瑣末な報告と大きな感謝

 

 こんにちは.そろそろ来月頭で亀吾郎法律事務所が設立されて実は四ヶ月くらいになります.WordPressのアカウントを取得し、ホームページを公開したのは2020年の6月3日でした.記事を初投稿したのは6月4日になります.

 当初から現在に至るまで迷走し続けていますが、どうにか四ヶ月近く記事を投稿してこられたのは望外でした.この記事で総投稿数は56になります.記事の内容に依らず一月あたり14記事投稿しているのでした.毎日はどうしても難しいですがなんとか継続できているのは嬉しいことです.毎日投稿なさっているブロガーの方々は私からすれば脱帽ものです.恐れ入ります.

 今回の記事は数合わせ的な狙いがございます.ですから今まで以上に中身がございません.とは言ってもせっかく来てくださった方を邪険にしたくはありませんので、亀吾郎法律事務所の過去4ヶ月の統計情報を公開してみようかと思います.

 以下は個人を特定するものではございません.

June/6月July/7月August/8月September/9月Total/計
Views/表示数1206345085511813
Visitors/訪問25768080261
Likes/いいね16532752148
 

 ご覧の通り、ブログ界では圧倒的な弱小でございます.「ハッハー!俺の所の方が多いぜぇ」と思う方もいるかもしれません.大変結構なことです.

 次は訪問する人の出身国を列挙しました.

Country/国Views/表示数
1Japan1717
2China27
3Australia24
4USA20
5France12
6Mexico3
7Italy2
8UK2
9Indonesia2
10Germany1
11Greece1
12Russia1
13Finland1

 圧倒的に日本が多いです.日本語で記事を書いているから当然ですよね.ですが思った以上に外国からお客さんが来るのは驚きでした.嬉しいですね.フィンランドやロシアの方はどうやってきたのでしょう.

 そして最後は最も表示数の多かった記事を公開します.あくまで記事に限定しています.

Article/記事Views/表示数
1ニュー・ジャック・スイングに寄せて22
2美味しいピザを食べよう 結婚式を間近で見るということ 自分で問題を提起するシリーズ:序 北海道走行回想録20
3談話異聞録 Pandemic and Persona 本を整頓するということ19
4秋の芸術鑑賞会 読書という泳ぎ方 近年の異世界系小説に見る超越と脱出:117
5亀吾郎法律事務所が目指す所 暴食ライフ、ベルゼブブと化した若輩 亀吾郎法律事務所の仕事について What I have in my mind16
6サムギョプサル、そして 私の考えていること The Book of Tea: 茶の本 其の弐②15
リンクを貼りました.よかったらどうぞ!

 うーん.20も満たないとなんとも言えない感じです.まったく統計学的有意差はないでしょうね.まぁ一喜一憂せず続けようと思っているので、特に気にしておりません.どんどん続けて投稿数が100を超えたらまた検討してみようと考えています.

 ブログは読者の皆さんがいるからこそ成立するものです.これからも忘れないで続けていきます.いいね、がついたり訪問数が増えると何だがお小遣いが増えるみたいで嬉しいものです.いつもありがとうございます.これからもどうぞご愛顧くださりますよう、亀吾郎法律事務所スタッフ一同励んで参ります!よろしくお願いします.

「キーボード」の話

 こんにちは.吾郎です.近日私達の住む所は天気が穏やかで、摂氏25度、湿度54%と温度計に示されていました.こんな気候は、夏の英国のバース(Bath)やブライトン(Brighton)、米国加州のナパ(Napa)、ソノマ(Sonoma)を思い出します.北海道も似たような空気感でした.皆さんはいかがお過ごしですか.私達はこんな気候がずっと続いたらなぁと、みんなで話しておりました.

 先日、荷物を送るために、宅急便の事務所に行きました.メルカリというオンライン上で個人が物品の売買を可能にするサービスを利用して、匿名の相手へ配送を依頼しました.送料などの支払はオンラインでなされる為、金銭のやり取りは其の場で行わず、必要最低限の接触で済みました.携帯電話に作成されるQRコードを店舗で読み取ってもらうだけでした.今のご時世に即しためずらしく合理的な仕組みだなと関心しておりました.その背景でなされる手続きはどのくらい大変なのかはわかりませんが、現場の方々にとっても円滑なシステムであることを願っています.

 私達はわけあって、「キーボード」を送る必要がありました.店先でこんなやりとりがありました.

「中身はなんですか」

「キーボードです」

「あぁ、キーボード、楽器ってことね、梱包は大丈夫ですか」

「いえ、パソコンのキーボードでして.ちゃんと包んであります」

とっさにキーボードを打つ仕草をしながら私は言いました.

「あら、パソコンの方ね.すみません、キーボードっててっきり楽器の方かと.笑われちゃうわね」

「いえいえ、こちらこそすみません」

 こうして和やかに手続きは終わりました.帰り道、さぶちゃんと少し話をしました.

「キーボードと言つても、楽器の方もあるんだねえ.我々はパソコンのキーボードを送るつもりだつたから、そつちの方は思いもよらなかつた」

「そうだねぇ.向こうは自分を卑下していたけど、そんなことないよね」

「パソコンのキーボードを打つ動作も、楽器のキーボードを打鍵する動作も同じだからなあ、あの仕草は全くの無駄だつたなあ、お笑いだね」

 私はキーボードは「パソコンの」だと信じきっていたので、今回のやり取りは全く不意を突かれたものでした.思い込みというのはその時に覆されるまでずっと続くのですから、結構怖いもので、いかに私達の確信形成というのは脆く不備があるものかと実感したのでした.そうした齟齬は問題事にならずに済んだのは幸運であったと思います.


 確信を形成する機構について、というと大風呂敷を広げてしまうテーマですが、現象学ないし精神医学を学ぶ身として、私達の認知に於いて時に深刻なエラーを引き起こしうる、この誤った確信或いは歪んだ認知、というのはやはりよく追求すべき領域なのだと考えます.統合失調症や覚醒剤精神病に代表される幻覚妄想状態だけではなく、後天的かつ不可逆的な神経認知領域の変化すなわち認知症、自己の容姿に対する認知変化が引き起こす醜形恐怖症などの不安障碍圏、摂食障害といった病態はいずれも自己の確信形成に重大な機能不全・失調が起きているのでしょう.勿論、双極性障碍や大うつ病といった気分障碍圏でも認知の歪みが生じてしまいます(心気妄想など).そして言うまでもなく、健常とされている医学的に問題の指摘されていない人々でさえも.

 確信成立の条件を解明することと、それが生物学的な次元でどのように反映されるか.そして打開策を現実世界にどう活用させるか.よく精神科臨床は「話聞いていればいいよね」のような誤解を受けますが(個人の感想です)、私個人の意見が許せば、極めて高度な戦略性が要求される治療学で、一手一手のミスが命取りになる将棋やチェスといったボードゲームにも通ずるものがあるかなと考えます.対象の確信の度合いが強ければ強いほど、治療者と対象との認識の差が大きいほど治療介入は困難を究めるものです.綿密な調査と学問的に裏打ちされた方法論によって初めて適切な面接は可能になると私は信じています.

