The Book of Tea: 茶の本 其の弐 ③

Chapter II 第二章

 こんにちは.第二章の続きです.ここで一度岡倉天心の和訳は中断して、また他の記事を書いていくつもりです.大体このような5−6段落の英文は、3-4時間くらいで和訳するのですが、この速度はどのくらいの水準なのでしょうね.この本、本当にお茶の勉強になりますよ!

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The tea-ideal of the Sungs differed from the Tangs even as their notion of life differed. They sought to actualise what their predecessors tried to symbolise. To the Neo-Confucian mind the cosmic law was not reflected in the phenomenal world, but the phenomenal world was the cosmic law itself. AEons were but moments – Nirvana always within grasp. The Taoist conception that immortality lay in the eternal change permeated all their modes of thought. It was the process, not the dead, which was interesting. It was the completing, not the completion, which was really vital. Man came thus at once face to face with nature. A new meaning grew into the art of life. The tea began to be not a potential pastime, but one of the methods of self-realisation. Wangyucheng eulogised tea as “flooding his soul like a direct appeal, that its delicate bitterness reminded him of the after-taste of a good counsel.” Sotumpa wrote of the strength of the immaculate purity in tea which defied corruption as a truly virtuous man. Among the Buddhists, the southern Zen sect, which incorporated so much of Taoist doctrines, formulated an elaborate ritual of tea. The monks gathered before the image of Bodhi Dharma and drank tea out of a single bowl with the profound formality of a holy sacrament. It was this Zen ritual which finally developed into the Tea-ceremony of Japan in the fifteenth century.

 宋の茶の理想は唐のそれと異なるように、彼らの人生観と相応死している.宋の人々は自分らの先祖が象徴化しようと試みたものを具現化しようとした.新儒教徒の精神にとって、宇宙の法則は現象世界において反映しているのでなく、現象世界が宇宙の法則そのものなのであった.永劫とは一瞬であり涅槃は常に掌中にあった.不死性が永遠の変化の中に存在するという道教徒の概念は宋人全員の思考様式に浸透した.興味深いのは過程であり、死ではない.真に重要なものであるのは、完成させることであって完成ではない.このようにして即座に人は自然と向き合ってきた.新しい意味が萌えて生の芸術へ育まれていった.茶は詩的な気晴らしではなく、自己実現の手段の一つとなっていった.王禹偁は茶を「直な魅力のように魂を満たし、その繊細な苦さは良い助言の後味を思い起こさせる」と賛辞した.蘇東坡(蘇軾)は、真に徳のある人物として腐敗を拒む茶の清浄無垢の力だと記した.仏教徒の間で、南方の禅の宗派は、道教の教義をかなり取り入れていて、凝った茶の儀式を定めた.僧侶たちは菩提達磨の像の前に集い、深淵な聖餐の儀礼的行為とともに一杯の茶を飲んだ.十五世紀の日本の茶の湯を最終的に発展させたのは禅宗の儀礼であったのだ.

Unfortunately the sudden outburst of the Mongol tribes in the thirteenth century which resulted in the devastation and conquest of China under the barbaric rule of the Yuen Emperors, destroyed all the fruits of Sung culture. The native dynasty of the Mings which attempted re-nationalisation in the middle of the fifteenth century was harassed by internal troubles, and China again fell under the alien rule of the Manchus in the seventeenth century. Manners and customs changed to leave no vestige of the former times. The powdered tea is entirely forgotten. We find a Ming commentator at loss to recall the shape of the whisk mentioned in one of the Sung classics. Tea is now taken by sleeping the leaves in hot water in a bowl or cup. The reason why the Western world is innocent of the older method of drinking tea is explained by the fact that Europe knew it only at the close of the Ming dynasty.

 不幸なことに、十三世紀の蒙古族の突発的襲来によって、中国が侵略され荒廃し、元朝の野蛮な支配下で、宋文化のあらゆる成果を破壊された.十五世紀中葉で国家再興を企てた土着の明王朝は、内憂によって困窮し、中国は十七世紀の満州族の異人統治に再び甘んじた.風俗慣習は変わり先代の形跡を微塵も残さなかった.抹茶は完全に忘れ去られた.明時代の評論家は、宋時代の古典の一つに言及された茶筅の形を呼び覚ますことに途方に暮れている.茶は湯の入った茶碗に茶葉を淹れることで飲む.西洋世界が茶飲みの旧法に無頓着な理由はヨーロッパが明王朝の末期に初めて茶を知ったという事実によって説明される.

To the latter-day Chinese tea is a delicious beverage, but not an ideal. The long woes of his country have robbed him of the zest for the meaning of life. He has become modern, that is to say, old and disenchanted. he has lost that sublime faith in illusions which constitutes the eternal youth and vigour of the poets and ancients. He is an eclectic and politely accepts the traditions of the universe. He toys with Nature, but does not condescend to conquer or worship her. His Leaf-tea is often wonderful with its flower-like aroma, but the romance of the Tang and Sung ceremonials are not to be found in his cup.

