「キーボード」の話

 こんにちは.吾郎です.近日私達の住む所は天気が穏やかで、摂氏25度、湿度54%と温度計に示されていました.こんな気候は、夏の英国のバース(Bath)やブライトン(Brighton)、米国加州のナパ(Napa)、ソノマ(Sonoma)を思い出します.北海道も似たような空気感でした.皆さんはいかがお過ごしですか.私達はこんな気候がずっと続いたらなぁと、みんなで話しておりました.

 先日、荷物を送るために、宅急便の事務所に行きました.メルカリというオンライン上で個人が物品の売買を可能にするサービスを利用して、匿名の相手へ配送を依頼しました.送料などの支払はオンラインでなされる為、金銭のやり取りは其の場で行わず、必要最低限の接触で済みました.携帯電話に作成されるQRコードを店舗で読み取ってもらうだけでした.今のご時世に即しためずらしく合理的な仕組みだなと関心しておりました.その背景でなされる手続きはどのくらい大変なのかはわかりませんが、現場の方々にとっても円滑なシステムであることを願っています.

 私達はわけあって、「キーボード」を送る必要がありました.店先でこんなやりとりがありました.

「中身はなんですか」

「キーボードです」

「あぁ、キーボード、楽器ってことね、梱包は大丈夫ですか」

「いえ、パソコンのキーボードでして.ちゃんと包んであります」

とっさにキーボードを打つ仕草をしながら私は言いました.

「あら、パソコンの方ね.すみません、キーボードっててっきり楽器の方かと.笑われちゃうわね」

「いえいえ、こちらこそすみません」

 こうして和やかに手続きは終わりました.帰り道、さぶちゃんと少し話をしました.

「キーボードと言つても、楽器の方もあるんだねえ.我々はパソコンのキーボードを送るつもりだつたから、そつちの方は思いもよらなかつた」

「そうだねぇ.向こうは自分を卑下していたけど、そんなことないよね」

「パソコンのキーボードを打つ動作も、楽器のキーボードを打鍵する動作も同じだからなあ、あの仕草は全くの無駄だつたなあ、お笑いだね」

 私はキーボードは「パソコンの」だと信じきっていたので、今回のやり取りは全く不意を突かれたものでした.思い込みというのはその時に覆されるまでずっと続くのですから、結構怖いもので、いかに私達の確信形成というのは脆く不備があるものかと実感したのでした.そうした齟齬は問題事にならずに済んだのは幸運であったと思います.


 確信を形成する機構について、というと大風呂敷を広げてしまうテーマですが、現象学ないし精神医学を学ぶ身として、私達の認知に於いて時に深刻なエラーを引き起こしうる、この誤った確信或いは歪んだ認知、というのはやはりよく追求すべき領域なのだと考えます.統合失調症や覚醒剤精神病に代表される幻覚妄想状態だけではなく、後天的かつ不可逆的な神経認知領域の変化すなわち認知症、自己の容姿に対する認知変化が引き起こす醜形恐怖症などの不安障碍圏、摂食障害といった病態はいずれも自己の確信形成に重大な機能不全・失調が起きているのでしょう.勿論、双極性障碍や大うつ病といった気分障碍圏でも認知の歪みが生じてしまいます(心気妄想など).そして言うまでもなく、健常とされている医学的に問題の指摘されていない人々でさえも.

 確信成立の条件を解明することと、それが生物学的な次元でどのように反映されるか.そして打開策を現実世界にどう活用させるか.よく精神科臨床は「話聞いていればいいよね」のような誤解を受けますが(個人の感想です)、私個人の意見が許せば、極めて高度な戦略性が要求される治療学で、一手一手のミスが命取りになる将棋やチェスといったボードゲームにも通ずるものがあるかなと考えます.対象の確信の度合いが強ければ強いほど、治療者と対象との認識の差が大きいほど治療介入は困難を究めるものです.綿密な調査と学問的に裏打ちされた方法論によって初めて適切な面接は可能になると私は信じています.

 今回の事務所でのやり取りは相手の寛大な度量のおかげで、終始穏やかな雰囲気で進みました.人と人との対話が斯くの如く温和なものであれば、もう少し世間は秋の美しい空気のように和やかなのかもしれません.ですが先日の某国の大統領選挙戦にかかる公開討論会を見る限り、恒久平和は暫く先のようです.

 It is scarcely an exaggeration to say that at present mankind as a species is insane and that nothing is so urgent upon us as the recovery of mental self-control. We call an individual insane if his ruling ideas are so much out of adjustment to his circumstances that he is a danger to himself and others. This definition of insanity seems to cover the entire human species at the present time, and it is no figure of speech but a plain statement of fact, that man has to ‘pull his mind together’ or perish. To perish or to enter upon a phase of mature power and effort. No middle way seems open to him. He has to go up or down. He cannot stay at what he is.

H. G. Wells, A Short History of the World, 1922

 種としての現在の人類は常軌を逸しており、自制心の回復ほど我々にとって急務であるものは無いと言っても過言ではあるまい.個人に占めている考えが周囲に対してあまりにも調和を欠いているために自他ともに危険を及ぼすことを我々は個人の狂気と呼ぶ.この狂気の定義は現在の人類すべてに当てはまるように思われ、そして文飾無しに事実を明白に述べると、人類は「心を引き締める」か滅ぶかである.滅び去るか、成熟した能力と奮闘の段階へ進むかである.人類に中間の道は開かれていないようだ.昇っていくか堕ちてゆくかしかない.現在の精神状態ではいられないのである.

H. G. ウェルズ、 世界史概観、1922年

100年前の人類が正気でないとしたら現在の人類はどんなものでしょう?

ここまで読んでくださってありがとうございます.

Rosso Ideation

 一ヶ月ぶりに現象学の話をすることになる.そしてこの記事は亀吾郎法律事務所の50回目の投稿である.当事務所の記事は徐々に一記事あたりの字数が5000字を超えるようになり、原稿用紙12枚に相当する.そう考えると読者はゲンナリするかもしれないが、亀吾郎法律事務所はいつでも開かれているので、読む気になったときにまた立ち寄っていただければと思う.

 さて、前回前々回はFerrari F40の真偽の話から始め、コーヒーやワキガ、サウナの例え話をして、内在ー超越の理解に努めようとした.しかし、E. Husserl自身の思索が進むにつれ、内在ー超越の議論は深みに分け入ってゆく.理解を難しくするのは、内在における「実在的内在」、「構成的内在」の用語にあることを述べた.それから私自身、さらなる理解に努めた.参考書を買って読むこともした.原書の翻訳文を読むよりも腑に落ちる感覚は数倍早い.その参考書の著者はある大学の政治経済学部を卒業したと書いてあるが、肩書は別大学の国際学部教授を経て、さらに他大学の国際教養学部教授となり、哲学者を名乗っている.よほど哲学が好きだったのだろう.出た大学とその人物評価が一致しない好例かもしれない.どこの大学の何の学部を出たかというのはあまり気にしなくても良い.問題は何をしているかだ.かくいう私は何もしていないが.その人の著書は本屋でよく見かけ、哲学のコーナーによく居座っている.そんな無類の求道者が書いているのだから、入門には良いかな、と思って買った次第だ.もし気になる方がいらっしゃればお問い合わせください.竹田青嗣という方で、氏の名前は妻から教わった.妻の教養と優しさは底知らずである.いつもにこにこしながら私はあまり良くわからないから、と謙遜する.一生ついていきます!

 本題に戻る.まずは構成的内在からだ.参考書によれば、こうしたHusserlの理解には「確信」という言葉を補うことで理解が明快になるという.「確信」という言葉は我々医療者の中で、精神医学を主とする業者はビビッと来る(来ないかな?)我々が要請に応じて面接する方々は話題が現実と異なろうと、各々「確信」に基づいて話をすることがあるからである.これを専門的に「妄想」ということがあるが、それについては触れない.病的な確信形成とだけ言及してみる.何を以てして病的なのか、という問に触れないと私の気がすまないからである.加えて言えば、何を以てして、という部分が精神病理学の根幹に迫る問題を抱えているからである.

もし氏の言うように「確信」が現象学の理解の一助となり、学問そのものの本質を突くのであれば、これは勉強しないわけにはいかない.精神医学の学会誌などでも未だに現象学を素地とした議論が活発になされていることも納得がいく.

 前回の記事を再掲する.

例えば、貴方がまたもやコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されている老朽したコーヒーメーカーで作られた酷いコーヒーを性懲りもなく飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとって選択はこれしかない.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、実はコーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る暗褐色の液体.カスのようなものが浮いている.暗褐色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、暗褐色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.

 前回はここで、ん?となった.これを次のように捉え直す.「超越」というのは「内在」において構成される「大災害級のコーヒー」だという意識を、単に意識ではなく、「厄災に等しいコーヒー」だという確信の意識と定義する.(一体どれだけ不味いんだろう、そのコーヒーは)

 確信を持ち込むことで、世界の構成のありようを観取するということは、私達が「内在」において如何にして「対象の確信像」を構成するか、これを解明することである.すなわち、「確信成立の条件」を解明することといえる.

 一切の認識は「内在」において構成される確信である.これは疑いようがない.自分の意識にそういう対象が与えられているという確信.確信不可疑.だからといってもそれが、実在するものに一致するとは限らない.だから上司に次のように釘を刺される.

 「いいかね、君がいつもまずいまずいと言っている液体だが、あれは一応、社の費用で贔屓の珈琲店から仕入れている歴としたブレンドコーヒーなんだ、私も社長も旨いと思って仕入れているんだ.君はそうやっていつも嫌味をいうが、何か他に言いたいことがあるのか.仕事でもそんなこと言ったら承知しないからな」

 自分がどんなに壊滅的な味だと思っていても、実在に一致するとは限らない.周りがどんなに美味しいとありがたく感じていても、自分にとっては、暗褐色の液体のおぞましさを「信憑せざるを得ない」悲劇である.しかし、「主観にとって、対象の実在が不可疑なものとして現れる」という「確信条件」を抽出することができるかもしれない.豆からコーヒーを抽出するのではなく.「確信成立の条件」の鍵はここからはじまる.

 貴方が目の前に映る、特異な深紅の自動車を見たとする.歩道でちらっと見えただけなのでじっくり見て回ることはできない.しかし、我々の内在意識には、ありありとした「2座席ミッドシップレイアウト」や「甲高い音を放つV型8気筒エンジン」、「彫刻の如く削り出されたような吸気孔」「跳ね馬の紋章」などという構造をもった像が与えられるならば、我々はそれをFerrariなのではないか、と感じ、その知覚像を、現実に存在する像と信じざるを得ない

Ferrari 488 GTBと知覚される像を、右から左へと駆けてゆく姿を認めたと仮定する.

