern writers. Laotse lived five centuries before the Christian Era.


 禅道と茶の結びつきはよく知られている.我々は既に茶会が禅道の儀礼の発展であることについて述べてきた.道教の創始である老子の名も、茶の歴史と密接である.慣習と風俗の起源に関する中国の指南書に、客に茶を提供する儀礼が記されており、茶会は老子の門弟で有名な関伊が函谷関で「老賢者」に初めて一杯の黄金の霊薬を振る舞ったことが始まりとされている.我々はそのような話の真偽を論じることを止めはしない.しかしながら、道教徒による茶の古い使用を確証するものとしてその話には価値がある.道教と禅道に対する我々の関心は主に、茶道に体現する人生と芸術に関するこうした思想にあるのだ.

 

 我々は幾度と尊ぶべき試みを行ってきたのにも関わらず、道教徒と禅宗の教義を表す適当な外国文がないことは遺憾である.

 翻訳というのは常に背信である.そして、ある明朝の著作家が述べるように、せいぜい最善を尽くしても錦織の裏でしかない.あらゆる錦糸は織り込まれても彩色と意匠の精緻はない.しかし結局、説明するのが容易い偉大な教義とは何であろうか.古の賢人は系統だった形式で説法をすることは決してなかった.彼らは逆説的に話をした.というのは半分正しいことを述べることを恐れたからである.彼らは愚者のように話し始め、聞き手が賢くなるよう話し終えたのだ.老子自身、奇警なユーモアを備え、「知性の劣る人が『道』を聞けば、笑い転げるであろう.笑われない限りは『道』ではない」と言ったのだ.

「道」は文字通り、「路」を意味する.それは「方法」、「絶対」、「法」、「自然」、「最上の理性」、「様式」と幾度も訳されてきた.これらの言葉は誤ってはいない.質問の主題によって道教徒が用いる言葉が異なるからだ.老子自身このように述べている.「万物を有する物が存在する、それは天地の存在以前に生まれたのだ.なんと静かなことか.なんと寂しいことか.独り立っていて変わることはない.自身を巻き込むが危険がなく、宇宙の母なのである.私はその名を知らないから『道』と呼ぼう.気が進まないが『無限』と呼ぼう.『無限』とは『一瞬』であり、『一瞬』とは『消滅』である.『消滅』とは『回帰』である.『道』とは『路』よりも『径』である.『道』は『宇宙変化』の精神であり、新たな形を生み出すため自身へと回帰する永遠の成長である.自身に返る龍のように、道教徒に愛された象徴である.雲のように立ち込め、溶けてゆく.『道』は『大きな過渡期』として話されるのだろう.主体としては『宇宙』の『様式』である.その『絶対』は『相対』である」

はじめに覚えておくべきは、禅宗が道教の正統な後継者であるように、道教は、儒教として表される中国北方の共産主義と異なって、中国南部の精神の個人主義的傾向を表している.中華王国はヨーロッパと同じ広さであり、特異性の分化が、横断して流れる二つの大河によって生まれた.揚子江と黄河は地中海とバルト海に相当する.今日でさえ、統一の世紀にも関わらず、南方中国は、ラテン系とチュートン系で異なるように、思想と信条が北方の同胞と異なるのである.古代の時代には意思疎通は現代よりもますます困難であり、特に封建時代の間、思想の差異は最も著しいものであった.技芸と詩歌は他方とは全く異なる空気感を生み出す.老子とその門弟において、揚子江の自然詩人先駆者である屈原において、我々は現代の北部文人の散文的で倫理的観念とはまったく不一致な理念を見出す.老子はキリスト教の時代五世紀以前に生きていたのである.

ニュー・ジャック・スイングに寄せて

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 ニュー・ジャック・スイング(New jack swing: NJS)という音楽ジャンルがある.ご存知でない方に素人なりの説明をすると、1980年代後半から90年前半にかけて流行したジャンルで、黒人音楽家を中心に、歌謡曲の音楽シーンを席巻したとされる.ジャズやポップスやリズム・アンド・ブルースに近いのかもしれない.