 後世の中国人にとって茶は美味な飲料であったが理想的ではなかった.国の長い悲しみは人生の意味に対する喜びを奪い去った.人々は現代人となった、すなわち、老いて魅力を失った.詩人であった古代人の生気と永遠の若さを構成する幻想に対する崇高な信頼を失ってしまった.人は折衷的であり宇宙の伝統を丁重に受容する.彼は自然と戯れるが、崇めもせず支配しようと恩着せがましいこともしない.茶葉はしばし花の香のように素晴らしいが、唐と宋の茶の湯のロマンスは碗の中に見いだされない.

Japan, which followed closely on the footsteps of Chinese civilisation, has known the tea in all its three stages. As early as the year 729 we read of the Emperor Shomu giving tea to one hundred monks at his palace in Nara. The leaves were probably imported by our ambassadors to the Tang Court and prepared in the way then in fashion. In 801 the monk Saicho brought back some seeds and planted them in Yeisan. Many tea-gardens are heard of in the succeeding centuries, as well as the delight of the aristocracy and priesthood in the beverage. The Sung tea reached us in 1191 with the return of Yeisaizenji, who went there to study the southern Zen school. The new seeds which he carried home were successfully planted in three places, one of which, the Uji district near Kioto, bears still the name of producing the best tea in the world. The southern Zen spread with rapidity, and with it the tea-ritual and the tea-ideal of the Sung. By the fifteenth century, under the patronage of the Shogun, Ashikaga – Yoshimasa, the tea ceremony is fully constituted and made into an independent and secular performance. Since then Teaism is fully established in Japan. The use of the steeped tea of the later China is comparatively recent among us, being only known since the middle of the seventeenth century. It has replaced the powdered tea in ordinary consumption, though the latter still constitutes to hold its place as the teas.

 日本は、中国文明の後をぴったりつけており、その三つの時代全てを知っている.早くも729年に我々は聖武天皇が奈良の宮廷で百人もの僧侶に茶を授けたという記載を見る.茶葉はおそらく遣唐使から持ち込まれ、当時の作法でもてなされたのだろう.801年に僧侶である最澄は茶の種を持ち帰り叡山に植えた.その後数世紀にわたって多くの茶園が拓かれ、茶は貴族と僧侶の愛飲するところとなった.宋の茶は1191年、栄西禅師(明菴栄西)の帰国とともに我々のもとへ渡った.彼が故郷に持ち帰った新しい種子は三箇所に首尾よく植えられ、うち一箇所は京都近郊の宇治であり、世界で最高の茶を生産する名を保っている.南方の禅宗は急速に広まり、それとともに宋での儀式と理想も広まった.十五世紀には将軍足利義政の庇護下で、茶会はすっかり完成し、独立した世俗の催しとなった.以来、茶道は日本で完全に確立された.その後中国の煎茶の使用は、我々の間で比較的新しいものであり、十七世紀の中葉以来初めて知られている.抹茶が茶としての地位を保つことが後もできたにも関わらず、常用の消費には煎茶が抹茶に取って代わっている.

It is in the Japanese tea ceremony that we see the culmination of tea-ideals. Our successful resistance of the Mongol invasion in 1281 had enabled us to carry on the Sung movement so disastrously cut off in China itself through the nomadic inroad. Tea with us became more than an idealisation of the form of drinking; it is a religion of the art of life. The beverage grew to be an excuse for the worship of purity and refinement, a sacred function at which the host and guest joined to produce for that occasion the utmost beatitude of the mundane. The tea-room was an oasis in the dreary waste of existence where weary travellers could meet to drink from the common spring of art-appreciation. The ceremony was an improvised drama whose plot was about the tea, the flowers, and the painting. Not a colour to disturb the tone of the room, not a sound to mar the rhythm of things, not a gesture to obtrude on the harmony, not a word to break the unity of the surroundings, all movements to be performed simply and naturally – such were the aims of the tea ceremony. And strangely enough it was often successful. A subtle philosophy lay behind it all. Teaism was Taoism in disguise.

 茶の理想に到達するのを我々が目の当たりにするのは日本茶においてである.1281年の蒙古襲来をうまく退けたために、我々は、異民族侵入で惨めにも断たれた宋の運動を継続することができたのであった.我々と茶の関係は飲用の形式の理想以上となった.茶は洗練と純真の礼賛に対する口実となり、主人と客が一緒に、俗世の至上の祝福の機会を生みだす神聖な役となった.茶室は疲労した旅行者が集って、芸術鑑賞という共通の泉から喉を潤すため、存在の寂しい荒地のオアシスであった.茶の湯は茶、花々そして絵画についての即興劇であった.部屋の調子を乱す色はなく、事物の旋律を損ねる音はなく、調和を破る動作はなく、周囲の統一感を壊す言葉もなく、あらゆる動作は素朴で自然になされるのである.そういったことが茶会の趣旨であった.そして奇しくも茶会はたいてい上手くいくのだった.かすかな理念はすべてその背後にあった.茶道は道教の姿を変えたものであった.

いつもここまで読んでくださってありがとうございます.亀吾郎法律事務所をよろしくお願いいたします.