 さらに、駆体が走り過ぎる姿を見るとき、可視範囲は次々と連続的に変わる.見える姿は当たり前だが変わっていく.部分部分を徐々に、次々と新しい局面を以て対象性を保ちながら知覚する像を与えられる.側面から後面へと.こうも知覚してしまうと(というのも変だが)一定の条件を与えられると、「信憑せざるを得ない」ことがわかっていただけると思う.もちろん、いくら信憑せざるを得ないとは言っても、実際に駆体が実在に一致することはありえない.確信に過ぎないのだから.それにずるい言い方だが、488GTBだと思ったら実は488 Pistaかもしれないし、F8 Tributoあるいは SF90 Stradaleかもしれない.以上は、「確信成立の条件」の解明の序章である.これは、「私」が対象を客観事物と信じる条件=主観的確信の条件解明に過ぎない.

 次は私だけでなく、ほかの人も、通り過ぎる車体が488GTBだと信憑する条件を解明しないとならない.もう少し、仰々しく言うと、「他者もその対象を客観存在と信憑している、と私が確信すること」である.これを用語に換言すると「間主観的確信」の条件である.

 こうした考え方をすると、「超越」という強力な「確信」がなぜ成立するのかわかるようになってくると、Husserlはそういう.へぇ……すごいっすね……

 過去の記事を踏まえて話を続ける.一般的に、「どんな学問でも、それ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのではなかろうか」という考えがある.つまり、どんな学問でも客観存在=認識が成り立つという図式を目指すことで、認識問題を解明できるだろうという考えだ.少なくとも自然科学は客観存在=認識を前提として議論をしている.人文科学ではそうは行かない.いわんや哲学でもだ.何もかも役に立たない.以前もこの話をした.私達が議論してきた話題のうち、「意識」する領域というのは、「万物流転」panta rhei的な領域であると言う.そこはあくまでも、主観的、間主観的な領域なのだから、結局「主観的妥当性」しか得られないのではという疑問が生じる.よって、この領域において妥当な学問的判断がいかに獲得されるのかという問題も生じる.

 考え方をつぎのように変えるのが理解のコツらしい.

 「知覚がどのようにして超越者に的中しうるか」ではなく、「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」をまず考える.主ー客の図式をやめようというわけだ.「絶対所与性」とは内在意識の中で確認される個別的な直観だけなのか.「知覚」「想起」「想像」の直観だけが「絶対所与性」なのだろうか.そういうわけではない.繰り返しで恐縮だが「内在意識」の内省によって、個別的な直観だけでなく、さまざまな「意味」のありよう、「普遍性」も絶対的所与として与えられている.上記の写真を例に考えると、Ferrariの車体の「知覚」を内省して、その特質を捉え、それを判断し命題化する.「あれは一台のFerrari 488 GTBが走っている姿だ」と.命題は「○○は○○である」ように一つの論理形式をとる.もちろんそこには「意味性」(普遍性)を観取するが、個別な意識作用から「超えたもの」でもある.一種の超越たる所以はここにあるようだ.普遍性故に超越の性格を持つものの、構成的内在はやはり絶対所与性である.理由はすぐに後述する.

 「現象学の理念」において、Husserlは「構成的内在」を「志向的内在」ということもある.うわ、めんどくさいな……

 どんな認識体験でも、「志向的対象」を持っている.仮に貴方が、誰かに唆されて高級輸入車を取り扱う車屋さんを訪れたとする(無茶な設定だ).オーデコロンを塗りたくりピチピチのスーツを着た従業員が、こちらの車は素敵ですよ、などと適当なことを言い出す.貴方は下の図のように何台かの車を見ている.赤というのは色に関する個的な知覚であるが、「少し朱色に近いのがRosso Corsaという色です」「鮮やかな発色がRosso Scuderiaです」という説明を受けると、貴方は「ふーん」と思いつつ、これらは兎にも角にも赤だよなという意識が伴ってくる.これは構成的内在である.普遍的意味を持つからだ.さて貴方は二台の車を見て、二台の塗装色の差異に気づくが、これらが、Rosso Scuderiaだの、Rosso Corsaだろうと、そんなことはともかく、「」である.セールスの紹介にこだわらず、「赤」という一般的・普遍的なものに還元する.なぜこれが絶対的所与性なのか.

Rosso Scuderia
Rosso Corsa

 確かにセールスに言われてみれば、色は違うなぁ、でもどっちも赤だよね.という直観が働く(はず).二者は違うが類似していると、直観するのである.これは、類似本質の直観である.この認識は実的な要素とは言えないものの、直観した「ピピッときた!」のであれば「絶対に与えられている」というしかない.くどいようだが、これらの車の客観的実在に関して言えば、どこまでも疑わしさを持つ.実は偽物だった、とか、光の具合でそう見えてしまっているだけかもしれないからとか、夢オチという酷い結末もありうる.だが、これまたくどいが、「内在」の直観として考えれば、これは不可疑なのである.

 では、志向的内在は何なのか、といえば、Husserlの著書には、次のようにある.個的な知覚(赤、V8のエンジン音、跳ね馬の紋章など)にともなって現れる対象の全体像を示す.「これはFerrari 488GTBだ!」というときの「Ferrari 488GTB」が志向的な「対象性」であるという.志向的対象性は動かし難く意識に与えられる点で、絶対的所与性である.現象学において、「実的内在」を経て「志向的内在」に至る関係構造が重要となってくる.

 上記に述べたような方法は現象学的「本質分析」である.認識探求の本質学として現象学はある.意識の本質構造の観取をイデアツィオン(イデア化)とHusserlは呼んだ.

 さて、肝心なことは「絶対的所与性」がどこまで及ぶのか、ということである.実的内在だけでなく、構成的内在も絶対的所与性に入ることは確認できた.それで十分か、といわれればそうではない.ひえっ.例えば、コーヒーに関連して、①「暗褐色」を知覚する場合(知覚作用)もあれば、②知覚せず「暗褐色」について論じているだけの場合(表象)、③自分の暗褐色の知覚直観について口述する場合(陳述)、④さらに直観のあり方の特質を本質的に観取して把握することもできる(イデアツィオン).

①給湯室で淹れたコーヒーを見たときに、「うわぁ暗褐色だ…」と知覚するときの暗褐色

②コーヒーを見なくとも、会話で職場の話題が出たときにふと、思い浮かべてしまうときの暗褐色

③自分にとっての暗褐色とは、どういう知覚体験であるかということを帰宅してから妻に説明する(聞かされる方はたまったものではない)

④毎晩就寝時に独り暗褐色についてひたすら内省し、ついにイデアツィオンしてしまう

 どれも酷だが、意識対象は暗褐色である.同じ対象であっても異なった所与性がある.必ずしも所与性の例は四つだけではない.我々に明証的な所与性として現れる対象は無数にあるだろう.所与性の違いが、経験において、普通の知覚体験なのか、表象なのか、陳述なのか、知覚一般の本質把握なのかという区別を我々に示す.私達はこれらを難なく区別している.だからこそ我々は現実でなんとかやっている.私達はこれら区別の仕方を言葉にして説明するのはかなり難しいが、自分自身に確かに与えられているという揺るぎない感覚において確信し(内的根拠)、区別できているのだという.

だが、もしこれが何らかの機能障碍によって所与性の内的根拠が失われたり、機能失調に陥るとすれば、我々が言うところの精神疾患に当てはまるかもしれない.繰り返しになるが確信形成の条件を解明するというのは、必ずしも哲学の領域だけで有用なのではなく、精神医学の一部の領域(精神病理学)においても有用なのだ.

 さて、「内在」ー「超越」という図式の理解があれば、「客観存在」とは実は内在において形成された「対象確信」であったと気づく.もはや主ー客の図式は不要だ.「確信」として我々に所与されるのは「内在」における所与性に応じた「志向性対象」として構成されるからである.所与性のありようによって、「対象確信」の像が作られる.Husserlはなんとかして、「確信」の根拠として「絶対的所与性」の概念を規定しようとしてきた.「絶対的所与性」が厳密な認識の基礎というわけでもないことがわかってきた.認識が妥当なものであるか、すなわち、普遍的な認識と呼べるには、どのような条件があれば良いのか、それを解明することが要諦である.

 まだもう少し続きます.おそらく次回で最終回になると思われます.次回は間主観的な確信条件について.

 50回を記念し、ここで改めてお礼申し上げます.いつも読んでくださりありがとうございます.主な読者は日本の方ですが、米英仏独豪伊露中といった海外の訪問もちらほらいらっしゃって嬉しく思います.岡倉天心効果は間違いなくあるはず.日本語だけでなく多言語で亀吾郎法律事務所の理念を紹介できればと思っています.

今後ともご贔屓いただけますよう、よろしくお願い申し上げます.

フヱノメノロギシュ・レダクスィヲン:II

この記事を読む前に言っておくッ!おれは先程奴(吾郎)の解説をほんのちょっぴりだが理解した.
い…いや…理解したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのまま今感じたことを話すぜ!
「おれは奴の記事を読んでFerrariの話かと思っていたらいつのまにか現象学の話になっていた」
な…何を言っているのかわからねーと思うが俺も何を解説されたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…トンデモ科学だとかAmwayの勧誘だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 前回の話を簡単に述べる.特に人文科学において「認識の問題」というのがテーマになることがある.「主観と客観が一致する」ということは自然科学ではあたかも自明なのだが、それ故に自然科学では「なぜ主観不一致はありえないのか」を解明することができない.そもそも問題になっていない.これを解明する哲学の試みとして現象学が知られる.従来の考えであった「主観」と「客観」の図式を一旦棄却し、「内在」―「超越」という関係で我々の認識を再確認してみることで人文科学の見失っている認識の可能性を復権する目論見がある.

 「内在」という概念はこれらは絶対不可侵の疑いようのない意識であり、現象学はここからスタートする(現象学的還元).「超越」は「内在」とは対極にある概念であり少しでも疑わしき可疑的な要素をいう.

 ちょっとここで脱線したい.ただでさえお前の話は長いのにどうして脱線するんだ、脱線するのを断るやつがいるか、と叱られるかもしれない.しかし、勇気を以て脱線する.

こんな話をご存知ないだろうか.私の好きな説話を紹介したい.

 昔者莊周夢爲胡蝶.栩栩然胡蝶也. 自喩適志與.不知周也.俄然覺、則蘧蘧然周也. 不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與. 周與胡蝶、則必有分矣.此之謂物化.

