「記憶/物語」を読んで 6

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Politique de la Mémoire

「記憶のポリティクス」という題はあまりぴんとこない.ポリティクスという言葉はPoliticsのことだろうから、あえて訳すると「政治学」になるのか.では「記憶の政治学」とはなんのことだろうか.これまで、筆者は記憶の暴力性、小説の成り立ち、映像作品におけるリアリズムの欲望について様々な疑問を投げかけてきた.そして私はそれらに対して自分の考えを併記し、彼女の意見に賛同することが多いものの部分的に考えを異にすることもあった.これまでの論を以下にまとめる.

 小説という作品形式は近代ヨーロッパによって成立したものであり、近代社会の要請が小説にナショナリズムといった「ナショナルな経験」「ナショナルな欲望」を接近させることとなった、と岡はいう.そして小説はフィクションである.フィクションであるが故に<現実>における不条理を描き出すこともあれば、リアリズムの表現の代表として映画を筆者は挙げ、<現実>へ近づこうとリアルさを求める「リアリズムの欲望」がかえって<言外の出来事>や<現実>を否認してしまうという危うさを示した.特に、それら作品においてヒューマニズムに代表される「共約可能な普遍的感覚;正義、使命、仁義など」が現れる時、それは私達人間の「不条理な出来事の否認」の裏返しであり、制作に携わる人々の「ナショナルな欲望」が浮かび上がってくるという.

 どうも彼女は「ナショナル」というカタカナ表現にこだわる.なぜNationalの訳語を当てないのかは明らかではない.全国的、国家の、国民の、という形容詞が当てはまりそうだがそれらを用いることはない.理由あってのことだろうが推測の域を出ない.私の見解を示すならば彼女の言わんとする「ナショナル」は「国家(国民)総体(全体)の」、という訳では、型にはまりすぎたのだろう.あえて意味合いをぼかし、言葉からこぼれる余剰部分を掬い上げたかったのかもしれない.私としては少しでも言及して欲しいと思った次第である.

 さて、彼女は、上記を「物語りたいという欲望が、ナショナルな経験、ナショナルな欲望と共犯的に生起する」という表現で示し、その例を邦画に見てみるとする.

 彼女は是枝裕和氏による作品「ワンダフルライフ(英:After Life)1998年」を例に、記憶を他者に語るという行為を考察する.私はこの作品も知らず、観たことがない.そういう人のために著者は作品のあらすじを教えてくれる.

 映画では死者はある建物に集まる.死後の世界がある前提で、彼らはその手前の世界にいるようだ.そこの職員は彼らに面接を行う.

「貴方の一番大切な思い出を一つだけ選んでください」と問い、生前最も幸福であったときの思い出を選ばせる.そしてその時の場面を再現した映画をスタッフが撮る.登場人物は皆死者という設定である.面接員、映像スタッフ皆理由があって、建物にとどまっている.

 特筆すべきは数名を除いて皆職業俳優でない一般人を採用しているという.さらに簡単な状況説明のみが演じ手に与えられるのみでセリフもみなアドリブだ.徹底してごく普通の人々の日常の記憶にこだわることで、ナショナルな欲望とあからさまに結託した作品に対抗しようとする監督の意図もあったに違いない、と彼女は珍しく言い切る.書かれたセリフと演技はアドリブのセリフは前者がどんなに「自然な演技」であろうと、後者の「リアルさ」と全く違うという.

彼女は後者の演じ方を不安、無防備、頼りなさげといった表現で説明する.最も大切な記憶を他者に語るということはどのようなことなのか、彼女にとっては印象的だったようだ.人が記憶を語る、自分にとってかけがえのない出来事の記憶を他者に語ることが、こんなにも人から理解されたいと切実に思い、語りをこんなにも頼りなく不安にしているのだと.