美味しいピザを食べよう

 期せずして実現しなかった事柄というのは、時々起こるもの.その事態に対して私達はどんな気持ちを抱くか.悲観していたことが好転した場合は喜ばしい.楽観していたことが落胆に変わればもちろん悲しい.期待と現実の間に生じる差が大きくなればなるほど、感じるものも大きい.それは間もなく、私達夫婦(亀吾郎法律事務所の掃除夫と妻)にも訪れた.その日は所長と秘書は自宅でのんびりしていた.曇り空にところどころ晴れ間が見える暑い日だった.午睡していたボクスターは乾いた音を立てて目を覚ました.この六気筒の水平対向エンジンMA−122型は名機である.

 Instagramという米国発祥のアプリケーションがある.主にスマートフォンで撮影した画像データをインターネット上に投稿、投稿した画像や動画はアプリケーションで公開される.画像には注釈をつけることができ、他者にとって検索の助けになるよう、カテゴリが作成できる.共感を誘う視覚情報にはハートマークを与えることで投稿者への賛辞、称賛等を示すことができるとされる.このようなソーシャルメディアという世界はおそらく、軍事、諜報、様々な禁忌を除いてあらゆる人間の活動と相性がよく、七つの大罪を生み出す他に、経済効果にも大いに貢献していると思われる.

 妻と次のような話をした.どこかゆっくりと瀟洒な所で食事と喫茶をしたいねと.Instagramの中で、飲食店は見栄えの良い写真を投稿して宣伝していることを思い出した.訪れた客も思い出とともに提供された料理の写真を投稿し、共感を多く誘う店舗は界隈で有名となることを二人は知っていたので、それを利用して飲食店を探してみようということになった.

 石窯で焼いたピザが食べられるお店があるようだ.それは市街地から少し離れたところで静かな料理店を予想させる.ピザに対する評価は著しいようだし、なかなか個性的ではないか.満場一致で翌日、出かけて昼食を摂ることにした.

 50分くらいの片道であった.様々な道を通ったが、店に近づいてくるにつれてすれ違えないほど狭くなる区間が生じる.夜道は大変そうだ.途中小気味よいくねくね道があったので楽しい時もあった.やがて砂利の敷かれた駐車場に着く.駐車場といってもお店の駐車場ではなくて、広く解放されている敷地である.そこから降りて一分くらい歩き、店の前に心弾ませて入ってゆく.

 店の入口は足が悪い人にとって不都合なほどに狭く不安定である.店内は薄暗く、店員が忙しく歩きまわっている.期待していないが「いらっしゃいませ」という挨拶はなく、座席へ誘導されない.中々目が合わない.入っている客は数組ほど.天井が低いせいで思った以上に店内が狭く感じる.不穏な空気感である.

 眼力の強い店員がようやく応じて、席を案内すると思いきや、

「ピザはありませんが、カレーならあります」「カレーはこの二つです.他の前菜もあります、どうしますか」

 ピザはありません、どうしますか

 ひどく狼狽した.インドラの矢でも受けたような衝撃が走った.銃後の妻もそれを聞いて、悲痛な面持ちを隠せずにいる.銃撃と爆風を受けて傷を負ったのは私だけでなく、妻の期待と高揚感も吹き飛んだ.出されたメニューは薄暗くてよく見えなかった.

「どうしようか」

 私は消え入りたい気持ちを隠せずに妻に質問してしまった.妻は黙って首肯した.もし私独りであったら勇退したであろう.しかし遠路はるばるやってきたのだ.ここ以外に近辺に飲食店はない.悲しい二択を迫られてしまった.

「では空いているそこにどうぞ」

「はぁ」

 あちこち空いていたので「そこ」がどこなのかわからなかったが、店員の意図を汲み取って着座した.隣には楽しげな一組の若い男女.食事を終えてデザートを注文したばかりのようだ.表情は我々と対照的だった.席と席の間が近く、窮屈な気持ちを感じてしまう.妻はもう虫の息だった.メニューが改めて配られる.ピザの種類はかなり豊富だということがよくわかった.しかしピザはないのだ.ないものはない.カレーは確かに二種類.一つはマイルドココナッツカレー.もう一つは忘れてしまったが、1250円のカレーだったと思う.250円でチキンが追加できるという.値段は税抜価格である.1.08をあとで掛けないといけない.寒気がした.前菜や甘味を注文する気になれなかった.全体的にどれも値段が高かったのだ.

 我々は示し合わせたかのように二人ともマイルドココナッツカレーとジンジャエールを注文した.料理が運ばれてくる間、妻は携帯電話を取り出し、私はあたりを見回した.音響に凝っている証なのか、オープンリールデッキが設置され、真空管アンプを通してなにかの曲が鳴っている.しかし耳を傾ける気にはなれない.天井は白い布で覆われている.屋外テントの天井を模しているようだ.建物の骨格は木材で、太い丸太で組んでいるように見えた.お金を節約した難しい建築であるように感じた.やはり天井は低い.床はなぜか段差ができているので圧迫感が強い.誰にとってもバリアフリーの対極であることは疑いようがない.柱にはスワッグが飾られている.精気を失われた私には磔になった藁か呪物でしかない.厨房に目をやると、白い顎髭を蓄えた男性が虚空を見つめている.おそらくピザを焼く為に存在しているのだろう、しかし当時は存在意義がないものとして役のない役に甘んじていた.壁にかかった黒板に描かれたピザのメニュー表はもはや虚構であった.