 この頃の私は、まだ存在も怪しく、人間としても曖昧な状態であったので記憶にない.NJSを知ったのは2000年代後半であった.その時は私は一介の浪人であり、主に川口市で住み込みで勉強をしていた.大学受験という戦場を生き残るべく、私は朧気な幽鬼(ゴースト・オブ・カワグチ)となって、満員電車の薄い酸素を吸い、都会のすえた臭いやタバコの煙を否応なく浴びていた. 

 とあるNJSの代表的な音楽家がその頃プロポフォールの呼吸抑制で死亡し、世間は皆こぞって「R. I. P.」という言葉を使いはじめ、小児性愛の嫌疑で煙たがられた彼を掌返しして、優れたエンターテイナーとして称賛し始めたときであったと思う.実際に傑出した人物であったのだが.

 私は、模擬戦ともいえる模試をいくつも受け終えて、ヘトヘトとなり川口市のショッピングモールにあるCDショップに癒やしを求めていた.音楽を聴くこと、寝ること、食事が癒やしだった.以前購入したエミネム(Eminem)のアルバム、「Relapse」を聴いたとき、それは覚醒剤の後遺症再燃を音楽にした内容で、曲も歌詞も病的に狂気じみていたために、買って興ざめしてしまった苦い経験があった.その失敗を繰り返したくないと思い、私はアルバム選びを慎重に行おうとしていた.エミネムを非難するつもりはなく、勿論、彼の曲には「Lose yourself」や「Stan」、「Without me」といった洗練された怒りと痛烈な風刺が込められたものが多く、浪人の身によく沁みたものであった.期待して新作を買いたくなっただけだった.

 訪れたCDショップも漏れなく「R. I. P.」で飾られた希代のエンターテイナーを追悼するコーナーを設け、悼みを経済の力にする意図があったように思う.私は結果的にその意図に便乗した.彼は御存知の通り、マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)である.当時、CDはまだ売れていた時代で、ガラケーが流布していた.音楽配信が定額制(サブスクリプション)ではなかった頃で、もっぱら元データをパソコンに取り込んだり、携帯電話に移植することが求められた.そういった時代は、そういうものだとして、特に不自由しなかった.アルバムの表紙(ジャケット)は今でもそうかもしれないが、音楽家の思想・信条・作風を象徴する、そんな理解で私は鑑賞していた.

 「Dangerous」というアルバムがある.これは1991年に出た作品で、ジャクソンの黄金期にあったものだと思う.このアルバムのジャケットは奇怪である.彼の中性的な眼差しだけがベネチアンマスクのように縁取られており、何かを招くような門の華飾になっている.周囲には様々な偶像が描かれ、意味深なのか意味不明なのか、一目見てわかるようなものではなかった.背景は真っ暗で華美すぎる上記の装飾と対照的である.どこか無機的な彼の目線を除けば、静かな狂気を感じる.彼の栄光とその内面の陰りを示唆しているのかはわからないが、熱心なファンであれば十分な薀蓄を語るに足るデザインであろう.

 私はそのジャケットに惹かれた.ジャクソンのことは全く知らなかった.若干Freakyな人物なのかな、といった前情報しか知らなかった.偏見もなかった.だからあまり期待はしなかった.「Relapse」の教訓は生かされなかった.

 学生寮に戻り、私はCDプレイヤーにディスクをはめて、再生した.ガラスの割れる音がして、

“One, two, three, jam…”

という声がし始めてまもなく、今まで聴いたこともない音が、私を揺さぶった.何だ、この音作りは.何かを引きずるような、叩きつけるような、打ちのめすような旋律は.それにこの透き通るようでパンチの効いた声は聴いたことがない.これがマイケル・ジャクソンか.

 すかさず私は、付属の歌詞カードを眺めた.最近はCDを買わないので事情を知らないが、当時のCD付属の歌詞と和訳が乗った小冊子はとても好きだった.誰だかわからないふざけた名前の人物が、歌手の来歴と曲の紹介を綴っていて、純粋な読み物として面白かったのだ.現在はどうなっているのだろうか.

 一曲目は「Jam」という.歌詞からして果物を煮込んで瓶詰めにしたものではなさそうだ.

“Jam, it ain’t too much for me to”

と歌詞には繰り返しある.Jam、という言葉をどう訳するかが鍵のようだ.語順からしてto不定詞の後であるから、動詞として用いるはずである.あるいは先頭に来ているから、やはり動詞の命令形として一部使いそうだ.という推測はつく.私が当時読んだ歌詞カードには「jam」は次のように訳してあった.