              ー『荘子』斉物論第二

 以前のことだが、私、荘周は夢の中で胡蝶となった.喜々として胡蝶になりきっていた.自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞った.荘周であることは全く心にもになかった.ふと目が覚めると、これはなんと、荘周ではないか.さて、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、今夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない.荘周と胡蝶とには確かに形の上では区別があるはずだ.しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものなのだ.

 胡蝶の夢で知られる荘周(莊子)の説話である.これは中国の戦国時代の話であるからHusserlより遥か前だが「内在」―「超越」の話としてもよいのではないだろうか.荘周である姿や胡蝶である姿は可疑的な存在「超越」であるが、自分が自分であるという認識は疑いようのない認識「実的内在」である.

 時は流れ、Descartesも「方法序説(Discours de la méthode)」において夢の話を用いて、主観がどんなかたちで対象をもっていようとその対象が「実在」しているという確証はありえないと主張した.ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかないと気づく(Je pense, donc je suis).Descartesも結局は主客不一致に至った.

 以降、近代哲学はこの問題を「認識問題(Epistemology)」として捉え、解明に挑んできたという.B. Spinoza, D. Hume, I. Kant, W. Hegel, K. Marx, F. Nietzscheらは認識論において有名なおっさんであるようだ.E. Husserlはそのおっさんたちに含まれる.

 認識批判ということをHusserlもする.自明の認識の構図を取り払い、新しい認識の考えを見出すことを試みる.そのためにまずは「主観」―「客観」の一致が真理すなわち客観認識である考え方を一旦中止する.これを業界用語でエポケー(epoché)という.小学生くらいだと「ちょっとタンマ!!」という感じか.判断中止ともいう.この方法によって「客観的認識」や「妥当な認識」というものが一体何なのかを、問い直す.これは何の役に立つのだろうと思う人は、少し考えて貰えれば嬉しいのだが、例えば道を歩くカップルがこんな話をしていたとする.

 女性「ねーねー、私が作った昨日のハンバーグ、どうだった?」

 男性「(中華丼じゃなかったっけ)うーん、フツーだったよ」

 女性「なに、フツーって」

 男性「フツーはフツーだろ」

 女性「それじゃわからないじゃん、美味しいとかないの?普遍的な認識が成立することはないと思うけどさぁ、その言い方は極めて曖昧さと不明晰性が含まれるから、私agreeできない.ほんとあんたって昔からそうだよね、何でも曖昧.私、あんたのそういうとこマジムカつくから.大体、こっちが飯つくってやってるのにろくに手伝わねーし『献立何がいい?』って訊いても『なんでもいい』ってばっかり.あんた何でもいいっていうならさ……」

 ごくフツーの会話かもしれない.Twitterのタイムラインで紛争が勃発がするときは普遍的認識をめぐる対立が少なくないと個人的に思う.「フツー」という言葉は難しい.「フツー性をめぐる揚げ足の取り合い」のような構図になる.もし、仮に、認識論の決着がつくとすれば、上記のカップルの口論は収束するかもしれない.

 というわけでちょっと考えてみよう.まずは誰にとりどんな疑わしさや不明晰性を含まない認識があるのだろうか、というところから出発する.これを「第一の認識」と呼ぶらしい.Husserlの言い方なら「絶対的所与性」.絶対に与る所.それって何でしょう.

 既にDescartes兄貴には認識批判の試みとして方法的懐疑があるのだった.兄貴は、「ただ一切を虚偽と考えようとする自分はどうしても自分自身でしかない(Je pense, donc je suis)」ということから「第一の認識」を見出そうとした.これに倣い、Husserlは自分自身によって内省された「意識作用」を「第一の認識」とした.我々の意識というのは様々な対象を知覚したり、表象したり、判断したりする.自分が目の前で伝説のスポーツカーを間近に見ていると思っていても、それはハリボテかもしれない.莊子が胡蝶の夢を見ているのか、胡蝶が莊子の夢を見ているのかわからないのと同じように、自分がどんな対象を意識のうちに体験したとしても、それが「客観に的中(一致)している」とは限らない.

 とはいえ、対象が実在するかはわからないけれど、それによって「自分の意識に確かに与えられていること」自体は決して誰にも疑えないよね、という確信に着目する.そこでHusserlは「意識対象」としての所与を「絶対的所与性」とみなし「第一の認識」とした.(ちなみに、この絶対的所与性がなんらかの理由によって侵された場合、人はどうなってしまうのだろうかという問いかけは精神病理学の領域であると思う.幻覚や妄想は病的な絶対的所与性であるだろう.絶対的所与であるがゆえに修正はできないのは明らかだ.そもそも修正しようとする方がおこがましい気がする)

 風呂に入る時に温水の感覚を心地よいと感じたその意識作用はありありとしていて、内省的に対象化することができる.こうした知覚体験の構造は誰にとっても共通の構造とみなすことができる.湯船に浸かる時、ちょっとぬるいなとか、少し熱いなと思うのはそれぞれだが、知覚体験が各々に与えられるという意味で、共通だということだ.スーパー銭湯のサウナに寄りロウリュ(löyly)とアウフグース(aufguss)のサービスを受けるときに感じる熱気と香りの心地よさは自分と他人で異なるように知覚体験は同一ではない.こうしたことを「射映」、「地平」というらしいが.説明を省く.

 認識問題の謎という点で中核となっているのは、主観以外は何もわからない、客観というものはどこまでも超越している、つまり決して客観を把握することはできないということだった.それは少し前の記事で触れたが、自分で見直してもわかりにくい内容になっている.大変申し訳ないことは承知している.しかしHusserlの言っていることはどうしようほどもなくわかりにくいのだ.彼の著作自体、その関係が曖昧になっている.「内在」―「超越」の考え方をもう一度振り返ってみる.

 Husserlは2つの「内在」―「超越」構造があるといった.「構成的内在」対「超越」.「実的内在」対「構成的内在」.まず前者を話す.

 前者はいわゆる一般的に知られる「内在」―「超越」.意識体験において実的に見出される所与、知覚や想起ということになる.朝の満員電車で漂う臭気を不覚にも嗅いでしまい、

「くっっっさあぁぁぁ」

と思うのが内在.そこから、

「だれだよ……このワキガ……ちくしょー!ちゃんと制汗剤塗ってから出社しろよな〜」

と感じるのは超越.実際に臭いが発せられているかは確からしくても、少しでも疑わしくば内在を超越する.さらにその臭いがワキガなのかもわからない.別の体臭かもしれないし、人間から生じたものかもわからない.制汗剤は塗ってきたかもしれない.ひどい話をすれば気の所為かもしれない(気の所為で済まされるか馬鹿野郎!).

 後者は「実的内在」―「構成的内在」.

  例えば、貴方がコーヒーを飲んでいるとする.職場の昼休みに、給湯室に昔から設置されているボロいコーヒーメーカーで作られた不味いコーヒーを飲むとする.コーヒーが好きな貴方にとってこれしかないのだ.「コーヒーを飲む」という認識は、客観認識=超越的認識となる.コーヒーではなく、コーヒーを模した泥水なのかもしれないからだ.コーヒーを飲んでゲロ不味いと思う意識体験は、繰り返すが、クソ不味かろうと、絶対的に与えられた体験である.これは実的内在である.となると、この構図でいう構成的内在とはなんぞや.とりあえずマグカップの液面に映る茶色の液体.カスのようなものが浮いている.茶色、液体、浮遊物という特徴.これらは意味を持つ対象だが、茶色、液体といった意味の受け取り方は各人に委ねられている.委ねられているにしてもその所与性は絶対的である.今、自分が飲んでいるのは「壊滅的に不味いコーヒー」だという意識.これは疑いようがない.ただ、構成的内在が超越とされるのは、それが内在のうちで構成されるものである故に、一種の超越性をもつからだという.うーむ……なんだか後付感半端ねぇなぁ.

 要素である実的内在、それらから帯びてくる意味性が構成的内在.どちらも絶対的所与性であるのがHusserlの考える所であるようだが、構成的内在は内在なのか、超越なのかどうもはっきりしない.構成という言葉を巡っては学者さんの中でも意見が分かれるそうだ.

 余談ではあるが、ある女性の患者さんと面接するときに「実は私の衣類からオヤジのにおいがするんです、誰か男の人が入ってきたのでしょうか」と相談されたことがある.その人は女性だけの病棟に入院していたが、誰しも出入りは専用の鍵がないといけない.誰か侵入に成功しても看護師さんの詰め所の前を通らねばならないので、事実上不可能である.よって男の人が入ってくることはない.聡明な読者の皆さんは「それはきっと(以下略)」と仰るだろうが、それ以上はいけない.患者さんにとって臭いがするのはその人にとって所与される意識体験だから内在.しかしそれがオヤジのものなのかは超越する.オヤジの臭いかどうかは疑念がつきまとうが、オヤジの臭いという対象意味を感取するのは、加齢臭、不快さ、臭いの局在性といった要素で構成されるからであろうか.となるとオヤジ臭さを意識するのは構成的内在になるのか.他者の志向性に敏感な疾患特異性も考慮すべきだろう.

 次回につづく.いつも読んでくださりありがとうございます.

 

読書という泳ぎ方

事務所の愛らしい花々

 私が最後に記事を投稿したのは8月10日だった.ということは今このとき書いているのは14日であるから4日空いたことになる.なんだか随分間が空いた気がしてしまう.だからどうしたんだと言われると、別になんでもないです、ただ私が思ったことをつぶやいただけです.といった具合だ.

 正直にいうと、次に何を書こうか悩んでいる.決して強がって言っているわけではないし、ネタが無いわけでないのだけれど、ネタをうまく統合することができていない.今読んでいる本をざっくり言うと、3,4冊はあるだろうか.その紹介でもしようか.

 一つはJ. Lacanの”Séminaire VIII”の「転移」(Le Transfert).以前、「饗宴」の話をしたが、ついに読み終えることができた.次に「饗宴」について言及されている「転移」にトライしてみようという気になり読み進めているところだ.うーん、読んでいる途中の感想を言うのは難しいが、サザエつぼ焼きを食べるときやぶどうの粒を食べるときと似ている.ちょいちょい手間がかかる.それにサザエもぶどうもあまり好きでない.言い回しに引っかかることも多数、知らない引用がこれでもかと出てくる.その都度中断して出典を調べる.いちいち変な例えを出してくるのは、私に似ているかもしれない.これは不覚だった.こんなことを言うのは訳者に失礼だと思うが、文章がわかりにくい.確かに口述したものを訳するのだから困難を極めるだろう.だが、あんな日本語を話す人はいないであろう口調で書かれているので、ちょっと気味が悪い.じゃあ、お前が翻訳やれよ、とおっしゃる方がいるかもしれない.翻訳を馬鹿にしているわけでは決してない.誓ってない.返事は次の通りである.いつかやりますからちょっと時間をください.

