なぜ亀吾郎法律事務所は法律に門外漢なのか

近づくといつも出てきて挨拶してくれるごろうちゃん.

If a writer of prose knows enough about what he is writing about he may omit things that he knows and the reader, if the writer is writing truly enough, will have a feeling of those things as strongly as though the writer had stated them. The dignity of movement of an iceberg is due to only one-eighth of it being above water. A writer who omits things because he does not know them only makes hollow places in his writing. A writer who appreciates the seriousness of writing so little that he is anxious to make people see he is formally educated, cultured or well-bred is merely a popinjay. And this too remember; a serious writer is not to be confounded with a solemn writer. A serious writer may be a hawk or buzzard or even a popinjay, but a solemn writer is always a bloody owl.

Ernest Hemingway, Death in the Afternoon, 1932

 自分が書いているものを十分に承知しているのなら、作家はその箇所を省略してもよい.もし作家が真実を書いているとすれば、読者は省略された箇所をあたかも作家が実際に書いたかのように強く感ずるのである.氷山の動きに威厳があるのはその一角が水面から見えているからこそだ.自分が知らないからといって物事を省略する作家は作品に空白を空けるしかない.執筆において真剣味が全く無い作家は自分が立派に教育を受けただとか、教養があるとか、育ちが良いといったことを気に留めているか、ただ自惚れているに過ぎぬ.次のこともよく覚えておくことだ.真面目な作家をもったいぶった作家と混同してはいけない.真面目な作家は勇猛なタカでもあり、老獪なノスリでもあり、自惚れ屋のオウムでもあるやもしれぬが、もったいぶった作家は常に血に飢えたフクロウなのだ.

アーネスト・ヘミングウェイ、「午後の死」、1932年


 しばし尋ねられる質問に、なぜお宅は法律事務所を名乗っているのか、なぜ法律事務所なのに法律は門外漢なのかといったものがある.全くごもっともなご指摘かと思う.

 確かに一般の法律事務所は一人以上の弁護士が法律事務を業とする事業体である.弊事務所はその条件に一切該当しない.誰一人として弁護士はいない.代わりに亀2匹と文鳥がいるに過ぎない.亀吾郎法律事務所はどこにありますか、とお尋ねになっても地球のどこにも建っていない.ふざけているのかと問われれば、ふざけていると答えるし、真面目にやれと言われれば、常に真面目にやっておりますと答える.

 目の前に書いてあることを正直に受け取ると、往々にして損をするということはよく知られている事実ではないだろうか.この商品を買って使えば、肌ツヤがよくなるだとか、膝の軟骨が再生するといったものはテレビで数分おきに流れる常套句であるし、政治家の挨拶でしっかりやりますと言うのを聞いても誰も特に感動はしない.これさえやれば30分でできる!という本のタイトルは30分の実現を保証しない.近所を走る車は速度制限を遵守していない.嘘をついてはいけないと言う人は多い.しかし、世の中はほとんど不条理である.本当に大事なことは小さく書いてあるか、書かかれていないことが多い.私はそういうことに気づくのにだいぶ時間がかかった.

 亀吾郎法律事務所は上記の背景を参考にして設立された.法律に門外漢であるのは真実である.私は法律について本当に何も知らない.私は法律の専門家ではないから法の名前と条文をお話することはできない.しかし、かろうじて生きている.皆さんはどうだろうか.

 弊事務所は目に見えない事象を取り扱うことを生業としている.当所長(吾郎)は明示されていないものほど雄弁に”嘘でないもの”を語ると考えている.亀吾郎法律事務所は現代の趨勢に対するアンチテーゼを掲げているのかもしれない.誰かの言葉を借りるならば、アンチテーゼなくして止揚はないという.この事務所はささやかな反逆の精神を以てより善いものを目指していきたいと思っている.

饗宴:3

Creation of Adam

 私はPlatoの「饗宴」の話をしている.作品では古代ギリシアのおっさんたちがそれぞれエロス論を始めるが、最終的にSocratesなる人物がエロスについて徹底的に論証を行う.それはPlatoの考えであるイデア論の中核でもあった.こうして全員を屈服させたのであった.

