ファントム短縮

こころの距離、こわれるとき

 前回の記事で私は、錯覚運動の例を独自に解説し、終盤ではファントム距離の失調のためにファントム距離が短縮した状況が、統合失調症の症例において当てはまるのでは、という安永の考えに触れた.ここでファントム機能についてもう一度おさらいしておこう.

 ファントム空間(こころの空間)とは、体験可能な至近点(自分の身近なところ)から至遠点(赤の他人)までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能(こころの機能)と呼称する.

 ファントム距離はビヨヨーンと多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 例えば、あなたにとって、家族との至適ファントム距離を取るのに要するエネルギーを4、友人は6、職場の人は15であると仮定しよう.数字が大きければ大きいほどエネルギーが必要になると考えて良い.その至適距離がないとあなたにとっては気持ちの安定、存在的猶予がないと思っていただきたい.

 ところがファントム機能のなんらかの失調により、ファントムエネルギーが低下、至適ファントム距離が短縮してしまったとしよう.つまり最大30までのエネルギー幅が出力されるものがなんと3まで低下したとする.だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり仕事場へ出勤し、職場の人とあう.だがどうも様子がおかしい.

 当人にとって実際のイメージはその「予期された距離」にはなかったのである!ヒエッ!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.どのような錯覚運動か.前回の記事で例えたエレベータをもとに考えてみる.エレベータにおいて自分が完全な静止系にいると思っていたら実は自分が等速運動する慣性系にいて、なおかつ突如急制動し、自分が浮き上がるような感覚である.実際どのような感覚なのかはわからないが、これは「不意打ち」に近い仕打ちだ.当然狼狽する.安永はこれを「ファントム短縮」という.

 本人の気持ちとしては、なぜか皆がものすごく自分を詮索してくるような距離感に感じられるのであろう、全然親密な間柄でもないのに皆が無遠慮なくらい近づいてくる.不気味な感じがするのであろう(妄想知覚).

 衰弱したファントム機能を総動員して、なんとか3に縮小したエネルギーを10まで拡張することが出来たとする.だがそれでも厳しい.距離が近すぎる.それにエネルギーを傾けなければ、すぐに3へ縮んでしまう.あたりは異様な圧迫感で包まれる.あらゆる景色が異様な近さで感じられる.これは異常近影化という急性期の症状として説明できるかもしれない.凄まじい緊張感が走る.ただの職場のハズなのに、実家なのに、友人と飲みに行っているだけなのに、みんなから信じられないくらいの切迫感を感じる.あらゆる人の動作が気になって気になって仕方がないっ!!うわぁぁ!!

俺に近寄るなっ!!!

となるはずである.

 そこで、知覚イメージ(例えば職場の人)はこの場合、「遠ざかり運動」を起こすのだろう、と安永は仮説を述べる.対象を従来のファントム空間の圏外へと、追いやろうとするようなのである.もう少し詳しく言うと、3しかないエネルギーでは如何ともし難いために、ファントム距離の圏外へ対象を絶縁させる代償機構が働くらしい.これは解離や離人といった現象あるいは、自閉、感情鈍麻が考えられそうである.母船を捨てて脱出する船員のような感覚であろうか.ブツッと外界との連絡を断ってしまう.

 まわりからすれば、そのとき自分と対象は異様な裂隙を生じるためによそよしく感じるであろう.非常に冷淡な感覚がするかもしれない.

 「〇〇さん、なんだか様子が変だな……」「すごくよそよそしいな……どうしたんだろう」

 こうした衰弱が慢性化すれば、いかなる代償的努力もファントム機能を補完することはできない.再修正が行われない限り、現実との異様な裂け目、裂隙は半永久的に残るだろう.そして、エネルギーが枯渇すれば本来遠い、弱いはずの刺激が適切な距離に感じられ、強い努力を要する近い距離感の刺激には応じられなくなる.こうなるともはや無力であり、蹂躙されるしか無い.健常者から見ると弱いはずの刺激に過敏となり、強い刺激には無反応あるいは、カタストロフ(おそらく破滅の意味「俺に近寄るなっ!!!」)で反応する.

 安永は、こうしたファントム機能の失調と統合失調症の発病は、外力と脱臼の関係に似ているのではないかという.つまり主体の素質によっては生まれつき脱臼しやすいものがある(臼蓋形成不全や軟骨の形成異常).しかし、通常は発病には外力が必要だという.外力の作用が「発病」を結果するためには力の大きさだけでなく、作用する方向、油断、物の弾みといった要因(うっかり転んでしまいました)が必要だとする.大きな力がかかっても予期してうまく力を流せれば、脱臼を防止することができるだろうとする(柔道の受け身など).このような説明は私にとって概ねなるほど、と思わせるものである.主体の素質に関与しそうなものは、遺伝素因や家族歴であろうか.幼少期の生育環境も考えられそうだ.外力には親からの虐待、いじめ、転居、逆境、出産、就職その他強いストレス因が挙げられる.こうした外力をうけて全員が疾病に罹患するわけではないのだから、外力の受け方、作用方向という点などいくつかの条件が必要そうであることは納得である.

 脱臼と決定的に異なるのは、完全整復がなかなか起こり得ない、ということだ.骨の例でいえば強い習慣性再脱臼(再燃と寛解)の傾向を示す.そして、脱臼でわかるように、レントゲンを撮れば「骨頭が関節窩を外れている」「異常な肢位をとっている」ことがわかるが、統合失調症ではそれがわからない、ということである.つまり「骨頭が関節窩を外れている」に等しい機構論がないのである.何も.それに近いものとしてMinkowskiは「現実との生ける接触の機能」、Binswangerは「体験の自明な一貫性」というのだが言っている意味がそれらの言葉だけでは全くわからないし、扱う問題の次元が高すぎる.(そのためのファントム空間論である)

 さて、ファントムエネルギーという言葉を聞いて、狐につままれた感じがする人は、次のような感覚を考えてほしい.私だったら長い外来診察を終えるといつも、どっと疲れた感覚になって、その日は世の中の誰とも話をしたくない感覚になる.コールセンターに勤務される方であれば、理不尽な苦情を延々と聞くのにはものすごいエネルギーを使うはずだ.行きたくもない職場の飲み会につきあわされると、つまらない話を聞くにも心労が伴うだろう.外回りの営業でお客さんに挨拶をするときにそっけない対応をされると辛いだろう.こういうときは「うまく言い表せないが何かを消費した感覚」なのではないだろうか.私が強調したいのは、このような議論は決してオカルトではない、ということだ.決して「月刊ムー」レベルではないのだ.(「ムー」は好きだ.)

 安永は統合失調症の機構論としてファントム空間論を提唱したわけであったが、決して私達にとって無縁というわけでは無いはずで、私達が感じている心労はおそらく外力の一つなのだろうと思われる.だが、どのような事情で本来正常であったファントム機能が衰弱、破綻してしまうのだろうか、ということは気になるだろう.発病者のファントムには何らかの特性があったのだろうか.

 このような問題に対して、安永は以下の可能性を予想する.統合失調症の定常的ファントム距離は、他の素質者よりも大きい.これを心理学的に言えば、彼・彼女が自然と物事に対して遠い心的距離を取る、ということと同義である.しかし、これには大きな維持エネルギーを要するはずだという.ファントム機能とは、「他者とのほどよい距離感」を保つ機能である.そして遠ければ遠いほど大きなエネルギーを使うと仮定される.そこまで遠くなくても良い人もいれば、遠くでないと落ち着かない人もいるはずだ.満員電車が平気な人と絶対に無理!という人がいる、といえばわかるだろうか.

 もしエネルギーを消費することがファントム機能の失調なのであれば、一般に近い心的距離に暴露される、または持続的に強要される人は、統合失調症の発病をきたし得るだろうという.

 今回はここまでにさせていただきます.少しずつ筆者の本題に踏み込んでいく感じがわかれば嬉しいです.誤解のないように言うと、筆者はこの論を盲信しているわけではありません.ただ稀有な症状機構論として取り上げているだけです.読んでくださりありがとうございました.

 

ファントム機能あれこれ

錯覚運動を考える

 前回の章でついに「ファントム空間」を定義することが出来た.ファントム空間は「幻影肢」や我々が感じる錯覚現象(ミュラー・リヤー錯視など)が確かに生じるという事実から「心的距離」=「こころの距離」を規定するものとして示された.よって「ファントム空間論」とはすなわち「心的距離」をほとんど生理的な機能概念「ファントム機能」として用いよう、とするものである.

 安永によれば、この着想の順序は、神経生理学における錯覚運動の法則を、精神現象に適用しよう、ということが骨子となっている.その一般法則は次のように表現されるそうだ.

一、主体にある「作業意志」が働き、

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.

a: 意図と同じ方向へ、「仮現的な外界の運動」の*「能動的」感覚が生ずる.

*自分が外界を動かしているかのように感じる、ということ.

b: 意図と反対方向へ、「仮現的な自己の運動」の*「受動的」感覚が生ずる.

*自分が受け身に動かされているかのように感じる、ということ.

 ……なんだかよくわからない、と思う方がいても不思議ではない.そのために具体例を安永が用意してくれている.これで安心……と言いたいところなのだが、まずは著者の説明をご覧になっていただく.以下は抜粋である.

 この法則のわかりやすい実例を述べよう.一眼のみを実験の対象とする.もし右眼の外転神経が麻痺しているのに(あるいは眼球を機械的に固定して動かないようにしても同じ)、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとする.このとき、実際には眼球は動いていない(すなわち視野には何の動きもないはずである).しかるに主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる.これはさながら目が外界を右へ振りまわしてゆくかのようである(同時に、おそらくははるかに弱い程度に、主体事態の身体が左へ廻されてゆくような感覚も伴うだろう).

 正直言って、私にはこの例がわからなかった.単眼を前提に議論をすることが両眼をもつ我々(のほとんど)にとって、すぐには理解し難い景色となる.単眼にとってそれは立体感のない景色であることは、我々が片目を隠せばわかるのだが.

 ちなみに外転神経というのは眼球を外側に向ける筋肉だけを支配する神経のことだ.外転神経麻痺は眼を外側に向けることができなくなった病態である.外側というのは右眼にとって、右であり、左眼にとって左をいう.麻痺してしまうと外側を向きたくても向けない、という状態になる.つまり、主体が右へ眼球を廻そうと意志したとしても、実際には眼球は動いていないのだから、主体が機能欠陥を知らなかったとしても「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」なんてことはないはずだ.