 私は上記の映画を知らないが似たような試みについて、自分はすぐに思いつく.皆さんはどうだろうか.私にとってそれはスタジオジブリの映画作品である.宮崎駿は映画の重要な登場人物に声優と全く縁がなかった人々を起用することで知られている.少し例を挙げると、「風立ちぬ(英:The Wind Rises)2013年」の主人公、堀越二郎の声には庵野秀明を当てているが、彼は勿論声優ではなく撮る側の同業者である.「耳をすませば(英:Whisper of the Heart)1995年」の月島雫の父親には立花隆を当てているし、「となりのトトロ(英:My Neighbor Totoro)1988年」のサツキ、メイの父親は糸井重里が声優を務めている.

 聞く人によって印象は異なるが、私の感想はみなボソボソと声がこもっていて、なんだか話が苦手そうな人なのだろうな、である.だが、世の中の公職に就く男性で口が立つ人は放送業界や芸能界、演劇界、観光業界など限られた人だろう.私の家族は皆スピーチがかなり下手である.堀越二郎は設計士、雫の父親は図書館勤務、サツキとメイの父親は学者である.皆それぞれ大事な家族がいて、その口調は素朴で温かみがある.

 雫の父親が小説家を目指す娘に向かって「自分のやりたいことは思い切りやってごらんなさい」というセリフは明らかなぎこちなさが滲んでいるのであるが、それが良い.声優業とは違う畑の人を起用した恩恵が重要なシーンで効果的に活かされていると思う.

 プロの声優は自分の声、口調、抑揚に職業人としての自負と経験がある.勿論それ故、大変尊い人材であることは言わずもがなであるが、だからこそ「不安」や「逡巡」、「迷い」がないのだ.したがって筆者は確信に満ちた自然さが、人が出来事の記憶を他者と分有すべくその記憶を語る際に、決して持ち得ないと主張する.俳優の語りには自分の語りが受け止められないかもしれないという不安ゆえの、他者への呼びかけの声が決定的に欠けている、という.そうは言っても俳優、声優を皆素人にするわけにもいかない.彼女の主張は凡そ理解できるものではある.映像作品に出てくる俳優が引っ張りだこだと他の作品でも大役をはるが、私にとっては「この人・この声また出てきたなぁ」であり、「よくもまあこんなくさいセリフを言えたものだ」と冷めた目で見てしまう(それが良いのかもしれないが).

 先程の「ワンダフル・ライフ」の大きな筋は、戦争のために無意味に死んだ青年が、他者との関係性において自らの生の意味を捉え直し、生を肯定する物語であるそうだ.これは、無意味な死それ自体に意味を充填し、ナショナルな物語の中に包摂することで、無意味な死という出来事それ自体を否認するような欺瞞、あるいはナショナルな欲望を否定したところに成立しているように見える、と彼女はいう.そして、この映画は本当にナショナルな欲望と無縁なのだろうか、と続ける.ん?

 自己の生を肯定するということに対して作品は暖かいまなざしを向けている.他者との関係性において自分の生を肯定することと、無意味な死のその無意味さを否認するがために、そこに意味を充填することは、同じではない.同じではないが、しかし、今、この国に生起している事態は、ナショナルな自己肯定の欲望に貫かれているものであると思う.そのとき、自己の生を肯定することの大切さを説くことは、こうしたナショナルな自己肯定の欲望と親和性を発揮することにはならないのだろうか.その危険はないのだろうか.

 この本が初めて出されたのは2000年である(世紀末である).よって「今、この国に生起している事態」とは今から二十年前の事態である.幸いにして北斗の拳のような荒廃した世界ではない.筆者のいうナショナルな自己肯定の欲望とは一体なんのことだろう.彼女によれば、ここ数年の日本社会のを見れば、ナショナルな欲望に基づいた記憶の横領、物語の横領という事態がさかんに起きている、のだそうだ.具体的には何を指すのだろうか.

 一つ、文脈から明らかであるのは著書に度々言及される「従軍慰安婦」問題であろうか.手強いテーマで緊張するが簡単に触れておくことにする.この問題は1991年に金学順(キム・ハクスン)が自ら慰安婦にされたことを名乗り出たことが発端の先駆けであるように思う.当時は首相の訪韓目前であり、政府は官房長官談話を発表、首脳会談での謝罪が行われた.1993年の河野談話は政府側の公式調査結果を公表、軍の関与を認め、以来政府の公式見解となっている.この経緯を踏まえて学校教科書に慰安婦に関する記述が出現し、問題は大きく注目された.