 今回の事務所でのやり取りは相手の寛大な度量のおかげで、終始穏やかな雰囲気で進みました.人と人との対話が斯くの如く温和なものであれば、もう少し世間は秋の美しい空気のように和やかなのかもしれません.ですが先日の某国の大統領選挙戦にかかる公開討論会を見る限り、恒久平和は暫く先のようです.

 It is scarcely an exaggeration to say that at present mankind as a species is insane and that nothing is so urgent upon us as the recovery of mental self-control. We call an individual insane if his ruling ideas are so much out of adjustment to his circumstances that he is a danger to himself and others. This definition of insanity seems to cover the entire human species at the present time, and it is no figure of speech but a plain statement of fact, that man has to ‘pull his mind together’ or perish. To perish or to enter upon a phase of mature power and effort. No middle way seems open to him. He has to go up or down. He cannot stay at what he is.

H. G. Wells, A Short History of the World, 1922

 種としての現在の人類は常軌を逸しており、自制心の回復ほど我々にとって急務であるものは無いと言っても過言ではあるまい.個人に占めている考えが周囲に対してあまりにも調和を欠いているために自他ともに危険を及ぼすことを我々は個人の狂気と呼ぶ.この狂気の定義は現在の人類すべてに当てはまるように思われ、そして文飾無しに事実を明白に述べると、人類は「心を引き締める」か滅ぶかである.滅び去るか、成熟した能力と奮闘の段階へ進むかである.人類に中間の道は開かれていないようだ.昇っていくか堕ちてゆくかしかない.現在の精神状態ではいられないのである.

H. G. ウェルズ、 世界史概観、1922年

100年前の人類が正気でないとしたら現在の人類はどんなものでしょう?

ここまで読んでくださってありがとうございます.

秋の芸術鑑賞会

さぶちゃんの絵画評論

さぶちゃん

 こんにちは.亀吾郎法律事務所の秘書、三郎と言います.さぶちゃん、と呼ばれています.いつも吾郎ちゃん並びに弊事務所の記事をご贔屓くださりありがとうございます!今回は私が初めての投稿として、事務所に飾っている絵画について紹介しようと思います.

 まずはこちらの絵をご覧ください.下の絵はオーギュスト・ルノワール(Paul-Auguste Renoir)の作品です.19世紀のフランスの印象派画家です.邦題は「雨傘」っていうのかな.吾郎ちゃんと以前、休暇でロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れた時に、作品を気に入ってポスターを買ったんです.お土産に欲しい作品がいっぱいあって、一つだけ選ぶのに苦労しました.

Les Parapluies, Paul-Auguste Renoir, 1880-1886, Oil, Canvas, National Gallery, London

 皆さんはご覧になってどのような印象を持ったかはわかりませんが、我々は良いなと思って買いました.芸術論や美術史は詳しくないので薀蓄は語れないけれど、良いと思った所を紹介します.

 この絵は全体的に群青色です.良い色ですよね.みんなが傘をさしているから雨が降っているのかなと考えるのが妥当かと思います.薄暗い雰囲気は空模様や人の着ている服の色調から伺われるのかもしれません.ですがそれを打ち消すように、人々の表情が素敵で、我々はそこに惹かれました.特に、向かって左の女性.雨傘の題名にもかかわらず独りだけ傘をさしていません.そもそも持っていません.空のバスケットを持ち、スカートを少しだけまくりあげる姿は、これからどこかへ小走りしようとしているのかな、笑ってはいないが、穏やかな表情からは何か良いことがあるのかな、そんな予感を感じました.後ろにいる男性はもしかすれば女性が傘を持っていないのを察して傘に入れてあげようとしているのかもしれません.それは親切心で?或いは下心で?想像力を掻き立てます.ですが女性は後ろに気づいている様子がなさそうです.女性は自分のことでいっぱいなのか、別の相手を思い浮かべているのか.ただ彼女の目線はこちらを見ているようにも思います.

 向かって右側は家族連れでしょうか.母親と思われる女性が微笑んで、少女を見つめています.少女もにこにことこちらを見ているようです.少女が持っているのは輪回し「hoop & stick」で、遊び道具です.どこかで買ってもらったのかしら.その少女の姉であろう右端の女性は帽子をかぶっているので表情が見えません.もし彼女らが家族であればきっと裕福な家庭なのでしょう.衣服の装飾が豊かで左の女性の質素な服装と対照的です.かといって左の女性は健康的な印象を受けます.貧相ではありません.

 雨傘をささない若い女性と母親と一緒のあどけない少女.どちらもこちらを見ているようですが、我々の方には何があるのでしょう?

 ある一コマを切り取った、まるで写真のようですが、写真よりも画面からにじみ出る情報の余韻は多いように思いますし、それだけ我々が感じる何かは多彩に見えるのでしょう.群青ですが.

 我々はこの絵画のミステリー性に魅了されたと言っていいと思います.ルノワールの絵画の中ではこの絵はすごく有名ではないと思いますが、とても気に入っています.皆さんもロンドンを訪れる機会があれば、ぜひ美術館へ!ほとんど無料ですから!英国の芸術における度量の大きさたるや……大抵空いてるしなぁ.日本の都会の美術館はごったがえしてるからね…… 吾郎ちゃんはテート・ブリテンが好きだけど、私はナショナル・ギャラリーが好きです.掃除夫はテート・モダンも良いよって言ってたっけ.近くにバラ・マーケット(Borough Market)があるから、ご飯食べたりして……眺めてるだけでも楽しいです. 英国のご飯、酷評されていますけれど、そういうこと言う人は残念ですね.いつか英国の旅行の話も特集したいです.

これが事務所に飾っているポスターです.賃貸物件だから壁に掛けられず、残念.

 次はこちらの一枚.

無題、S. O. 製作年不詳、油彩、キャンバス、亀吾郎法律事務所

 こちらは日本のとある現代洋画家が描いたものです.これまで数々の賞を受賞したという立派な現役の画家さんです.我々の数少ない知人の中で、縁あって譲っていただいたものになります.お会いしたのは数回になりますが、大変元気な方です.海外を飛び回って芸術家仲間と絵を描いていたんですって.粋過ぎ!アトリエも拝見しましたが、高校の部室みたいなカオスがなんだかなつかしくて心地よかったです.

 写真を部分的にぼかしていますが、プライバシーのためです.下に生えているのは豆苗ですね.切っても伸びてくるのが豆苗の可愛らしいところです.