「集中せよ」(*Wikipediaの記事では「集中よ」とある)

 ふーむ.と私は疑りながらも、一応の説得力を持つ訳だなと当時は思わざるを得なかった(*集中よ、の訳はよくわからない).辞書で引いても「集中」という解釈は出てこない.さてどうしたものか.ところで”it ain’t too much for me to”に触れておくと、ain’tというのは、is not, am not, are notの略という理解で良いだろう.Itは形式主語であり、意味上の主語はforに続くmeである.つまり、「私にとって(to以下は)多すぎることはない」、「私には(to以下は)どうということはない」、「(to以下は)どうってことないぜ」の意で通せる.(to以下)のことはjamにもつながるので後述する.

 彼の歌詞の訳はウェブ上で沢山あるので今はいつでも参照できる.私がゴースト・オブ・カワグチだった頃、そういうものはまだ少なかったから、言葉を調べたり、訳を考えるには己の髄脳で考えるのが早かった.才能が許せばの話だが.当時は才能が許さなかったので、今考えている次第である.かといって今の私に才能があるわけではない.

 jamはあまり良い意味で用いられないことが多い認識である.例えば、交通渋滞はtraffic jamである.これが最もjamの名詞的用法として理解しやすいだろう.Thesaurusで調べてみれば、

1. a traffic jam: tailback, line, stream, hold-up, obstruction, congestion, bottleneck, stoppage

2. informal I’d tell you if we ever got into a real jam: predicament, plight, tricky situation, ticklish situation, awkward situation, spot of trouble, bit of bother, difficulty, problem, puzzle, quandary, dilemma, muddle, mess, quagmire, mire, imbroglio, mare’s nest, dire straits; with nowhere to turn

といった具合である.動詞はというと、

1. he jammed a finger in each ear: stuff, shove, force, ram, thrust, wedge, press, push, stick, squeeze, compress, confine, cram, pack, sandwich, insert.

2. several hundred friends and celebrities jammed into the shop students soon jammed the streets: crowd, pack, pile, press, squeeze, cram; throng, occupy, fill, overfill, overcrowd; obstruct, block, clog, congest; North American mob.

3. the rudder had jammed: stick, become stuck, catch, seize (up), become immobilised, become unable to move, become fixed, become wedged, become lodged, become trapped.

であり、何かがギュウギュウ詰めになっている、鮨詰め状態で閉塞している状態を表していることに変わりない.辞書的にそんなに良い意味ではない.正月の福袋をもらいにギュウギュウになる人々を見て良い気はしない.ギュウギュウ詰めで嬉しいのは餃子や肉まん、焼売などだろう.

 ジャムが果実を煮詰めて濃縮したもの(concentration)と考えれば、濃縮という言葉を人間の動作に適用すると「集中」といった言葉になるのかもしれない.しかし、待てよ.

“Jam, it ain’t too much for me to”

ばかりに気を取られていると大意を見失うやもしれない.以下に歌詞の一部を引用する.

Nation to nation all the world must come together
Face the problems that we see
Then maybe somehow we can work it out
I asked my neighbor for a favor she said later
What has come of all the people have we lost love of what it’s about

I have to find my peace cuz no one seems to let me be
False prophets cry of doom
What are the possibilities
I told my brother there’ll be problems,
Times and tears for fears,
We must live each day like it’s the last

Go with it, Go with it,

Jam
It ain’t too much stuff
It ain’t too much
It ain’t too much for me to
Jam
It ain’t It ain’t too much stuff
It ain’t Don’t you
It ain’t too much for me to

The world keeps changing
Rearranging minds and thoughts predictions fly of doom
The baby boom has come of age
We’ll work it out

I told my brothers
Don’t you ask me for no favors
I’m conditioned by the system
Don’t you talk to me
Don’t scream and shout

She prays to god, to Buddha
Then she sings a Talmud song
Confusions contradict the self
Do we know right from wrong
I just want you to recognize me in the temple
You can’t hurt me
I found peace within myself

