「記憶/物語」を読んで 4

スピルバーグの「リアル」

 三章は物語の陥穽という題である.陥穽とは落とし穴のようなものだ.今度は映画作品を批評することで、<出来事>の分有可能性を探ってゆく.スティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)の「Saving Private Ryan: 1998」はよく知られた戦争映画であろう.第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において行方不明となったライアン一等兵を探すため、米軍上層部からミラー大尉は特別部隊を編成するよう司令を受ける.ライアンは上に三人兄弟がいたが全員ヨーロッパ戦線で死亡したという.もしライアン兄弟が全員死んでしまい、それが報道されれば本土の合衆国民に厭戦気分が広がるであろうと軍部は判断した、という事情になっている.決してライアンの母親を慮ってはいない.戦争継続のためである.

 軍部の立場であれば、巨視的な視線で検討をするのだろう.国民、メディア、同盟国、政府などそれぞれとの関係性を鑑みて戦争を進めることはおおよそ予想はつく.どうやらSole Survivor Policyという、国防総省の指令に基づくものらしい.この作品はフィクションだが、史実ではとある五兄弟の全員戦死により、世論の注目を集め上記規定が作られた.また、別の四兄弟の一人を除いて全員死亡したことが、作品の基となっているようである.

 さて、映画はノルマンディー上陸作戦「Operation Neptune」の舞台、オマハ・ビーチから始まる.多数の兵士を乗せた上陸用舟艇が浜辺に集結、連合軍の総力をかけてドイツに攻め込む作戦であった.舟艇が着岸した瞬間に敵に狙撃されて死ぬ者、砲弾で木っ端微塵になる者、四肢のいずれかが吹き飛ぶか、腹部外傷で腸管が脱出する者、敵味方問わずおぞましい光景が延々と続く.迫真の戦闘描写である.どうやら映像史に残る20分らしい.つまらない表現で恐縮だが、見事、圧巻である.銃声、装備、兵器は可能な限り本物を使用しているようであるから、好事家も涎を垂らす設定であろう.「リアリティ」にこだわり抜いた作品として名高いはずだ.

 だが「記憶/物語」の著者、岡真理はこうした世間の評価に対して率直な疑問をぶつける.これは「リアル」なのか、と.我々(のほとんど)は実際に従軍していないのに、実戦経験も無いのになぜ「リアリティ」を感じるのかと.「リアルさ」に関する疑義である.何を言うんだ、設定も装備も本物に限りなく忠実なんだぞ、映像も従軍カメラマンの目線で撮っているし、時代考証もばっちりだ.これこそ「リアル」じゃないか.これ以上なにを望むんだと反論があるかもしれない.反論に対する彼女の意見は後述する.

 筆者は同監督の作品、「Jurassic Park: 1993」にも「リアルさ」に対する指摘を行う.コンピュータ・グラフィックスで再現した恐竜の動きは「リアル」だと評価を得て、大ヒットとなり続編などが作られ、テーマパークの一要素にもなっている.恐竜、特にティラノサウルスに対する我々の認知は「トカゲのようなツヤツヤの肌で、獰猛な肉食生物」ということになったと思う.図鑑や映画で観る恐竜のイラストは皆勇ましくて、学童の頃の私を虜にした.だが、研究が進むにつれて、「実は羽毛があったのではないか、もっとずんぐりした体躯だったのでは」という仮説も浮上、それをもとにした予想図を見ると、なんだか出来損ないの七面鳥のようで、かっこよさはあまり感じられなくなってしまった.とは言えどフサフサの恐竜も私は好きである.

 (ドラえもんとその一味を除いて)誰も恐竜を見たことがないのに、「リアル」だ、という感想は前述の戦争映画に対する感想と同じ水準であると、筆者は言う.もちろん製作者らは当時の科学的な考察に基づいた再現をしたはずである.彼女はそれを非難するのではない.リアルさを追求することによって監督は何を目指していたのだろうか、監督は現実を再現することは可能であると信じていたのではないかと考えるのである.彼の作る映像作品によって.

 もし、スピルバーグ監督が実際にオマハ・ビーチの作戦を経験していたら、彼は「Saving Private Ryan」を同じリアリティで描くだろうか、と彼女は怜悧な指摘をする.「そりゃそういう作品だもの、同じリアリティで作るでしょ」と意見があるかもしれない.ではもし恐竜を見たことがあったと仮定するならばどうだろうか.映画に映る恐竜が想像の産物であることは自明である.だが、フェイクに対して「リアル」だということは、参照されるべき<本物>の存在を想起させることで、「リアル」ではないことを逆説的に語ってしまうと筆者はいう.所詮はよくできた偽物扱いになってしまうという考えである.リアルという言葉を彼女は「限りなく真実味のあるもの」という文脈で、本物や真実と使い分けていると思う.「リアル」は直線に限りなく接近する漸近線に過ぎない.「Saving Private Ryan」に使用される兵装、銃声、爆風、そして吹き飛ぶ腕.どれも「リアル」だがそれ以上ではない.作品には「Adieu」のような時間・空間の断絶、回帰する暴力性は見当たらない.銃、爆弾など見てわかる暴力である.彼にはリアリズムの欲望が貫かれているという.だが説明できない出来事、抑圧された記憶は登場しない.同監督の1993年の作品、「Schindler’s List」に対しても彼女は次のような意見を述べる.