 さて、この絵は秋の那須高原だそうです.ということは奥にそびえるのは那須連山なのでしょうか.にしてもこの絵を描いた時はさぞかし良い天気だったのでしょう.快晴の空にうねるような雲.秋の雲はこんな感じですよね.風が吹いていて、雲が少しずつ動いていて、静的な絵ではあるが、動的な要素がしっかりあります.涼しい空気が肌をなでる感じが伝わってくるようです.目の前の草木は紅葉で鮮やかに色づいていますが奥の景色も紅葉が始まっていることがわかります.きれいな色遣いだと思いませんか.たくさん絵を描いてきた人だからできる色遣いなのかなと思います.木の葉の描写は陰影と重ね塗りを用いて立体的に表現されています.かといって写実的過ぎず表現の陳腐化が避けられていると思います.私と吾郎ちゃんは、かつて北海道の旭岳に行ったことを思い出しました.そのときも鮮やかな紅葉が見事で、ちょうど例の絵のような美しさでした.クリックすると拡大されるのでぜひご覧になってくださいね.

 似ていませんか?空気感、地平.色づく草木.写真は吾郎ちゃんが撮ったものです.なかなかよく撮れていると身内ながら思います.とはいっても絵の生み出す空気感と全然違いますね.北海道の話もいつかしましょうか.旭岳には二回登頂しましたよ!

 実は私、絵の左側にある断崖の部分、ちらっと描いてありますが、画家の技巧が垣間見えて好きなんです.勿論他の箇所は素敵なのですが、あえて全体を描かなかったところは作者の謙虚さがあるのかな、とか、ついつい考えてしまいます.岩肌を描くのは難しいと思うんです.影になっていると尚更.それをさり気なく描いている.すごいなぁと思ってしまいます.

 いかがだったでしょうか.絵について語れることは少ないですが、絵にまつわる思い出はたくさんあります.絵のいいところはどれも物語性を持っていることでしょうか.絵だけではないですね.どんな創造物、作品もみな物語を持っていて、どれも雄弁だけれど、静かに語る、そんな感じがします.亀吾郎法律事務所にはまだ他にも作品があるので、機会があれば紹介しますね.イタリアの絵があるんです.

 吾郎ちゃんはこの前食べたサムギョプサルにあまりにも興奮しすぎて記事がまとまらなくなっちゃったと反省していました.今度から気をつけると言っています.今後とも暖かく見守ってご愛顧いただければと思います.

さぶちゃん

ここまで読んでくださってありがとうございます.

 

サムギョプサル、そして

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 言葉には流行り廃りがあって、流行語として広く君臨することもあれば、死語として常用されなくなり、少数勢力の慰みや学術者の研究材料になるのかもしれない.私は流行語大賞などの報道にはてんで興味がないから、今どんな言葉が流布しているといったことは知らない.しかし、ある一つの言葉は最近、我が亀吾郎法律事務所で使われるようになってきた.

 先日、所内で焼肉を行った.とはいっても題名の通り、豚の三枚肉を切って焼いたに過ぎない.だが、焼肉屋に行くのとは別格の味わいであって、至福の時間であったように思う.今回はその話をしながら事務所内の流行語を紹介したい.

 私は、亀吾郎法律事務所の掃除夫であるが、同時に厨人でもあることが多い.私は如何に珍味珍品を用いず一般の食料品店で調達できる品を使って、事務所の皆さんに享楽してもらうかを念頭に置いて調理している.そういったときに動画サイトを参照して、料理をつくることが増えてきた.おそらくこういう風潮は多くの家庭にもありそうで、何だか料理本の売れ行きが低迷しそうな雰囲気である.簡単さ、手軽さ、そういった料理で美味しさが確約されるのであれば、確かに人気は出る.人は一過性の爆発的な人気を「バズる」、という現象で捉えるようである.きっと英語のbuzzから借用しているのだろうが、あまり「バズって」しまってもブンブン蝿が飛び交っているようで喧しいのも事実である.「バズる」ことは一部、動画の再生回数を増やすため、金銭収入を得るため、といった背後の目的によって行われることもあるかもしれない.不興を買ってでも話題性を瞬間的に生み出す方法は、人々の憤怒を焚き付けて電子の海を炎上させる.その度倫理観が問われることはあるが、一時的な快楽を求めるためにすぐに人々は油をせっせと注いでいる.

 湯船にコーラを張って浸かる様子を放送する、クジを全部買ってクジ屋のメンツを潰す、分厚い氷の塊に融点限界の金属球を上から落とす、一日で北海道と沖縄を旅行するなどといった珍奇な行動があることを見聞きした.酔っ払ってやっているのかと思えば、おおよそ皆素面である.中には四大天使と同じ名を名乗り常に仮面を被っている頓痴気な人もいる.よくもまぁそんなことを白昼素面でやれるなという興醒めを私は感じてしまう.革命家を自称し不登校を貫徹する児童も出現した.視聴者の快楽刺激に対する感覚閾値が徐々に上がって、生半可な刺激では不感症となり、さらなる刺激を欲しがる人々の需要に求めるべく放映者は奇天烈さを増してゆく.過剰な刺激物質に対して受容体を増やし、なんとかして生理的平衡を保つような、薬剤過感受性の病理に近いことを私は考えてしまう.P. Valéryも「精神の危機」で似たようなことを述べていたと思う.「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という言葉があるが、全人類阿呆になってしまったほうがいいのだろうか.古くから宋書に伝わる袁粲の例え話として、「狂泉」が知られるので紹介しておこう.

 昔有一国,国有一水、号曰狂泉.国人飲此水,無不狂,唯国君穿井而汲、独得无恙.国人既並狂、反謂国主之不狂為狂、於是聚謀、共執国主、療其狂疾.火艾針薬、莫不必具.国主不任其苦、於是到泉所酌而飲之.飲畢便狂.君臣大小、其狂若一、衆乃歓然.我既不狂、難以独立、比亦欲試飲此水.

沈約、「宋書」巻八十九、袁粲伝

「昔ある国に、ひとつだけ水飲み場があって、狂泉と呼ばれていた.国民はこの水を飲んでいたので皆狂ってしまっていた.唯一王だけが井戸を掘って水を汲んでいたので、無事でいた.国民は軒並み狂っていたので、かえって国王の狂っていないのを狂っていると思い込み、皆で謀って国主を執え、国王の病気を治そうとして、モグサや針や薬など、あらゆる手を尽くした.国王は治療の苦しみに耐えきれず、泉へ行って水を汲んで飲んだ.そして飲み終わるやいなや狂ってしまった.君主も臣下も大人も子供も同じように狂ったので、皆はやっと喜んだ」と、ここまで話した袁粲は「私はもとより狂っていないものの、たった独りで貫き通すのも難しい.それで最近では、私も試しに狂泉を飲んでみようかと思うようになった」と.

 この寓話はおそらく、語り継がれ時を越えて詩人Khalil Gibranの耳に入ったのだろう.著作「The Madman(狂人)」の「The Wise King(賢王)」には極めて類似した話がある.原文のみ紹介したい.私がこの関連を知ったのは妻のお陰である.妻は私よりも博覧強記なのだ!

The Wise King
Once there ruled in the distant city of Wirani a king who was both mighty and wise. And he was feared for his might and loved for his wisdom.