 親父とは反対に他の店員はいそいそと仕事をしていて、空気には張り詰めたものがあった.おそらくだが、店内は狭くてとても歩き辛いのだ.店員の動ける空間が細いので、移動が遅くなる.厨房へは段差をまたがないと行けないから、気を遣うし、すれ違うのも一苦労だ.明らかにピリピリして見えた.親父を除いてイライラしており、スタッフ同士の不和が推察される.マスクを常時している暑さ、息苦しさもあるだろう.隠しきれない苛立ちと焦燥感は慢性的な状態であることを示唆する.給仕する仕草は粗雑な様子で、もう少しで放り投げる仕草と受け止められかねない絶妙な加減.一体この職場に何が起きているのだろうかと好奇心を湧かせる以外、余暇を潰す策がなかった.終始会話を弾ませることがなかった.

 しばらくしてカレーとジンジャエールが出された.ストローとおしぼりは放り投げられた.カレールーの中心に白米が盛られていた.刻んだミニトマトが添えられている.ご飯はおそらく茶碗小盛りくらいだ.カレーを口に運ぶ.うん、カレーはよく炒めた玉葱と魚介の風味、やさしいココナッツミルクの風味で口当たりはよい.しかし塩気が足りない.自分でもこれならできそうだなと言い掛けて私達は慎重に言葉を選んだ.

 「なんだか塩気がもっとあるといいと思うんだけど」

 妻が先制する.同感であった.よくぞ言ってくれた.

 「うん.それに具がないね」と私.

 「えっ、よく探せばあるんじゃないかな」と一寸否認するも夢破れたり.

 すぐに「ないね」と妻.

 隣のカップルは一つのパフェを二人で仲睦まじく食べている.正確に言うと、男性が女性に一緒に食べようよと迫っている.男の押しが強い.ところであの男性の空腹は満たされたのだろうか.カレーとパフェで満足するのだろうか.他の客はどういう心境なのだろうか.

 妻は私より先に食べ終えた.少しして私も食べ終えた.ジンジャエールも飲み終えて何もすることはなくなった.

 「じゃあ、行こうか」

 勢いよく席を立ち、会計へ向かう.会計と入口と厨房は渾然一体となっており、そこには苛立つカグツチ(料理担当)と、うだつの上がらないガネーシャ(レジ打ち)と、身動きの取れないヘルメス(給仕担当)がいて、カオス(混沌)を形成した.会計を待つにも、どうも慣れない作業を一任されたガネーシャは、店内の最高神であるカグツチに電子マネー決済のやり方を訊く.その間佇立する私は、料理を運ぼうとするヘルメスの進路を塞いでいることに気づき、立つ位置をずらすが、まるで私が悪人であるかのように一瞥し給仕へ旅立つ.居心地の悪さを覚えた.

 会計を終えた.「ごちそうさまでした」と世辞を述べる.何もこだましなかった.

 扉を空けると、分厚い雲から光が漏れているような空で幾分かどんよりしていた.空気も湿っぽくて湿気は多かった.敗北を喫したようだった.暑苦しくて重々しい空気だった.

 「店の前の看板には『ピザがある』って書いてあったのにね」

 謙虚な妻が珍しいことを言う.妻も敗北を抱きしめていたのだ.

「お店は11時30分からで、我々は13時ちょうどに着いた.まさか一時間半でピザがなくなるとは思わなかったなぁ」

 私も悔しさで恨み言を述べた.ピザ屋に行ったのにピザがないという事態に上手く対応できなかった.

 ラーメン屋に行くとスープがなくなったのでお店閉めます、とか、蕎麦屋で蕎麦がなくなったので暖簾を上げることはよくある話で、今回の一件もそういう都合であったのは間違いのないことだ.斟酌して言えば仕方のなかったことだ.我々はそんなに外食をしないので、ピザにかける期待値は高かったし、とても楽しみにしていた.しかし、まさかピザがないとは思わなかった.それにそこまで店内の雰囲気が冥府のようだと思いもすまい.店舗を無作為抽出して、抜き打ち調査を行うメンタルチェック審問官のような気分にもなった.不覚にも従業員の精神医学的問題を直截してしまうとは予想しなかった.