 ホロコーストという<出来事>の体験が、リアルに再現できるような出来事として再現されてしまっているという事実、まさにリアルに再現するという当の行為により、再現されたもののリアルさの距離を測定することができる、参照することができるような出来事としてホロコーストがありうるかのように語ってしまっている

 「リアリティの追求によって現実を再現することは可能である」という監督の信条が真ならば、「現実の再現が可能ではないのは、リアリティの追求がないからだ」、という対偶の命題も真のはずである.しかし、「フラッシュ・バック」現象を思い起こしていただきたい.暴力的な出来事は、リアリティの追求とは無縁に瞬時に回帰するのではなかったか.または、CPUの高度な演算性能やグラフィックボードの描画性能の向上を備えた現代のコンピュータ・ゲーム市場は今や、流麗な三次元空間を展開し、物理現象を再現したコンテンツで溢れている.人物の動き、表情はモーションキャプチャで録画されたものを仮想空間に生き生きと作り出す.リアリティが追求されている結果、「Call of Duty」シリーズ、「Battlefield」シリーズといった軍事系一人称視点シューティングゲームは、精細な描画と生々しい動きの登場人物らによって、第二次大戦の戦場や冷戦における代理戦争の場面を再構成し、刺激的な娯楽にしてしまった.今や売れ筋コンテンツとして圧倒的である.建前上年齢制限があるので、お父さんお母さんの名義で購入し、こっそり遊んでいるキッズもいるかもしれない.

 いやいや、ゲームでしょ、なに熱くなってんだよと思うかもしれないが、映画もゲームも同じ水準では無いのか.いずれもリアリズムの欲望が貫徹しているが、我々はそれらがフィクションであることを知っているではないか.「Call of Duty」シリーズは様々な人物が操作可能なキャラクターとして登場するが、私の知る限り残忍な兵士はおらず、拷問や暴行、私刑を行うことはない.あくまで任務に忠実な兵士であり、国防や解放といった大義に基づいて作戦を実行する(オンラインプレイを除く).確かにリアリズムは追求されているが、殺人を正当化する大義が与えられている影に、虐殺、暴行といった<出来事>はまるで見えないもののように感じられる.否認なのだろうか.だが、これは誰の否認なのかはわからない.配給会社(Electronic Arts)か.プロデューサーなのだろうか.脚本家なのか(シリーズ七作品が発売されているが脚本家は一致していない).とはいってもテレビゲームという娯楽が戦争を取り扱えないのではないかという懸念があるかもしれないので私なりの擁護をしたい.戦争というテーマを取り扱ったゲーム作品において、私が秀逸だと思うのは、小島秀夫氏による「メタルギア」シリーズである.彼のプロットは複雑だが、独自のユーモアと見え透いたフィクション性が登場人物を浮き彫りにするのだろうと思う. 

 以上から私は岡の指摘をようやく理解する.彼女の主張は基本的に背理である.一見妥当だと思われる命題が逆説的な意味を含むということを彼女は繰り返していると考える.まどろっこしいようだが、これは筆者の思索過程の開示であり、難しいテーマと対峙するその姿勢は稀有なものであろう.妥当だと思われる命題を盲信することで我々が嵌ってしまう陥穽を気づかせてくれるのかもしれない.

 リアリズムの欲望とは、言葉で説明できない<出来事>、それゆえ再現不能な<現実>、<出来事>の余剰、「他者」の存在の否認と結びついている.

いつも読んでくださってありがとうございます. 

「記憶/物語」を読んで 3

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小説の成り立ち、バルザックの「リアル」

 第二章で彼女は「小説」成立の歴史的経緯を概説し、H. Balzacの小説、「Adieu」を例に出来事の暴力性を紹介する.

 まず、小説は近代ヨーロッパにおいて発展した文学形式である、と章が始まる.そうなのか、と私は考えもしなかった事実に不意を突かれた.まず、物語という従来の語りの形式は、共同体の一つの小さな世界で、共同体に帰属する者たちにとって共有されるのと対照的に、小説は、一つのテクストが、地域や共同体を超えて、言語も超えて様々に異なった異質な読者を相手にする点で違うと指摘する.

  試しにOxford Dictionary of Englishを参照すると、物語(narrative)は’a spoken or written account of connected eventsとあり、小説(novel)はa fictitious prose narrative of book length, typically representing character and action with some degree of realism.と記されている.また語源については以下のようである.確かに近代成立以降の概念であることがわかる.

mid 16th century: from Italian novella(storia) ‘new (story)’. The word is also found from late Middle English until 18th century in the sense ‘a novelty, a piece of news’, from Old French novelle.

 小説が物語と異なる理由に、小説の隆盛の要因となった近代の時代背景を彼女は挙げる.一つは近現代の歴史が植民地主義の歴史でもあり、小説が原語のまま、母語を他にする者たちによって読まれる状況が生じたこと、さらに彼らが母語以外の言語で小説を書くという事態が起きたことである.そして製紙技術や印刷技術の科学が不可欠であったし、製本するための資源も要する.書物を輸送させる物流システムの構築も考えねばなるまい.小さなコミュニティを超えて、母語を異にする者たちに作品が読まれるためには、統一言語の存在が必要であり、統一された言語を理解する読者が欠かせなくなる.国家や国語という近代社会において要請された画一的言語、画一的集団が小説を支えたのであると考える.小説は統一された言語を近代社会に要請する一方で、近代社会は、小説が構築する虚構世界に国家を形成するための俯瞰視点を見出したとも指摘する.この指摘は興味深く、俯瞰視点という用語は彼女によって次の章でさらに深堀りされるのであるが、小説が国家と密接な関係にあることを先に読者に喚起する.