Now, in the heart of that city was a well, whose water was cool and crystalline, from which all the inhabitants drank, even the king and his courtiers; for there was no other well.

One night when all were asleep, a witch entered the city, and poured seven drops of strange liquid into the well, and said, “From this hour he who drinks this water shall become mad.”

Next morning all the inhabitants, save the king and his lord chamberlain, drank from the well and became mad, even as the witch had foretold.

And during that day the people in the narrow streets and in the market places did naught but whisper to one another, “The king is mad. Our king and his lord chamberlain have lost their reason. Surely we cannot be ruled by a mad king. We must dethrone him.”

That evening the king ordered a golden goblet to be filled from the well. And when it was brought to him he drank deeply, and gave it to his lord chamberlain to drink.

And there was great rejoicing in that distant city of Wirani, because its king and its lord chamberlain had regained their reason.

K. Gibran, The Wise King, The Madman

 このような話からどのような寓意を読み取るかは読者の感性に委ねられる.私訳は別の機会にしよう.難しい英文ではないのできっとすぐ読めてしまうはずだ.

 余談だが、現代でも和製ホラーゲームにおいて名高い「SIRENシリーズ」には、上記の類似した構造を見ることができる(私見だが大変な恐怖体験に近い.迂闊に動画サイトで検索すると後悔するかもしれないし、オススメ動画にホラーばかりが並ぶ悲劇になるから安易な視聴はオススメしない).エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」も類似した計画であろう.狂気とは誰にとって、狂気なのか.私が狂っていないという確信は信憑に足るのだろうか.何を以てして狂気というのか.こうした問題提起はまた別の機会にして、サムギョプサルの話に戻ろう.とかく私がここまで引っ張って言いたかったのは、現代のマスメディアについて、狂気が狂気を内包している構造のために、視聴者と投稿者、運営全てである総体が狂気じみていれば皆健全に見えてしまうような恐ろしさがあるのではないか、ということだ.かく言う私も狂人の一人かもしれないから、これ以上強くは主張しない.

 奇妙奇天烈摩訶不思議奇想天外四捨五入出前迅速落書無用な動画サイトの中にも、秀逸だと思うものはいくつかあって、私がサムギョプサルを作ったのはそれがきっかけであった.スーパーマーケットに売っている豚バラ肉ブロックが特売で売っている時は、皆さんもサムギョプサルを夕餉に考慮してもいいかもしれない.消費期限が近くなって値引きしているときは買い時かもしれない.腐敗と熟成は表裏一体であるから、かえって旨味が増していると楽観すれば、正しく調理する限り問題ない.自宅にキムチがあれば上出来である.動画投稿者である料理研究家はキムチは優れた調味料であり食材であると言う.この言葉の意味は実際にバラ肉から出た脂でキムチを炒めたときに身に染みる.味もよく沁みる.葉野菜(レタス、サンチュ)があれば、肉を巻いて食べると、食欲をそそる香ばしい薫りと溢れる肉々しさに透き通る清涼感を感じ、抜群の相性を感じる.大葉、エゴマがあると、家族が集う円卓に和やかな静寂が訪れるはずだ.我々は白米は食べずに肉400gと野菜でのみ完結した.これで十分お腹いっぱいになるし充実感もある.糖質制限をしている人にも吉報だ.肉の脂身は加熱段階で溶けていくので過剰に気にすることはない.

 日本国内の韓国料理店へは何度か行って、美味しいビビンバやトッポギ、スンドゥブ、チヂミ、クッパ、サムゲタンを食べたことはあった.どれも舌鼓を打つ優れた料理だと思う.韓国、国内のみならず、遠い異国の料理を食べたりすると、実際に訪れて、作り手の顔を見てみたいと思うようになる.どんな人が作って、どんな人が食べているのか、なぜその調理法なのか、と.動画サイトのいくつかは投稿者が調理することが多いので、作り手の顔が見えて、親近感が湧くこともある.その人がどんな思想に基づいてレシピを考案したのか、どのような経験があってそこに行き着いたのか、完全でなくとも思いをはせることができる.料理の動画はそのような意味で見ると面白いものがいくつかある.私が見た動画はそういうものであった.変な動画を観て笑い転げるのもいいが、私はカメの甲羅干し動画や、料理動画、音楽だけがかかり続ける静止画が好きだ.


 我が事務所の流行語について戻ろう.一般には「多人数でルールに基づいて競い合い、結果最も優れていると認められること」を「優勝」というのに対して、近年では(4−5年前のようだが)「優勝」を「非常に良い気持ちになる、心地よくなる」といった肯定的な感動を表すのに使うことがあるようだ.今も流行っているのかは知らない.所謂インターネットスラングであるから、多用は禁物だ.使いすぎるとやや痛々しくなる.オジサンは特に.

 「今日は、山岡家でプレミアム塩豚骨と餃子のセットで優勝しない?」「明日は休みだから、コンビニで酒とツマミを買って、三人で酒盛りして優勝しようや」といった感じで使う.幸福の余韻を「優勝してしまった」といって表現することもある.

 かくして我々もサムギョプサルを食して「優勝」した.夫婦二人とも「優勝」してしまった.大変美味だった.焼き肉店に行くと結構値段が高く付くが、自宅サムギョプサルであれば、案外気軽に勝利宣言できてしまう.それに敗北者はいない.もしかすれば誰も敗北を喫せず、肯定的感情のみ残るから流行ったのかもしれない.言葉が生まれた背景に、学校教育における平等性の問題だとか、現代社会の競争原理に対する抵抗などといった考えがひょっとしてあるのかな、と一寸脳裏を過ぎったが、考え過ぎだ.きっと違うだろう.ともかく我々の事務所内では「優勝」が少しだけ流行っている.きっと時間が経てば廃れてしまうだろう.私達の事務所と現実世界では流れる時間が異なっている.

 時間の流れが異なれど秋の日は釣瓶落とし、であり、やはり秋は夕暮れ、である.そして天高く馬肥ゆる秋でもある.読書の秋、食欲の秋.皆さんはどんな秋をお過ごしでしょうか.誰にとっても飽きの来ない日々が訪れますように.

あまりまとまりませんでしたが、ここまで読んでくださりありがとうございます.

 

 

黄昏ミッドシップ

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 晴れた夏の日の夕暮れになると、決まって雨が降る.遠くから雷雲が見えてあたりが急に暗くなる.こもった低音が鳴り響いて、陽光を覆い隠すと、薄暗い灰色の空からポタポタと雫がこぼれ落ちてきて、途端に止めどなくすべての空間を雨が隙間なく敷き詰めてしまう.細い稲光が少し現れて、いつ音が鳴るか、待ち構える.だれもが知っている夕立.日中の熱を溜め込んだアスファルトから湿気がムンムンと漏れ出して独特の臭いを感じる.早く帰りたいな.これから帰ろうと思っていたのに.傘がないな、困ったな.あそこに雷が落ちたんじゃないか、うちは大丈夫だろうか.止むまでちょっと待っておこうかしら、そんな考えが飛び交いそうな日が多くなった.