 すると、泥酔したAlcibiades(アルキビアデス)が入ってくる.Alcibiadesはとんでもない美青年で人望・名声・才能すべてある政治家でもある.僕もAgathonに祝辞を述べに来たのだが入っていいかなと先客に問う.いいとも〜と言ったかは知らないが、皆で招き入れると、Agathonの隣に横になろうとする.そもそもAgathonの隣にはSocratesがいたが、彼は少し場所を空けてあげたのだった.それにしても図々しいぞAlcibiades.シングルベッドに成人男性3人は厳しかろう.Socratesに気づかずに話を続ける彼は、ここにいたもうひとりの方はどなたでしょう、と振り返ると、なんとSocratesッ!!

 「なぜ貴方がこんなところにッ!いつも貴方はそうだ.僕が油断しているといきなり出てきやがる、よりにもよってこの部屋で一番美しいAgathonの隣にいるとはな」

 悪態をつきつつAgthonとSocratesの間に入るAlcibiadesはもっと酒を飲もうじゃないかと皆を煽る.Eryximachusが待ったをかける.さっきまで皆でエロスを讃えていたところだったのだ、君も話をすべきだと.

 Alcibiadesは言う、何を言うんだ.Socratesの前で彼以外を賛美する気にはなれないと.AlcibiadesはSocratesのことが嫌いなのかと思いきや、彼以外賛美しないと言う.わかったわかった、ではそうしたまえ.Socratesを賛美するがいいとEryximachusが言うと、

 「あんたなんてことを言うんだ.マジでそんなこと言っているのかッ」とSocratesを恐れ逆のことを言う.酔っているにせよどうもおかしい.Socratesも「褒めるとかなんとかいって私を笑い者にするのだろう」と言っても取り合わず、「貴方の本当の姿を語ってやる、聞けッ!召使いどもは失せろ!」といって結局は賛美しようとする.好きな男に振られたけれど、まだその男のことを好いている、といっても素直になれない女子高生のような(?)、現代でいうツンデレのような振る舞いをする.なぜPlatoはAlcibiadesの話を挿入したのだろうか.

 Alcibiadesは話を始める.まずSocratesが半身半獣の精霊、Satyr(サテュロス)やSilenus(シレノス)に見た目も似ているという.しかし似ているのは容姿だけでない.

 「みなさんご存知のようにSocratesは美少年が大好きで、いつも美少年につきまといメロメロだ.そして彼は何もものを知らない.そんなところは実にSilenusにそっくりだ.だが、それは上辺の姿.彼は相手の容姿なんてどうでもいいと思っているのだ.この若くて自他ともに認めるイケメンである僕がSocratesに見初められると思いきやどんなに彼に誘っても、それ以上のことにはならなかったのだ」

 と少年期の屈辱を語る.といいつつAlcibiadesはSatyrのうち、笛の名手であるMarsyas(マルシュアス)になぞらえる.彼はそれ以上だと言う.なぜならSocratesは言葉の力のみで人を感動させることができるからで、彼はSocratesの力量を褒め称える.しかしながらその力があまりにも強いために政治家としての自分を滅ぼしかねないとかえってSocratesを避けるようになったのであった.彼に複雑な感情が芽生える.尊敬し思い慕う一方で彼を恐れ避けるようとする自分.この気持を彼は会場に吐露する.

 なぜ彼がこんなにも躍起になって話をするのか.それには古代の性風習である少年愛(Paiderastia)を知る必要がある.成人男性と未成年の少年が性的関係を結ぶものであり、これは古代ギリシア・ローマで広く普及していた.キリスト教が布教される前まではごく当たり前であった.この少年愛は現代のホモセクシュアリティと異なり、対等な関係ではなかったという.成人男性が主導的役割を担い、少年は徹底して従属する必要があった.主従関係は規則で決められ、揺るぐことは認められなかった.成人男性が受動的な立場では決してはあってはならなかった.よってPausaniasが暗に述べていたことは社会的に容認されないものであった.少年が成人すればこの関係は直ちに解消された.少年が成人すると、女性と結婚することを期待され、ほとんどが家庭を持った.成人すると、今度は少年を主導する側となり、女性の愛と並行して行われたのであった.主従関係といっても成人男性には少年を教育することが期待された.師弟関係とはいかないものの、教育者と被教育者との関係を示し、男性社会へのイニシエーション(入会)の機能を持っていたと考えられたという.どうも少年愛というとアヤシイ関係を想定しがちだが、そうではなく、ある種公的な保健体育の授業が行われていたということだろう.性的関係はともかく、風呂場と便所でしか見せられないものについて、小さいうちに正しく教えておかねばなるまいという健全な性教育とすればある程度合点はいく.中学校でこっそり流布するポルノグラフィティよりもはるかにオープンなものだったに違いない.