 小説は近代ヨーロッパにおいて発展した文学形式である、と筆者は先に述べた.ではヨーロッパ以外はどうなのか、ということについて現代アラブ文学を専門とする彼女の観点が光る.パレスチナ系アメリカ人文学者エドワード・サイード(Edward Said(إدوارد سعيد))の名を挙げ、小説がその性格からして虚構の空間に世界を構築するものだとし、イスラーム教徒にとって被創造物たる人間が、唯一神の創造物とは別の創造を行うことは、イスラームから外れた行い、ビドゥア(بدعة)であるという意見を提示している.小説家が世界を構築するとき、それは自然と創造者の俯瞰視点になる.この考えであれば私達は作品創造という営為のうちに、あるいは国家形成によって不遜にも神に挑み続けていたようである.厳格な一神教ならではの面白い考えである.だが、調べればすぐに現代のアラブ文学は次々と出現していることはわかる.現代では、神の視座に関するウラマーの見解と、「小説」の体裁に類似した文学作品の意義をイスラームの人々はどのように折衷しているのだろうか.

 さて、彼女は西欧に対抗する意見として中東の文人を用いて「超越者の視点」に関する説明を試みているが、我が国における小説の形成も一応参照しておこう.

 加藤周一の「日本文学史序説」によると、近代ヨーロッパで呼ぶ所の世俗的日常的な現実描写を骨子とする物語を「近代小説」とすれば、十世紀の日本宮廷社会では既に「近代小説」に比肩する小説的世界が成立していたという.それは「落窪物語」である.「落窪物語」は継母の継子いじめの話である.一家族をめぐる日常的な事件の詳細、登場人物のそれぞれ異なる性格、人物の相互の心理的関係、非日常的な出来事や超自然的な力を介入させない点で「近代小説」に呼応する.だが、当時は彼らは小説という言葉を用いたわけでもなく、小説形式を成すための文学理論は存在しなかった.明治時代に小説は近代ヨーロッパの変遷を踏襲した坪内逍遥の「小説神髄」(1885-1886)が発表されて初めて、我が国の小説家が誕生したという定説が多い.田山花袋から正宗白鳥に至る「自然主義派」が出現してから様々な派閥が興隆することになる.明治維新の黎明期に青年であった文人らの特徴にも触れられている.彼らは西洋文化との広汎で組織的な、伝統的な教養の深さ、およびの社会の全体に対する関心が指摘されている.特に、文化的伝統の対象化である. 

 ヨーロッパとの接触は、個人的な水準においてそれが深く徹底的であるほど、日本の文化的遺産に対する当事者の自覚を促す.西洋人の偏見に対する反発、あるいは日本の伝統文化を評価する外国人への反応が起こり得る.それは「ナショナリズム」であり、または彼らの日本への評価が普遍的な評価基準に基づくのであれば、それを認めなければならない.日本の立場を擁護する必要もある.岡倉天心はその代表と言って良い.彼はだから英文で「東洋の理想」(1903)と「茶の本」(1906)を書いたのである.鈴木大拙も彼に似る.二人は日本文化を意識的に対象化し、普遍的な為し方で分析と叙述を試みた.しかし普遍的な言語は英語だけではない.森鴎外は西洋言語の散文の正確さと推論の秩序に学び、緻密な日本語の文体を確立している.以後、永井荷風、木下杢太郎、石川淳、中野重治へ続く.夏目漱石は小説の一形式を完成させ、西田幾多郎は独自の文体で哲学的思索をまとめたのであった.彼らの文学的貢献によって統一言語での記述がなされ、また明治政府は近代国家の成立を果たした.小説が要請する条件を満たしたのである.

 国家黎明期においてキリスト教の輸入は十九世紀後半の知識人に影響をもたらしたが、殊に北米系のプロテスタンティズムのキリスト教であり、その教会であった.彼らが近づいたのは宗教性というよりもキリスト教を通じた西洋の言語、思想、文学であったようだ.国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥、岩野泡鳴など「自然主義」小説家らは皆成人前に洗礼を受けたが、五年以内に棄教する潔さがあった.キリスト教の説く、超越的絶対者との関係において定義される正義と、キリストによる原罪の救済という観念は彼らには響かなかった.キリスト教は独立人格の自己同定に根拠を与えるものとして機能したに過ぎない.信仰の棄却に関する精神的痕跡は彼らの文学に見られないと加藤は指摘する(加藤は全部読んだのか……??).

 以上を考えると、日本の近現代文学形成において西洋の接近が重要な要因であることがわかる.ナショナリズムの萌芽を促し、普遍的価値の叙述への道をひらいた.キリスト教への関心は宗教的側面ではなく、あくまで彼らのアイデンティティ形成の手段であり、文学への窓口として利用したということになる.自己実現のために作品創造を行ったとすれば、そこに神の視点という言葉はふさわしくないように思われる.神の衰退かどうかはともかく、とりあえずはメタフィクション的(以下メタ的)な視点ということになるのかもしれない.これは濫喩である.

 だがメタ的な視点が神の視点でないとすれば誰の目線なのだろうか.作者かというとそうとは限らない.筆者は非人称の語り手、という言葉を用いるが、それ以上明示されない.

 兎にも角にも、小説が国家と密接な関係があることを理解した.国家には社会の変革によって国民が巻き込まれる事態、例えば「戦争」や破壊的な出来事のように、不可避な場合がある.逃れられない不条理が個々人に刻みつけるトラウマ(外傷)は、時制を壊し、過去として馴致不能な現在の暴力として回帰する.そうした語ることも水に流すことのできない<出来事>を、小説は時代の要請のもと、身に引き受けたのではないかと筆者は推察する.私達は小説という装置に語りを委ねることを期待したのではないか、それが不可能であるかはわからないが、人々は分有の可能性に賭けたのだと.

 筆者はH. Balzacの小説、「Adieu」を例に挙げる.私は読んだことがないのだが、筆者のあらすじ紹介で概略はつかむことができた.ナポレオン戦争を題材に1830年に書かれたこの作品は、彼女が繰り返し述べてきた、現実の<出来事>の叙述不可能な部分を虚構世界の小説に仮託することで、語り得ない余剰部分を浮かばせるという企てを示しているのではないかという.