 私は職場へ少し忘れ物を取りに事務所の社用車で外出していたのだが、それを取って家に帰る途中だった.盆の半ばで幹線道路は少し空いていたあの日だった.遠くの空が危ない色を放っていて今にも降り出しそうな、いや、まだ大丈夫そうだろうと逡巡.すると、ボタッとフロントガラスに一滴、二滴.すぐに数え切れなくなって、ワイパーを動かす.それでも視界が確保しづらくてやや焦る.速度を落とす.未だに豪雨の時に車のワイパーの動く間隔を二番目にすべきか三番目にすべきか悩んでいる.ちょうど良さというのは難しいものだと思う.雨の日はいつも考え事が多くなる.それはいいことなのかもしれない.

 雨音はいつしか途切れない連続音となってザーッザーッと、それ以上に水が無秩序に跳ねる音を奏でる.後ろから聞こえるエンジンの音だけではなくて、タイヤが路面の水をかき分ける音.前の車が巻き上げる水しぶき.様々な情報が雨になると一気に押し寄せてくる.

 ボツボツと音がするのは屋根に伝わる雨音だ.私は番傘を差したことがないからわからないが、布製の屋根に音するのは番傘に響く雨だと風雅なことを言う人が自動車業界でいたそうだ.洋傘でも似た音をするだろうから私は一般的な傘、ということにしておくが、確かに傘を打つ水の雫は、こういう音をする.私は事務所の車を贔屓しているからかもしれないが、いい音だと思っている.ハードトップの屋根にはない音をする.少し前時代的というか、旧世代というのだろうか.そんな考えが思い浮かぶ.どうか誤解しないでいただきたいが、前時代的という言葉に悪意は毛頭ない.もともと車には屋根がなかったのだから.

 ソフトトップ、つまり布製の屋根の車はめっきり数がなくなっているのか、と思えば実はそこまでではない.自動車メーカーのサイトを見れば幌付きの車を売っているところはある.マツダはその好例だろうし、マツダ・ロードスターは路上でよく見かける.本田技研工業のホンダ・S660もよくよく見かける.かつて販売されていたS2000もホンダ・ビートも幌がついていたし、今もちょいちょい走っている.日産自動車のZ34ロードスターも稀に認める.もしかすれば外国車の方が幌付きの車と聞いて思い浮かべる人は多いかもしれない.英国だとRoadster, Drophead Coupe, 独仏ではCabriolet. 米国ならConvertibleといった表現で形容されると思う.どれも私からすればワクワクする言葉である.もちろん、屋根の開放を可能にする用語はいくつもあるのは承知している.しかしそれの詳説は本旨から逸れるので割愛する.

 幌型の屋根しかり、可動式屋根の車はどうも気取った奴が乗る印象を持たれている気がする.私だけだろうか.「いや、別にそんなことは気にもかけていませんでした」とか、「あぁ、そうなんですねぇ」という方は多分車には興味があまりない方なのかもしれない.寛容な方とお見受けする.それはそれで別の物事に関心を持たれているに違いないので千差万別あってとてもいいと思う.

 鼻息荒げて、「そんなことは決してないのだ!!諸君、聞き給え」とか、「そうだそうだ、どいつもこいつもみんな気取った奴だ、けしからん!プロレタリアートの敵め!」と思う方はどうか落ち着いていただきたい.反対する人は、二輪車の意見も聞かねばなるまい.二輪車こそ人間が風を受ける乗り物だが、それはプロレタリアだけの乗り物ではないのはご承知だろう.決しては私は熱狂的なファンではないし、かといって反対派を徹底的に論駁するつもりはない.そんなことで記事を書くのではない.どちらかといえば、私は所有する側だから擁護する立場になるのだが、幌付きの車は色々なことを気づかせてくれるのだと述べたい.それに気取ってもいないし、たまには気取ってもよいのでは.

 屋根を空けると、もちろん風が入ってくる.熱い風.冷たい風.心地よい風もあれば、堆肥の芳しい風も運んでくる.煙の臭いがすれば、あぁあそこでなにかを燃しているのかなと思いを巡らせ、牛糞の臭いがするとここには一次産業の営みがあるのだなと気づく.「ここは臭いね」と苦笑いをして隣の乗員と語らう.草花の香りに気づくことはもちろんだ.「この辺はもう花が咲いたんだねぇ」周囲の情景により一層近づいていくことができる.車の名前に風を由来とするものが多いのは偶然ではないはず.アクセルペダルを踏めばクランクシャフトの回転が高まり、車の息遣いもわかる.タイヤが路面を掴む感触がグッとわかりやすくなる.SUVの流行る今ならば、雪道を屋根を開けて走る面白さがあるのだろう.マフラーから鳴る排気音は屋根がしまったときに聞こえるものより生き生きしている.電話越しに聞く恋人の声よりも実際に会って聞く声の方が嬉しいのと似ている.情報量ははるかに多くなる.周りの車の音も聞こえるから注意は一層しやすくなる.車は鋼鉄の工業製品だが、それに生命の躍動を見出すような情動を私は感じる.「車に恋い焦がれるつもりか、この変態め!」という辛辣な御仁もいるかもしれない.しかしだ.陶器の置物に心を奪われたり、画材を塗りたくった平面を、これは芸術だ!というのと原則は同じだと私は思っている.

 車の動きに心を寄せて、狙った角度に操舵しスロットルを緩める、また正中に戻して踏み込む.単純な一連の動作だが奥深く、実は難しくて楽しい.これはどんな車でも言えることなので野暮な表現だが、幌のついた車はいわゆる「スポーツ」性が高め、つまり運動性能が高い部類であったり、余計な装備を省いているものが多いから(賛否あるかもしれない)、心身一如を実感できる.雨が降っても、一部の車を除けば大抵、すぐに屋根はしまうことができる.だから走行中びしょ濡れなんてことはあまりないし、雨漏れはまったくないものだと思って良いのではないか.幌の手入れが大変じゃないかと気にする方もいるかもしれない.販売店で詳しい話を聞けるはずだ.特に難しいことはない.メーカーが大衆に面倒なことを課すわけなかろう、と私は思っている.実際に私は水で汚れを落として細かい汚れを個別に除くだけで、何もしていない.特別気を揉む必要はないだろう.他の車と同じように愛情をもって接すれればよいのだから.

 「幌なんて、無駄無駄.贅沢品じゃない、屋根があったって走るじゃないの.むしろ荷物が詰める場所はなくなるし、かえって不便でしかないでしょ!」よくご存知ですね.確かに収納力は劣るかもしれない.それは逃れられぬ業かもしれぬ.しかし弁護する立場でいえばほとんどのメーカーは積載力と幌の収納機構を両立させようと苦心してきた.そして美観を損ねることなく両立に成功した車は存在する.エンジン搭載位置を前後タイヤ軸の間かつ、座席後方にするMid-ship(ミッドシップ)であれば前方と後方に積載箇所を設けることができる.とはいっても通常のフロントエンジンのセダンやステーションワゴンにはかなわない.エンジンを前方に配置しつつ幌のある車も輸入車には特に多い.結局積載力は犠牲になってしまうが、それを上回る特異な官能は言葉に尽くせないと思う.きっと賛同してくださる方がいると思う.

