自分で問題を提起するシリーズ:序

 ようやく取り組んでいたG. W. F. Hegel(ヘーゲル)の歴史哲学講義を読み終えようとしている.人間の精神が自由に向かって進んでいく過程が世界の歴史である、という彼の考えはその後の歴史哲学を推し進めてゆく一つの偉大な動きだと思う.精神が自由を求めて成長する冒険譚という筋書きは私の好奇心ををくすぐる.しかし私にとっては結局精神とはなんだろうかということが気になっている.以前記事にした、P. Valéry(ヴァレリー)と精神についての拙い私見はHegel(ヘーゲル)後のものなので、彼が精神をどう捉えているかは、別の著作を読むことにしたい.

 彼の歴史観は人間が自由を求めて前進してゆく、歴史的人間中心主義である.これは「日本文化の時間と空間」(加藤周一著)にも言及されている.つまりは近代ヨーロッパの歴史意識を生んだユダヤ・キリスト教的な時間の捉え方をしている.天地創造から始まり、世界の終末を述べる.時間は始めと終わりがある線分、一回限りの有限の非可逆的な時間経過をたどるという.有限の時間はその全体を考え、見透かすことができる.歴史的出来事の意味は過去・未来の出来事との関係において決定される.時間は構造化され、特定の終局へ絶えず前進してゆく考えは目標へ向かう運動としての歴史という観念に結びつく.これは”Exodus”「出エジプト記」に代表されるという.イスラエル人がエジプトを出て約束の地に建国したことは、彼らが彼ら自身の自由意志で選択したことにほかならない.歴史は人間の自由な決断の結果であるとする.イスラエル人は歴史記述の関心を歴史の目標と歴史的出来事の間の関係に注いだのである.この時間概念は現在のヨーロッパ世界の下地となっていることに私は驚いたのであったが、時間の類型に関する彼の著述を読み進めていくと、さらに私の狭量さが浮かび上がる.時間の類型はいくつかの概念に分類して考えられるという.

 一つは上に述べた、有限の線分を前進する時間である.二つ目は、古代ギリシア人による円周上を無限に循環する時間、三つ目は古代中国での無限の直線を一定方向に流れる時間、第四は始めなく終わりある時間.弥勒信仰による一種の終末論が挙げられる.第五は始めあり終わりない時間で、唐代の中国で現れた末法思想に基づく考えである.

 どれもそれぞれの文化的背景に沿った怜悧な分析である.では実際のところ私達はどんな時間の中に生きているのだろうか.私は高校物理学でニュートン力学を学んだ.この力学はユークリッド空間で規定され、時間は過去から未来へ均一に進む.数学においても時間は均一に進行するものとして取り扱った.でなければ到底私では理解できなくなってしまう.相対性理論は知識として知っている.光速は不変の速度であるから異なる慣性系では時空間が歪む.日常の物理学で光速に近い速度のものは想定しないから近似してニュートン力学を用いてよいことはおおよそ分かる.だいたい地球に住んでいる人にとっては時間の進み方は均一なのであろう.ただ時間の始原と終末については言及がない.言及がないのは当然であろう.任意の時間を考えれば問題は設定できるのだから.よほど凝った問題を作る場合を除く.しかし、始原は気になるだろう.始めが気になる人は終わりも気になるだろう.始めに関してはビッグバン(膨張宇宙説)のこと、というのはおそらく教養として広く知られていると思う.では終局はどうなのか.A. Augustinus(アウグスティヌス)に言わせれば「私は知らない」.知っている人は極めて少ないと思う.確信の水準で知っている人は何か深刻な問題を抱えている可能性がある.私にそっと教えてほしい.

 私達の暮らす世界の時間がどのようなものかよくわからない以上、歴史の記述もそれが本当に正しいのか、ちょっと怪しくなってくる.いや、決してオカルト的話に帰結させたいのではなくて、私達がごく当たり前に思っているであろう、「時間は過去から未来へ直線を前進する流れ」が至極受け入れやすくて、説明も容易すぎるのである.感覚的に正しい感じはする.いい香りのするご飯は美味しいに違いないという直感と似ている.フェラーリのつくる新型V型8気筒エンジンは素晴らしい音を奏でるに決まっているという感覚でもある.薫香を黄昏に溶かす葉巻の味は格別なのかもしれない.しかし、当たり前のことを少しうがった見方で捉えてみるのが私の癖である.ただこうした疑問に取り合ってくれる人は少ない.そもそも問題提起できる場所も少ないように思う.「いいからさっさとご飯たべちゃいなさい」「そういうのいいから仕事終わった?」「でも君は〇〇卒だよねぇ、それじゃあいくら考えてもだめさ」「吾郎クン、変わってるよネ」そんなことを言われる気がしてしまう.話を戻す.では、循環する時間を考えると説明しやすいものはあるか.天体運動や四季の移ろいがある地域では説得力があるかもしれない.循環するのに円運動である必要はあるか.楕円か.富士スピードウェイのような複合する曲線か.ボロメオの輪でもいいじゃないか.歴史は繰り返すという言葉もある.栄枯盛衰、盛者必衰の理.火葬場で燃えた私の遺骨は埋葬されてから大地の微生物によって分解され、土壌を豊かにする.新たな生命の糧となる.これでは輪廻になってしまう.しかし輪廻では歴史を記述することは難しそうである.できなくはないが手塚治虫くらいである.何を言いたいのかわからない方はぜひ「火の鳥」をご覧になってほしい.兎にも角にもあらゆる事象を一元的に説明できる強い言説が必要だ.私の頭の中も駄菓子の超ひもQが絡み合ってしまうかのようにこんがらがってしまった.

 こういうときはどうするか.とりあえず寝るに限る.その後に新しい著作を読んで知識を得る.できれば議論をする.ということになりそうだ.このテーマはシリーズ化してみようと思っているので、自分なりに理解を深めてから思考を整理すべく文章に出力したい次第である.次作にご期待頂ければ幸いである.

投稿者: 吾郎

2019年12月11日に事務所創設.法律以外の様々な問題を取り扱います.Office est. 11/12/19. Our articles include essay, translation, study about literature, psychiatry(psychopathology), humanities and sometimes roofless vehicles.

「自分で問題を提起するシリーズ:序」への3件のフィードバック

  1. 自分の体調、思考の流れは常に一定ではなく、音楽のように緩急があると日々感じています。ミクロが細胞、マクロが地球ひいては宇宙だとすれば、世界の終わりはアポトーシスのような感じでしょうか。ひもQは幼い頃大好きでした。

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