 作品に登場するF大佐は、「Adieu」としか言わない狂女に偶然出会った.しばらくしてその女性はかつての恋人Sであったとわかる.過去にSは戦争に従軍するF大佐を追って、ロシアまで赴いた.だが、フランスの敗退によってロシア軍に包囲され大佐は逃げおおせたものの、Sは敵軍の慰み者となってしまったのだ.F大佐が知る恋人としての彼女の最後の言葉は「Adieu」(お別れね)であった.2年もの間蹂躙された彼女は正気を失っていた.大佐はなんとかかつてのSを取り戻そうと奔走するが医療は期待できない.彼がとった最後の手段は、なんと当時の情景を完全に再構成し、記憶を取り戻すことであった.場所、季節、衣服、舞台装置すべて揃えて.

 Sの記憶は、F大佐の壮大なエゴイズムによる、かつての情景を見ることで回帰した.しかし、「Adieu」と元恋人のFに告げるや否や事切れてしまった.Sを失ったFは取り残され、まもなく彼は死を選んだ.Sが亡くなった理由や自殺した理由の類推はいくらでもできるかもしれない.しかし、作品に示されるのは彼らの死だけである.この明文化されない空隙が、読者を容赦なく突き放す.見事に当惑させる.理不尽さや不条理という言葉は浮かぶが、そんな陳腐な言葉では言い尽くせないだろう.

 Sにとって自身を獣以下に貶める転機となった舞台を再び目にすることは、超絶怒涛の暴力である.彼女が思い出したのではなく、まさしく時制を壊された出来事が現実に回帰した好例であろう.なんて酷いことをF大佐はしたのだろう、と思うかもしれない.彼はただSをどうしても取り戻したかったのだ.取り戻すことでSを救済したいと願うFのナルシスティックな心理と、眼前の狂女がSであることを認知したくない彼の否認を知ると、これ以上の言及について私は言葉をよく選ばなければならないと思う.

 この作品はフィクションである.特にF大佐が、記憶を取り戻すために現場の再構成を仕掛けるあたりは小説のなせる業だろう.だが、Sが「Adieu」しか言わないこと、彼女がそれ以上語らないがために、我々はFとSの時間・空間的断絶を感じ、その断絶の中に戦争が刻んだ傷を観取することができるのだろう.

ここまで読んでくださり、ありがとうございます.

 

「記憶/物語」を読んで 2

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 出来事の暴力性、人の無力さ

 小論は前回の投稿の続きになります.未読の方はこちらからご覧ください.

 彼女の論説は二部構成であり、第一部は「記憶の表象と物語の限界」を題する.各部は複数の章からなる.一章は、記憶が「私」という主体が思い出すという能動的作用として表現され、過去の出来事を随時取り出しては参照する記録装置のような心象をもつが、時として記憶は、或いは記憶に媒介された出来事が、「私」の意思とは無関係に瞬時に飛来してくる性質を述べる.この突然の到来に対して「私」は徹底的に無力で、受動的で、制御不能なものとして、自身に襲いかかってくるものでもあるという.この場合、出来事は記憶の中で生々しい現在を生きている.記憶の回帰は根源的な暴力性を秘めているとする.

 その根源的な暴力性の例として、筆者はフラッシュ・バックという現象を挙げる.これは記憶に媒介された暴力的な出来事が想起され、現在の時制において生起する状態である.その瞬間、あのとき感じた自身の感情・感覚が投げ出され、暴力性にさらされる.どんなに忘れたくても.覚醒剤の後遺症として、心的外傷の傷跡として、自閉症スペクトラムの人々にとっても、瞬時の回帰は容赦ない.

 思い出してしまう、回帰する記憶の暴力性の被害者として、日本軍の「慰安婦」とされた女性の体験について岡は述べる.女性らはかつて自分らが被った一連の暴力的な出来事を記憶の回帰とともに、現在形で追体験しているのではないか、と筆者は考察する.もし仮に、明示的な言葉で語ることので出来事が確定するのであれば、我々はすべてを言葉で語らないとならない.すなわち、語れないことは存在しないということになる.だが、先程の「慰安婦」であった女性らは確かに無慈悲な出来事を再体験する苦痛を耐えている事象に反してしまう.筆者は言葉の非万能性に気づく.何かを語ろうとするときに、それが根源的な体験であればあるほど、言語の徹底的な不自由さを感じるのであると.特に自分でも説明し難い体験を、既成の言語で片付けてしまうとき、その居心地の悪さを感じるのではないかと.なんだかしっくりこない感じ、である.両手に掬った砂が隙間からこぼれ落ちてゆくように、語られなかった余剰部分が沢山あるのではないか、と筆者は考える.この筆者の主張に私は強く同意する.

 語られなかった出来事の余剰部分、言葉では切り取ることができなかった余剰部分、出来事の切れ端、という表現を筆者は用いる.時間の経過とともに、これらの多くは忘れ去られ、言葉で語られることのみが出来事となるのではないかと考えるようになる.そして、出来事が言語化されるとき、それは過去形で示される.人が出来事を「過去」について馴致する(実に見事な言い回しだと思う)とき、すなわち人が出来事を過去のものとして飼いならすのではないかと考察する.

 筆者は「出来事が言語化されるとき、それはつねに過去形で表現される」としている.彼女の揚げ足をとる意図は毛頭ないことを断った上で、敢えて出来事を時制変化を用いずに表現することは、特に我が国の文学的物語(narrative)の特徴として、多いに知られているものである.日本語について述べれば、そもそも日本語の文法は現在、過去、未来を鋭く区別しない.

 心のうちに祈念して、目を見ひらいひたれば、風も少し吹よはり、扇も射よげにぞなったりける.与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ.