 もしそれでも無駄だ、と思う方はまぁそれでもいいかもしれない.そういう方もいらして良いと思う.だが、無駄だという価値判断は結局のところ主観的なものであり、曖昧なものにすぎないと私は思う.無駄をどのように定義するかはその人次第であろう.だからあらゆる反論はこちらが公序良俗を犯さない限り、雲散霧消にして消え失せてしまうであろう.動物を飼っている人にとって彼らは愛する家族であるが、嫌いな人にとっては憎むべき対象かもしれぬ.写真が好きな人は撮影装置に愛着をもち、被写体にも思いを寄せる.現像した写真を額縁に入れて満悦するのは無駄だろうか.骨董品だって人によっては遺物でしかないが、それが考古学的に芸術的に価値があろうとなかろうと最終的に価値を決めるのはそれを愛するものだろう.

 したがって、私は幌付きの車でいいと思っている.北海道を一週間くらい旅したときの感想を記事にしたことがあるのでよければご覧になっていただければと思う.

 私は以上のことを考えながら帰路に就いた.雨の日は、こんなことばかり考えながら運転している.いつの間にか雨はやんで、私は家の前の玄関にいた.その日の夕飯は何だったろうか.唐揚げだったかな.

 

なぜ亀吾郎法律事務所は法律に門外漢なのか

近づくといつも出てきて挨拶してくれるごろうちゃん.

If a writer of prose knows enough about what he is writing about he may omit things that he knows and the reader, if the writer is writing truly enough, will have a feeling of those things as strongly as though the writer had stated them. The dignity of movement of an iceberg is due to only one-eighth of it being above water. A writer who omits things because he does not know them only makes hollow places in his writing. A writer who appreciates the seriousness of writing so little that he is anxious to make people see he is formally educated, cultured or well-bred is merely a popinjay. And this too remember; a serious writer is not to be confounded with a solemn writer. A serious writer may be a hawk or buzzard or even a popinjay, but a solemn writer is always a bloody owl.

Ernest Hemingway, Death in the Afternoon, 1932

 自分が書いているものを十分に承知しているのなら、作家はその箇所を省略してもよい.もし作家が真実を書いているとすれば、読者は省略された箇所をあたかも作家が実際に書いたかのように強く感ずるのである.氷山の動きに威厳があるのはその一角が水面から見えているからこそだ.自分が知らないからといって物事を省略する作家は作品に空白を空けるしかない.執筆において真剣味が全く無い作家は自分が立派に教育を受けただとか、教養があるとか、育ちが良いといったことを気に留めているか、ただ自惚れているに過ぎぬ.次のこともよく覚えておくことだ.真面目な作家をもったいぶった作家と混同してはいけない.真面目な作家は勇猛なタカでもあり、老獪なノスリでもあり、自惚れ屋のオウムでもあるやもしれぬが、もったいぶった作家は常に血に飢えたフクロウなのだ.

アーネスト・ヘミングウェイ、「午後の死」、1932年


 しばし尋ねられる質問に、なぜお宅は法律事務所を名乗っているのか、なぜ法律事務所なのに法律は門外漢なのかといったものがある.全くごもっともなご指摘かと思う.

 確かに一般の法律事務所は一人以上の弁護士が法律事務を業とする事業体である.弊事務所はその条件に一切該当しない.誰一人として弁護士はいない.代わりに亀2匹と文鳥がいるに過ぎない.亀吾郎法律事務所はどこにありますか、とお尋ねになっても地球のどこにも建っていない.ふざけているのかと問われれば、ふざけていると答えるし、真面目にやれと言われれば、常に真面目にやっておりますと答える.

 目の前に書いてあることを正直に受け取ると、往々にして損をするということはよく知られている事実ではないだろうか.この商品を買って使えば、肌ツヤがよくなるだとか、膝の軟骨が再生するといったものはテレビで数分おきに流れる常套句であるし、政治家の挨拶でしっかりやりますと言うのを聞いても誰も特に感動はしない.これさえやれば30分でできる!という本のタイトルは30分の実現を保証しない.近所を走る車は速度制限を遵守していない.嘘をついてはいけないと言う人は多い.しかし、世の中はほとんど不条理である.本当に大事なことは小さく書いてあるか、書かかれていないことが多い.私はそういうことに気づくのにだいぶ時間がかかった.

 亀吾郎法律事務所は上記の背景を参考にして設立された.法律に門外漢であるのは真実である.私は法律について本当に何も知らない.私は法律の専門家ではないから法の名前と条文をお話することはできない.しかし、かろうじて生きている.皆さんはどうだろうか.

 弊事務所は目に見えない事象を取り扱うことを生業としている.当所長(吾郎)は明示されていないものほど雄弁に”嘘でないもの”を語ると考えている.亀吾郎法律事務所は現代の趨勢に対するアンチテーゼを掲げているのかもしれない.誰かの言葉を借りるならば、アンチテーゼなくして止揚はないという.この事務所はささやかな反逆の精神を以てより善いものを目指していきたいと思っている.

陽の光

雑然とした中に思わぬ秩序があったりする.

 あくる夏らしい日.それは燦々と降り注ぐ陽光を身に浴びる日でもあり、冷えたビールを飲みたくなる日でもあり、バーベキュー日和ともいえる日.どこかドライブしてもいい.砂浜で日焼けしたくなるような穏やかな日だった.

 私の借りている家には小さな庭がある.庭と言ってもこじんまりとした、砂利の敷き詰めてある平面を言う.ところが嬉しいことにどんどん草が芽生えてきている.蔦は砂利を這い回るかのように伸び、自然発生のようにいつしか立派な植物がもこもこ生えてきて、妙な植生をなしてきている.私は植物の名前をこれっぽっちも知らない.だが、とても気分の良い空間で、私なりに庭らしくなってきた.実はこの庭には何も植えてはならないと契約書に書いてある.しかも生えてきたものは抜いて美化に務めろという.余計な面倒を起こしてほしくないので賃貸物件はこういうことになるのだろう.というわけで決して何かを植えることはしない.そもそも砂利に種を蒔く人は寡聞にして知らない.

