饗宴:2

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 「饗宴」ではPhaedorus, Pausanius, Eryximachus, Aristophanes, Agathonら五人が弁舌を奮った.それぞれ独自の話でありつつも前の論者の論点を受け継いで展開され、必ずしも完全に独立した話をしていたわけではなかった.ついにSocratesの番になり、彼の演説が始まるのだが、先にAgathonと対話したいと述べ、先程の彼の論に質問を浴びせる.

Socrates「さっきの話、すげーよかったよ.エロスの本性を説明してからの展開、よかったなぁ.でもさぁ、ちょっといいかな.エロスって『なにかのエロス』なのかい?それともなんともいえないもの?」

Agathon「『なにかのエロス』ですねぇ!」

Socrates「オーケー、オーケー.次に訊くよ.エロスは『なにかのエロス』なのだね.エロスは何かを欲しているのかな、それとも欲していないのかな」

Agathon「欲してるでしょうねぇ」

Socrates「欲してるってことはさぁ、エロスがそれを求めるのはそれを手に入れたとき?そうじゃなくて、所有してないとき?」

Agathon「えっ、所有してないときかと思います、たぶん」

Socrates「たぶんじゃないと思うぜ.必然的にそうなんだと思うけどね.欲するものが何かを欲するのは、それが足りないからであってさ、満ち足りているなら欲しがることもないんじゃないのかな、それって必然じゃないのかな」

Agathon「そうですねぇ」

Socrates「ちょっと質問を変えるぜ.今すでに強い力を持っているのに、強くなりたいって思う人っていると思うかな」

Agathon「ん?それはなさそうですけど……」

Socrates「そうだよね、すでに強いんだから、強いという性質は欠けていないもんね.でもさ、仮にそういうことを言った奴がいるとするよ.健康なのに健康でありたいという人とかね.でもそれって、つまりは将来も健康でありたいってことになるんじゃないのかな、今ある性質を所有し続けたいということにもなると思うんだ」

Agathon「そう言われるとそうですかねぇ、確かになぁ」

Socrates「何かを欲している人はすべからく、自分の手元にない、そこにないものを欲しているってことだね.欲求やエロスが向かう方向性って、自分が持っていないもの、欠けているものってことにならないかな.ちょっとまとめようか.まず、『エロスは何かのエロスである』.そして何かというのは、自身に欠けているもの.オーケー?」

Agathon「オーケーです」

Socrates「さっきの君の演説でこういってたよね.エロスは美しさを求めるもの.醜さは求めないと.それでさっき私がいったことに同意してくれたけど、自分に欠けていて所有していないものを求めるのだと」

Agathon「ええ、そうですね」

Socrates「となると、エロスはすでに美しいのに、美しさを欠いていてそれを所有していないことになってしまうなぁ」

Agathon「あれれ?そうなっちゃうなぁ」

Socrates「美しさを欠いていて、美しさを手に入れていないものを美しいといえるのだろうか」

Agathon「僕は言わないと思います、まぁ」

Socrates「もうちょっとだけ質問に答えてほしいんだけどね、よいものってのは美しくもあるのかな」

Agathon「でしょうね……」

Socrates「君の言い分だと、エロスは美しさを欠いている.よいものは美しさだという.となればエロスはよいものを欠いていることになるなぁ」

Agathon「Socrates、勘弁してくださいよもう……」

Socrates「いいぜぇ」

 SocratesはことごとくAgathonを論破してしまう.なんだこのおっさん!?、なんだこのやりとりは!?と思っても仕方がなかろう.そこからついにSocratesがエロスについて話を始めるのだが、彼は自分から考えを話すのではなく、Diotima(ディオティマ)なる女性との対談を用いて説明を試みる.Diotimaは謎に満ちた女性で、出身以外は語られず年齢も明らかでない.おそらくDiotimaは架空の存在で、Platoが作品の演出のため設定した人物である.彼女は老婆なのかもしれないし、妙齢の婦人なのかもしれない.これは読者の想像力に委ねられている.中澤訳では威厳溢れた人物像として描かれている.DiotimaとSocratesのやりとりはAgathonがSocratesに論駁されたように、DiotimaがSocratesに問いかけ、論証を試みる.エロスはもしや美しくないのだろうかとDiotimaに尋ねるSocratesは「言葉を慎め」とピシャっとはねのけられる.こわい.

 お前は美しくないものは、必ず醜いと思っているのかと逆に尋ねる.そうだというSocratesにこうも尋ねる.賢くないものは愚かなのかと.賢さと愚かさの間に何かあることに気づかないのかと問う.