 Lacanの膨大な知識の奥深さたるや.一体どのくらいの書物を読んだのだろう.どれだけいろんなものを見聞きしたのだろう.ギリシア語も通じているとはたまげたなぁ.そんな気持ちである.確かに難解と言われるだけはある.Nürburgring(ドイツ最難関のサーキット)とは言わないが、Circuit de Spa-Francorchamps(ベルギーの名サーキット)を疾走するくらい難しさはある.ゲーム(Gran Turismo Sport)でしか走ったことはないが、手に汗握る緊張と集中力を要する.なんとかして理解したい、その気持は揺らいでいない.

 もう一つはS. Freudの「精神分析入門」(Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse).こちらも分析家の本だが、なかなかにくどい.噛み切れないスルメイカを食べているような気持ちだ.チータラのほうがはるかに良い(チータラを知らない人はコンビニやスーパーマーケットに行こう!).錯誤行為という章を読んでいるが、想定されうるあらゆる批判を躱すための懇切丁寧な説明がなされている.大変長く続いているので、彼のものを書く姿勢がなんとなく見える.意図しない行為を行ってしまうことを錯誤行為というが、20世紀初頭では極めてセンセーショナルな話題であったのだろう.わかったわかった、先生、もう十分堪能しました!と言っても「ワシの解説はあと108頁まであるぞ」というくらい見事な丁寧ぶりである.書評のようなものはいつか書きたいと思っている.

 さらに読んでいるのは、「五月の読書」独文学者、翻訳家であり文芸評論家でもあった故高橋英夫の未収録エッセイ集を集めたものである.なんでお前は全然毛色の違う本を読んでいるのか、誰か唆した者がいるのかと問われれば、そうである.実に巧妙に教唆する者がいる.だが、それが良い.私は好き勝手に本を読んでいて、どれもほとんど一貫性がないし、文筆家の執筆背景を吹き飛ばしてでも読んでしまう.要するにおバカなのである.そんな愚人におバカなりの本の読み方を教えてくださる実に奇特な方である.ちゃんと世の中のアンテナを張って、清濁併せ呑んで、しなやかに文章を書け、そんなことを言っていたような言っていなかったような.

 高橋英夫のエッセイは他に「蜜蜂の果樹園」というものがあり、こちらは読了した.どちらも短編で、読みやすい文章で変な緊張感が必要ない.緩やかな勾配の田舎道をのんびり運転するくらいの気分だ.気楽に読めてしまう.おやつをポリポリ食べるような感覚である.氏には失礼かもしれないが、「おっとっと」をこどもの頃にサクサク食べていたのを思い出す感じであった.実に気さくな方で温かみのある文章だなと思っている.だが、時折ハッと息を呑むような文章を見つけてしまう.彼の哲学が随所に挿入されている.手塚富雄、リルケ、ホフマンスタール、ゲーテ、堀辰雄……彼の生涯とともにあった師や詩歌、文人が眩くキラキラ光を放つ.

 少しだけ、高橋英夫の随想から文章を紹介したいと思う.「蜜蜂の果樹園」『古めかしくも初々しく』より、

…創作はいかに古くても駄作でも、建て前としては、賞味期限とは関係がない.翻訳にはいかに名訳でも賞味期限がつきまとう.但、鷗外訳『即興詩人』(原作アンデルセン)は例外である.ここで私が言いたいのは、賞味期限のあるものをないものよりもジャンルとして下位と見る旧来の通念は考え直す必要がある、ということだ.

<中略>

 『一幕物』から感じた古さとは別に、新しさ、初々しさもあったことを最後に言いたい.「現代思想」というリルケ紹介の一文に、「優しい、情深い、それかと思ふと、忽然武士的に花やかになつて」「併し底には幾多の幻怪なものが潜んでゐる大海の面に、可愛らしい小々波がうねつてゐるやう」などとあるのは、ドイツの文学界に忽然と現れた新人リルケの文学的特徴がまだ誰にもよく把握できなかった当時、鷗外が語学力と感性を全開状態にして、新しいものを読みとり感じ分けようとしていた証拠といえよう.それはリルケより十何歳か年上の鷗外が、リルケに惹かれて自ずと見せた初々しさというものだった.

 なかなか深みと含みがある文章なのではないかなと思う.翻訳家としての翻訳に関する彼の矜持のようなものを感じる.言葉というのは、我が身世にふるながめせしまに色褪せていくときがある.かといって、どんなに古かろうと優れた翻訳は、それだけで立派な創作である.翻訳は決して原文に従属しない.翻訳は二次的著作物ではない.力強いメッセージを感じる.鷗外の引用を見れば、なんとも昔の言い回しだなぁと思うが、この文章はリルケをよく知らなかった鷗外が、なんとか手探りで彼を知ろうとした翻訳家の最前線の証拠であったと知れば、翻訳業への畏敬が自然と浮かんでくる.極めて斬新なものだったのだろうと苦労が忍ばれる.

 最後に、私は仏語検定の公式問題集を買って、コツコツお勉強をしている.正確に言えば読書ではないのかもしれない.実用書や参考書と言うべきものだが、私のいびつなアンテナを広げるために必要な本である.仏語を初めて学んだのは大学生の頃で、それから熟成と発酵を重ね、2,3年前にもう一度自学で勉強を始めた.それからまた時間がなくなってしまったので、3度目のスタートを最近切ったのであった.なぜいまさら参考書を買ったのかと問われれば、自分の語学力を客観するには、公的機関の用意する問題を一定の率で解答することが目安になると考えたからである.それまではG. Maupassant の短編集を買って、チマチマ辞書を引きながら文章を解体する作業をしていた.Maupassantは読んでいて楽しい.アラビア語の28文字を自学したときもそうだったが、やはり語学は面白い.なぞの文字列が徐々に意味のあるものとして浮かび上がってくる感覚はたまらない.この感動は初学のときも、英語を長年やって今でも新しいことを知ったときに出現する、何かが弾ける感覚に似ている.それは心地よい余韻を伴う.

 もっと深く早く知りたい、知悉したいという気持ちには際限がない.しかしそうはいかない現実と私の限られた頭脳のために知識の習得進行はゆっくりだ.今の所、それでも後退も後悔もしていないと思っている.

 深く広い文学の海を泳ぐのは楽しい.だが息継ぎをするのも大事だ.私は現代日本語と現代の英語の泳ぎ方はおおよそわかるようになってきたが、ほかはまだまだ途上である.いつか地中海や紅海を泳ぐようになりたい.併し底には幾多の幻怪なものが潜んでゐるかもしれないから、用心して飲み込まれないようにしなければ.というわけで今回の記事は、私の息継ぎの時間である.息を大きく吸い、感性を全開にして、また深く潜っていこう.

 

ここまで読んでくださりありがとうございました.

 

 

Συμπόσιον/ Symposium 1

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 やっと「饗宴」を読み終えることができた.「饗宴」(Symposium)というのは勿論Plato(プラトン)の著作のことなのだが、この和訳は様々な出版社から出ている.私は過去に東大出版会から出た山本巍氏の「饗宴」を購入したことがあって、よし、読むぞ.と意気揚々と読み始めるとPhaedorus(パイドロス)、Pausanias(パウサニアス)、Eryximachus(エリュクシマコス)ら(誰だ君等は!?)の話がなんだか、空を掴むような、お麩を生でかじっているような感じになってしまい、エロス(Eros)賛美の話の深奥まで辿り着かなかったのである.お麩は生でかじったことがないので、今の例えはフィクションだ.

 しかし、こんな重要な著作を読まずにJ. LacanのSéminaire(セミネール)を理解できないであろうと密かに思っている私は、なんとかして読破したいと数年願っていたのだった.どうやら「転移」の章にはPlatoの「饗宴」が大いに関わっているようなのだ.「転移」というのは精神医学や心理学で知られる現象の一つだとだけ述べておく.というのは私にはその現象について語るに十分な知識を持ち合わせていないからだ.大変申し訳ないと思う.

 なぜ「饗宴」も「セミネール」も読んでないくせにそんなことを知っているんだと言われれば、人から聞いたからであると答えるしかない.私はかつてとある場所でこうした古典の抄読会に参加していたことがあった.私はその場でも何もしらない愚か者同然であって、いつも気まずい思いをしていたのだが、そこでG. Hegelに出会い、E. Husserlに出会った.J. Lacanにも当然出会ってしまった.S. Freudもそこにいた.あらゆる先人が次から次へと現れては私にとってはまじないのような言葉をつぶやいては消えてゆく.ドイツ語やフランス語で展開されるのだから堪ったものではない.参加者は皆原書を持っていて、極めて熱心にそれを読んでは「これは本当にいいねぇ」とニヤリとする.気持ち悪い光景ではあったが、同時に憧れを持ってしまった.高度なオタク同士が共通の言語を用いて、秘密の談合をしているような感じがした.以下のような調子だ.

 「ぼかァネ、彼の “Das an und fürsichseiende Wesen aber, welches sich zugleich als Bewußtsein wirklich und sich selbst vorstellt, ist der Geist.”ってところが実に明快でネ、いやァこれは大変なことですよ」(訳:自分自身を「意識」として現実的なものとみなすと同時に、自分自身としてもみなす、このような「即かつ対自的な本質が」「精神」なのだ

 本当に大変なことだった.普段はむっつりしている人々が、なんだかこっそりエロ本を持ち寄って究極に気持ち悪い猥談をしているといったら言いすぎかもしれないが、私からすれば、憧れと尊敬を通り越して悔しさと苛立ちも隠せない状態であった.気持ちを抑えて、とかく私は外国語の勉強を再開し、「エロ本」集めに邁進したのであった.その本の一つが、「饗宴」であった.

 「饗宴」は、ほぼおっさんたちによるエロス(Eros)を讃える飲み会の様子を伝聞形式で描いた紀元前4世紀の作品で、高い文学的価値を持ちつつ哲学的内容が充実した傑作とされる.私は光文社古典新訳文庫から出された中澤務訳を入手し、ようやく読み終えることができた.大変にわかりやすい訳で、おっさんが生き生きと演説をする様子がわかってしまった.十分な解説がついており、これがなければ私は少年愛について誤った理解をしてしまうところだったし、プラトニック・ラブが誤解されて一般に使われていることを知り、Alcibiades(アルキビアデス)のSocrates(ソクラテス)への複雑な感情をわからずに「なんだこの乱痴気な奴は!」と勝手に憤って紙面に爪を立てていたかもしれない.

 一応、私からも「饗宴」のあらすじをお伝えしようと思う.