 我々は両眼で世界を捉えることが多いので、もし片方の眼が外転神経麻痺になったとすると、ある視野において「複視」という状態になる.ものが二重に見えてしまうことを言う.様々な外転神経麻痺の患者さんと思われるブログを拝見したが、「主体の体験では、外界は右へと旋回運動を起こすように感じられる」ような説明はどこにも見られなかった.せっかくの論考でこの例示は惜しい.

エレベータに乗ろう

 よって、私なりに安永の考察が意図するような具体例を考案してみた.仮にあなたが新築の分譲マンションの見学会に参加したとしよう.そのマンションは全部で三十六階まであり、高性能エレベータが三基稼働している.「いい景色ですから」と不動産屋の口車に乗ってしまい、貴方はエレベータに乗って、最上階の景色を眺めることになる.そのエレベータは、落成前なので地上階と最上階しか往復できない.乗っている間は自分がどの高さにいるかもわからない.完全な密室である.そして、このエレベータ、最新型で加速が極めてなめらかであり、いつ動き出したかわからないくらいである.だからエレベータの中にいる運動系では乗員は静止しているかのように感じられる.

 そして気づかぬうちに到着するのだが、このエレベータ、ブレーキの調整が不十分で、最上階に到着するときは急ブレーキで静止する!

 これでようやく安永の意図する条件が設定出来た.先程の安永がいう錯覚の法則に当てはめてみると、

一、主体にある「作業意志」が働き、→(エレベータに乗ったから加速を感じるはずだ、半規管に存在する耳石が動くことで重力を感知するはずだ)

二、しかるにその運動の最終効果器官Effectorが機能を失っており、(予期したほど反応しない)→(「あれ、全然動いている感じがしないな……」半規管の機能閾値を下回る加速度である)

三、しかもその機能欠陥を主体が知らなかったならば、結果として次の錯覚のいずれか(あるいは両方)が生じる.→(実際は時速60km/hで動いていたところから急速に静止する運動が生じる)→「全く気づかないうちに到着していた!!まじかよぉ!」

 このとき、自分と不動産屋さんの身体は「仮現的な自己の運動」の受動的感覚が生じるはずである.つまり、完全に静止している状態から突如、浮き上がる感覚が急に感じられる.そして「おえっ」となるだろう.「もう二度と乗るかこんなポンコツ!!」

 どうだろうか、厳密にいえば乗員の身体機能は全く問題ないのだが、慣性系が一致することで感覚器官が機能しない、という状態をつくることは可能だということはわかるはずだ.そして現代に生きる我々はエレベータに乗って浮遊感をわずかに味わった経験があるはずだ(なかったら申し訳無い).

 ファントム機能と統合失調症

 もう一度いうが安永はこうした生理学現象を精神現象にも当てはまるのではないか、と考えたのであった.精神現象における機能、それがファントム機能である.

 前回の記事の内容を改めて述べると、ファントム空間とは、体験可能な至近点から至遠点までの三次元空間のことをいう.その至近極からその時のイメージまでの体験距離をファントム距離、といい(こころの距離)、これを保っている特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼称する.

 ファントム距離は多少伸び縮みする.だがたいていは至適定常距離にある.つまりほどほどの距離感を保つことができている.知的イメージはその端に現れる.知的イメージというのは、「家族」、「友人」、「職場の人間」といった他者の存在と考えてよい.それなりの距離感を自分なりに掴んでいる.それがファントム機能だ.この機能が正常であれば、習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式とファントム機能とはそのファントム距離測定において全く一致しているはずだ.

 しかし、統合失調症において、このファントム機能が急激に衰弱したと仮定しよう.安永は錯覚運動と似たような現象が起こるのではないかと考える.

 ファントム機能のなんらかの失調により、ファントム距離が短縮してしまった!だが、自身はそれに気づかない.自分はいつもどおり、あるファントム距離を測定した.しかし、イメージはその「予期された距離」にはなかった!!!!!自身はよろめき、錯覚運動が起こる.知覚イメージはこの場合、「遠ざかり運動」を起こす.従来のファントム空間の圏外へと、逃れようとする.

 この説明も急に言われてしまうとよくわからないかもしれない.なので亀吾郎法律事務所のスタッフが頑張ってこの論考に対して、まぁまぁな例を用意することにした.どうか楽しみに待っていただきたいな、と思う.ファントム空間論、なんとなく興味を持っていただけたら嬉しいです.

 

投稿百回目に思うこと

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誰のどんな問題を解決するのか

 実は亀吾郎法律事務所のブログを開設して今回で百回目の投稿になる.これまでの間、何を書こうかなと考えているうちに身構えてしまい、なかなか記事を書くことができなかった.変に気負ってしまってはいけない.なにを書けばよいのかと事務所のスタッフに訊いてみたら「百回目はおめでたいのだから、めでたいことを書けばよい」という.うーむ.めでたいことが思いつかない.世の中で報道される時事でめでたいことも少ないように思う.やはり世界中がウィルス感染症の話題でもちきりだ.ウィルスの話はたくさんだ.亀吾郎法律事務所は誰にとっても平穏で心安らかに過ごせる場所であるべきだ.だからウィルスの話はしない.

 最近、私、吾郎が考えている話をしたいと思う.私が何を考えているかというと「亀吾郎法律事務所」の方向性に関する問題である.ブログを開設してから実にたくさんの方々に来ていただいた.まずこのことについてお礼申し上げたいと思う.いつもありがとうございます!亀吾郎法律事務所は「法律に門外漢」といういい加減な副題を掲げて精神医学、哲学、語学や一部社会学、芸術について自分の考えを論じてきた.放埒と言われてはやや閉口してしまうのだが、私達自身は自由奔放に記述することができ、スタッフの精神の安定に大きく寄与したように思っている.今後もこの奔放さを継続して自由に言論活動を行っていきたい次第である.

 その方向性の中で私がこの頃気にしているのは「このブログの需要とはなんぞや」という問題である.「いやいや、こんな弱小ブログ、だれも求めてないぞ」という辛辣なご意見は当然あるだろう.それはそうかもしれない.さきほど述べたように、この記事は好き勝手に筆を走らせて記載したにすぎないのだから「このブログの記事が向かう先は画面の向こうの読者」とうそぶいて実は自分のために書いているのだ、と指摘されても否定はできない.ブログの志向性が自己に向かっているというわけだ.記事を書いてカタルシスに浸るのも、読者に志向しているのではなく、実は深層で自分に向けて記事を書いていたのだから究極は自慰的な要素があったわけだ.

「なんという卑劣漢.人非人!なんだかんだいって貴様は自分の事しか考えていないわけか.人でなしめ!悪辣な屑よ」

と罵るのも結構であるが、前述を踏まえたうえで内省を深めてみると、次のようなことを思いつく.確実ではないのだが、間主観的(広く言えば客観的)に考えてみれば、我々と同じブログを書く人々や、物書きというのは文章が他者へ開かれている一方で、それが志向するところはすべからく自己を向いているのではないだろうか、ということだ.それはときに自己治療的であったり、自己愛であったり、自己耽溺、自己欺瞞でもあるように思う.私達が広告を貼り付けてブログを投稿するのは、内心広告収入を得たいという利己主義に基づく行為であるし、たまたま広告主と利益が一致しているだけだ.誰でもやっぱりお金はほしいのだ.誰が読むかわからないのに、誰も来ないかもしれないのに、私のような三文記事を延々と書き連ねるのは、真の利他的な聖人か、平凡で利己的な俗人でしかない.

 こういうことを書くと、他のブロガーの顰蹙を買ってしまって「いいね」がもらえなくなってしまうかもしれないのだが、それはそれで結構なことだと思う.ある意味私の企てが成功したといえる.

 もう一度話をもどそう.私達スタッフは「このブログは誰のどんな問題を解決するのか」ということを考えている.しかしつまるところ志向性は自己の欲望へと行き着くのだという見解に我々は達した.とはいってもその中間項に他者=読者がいるのだから、仮に建前であったとしても、自己の欲望が他者を介在してでも、「誰かの問題」を解決できればいいな、と思っている.本当に.

 そこで亀吾郎法律事務所は以下の二点について考えた.このブログの目指すところ、すなわち理念といったところである.まずは「誰のどんな問題を解決するか」という問に対して、私達は次のように考える.

「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」をユーモアとともに解決するブログ

と銘打つことにしたい.そしてもう一つは、

(社会通念上健全と思われる方向性において)圧倒的に個性的で突き抜けた記事を目指すこと

である.いかがだろうか.このようにした理由の一つに、自分自身もそのような思いを体感していること、広い意味で類似した思いを抱えている人々がどのような心情を抱いているかをよく理解したいという考えがある.それを扱うことによって、単なるブログ執筆に終始しないという自律心が芽生えるし、自身の勉強、記事執筆の動機づけにもなる.そして記事の内容は自分の信条を貫いたものかつ、超絶怒涛、個性あふれるものを目指したいという野心に基づいている.私は医学の出自であるものの、人文科学寄りのテーマに親和的な傾向があると思っている.精神医学という分野の中でとりわけ自然科学とはいえない領域を扱うことによって、インターネットの世界でも明るみにでなかった部分に光を照らすことができるのではないかと思っている.特に精神病理学の役割は大きいのではないかと思う.私が知る限り、精神病理学の文献は非常に難解で文章が硬い.こうしたところがこの学問を高潔にする一方で、とっつきにくさを出してしまっている印象がある.私は私なりにこの学問に理解を示しつつ、若気の至によって何らかの方法で茶化してみたり、現代の流行や事象を例えを用いてこの学問への抵抗を減らして行ければよいかと思っている.また、英語を主とする外国語の翻訳や鑑賞を通して、語学の勉強を行うことや、文学の紹介と通じて、亀吾郎法律事務所の新境地を開拓できたら嬉しい.実際、以前投稿したエジプトのポップ音楽はなかなか好評だったように思う.また、「フォン・ドマルスの原理」の紹介も思いの外、表示数が多かった.

 記事を百書いて、ようやくブログの方向性が見えてきたように思う.先達のブロガーたちが「つべこべ言わず記事を百は書け」という理由もなんとなくわかるような気がする.私達、亀吾郎法律事務所はスタートラインに立ったばかりだということを知る.