 「私」の願いが他者たる社会へ届かない現実と、それでも社会へ協力を呼びかける「私」、といった具合だろうか.解釈は多義的になるとしても大筋は間違ってはいまい.メッセージ性はさておき、jamの意味を考えると「集中せよ」よりも「集結せよ」「集え」のほうが私見では良さそうである.その理由は歌詞の冒頭が一つになりうるだろう.「come together」は一緒になる、一つになる、という意味だ.「国家や人々が一つになって問題を直視せねば」という歌詞からわかるように、社会の関心を呼びかける文意を考慮すると、jamは「concentrate」よりも「unite」寄りの理解が適切と思われる.音楽の用語でジャムというのは、複数人が集まって即興の演奏をするような、ゴチャゴチャ感を含んだものを言うらしい.セッションというやつか.黒人の音楽一家を出自にもつジャクソンにとってjamは決して否定的な意味ではなく、むしろ人が集まることで偶然生まれる無限の可能性を言うのかもしれない.uniteという言葉は力強いが物言いがはっきりしているだけに、政治的な意味合いを含み得る.jamの方が音としてもシンプルで、通っぽく、俗っぽくて良い.昭和のツッパリみたいな言い方をすると、「つるむ」というのか.

 では訳はどのように反映させたら良いか.これは難しい問題である.韻を意識せずに訳することが許されるなら、「集まろう」、「まとまろう」、「さぁ一緒に」と言った具合だろうか.うまくいかない.団結でも良いが、「労働者よ、団結せよ!」のような誤解をされてしまうのも氏に失礼である.単なる命令形では上からの物言いで高圧的な感じを与える.のび太くんに「俺たち友達だよな?な?友達ですって言えよ」というジャイアンのようになってしまう.

「俺とつるもうぜ」

となると、男子生徒が一緒にトイレに行く「連れション」になってしまいそうで、私は採用できない.うむむむ.難しい.私はjamの訳を今でも10年近くずっと考えている.

 私は「Dangerous」以来、ジャクソンの歌うNJS調の曲が好みの一つになった.彼自身がどういう人物かはともかく氏の音楽は浪人時代の学業の賦活剤となった.聴力に悪影響を及ばさない程度に大音量で聴いていた.電車内のノイズキャンセラー、試験前の緊張感を緩和するメンターとして浪人時代の秋以降、ずっと聴いていたのだった.私の脳内セロトニン濃度を一定に保てたのは氏のおかげかもしれない.

 NJSが今も残っているのかどうか知らないが、私にとってこの音楽ジャンルは私の心を強く揺さぶった(swingした)であり、洋楽への関心をより惹きつけた重要な用語である.この曲を聴いたのは9月のことだった.私にとって9月は秋の訪れだけでなく、新たな音楽との歴史的邂逅でもあった.今でもこの季節になるとNJSが脳裏を揺さぶる.

ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

The Book of Tea: 茶の本 其の弐 ③

Chapter II 第二章

 こんにちは.第二章の続きです.ここで一度岡倉天心の和訳は中断して、また他の記事を書いていくつもりです.大体このような5−6段落の英文は、3-4時間くらいで和訳するのですが、この速度はどのくらいの水準なのでしょうね.この本、本当にお茶の勉強になりますよ!

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The tea-ideal of the Sungs differed from the Tangs even as their notion of life differed. They sought to actualise what their predecessors tried to symbolise. To the Neo-Confucian mind the cosmic law was not reflected in the phenomenal world, but the phenomenal world was the cosmic law itself. AEons were but moments – Nirvana always within grasp. The Taoist conception that immortality lay in the eternal change permeated all their modes of thought. It was the process, not the dead, which was interesting. It was the completing, not the completion, which was really vital. Man came thus at once face to face with nature. A new meaning grew into the art of life. The tea began to be not a potential pastime, but one of the methods of self-realisation. Wangyucheng eulogised tea as “flooding his soul like a direct appeal, that its delicate bitterness reminded him of the after-taste of a good counsel.” Sotumpa wrote of the strength of the immaculate purity in tea which defied corruption as a truly virtuous man. Among the Buddhists, the southern Zen sect, which incorporated so much of Taoist doctrines, formulated an elaborate ritual of tea. The monks gathered before the image of Bodhi Dharma and drank tea out of a single bowl with the profound formality of a holy sacrament. It was this Zen ritual which finally developed into the Tea-ceremony of Japan in the fifteenth century.