 ある日、Apollodorus(アポロドロス)とその友人は二人夜道を歩いていると、人から声をかけられ、Apollodorusに、昔Agathon(アガトン)という悲劇作家が悲劇コンクールで優勝した祝勝会を自宅で催したときの話をしてほしいと頼まれる.ApollodorusはAristodemus(アリストデモス)という祝宴に参加したおっさんから聞いた話を話して聞かせるのであった.

 AristodemusはSocratesの弟子で、二人で若い新人作家であるAgathonの家へ向かっていた.Agathonは悲劇コンクールを受賞したばかりで、見知った人々で宴会を行う運びになっていた.なんやかんやでAgathonの家に着く.実は皆は連日宴会続きでかなりグロッキー状態であった.「酒はもうやめにして、何か別のことをやろう、そうだ、『エロス』をみんなで順番に讃えていこうぜ」、とEryximachusという三十路過ぎたお医者さんが提案する.皆快諾.参加者が一人ずつ『エロス』について語り、ついに会場は耽美な領域へと突入する……

 先手は若手のPhaedorus.「エロスは最も古い神で、大変尊いんだぜぇ……」という内容で話始めるのだが、どうも面白くない.教科書的で、背伸びした感覚を受ける.彼は弁論を学んでいるルーキーらしく、盛んに引用をして権威付けをはかるのだが、「あの○○先生も大絶賛!!」といった広告の宣伝みたいで「うーん.どうもありがとう、お疲れ様.もう帰っていいよ」といった感じになる.

 次鋒Pausanias.エロスには二種類あるのだ.と述べ、<天のエロス>と<俗のエロス>に分け、二項対立を以て議論を行う.この二つのエロスは人間の恋愛に大きな影響を与えているとし、美しい愛し方と美しくない愛し方に分かれるという.ほぉ.男性が女性を愛するのは、心ではなくて身体を愛しているから(肉欲)で、それは美しくない愛し方なのだという.美しい愛し方というのは同性愛なのだ.男性を愛するという事自体が美しいんだぜ.と主張する.

 「へぇ、そういう意見もあるんだね……Pausaniasはそういう考えなんだね……」どうやら彼は、現代でもほぼ同義の同性愛者であったようで、彼の主張は自身の嗜好を弁護するようなものだった.なぜこのような主張になったのかは後述する.

 次に演説するのはAristophanesのはずだったが、しゃっくりが止まらないという理由でEryximachusに譲る.彼は医師という立場でエロスの説明を試みる.Pausaniasの主張を一部取り入れ、エロスは二種類に分かれるという.ただ、それらは健康なエロスと病的なエロスに分かれる.医術というのは何が美しいエロスで、なにが悪い病気のエロスなのかを見分けることができることだという.身体の優れた健康な部分に従って、そのような方向へ仕向けることが治療なのだともいう.優れた臨床医は身体の中の互いに敵対するものを親和的なものに変化させないといけない、調和を目指すことが必要だと説く.エロスの解釈はさらに広がり世界の調和と不調和を二つのエロスが支配し、調和へ向かって人間の生活に大きな影響を与えているという.うーん.

 ここまで来て、「エロスって結局なんだよぉ」と私は大いに落胆した.最初に買った山本訳を途中で諦めてしまったのは、Phaedorus、Pausanias、Eryximachusの演説を読んでわけがわからなくなったからである.「エロス」ってこんなに多義的なのかと思い、これらが理解できない自分は、もしかすると今後もついていけないのかもしれないと恐ろしくなった.どうもEryximachusは話を大きく広げた感じが否めない.自分の専門領域に話を落とし込んで話をするのは誰でもそうだが、結局「エロス」の話をしていないのではという印象を受けてしまう.こういうお医者さんは現代でも沢山いる.「エロス」は情愛における強い欲動をさすのではないかと、そういう議論の終着を予想した私は狼狽した.

 実はここまでの展開はPlatoの思うつぼで、ここから読者を引き込んでいくのだったことに私は長く気づくことはなかった.もしPhaedorusやPausaniasの話も面白いと思った方がいれば、それはそれで大変結構なことだと思う.

 次にAristophanesの話に移る.実際の彼は保守的な男で、Agathonを揶揄し、Socratesを若者を堕落させた男と評しておりなかなか辛辣だそうだが、ここではPlatoは愉快な男として描き出している.彼の話は結構ぶっ飛んでいるので、結構面白い.妙な説得力と面白さから彼の話は本作で最も知られているそうだ.彼は神話を語り始める.太古の昔、人は現在の人間が二人くっついたものを一人とした球体の生き物だったという.くるくる転がって動いていたそうな.二体の組み合わせで、男、女、アンドロギュノス(両性具有)という3つの性に分かれていた.古代人は力が強く尊大であることから神々に反逆しゼウスの怒りを買う.ゼウスによって古代人は身体を二つに割かれ、現在の人間の姿にしてしまう.人間は二人抱き合ってなんとか戻ろうとするがもとに戻らず次々に死んでゆく.よくこういう話を思いついたものだ.ゼウスは人々が死んでしまうのは困るので、生殖器を移して性交渉ができるように一計を案じ、子孫が残せるようにしたという.この神話から、人間が本来の片割れを探し求め、それと一体化したいという欲動のことをエロスと呼ぶのだという.

 なんだかすごいけれど、どういうことなのだろうか.これって神話でしょう?EryximachusがPausaniusの話を受けたように、AristophanesもEryximachusの話を受けて説明を続ける.それぞれの説法は独立しているように見えて実は受け継いでいるのであった.詳しくはぜひ本編を読んでいただきたい.Eryximachusはエロスが世界の調和を担うという自然的な役割を試みた.Aristophanesは彼の演説を一部引き継いで、エロスが自然的あり方であることを認めつつ、世界の調和を図る動きではなく、個々の人々に内在する動きであると主張した.

「愛する人と一緒になって一つに溶け合い、一つの存在になるのだ.これこそが俺たち人間の太古の姿であり、人間は一つの全体で会ったのだから.そしてこの全体への欲求と追求を表す言葉がエロスだ!」

 彼の主張の要点は「エロスの本質は欠如にあり」というところであり、後の論者にまた受け継がれる内容である.Aristophanesの主張では、欠けた半身を探して合体しなければ幸福になれないということになる.それはジグソーパズルの欠けたピースを探すように特定の半身を見つけるという限定された欲求とも言える.

 Agathonが演説を始める.彼はエロスの本性を説明し始める.第一にエロスは神々の中でひときわ美しいのだと.若く、繊細でしなやかで美しい肌をしているなどという.そしてあらゆる美徳を身に着けているともいう.なんだかPhaedorusの弁舌のような感じを覚える.今でも架空のキャラクターやアイドルグループの敬虔なファンは「推し(おし)」と称してあらゆる修辞法を使って褒め称えるのと同じかもしれない.また飾り立てて褒めちぎる論法はどうなんだろうかと思いきや、聴衆からは大受けするのであった.彼は演説に際して様々なテクニックを用い、論法の構成も整っているし、韻を踏んで音としても美しいからであった.私にはわからなかったのだが、古代ギリシア語で読むと圧巻なのだろう.

次回、SocratesはAgathonと対話を仕掛けるところから続く.

 

Pandemic and Persona

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 以下の記事は2020年7月2日に医学誌The New England Journal of Medicine Perspectiveに掲載されたものを翻訳したものです.記事は無料で読めます.https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp2010377


パンデミックと私のあり方

マイケル W.カーン 医学博士

 誰もがCovid-19のパンデミックとどう向き合っていくか模索していた一方で、私はとある不安げな患者につい最近こんなことを言ったのを思い出した.

「インターネットで『ニューハンプシャー レイクトラウト 記録』で調べてみてはどうでしょうね」

 彼は釣りが好きだった.それで私は先日の新聞記事を思い出したのだった.ちょうど例の感染症が広がる前のころ、にこにこと笑みを浮かべた釣人が誇らしげに超巨大な魚を抱えている記事だった.私は彼がさらっとこの話を流すだろうことはわかっていた.私の言ったことが彼にとって、不吉でもなんでもないのに未だ気になったり、意味深に思われるかもしれない.もしかすれば気晴らしになったか、なんだか落ち着いたかもしれない.釣りに関心のある人なら誰にでも言ったであろうことだった.しかし、医師が患者に言うこととしてそれで良いのだろうか、私のプロ意識は保てるのだろうか.

 精神科医としてのキャリアが40年を迎えるころ、私はコロナウィルスが広がる以前から、私のプロとしてのありよう、つまり患者への姿勢と作法といったものが、徐々に私個人のものへと一層発展してきた.専門的な力量に関する不確かさと疑念が時を経て、より自信と専門性ともよばれるものへ変わってきた.私は患者たちにより自発的に振る舞うことで私はさらに自由になっていくのを感じた.より「ありのままの自分自身のように」、という感じだった.私はある限られた個人の細かなこと、例えば旅行はどこへ行くのか、観たことのある映画などを共有することが心地よくなっている.それと、ユーモアを用いて外部からの調整役と対話の潤滑油を担う心構えがさらにできていると思う.

 こうした緩い関係は私と患者の境界をどっちつかずにするわけではない.当たり前だが、私は個人的な問題を患者に共有することはないし、公にすることもない.例を述べると、家の修理や調べ物について患者の助言を強く頼むこともない.しかしプロとしての私と普段の私の違いというのはなくなってきている.私は一人の温かい専門家であると同時に一人の人間なのだという感じがしている.そういった結びつきこそが、より確かで私を元気づけるのと同様に、しばし患者にとって治療的であるように思われるのだ.

 そしてパンデミックは訪れた.サミュエル・ジョンソン氏の言葉1を言い換えれば、これからウィルスが押し寄せてくるという見通しがあるとなると私の思考は見事研ぎ澄まされた.臨床的な優先事項がより明確になって、実際、パソコンでの遠隔医療面接するという数週間の経験が、そうでもなければ理解にかなり時間を要したであろう、プロであるがゆえのフットワークの軽さが、どれだけ危険であるか、共有されたかがわかったのだ.私は時折、いかほど患者が家族や友人の情緒的かつ身体的な健康について取り合っているか訊くだけでなく、それらについて探りを入れることで面会を始めることがある.次に患者が私が元気か、家族の様子はどうだとか尋ねてくると、私はおおよそ隠さず話すようにしている.私は患者がいくらか体を動かしているのかどうかや、いかに独りぼっちな気持ちを抱えているかを尋ねている.患者の中には日々のルーチンはそれほど変わっておらず、人との距離を取ることはかえって棚ぼたのように思うものもいる.