 一般的に雑草といわれるものが、我々の思いに反して、立派に生育していく.何もしなくても好きにやってくれている.今では1/3くらいの面積を覆い尽くすようになった.なぜ抜かないのかと言われれば、私なりに美化に努めているからだというのが答えだ.ひねくれているなと言われればそうだが、一面砂利よりも趣があってよろしい.隣の家の人は定期的にまめまめしく抜くので、私も見習って同じことをしてみたが、抜いたところで平面は美しくなるわけでないし、そもそも容易に抜けるものではない。

 私はこれらを抜くことを諦めた。抜いても次々と生えてくるからだ。よく見ればそれぞれ愛嬌があるし、葉の上に佇むカエルを認めるだけでなく、アリがいそいそと歩哨にでかけているのを見る。カメムシは邪魔さえしなければ臭くないのだ.彼らの生活圏を侵すことはどうも心苦しい。生活を脅かしたところでどうせ徒労に終わる.であればありのままにしておいてこれからどのように繁ていくか見ていくほうが楽しそうだ.すでに私は楽しんでいる.勿論、洗濯物を干す場所や公共の空間は逸脱しないようにする.私の生活圏と小さな隣人の生活圏を共有しあい相互不可侵に務めるのが私の考えるところだ.他者からすればさぞかし無精者と思われるかもしれない.それは恒久平和のためには仕方ない.

 自分の思い通りにしたくてもそうはならないのは世の常.どんなに厳しく取り締まっても追い払っても、自分だけの世界でない限り決して思い通りにはならない.それは私の庭だけでなく世界で起きてきたことを見れば自ずから明らかだろう.北風は旅人の衣服を吹き飛ばすことはできなかった.私はやはりあの夏の太陽が好きだ.

談話異聞録

Hegelを読む所長.

 以下は亀吾郎法律事務所の職員である吾郎と三郎の雑談.

三郎「吾郎ちゃん、ついに超越と脱出の話を書き終えたねぇ、大変だったねぇ」

吾郎「うむ、大変だつたな.話をどのように纏めるかが難しくてな.さぶちやんには随分助けてもらつた.ありがたう」

三郎「まだ自分で問題提起するシリーズは終わってないけどね.あれはどうなるのさ」

吾郎「勿論、構想を大いに練つてゐるところだ.もう少し自分の中で知識を受肉せねばなるまい」

三郎「どういう展開になるかちょっとだけ教えてよ」

吾郎「無論いいだろう.実は木村敏の考え方を御紹介するつもりだ.時間についての彼の洞察は見事と言わざるを得まい」

三郎「そんなにすごいのかぁ、楽しみだねぇ.そういえば事務所の掃除夫のことなんだけど」

吾郎「いつも吾輩の口述を文章化して投稿してくれる奴のことか.他にも彼奴は賃料を払う、税金を払つたり、人間界と折り合いをつけてくれるな.納付額を見て具合を悪くしたようで大丈夫なのか.いつも掃除は雑だが、甲羅磨きが上手くなつてきた.彼奴がどうかしたか、最近独逸製の合成食に飽きてきたと伝えてくれ」

三郎「段々読者の皆さんが増えてきて嬉しいって言ってたよ、僕もテトラレプトミンは飽きてきたよ.でも吾郎ちゃん、鶏むね肉とかお刺身の血合いのところ食べすぎて具合悪くなったことあったでしょ.掃除夫の奥さんが心配してるから駄目だよ、また入院したら大変だよ」

吾郎「ぐぬぬ.あれより上等なものが市販化されているではないか」

三郎「レプトミンスーパーのこと?あれ美味しいよね.エビの香りがしてさぁ.あれ食べるともとのレプトミンには戻れないよ、でも掃除夫は値段が高いから渋ってるんだって」

吾郎「そうか.だが彼奴等はこの前伊太利亜料理店に行つてStrangozziやTagliatelleなるパスタを鱈腹食べたと聞いたぞ、妻の方は仔羊の炙り肉を注文したそうだし、掃除夫は偉そうに豚肉の網焼き肉を食べて『この豚は間違いなく徳の高い豚だ!前世で大変尊い徳を積んだに違いない.豚への価値観が変わる大変な代物だ!』と変なことをほざいていたと」

三郎「変なことを言うのはいつもだよ.何かの一周年と納車三周年を記念して、ということらしいよ.法律事務所も一周年を迎えたらお祝いだね、僕らも車が修理から戻って来たらドライブ行こうよ、早く乾いた6気筒の音が聴きたい.なんでも新しいブレーキパッドがPAGIDなんだって?」

吾郎「よく知つているね.なんでも制動力と耐久力を兼ね合わせるようだ.金は掃除夫が払うと言つていた.吾輩は西日本の方へ行つてみたいなァ、温泉や神社仏閣、美術館、景勝地を巡つて心を揺らす体験をしたい」

三郎「吾郎ちゃんはそういうの好きだよね.僕は車のシートに包まれると固定力があって、いい意味で狭いから密閉感があって.車の中に入り込むというか一体感を感じるような.赤子が卵の中にいるような安心感ってのは言いすぎかもしれないけど、ほっとするんだ.エンジンが真後ろにあるからなのかな.幌を開けて風に当たるのもいいけど、雨音が幌を打つ音も好き.」

吾郎「さぶちやんはポエチツクなところがあるな、ドライブは雨でも楽しいのは同感だ、休みをとつて脱出しようか」

亀吾郎法律事務所が目指すところ What our office aims for

About a month has passed since we founded Kamegoro law office.
Posting articles continuously makes us realise that we could gradually see things we aimed for.
Now we would like to reconsider our weblog statement.

Our mottos are set out as follows.

Firstly, To make the blog as lucid, peaceful and cozy place for anyone who visit.
The site should be joyful, healthy and humorous.

Secondly, with a humble mind, to correctly understand Psychiatry and Psychopathology as a medical profession. In order to achieve this object, I will widely cultivate my knowledge for Humanities and Natural science. And I will earnestly exert myself to master not only English but other languages such as French, German and Arabic.

Thirdly, to cherish my family.

Should you need the detail of second statement, I, (Goro) have to say that I’ve believed the intense possibility of the study of Psychopathology. For understanding its essence and position, I think that it is not sufficient to learn only Natural science but necessary to study the time flow started from Phenomenology proposed by E. Husserl, to K. Jaspers who dedicated his passion to Descriptive Psychiatry. Moreover, clear understanding is required for the academic stream continues to present, and knowing how the criticisms occurred. We elaborately set an ultimate goal to learn the thoughts of J. Lacan, who is still influential on present Psychoanalysis, originated by S. Freud. Then I solemnly and humbly wish to translate their wisdoms to non-professional people.

 

 亀吾郎法律事務所を開設して1ヶ月になりました.

 ある程度勢いに任せて記事を投稿すると、少しずつ自分の目指すところが見えてきたような感じがします.ここでブログの方向性を確認したいと思っています.

 内容は以下の通りです.

 一つは、このブログを誰にとってもわかりやすく心安らぐ場所とすること.楽しく健康的にユーモアを尊重した場であること.

 

二つは、医師として謙虚に精神医学・精神病理学を正しく理解すること.そのために自然科学・人文科学の知識を十分に得ること.英語のみならず仏語、独語、亜語の勉強を真摯に行います.

 

三つは、家族を愛すること.