 上記は「平家物語」において、那須与一が沖の波間に揺れる小舟に差し出した扇を海岸から射落とす場面である.過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法ははるか以前から知られている.矢を放つ主人公の動作のみが現在形である.神仏への祈念と風の静まりから決定的行動へ移る描写の現在形は際立ち、その一瞬の光景を浮かび上がらせる.これは決して暴力的というわけにはいかないだろうが、一気に読み手、聞き手を引き込むという点で、強力な誘導である.強制力を持つわけである.

 一方、近代ヨーロッパ語の場合は、動詞の語尾変化や助動詞と動詞の併用により、出来事の過去・現在・未来を、文法的に明示する.その中でも厳格な文法から一定の緩みを見ることができる.以下の例文を示す.

Alors, une idée l’exaspéra. C’était une saleté que ces dames voulaient lui faire en se conduisant mal chez elle. Oh! Elle voyait clair! …

Émile Zola, Vuillaume, 1876

 その時、一つの考えが頭をよぎって彼女は激しく苛立った.このご婦人方は、彼女の家で無作法に振る舞って、嫌がらせをしたんだ.ああ、はっきりわかるわ.

Dora stopped listening because a dreadful thought had struck her. She ought to give up her seat. She rejected the thought, but it came back. There was no doubt about it. 

Iris Murdoch, The Bell, 1958

 ドーラは恐ろしい考えが急に頭に浮かんできて、会話に耳を傾けるのをやめた.私が席をゆずるのが当然だわ.ドーラはその考えを打ち消したが、再び考えは戻ってきた.譲らなければならない.

 上記はいずれも登場人物の意識にのぼった考えを描出した文である.仏文では自由間接話法(Discours Indirect Libre/Style Indirect Libre)とよび、英文では描出話法(Represented Speech)ともいう.こうした技法を意識の流れ手法(Stream of Consciousness Technique)と呼ぶようである.このような技法は伝達動詞の支配から自由になる話法であるが、時制は必ず間接話法と同様に照応を求められる.時制は自由にはならず、時制が日本語のように読者を現在へ引き込むのではない.読者・聴者の意識が、あたかも作中の登場人物の意識であるかのように、過去へ誘うのであろう.強い言い方をすれば過去へ引きずり込むのだろう.

 おそらく著者が「出来事が言語化されるとき、それはつねに過去形で表現される」と言ったのは、日本語の緩い時間的性質を理解しつつも、印欧語における時制が人を従属させる強制力を念頭においてであろう.それは彼女が別の章でH. Balzacの作品を紹介していることと無縁ではないだろう.

 余談であるがアフロ・アジア語族の一つ、アラビア語について言えば.私の調べた限り直接話法、間接話法は存在するようだ.しかし時制の一致は必須ではないという.文学作品において印欧語のような描出話法があるのかは私の知識不足で伝えることはできない.また、オーストロネシア語族のいくつかは、そもそも時制が存在せず、今日、明日といった語を添えて時間における所在を示すようである.各言語の文法的詳細に触れることは本旨から外れるのでこれ以上触れないでおく.ただ、言語によって、語り手と聞き手の間の引力の度合いが異なるのかもしれない.

 これまで述べた表現はあくまで文学上の技巧であり、作者ないし語り手が主体となり、主体が出来事を従えている場合と考える.主体は(文法上の制約の限り)、<出来事>を自在に扱えるように見えるが、やはり、言語が<現実>に対して本質的にはらみもつズレ(齟齬)のために、馴致、従属は不完全であると彼女は述べる.

 さらに、人と出来事の関係において、出来事が回帰する時の、人の徹底的無力さと出来事の圧倒的制圧力を考えれば、人が出来事を語るのではなく、出来事がそれ自身を人に語らしむと言えるのではないかと考察する.この点についても私は全く同感である.私が想起し、知覚した事物を表現しようとする時、それは言語のみに頼らなければならないが、心に残ったその心象をすべて表現しようとするには、言葉では到底太刀打ちできない.遠足や旅行から帰ってきた小学生くらいのこどもが、「みんなで◯◯に行ったんだ.とても楽しかったよ」と月並みな感想を述べたとしても大人がそれを聞いて嬉しく思うのは、彼らが言外に漂わせる幸福の余剰を、無意識に感じるからであろう.私達は知らずして出来事の雄弁さを知っているのである.しかし、その余韻を私達が正確に観取することはできないのは自明である.幸福な記憶は勿論、絶滅収容所にいたユダヤ人や、「慰安婦」とされた女性らが体験した出来事の際立った暴力性は、それが半世紀以上経ってもなお、現在の暴力として回帰する、そのような性質にあるという点にある.出来事と私達の生の時間は一致せず、回帰する出来事は時制が破壊されているという.故にその暴力性の深みを我々が観取することは難しい.だが、それが仮に我々が現在、生起している出来事であるとしたら、私達は語ることができるだろうか.暴力を受けている間、呻き声や声なき嗚咽以外、何を語れるのだろうかと、彼女は問う.そして次のように問題を提起する.

 暴力的な出来事の、それについては語ることができないという点にこそ、その出来事の暴力性の核心が存在するような、そのような<出来事>について、私たちは、いかにしたらその<出来事>の記憶を分有することができるのだろうか.

 ここまで読んでくださりありがとうございます.筆者の問いに対して私なりに考えを落とし込めたらよいなと思っています.もう少し続けていきたいと思っています.