 宋の茶の理想は唐のそれと異なるように、彼らの人生観と相応死している.宋の人々は自分らの先祖が象徴化しようと試みたものを具現化しようとした.新儒教徒の精神にとって、宇宙の法則は現象世界において反映しているのでなく、現象世界が宇宙の法則そのものなのであった.永劫とは一瞬であり涅槃は常に掌中にあった.不死性が永遠の変化の中に存在するという道教徒の概念は宋人全員の思考様式に浸透した.興味深いのは過程であり、死ではない.真に重要なものであるのは、完成させることであって完成ではない.このようにして即座に人は自然と向き合ってきた.新しい意味が萌えて生の芸術へ育まれていった.茶は詩的な気晴らしではなく、自己実現の手段の一つとなっていった.王禹偁は茶を「直な魅力のように魂を満たし、その繊細な苦さは良い助言の後味を思い起こさせる」と賛辞した.蘇東坡(蘇軾)は、真に徳のある人物として腐敗を拒む茶の清浄無垢の力だと記した.仏教徒の間で、南方の禅の宗派は、道教の教義をかなり取り入れていて、凝った茶の儀式を定めた.僧侶たちは菩提達磨の像の前に集い、深淵な聖餐の儀礼的行為とともに一杯の茶を飲んだ.十五世紀の日本の茶の湯を最終的に発展させたのは禅宗の儀礼であったのだ.

Unfortunately the sudden outburst of the Mongol tribes in the thirteenth century which resulted in the devastation and conquest of China under the barbaric rule of the Yuen Emperors, destroyed all the fruits of Sung culture. The native dynasty of the Mings which attempted re-nationalisation in the middle of the fifteenth century was harassed by internal troubles, and China again fell under the alien rule of the Manchus in the seventeenth century. Manners and customs changed to leave no vestige of the former times. The powdered tea is entirely forgotten. We find a Ming commentator at loss to recall the shape of the whisk mentioned in one of the Sung classics. Tea is now taken by sleeping the leaves in hot water in a bowl or cup. The reason why the Western world is innocent of the older method of drinking tea is explained by the fact that Europe knew it only at the close of the Ming dynasty.

 不幸なことに、十三世紀の蒙古族の突発的襲来によって、中国が侵略され荒廃し、元朝の野蛮な支配下で、宋文化のあらゆる成果を破壊された.十五世紀中葉で国家再興を企てた土着の明王朝は、内憂によって困窮し、中国は十七世紀の満州族の異人統治に再び甘んじた.風俗慣習は変わり先代の形跡を微塵も残さなかった.抹茶は完全に忘れ去られた.明時代の評論家は、宋時代の古典の一つに言及された茶筅の形を呼び覚ますことに途方に暮れている.茶は湯の入った茶碗に茶葉を淹れることで飲む.西洋世界が茶飲みの旧法に無頓着な理由はヨーロッパが明王朝の末期に初めて茶を知ったという事実によって説明される.

To the latter-day Chinese tea is a delicious beverage, but not an ideal. The long woes of his country have robbed him of the zest for the meaning of life. He has become modern, that is to say, old and disenchanted. he has lost that sublime faith in illusions which constitutes the eternal youth and vigour of the poets and ancients. He is an eclectic and politely accepts the traditions of the universe. He toys with Nature, but does not condescend to conquer or worship her. His Leaf-tea is often wonderful with its flower-like aroma, but the romance of the Tang and Sung ceremonials are not to be found in his cup.

 後世の中国人にとって茶は美味な飲料であったが理想的ではなかった.国の長い悲しみは人生の意味に対する喜びを奪い去った.人々は現代人となった、すなわち、老いて魅力を失った.詩人であった古代人の生気と永遠の若さを構成する幻想に対する崇高な信頼を失ってしまった.人は折衷的であり宇宙の伝統を丁重に受容する.彼は自然と戯れるが、崇めもせず支配しようと恩着せがましいこともしない.茶葉はしばし花の香のように素晴らしいが、唐と宋の茶の湯のロマンスは碗の中に見いだされない.