 特に二番目について詳しく述べると、私、吾郎は精神病理学という学問の強い可能性を感じてきました.その学問を理解し、学問が置かれている立場を知るためには自然科学を学ぶだけでなく、E. Husserl(フッサール)の唱える現象学からK. Jaspers(ヤスパース)の記述精神医学、そして現在に至る流れと為される批判を理解する必要があると思っています.S. Freud(フロイト)に始まる精神分析学の系譜を辿り、現在も多大な影響力をもつJ. Lacan(ラカン)の思想を理解することを大々的に究極的な目標として掲げています.そして願わくば、専門としない方々に控えめに思いを伝えたいと思っています.

 

自分で問題を提起するシリーズ:破

The landscape of Obihiro, Hokkaido

 前回、時間について自分なりに問題を提起した.時間が過去から未来へ直線的に進むモデルは説得的だが、果たして正しいのだろうか.ということを述べた.これは結構難しい問題であることは自身で自覚していて、問題提起した自分を少しながら後悔しているところもある.涙を流し、挫けながら話を進めていくことにする.

  現在の物理学の最先端に、ループ量子重力理論という学説が生じているそうだ.その理論の研究者の一人、Rovelliの著書である”L’ordine del tempo”, (邦題:時間は存在しない)を偶々読む機会があった.私はループ量子重力理論ならびにその方程式を説明する立場でもなければ力量もない.数式を見たところで、大学受験の苦い記憶が蘇るだけだ.一応、本書の説明を借りるとRovelliらは時空がスピンネットワークと呼ばれる網の相互作用によって生じると考えている.申し訳ないが何を言っているのかわからない.宇宙の記述には時間の変数を必要としないという.だから「時間は存在しない」という邦題がついているのかもしれない.それでもよくわからないが.本書でスピンネットワークについての説明は深堀りされない(深堀りしないでほしい).極めて高度な方程式の話をしてもほぼすべての読者を放心させてしまうし、本書は売れないと思う.幸いにして本編には、

⊿S≧0

だけが記される.これは熱力学第二法則、熱は熱いものから冷たいものにしか移らず、その逆はない.という事実を述べている.当初は熱の不可逆性を示す式であったが、後の物理学者であるボルツマンによって、これは分子や原子の乱雑さを表す尺度であることがわかった.Sはエントロピーという重要な科学の量を表し、⊿はSの変化量を示す.そして唯一、過去と未来を認識している式だという.原始の宇宙のエントロピーが低い、すなわち秩序だっている状態からビックバンにより徐々に拡散し膨張してゆく乱雑な宇宙の姿を過去と未来に対比させれば、その式の言わんとすることは何となくわかる.しかしなぜ、過去の宇宙はエントロピーが低いのかという疑問が生じる.

 著者の答えを簡単にいうならば「偶々」だそうだ.根本のレベルにおけるこの世界は、時間に順序付けられていない出来事の集まりだという.えっ.それらの出来事は物理的な変数同士の関係を実現しており、これらの変数は元来同じレベルにある.世界のそれぞれの部分は変数全体のごく一部と相互に作用していて、それらの変数の値が「その部分系との関係におけるこの世界の状態」を定める.ということは、宇宙には無数の変数があって、それらが影響しあっているということ?何か決まった変数の値によって、世界の状態が決まるということか.うーん.

 著者はトランプカードで宇宙の特殊性と「偶々」感を説明していた.自分なりに考えてみよう.高校時代の昼休みよくやった大富豪(大貧民)を例に取る.山札からカードが配られて自分の手札に「2」や「ジョーカー」があると嬉しくなったものだ.同じ番号の手札があるのもいい.これは一つの「偶々」であろう.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という小宇宙では有力な手札であったが、これが友人の気まぐれで革命が起きてしまうと、「2」や「A」は戦力を失う.友人という変数によって宇宙の秩序が変わるわけだ.他の友人がさらに革命返しをすればさらに宇宙の秩序は変わる.友人の出身はA県の近隣なのだが、もしこれが日本全国から集う全寮制高校だとすると、その宇宙で繰り広げられる大富豪という系はもう少しややこしくなるだろう.ご当地ルールというのが少なからず存在する.別の言い方でローカルルールだ.「8切り」「スペ3返し」はよく知られていると思うが、「11バック」なども存在するときもある.カードの色柄を強制する「しばり」が適用されればさらに宇宙の秩序は異なってゆく.これも参加者という変数によって宇宙の成り立ちは異なる.無論、参加者の技量という変数もあるだろう.いい手札なのにプレイヤーがぼんくらならば、捨札に収束する手札の順序はまた異なる.(これは新たな山札として未来に繰り広げられる別宇宙の運命を示唆する)もし友人が飽きてしまって、ブラックジャックがしたい、ポーカーをやろう、最後は7並べしようぜ.ということになれば、同じ手札でもカードのもつ意味は大きく変わる.学校の先生という別宇宙の観測者の存在がいたとすれば、「ま〜たあいつらなんかやってるな」というつぶやきが生じることも考えられる.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という広大な宇宙が「なんか」で片付けられてしまうのは、宇宙を眺める立場によってこそ異なる.大富豪を始めたのは「偶々」なのに.

 微粒子レベルでは存在しない不可逆なエントロピーの増大が、我々の知覚する巨視的な世界では生じるという.我々の知覚する世界は曖昧なかたちで記述されるからこそエントロピーが存在するのだと.(生徒からすれば大富豪という新たな宇宙を創造する営みをしているが、学校の先生は生徒がカードゲームでざわついてるという粗い見方をする)私達のものの見方が粗視化(ぼやけ)と深く結びついているために熱という概念やエントロピーという概念、過去のエントロピーのほうが低いという考え方をしてしまう.自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだという.

 どうもピンと来ない.私は、本に記されている通り、説明を試みようとしているのだが、目を凝らして空を掴むような気持ちだ.過去と未来が違うのは、世界を見る我々の見方が曖昧だからだという.そんなことでいいのか.私の例えは正しいのだろうか.曖昧とはなんだろうか.私たちが経験するこの時間経過は、実は自分が世界を詳細に把握することができないからだという事実だというが……

 なんだか、別にうまくもなんともない食べ物を、無理やり「うまいでしょ!」と言われて、必死に咀嚼している感じだ.しかし開き直ったら良い.わからないと.そこが重要だと思う.世界的に優秀な一部の人々が唱える学説はどうやら複雑怪奇だ.私達の見る世界は曖昧だからこそ時間が流れているように感じるというが、そこをもう少し詳しく考えてみたい.世界に時間が存在しようが存在しなかろうがこのさいどうでもいい.なぜ、私達は過去から未来へ時間が流れているように感じるのか.幸いにして筆者はこの疑問に寄り添ってくれる.私はなんとかして食らいつく.

 次回でこのシリーズは最終回.ですが亀吾郎法律事務所の連載ははまだまだ続きます.弊事務所は今後、英文和訳や和文英訳での投稿も考えています.何かこういうものを訳してみてほしいということがありましたら、事務所連絡先まで気軽にお願いします.