 店内の作業空間に問題があるのだろう.基本的構造からして入口がわかりにくいために入口を探すことから始めなければならない.車椅子の方には到底入店できない.店内も見栄えのする箇所はあるが、人間の出入りする動線を十分に検討していない.設計上の問題を指摘しておかねばなるまい.厨房と厨房の間に会計場があるのは奇妙である.そして厨房と客間の間にも不親切な段差がある.客間は増築したのであろうが、不便である.そして、座席の間隔が密であるから、意図しない緊迫感を生み出す.音響効果も乏しい.この空間を設定したのは誰であろうか.虚空を見つめる親父か、その妻と思われるカグツチか.スタッフ同士の摩擦が見え見えである.指揮系統にも問題がありそうで、スタッフの連携が上手く行っていない.スタッフの余裕がないから、接客にも余裕はなくなるのだろう.ピザの評判は上々であるようだから、親父の焼くピザは確かにうまいに違いない.親父の輝きが眩しいと、それだけ映る陰影も色濃く増すのかもしれない.店を立ち上げたのは親父だろうか.だとすればその開店への志は尊いはずだ.だが従業員と集う客には配慮という光が行き届かず、陰りが広がっている.将来は明るくないと思う.生地の上の職人、頽廃を知らず.といった具合である.

 

 家路に着いて、我々は疲れ果てたが今回の食事を笑い話にして、この一件は終わった.しかし、ピザはどうしても食べたかった.

 「ピザがないのなら作れば良いじゃない」という金言のもとに、家族の団結が行われた.翌日妻は生地をこねる.私はピザソースを作る.チキンも焼いた.二人でトッピングをてんこ盛りにして、最後に妻がオーブンで焼いてくれた.吾郎と三郎は水槽でプカプカしていた.上の写真はピザのないピザ屋よりも勝る美味しいピザである.味は美味しかった!

 これで話は終わりである.ピザ屋への私怨を書くつもりはなかった.ただ期待していたことが残念な結果になったことは確かだった.しかし最終的に美味しいピザを食べることができた.私は悲劇的転帰よりも喜劇的な結末が好きだ.

 一つ、彼らにとって不幸であったのは、皆マスクをつけていたことかもしれない.ただでさえ暑苦しいものを何時間もつけるのは大変つらいことだ.それにマスクの下の表情が見えないと、人同士の距離は心的距離すら遠くなる.適切な意思疎通を取ることはもはや不可能である.この流行している新型感染症の影響は山の中にあるピザ屋にも及ぶことを知る.

 山奥のピザ屋まで不安焦燥が昂じるのは非常事態である.心の底から感染症の収束を願うばかりである.あらゆる流言飛語、不合理な政策、片言隻語を捉え、冥界へと引きずり込もうとする邪な意思が隠れもしなくなっている.実証し得ない風評がやがて人々の不安の中で醸成され、伝播してゆく.それはいつか実体を伴わないが存在する驚異として我々のすぐ近くに潜むようになる.怒りや不安、悲しみに身を任せ、言葉を武器に罵詈雑言を重ねるのではなく、冷静かつ謙虚な気持ちで、人々と世界にどのような心の動きが起きているのかを注意深く観察することが肝要だ.

 亀吾郎法律事務所は今後も言葉の持つ力を十分に勉強し、力を正しく行使できるよう修練に努める所存である.

ここまで読んでくださってありがとうございました.

 

The Book of Tea: 茶の本 其の弐②

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 九月になって、少しだけですが秋らしい雲が混ざるようになった気がします.夏らしい巨大な入道雲と並んで、薄くぼんやりした雲が淡い空に遠慮気味に漂うのを見て、秋の僅かな気配を私は感じました.秋の日は釣瓶落としと言いますね.きっとすぐなのでしょうね.何もかも過ぎてゆくのは.こうした雲を別の例えに用いた人がいるようです.それでは陸羽先輩よろしくお願いします.

The fourth chapter is devoted to the enumeration and description of the twenty-four members of the tea-equipage, beginning with the tripod brazier and ending with the bamboo cabinet for containing all these utensils. Here we notice Luwuh’s predilection for Taoist symbolism. Also it is interesting to observe in this connection the influence of tea on Chinese ceramics. The Celestial porcelain, as is well known, had its origin in an attempt to reproduce the exquisite shade of jade, resulting, in the Tang dynasty, in the blue glaze of the south, and the white glaze of the north. Luwuh considered the blue as the ideal colour for the tea-cup, as it lent additional greenness to the beverage, whereas the white made it look pinkish and distasteful. It was because he used cake-tea. Later on, when the tea-masters of Sung took to the powdered tea, they preferred heavy bowls of blue-black and dark brown. The Mings, with their steeped tea, rejoiced in light ware of white porcelain.

 第四章は二十四の茶道具の列挙および説明に割かれており、三脚の火鉢とこれら道具を収める竹製箪笥から始まる.ここに我らは陸羽の道教象徴主義への思い入れを認める.それはまた中国陶器における茶の影響との関係を見て取るに興味深いものである.中国の磁器は、よく知られているように、精巧な翡翠の陰影を生み出す試みにおいて起源を持ち、唐王朝では、南方の青磁、北方の白磁を生み出すこととなった.陸羽は茶碗の理想的な色として青を認めた.それは飲料にさらなる緑を加えるからであり、これが白であると、赤みがさして不味そうに見えてしまうのだった.その理由は彼が団茶を用いたからであった.のちになって、宋の茶道家が抹茶を採用すると、濃藍色と暗褐色の重い器を使うようになった.明朝では煎茶を、白磁の軽い器で大いに楽しんだのであった.