Japan, which followed closely on the footsteps of Chinese civilisation, has known the tea in all its three stages. As early as the year 729 we read of the Emperor Shomu giving tea to one hundred monks at his palace in Nara. The leaves were probably imported by our ambassadors to the Tang Court and prepared in the way then in fashion. In 801 the monk Saicho brought back some seeds and planted them in Yeisan. Many tea-gardens are heard of in the succeeding centuries, as well as the delight of the aristocracy and priesthood in the beverage. The Sung tea reached us in 1191 with the return of Yeisaizenji, who went there to study the southern Zen school. The new seeds which he carried home were successfully planted in three places, one of which, the Uji district near Kioto, bears still the name of producing the best tea in the world. The southern Zen spread with rapidity, and with it the tea-ritual and the tea-ideal of the Sung. By the fifteenth century, under the patronage of the Shogun, Ashikaga – Yoshimasa, the tea ceremony is fully constituted and made into an independent and secular performance. Since then Teaism is fully established in Japan. The use of the steeped tea of the later China is comparatively recent among us, being only known since the middle of the seventeenth century. It has replaced the powdered tea in ordinary consumption, though the latter still constitutes to hold its place as the teas.

 日本は、中国文明の後をぴったりつけており、その三つの時代全てを知っている.早くも729年に我々は聖武天皇が奈良の宮廷で百人もの僧侶に茶を授けたという記載を見る.茶葉はおそらく遣唐使から持ち込まれ、当時の作法でもてなされたのだろう.801年に僧侶である最澄は茶の種を持ち帰り叡山に植えた.その後数世紀にわたって多くの茶園が拓かれ、茶は貴族と僧侶の愛飲するところとなった.宋の茶は1191年、栄西禅師(明菴栄西)の帰国とともに我々のもとへ渡った.彼が故郷に持ち帰った新しい種子は三箇所に首尾よく植えられ、うち一箇所は京都近郊の宇治であり、世界で最高の茶を生産する名を保っている.南方の禅宗は急速に広まり、それとともに宋での儀式と理想も広まった.十五世紀には将軍足利義政の庇護下で、茶会はすっかり完成し、独立した世俗の催しとなった.以来、茶道は日本で完全に確立された.その後中国の煎茶の使用は、我々の間で比較的新しいものであり、十七世紀の中葉以来初めて知られている.抹茶が茶としての地位を保つことが後もできたにも関わらず、常用の消費には煎茶が抹茶に取って代わっている.

It is in the Japanese tea ceremony that we see the culmination of tea-ideals. Our successful resistance of the Mongol invasion in 1281 had enabled us to carry on the Sung movement so disastrously cut off in China itself through the nomadic inroad. Tea with us became more than an idealisation of the form of drinking; it is a religion of the art of life. The beverage grew to be an excuse for the worship of purity and refinement, a sacred function at which the host and guest joined to produce for that occasion the utmost beatitude of the mundane. The tea-room was an oasis in the dreary waste of existence where weary travellers could meet to drink from the common spring of art-appreciation. The ceremony was an improvised drama whose plot was about the tea, the flowers, and the painting. Not a colour to disturb the tone of the room, not a sound to mar the rhythm of things, not a gesture to obtrude on the harmony, not a word to break the unity of the surroundings, all movements to be performed simply and naturally – such were the aims of the tea ceremony. And strangely enough it was often successful. A subtle philosophy lay behind it all. Teaism was Taoism in disguise.

 茶の理想に到達するのを我々が目の当たりにするのは日本茶においてである.1281年の蒙古襲来をうまく退けたために、我々は、異民族侵入で惨めにも断たれた宋の運動を継続することができたのであった.我々と茶の関係は飲用の形式の理想以上となった.茶は洗練と純真の礼賛に対する口実となり、主人と客が一緒に、俗世の至上の祝福の機会を生みだす神聖な役となった.茶室は疲労した旅行者が集って、芸術鑑賞という共通の泉から喉を潤すため、存在の寂しい荒地のオアシスであった.茶の湯は茶、花々そして絵画についての即興劇であった.部屋の調子を乱す色はなく、事物の旋律を損ねる音はなく、調和を破る動作はなく、周囲の統一感を壊す言葉もなく、あらゆる動作は素朴で自然になされるのである.そういったことが茶会の趣旨であった.そして奇しくも茶会はたいてい上手くいくのだった.かすかな理念はすべてその背後にあった.茶道は道教の姿を変えたものであった.

いつもここまで読んでくださってありがとうございます.亀吾郎法律事務所をよろしくお願いいたします.