 事務所スタッフは「めでたいことを書けば良い」ということだったが、「目出度い」記事ではなく、「愛でたい」記事になってしまった.期せずしてブログ投稿百回目の内容はこれから私達がどのような記事を書いてゆくか、という所信表明のようなものになった.

 これからも亀吾郎法律事務所をよろしくお願いします.私達は「社会から疎外感を感じる人々、居場所をなくして困っている人、生きづらさを抱えている人」の、「自分の弱さを冷静かつ真摯に受け入れたい、学術的に理解したいという願い」に応えられるよう、日々面白おかしく、楽しく記事を投稿し続ける所存です、私達は旅人を吹き飛ばす北風ではなく、ぬくぬくと暖かく旅人を照らす太陽でありたいと心から思っています.

 

「こころ」の実体

ファントム機能の仮説

 少し時間が空いたので、これまでの論考のまとめをしておこう.精神科医の安永浩による精神病理学的仮説に「ファントム空間論」というものがある.世の中にあまり知られていない.これは安永がとある哲学理論をもとに独自に打ち立てた斬新な仮説であり、統合失調症の病理を理解しようとする奇特な試みである.

 その論考の骨子には、「パターン:実存的二元論」という考え方がある.詳しくは過去の記事をご覧になっていただくか、書籍を購入し熟読していただくことになるが、簡単に言えば、相応する二つの概念「全体」と「部分」、「生」と「死」、「自」と「他」といったものが世の中には存在する.この概念は、本来不可逆的な方向性を持っている.そしてその方向性は論理的必然性(Logical necessary)として自明なものとして機能している.これを「パターン」と安永はいう.

 ところが、統合失調症の患者らの症候をつぶさに観察すると、こうした公理が完全に逆転しているのでは無いか、という懸念が生じる.つまりは条件的偶然性(Contingency)の方向に論理がゆくのではないかと仮定せざるをえない、という.安永はこの仮説に基づいて、幻覚、妄想といった基本的な障碍の説明を試みてゆく.もちろん、自閉や作為体験、感情鈍麻といった症候も「パターン」が逆転することで生じるというものだった.

 こうした論考に否定的な人々がいることは予想される.批判も慎んで受けなければならないだろう.この論考は単なる思弁で都合よく辻褄をあわせたものに過ぎないと.私はすべての人と理解し合えるとは思っていないが、安永は「バリバリ」の臨床医であったという評価を聞く.それにこのような「思弁」を体系づけるには膨大な調査と臨床経験が必要であるのは、素人の私でも理解できる.安永が病理学的理論を構築した意図には、統合失調症を理解したい、患者さんを理解したいという純粋な願いであろうことは決して私の邪推ではなかろう.

 現代の病因論や治療論には生物学的、薬理学的理論の仮説が大きく台頭し、その理論は完全ではないものの大きな成果を上げていることは事実であり、筆者の経験から言っても間違いない.ドパミンやその他モノアミンといった神経伝達物質の相互作用が幻覚妄想に関与しているという仮説は非常に説明的であり、現在これを超える理論体系は存在しないといっても良いだろう.

 だが、しかし、である.アリピプラゾールを使おうが、ブレクスピプラゾールを使おうが、ルラシドンを使おうが、どんな新薬を使ったとしても「なぜ疾患が生じたのか」の解明にはまだまだ近づけないだろうと思う(と言っているうちにブレークスルーがあったりする).例えばカルボニルストレス代謝障碍と統合失調症、といった生化学的なアプローチで原因を捉えようとする方法論も私は承知している.しかしながら、こうした生物学的研究手法はどうしても診断体系を画一しなければならない一方で、そもそもの精神疾患の診断基準とされる「DSM-5」には多くの批判が挙げられている実態は無視できないだろう.DSM-5やICD-10の話をするときりがないので、ここまでにしておくが、要するに解明まで「あと数手及ばない」感じなのだと思う.にしてもその数手は遠い.ここでこの連載の第一話の引用を思い起こしていただきたい.

 そう、三島由紀夫の「鏡子の家」に出てくる、夏雄である.彼のような統合失調症発病過程の機微を如実に表すことは、おそらく分子生物学的立場では限界があるだろう.

 だが幸運なことに、かつて日本では安永が独自の「症状機構論」において精神病理学の貢献可能性を見出した.それが「ファントム空間論」であった.

 統合失調症は一般に器質的疾患ではなく、機能的疾患であるとされる(慢性の経過ではMRIで局所に体積減少が指摘されることもある).つまり脳の一部が大きく欠けているとか変性しているから生じているのではないとされる.だから患者の頭部MRIを撮ってもほとんど健常人と見分けがつかない.さて、機能失陥であれば脳の「何」が統合失調症を起こすのだろうか、という疑問が生じる.その「何」を安永はEffectorと呼んでいるが、要するに身体でいう器官のようなものだ.その器官を安永は「心的距離を保つ基体」と仮定し、論考をすすめる.

こころの距離感

 私達の体験的空間はある「距離」に張られているという.私達の表象イメージ、知覚イメージは脳の中で作られているのだが、「一定距離」をおいたその端に投影される.どういうことか.

 あなたは会議室で聴衆の前でプレゼンテーションを行うとする.ノートパソコンをプロジェクタに接続し、プロジェクタが映写してスクリーンに映像が現れる.その映像は「爬虫類:クサガメの神秘」についてであり、聴衆はもっとよく見たいと意見をいう.あなたはパソコンを操作し、ズームアップすると、クサガメの手足が大きく写り、そのしなやかな肢体が悠々と動くのを見て、聴衆はうっとりする.

 ここで言いたいのはスクリーンに映る映像が例え拡大されようと、遠影に見えようと、聴衆とスクリーンの距離は変わらないのは自明だということだ.この距離は主体と投影される写像とのそれであり、基本的に「至適」な距離である.上記で述べた「一定距離」=心的距離とはこの距離のことをいう.物理的な距離ではない.

 さらにいうと、「一定距離」は主体にとっての実存的余裕、空間的、時間的間合いという意味であり、私達は「一定距離」を保つことによって「存在的猶予」=安心感をもつことができる.中央線の満員電車の中と、幌加内のそば畑では、後者の方が安心するはずだ.どんなものでも近づきすぎれば危険、苦痛、不快を感じる機能をもつ.試しにボールペンや尖ったものを手にとって、触れないように先端を自分の眉間に近づけてみてほしい.「ジーン」とした感覚がするはずだ.近接することによる「不快」がわかると思う.

 もう一つ、例を出す.例えば、あなたは生物学的に男性であると仮定する.駅でも空港でもいいが、公共施設の男性トイレに行き、小便をするとしよう.決して下品な話をしたいわけではない.小便器は横一列に五台並んでいるとする.左から二番目に誰かが用を足しているとき、あなたはどこで用を足すだろうか.

 おそらく右から二番目か、一番右だろう.わざわざ用を足している人の隣にいくことはないと思われる.空いているトイレで、知らぬ人が隣で用を足し始めたら、かなり気味が悪いだろう.これも「心的距離」で説明がつくのではないか.電車の座席も同じことが言える.私達は自然に、自ー他の距離を「のばす」、遠くへ「保つ」機能があるのだと考えてもよさそうだ.近づきすぎているものを押し留めておくには、より多くのエネルギーを必要とする.「緊張感」、「気疲れ」といったものが生じる.

 以上は私の例えだが、これでも「抽象的な議論だ」、と思う人がいるかもしれない.とはいっても事実世の中には「幻肢痛」(Phantom limb pain)という現象が存在する.四肢切断や乳房切除など、外傷・外科手術により身体の一部を失ったあとも、失った四肢が存在するかのように温痛覚障害やしびれを生じる感覚経験をいう.目に見えないのに、確かにそこにあった空間として痛覚を感じることができる現象が生じているのだ(人気ゲーム「メタルギアシリーズ」の現行タイトルも「Phantom Pain」であったはずで、決して世間で認知されていない現象ではないと思う).この議論は空論ではないことを強調しておく.やはり実存は本質に先行する.

 強調しておきたいがために、もう一つ例を出す.安永もほとんど似た例を出していたので、論を強固にできるだろう.

 例えば、あなたが誰かと二人で話をしながら、どこかの階段を降りているとする.話は盛り上がり、あなたは目線を相手に向けていて、階段をどのくらい降りているかわからない.ふと、あなたのどちらかの脚が一番下まで着いたとき、あなたは無意識に反対の脚を長く伸ばしておろそうとするはずだ.しかし、ただちにあなたは地面が沈み込むような、脚が短縮したような錯覚をいだくはずである(事務所の掃除夫はこうした経験を何度もした).

 この現象は次のように還元できる.

 習慣的に作られた世界の距離的構造の認識図式と「一定距離」を保とうとする機能は、その距離感において全く一致している.しかし、もし「不意に」その心的距離が何らかのきっかけで短縮したとすれば、錯覚運動がおきる(のではないか).

 何らかのきっかけ=病的状態だと仮定すると、もしかすれば、私達は統合失調症の体験する空間認識を説明することができるのではないか.統合失調症の理解に寄与できるのではないか、と安永は考えたわけである.安永は先に述べた「幻肢」にならって、その空間をファントム(Phantom)と呼び、「心的距離」に相当するものはファントム距離、その距離を保つ特殊エネルギー実態の働きをファントム機能と呼ぶことを提唱した.そしてそのファントム機能を説明する仮説を「ファントム空間論」というわけである.(ここまで長かった……)ではどのようにして統合失調症の機能障碍を説明するのか.それは別の記事に譲るとしよう.これまでの論考で散々述べてきた「パターン」の話がようやく生きてくる.

 

 

小論あれこれ

二つのタイムズ

 12月16日から審査の結果「ジャパンタイムズ」紙と提携することとなり、小サイトに広告を掲載することに相成った.ありがたいことである.だから一応宣伝だけしておこう.「ジャパンタイムズ」とはいっても「ジャパンタイムズ・アルファ」といって、内容は平易な方かつ、一週間に一度の発行であるから小規模なものになる.つまりは英語の初学者に向いている、ということになる.和訳もついているという.そして電子媒体ももれなくついてくるそうだから、安心していただきたい.牛丼を頼むと味噌汁もついてくる感じか.時事に関心があって、英語の勉強を始めたい、という方にはおすすめしやすい.