 

 

「記憶/物語」を読んで 1

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 出来事、歴史、記憶と物語、これらを理解すること、語り継ぐこと

 私が中学生の頃、夏休みを直前にした暑い日の体育館で全校集会があった.それは「太平洋戦争」に関する講演会で、1945年6月の沖縄戦を生き延びた女学生であった方が当時の<記憶>を語るという、思えば貴重な機会であった.私は何となく近代史に興味が湧いてきた年頃なのか、沖縄戦について、生き証人自らの当時の話を聴くということにかなり期待していた.そういう生徒が他にいたかどうかはわからないがきっと少なかったのではないかと思う.というのも、暑い体育館で一時間超も知らないおばあさんの昔話を聴くと思えば、聞くに堪えないだろう.寝ていた人はいた.だが私は彼らを非難するつもりは無い.私は自分の好奇心を満足する目的で傾聴したのであり、凄惨な地上戦の酷さに多いに共感したものの、ただ好奇を満たす方が優先されたのだと思う.よって私は特殊な例かもしれないが、講演会の本来の趣旨に沿わない一生徒であったことを認め、批判する立場に無い.むしろ戦争の証言に無関心でいる方が、沖縄から遠く離れたとある公立中学校の生徒としては、多数派であったかもしれない.平穏な日常を享受する平成の生徒が夏休みを心待ちにする状況と、半世紀以上前に同じ少年少女だった彼らが、同じ夏、塹壕の中、無慈悲な玉砕指令により手榴弾を手渡されるという、諦観と絶望する状況との乖離が凄まじすぎるのだろうか.

 ただ、過去にこのような惨劇があったことは皆記憶するべきであり、知る機会を公共の場を通じて与えられるべきだと私は考えている.だがその機会をいつ設けるかは難しい課題なのかもしれない.個人的には義務教育の期間に行うのが適当のように思う.時が経つに連れ、時代の生き証人は次第に天寿を全うしてゆくから、証言を依頼することは、もし承諾が得られたとしても本当に希少になってくる.今年で戦後75年である.

 なぜ、あの戦争が起きたのか.この問いに対して丁寧に回答できる人は少ないのではないか.なぜ、戦争を繰り返してはいけないのか.これも合理性を以て説明できる人は限られているように思う.日本では6月、8月になると、あの戦争を二度と繰り返さないように、と戒めの言葉が報道される.毎年慰霊の集会が行われ、追悼の式典が伝えられる.追悼は喪の作業である.戦争に巻き込まれた人の死を悼む、普遍的な癒やしのプロセスである(英霊を参拝する、とはニュアンスが異なる).これらを報道するのは別に良い.伝えるべきは「主に6月23日、8月6日、9日、15日に人々が祈る行為が示す、小さな声の「物語」に耳をすますこと」では無いのか.なぜ、国民総動員で戦争を駆り立てる不条理な<出来事>が行われたのか、私はこどものときからずっと疑問に感じていた.一応の論理と通史は理解したが社会の授業ではそれ以上のことはよくわからなかった.期待していたわけではなかったが、夜7時のニュースも教えてくれなかった.ニュースはいつも事実らしいことを淡々と伝えるだけである.

 「戦争をしてはいけません、戦争を繰り返さないようにしましょう」、わかったわかった、だからなぜいけないのかを教えてくれ.「悲惨だからです」それはそうだが、知りたいことはそうでは無い.こどもの頃のわたしはそう思っていた.それは大人の常識だからなのか.常識だから伝えないのかと.後に私は夜9時のNHKスペシャルや、「映像の世紀」という他国合作ドキュメンタリーを観ることで映画から暗に示される、戦争のおびただしい狂気から初めてそれを否定する理由を感じることができた.また、この<出来事>が実に深く入り組んでいる事態を知る.私は開戦に到る事由を語る難しさを知る.そして私は一連の<記憶>が次第に露と消えてゆき、物語の継承が上手く紡がれていないのではないかと考えた.

 さらに少し歳を重ねて、渡英したとき、現地のテレビで9月2日に見た朝のニュースは、戦勝国の立場としての「Victory over Japan day」を伝えるものであり、私は急速に寒気に近い、英国で居心地の悪さを感じた.「私はかつて敵対した国に今いて、私の国に勝利したことを未だに祝っているのか」と.私自身が直に触れた戦争の影はそれが初めてであったのかもしれない.私の曽祖父が満州に従軍したこと、祖父が尋常小学校で「畏き辺り」に対する不敬をを罰せられそうになった逸話、別の祖父が海軍航空隊を志願したが海軍兵学校の試験に不合格であったような話を耳にする程度であった.世代が進むにつれて、語られる話は信憑性が薄く、内容が短く、あっと驚くようなオチか、「何処其処に行った」という記録のみになってゆく.実の家族の記憶さえも風化してゆくのだ.

 私は日本近現代史を専門とする加藤陽子氏をはじめ様々な人々の書物で、上記の問いを理解しようと試みた.確かに氏のある著書は私の抱いていた疑問と同じ問いかけをしている.高校生と同じ目線に立って、或いは「自分が戦時中の官吏の立場だとしたら」という条件仮定に基づいて論考を進めている.かなり久しく時間が経ってしまったのでどんな内容か詳細に述べることはできない.だが、歴史的事象をなるべく当事者と同じ等身大の目線で捉え、どのように重大な局面での意思決定を為したかが推し量れる興味深い著作であった.

 書籍を読み進めていくうちに、極めて専門性の高い人物による、多数の文献と賛否両論の先行研究に基づいて記された著書に対して、(当然かもしれないが)真っ向と対立し、ときに辛辣な意見を述べる有形無形の存在が一定数いることに気づく.それは大きな声であり、決して無視できない勢力である.もちろん耳を傾けるべきではある.こうした声は南京大虐殺、従軍慰安婦といった負の<出来事>に関してもこだまする.そのようなことはなかったのだ、それは各々の任意で行われたのだ、もはや過ぎたことなのだ、と.歴史修正主義、記憶の風化、過去の清算.様々な用語が脳裏をよぎる.私達は「歴史」という一本の線を歩んできたと思えば、振り返ると二本、三本と沢山の線の軌跡があるように見える.一体私達はどの線を歩いてきたのだろうか、さきほどまで信憑していたはずの「物語」が疑わしくなってきてしまいそうになる.自尊心を煽り、過去から現在の自国の尊厳を保とうとする声、たどってきた線の正当性を高らかに述べる声が鳴り響く.それらはときに聞き心地が良く、魅惑的でもある.私は妖精の声に釣られて森林を逍遥する旅人か、セイレーンの声に誘われて航海する彷徨える船乗りか.

