ファントム短縮

こころの距離、こわれるとき

 前回の記事で私は、錯覚運動の例を独自に解説し、終盤ではファントム距離の失調のためにファントム距離が短縮した状況が、統合失調症の症例において当てはまるのでは、という安永の考えに触れた.ここでファントム機能についてもう一度おさらいしておこう.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.

 ファントム距離はビヨヨーンと多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 例えば、あなたにとって、家族との至適ファントム距離を取るのに要するエネルギーを4、友人は6、職場の人は15であると仮定しよう.数字が大きければ大きいほどエネルギーが必要になると考えて良い.その至適距離がないとあなたにとっては気持ちの安定、存在的猶予がないと思っていただきたい.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下、至適ファントム距離が短縮してしまったとしよう.つまり最大30までのエネルギー幅が出力されるものがなんと3まで低下したとする.だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり仕事場へ出勤し、職場の人とあう.だがどうも様子がおかしい.

 当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかったのである!ヒエッ!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.実際どのような感覚なのかはわからないが、これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽する.安永はこれを「ファントム短縮」という.

 本人の気持ちとしては、なぜか皆がものすごく自分を詮索してくるような距離感に感じられるのであろう、全然親密な間柄でもないのに皆が無遠慮なくらい近づいてくる.不気味な感じがするのであろう(妄想知覚).

 衰弱したファントム機能を総動員して、なんとか3に縮小したエネルギーを10まで拡張することが出来たとする.だがそれでも厳しい.距離が近すぎる.それにエネルギーを傾けなければ、すぐに3へ縮んでしまう.あたりは異様な圧迫感で包まれる.あらゆる景色が異様な近さで感じられる.これは異常近影化という急性期の症状として説明できるかもしれない.凄まじい緊張感が走る.ただの職場のハズなのに、実家なのに、友人と飲みに行っているだけなのに、みんなから信じられないくらいの切迫感を感じる.あらゆる人の動作が気になって気になって仕方がないっ!!うわぁぁ!!

俺に近寄るなっ!!!

となるはずである.

 そこで、知覚イメージ(例えば職場の人)はこの場合、「遠ざかり運動」を起こすのだろう、と安永は仮説を述べる.対象を従来のファントム空間の圏外へと、追いやろうとするようなのである.もう少し詳しく言うと、3しかないエネルギーでは如何ともし難いために、ファントム距離の圏外へ対象を絶縁させる代償機構が働くらしい.これは解離や離人といった現象あるいは、自閉、感情鈍麻が考えられそうである.母船を捨てて脱出する船員のような感覚であろうか.ブツッと外界との連絡を断ってしまう.

 まわりからすれば、そのとき自分と対象は異様な裂隙を生じるためによそよしく感じるであろう.非常に冷淡な感覚がするかもしれない.

 「〇〇さん、なんだか様子が変だな……」「すごくよそよそしいな……どうしたんだろう」

 こうした衰弱が慢性化すれば、いかなる代償的努力もファントム機能を補完することはできない.再修正が行われない限り、現実との異様な裂け目、裂隙は半永久的に残るだろう.そして、エネルギーが枯渇すれば本来遠い、弱いはずの刺激が適切な距離に感じられ、強い努力を要する近い距離感の刺激には応じられなくなる.こうなるともはや無力であり、蹂躙されるしか無い.健常者から見ると弱いはずの刺激に過敏となり、強い刺激には無反応あるいは、カタストロフ(おそらく破滅の意味「俺に近寄るなっ!!!」)で反応する.

 安永は、こうしたファントム機能の失調と統合失調症の発病は、外力と脱臼の関係に似ているのではないかという.つまり主体の素質によっては生まれつき脱臼しやすいものがある(臼蓋形成不全や軟骨の形成異常).しかし、通常は発病には外力が必要だという.外力の作用が「発病」を結果するためには力の大きさだけでなく、作用する方向、油断、物の弾みといった要因(うっかり転んでしまいました)が必要だとする.大きな力がかかっても予期してうまく力を流せれば、脱臼を防止することができるだろうとする(柔道の受け身など).このような説明は私にとって概ねなるほど、と思わせるものである.主体の素質に関与しそうなものは、遺伝素因や家族歴であろうか.幼少期の生育環境も考えられそうだ.外力には親からの虐待、いじめ、転居、逆境、出産、就職その他強いストレス因が挙げられる.こうした外力をうけて全員が疾病に罹患するわけではないのだから、外力の受け方、作用方向という点などいくつかの条件が必要そうであることは納得である.

 脱臼と決定的に異なるのは、完全整復がなかなか起こり得ない、ということだ.骨の例でいえば強い習慣性再脱臼(再燃と寛解)の傾向を示す.そして、脱臼でわかるように、レントゲンを撮れば「骨頭が関節窩を外れている」「異常な肢位をとっている」ことがわかるが、統合失調症ではそれがわからない、ということである.つまり「骨頭が関節窩を外れている」に等しい機構論がないのである.何も.それに近いものとしてMinkowskiは「現実との生ける接触の機能」、Binswangerは「体験の自明な一貫性」というのだが言っている意味がそれらの言葉だけでは全くわからないし、扱う問題の次元が高すぎる.(そのためのファントム空間論である)

 さて、ファントムエネルギーという言葉を聞いて、狐につままれた感じがする人は、次のような感覚を考えてほしい.私だったら長い外来診察を終えるといつも、どっと疲れた感覚になって、その日は世の中の誰とも話をしたくない感覚になる.コールセンターに勤務される方であれば、理不尽な苦情を延々と聞くのにはものすごいエネルギーを使うはずだ.行きたくもない職場の飲み会につきあわされると、つまらない話を聞くにも心労が伴うだろう.外回りの営業でお客さんに挨拶をするときにそっけない対応をされると辛いだろう.こういうときは「うまく言い表せないが何かを消費した感覚」なのではないだろうか.私が強調したいのは、このような議論は決してオカルトではない、ということだ.決して「月刊ムー」レベルではないのだ.(「ムー」は好きだ.)

 安永は統合失調症の機構論としてファントム空間論を提唱したわけであったが、決して私達にとって無縁というわけでは無いはずで、私達が感じている心労はおそらく外力の一つなのだろうと思われる.だが、どのような事情で本来正常であったファントム機能が衰弱、破綻してしまうのだろうか、ということは気になるだろう.発病者のファントムには何らかの特性があったのだろうか.

 このような問題に対して、安永は以下の可能性を予想する.統合失調症の定常的ファントム距離は、他の素質者よりも大きい.これを心理学的に言えば、彼・彼女が自然と物事に対して遠い心的距離を取る、ということと同義である.しかし、これには大きな維持エネルギーを要するはずだという.ファントム機能とは、「他者とのほどよい距離感」を保つ機能である.そして遠ければ遠いほど大きなエネルギーを使うと仮定される.そこまで遠くなくても良い人もいれば、遠くでないと落ち着かない人もいるはずだ.満員電車が平気な人と絶対に無理!という人がいる、といえばわかるだろうか.

 もしエネルギーを消費することがファントム機能の失調なのであれば、一般に近い心的距離に暴露される、または持続的に強要される人は、統合失調症の発病をきたし得るだろうという.

 今回はここまでにさせていただきます.少しずつ筆者の本題に踏み込んでいく感じがわかれば嬉しいです.誤解のないように言うと、筆者はこの論を盲信しているわけではありません.ただ稀有な症状機構論として取り上げているだけです.読んでくださりありがとうございました.

 

投稿者: 吾郎

2019年12月11日に事務所創設.法律以外の様々な問題を取り扱います.Office est. 11/12/19. Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities and sometimes roofless vehicles.