 亀吾郎法律事務所は事務所らしく、「アルファではないジャパンタイムズ」を購読することにした(ということはオメガなのか?).月額100円のキャンペーン中であったからだ.100円ならばラーメン屋でトッピングを我慢すれば良い.電子版なので場所を取らずに済むのはとても良いと思う.とは言っても亀吾郎法律事務所のスタッフが新聞を取る狙いは別にある.極論、時事問題などどうしようもないのだ.クサガメにとっても人間にとっても.私達にできることは各々の素養を伸ばすことだ.私達は語学力のさらなる上達に心を傾けている.私はなぜ、自分の英文がぎこちなく、つまらないかを理解したような気がしている.結論からいえば、圧倒的に語彙力が足りないということだ.だからどうしても表現が平坦になる.「それでいいでしょ」という意見はごもっともなのだが、私はもっと深く、どこまでも深い語学の真髄のようなものを味わってみたいと密かに思っている.少なくともあと2000語から3000語は語彙を増やすことが必要だ.そのためにはどうするか、事務所のみんなが思いついたのは活字を読むことだ.「ジャパンタイムズ」を購読するメリットはもう一つある.抱き合わせで「ニューヨーク・タイムズ」が付帯する.二社の紙面を見比べるという面白いことができるではないか.特に社説は興味深い.できればブログに掲載して紹介することも考えたのだが、著作権の都合でそれはできない.だからこの楽しみは内輪でやるとしよう.

語彙を増やすには

 語学の勉強において、語彙を増やすことはしばしば難しい課題だと思う.それは長く、苦しい.まるで修行のようなものだ.私は高校生時代以来の修行に望むつもりでいる.だが、当時よりも技術革新が進んだおかげで覚える工夫さえすれば、あとは個人の資質次第、という幸運となった.では、どのようにするか.

 一つは明確な最終到達目標を掲げること.私の場合は「とある試験」を受けることで成就する、ということになるか.それは絶望ではなく希望的なものであるほうが良い.

 もう一つは、私だけの特権である「The Book of Tea」を再利用する方法である.「とある試験」に即した単語集を購入し、それに記されている2000語超の単語と照合する.これにはGoogleのSpreadsheetを使う.そのためにまずは手入力で2000語の単語を打ち込み、リストを作成する.続いて亀吾郎法律事務所のブログにある「The Book of Tea」の英文をすべて一編にしてPDF化する.この作業はGoogleのDocumentsを使う(のちにProject Gutenbergで簡単に手に入ることを知る).あとは⌘+Fで、単語集に載っている単語があるかを照会し、照会した単語と一緒に例文を抽出、独自の例文集を作成するというものだ.これに対して「なぜ、単語集に載っている例文を使わないのか」という質問が考えられる.なぜか.それには二つ理由がある.一つは、私の性癖だからだ.フフフ、何も言えまい.もう一つは「この私が』、単語を覚える」のであり、「私が単語集に覚えさせられる」のではない.私が時間をかけ、ATPを消費し、打ち込んだ努力の結晶は「私自身によってのみ為された営為」であり、一つの有機的な情動体験であると考えるからだ.人間やクサガメの記憶というのは、情動体験が伴うと定着しやすいことが知られている.ここでは肯定的な情動体験を利用し記憶の定着を深めることにする.要するに愛着が湧いている.

 だが流石に「The Book of Tea」だけでは2000語には及ばない.なので他の著作を検索中である.それも著作権が失効している作品が望ましい.また進捗があればお伝えしたいと思う.

 もう一つの脱出・超越

 以前述べた小論「超越・脱出」で幾つかの脱出方法を考察したことがあった.「欣求浄土に先行する厭離穢土の一貫性」、「解離現象」、「自殺」といった方法を挙げ、「異世界系小説」における関連性を考えることがあった.その時の私は懸命に「脱出」という方法について考えていたのだが、なかなか思いつかなかった.

 しかしながら、ここ最近、自分が実際にその体験「脱出・超越」をする運び(まさか自分がするとは思わなかった!)となった.これは本当に、本当に気が付かなかったのだが、その脱出と超越は思いもよらぬ方法で、しかも極めて現実的な方法であった.

 私は急遽第六部を執筆する構想を練っている.私が当時書いた冒頭の文章はでっち上げのつもりだったのに、なんだか自分の苦痛を表しているかのようで思わずハッとする.

「今」自分が置かれている状況がとても辛い、現状に満足していない、なんとかして抜け出したい.そんなとき私達はどうするだろうか.休暇を取る?仕事をしている人なら職場になんて言おうか.「言いづらくて……」「きっと上司に小言を言われる」「申請が面倒くさいのです」という感想を持つ人は少なくないだろう.

「法事がありまして……」嘘がバレたらどうしようと思う人もいるだろう、取れる休みもせいぜい1日2日だ.「風邪を引いたことにしよう」医療機関を受診した証明をもらってきてくださいと言われるとうまくいかない.嘘をつくにも頭を使う.もし休暇が取れたとしても行程を考えると思うと大変だ……お金もかかるし…… そう考えている人はきっと疲れている.疲れている人は多い.

いっそ誰も自分のことを知らないどこかに行ってしまいたい、そう夢想する人はいるだろう.私はそう考えたことがある.皆さんはどんなところに行くことを考えるだろうか.

近年の異世界系小説に見る超越と脱出:1 より

 私は私で形容し難い問題を抱えていて、なかなか前進することができなかった.考えても考えても出てこなかった.しかし案外答えは近くにあったのだ.実は私に最も近い人が答えを教えてくれていた.

 「もったいぶらずに早く答えを言えよ」と思う読者はどうかこらえていただきたい.ここで種を明かしては興が醒めてしまう.いつか追補記事を書くつもりだ.

 昔の執筆内容を振り返ると、当時の自分の考えていたこと、感じていたことがありありと蘇る.「あぁ、自分はこう考えていたのか」「あのときから、悩んでいたんだな」と感慨深い.私自身の精神病理を垣間見た気がする.思考の静止というのはこのような状態をいうのか、と.私は記事を書いて良かったと思う.これが自由連想法なのだろうか.それについても少しだけ触れることにしよう.

 結局、脱出は困難である.私は論考を書き進めながら、どんな結末になるかは私の筆任せにしていた.まぁ楽観できる結語を期待するのは難しい.一応、一時的な脱出は可能だ.旅行は脱出だが、死ぬまで旅行を続けることは現実的でない.帰還することが前提になる.亡命という手段はあるが、日本人はほとんどその選択肢をとらないだろう.もう一つは空想へ脱出すること.しかしこれは虚構にすぎず儚いものだ.それでもよければ脱出してもいいが、現実への諦念が色濃くなる.解離.これは条件付きの脱出だが、尋常ならざる苦痛が伴う.例外的な手段と考えるべきだ.

 そして自殺.究極の手段.たった一度きり.すべてが終わるが、本当にすべて終わる.苦しみも悲しみも消える.だが、かけがえのない存在や生きていたとき感じた正の感情、思い出、何もかも消えてしまう.そして死を考え続け、選ぶことはとてつもなく辛い作業だ.残された人にとっても.

近年の異世界系小説における超越と脱出:5 より

 私は、「脱出は困難」としていた.何度でも言うが本気でそう思っていた.頑迷になっていたのだろうかと思うくらい.私は何時間も何日も考えていたことだったがここ最近まで気づくことができなかった.無意識のうちに気づいていたのかもしれないが、心の中で必死に打ち消していたのだろう.本当に情けない.だが文章は嘘をつかなかったわけだ.

 私はただ死ぬことばかりを考えていたようにも思う.当時から死は魅力的だった.今は少しだけ魅力が減ったのかもしれない.それでもタナトス(死への欲動)は妖しく微笑むことがある.今でも次のような気持ちは変わらない.本当に吐き気がする.

 私は少ない経験ながらも若い人から高齢の方まで、悲痛な面持ちで診察室を訪ねてくる患者さんを相手にしてきた.皆職場を契機にうつ病や適応障害といった診断名になる.どなたも口を揃えて言うのは、休むにも休めなくて……私がいないと……仕事がなくなってしまったら……

 そういった言葉はとてもとても良くわかる.それぞれの言葉に対して私なりに説得力のある説明を試みたつもりだが、それではあまりに時間が足りなかった.一人の診察にかけられる時間は極めてわずかだった.たかが5分ではわずかな時間に何かしたくても神の言葉でない限り、その人を健康な世界へ導き勇気づけることは私にとってはあまりにも難しい.社会資源を目一杯使おうという言葉は聞こえがいいが、私のいたところでは資源は足りていなかった.だが「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と言われているようで悔しくてたまらなかった.抗うつ薬をいくら出しても真のリカバリには遠いことは目に見えていた.如何に数を捌くかが求められた.私はその職場を離れることになった.今考えただけでも吐き気がする.そして私自身の不甲斐なさと力量不足があったことを認めざるを得ない.私は今でも申し訳ない気持ちでいるし、何か他にできたのではないかとずっと悔やんでいる.恥ずかしい話だが、私は電話相談や面接で「死にたい」という患者さんに「自殺してはいけない理由」をうまく説明できたと思ったことがないことをここに告白する.どう説明したらよいかかれこれ考えているが未だに名案が浮かばない.誓ってこれまで一度たりと手を抜いたことはなかったが、職業人として失格なのではと思うこともある.

同上

 今でも職業人として失格だと思うが、私は私なりの方法で償いをしたいと思う. 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました.

 

Gitanjali: 2

 ラビンドラナート・タゴールによる「ギタンジャリ」の序文はウィリアム・バトラー・イェイツによって記されたものです.前回に続き、今回もその翻訳です.読んでいただければわかるのですが、簡単な単語なのに日本語にすることが難しい.とても難しいのです.直観ではわかる一方、誰かに伝えようとする瞬間から、日本語に変換する難しさを感じてしまいます.これは日英の文法構造が異なるからなのか.私が理解できていたとしても英→日は誰にとっても困難なのだろうか.それとも私が「わかっていない」からなのか.もし後者だとすれば自分の非力さが悲しい.英文の構造を守りつつ、日本語の柔軟さを意識して訳してみましたが、なんだかしっくりこないですね.

Introduction

I

Other Indians came to see me and their reverence for this man sounded strange in our world, where we hide great and little things under the same veil of obvious comedy and half-serious depreciation. When we were making the cathedrals had we a like reverence for our great men? 