In the fifth chapter Luwuh describes the method of making tea. He eliminates all ingredients except salt. He dwells also on the much-discussed question of the choice of water and the degree of boiling it. According to him, the mountain spring is the best, the river water and the spring water come next in the order of excellence. There are three stages of boiling: the first boil is when the little bubbles like the eye of fishes swim on the surface; the second boil is when the bubbles are crystal beads rolling in a fountain; the third boil is when the billows surge wildly in the kettle. The Cake-tea is roasted before the fire until it becomes soft like a baby’s arm and is shredded into powder between pieces of fine paper. Salt is put in the first boil, the tea in the second. At the third boil, a dipperful of cold water is poured into kettle to settle the tea and revive “youth of the water.” Then the beverage was poured into cups and drunk. O nectar! The filmy leaflet hung like scaly clouds in a serene sky or floated like waterlilies on emerald streams. It was of such a beverage that Lotung, a Tang poet, wrote: “The first cup moistens my lips and throat, the second cup breaks my loneliness, the third cup searches my barren entrail but to find therein some five thousand volumes of odd ideographs. The fourth cup raises a slight perspiration, – all the wrong of life passes away through my pores. At the fifth cup I am purified; the sixth cup calls me to the realms of immortals. The seventh cup – ah, but I could take no more! I only feel the breath of cool wind that rise in my sleeves. Where is Horaisan? Let me ride on this sweet breeze and waft a way thither.”

 第五章で陸羽は茶の点て方を説明する.彼は塩だけを用い他一切の材料を省く.彼は水の選定と沸騰の度合いについて議論の尽きない話題にも詳しく触れる.彼によれば、山の湧き水が一番で、川水と湧水は品質で二番目になるという.沸かし方には三段階あるという.最初の沸騰は魚の眼のような小さな泡が水面を遊ぶ時.次の沸騰は数珠の泡が水晶のように沸き起こるまで、三番目は茶釜の泡吹が荒々とこみ上げる時である.団茶は赤子の腕の柔らかさとなるまで、最初の沸騰で上質な紙の間に挟んでが粉々に切り刻む.塩を第一の沸騰で入れて、茶を二番目の沸騰で入れるのである.三番目の沸騰では柄杓一杯の冷水が急須に注がれ、茶を静め、「水の若さ」を蘇らせる.それから飲物が茶碗に注がれ飲み干される.これぞ甘露.薄ぼんやりと茶葉は穏やかな空に浮かぶ鱗雲、或いは翠玉色の流れに浮かぶ睡蓮のよう.唐の詩人、盧仝が記したのはこのような茶のことだった.「一杯目は唇と喉を潤し二杯目は孤独を癒やし、三杯目、枯れた五臓六腑が探し求めるは五千巻の文字を見出すのみ、四杯目はやや汗を浮かばせ、人生のあらゆる過ちは私の毛孔から消え去ってゆく.五杯目で私は清められる.六杯目で不死の国に招かれ、七杯目、いや、これ以上は飲めない.私は袖に抜ける冷たい風の息吹を感じるのみだ.蓬莱山はどこにあるのだろうか.やさしい微風に乗って、漂い流されるとしよう.(原文は『一碗喉吻潤、二碗破孤悶、三碗搜枯腸、惟有文字五千卷、四碗發輕汗、平生不平事盡向毛孔散、五碗肌骨清、六碗通仙靈、七碗吃不得也、唯覺兩腋習習清風生.蓬萊山、在何處、玉川子乘此清風欲歸去』である)」

The remaining chapters of the “Chaking” treat of the vulgarity of the ordinary methods of tea-drinking, a historical summary of illustrious tea-drinkers, the famous tea plantations of China, possible variations of the tea service and illustrations of the tea-utensils. The last is unfortunately lost.

 「茶経」の残りの章は日常での野暮な茶の飲み方について、著名な茶飲みの詳細な歴史的抄録、中国の有名な茶畑、茶の湯の多様性と茶道具の図を扱っている.最後の章は残念なことに失われている.

The appearance of the “Chaking” must have created considerable sensation at the time. Luwuh was befriended by the Emperor Taisung (763-779), and his fame attracted many followers. Some exquisites were said to have been able to detect the tea made by Luwuh from that of his diciples. One mandarin has his name immortalised by his failure to appreciate the tea of this great master.

 「茶経」の登場は当時、相当な話題を呼んだものに違いない.陸羽は代宗帝(763-779年)の援助を受け、彼の名声は多くの門弟を惹きつけた.通人の中には陸羽の点てた茶と弟子の点てたものを飲み分けることができたと言われる.ある官吏はこの名人の茶を鑑賞できなかったために、永遠に名を記憶されたという.

In the Sung dynasty the whipped tea came into fashion and created the second school of Tea. The leaves were ground to fine powder in a small stone mill, and the preparation was whipped in hot water by a delicate whisk made of split bamboo. The new process led to some change in the tea-equipage of Luwuh, as well as the choice of leaves. Salt was discarded forever. The enthusiasm of the Sung people for a tea knew no bounds. Epicures vied with each other in discovering new varieties, and regular tournaments were held to decide their superiority. The Emperor Liasung(1101-1124). who was too great an artist to be a well-behaved monarch, lavished his treasures on the attainment of rare species. He himself wrote a dissertation on the twenty kinds of tea, among which he prizes the “white tea” as of the rarest and finest quality.