 私は皆が日々をどのように過ごしているか訊くのが好きだ.ある患者は読んでいる本をパソコン内蔵カメラに映るように抱えていたので私にはその背表紙が見えたことがあった.オンライン面接の間、患者の猫が画面の中に突然飛び出してきて、いかに動物が患者の健康にとってかけがえないものであるかを彼女の顔から読み取れたこともある.私は患者の住まいをビデオツアーすることで思った以上に暮らしぶりが落ち着いていることを知り安心したのであった.時々私はZoom2上の精神科医というより地元のお医者さんのような気持ちになる.

 私はまた、動画面接の締めをしようとするとき、思いがけず小さく手を振ってさよならを伝えようとしていることに気づいた.それは少なくとも悪いことではないように感じている.遠隔医療の身体的な近接感の無さがこうした型破りと新鮮味を生み出し、医師患者関係のぎこちなさをほぐしていくのだろう.医師と患者は歴史を紡ぐ体験を共有している.塹壕の中に無神論者はいない3と言われているように、この大惨事と無縁な人はほとんどいない.

 この危機はそれゆえ一つの機会をもたらす.ウィルスに対する我々の同じ脆さのおかげで、医師にとってそうでなければ何年もかかるであろう事実がすぐに認識できるのだ.事実とはすなわち我々は患者とどこも違うところはなくて、病気でない人とごく自然に付き合うように、そうすることが彼らにとって大変嬉しいことであって、我々を気楽にしてくれるということだ.医師というのはしばしばある種の仰々しい役を演じる職業意識と、そういった態度から逸脱して過度な気さくさや、対人の線引に関する問題が生まれるのではないかと懸念する.これらは考えなければならない現実の問題である(しかし臨床での結びつきを犠牲にすることなく考えなければならない).伝統的な医学の作法や態度というのは確かに学ぶ必要がある.しかし、ジャズの偉人、チャーリー・パーカー4が即興の秘訣とはコード変更を学ぶことであり、忘れることでもあるというのを私は思い出す.私は上手く患者と馴染む一つの方法は医学の職業意識についての標準的な教育を受けることと、それをまさに忘れるのでなく、自分自身の中に溶け込ませ反芻することなのだと思う.

 話はまとまらなかったかもしれないが、私は、パンデミックの行方が、多く謎に包まれ(心の奥底では楽観視できる)中で、皆が『医者らしく振る舞うこと』が型にはまった態度を意味するものではなくて、より心に根ざしたものを理想的には意味するのだとより広く気づくやもしれないと考えている.


 ボストンのハーバード・メディカルスクールおよびベス・イスラエル・ディコネス・メディカルセンターより.

 この記事は2020年5月6日にNEJM.orgに出版されたものです.


訳注:

1: “Depend upon it, sir, when a man knows he is to be hanged in a fortnight, it concentrates his mind wonderfully.” Life of Johnson, Vol. 3, 1776-1780

 「閣下、状況次第です.これから絞首刑になると知れば人は皆見事に思考を研ぎ澄ますものです」(筆者の拙訳).Samuel Johnson (1709-1784) は英国の文筆家.文壇の大御所と言われる.上記の文章をもじったもの.絞首刑をコロナウィルスの猛威に言い換えている.

2: Zoom Video Communications, Inc. が提供するウェブ会議サービスのこと.コロナ禍によってビデオ会議が急速に普及した.

3: “There are no atheists in foxholes.” 「塹壕の中に無神論者はいない」極度の緊張を強いられる場面では誰しも神頼みをする、よって無神論者はいないという格言.出典は不明.

4: Charlie Parker Jr. (1920-1955)は米国の名ジャズプレイヤー.モダンジャズの創始者と言われる.


感想:

 翻訳は実に難しい.日英は主述の形が異なるので、どのように配置するのかは苦心した.原文を読んでいただければわかるが、かなりの超訳(迷訳か誤訳)がある.遠慮なくご指摘いただきたいと思う.一方で、大変勉強になった.私の尊敬する先達が言っていたことが身にしみる.例えば、sportsmanを調べると、運動選手を意味すると思いがちだが、それでは本文で全く意味が通らない.アウトドアを楽しむ人、釣り人のような意味もあると知って、sportの多義性には恐れ入った次第だ.また、Personaの訳は人格といった言葉をよく使うが、語義の解釈を吟味して、かなり訳を柔軟にした.

 この医師は実に気さくな先生なのだろう.かといって本文にもある通り、公私混同をしていない.彼はコロナ禍によって、柔軟な面接をするように意識したと言っているようだが、きっと前から従来の医師の型にはまらないような臨床をおそらく長く続けてきたに違いない.私は精神科における遠隔医療は部分的に有益があると思う.しかし、ビデオ通話だと面接の場の雰囲気が失われる気がするのだ.診察室で繰り広げられる緊張感やある種の張り詰めた空気感というのは臨床での極めて重要な要素だと考える.しかし、カーン医師はかえって患者の日常の一コマが切り取られ画面に映し出されることでより自然な関係性を見い出せると考えているようだ.これは確かにさもありなんである.

 日本における潜在的な需要は極めて多いだろう.精神科医療資源の少ない地域、離島在住、引きこもりや、DVなどの事情により別居を余儀なくさせられている人、災害や事故によって通院ができない人も当てはまる.ただ、その需要をいかに見極めて、その中でどのように必要なインフラを供給していくかが課題だろう.ビデオ会議ツールの使用にあたっては医療と企業の利益相反がないように協議する必要はあるし、面接時間や適応を十分に検討せずに遠隔医療を広げてしまうと、かえって適切な医療の分配が行われず、医療者の多大な疲労が強く懸念されかねない.

 今後も記事を選んで翻訳を行いたいと思っています.ご意見、ご感想いつでもお待ちしております.

自分で問題を提起するシリーズ:急

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 このシリーズでは始めに、古代の人々はそれぞれの生活圏で異なる時間の見方をしているとの指摘を確認し、それぞれ時間を有限の線分、無限の円環、始点があって終点のない無限直線、始点はなく終点のみの無限直線に大別されるとした.人は過去から未来へ流れる直線と、天体運動のように循環する時間をうまく組み合わせ、歴史を紡いできた.特に、時間が過去から未来へ不可逆的に流れる感覚は私達にとって自明であるように思われるが、それは正しいのだろうかという疑問を私はふと思いついてしまったために、こうしてブログに思考過程を開陳した.私なりに書物を読んでいくうちに、なぜかループ量子重力理論に出くわした.そしてトランプカードゲームの大富豪で宇宙を例えるという頓痴気なことを始めた.それは宇宙の「特殊」性を説明するためであって、偶々私達から見ると、世界に時間が流れているように感じているに過ぎない.

 まず、宇宙全体に共通の「今」はない.地球の「今」とアルファ・ケンタウリの「今」は違う.アルファ・ケンタウリは太陽系に最も近い恒星だが4光年の距離があるという.星間電話が確立して、地球からアルファ・ケンタウリにいる異星人に電話をかけたとする(何語で?).信号がアルファ・ケンタウリに届くまで4年かかる.幸運が重なって、異星人が電話に出てくれた!それってアルファ・ケンタウリの今にとっては、地球の4年前のことなのか?これマジ?C. Rovelliによれば、この問は無駄だという.イタリアンレストランに行って、「すみませぇん、ペンネマシマシカラメマシオリーブオイルスクナメニンニクください」とラーメン二郎式で注文するくらいトンチンカンで、「高校の通学にフォーミュラカーで行ってもいいですか、スリックタイヤで」と訊くようなものだという.改めていうと、「今」は大域的ではなく、局所的だ.二人がけのソファに座っているヤングな男女のカップルくらいの距離であれば、「今」は存在する.彼氏の講釈を聞かずスマホをいじっている彼女に、彼氏がいじけて「ねぇ『今』なにしてんの?俺は『今』、宇宙について語っているんだぜ」と問いかけることは意味がある.ちょっと例えが無茶だが.

 時間が流れるリズムは質量や重力場によって異なることをA. Einsteinが説明した.彼の記述する時間と空間は、重力場によってぷるるんっと揺れ動く巨大な黒ごまプリン(ゼリーでもフルーチェでもいい)に私達が内包される一部分であった.ところがどっこい、この世界は量子的.あらゆるものは離散的、すなわち散り散りバラバラに動く.ぷるるんっと動くように見えた巨大な黒ごまプリンは実は白黒のモンタージュが絶えず不規則に動いていて、偶々黒ごまプリンに見えていたにすぎない.もしかすればドラゴンフルーツの断面かもしれないし白米に刻み海苔がかかっているのかもしれない.つまりは時空の記述は近似的で曖昧であったということだ.物理学の根本をたどるとそこには時空はなくて、過去も未来もないということが、ループ量子重力理論が教えてくれることであった.しかし、きっと例の彼女はぶすっとして

 「ふーん.黒ごまプリンでもなんでも良いけどさ.べつに嫌いじゃないし.だからなんなの?」

 ということになるから、もう一度私達の世界に立ち返ってみよう.ちょっと気まずいカップルの世界でもある.私にとって気になるのはどうして自分達の多くは時間が流れているように感じられるのだろうか、ということであった.

 ちょうど別の目的で私はE. Husserlの”Die Idee der Phänomenologie” (邦題:現象学の理念)を読んでいるところであった.他にも彼についての解説本を読んでいると、現象学の目指さんとするところが段々明らかになってくる喜びと、ポンティアック・フィエロベースのF40レプリカと本物のフェラーリ・F40の違いを私たちは如何にして認識するかを考えることができた.(現象学的還元をもとにした見分け方はまた記事にする予定だ)そんな中、この時間に関する論考で多いに参考になった”L’ordine del tempo”に奇しくも、Husserlの「時間の構成」について考案した図(図1)が引用されているではないか.私は密かに歓喜した.Rovelliからすれば引用は必然であろうが、私からすれば偶然である.これも量子力学の思し召しか.

図1 Husserlの考案した図はもっとそっけない.

 この図を説明する前に、最初の問に立ち返る.なぜ私達は時間の流れを感じることができるのかと.端的にいえばそれは私達が「記憶」し「予測」することができるからだという.さらにいうと、私達の脳神経系は膨大な神経細胞のネットワークによって、受け取った感覚刺激を処理しその過程でパターンを認識、そこから予測をしようとする生き物だ.私達がいる現在は過去の軌跡の上にいて、それは描こうとしている彗星の尾でもある.お父さんと少年が仲睦まじくキャッチボールができるのはお父さんにも少年にもボールの軌跡がわかるし、どこに落下するか予想がつくからだ.よほど鈍臭くなければ.

