私の時間論:破

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 前回、時間について自分なりに問題を提起した.時間が過去から未来へ直線的に進むモデルは説得的だが、果たして正しいのだろうか.ということを述べた.これは結構難しい問題であることは自身で自覚していて、問題提起した自分を少しながら後悔しているところもある.涙を流し、挫けながら話を進めていくことにする.

  現在の物理学の最先端に、ループ量子重力理論という学説が生じているそうだ.その理論の研究者の一人、Rovelliの著書である”L’ordine del tempo”, (邦題:時間は存在しない)を偶々読む機会があった.私はループ量子重力理論ならびにその方程式を説明する立場でもなければ力量もない.数式を見たところで、大学受験の苦い記憶が蘇るだけだ.一応、本書の説明を借りるとRovelliらは時空がスピンネットワークと呼ばれる網の相互作用によって生じると考えている.申し訳ないが何を言っているのかわからない.宇宙の記述には時間の変数を必要としないという.だから「時間は存在しない」という邦題がついているのかもしれない.それでもよくわからないが.本書でスピンネットワークについての説明は深堀りされない(深堀りしないでほしい).極めて高度な方程式の話をしてもほぼすべての読者を放心させてしまうし、本書は売れないと思う.幸いにして本編には、

⊿S≧0

だけが記される.これは熱力学第二法則、熱は熱いものから冷たいものにしか移らず、その逆はない.という事実を述べている.当初は熱の不可逆性を示す式であったが、後の物理学者であるボルツマンによって、これは分子や原子の乱雑さを表す尺度であることがわかった.Sはエントロピーという重要な科学の量を表し、⊿はSの変化量を示す.そして唯一、過去と未来を認識している式だという.原始の宇宙のエントロピーが低い、すなわち秩序だっている状態からビックバンにより徐々に拡散し膨張してゆく乱雑な宇宙の姿を過去と未来に対比させれば、その式の言わんとすることは何となくわかる.しかしなぜ、過去の宇宙はエントロピーが低いのかという疑問が生じる.

 著者の答えを簡単にいうならば「偶々」だそうだ.根本のレベルにおけるこの世界は、時間に順序付けられていない出来事の集まりだという.えっ.それらの出来事は物理的な変数同士の関係を実現しており、これらの変数は元来同じレベルにある.世界のそれぞれの部分は変数全体のごく一部と相互に作用していて、それらの変数の値が「その部分系との関係におけるこの世界の状態」を定める.ということは、宇宙には無数の変数があって、それらが影響しあっているということ?何か決まった変数の値によって、世界の状態が決まるということか.うーん.

 著者はトランプカードで宇宙の特殊性と「偶々」感を説明していた.自分なりに考えてみよう.高校時代の昼休みよくやった大富豪(大貧民)を例に取る.山札からカードが配られて自分の手札に「2」や「ジョーカー」があると嬉しくなったものだ.同じ番号の手札があるのもいい.これは一つの「偶々」であろう.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という小宇宙では有力な手札であったが、これが友人の気まぐれで革命が起きてしまうと、「2」や「A」は戦力を失う.友人という変数によって宇宙の秩序が変わるわけだ.他の友人がさらに革命返しをすればさらに宇宙の秩序は変わる.友人の出身はA県の近隣なのだが、もしこれが日本全国から集う全寮制高校だとすると、その宇宙で繰り広げられる大富豪という系はもう少しややこしくなるだろう.ご当地ルールというのが少なからず存在する.別の言い方でローカルルールだ.「8切り」「スペ3返し」はよく知られていると思うが、「11バック」なども存在するときもある.カードの色柄を強制する「しばり」が適用されればさらに宇宙の秩序は異なってゆく.これも参加者という変数によって宇宙の成り立ちは異なる.無論、参加者の技量という変数もあるだろう.いい手札なのにプレイヤーがぼんくらならば、捨札に収束する手札の順序はまた異なる.(これは新たな山札として未来に繰り広げられる別宇宙の運命を示唆する)もし友人が飽きてしまって、ブラックジャックがしたい、ポーカーをやろう、最後は7並べしようぜ.ということになれば、同じ手札でもカードのもつ意味は大きく変わる.学校の先生という別宇宙の観測者の存在がいたとすれば、「ま〜たあいつらなんかやってるな」というつぶやきが生じることも考えられる.「日本国A県B市C高等学校1年3組の昼休みの教室で繰り広げられる5人程度の大富豪」という広大な宇宙が「なんか」で片付けられてしまうのは、宇宙を眺める立場によってこそ異なる.大富豪を始めたのは「偶々」なのに.

 微粒子レベルでは存在しない不可逆なエントロピーの増大が、我々の知覚する巨視的な世界では生じるという.我々の知覚する世界は曖昧なかたちで記述されるからこそエントロピーが存在するのだと.(生徒からすれば大富豪という新たな宇宙を創造する営みをしているが、学校の先生は生徒がカードゲームでざわついてるという粗い見方をする)私達のものの見方が粗視化(ぼやけ)と深く結びついているために熱という概念やエントロピーという概念、過去のエントロピーのほうが低いという考え方をしてしまう.自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだという.

 どうもピンと来ない.私は、本に記されている通り、説明を試みようとしているのだが、目を凝らして空を掴むような気持ちだ.過去と未来が違うのは、世界を見る我々の見方が曖昧だからだという.そんなことでいいのか.私の例えは正しいのだろうか.曖昧とはなんだろうか.私たちが経験するこの時間経過は、実は自分が世界を詳細に把握することができないからだという事実だというが……

 なんだか、別にうまくもなんともない食べ物を、無理やり「うまいでしょ!」と言われて、必死に咀嚼している感じだ.しかし開き直ったら良い.わからないと.そこが重要だと思う.世界的に優秀な一部の人々が唱える学説はどうやら複雑怪奇だ.私達の見る世界は曖昧だからこそ時間が流れているように感じるというが、そこをもう少し詳しく考えてみたい.世界に時間が存在しようが存在しなかろうがこのさいどうでもいい.なぜ、私達は過去から未来へ時間が流れているように感じるのか.幸いにして筆者はこの疑問に寄り添ってくれる.私はなんとかして食らいつく.

 次回でこのシリーズは最終回.ですが亀吾郎法律事務所の連載ははまだまだ続きます.弊事務所は今後、英文和訳や和文英訳での投稿も考えています.何かこういうものを訳してみてほしいということがありましたら、事務所連絡先まで気軽にお願いします.