 宋朝には抹茶が流行となり、二番目の茶の流派が生まれた.茶葉は小さな石臼で挽かれ、湯に入れ、竹を割いたきめ細かい小箒で泡立てることで仕立てられた.この新しい手法は茶葉の精選と同じように陸羽の茶の点て方においていくらか変化をもたらした.塩は以来廃止された.宋の人々の茶への熱狂は尽きるところがなかった.通人は互いに競って新たな変わった方法を探し、自分たちの優秀さを決めるべく定例の品評会が行われた.徽宗帝(1101-1124年)は芸術にあまりに優れていたため、君主としてはまともでなかったが、希少な品種の入手に関して彼は私財を惜しまなかった.彼自身も二四種類の茶について品評を記し、その中で彼は最も希少で上質な茶を「白茶」として称賛したのだった.

The Book of Tea: 茶の本 其の弐

Chapter II 第二章

The Schools of Tea 茶の流派

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TEA is a work of art and needs a master hand to bring out its noblest qualities. We have good and bad tea, as we have good and bad paintings – generally the latter. There is no single recipe for making the perfect tea, as there are no rules for producing a Titian or Sesson. Each preparation of the leaves has its individuality, its special affinity with water and heat, its hereditary memories to recall, its own method of telling a story. The truly beautiful must be always in it. How much do we not suffer through the constant failure of society to recognise this simple and fundamental law of art and life; Lichihlai, a Sung poet, has sadly remarked that there were three most deplorable things in the world: the spoiling of fine youths through false education, the degradation of fine paintings through vulgar admiration, and the utter waste of fine tea through incompetent manipulation.

 茶は芸術でありその最高の質を引き出すためには修練を要する.良い絵と悪い絵があるのと同じように、一般的には後者だが、良い茶があれば悪い茶がある.ティツィアーノや雪村の絵が二つとないように、完璧な茶の点て方というものはない.茶の一回の点て方に個性があり、水と熱との特別な相性があり、世襲の記憶を呼び覚ますものがあり、その物語を紡ぐ方略がある.真なる美は常に内在するものだ.素朴で基本的な芸術と生命の法則を、社会が幾度もその認識を怠ってきために、我々はどれだけ苦しんでいることか.宋の詩人、李竹嬾は世界には三つの嘆かわしいものがあると悲しんだ.誤った教育によって良い若者を役立たずにしてしまうこと.俗悪な鑑賞によって良画の価値を下げること.無粋な手技によって良質な茶をすっかり駄目にしてしまうことである.

Like Art, Tea has its periods and its schools. Its evolution may be roughly divided into three main stages: the Boiled Tea, the Whipped Tea, and the Steeped Tea. We modern belong to the last school. These several methods of appreciating the beverage are indicative of the spirit of the age in which they prevailed. For life is an expression, our unconscious actions the constant betrayal of our innermost thought. Confucius said that “man hideth not.” Perhaps we reveal ourselves too much in small things because we have so little of the great to conceal. The tiny incidents of daily routine are as much a commentary of racial ideals as the highest flight of philosophy or poetry. Even as the difference in favourite vintage marks the separate idiosyncrasies of different periods and nationalities of Europe, so the Tea-ideals characterise the various moods of Oriental culture. The Cake-tea which was boiled, the Powdered-tea which was whipped, Leaf-tea which was steeped, mark the distinct emotional impulses of the Tang, the Sung and the Ming dynasties of China. If we were inclined to borrow the much-abused terminology of art-classification, we might designate them respectively, the Classic, the Romantic, and the Naturalistic schools of Tea.

 芸術のように、茶は時代と流派がある.その発展は大まかに三つの段階に分けられる.餅茶、抹茶、煎茶である.我ら現代人は最後の流派である.飲料を吟味するこれら複数の方法は当時普及した時代の精神を示している.というのは人生は表現であり、我々は無意識の行動は内なる考えに反して必ず現れるからである.孔子は「人いずくんぞ隠さんや(人焉隠哉)」という.おそらく我々は自分たちの些末なことを明示しすぎるのは、隠すべき偉大なものが小さすぎるのである.日々型にはまった些事が、哲学と詩学の最高峰と同じくらいに民族の理想を詳説する.素晴らしい逸品の違いでさえヨーロッパの民族と異なる時代の個々の特異性を述べるのであり、茶の理想は東洋の文化の多彩な様式によって性格が異なる.団茶は煮て、抹茶はかき回され、掩茶は漬け込まれる.それぞれが中国の唐王朝、宋王朝、明王朝の各々の情緒的衝動を示しているのである.我々が芸術の分類のあまりに乱用された用語を借用するとすれば、めいめい、古典派、浪漫派、自然主義派の流派に分けることができよう.