 たとえば音楽を聴くとき、一つの音の意味はその前後の音で決まる.もし私達が常に一瞬の存在であれば、音楽は成立し得ない.私達が音楽を聴いて感動するのは記憶して予測するからだ.この例えを用いたのはA. Augustinusで、さらにE. Husserlでもある.いつの世界も偉大なおっさんはいる.Husserlは音楽をヒントに、時間の構成を図式化した.それが図1である.点Aがなぜ点Aなのかはわからない.何かの頭文字かもしれないが、名前は何でも良いんじゃないか.点Aから出発して、任意のある瞬間Eにいるとする.線分AEは時間経過を表したもので、線分EA’は瞬間Eの「記憶または予想」である.感傷的にいうと「思い出や計画」である.もっとキザに言えば「君と夏の終り、将来の夢、大きな希望忘れない 10年後の8月また出会えるの信じて」みたいなものだろう.

 線分EA’では漸進的沈下によって(図次第では浮上でもいいと思うが)AがA’に運ばれる.これらの現象が時間を構成するのはどの瞬間EにもP’やA’が存在するからである.なにが言いたいのかというと、Husserlおじさんは、時間の現象学の源は線分AEという客観的な現象の連続ではなくて、(主観的な)記憶であり、予想、すなわち図の垂直線、線分EA’としているということだ.記憶や予想をかっこよくいえば、過去把持(Rentation)、未来把持(Protention)というらしいがこの際どうでも良いか.一応まとめると、現在(任意の点E)という時間意識は、一様な均質な時間のある一点ではなくて、過去把持と未来把持を含んだ、幅ないし厚みのあるものだとする.厚みってなんだよーって思うかもしれないが、奥行きと表現してもいいと思う.つまり図1における水平方向とは異なる方向へ垂線を引ければどこでもよさそうだ.

 Husserlに続いて別のおっさんであるM. Heideggerは時間について次のように記しているという.「時間は、そこに人間存在がある限りにおいて時間化する」と.

 また、”À la recherche du temps perdu”(邦題:失われた時を求めて)で知られるM. Proustはこういう.「現実は、記憶のみによって形成される」こうした引用はRovelliが引いたものだが、実にはっとさせられる.ここで私からも独自に引用をしてみたい.日本における現象学と精神病理学の立場で知られているのは、自己の存在構造を考察した木村敏である.彼の時間論は簡単に言えば次の通りである.

「時間とは自己存在の意味方向である」

 この文章を見つけたとき、目からウロコというのはこういうことだと思った.なぜ私達が時間の流れを感じるのかという至極明快な答えであると思う.彼は研究者であるけども、もちろん優れた臨床医でもあるから、純粋な思惟だけでなく患者の言葉をもとに論考を発展させる.これは説得力をもつと思う.これまで何度も述べたように、なぜか私達は、過去、現在、未来という方向に時間が流れるように感じている.しかし、何らかの病的な理由によって時間体験が障碍された人々は、時間の方向性を知的に理解しているとはいえ、自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を感じざるを得ない.そうした喪失感をもつ人々というのは、離人症という状態にある方々であると木村はいう.離人・離人感というのは精神医学における一現象である.一般的には解離症状に含まれる.解離とは「本来は感覚、記憶、同一性を統合した一人の『私』が「心の安寧を保つ場所が見つからない」ことによって覚醒水準としての意識は保たれているのに、『私』の統合が失われた状態」をいう.よって健忘や遁走、混迷、フラッシュバック、人格交代など様々な症状を呈する.これについては筆者の過去の記事にもあるのでよかったら御覧いただきたい.

 中でも離人感というのは、意識変容によって周囲世界と自己の間に距離が生じた状態で、「何をしていても自分がしているという実感がない」、「生きている実感がない」、「自分の体が生身の人間として感じられない」、などの自己や外界に関するリアリティの喪失を述べる症状である.通常であれば、過去から現在、未来へと一方向になめらかに流れるものとして体験されるはずの時間が、流れを失い、無数の「今」のちらばりとして体験されてしまう.

「なんだか時間が経つ感覚が全然ないんです.ばらばらになっちゃって.全然進んでいかないんです」

 彼らが自己存在のリアリティの喪失感と、通常の時間体験の喪失感を同時に感じるのは偶然ではないと木村はいう.その理由は、私達の時間体験に過去が過ぎ去って帰らないものであり、未来が未だこないものであるという「以前」と「以後」の方向性を与えているのは、「私がいつか死んでいく有限な存在である」という自己存在のリアリティから生じる「生の既存性」と「死の未来性」だからである.過去、現在、未来という時間の流れは「自己存在の意味方向」を本質としている.自分が今生きているとわかっていて、なおかつ、いつか死ぬとわかっているからこそ、時間という一方向のベクトルが生じるのである.よって離人症のように自己存在のリアリティが喪失した場合、時間体験の異常は必然となる.

 精神疾患を有する方々において時間空間の認識に困難を生じることは解離性障害に限ったことではないと思う.特に統合失調症は自己存在の危機に直面する特徴的な疾患であると思う.私はある苛烈な陽性症状(幻覚・妄想)を呈した方を止む無く保護室に収容した経験がある.早期に治療介入し、自体が鎮静するまでしばらく時間がかかったのだが、ようやく落ち着いて保護室から一般病室へ移れる許可を出すため、私が保護室を訪ねると、

「あぁ、先生.どうしたんですか.そういえばさっきお願いしたオヤツの件、どうなりましたか」

とケロッとしていて、長らく保護室にいたことに気を留める様子がない.もちろん毎日回診はするからずっと私と会わないわけではない.スタッフも巡回するのだが、「早くここから出してくれ」とも言わず、オヤツのことを訊く.私とその人をつなぐ時間と空間が断絶した印象を持った.そして「今」関心のあるオヤツのことを尋ねるのであった.保護室という特殊な部屋が一つ要因だったかもしれない.しかしそれを加味しても若輩である私の受けた衝撃はとてつもなかった.木村の言葉を借りれば、「既存性としての事実性」が失われており、現在の自己存在の根拠が成立していない状態であったのだと思う(なぜ自分がここにいるのか知らない).

 以上、時間の方向性が生じる理由について論じてきた.私なりの答えはこうだ.

 自分には生きてきた記憶があって、今も生きている実感がある.そしていつか死ぬことを知っている.その存在のあり方に方向づけが生じる.それを時間と呼ぶのだと.

 だから私達が過去から現在、未来へと不可逆的に流れていく感覚がするのは私達が生きている限り自明である.そう感じるのは決して変ではないし、疑問を感じることもおかしなことではない.

 ようやく賢人たちに追いつくことができたとでも言おうか.いやいや追いつくなんておこがましい.正しく言えばなんとか先人たちの巨大な肩に乗って、少し高いところを見渡せるようになったに過ぎないのだろう.でも本当にこれで理解しているのかな、という不安もある.物理学の先端からの検討、哲学者らの見解、病的な状態からの考察.様々な立場から共通のテーマについて考えを巡らせることができたのは有意義であった.私自身の立場としては、やはり「なぜ病的な状態が生じるのか」という疑問に尽きる.ただこれは極めて難題で、分子生物学的な知見と精神病理学的な検討など学問の複合的な連携が不可欠といえる.まぁ、硬い話はここまでにしよう.

 私にとって生きてきた証は、幼い頃からの記憶と撮りためた思い出の写真と手垢で汚れた本であったり、車のオドメータに記録される走行距離でもある.育てている草木が成長していく感覚や、車に乗って風を感じる時、亀吾郎法律事務所のスタッフが楽しげである姿を見る時に生の充足を感じる.そして、それらがいつか露と消える儚さに心做しか胸騒ぎがする.

車のオドメータは37270kmを刻んだ.

 ここまで読んでくださってありがとうございました.今後も亀吾郎法律事務所をよろしくお願い申し上げます.

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:5

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 脱出と超越について話をしてきた.日本の伝説、異世界系小説、解離.それらの脱出願望を見出し、文献を引用しつつ私なりに概説を試みた.最後にもう一つ脱出方法を取り上げ、試論を終えようと思う.

 思いつく方法は自ら命を絶つこと、自殺を考えざるを得ない.人には生における耐え難い苦しみや辛さから逃れるため、死を希求する動きがある.また時勢や状況によって死を選択しなければならないこともあった(生きて虜囚の辱めを受けず).

 自殺という言葉を様々な立場から確認してみる.世界保健機関(WHO)によれば「自殺という行為は単一の原因でなく、多くの要因が重層的に関わり合うことで帰結する現象」とする.なお、倫理学者でもあるI. Kantは「自殺は第一に意図的に引き起こされねばならず、第二に当事者自身の行為の直接の結果でなければならない」.一方、近代の自殺研究の嚆矢であるÉ. Durkheim(デュルケーム)は「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける」という.

 定義はともかく、自殺は死への脱出と超越と言える.一つとして帰還はない.……ないのだが、転生として新たな生への帰還を成し遂げてしまうことがフィクションではある.実は前に述べた異世界系小説における転移の方法に、「自殺」がかなり多い.かなりといっても全体の何割が、といった概数は生憎示すことはできない.刻一刻と作品は生み出されているからだ.しかし、ランキング上位作品や、完結済みの作品において自ら死を選択するという手段は容易に認められる(メディア化された作品に自殺からの転生は見つからなかった).現世での主人公はブラック企業の社畜として疲労困憊している描写が散見される.悪辣な上司、連日常態化した徹夜勤務.このような状況が続けば大抵の人間は、抑うつ状態、うつ病に陥る可能性は十分にあると考える.過労が自殺のリスク因であることは知られた事実だが、こうしたこととは相反して、上記の記載が見受けられるということは、作者自身の現実を部分的に投影しているとして捉えても考えすぎではなかろう.作者らが自殺を企図したかどうかは明らかではないが、少なくとも自殺念慮が消極的にせよ存在していたのではないかと私は考えてしまう.小説を書く行為ができるならばある程度は生へのエネルギーがあるだろうと思うので、抑うつ状態にしては軽度なのかもしれない.だが自殺を通した異世界転移は歓迎し難い.なぜかと問われれば、もし仮に自殺による転生の物語が完成度が高く好評で、大衆の支持を得たとする.ギャルから高級官僚まで好評だ.ややもすれば自殺という行動に関して一定の誤解が生じる恐れがある.んなわけねーだろポンコツぅ、と思うかもしれないが、どうかんがえてもありえねーだろ、ということを人間は平気でしてしまうし思い込んでしまう.人類史を振り返れば明らかだろう.竹槍を投擲して鋼鉄の飛翔体を落とそうとする帝国があったような.