“Every morning at three—I know, for I have seen it”—one said to me, “he sits immovable in contemplation, and for two hours does not awake from his reverie upon the nature of God. His father, the Maha Rishi, would sometimes sit there all through the next day; once, upon a river, he fell into contemplation because of the beauty of the landscape, and the rowers waited for eight hours before they could continue their journey.” 

He then told me of Mr. Tagore’s family and how for generations great men have come out of its cradles. 

“Today,” he said, “there are Gogonendranath and Abanindranath Tagore, who are artists; and Dwijendranath, Rabindranath’s brother, who is a great philosopher. The squirrels come from the boughs and climb on to his knees and the birds alight upon his hands.” 

I notice in these men’s thought a sense of visible beauty and meaning as though they held that doctrine of Nietzsche that we must not believe in the moral or intellectual beauty which does not sooner or later impress itself upon physical things. 

I said, “In the East you know how to keep a family illustrious. The other day the curator of a Museum pointed out to me a little dark-skinned man who was arranging their Chinese prints and said, ‘That is the hereditary connoisseur of the Mikado, he is the fourteenth of his family to hold the post.'” 

He answered. “When Rabindranath was a boy he had all round him in his home literature and music.” I thought of the abundance, of the simplicity of the poems, and said, “In your country is there much propagandist writing, much criticism? We have to do so much, especially in my own country, that our minds gradually cease to be creative, and yet we cannot help it. If our life was not a continual warfare, we would not have taste, we would not know what is good, we would not find hearers and readers. Four-fifths of our energy is spent in the quarrel with bad taste, whether in our own minds or in the minds of others.”

“I understand,” he replied, “we too have our propagandist writing. In the villages they recite long mythological poems adapted from the Sanscrit in the Middle Ages, and they often insert passages telling the people that they must do their duties.”

 他のインド人たちが私に会いに来た.そして、見え透いた喜劇や、半分本気の軽蔑にかこつけて、大小の事物を隠してしまう我々の世界においては奇妙に映ってしまうこの男(タゴール)に敬意を表しに来た.自国の偉人に敬意を表すように、我々が大聖堂を建てるのはいつのことになるだろうか.

 「毎朝三時に、ええ、私は観たことがありますのでね」ある人が私に言った.

 「彼(タゴール)は座って決して動かず物思いに耽るのです.そして二時間は神のなすがままに夢想から覚めることがありません.彼のお父上はマハー・リシーといって、時折そこで翌日までずっと座り続けるのでした.あるとき、河の上で、お父上は景色の美しさのために物思いに耽り始めました.漕手は彼らが旅を続けるまで八時間待っていたのですよ」

 そうして彼はタゴール氏の家族とそのゆりかごから偉大な人物がいかに幾世代にわたり生まれてきたかを教えてくれたのだった.

 「今日はどうやら、ゴゴネンドラナート、それにアバニンドラナート・タゴール、みな芸術家ですね.そしてドウィジェンドラ、ラビンドラナートの兄弟がいますね、彼は素晴らしい哲学者です.リスたちが枝からやってきて膝の上に登りますし、鳥たちは手の上に降りて止まりますよ」

 私は、こうした人々の思考に視覚的な美の感覚を見出す他に、あたかも彼らが、道徳を信奉してはならないか、あるいは何れにせよ物質的なものを超越し、自身に感銘を与えることのない理知的な美を信じてはならないというニーチェの教義を抱いているような気持ちがするのだ.

 私は「東洋では家の功績を保ち続けるにはどうするかを知っていますね.ある日、中国の印刷物を整頓していた美術館の学芸員が背の低い浅黒い肌の男を指差してこういったのです、『彼は帝の先祖代々の鑑定家ですよ、彼は家名を守る十四代目なのです』」といった.

 彼はこう答えた.「ラビンドラナートが少年の頃、彼の家の周りすべてには文学や音楽がありふれていましたよ」

 私には余剰という考えが、あの詩の簡素さが思い浮かんだ.そして、彼はこう言った.

「あなたの国ではたくさんの伝道師による作品や批評があるのですか.我々にはなすべきことがたくさんあります.特に私達の国では、我々の精神が徐々に創造性を静止させつつある状態です.しかしどうすることも出来ないのです.もし我々の人生が頻発する戦争になかったら、味わうことはなかったでしょうね.何が良いのかを知ることはなかったでしょう.人生には聞く側と読む側がいるということに気づかなかったと思うのです.我々の活力のうち八割は、自分の考えかそれとも他人のかどうかともあれ、悪い経験である諍いに費やされるのです」

「私にはわかりますよ」

 彼は続けてこう述べた.

「我々も伝道師によって書かれた作品があるのですよ.この村ではみな中世のサンスクリットからもたらされた長い神話の詩を暗唱するのです.そして彼らは節を挟んで自分たちのなすべきことについて人々に語り聞かせるのです」

拙いもので恐縮でしたがここまで読んでくださりありがとうございました.

Gitanjali: 1

 イエーツからタゴールへ.ラビンドラナート・タゴールの著作、ギタンジャリから、序文の一部を抜粋.以下はイエーツの寄稿した序文になります.翻訳は亀吾郎法律事務所のエース、吾郎が行います.米国、インド、日本で著作権が失効しています.私達は原著に敬意を持って翻訳します.

From W. B. Yeats to R. Tagore. An introduction of “Gitanjali” by Rabindranath Tagore, Yeats wrote the recommendation for the work. Goro, our chief editor of Kamegoro Law Firm hereby dares to translate his introduction with full respect.

The copyright of “Gitanjali” has expired in the United States, India, and Japan.

Introduction

I

A few days ago I said to a distinguished Bengali doctor of medicine, “I know no German, yet if a translation of a German poet had moved me, I would go to the British Museum and find books in English that would tell me something of his life, and of the history of his thought. But though these prose translations from Rabindranath Tagore have stirred my blood as nothing has for years, I shall not know anything of his life, and of the movements of thought that have made them possible, if some Indian traveller will not tell me.” 

It seemed to him natural that I should be moved, for he said, “I read Rabindranath every day, to read one line of his is to forget all the troubles of the world.” I said, “An Englishman living in London in the reign of Richard the Second had he been shown translations from Petrarch or from Dante, would have found no books to answer his questions, but would have questioned some Florentine banker or Lombard merchant as I question you. For all I know, so abundant and simple is this poetry, the new Renaissance has been born in your country and I shall never know of it except by hearsay.” 

He answered, “We have other poets, but none that are his equal; we call this the epoch of Rabindranath. No poet seems to me as famous in Europe as he is among us. He is as great in music as in poetry, and his songs are sung from the west of India into Burmah wherever Bengali is spoken. He was already famous at nineteen when he wrote his first novel; and plays, written when he was but little older, are still played in Calcutta. I so much admire the completeness of his life; when he was very young he wrote much of natural objects, he would sit all day in his garden; from his twenty-fifth year or so to his thirty-fifth perhaps, when he had a great sorrow, he wrote the most beautiful love poetry in our language”; and then he said with deep emotion, “words can never express what I owed at seventeen to his love poetry. After that his art grew deeper, it became religious and philosophical; all the aspirations of mankind are in his hymns. He is the first among our saints who has not refused to live, but has spoken out of Life itself, and that is why we give him our love.”

I may have changed his well-chosen words in my memory but not his thought. “A little while ago he was to read divine service in one of our churches—we of the Brahma Samaj use your word ‘church’ in English—it was the largest in Calcutta and not only was it crowded, people even standing in the windows, but the streets were all but impassable because of the people.”

 数日前、私は腕利きと評判のベンガル人の医師に次のように言った.「私はドイツ語を知らないのです.しかし、もしドイツの詩人の翻訳が私を感動させたとしたら、私は大英博物館に行き、その人の人生について、思想について教えてくれるような英語の本を探すと思います.しかし、ラビンドラナート・タゴールのこれら散文の翻訳は私をひどく興奮させた以外の何ものでもなかったのです.にも関わらず、もしインド人の旅人が私に教えてくれなかったらば、私は彼の人生について全く知らず、これら著作を可能にした思考の動きについても知らなかったのです」

 私が動揺するであろうことは彼にとって当然のようであった.「私はラビンドラナートの本を毎日読んでいますよ.彼の一文を読むことは世界の悩みをすべて忘れることですから」と彼は言ったからだ.私はこう言った.「リチャード二世の統治下における、ロンドン在住のとある英国人はダンテあるいはペトラルカ詩集の翻訳を見せられたのですが、彼は自分の疑問に対する答えを本に見いだせなかったのです.しかし私があなたに質問するように、フィレンツェの銀行家やロンバルディアの商人も問いかけをしたでしょう.私の知る限り、この詩歌が申し分なく、しかも簡素であるので、新たな文芸復興があなたの国で生まれたことを、私は噂なしに知ることはなかったのです」

 彼はこう答えた.「インドには他にも詩人がいますよ.しかし彼と同じのものはいませんね.ラビンドラナートの時代といってよいでしょう.彼が我々の中で有名なのと同じ様にヨーロッパで有名な詩人はいないように思いますがね.それに彼の歌はベンガル語が話される西インドからビルマで歌われているのですよ.彼は初めて小説を書いた十九歳のときに既に有名でした.劇も彼が少し歳をとってから書かれました.いまでもカルカッタで演じられています.私は彼の人生の完全性を大いに讃えているのです.彼がとても幼かったとき、自然にあるものをたくさん書いていましたね.庭に一日中いたものです.二十五歳から三十五歳でしょうか、彼が深い悲しみに包まれたとき、彼は私達の言葉で最も美しい愛の詩を書いたのです」そして彼は感慨深く、次のように述べた.「私が十七歳のときに彼の愛の詩に受けたものは、言葉にすることができません.彼の芸術が深みを増すほど、それはより敬虔でより哲学的になりました.彼の賛歌には人間の熱望すべてがあったのです.彼は、生きることを拒まぬ人々の中で最初の慈悲深い人でしたが、人生そのものについては語るのでしたよ.そしてそのことが彼に我々が愛を注ぐ理由なのです」

 私は彼の考えではなく、彼の記憶の中にある彼の吟味された言葉を変えたのだろう.「少し前、教会、つまり我々がブラフマーサマージ、あなた方の言葉の英語で教会というものの一つで、彼は神聖な奉仕について読むところでした.教会はカルカッタで最も混んでいるだけでなく最も大きいのですが、人々は窓辺に立ってさえいました.その人々のせいで道が通れなくなったのでした」

 序文の一部を試験的に投稿してみました.これからどんな話が始まるのでしょう.序文でワクワクするのは久しぶりです.