 急転直下の如く、突如何もかもがわからなくなってくる事態に陥った.私は歴史や物語、伝承を一体どのように理解したら良いのか.<出来事>を生きた証人の高齢化と減少、世代を経て薄れてゆく記憶、それに伴い枝分かれする物語.なぜ<出来事>が起きたのかを理解するには、物語の伝承を語り手の意思に忠実に行う方法についても考えなければならなくなる.忠実に行う方法があればの話だが.


 私は、岩波書店から出版されている「記憶/物語」(著者:岡真理)という論説を読んだ.(無論、妻の本である)この論考は2000年に書かれたもので、私が手に取っているその本は2014年に第14刷が発刊されたようだ.広く長く読まれている証左なのかと思う.110数頁の読み物で、じっくり考えながら読むには良い分量であった.私にとって上記のことを考える好機となった.

 彼女の考察は、レバノン郊外にある「タッル・ザアタル」(Tel al Zaatar(مذبحة تل الزعتر))、(香辛料の)タイムの繁れる丘と呼ばれる地域で、1976年8月12日にパレスチナ人虐殺が起きた<出来事>から始まる.その<出来事>を綴ったパレスチナ人作家であるリアーナ・バドル(Liana Badr(ليانة بدر))の小説「鏡の目」(The Eye of the Mirror)を読んで浮かんだ疑問を彼女は述べる.そして以下のような問題提起を行う.

 <出来事>の記憶を分有するとはいかにしたら可能だろうか.<出来事>の記憶が他者と分有されるためには、<出来事>は、まず語らねばなるまい.伝えられねばなるまい.<出来事>の記憶が、他者と、真に分有されうるような形で<出来事>の記憶を物語る、とはどういうことだろうか.そのような物語は果たして可能なのか.存在しうるのか.存在するとすれば、それはリアリズムの精度の問題なのだろうか.無数の問いが生起する.

 さまざまな<出来事>をめぐって、私たちが記憶の抗争のただなかにおかれている現在、<出来事>の記憶の分有の可能性について考えることには、クリティカルな意味がある.以下の小論で、これらの問題の一旦について考えてみたい.

 分有するという動詞は、一つのものを皆で分かち合って所有するという意味である.こうした彼女の問題提起は私にとって大いに刺激であり、解決ができるかどうかともかく、これら諸問題に対する考え方を見つめ直す絶好の機会と考えたのであった.

小論はもちろん続きます.読んでくださってありがとうございます.

The Book of Tea: 茶の本 <対訳>

Chapter IV The Tea Room

第四章  茶室

To European architects brought up to the traditions of stone and brick construction, our Japanese method of building with wood and bamboo seems scarcely worthy to be ranked as architecture. It is but quite recently that a competent student of Western architecture has recognised and paid tribute to the remarkable perfection of our great temples. Such being the case as regards our classic architecture, we could hardly expect the outsider to appreciate the subtle beauty of the tea-room, its principles of construction and decoration being entirely different from those of the West.

The tea-room (the Sukiya) does not pretend to be other than a mere cottage – a straw hut, as we call it. The original ideographs for Sukiya mean the Adobe of Fancy. Latterly the various tea-masters substituted various Chinese characters according to their conception of the tea-room, and the term Sukiya may signify the Adobe of Vacancy or the Adobe of the Unsymmetrical. It is an adobe of Fancy inasmuch as it is an ephemeral structure built to house a poetic impulse. It is an Adobe of the Vacancy inasmuch as it is devoid of an ornamentation except for what may be placed in it to satisfy some aesthetic need of the moment. It is an Adobe of the Unsymmetrical inasmuch as it is consecrated to the worship of the Imperfect, purposely leaving some thing unfinished for the play of the imagination to complete. The ideals of Teaism have since the sixteenth century influenced our architecture to such degree that the ordinary Japanese interior of the present day, on account of the extreme simplicity and chasteness of its scheme of decoration, appears to foreigners almost barren.

The first independent tea-room was the creation of Senno-Soyeki, commonly know by his later name of Rikiu, the greatest of all tea-masters, who, in the sixteenth century, under the patronage of Taiko Hideyoshi, instituted and brought to a high state of perfection the formalities of the Tea-Ceremony. The proportions of the tea-room had been previously determined by Jowo – a famous tea-master of the fifteenth century. The early tea-room consisted merely of a portion of the ordinary drawing-room partitioned off by screens for the purpose of the tea-gathering. The portion partitioned off was called the Kakoi(enclosure), a name still applied to those tea-rooms which are built into a house and are not independent constructions. The Sukiya consists of the tea-room proper, designed to accommodate not more than five persons, a number suggestive of the saying “more than the Graces and less than the Muses,” an anteroom (midsuya) where the tea utensils are washed and arranged before being brought in, a portico(machiai) in which the guests wait until they receive the summons to enter the tea-room is unimpressive in appearance. It is smaller than the smallest of Japanese houses, while the materials used in its construction are intended to give the suggestion of refined poverty. yet we must remember that all this is the result of profound artistic forethought , and that the details have been worked out with care perhaps even greater than that expended on the building of the richest palaces and temples. A good tea-room is more costly than an ordinary mansion, for the selection of its materials, as well as its workmanship, requires immense care and precision. Indeed, the carpenters employed by the tea-masters form a distinct and highly honoured class among artisans, their work being no less delicate than that of the makers of lacquer cabinets.