 自殺という行為だけでない.その要因たる社会構造を暗に肯定しかねないと考えるからだ.私は少ない経験ながらも若い人から高齢の方まで、悲痛な面持ちで診察室を訪ねてくる患者さんを相手にしてきた.皆職場を契機にうつ病や適応障害といった診断名になる.どなたも口を揃えて言うのは、休むにも休めなくて……私がいないと……仕事がなくなってしまったら……

 そういった言葉はとてもとても良くわかる.それぞれの言葉に対して私なりに説得力のある説明を試みたつもりだが、それではあまりに時間が足りなかった.一人の診察にかけられる時間は極めてわずかだった.たかが5分ではわずかな時間に何かしたくても神の言葉でない限り、その人を健康な世界へ導き勇気づけることは私にとってはあまりにも難しい.社会資源を目一杯使おうという言葉は聞こえがいいが、私のいたところでは資源は足りていなかった.だが「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と言われているようで悔しくてたまらなかった.抗うつ薬をいくら出しても真のリカバリには遠いことは目に見えていた.如何に数を捌くかが求められた.私はその職場を離れることになった.今考えただけでも吐き気がする.そして私自身の不甲斐なさと力量不足があったことを認めざるを得ない.私は今でも申し訳ない気持ちでいるし、何か他にできたのではないかとずっと悔やんでいる.恥ずかしい話だが、私は電話相談や面接で「死にたい」という患者さんに「自殺してはいけない理由」をうまく説明できたと思ったことがないことをここに告白する.どう説明したらよいかかれこれ考えているが未だに名案が浮かばない.誓ってこれまで一度たりと手を抜いたことはなかったが、職業人として失格なのではと思うこともある.

 疾患は人の病的な要素を抽出して還元したものを言うだろう.血圧が高い状態で臨床的に問題なものを高血圧症、血糖値が高く様々な合併症を引き起こしうる病態を糖尿病と言ったりする.それはわかる.だが、月の残業時間が120時間以上で休日出勤が当たり前で、給料は良くないし、残業手当はでない.そんなうちに睡眠不足で慢性的に疲労があって、不安や焦りもあるし、死にたくて……そんな貴方はなんと適応障害です!社会に適応できていないから適応障害です.そんな馬鹿な.私はそういう考え方を好まない.社会構造を吟味せず個人の適応能力にゆだねて診断を下さざるを得ない現在の診断基準や社会のあり方は問題だと思う.隠さずに言えば社会の方に病理の比重が大きく存在していると思っている.だが、日本の社会構造を容易に変えられるかと問われると、そうはうまくいかない.これから私自身、社会学、労働研究、日本人の文化的背景をさらに学ぶ必要があると考えている.

 よって私は安易に自殺をしてほしくない.それがフィクションであっても.自殺をさらっと容認する社会はあってはならないと思う.表現の自由に則って好きなように作品を作るのはいい.沢山創作されるべきだ.だが、懸命に魂をすり減らしてもなお生きようと必死でいる方々を貶めるようなことは厳に慎まねばならない.かといって私はなろう系の一部の投稿者を批判するつもりは毛頭ない.ただ一つ言っておくと、自殺によって転生した後、ケロリとして異世界になじむ作品の描き方は葛藤を表出する人間らしくない.自殺を念慮するとき、その人には凄まじい死への欲動と生への渇望(タナトスとエロス)が入り乱れる.相反する考えが思考を支配するほどの強烈な葛藤が生じる.そんな葛藤を経て死を選んだはずの主人公が転生したとしたら、「なぜ俺は死ねなかったのか」と深く絶望しても不思議ではない.

 結局、脱出は困難である.私は論考を書き進めながら、どんな結末になるかは私の筆任せにしていた.まぁ楽観できる結語を期待するのは難しい.一応、一時的な脱出は可能だ.旅行は脱出だが、死ぬまで旅行を続けることは現実的でない.帰還することが前提になる.亡命という手段はあるが、日本人はほとんどその選択肢をとらないだろう.もう一つは空想へ脱出すること.しかしこれは虚構にすぎず儚いものだ.それでもよければ脱出してもいいが、現実への諦念が色濃くなる.解離.これは条件付きの脱出だが、尋常ならざる苦痛が伴う.例外的な手段と考えるべきだ.そして自殺.究極の手段.たった一度きり.すべてが終わるが、本当にすべて終わる.苦しみも悲しみも消える.だが、かけがえのない存在や生きていたとき感じた正の感情、思い出、何もかも消えてしまう.そして死を考え続け、選ぶことはとてつもなく辛い作業だ.残された人にとっても.

 近年の異世界系小説に見る脱出と超越の話はここまでになる.あまりうまくまとまらなかったが、私が長く考えていたことを文章にすることができたのでひとまずほっとしている.言葉足らずのところや言い回しがくどいところもあるかもしれない.そうした批判は真摯に受け止めたい.こうして文章を書くことで私はもっともっと学ばなければならないことに気づく.途方もなく.さぁ、どこから勉強しようかという気にもなる.私の力不足は勉強への動機づけの一つとなっている.

 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました.皆様の寛容さと忍耐強さには脱帽です.亀吾郎法律事務所は今後も特集を組んで、様々なテーマに果敢に挑んで行きたいと思っています.ご声援よろしくお願い申し上げます.

 

 

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:4

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 これまでにわたって、私は日本では古来よりムラ社会構造が個人の脱出願望に関係しているという考察を引用し、近年盛り上がりをみせる異世界系小説(なろう系とも)の構造を検討した.日本のファンタジーゲーム人気により浸透したであろう共通の世界観は人をひきつけ、様々な媒体へ、経済活動へつながっており、小説家ブームに火をつけている.異世界転移は古来からありふれた筋書きだが、この脱出はいずれも虚構に過ぎない.といっては元も子もないのだが.

過去の連載はこちらからどうぞ. 1 2 3

 脱出と超越の方法は私たち(亀吾郎法律事務所)が考えつく限り、あと2通り存在する.亡命や羇旅ではない.一つは解離という現象.もう一つは自ら命を絶つこと.だが過程においては耐え難い苦痛が生じ、社会的にも医学的にも問題をはらむ.

 解離とは、なにかが離れてゆくこと、剥がれることをいう.その何かは様々だが、医学的には人体の組織が剥がれること(大動脈解離など)、もう一つは人格が離れてゆくこと.ここでは後者の方を扱う(正常な現象としての解離もある;つまらない話の間、聞いていたことを覚えていない、好きなことに没頭して周りに気づかない、大切な人を失った悲しみで気を失ってしまう).もう少し詳しく言えば、「意識が、外傷的事象(トラウマ)を切り離す」という文脈で用いられる.

 病的な解離は精神科の臨床でよく認める現象だ.医学的には解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder: DID)と言われる.この考えは解離概念の始祖であるP. Janet(フランスの精神科医)に始まる.解離性障害では健忘や人格交代、離人感といった症状・現象が生じる.全生活史健忘といって、自分の生い立ちや名前など個人情報を忘れてしまうことがある.離人感は自分が自分でないような感覚、どこか別の場所から自分を見ているような感覚.多重人格は一個人一人格の状態から、人格を切り離して別の人格に交代させてしまう現象をいう.自分が自分でなくなる、アイデンティティの危機である.

 なぜこのような事態が生じるのか.取り上げられる成因として、性的虐待、情緒的、言語的、身体的虐待、ネグレクト、親の保護の欠如、安全な愛着の欠如などが知られている.多くは家族など大切な人の人間関係に由来する外傷体験とされる.学校でのいじめも大きな要因だ.本来、傷を癒やすものとして機能されるべき愛着関係での虐待は筆舌に尽くしがたい心の傷を生み出す.使われた自分、原因である自分、汚い自分、未来のない自分.

 否定的な自己意識は自分を傷つける.自殺とも無縁ではない.こんな自分でいたくない、認めたくない.絶対に認められない.こんな場所にいたくない、こんな時間が早く過ぎ去ってほしい.辛くて辛くてたまらないと.当人の感じる苦痛は計り知れない.

 私達は、どこか自分の居場所を求める.居心地がいい場所.自分が自分らしくいられる場所.現実であろうと幻想であろうと.解離の本態は安心できる現実の居場所がないことにあるだろう.そういった場合、幻想の居場所を求めてもおかしくはない.幻想を求めれば現実との結びつきは希薄になる.自己同一性の危機に陥った場合、私達は自分を守る働きがあるとされる.これは「防衛機制」という.これはS. Freudがもともと心的葛藤を対処する術語を、軍事用語である防衛から転用したようだ.カッコつけたくなるよね.つまり、自分自身の立場が脅かされると、自分を守ろうと、自分を空間的に、時間的に自分自身から切り離す.「解離」という防衛が働いていると精神科職業人は考える.エヴァンゲリオンを観たことがある人は、機体(人造人間エヴァンゲリオン)に搭乗するパイロットの生命が脅かされた場合、パイロットをエヴァンゲリオンから強制射出するシーンを思い出していただきたい.私はあんな感じを考える.観たことのない方はYouTubeで新劇場版が公開されているので、よければどうぞ.エヴァンゲリオンは人の心の動きのメタファーを巧みに描写しているような感じがする.私見だが.十代の承認に関する問題も内包しているように思う.

 解離について着想を譲ってくれたさぶちゃん.最近は大きくなってずっしり重くなった.嬉しいなぁ.

 話をもとに戻そう.解離は脱出と超越の一つなのではないかと、事務所のさぶちゃんが教えてくれた.それには私も全面的に同意である.解離で「こころ」は現実から隔てられた空間へ超越する.これをdetachment(離隔)とよび、現実感の喪失、離脱体験、離人感になる.時間的に超越する場合、これをcompartmentalisation(区画化)と呼ぶ.記憶をなくす(健忘)、人格を交代させること(人格交代)で、それまで自身がたどってきた人生の軌跡を断絶してしまう.だが、これらはだいぶ好ましくない.数ある防衛機制の中でも未熟な段階とされる.切り離された人格は容易に統合されない.どのようにして治療を行っていくかは医師にとっても難しい分野だと考える.そもそも人格の統合が治療目標かどうかは議論されている最中である.

 治療の上で私が考える大切なことを一つ言っておくとすれば、それは患者の安全保障を重視することだろうと思う.その意味で入院は安全保障の契機になる.居心地の良い場所を見出すことで、人格を切り離す必要がなくなるかもしれない.そのためには治療者と患者の治療同盟が欠かせないのだが、これはこれで難しい.いつまでも入院するわけにもいかないので、患者と彼らを取り巻く関係者との折衝技術は勿論、適切な対人関係の構築を身につけていただかなくてはならない.マナー講習会を受けてもマナーが身につかないのと同じように、簡単なことではない.

 解離に関する研究は、神経心理学的な基盤において、意識のニューラルネットワークという見地からも盛んに議論されている.解離に関する話は一度保留して、いつかご紹介できればと思う.

次回、最終回! いい加減終わらせないとね……

 

 

 

亀吾郎法律事務所が目指すところ What our office aims for

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.