 一方で1992年に秦郁彦の済州島調査によって「強制連行」が事実でないとされた.藤岡信勝らによる自由主義史観研究会というグループが「自虐史観」的教科書記述を挙げて「慰安婦問題」に反撃した.そのような経緯もあって上記問題についての教科書的記述は減少したようだ.歴史再認識的動きと対する動きの論争は続いている.1995年の首相談話発表、アジア女性基金の設立といった動きはあったが個人補償を否定したものであり、対象の一部は受け取りを拒否したのであった.

 それからは政権の改編を経て、問題は鍋の底についた黒焦げのようになり現在に至ることは皆さんもご存知であろう.料理で鍋を焦がすと、焦げ付きを落とすのは大変だ.ごしごし擦ると鍋は傷つくし、放おっておくと美しくない.とはいっても気になってしまう.断っておくが、私は特定の政治的立場に立って主張をするものでもなければ、委託をされたわけでもない.なるべく中立的な自発的な考えに基づいて記している.そうそう、私は一介のクサガメに過ぎない.こういった話は高橋哲哉「歴史/修正主義」に詳しい.

 もし従軍慰安婦は強制されたものではなかったと仮定すると、従軍したのは、兵士の慰みとなったのは自身の意思で、ということになるだろう.自国は併合され、創氏改名、皇民化政策を行った国に対して、そもそも好意的な感情を朝鮮の人々は持つことができるだろうか.

 この同化政策は二十世紀初頭の国政の自然な風潮だったのだ、西欧列強も同じように植民地主義のもとで占領支配をしたではないか.我が国は教育施設やインフラを整えたのだぞ.西欧の勢力に対抗するには致し方なかったのだ.という反論は予想されるが、それは国のメンツとしてであり、いわゆるナショナルな欲望、ということだろう.それは理由にならないように思う.安易に同列に語ることは危険だろう.

 本当に強制しなかったと言うには、無理があるのではないか.妙齢の女性らが、占領政策を敷く見知らぬ男性に貞操を捧げるのか.言語による疎通がままならない相手との性交渉に強制力がなかったといえるのだろうか.確かに自ら生計を立てるために身体を売ることをした女性はいるかもしれぬ.反対する人は、官兵の強制ではなく、貧困のために自ら業者を通じて身体を売ったのだ、というやもしれぬ.貧困なら仕方ないとでもいうのか.それは朝鮮人仲介者が悪いという論にしたい意図が見えてしまう.未来をまだ見ぬ伴侶と結ばれることを願う女性らが、占領兵との性交渉を進んで承諾するだろうか.

 また、淋菌、クラミジア、梅毒、その他ウイルス感染症のリスクを承知で性交渉する選択せざるを得ないのは人間の尊厳と生計を天秤にかけ、悩み抜いたあらゆる選択肢のうち最後ではないのか.甘言、虚言による巧みな誘い、脅迫は広義の強制力ではないだろうか.私の考えていることはおかしいだろうか.

 筆者が言いたい記憶の横領、物語の横領というのは具体的に語られない.あくまで類推になるが、著書の第三章、「物語の陥穽」が手がかりになるだろう.否定論者や修正主義者、その他の意見に対する強力な対抗手段は、私が思いつく限り、出来事の生き証人を召喚し、実際に彼らの前で語ってもらうことだ.それは筆者も似たことを考えている.だが、それは拷問の論理であると彼女は述べる.これは深く考えなくてもわかることだが、次回に触れることにしたい.「ワンダフル・ライフ」がナショナルな欲望と無縁なのかどうかについても.

いつも読んでくださりありがとうございます.

投稿者: 吾郎

2019年12月11日に事務所創設.法律以外の様々な問題を取り扱います.Office est. 11/12/19. Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities and sometimes roofless vehicles.