 Diotimaは言う.それは「思っていることは正しいのに、それをうまく説明できない、そんな状態だ.きちんと説明もできないのにどうして知識といえるのか.しかし、それは愚かというわけではない.<正しい思い: orthos doxa>というのはこのようなもので、賢さと愚かさの間にあるものだ」

 エロスとは美醜の中間の存在だと述べ、その例として賢愚の中間、orthos doxaを挙げている(オーソドックスの語源だろう).エロスは美しくもあり、醜くもあるという.人間の認知の状態に中間的状態を認める考えはPlatoの哲学の一つであり、この「饗宴」にもそれが反映されているという.確かに、中間的状態を設定しないことには、相反する二極のみで世の中をうまく説明できるとは思えない.旬より少し早い時期に恋人と苺狩りに行ったとする.早熟の苺を摘んで食べると、甘くもあり酸っぱくもある.ネパール人やインド人の経営するカレー屋のカレーは最大の辛さとものすごく甘口だけでは繁盛しない.お店によって辛さの段階はあるが、中間的状態を認めない限り、カレーは辛い食べ物でもあり口当たりのよい食べ物でもあるという二面性を説明できないだろう.(双極性障碍における抑うつ混合状態は中間的状態といってよいのだろうか)

 ではエロスは一体何なのか.これまでの演者はエロスを神と扱い美徳の頂点であるとした.しかし本質は欠如にあり、補完のため世界の調和ないし個々人の調和へ導く存在とし讃えてきた.Diotimaから始まる論証はエロスが欠如したものであること、エロスとは何かの性質についてのエロスであることを念頭に、必ずしも美の極致でないと述べる.

 Diotimaはエロスとはダイモン(精霊)だと述べる.えっ.もっと詳しくいうと神と人間の間にある超自然的な霊的存在だという.ダイモンは神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させる役割があるとする.彼女の言葉を用いてみよう.

「ダイモンは人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える.すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける.そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させるのだ.このダイモンが媒介となり、全ての占いは執り行われる.司祭は供物を捧げたり、秘儀を行ったり、呪文を唱えたり、あらゆる種類の予言や魔法を使うが、そのような司祭の技術もまたダイモンが媒介となる.神と人間が直に交わることはない.」

 この言葉を現代で真に受けるとちょっと隣人から距離を置かれそうだが、私は媒介という言葉がしっくりくると思う.彼女の考えを応用してみると、空気はダイモンの一つではないだろうか.私達の発する言葉は空気が振動することで音となり響く.熱によって空気は燃焼して炎となり光を放つ.供物を材料や素材に言い換え、秘儀を研究や実験、呪文を詩歌とし、予言、魔法をそれぞれ予測、科学とすれば、神(の為せる業である様々な現象)に人はダイモンを通して交わることができよう.これは過大解釈だろうか.考えすぎだろうか.

 というわけでエロスはダイモンたる媒介である.Diotimaはエロスのもつ性質をエロスの出自の話に託し、神話を用いて説明を行う.神話は便利なものだ.神話は虚構でありながらも普遍的真理を貫く.PlatoはDiotimaの姿を借りて読者を引き込む.エロスの父母は機知と策略の神Pholus(ポロス)と窮乏の神Penia(ペニア)であるという.PeniaはPholusが酒によって寝ている隙に交わり身ごもったのだからなかなか床上手である.両親の性質を受けついだエロスは常にあらゆるものが足りないのだが、それを手に入れるために常に術策を講じる存在となったのだという.その性質のうち、最も重要なのが知恵であった.知恵は最も美しいものの一つであり、それを追い求めることこそが哲学である.(Philosophy =Philia(愛する人) + Sophia(叡智))*なお医学用語に筋力低下を表すサルコペニアが知られるが、Sarx(筋肉) + Penia(欠乏)と考えれば合点がいく.

 では欠乏していながらも術策によって知恵を求めるダイモンたるエロスは人間にどんなことをするのだろうか.その問に答えるにはなぜエロスが美しいものを愛するのかを考えなければいけないという.Socratesはエロスが自分のものにしたいからだと述べるがその目的を説明することができない.Diotimaは美を善にして考えろと言う.美しいものを所有したいのと同じく、よいものを所有したいためである.となると、この場合Diotimaの言いたいオチは「幸福になる」がためであった.人は皆幸福になりたいと思う.それはいつの時代も同じで、幸せのために人はよいものをもとめようとする.この考え方は我々の腑に落ちるところだと思う.Diotimaは幸福追求を「常に」おこなう存在と条件をつける.これはエロスの永遠性と不死性を説明する根幹となる.