ありがとうございました.

英語学習についての個人的見解

楽しくやれたらいい

 自然科学において、最も根拠のある主張、すなわちエビデンスが高いものというのは、メタアナリシス研究に基づく結果だという.その下には無作為対照研究(Randomised Control Trial: RCT)がある.さらにさらに根拠の低い試験や研究があり、最も根拠のないものは、(実は)専門家の意見である.だから専門家の意見をあてにするな、とはいわないが、「自分で取捨選択せよ」ということになる.逆にメタアナリシスの結果で帰無仮説が棄却されたからといってその仮説が正しいわけではない.尤もらしいだけだ.こういった誤解は現代でも続いている.ちなみに私は自然科学の畑を出自に持つが、「尤もらしい」とかいう妙な曖昧さが好きでない.

 さて、私がこれから話すことは自然科学の領域ではない.そもそも自然科学と人文科学というのは境界不明瞭だからあまりそういう話をしても仕方がない.エジプトとリビアの間に南北の直線を引いたようなものだ.どちらかといえば人文科学の話をする.私は亀吾郎法律事務所の職員に過ぎず、英語の先生ではない.専門家でも無い.だから自然科学の序列に従えば、この話は最も信憑性がないことになってしまう.「自分から信頼度をさげるとはやはり愚か者め」とお思いの一部諸兄は、落ち着いていただきたい.この論理でいくとあらゆるYouTubeの投稿者が熱く持論を語る行為がすべて虚しくなってしまう.だがそうでは無いだろう.私は、個人的な経験を未来の他者と分有できるか、可能性に賭けてみたいだけだ.

私の話から

 私にとっての初の語学体験は、公文式の英語のときだったと記憶する.単なるCDプレーヤーから流れる英文を聞いて、適切な回答を記述するトレーニングを要請された.

 小学二年生か三年生だったか.「あぁ、今日も洒落臭えなぁ」と思って課題をこなしていたところ、全身を駆け巡る極彩色の電撃が一閃.次の英文を書いた.

The hill is high.

私は英文から並々ならぬ霊感を受けた.

「今、自分は文章を作ったぞ」

という猛烈な興奮.当時の自分にとっては第二文型などどうでもよかった.傍から見れば、「いつもぼーっとしている〇〇くんがなんだかニヤニヤしているな、大丈夫かな」くらいだ.しかし、私は独自に創造という営為を成し遂げた、ホモ・サピエンスを自称するに等しいくらいの感動と自負に満ちていた(後にホモ・サピエンスは撤回した).

 この感興は忘れがたい.私に「自分史」というものがあれば間違いなく、世紀の大事件だった.そこから私は狂ったようにCDプレーヤーを再生した.そして聞きすぎて幾つものプレーヤーを破壊した.

 中学一年生の頃にはちょうど、「生き残った魔法使いの少年」が大人気になりつつあるころだった.私は「賢者の石」を一晩で読み終えたが、生ビール中ジョッキ一つでは足りないおっさんのように物足りなかった.実に見事な翻訳だった.どうやら本国では次回作「秘密の部屋」が出ているらしい.私はウズウズした.

「そうか、原著を読めばよい」

 早速あの手この手で入手し、「Philosopher’s Stone」を読み始めた.一頁目から苦戦した.当時の自分には知らない語だらけだった.文法もよくわからない.一文、一文を辞書を引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引いて、引きまくった.辞書とは今でも良き友人だ.中学校では朝の十五分間に読書の時間があった.辞書と本を持ち込んで、辞書を引く作業を続けた.辞書を使い倒す習慣が始まったのはこの頃からだろう.現在辞書はほぼ電子化した.Macintoshのパソコンを使っている方は、「辞書」のアプリケーションをぜひ利用していただきたい.大変優れた名脇役だ.私がブログを書く時はこれが欠かせない.中国語、韓国語、ドイツ語、フランス語、スウェーデン語、ノルウェー語、イタリア語、ポルトガル語、アラビア語……類語辞典も一部あるのが良い.

 話を戻そう.第七巻の最終章にたどり着いたときは魂が震えたものだ.その時には大学生になっていたと思う.そこまで時間がかかったのは他にも本を読み始めたからだ.幼児のころに絵本で読んだ「ガリバー旅行記」がとてもとても面白く、原書で読んでみようか、と思い書店で買って読んだときの打ちのめされた感覚も忘れがたい.知っている方ならわかるが、初版が1726年だ.読めなくはないが、古めかしく知らない単語がこれまた並ぶ.私はスラスラ読んで、ガリバーとともにリリパット王国にたどり着き、彼が巨人として火事の宮殿に小便をかける場面を読みたいと思っていたのに、なかなかリリパットにたどり着かなかった.「ガリバー旅行記」は途中で諦めてしまった.受験勉強も差し迫ってきたという事情もあった.Johnathan Swift(ジョナサン・スウィフト)の作品に込めた真意を知るに私は青すぎた.

自分に合う参考書を選ぼう

 やはり、私にとって天啓であり革命とも言える出会いは原仙作の「英文標準問題精講」に尽きる.間違いなくRevelationでありRevolutionだった.今でもズタボロの雑巾のように大事に取っておいている.時々見返してはニヤニヤするし、英文を書く時の参考にする.ヘミングウェイ、ラッセル、エリオット、ウルフ、チャーチル、アインシュタイン、ニュートン、フィッツジェラルド、ミルン、オールビー、ミルトン.

 皆、私の心強い協力者である.故人だが.

 この本が私を受験勉強の苦しみから助けてくれたといっても良い.とはいえこの本は圧倒的に手強い.一般的な日本の大学入試のレベルを超えるだろう.だが、TOEICやTOEFLのひどくつまらない英文を読まされるよりは、はるかに気休めになる.「私が」文を読んでいる、という気にさせる.なんとか理解してみせようぞ、という気概をもたせてくれた.そして文の構造がつかめたときの心地よさといったら.当時の先達が「覚えるくらい何周もしろ」というので私も少なくとも三週はしたはずだ.一周目でつまづいた文章にまた出くわすと、まるで著者たちが「おかえり」と言っている気がしたものだ.

 私はTOEICのような共通試験のスコアで競り合うような議論は好きではない.私もTOEICやTOEFLは何度か受けたが、できればもう受けたくない.就職、入学の足がかりとして用意されるその試験は性質上、「ビジネス」に即した内容が多い.広告、新聞、メール、インタビューなどが題材になっている.どれも架空の内容で全体的に虚無感じるのは私だけか.「試験とはそういうもんだ、おとなしく口を閉じてろ、馬鹿者め」というお叱りがあるかもしれぬ.だがつまらない文をつまらないといって何が悪いのか.作成者の顔が見えない、というのがどうも気に入らない.「はいはい、委託されたのでとりあえず作っておきましたよ」というやっつけ感を感じてしまう.

 それに比べ、英文標準問題精講は、裏表紙に引用元の著者の写真が並んでいる(モノクロのせいか、遺影の様にも見えてしまう).誰某が書いている、とわかるのはとても良い.もちろん出典もある.だから後でさらに読みたくなった時に書店に行けば良いのだ.それに彼らが心血を注いだであろう、文章に見られる技巧、散文へのエネルギーが感じられる.それから編集者である原仙作・中原道喜の訳と解説に安定感がある.

 私にとって、名文や名著とそうでないものの違いを厳格に述べることは出来ない.だから上記の意見は誤解かもしれない.しかし、TOEICなどの勉強は問題の解き方を覚えるだけのような、手段が目的となってしまう危険に陥りやすいと思う.TOEICの先にある目的があれば、努力するに越したことはないだろう.楽しくやれたらいい.もし書き手の顔、意思を感じられるような時事の話題に触れたいのであれば、英字新聞をおすすめする.私は現在、Japan Timesの電子版を購読するようにしている.六ヶ月間の月額百円キャンペーンをやっている.よかったらどうぞ.もちろん利益相反はない.

文法について

 非専門家である私から、英文法について述べられることを挙げるとすれば、一つは、「文型」を意識して読むことだ.これはかなり重要な要素で、おろそかにしている人が多い.もう一つは「これは口語的だとか、文語だからあまり使わない方が良い」という意識を持ちすぎないことだと思う.この軛のせいで損をしている人は多いように思う.文語で書いて何が悪い.会話も文語を基礎にして何がいけないと言うのか.「表現が固いじゃん」固くて何がいけないのか.「もっとCasualな表現あるからそっちのほうがいいよ」という指摘は、表現の幅を自ら狭めているCasualtyに過ぎないと思う.それからまともな文法書を買うことが大切だ.私はロイヤル英文法を持っているが、単色刷りのシンプルな構成と大きな字、索引の充実は好感が持てる.一冊あれば一生使える.これで二度と買わなくて良いのだ.作文や文法について参考書を紹介するならば、さきほどの中原道喜や佐々木高政を挙げる.

聞くことについて

 聞こえた文章を書き取る訓練が最も良いように思う.これは筆記の練習にもなる.かつて私はディクテーションの鬼となったことがあった.「The Phantom of the Opera:オペラ座の怪人」という映像作品がある.小説や劇でも有名だ.Andrew Lloyd Webber という作曲家が映画に向けて書いた曲(どれも壮大だ)があり、私は当時、高校生の頃、自宅にオペラを響かせて歌詞を聞き取り、自作で歌詞カードを作ったことがあった.何百回か、延々とオペラが鳴り響いていたので頭がおかしくなりかけたが、語と語の連結を推測したり、発音と抑揚、文章の構造を考える上で良い訓練になった.オペラの歌詞を聞き取るだけで難易度が高いので、後々流行りのポップスやロック・ミュージックを聴いて歌詞を書き出しては、後日公開されている歌詞と照合する、という遊びをやっていた.高校生にしてはそこそこ狂っていた(やっぱりおかしくなっていたじゃないか!)方だが、自分は楽しんでいたと思う.この訓練は多言語でも応用が効く.今度はアラビア語でやってみようか.