The tea-room is not only different from any production of Western architecture, but also contrasts strongly with the classical architecture of Japan itself. Our ancient noble edifices, whether secular or ecclesiastical, were not to be despised even as regards their mere size. The few that have been spared in the disastrous conflagrations of centuries are still capable of aweing us by the grandeur and richness of their decoration. Huge pillars of wood from two to three feet in diameter and from thirty to forty feet high, supported, by a complicated network under the weight of the tile-covered slanting roofs. The material and mode of construction, though weak against fire, proved itself strong against earthquakes and was well suited to the climatic conditions of the country. In the Golden Hall of Horiuji and the Pagoda of Yakushiji, we have noteworthy examples of the buildings have practically stood intact for nearly twelve centuries. The interior of the old temples and palaces was profusely decorated. In the Hoōdo temple at Uji, dating from the tenth century, we can still see the elaborate canopy and gilded baldachins, many-coloured and inlaid with mirrors and mother-of-pearl, as well as remains of the paintings and sculpture which formerly covered the walls. Later at Nikko and in the Nijo castle in Kyoto, we see structural beauty sacrificed to a wealth of ornamentation which in colour and exquisite detail equals the utmost gorgeousness of Arabian or Moorish effort.

 石と煉瓦を積み立てる伝統に育ってきたヨーロッパの建築家にとって、日本人の木と竹で家を建てる方法は全く建築に値しないと考えるであろう.しかしここ最近西洋建築の有能な学徒が我らの大寺院の素晴らしい完璧を認め、賛辞を送るようになった.我々の古典建築に関してもこの具合であるから、茶室の微妙な美しさ、その建築と装飾の原則が西洋のそれとは全くことなるものを外部が鑑賞できることを私達は全く期待し得ない.

 

 茶室(数寄屋)はただの小屋でありそれ以上望むものではない.いわゆる藁屋と呼ぶに過ぎない.元来の数寄屋の表意は「好き屋」である.最近では様々な茶の宗匠が茶室に対する自分の考えに応じて漢字を当てたので、数寄屋の意味は空き家か数寄屋になっている.詩的な衝動で建てられた儚い構造物であるからこそ「数寄屋」なのだ.その瞬間のある種唯美的必要を満たすために設けられたものを除いて、調度品を欠いているからこそ「空き家」なのである.故意に、あるものを完成への想像するため戯れに未完成にして、不完全を敬い聖別するからこそ数寄屋なのである.茶道の理念は十六世紀以来、我が国の建築に現在の日本の内装という点である程度影響を及ぼしたが、装飾構造の極度の簡素と貞淑のために、外国人にとってはほとんど荒廃したように見えるのである.

 初めて独立した茶室が生み出したのは千宗易、のちに千利休の名で知られた、最も偉大な茶の宗匠であり十六世紀に太閤秀吉の庇護下で茶の湯の形式を定めて完成させ、高みの領域に至らしめた.茶室の広さは以前に十五世紀の有名な宗匠紹鷗によって定められていた.初期の茶室は茶会のため屏風で仕切った普通の居間に過ぎなかった.仕切りの一部は「囲い」と呼ばれ、その名前は未だ、家の中に作られ、独立した建物でない茶室に使われている.数寄屋は、「グレース神の数より多く、ミューズ神の数よりも少ない」という諺の暗示する数、五人よりも少ない人数を歓待するために設計された茶室と、茶器を茶室に持ち込む前に洗って並べておく控えの間「水屋」と、客が茶室に招来されるまで待つ玄関「待合」と、茶室と待合をつなぐ庭の小道を「露地」からなる.茶室の見た目は印象的ではない.それは最も小さい日本の家屋よりも小さく、その建築に使われた材質は洗練された貧しさを暗示する意図が秘められている.すべてこのことは深い技芸的先見から出たものであり、その細部に仕上げられた配慮は、最も豪奢な御殿や寺院よりに払われたものよりも周到であることを記憶せねばなるまい.良い茶室は普通の邸宅よりも費用がかかっている.職人の手腕と同様に、材質の選択に途轍もない配慮と精密性が求められるからである.実際、茶人に雇われる大工は、職人の中で一目置かれ、名誉あるもので、その仕事は漆器職人のそれに劣らぬ、細心の手際を要するものである.

 茶室はあらゆる西洋建築と異なるだけでなく、日本の古典建築そのものと強烈な対照をなしている.我々の古代の気高い殿堂は、俗的であろうと宗教的であろうと、単なる大きさでさえも軽蔑しがたいものであった.世紀の大災害を免れたものごく少数は未だその装飾の豪華絢爛さで我らに畏敬の念を抱かせる力を持っている.直径二、三尺、高さ三十尺から四十尺の巨大な木の柱は傾斜した瓦屋根の重さのもと複雑な網状の斗栱によって支えられる.材質と建築の様式は火に弱いものの、地震に強いことを証明し国の気候条件に適していた.法隆寺の金堂と薬師寺の塔は、十二世紀近く無傷で実際に立っていることの顕著な例であろう.古刹と宮殿の内装は惜しみなく装飾されていた.宇治の鳳凰堂では十世紀から我々は精巧な玉座と金襴の天蓋、かつての壁画や精巧な彫像はもとより、多彩な色とはめ込まれた鏡、螺鈿細工を見ることができる.後の日光や京都の二条城のように、優美な細部と色彩において、我々はアラビア様式やムーア様式の豪華絢爛に等しい装飾の豊かさに構造上の美しさを犠牲にした例を見ることができる.

 ながらく時間が空いてしまいました.季節の変わり目で油断して少し体調を崩したのでした.涼しいどころか寒くなりましたね.鍋物が美味しくなる季節です.久しぶりの対訳です.