The tea-plant, native of southern China, was known from very early times to Chinese botany and medicine. It is alluded to in the classics under the various names of Tou, Tseh, Chung, Kha, and Ming, and was highly prized for possessing the virtues of relieving fatigue, delighting the soul, strengthening the will, and repairing the eyesight. It was not only administered as an internal dose, but often applied externally in form of paste to alleviate rheumatic pains. The Taoists claimed it as an important ingredient of elixir of immortality. The Buddhists used it extensively to prevent drowsiness during their long hours of meditation.

 茶の木は中国南方が起源とされ、中国の植物学と医学でははるか古来より知られていた.茶は梌、蔎、荈、檟、茗といった様々な名前で古典に述べられている.疲れを癒やし、心を軽くし、意志を強くし、視力を回復する効能で高く評価されていた.内服だけでなく、しばしばリウマチ性疼痛に対して軟膏にして外用薬に用いられたのだ.道教徒は茶を不死の霊薬の重要な原料と主張した.仏教徒は長時間の瞑想の間の眠気覚ましとして茶を広く用いた.

By the fourth and fifth centuries Tea became a favourite beverage among the inhabitants of the Yangtse-Kiang valley. It was about this time that the modern ideograph Cha was coined, evidently a corruption of the classic Tou. The poets of the southern dynasties have left some fragments of their fervent adoration of the “froth of the liquid jade.” Then emperors used bestow some rare preparation of the leaves on their high ministers as a reward for eminent services. Yet the methods of drinking tea at this stage was primitive in the extreme, The leaves were steamed, crushed in a mortar, made into a cake, and boiled together with rice, ginger, salt, orange peel, spices, milk, and sometimes with onions! The custom obtains at the present day among the Thibetaus and various Mongolian tribes, who make a curious syrup of these ingredients. The use of lemon slices by the Russians, who learned to take tea from the Chinese caravansaries, points to the survival of the ancient method.

 四世紀と五世紀には茶は揚子江流域の住人の間で好まれる飲料となった.古代の「梌」の明らかな転訛である、現代の表意文字の「茶」が新造されたのと同じころであった.南方の王朝の詩人は「翡翠液の泡沫」と熱烈な礼賛する詩篇をいくつか残している.それから皇帝たちは勲功に対する報酬として高官らに上物の茶葉を授けた.しかし茶の飲用としての方法は当時は非常に原始的なものであった.茶葉は蒸され、臼で挽かれ、固形にされ、米や生姜、塩、陳皮、香辛料や牛乳、時折玉葱とともに煮るのであった.この慣習は今日のチベット民族やモンゴル民族で行われ、彼らはこれら原材料の不思議な濃縮液を作るのである.ロシア人は中国の隊商から茶の飲み方を学んだのだが、レモンの薄切りを使うのは古代の方法が生き残ってきたことを示している.

It needed the genius of the Tang dynasty to emancipate Tea from its crude state and lead to its final idealisation. With Luwuh in the middle of the eighth century we have our first apostle of tea. He was born in an age when Buddhism, Taoism, and Confucianism were seeking mutual synthesis. The pantheistic symbolism of the time was urging one to mirror the Universal in the Particular. Luwuh, a poet, saw in the Tea-service the same harmony and order which reigned through all things. In his celebrated work, the “Chaking” (The Holy Scripture of Tea) he formulated the Code of Tea. He has since been worshiped as the tutelary god of the Chinese tea merchants.

 茶がその粗野な状態から解放され、究極の理想に至るために唐王朝は才人を求めた.八世紀の中期に現れた陸羽をもって我々は茶の創始者と言う.彼は仏教、道教そして儒教が相互の融合を模索していた時代に生まれた.時代の汎神論的象徴主義は人が「個別性」のなかで「普遍性」を反映することを請うた.詩人である陸羽は、茶の湯に、万物を統治する調和と秩序と同じものを見出した.彼の著名な業績「茶経(茶の聖典)」の中で彼は「茶道」を体系化した.彼は以来、中国茶の商人の守護神として崇められている.

The “Chaking” consists of three volumes and ten chapters. In the first chapter Luwuh treats of the nature of the tea-plant, in the second of the implements for gathering the leaves, in the third of the selection of the leaves. According to him the best quality of the leaves must have “creases like the leathern boot of Tartar horsemen, curl like the dewlap of a mighty bullock, unfold like a mist rising out of ravine, gleam like a lake touched by zephyr, and be wet and soft like fine earth newly swept by rain.”

 「茶経」は三巻と十章からなる.序章において陸羽は茶の木の性質を扱い、二章で茶葉を集める道具を、三章で茶葉の選定を述べている.彼によれば茶葉の最上の品質は、「タタールの馬人の革靴が襞を作り、屈強な去勢牛の喉袋のように丸め、渓谷から出る霞のように広がり、微風が撫でる湖の輝き、新たに滴る雨によって大地がきめ細かくなるように湿り柔らかくなる」ものでなければならない.

 いつも最後まで読んでくださってありがとうございます.これっていつまで続くの?と思う読者の方、この翻訳は最後までやるつもりです.ですが、途中休み休みやろうと思っています.中国語のラテン文字化を翻訳するのは難しいですね!

*李竹嬾は明の詩人だそうです.