話すことについて

 話すことは不肖あまり自信がない.発音と抑揚の付け方は幾分か指南できると思う.ただし私は非専門家だから、最も信頼におけない人材であることを断った上で話をする.発音に関して、海外で暮らしていないと発音が上手にならないのではないか、そう思っている人が多すぎて気の毒である.そんなことはない.小林克也という反例がいる.彼は大変きれいな英語を話すラジオDJで、彼は実に堂々と、崩れた英語を話す海外の連中と会話を成立させる.あっぱれである.彼の流暢さは抑揚の置き方にある.山下達郎もきれいな英語を話すと思う.Ride on Time〜

 また、RとLの違いにこだわりすぎる人が多い.聞き取れるに越したことはないが、初学者には酷だ.そういう人はイギリス英語を身に着けたら良いのではないか.Rの発音があまり気にならなくなる.それに子音をしっかり発音するので、文字と発音が一致して、きれいに聞こえる.私は中学生くらいに気づいてそうすることにした.かつてユース・ホステルの相部屋にいた英国人の青年と話をしたときに「君はいいイギリス英語を話すね」とお世辞を言われたのは良い思い出だった.あれは世辞だ.自慢話はこれくらいにしよう.

 先天的なバイリンガル、すなわち幼少期に外国に滞在したという、外国語のOSをインストールできた人々は外国語を話す時に脳内言語設定が切り替わるようだが、私はそうはいかない.だが、切り替わらなくたって良いじゃないか.言語体系の異なる我々が頑張って、別の言語を覚えようとしているのだ、文法がわかるだけでも素晴らしいと自信に思ったほうがいい.私だったら頭の中でおちおち英作文をする.ゆっくり丁寧に考えたら良い.

まとめ

 大した話はできなかったが、自分の主張は伝えられたのでこれでよしとする.結局は「学問に王道はなし」、ということになる.しかしながら原仙作によれば捷径はある.だから嘆かないでほしい.楽しく突き抜けるのがいいと思う.自分にとって親和性の良い題材を選ぶことが良いだろう.

 最後にミルトンの詩を紹介して締めよう.これは以前の亀吾郎語学教室でも引用した.語学を勉強する時はいつもこれを意識する.我々は地獄から這い出ようとする魔王サタンと同じだ.

Long is the way

And hard, that out of Hell leads up to Light.

Gates of adamant,

Barring us out, prohibit all ingress.

–John Milton, Paradise Lost

私の小論にお付き合いくださりありがとうございました.

بشرة حير/Boshret Kheir/Good Tiding

 こんにちは.久しぶりの三郎こと、さぶちゃんです.今日は楽しい楽しいアラブ・ポップをお届けします.歌手はエジプトの(多分)大御所、Hussain Al Jassmi | حسين الجسمي|フサイン・アルジャスミーです.さぶちゃんは、日本人からすると癖の強いアラブ・ポップスの中からリズミカルで耳に残る軽妙な楽曲を発掘しました!

 エジプト版「アジアの純真」に少し似ているかな.Billy Joelの「We didn’t start Fire」っぽいかも.いろんな地名が出てきます.全エジプトの友愛をよびかける曲なので、政治色があるのかな、と勘ぐる諸兄もいるかもしれませんが、「We are the World」みたいなもんでしょ.語頭や語尾で音韻を踏んでいて気持ちがいいです.

 物足りなくなってきた人がいれば、Remix版もYouTubeにあります!やったぜ.

 最期にさぶちゃんの和訳を載っけておきました.よかったらどうぞ.

VERSE 1

This is an easy task, and you can do it

To the world you will speak out

And take an oath to make it better

You have been quiet too long

VERSE 1

Di farkit k’aab wahatmilha

Qaṣad aldunya hatquliha

Wuḥad buqaa ‘ahad tadilha

Siktiti ktir

VERSE 1

دي فركة كعب وهتملها

قصاد الدنيا هتقولها

وخد بقى عهد تعد لها

سكتت كتير

What did Egypt gain from your silence

Do not belittle your voice

Tomorrow, you will write it under your own stipulation

This is a good tiding

Khadit ayh miṣru biskutak

Matustakhsrsh fiha Ṣotak

Bitaktab bikarih bishuruṭak

Di boshret kheir

خدت ايه مصو بسكوتك

ماتستخسرش فيها صوتك

بتكتب بكره بشروطك

دي بشرة خير

CHORUS

Go call out for the ‘Saīdi’,

and your nephew from ‘Port Saīd’,

and the youth from ‘Alexandria’

for this is a gathering of men

CHORUS

Qawm nadi ‘a alsa’aidi

Wabn akhuk alburas’aidi

Walshabab alaskandraniu

allamuh di limat rijal

CHORUS

قوم نادي ع الصعيدي

وابن اخوك البورسعيدي

والشباب الاسكندراني

المه دي لمة رخال

And I will come with those from ‘Sohag’ and ‘Qina’, ‘Sinai’

those from ‘Al Mahalla’ who are the best of best

and the beautiful ‘Nubians’

No need to double check on the people from Suez

Everything is now jumbled together

And the people from ‘Al Ismailiyyah’ who have been through alot

Talk to me about the people from ‘Sharqiyya’

and together we are stronger

and together we are stronger

And Our hope is high

Wana haji m’a alswhaji

Walmhlawy ally myah myah

Walnubh aljumal

Matuṣysh alsaw aysh

Aldnya hayiṣuh kdh kdh

Walahasma’alawyh yamana kaduu al’ada

Klmny’a alsharaquh

wakhna waya b’aḍaqwaa

wa’amlna kabir

وانا هاجي مع السوهاجي

والمحلاوي اللي ميه ميه

والنوبه الجمال

ماتوصيش السوايسه

الدنيا هايصه كده كده

والاسماعلاويه ياما كادوا العدا

كلمني ع الشراقوه

واحناويا بعض اقوى

وآملنا كبير

VERSE 2

This is an easy task, and you can do it

To the world you will speak out

And take an oath to make it better

You have been quiet too long

VERSE 2

Di farkit k’aab wahatmilha

Qaṣad aldunya hatquliha

Wuḥad buqaa ‘ahad tadilha

Siktiti ktir

VERSE 2

دي فركة كعب وهتملها

قصاد الدنيا هتقولها

وخد بقى عهد تعد لها

سكتت كتير

The people from ‘Beheira’, ‘Menoufiya’, or “Damietta’

Those people are closer to me than my friends

‘Halayb’ are all family and friends

go call out for them

Buhayri manawafi aw dimyatiun

Dual aqrbly min akhwati

Halayb ahl waqarayib

Nadiluhum rh

بحيري منو في أو دمياطي

دول اقربلي من اخواتي

حلايب أهل وقرايب

ناديلهم رح

And the thing that stands out most

Is for us to see our beloved ones from ‘Giza’

Oh greetings with a thousand paces

towards the people of ‘Maturuh!

*Back to CHORUS

Waiktara hajah fiha miaza

Nashuf habaybana fi alijiza

Ya murhab alf khuṭuh ‘aziza

Banas maṭuruh

*Back to CHORUS

واكتر حاجه فيها ميزة

نشوف حبايبنا في الجيزة

يا مر حب ألف خطوه عزيزة

بناس مطروح

*Back to CHORUS

簡単なことさ、君ならできる

世界に向けて 声に出せ

もっとうまくやるって誓うのさ

君はずいぶん静かだったじゃないか

それでエジプトが何を得たっていうのさ

小さな声ではだめだ

明日、君は契約を結ぶ

絆(بشرة حير)のことさ

「サイーディ」たちのために声を出そう

「ポート・サイード」にいる甥にもね

「アレクサンドリア」の若者も

これは人々の集いなんだ

僕は「ソハグ」と「キーナ」、「シナイ」のみんなと一緒に行くよ

「アル・マハラ」の奴らは最高さ

「ヌバ」の美しい人も一緒だよ

「スエズ」のみんなはひと目でわかる

ごったがえしてきたな

苦労人の「アル・イスマリーヤ」のみんな

僕に「シャルキーヤ」の人たちのことを聞かせてよ

みんなで強くなるんだ

みんなで強くなるんだ

志を高く持って

簡単なことさ、君ならできる

世界に向けて 声に出せ

もっとうまくやるって誓うのさ

君はずいぶん静かだったじゃないか

「ビハイラ」「メヌフィヤ」「ダミエッタ」のみんな

一番の仲良しかもね

「ハライブ」は僕らの家族で友人だ

声を出そう

大事なことは「ギザ」の最愛の人に会いに行くことだ

幾千の足取りが

「マトゥルフ」に向かって出迎えに行くようだ!

和訳:三郎

.شكر

妄想の問題

はじめに

 安永浩によるファントム空間論の序論を追っている.これで六回目だ.だというのに、まだファントム空間の話をしていないのはどういうことだ!と怒られるかもしれないが、どうか辛抱強く待っていただきたい.なぜなら、我々は安永のいう「パターン:実存的二元論」を理解せずにファントム空間を理解することはできないからだ.これは安永の親切心である.はじめて見るかたはぜひ、始めから見ていただきたい.

 今回は、妄想について扱ってみる.その前に自我障害の章があるのだが、それはまた別の論考で取り扱うことにしたい.かくいう私も早くファントム空間論を扱いたいのだ.

 妄想とはなにか

 これをうまく説明することは難しい.説明できたとしても、Bertrand Russel(バートランド・ラッセル)が1+1=2の証明に膨大な紙面を費やしたのと同じように、大変な注釈をつける必要がある.いくら目の前の真摯な読者でも、それは苦行でしかない.だがなんとかしてこの記事においてだけでも定義しておきたい.妄想を誤解していただきたくないからである.

 世間でよく知られたものとして、「訂正不能な言辞」「了解不能な言葉」「誤った確信」などがあるだろうと思う.これらはいかにもそれらしいが、幾分の弱点がある.

 日本精神病理学会(私、吾郎も学会員であるが利益相反はない)の「精神科用語シソーラス」から引用するのが最も簡潔であるように思うので、ありがたく引用させていただこう.リンクフリーである.

 妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない観念ないし信念であり,明らかな反証があっても確信は保持される。妄想と真の信念と区別は,患者が主観的に行いうるものではなく,外部の観察者によって行われる。すなわち,その内容が非蓋然的であることに対する患者の判断が誤っている場合,その確信は妄想とされる。この誤った判断は必然的にその体験に対する病識欠如を生じる。

針間博彦

 コペルニクス的転回が起こる前の世界の人々の多くは天動説を信憑していたが、Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)は科学的観察に基づいて地動説を主張した.よく知られているように彼は妄言を言っているとして異端扱いされた.彼の主張は妄想だったのだろうか.現代の我々からすれば、彼の主張は妄想では無い.だが、当時の人々からすればどうか.彼の思想は教育的、文化的、社会的背景には一致しなかっただろう.明らかな反証かどうかはともかく、宗教的に強力な反論があっても彼は確信しつづけた(それでも地球は動いている).私は現世のクサガメなので、彼らの立場から「妄想だ」というわけにはいかない.妄想というのは、時勢によって、立場によって、解釈が異なる可能性がある.そのことを念頭に入れて論考を追いかけていただきたい.

妄想とは患者の教育的,文化的,社会的背景に一致しない誤った揺るぎない確信である.

 賛否はあれど、概括的理解ならばこれで良いだろう.では安永はどのように考察をするか.彼は妄想について、我々がどのようにして「意味づけ」をするか.これが重要であるとしている.ほほ〜

 「意味づけ」の重要な点は、「自分はこの事態をこう予測し、それ故こうこうすべきである」という「行動の要請」に関わる局面であるとする.この局面は生命体にとって大変な意義を持つ.というのは、我々が体験の各瞬間に出会うものを「何かの兆候」とみなしているからである.人間だって「雨が降っているから傘をさそう」「曇ってきたから洗濯物を取り込もう」「パトカーが近くにいるからおとなしく走ろう」「遅刻してはいけないから早めに家を出よう」「赤信号だから止まろう」と判断する.それらは「放置すればより危険な、由々しき現実となるであろう事態を、未然に感知しうる、そして行動によって回避しうる」ということであり、この「予感」がないと、生物はあらゆる偶然の危険、環境変化に対応することは出来ない.クサガメだって、脅威があれば首を引っ込めて守りに徹するし、食餌と掃除をしてくれる掃除夫が近づけば、喜んで近づく(なんて賢いんだろうか!).

 ここには体験における「時間」というものが必要になってくると安永はいう.しかしもう少し丁寧にいえば、「現在の意識がこういう構造をとることが、『未来』という時間性をつくる」という方が正しい、と安永はいう.ここで私は木村敏の言葉を思い出す.

 時間とは自己存在の意味方向である

 私達は何かを絶えず予想する.増大する「危険」を感じれば、何らかの行動によって回避する、安全ならばほおっておく.逆にエネルギーがあまれば、ただそれを放散するための手がかりとしてのみ、予感される(湖畔のほとりでキャンプをするとしよう.火をおこし、飯盒炊爨を待っている間、手持ち無沙汰なので丸くて平な小石を探す.それを水平に投擲する.小石を投げるものとして意味づけする).

 これまでの話を「パターン」に応用するとどうなるか.「意味づけ」の方向性A→Bは常に「現在」に立って、「未来」を望む方向にある.原因があるから、結果がある.「原因」の主体性、先行性は自明だ.そして、とある現象を「結果」とみなし、あるいは「過去」にさかのぼって「過去」に生きることもできる.「ここに結果があったのであれば、原因があったに違いない」と、後方視するのは「論理的必然性:logical necessity」である.

「右下腹部を主とする圧痛が生じている、腹部超音波検査で虫垂に相当する位置で輝度が高い.これは腹部臓器の炎症が急激に生じたに違いない;虫垂炎かもしれない」

「夏季の猛暑にとある独居住宅からご遺体が発見された.角膜は白濁し、透見できない;死体現象が生じ、24時間ほど前に死亡したのだろう」

といった具合で、医学において論理的必然性は極めて重要である.だが、こうしたロジックは、原因→結果が前提にあるからこそ、その上で、結果→原因を想定することができる.さきほどの例も、「虫垂炎や付属器疾患かもしれないから、右下腹部に疼痛が生じている」、という論理が先行しているし、経験的に「夏季に、人が亡くなり24時間経過すると角膜が白濁する」ことが知られているから「条件的必然性:contingency」が成立するのだ.

 では統合失調症において「パターン」が逆転するとどうなるのか.我々は彼らの体験を直接追体験できないから、限られた知性によって想像することが必要となる.さしあたり、「原因」が従属し、「結果」が主体となる.つまりは「過去」が支配者で、「未来」が従属する.なんてこったい.ここで安永はK. Schneiderの例をあげる.

 「犬が一方の前脚を高くあげた……これは明らかに天の啓示に違いない……」

 う〜ん、これわかんねぇな状態である.ここで重要なのは、「そうはならんやろ」と切り捨てるのではなく、「どうしてこうなった」と考えることが大切だ.この意味づけは「結果」→「原因」という逆転であった.安永の考察では、このベクトルは絶えずさかのぼって原刺激に向かう流れだという.ここでは犬が前脚をあげたことに相当する.「犬が前脚をあげた」という現象を説明しうるが故にのみ重大である、という形になる.難しいね.安永は、患者は一つの知覚事態に対して、「それには必然の理由が存在しなければならない」という方向を第一義として常に意味づけするように見える、という.私達が前脚をひょいとあげる犬を見て「どうしたんだろう」と未来志向の考えを働かせるのに対して、統合失調症においては「前脚をあげちゃった、大変なことになった!もう取り返しがつかない!」という過去志向の考えを取る、ということになるのだろう.だが、なんとかしてそれを取り繕う(この表現が適当かは私自身疑問だが)ために、啓示や運命、といった予定調和的な言葉遣いになるのだと思われる.そうせざるを得ないのである.よって、このB→Aの体験は「ふと;plötzlich」生じる.予期できない性質をもつ.あとで安永は「不意打ち」という表現を使う.

 彼らは未来形の助動詞使用を封印されているようなものだ.「……でないかもしれない」という疑いはできず、「……に違いない」となる.まるで推理小説に出てくる早合点の刑事のようである.「わかりました!犯人はあいつに違いありません!」

 が、感情的先入観のある正常人とはやはり性質が違う.彼らは結論を先に出して、それから推理をするようにみえる.これは継時的行為である.彼らの論は誤っていようとロジカルである.それ原因→結果のベクトルが正常だからである.ただ考えが浅いだけだ.統合失調症の人々にとってそれは起こり得ない.過去が未来を従属しているので「もう間に合わない」のだ.

 「もう間に合わない」からこそ、「夫が別の女と寝てしまった;夫婦妄想」、「妻とそっくりの偽物にすり替わってしまった;カプグラ症候群」が生じる.「世界が破滅してしまったような感じがする;世界没落体験」、「私のからだはどろどろに溶けて死んでしまった;コタール症候群」といった取り返しのつかない体験を述べるのであろう.

 自己関係づけ

 統合失調症に置いて、かなり普遍的にみられる現象として、「自己関係づけ;Eigenbeziehung」がある.これは「注察妄想」、「あいつが私のことを見ている」といった陳述からも知られている.自意識過剰では無い.

 もともと我々は厳密には違うが「客観的な態度」をとることができる、というのは「主体」が十分に「客体」を統制しているからこそできる.そのことを経験的に我々は知っている.この主従関係が逆転すれば、「客体」が「主体」を支配する.すなわち「他人が自分を見る」、ということが自明である.しかもそこに「結果」→「原因」の逆転が起きているから、「なにかとりかえしのつかないことが自分におきてしまった」となるし、それは「自分に起因するのだ」と信憑せざるを得なくなる.これが外延すると、一切の外界の現象がすべて自分に基づいている、とまで意味づけられる.

 ここで、安永の話す妄想の論考は終わりになるのだが、私達にとって、特にHighly Sensitive Person/People; HSPの方々にとって重要だと思われる注釈があるので、言及しておきたい.以下の神経症という言葉は多義的で難しい用語だが、ひとまず不安障害、社交不安障害、対人恐怖症、視線恐怖症、広場恐怖症といった言葉に置き換えて貰えればと思う.HSPが疾患ではないことを十分理解した上で、置き換えて頂いてもよいと思う.

 (これまで述べた論考において)これらは神経症者にみられるような関係念慮とどんな対照にあるだろうか?

と安永は疑問を投げかける.関係念慮というのは、例えば

「電車の中で、さっき男の人が『チッ』と舌打ちをしたように思う.私のことを見て舌打ちしたのではないかしら」

「職場の上司が、私の方を見てわざと咳払いをした.私がこの前仕事でミスをしたことのあてつけではないか」

といったようなものである.もちろん架空の例である.彼らが他人のまなざしを感じるとしても、それは統合失調症におけるような絶対的所与では無い.正常の了解では他人の「自我」とは自分の「自我」を前提としてその中に含まれ理解されるような順序である.ちょっとややこしいがA,Bのパターンを使って表してみる.

「他人が自分を見ている」了解というのは自分の体験の了解にすぎない、というところがミソである.

A→(A’→B’)→B

→は条件的必然性:contingencyの方向、A’、B’は他者の、A、Bは自分の「パターン」である.自己から発する他人の了解、他人の目を通じて自己了解、と還帰する.流れは正常だ.ただ過剰なのである.強い感情の発露、過剰に「予期」することにより始まり、悩み、悪化する.これは森田正馬でいう「生の欲望」でもある.死の恐怖、病気を恐れる強い力動には、健康でありたい、元気でいたい、しっかり振る舞いたいと努めようとする「生への欲動」が根底にある.

 私は恥ずかしながら森田療法で知られる森田正馬をよく知っていない.しかし彼の説く、「ありのままに生きる」というモットーは多くの人を勇気づけ、共感を与えるものだと思っている.しかし社会がそれを許さない構造になっているようにも思う.完璧主義を求める労働体系、社会規範.緊張感が漂う.公私の分別が曖昧となり自我境界も見えなくなってしまっているようにさえ感じる.A→Bの関係において、Bが力を増しているような社会である.AとBが近接しつつあり、我々はAを強めようと感情を、予期能力を、不安を強めるのだと思う.「繊細さん」は持ち前の素晴らしい才能があるにも関わらずそうした危機に瀕している.この時勢における新型コロナウィルス感染症の大流行が、少しずつ旧態依然であった社会のあり方を見直す機運となっているように感じていることは私だけではないと思う.コロナ禍が収束することを願う気持ちは私も皆さんと同じだが、この混乱を運ぶ災厄が、世界に変革をもたらすトリックスターであらんことをひそかに祈っている.