 さて、どうやってエロスはその目的を成就させるのか.それは美しいものの中で子をなすことだという.身体的にも心の場合であっても.身体の場合はつまるところセックスだという.なーんだ.男女の交わりによって子をなすことで、死から逃れられるという.確かに、一個体は死を迎えるが、子をなせばゲノム情報は次の世代へ伝えられる.美しいもの・よいものと交わることでその性質は未来へ受け継がれる.永遠と不死にあずかる方法である.

 ところで、こう思う方もいるだろう.「自分はそこまで美人でもないしどちらかというとブスで、美や愛とは無縁だろうと思っている謙虚な全国の紳士淑女の皆さん」、お待たせしました!ここでいう美や善というのはあくまで主観的なものであろう.人によって仮面ライダークウガが好きな人がいればジオウが好きな人もいる.エヴァンゲリオンで綾波レイが好みであれば、惣流(式波)アスカ・ラングレーが好きな人もいる.ふくよかな人が好きな人もいればスレンダーな人好きな人もいるし、野獣のような肉体に憧れる人もいれば華奢な少年にときめく人もいるだろう.すべてはダイモンの思し召しである.ある対象について肯定的な評価をもったときに生じる感情は「美しい」であって、逆は「醜い」となるわけだ.「萌え」という言葉も似ているのではないだろうか.だから貴方が誰かを好きになるように、きっと貴方を慕ってくれる人はいる.少なくともPlatoはそう思っている.

 この図式は身体に限らず心の中でも成立するという.心のなかに宿す子というのは知恵や様々な美徳であり、次第にそれを欲するようになる.人は美しいパートナーに話をし、心を交わし「子」を生み、育てようとするのだと.上記におけるセックスに相当するのは言葉による対話である.美しい人に話を投げかけ導こうとする営みが永遠の「子」を継承させることになるのであるとDiotimaはいう.要するに精神に働くエロスは哲学的対話であり、「子」は生物学的な遺伝子、「gene」(ジーン)に相当する文化的な遺伝子、「meme」(ミーム)といっても良いかもしれない.

 「さてSocrates、ここからはエロスの道の秘儀.究極にして最高の奥義.私についてこれるかな」Diotimaは上のように述べ、最後の教えを授ける.エロスの最高秘奥義ってなんだそれは.皆さんもよければ着いてきていただきたい.

 これまでのエロスの営みを正しく続けると、人はある地点に到達する.当初は若く美しいパートナーに恋い焦がれ身体的に精神的に絆を深めあって行くと、いつしか自分もパートナーも老いてゆく.かつての美しさは失われたかのように思われても、人は見かけの美や世俗的な美に対する探求ではなく、究極的な美を対象に見出す.これがエロスの深奥、美のイデアだ.話し言葉で言えば、こんな感じだろうか.「私があの人を好いたのは、あの人が美しい容姿であったのは勿論だが、次第にあの人の何気ない仕草や考え方、価値観を尊敬するようになったからだ.老いた今でもあの人の笑顔は私を幸福にしてくれるし、これまでの記憶は薄れつつあっても大切な思い出は当時の情動とともにある.私があの人を慕ったのは見かけの美しさでなく、私はあの人に中に美学を認めたからだ」

 結婚式や披露宴に出たことはあるだろうか.司会が新郎新婦の馴れ初めを語るとき、「いつしか二人は惹かれ合い、お互いを尊敬するようになっていきました」というのを聞いたことがあると思う.このくだりは、エロス道のプロセスを述べているのだろう.美のイデアは個々人の美のように不完全なものでなく、完全であり唯一のものである.つまり、誰にとっても時代を超えてもどこであっても美しく、善いものであるのだ.

 Diotimaの語る話は「美の梯子」として知られているそうだ.一個人の持つ美が昇華してイデアに到達する思想こそPlatoのイデア論の核であった.Platoはこれを架空の人物に仮託して自身の師であるSocratesに語らせることで、論述を強固にしているのだろう.

 次回でこのシリーズは最後.Alcibiadesが乱入して宴会が荒れます.お楽しみに.

 これまでもそうですが、いつもここまで読んでくださり大変うれしく思います.ありがとうございます.執筆の励みになっています.読者の方々が次々増えているのを知って事務所スタッフ一同喜んでいます.