 SocratesとAlcibiadesはかつて主従関係にあった.AlcibiadesはSocratesが無知ではなく無知のフリをしていることを見抜いており、彼から叡智を授けてもらおうと先述の「交流」を図り自分の若く美しい魅力を振りまいたのであった.しかし当時のAlcibiadesは気づかなかった.Socratesが実は美少年などどうでもよかったということを.Socratesは俗人の関心をむしろ軽蔑していたのであった.Alcibiadesがどんなに色目を使おうと興味なぞ湧かない(Socratesも自制心があったに違いない).Alcibiadesは誤解によって彼から叡智を受けられず、挫折する.

 Alcibiadesは懸命に自分の力量でSocratesに近づこうと努力するも、Socratesが最も重きをおいていたのは、言葉による対話、すなわちエロスそのものであり、不完全たる人間の肉体を利用したAlcibiadesは人間の限界ゆえに失敗するのであった.

 Socratesは示唆的な言葉を彼に残していたが、気づくことはなかった.

「君が私の中に見ている美というのは、君の美しい姿とは比べ物にならないんだろうね.君は美<叡智>と美<肉体>を交換したがっているようだが、君は私よりもはるかに得をすると思っているようだね.『プレミアム・モルツ』と『のどごし生』を交換しているように.でもね、いいかい、もう少し考えてみてよ.私は君が思うほど価値のない男だと、君は気づいていないのかもってね.精神の目が研ぎ澄まされるのは肉眼が衰えた後なんだ.そして君がそうなるのは、うーん、もっとずっと後だなぁ」

 Alcibiadesは失敗し、心に深い傷を負う.こうしてSocratesに愛憎入り交じった感情を抱くようになったのであった.Diotimaの説くエロスの道は非常に険しく、到達することは難しいのだと、SocratesとAlcibiadesの関係を通して読者に訴えかける.Alcibiadesの挿話を入れたのは、彼のような人物であっても成就は困難であることを同じ人間として描き出し、より求道の険しさにリアリティをもたせているに違いない.夜は更けていくが、さらに酔っぱらいの集団がなだれ込み、皆次々に解散してゆく.饗宴は荒れに荒れて終わりを告げる.

 現代だろうと古代だろうと確かにエロスの実現に失敗した人は多かろう.わからない方は過去のスポーツ新聞や週刊誌をご覧になるとよいかもしれない.市井レベルから芸能界まで不倫のスキャンダルは多い.「あんな美人に巡り合ったのにどうして、不倫なんてしちゃったんだ」と思うかもしれない.エロスの求道に失敗したからである.美を見出すのは究極的には外見でなく、言葉による対話であり、最後は肉体的な絆でなく精神的な絆によってである.お互いに尊敬しあえる美学を見いださなければより善いものには出会えはしない.プラトニック・ラブは辞書的には肉体的欲望を伴わない精神的性愛とされるが、肉体的性愛なくして精神的性愛はありえないのが本来の意味であり、肉体的欲望はエロスの過程に過ぎない.人間に内在する激しい欲望が知恵に至るエロスなのである.

 特に芸能界は少なくとも外見はAlcibiadesな人は多いかもしれない.だがそこから昇華するのはごくわずかなのではないだろうか.そういった人は年を重ねても尊敬され続けるに違いない.

 余談だが、対話を重んじる精神科医療は患者だろうと家族だろうとパラメディックだろうと対象に<善いもの>を見出そうとする.なぜなら治療や回復の緒(いとぐち)だからである.どんなに疾病に覆い隠されようと深い森羅を分け入って光明を求めようとする点でその信条は同じと思う.しかし目的が手段になりつつある現代において、その求道は困難を極める.挫折したものは少なくないだろうに.

 以上で、「饗宴」の話は終わりになります.最後まで読んでくださりありがとうございます.この作品は私がここ近年で読んだ小説で最高に読み応えのあるものでした.心から感動しました.読んだことのない方にもぜひおすすめしたい古典です.なかでも光文社古典新訳文庫の和訳は特に優れていると思います.