気づけばグリーンイグアナ

 先日、妻と淡水魚の水族館を訪ねました.大きな敷地の中には大きな池が会って、その中心にガラス張りのルーブル美術館のような建物があります.水族館の入口には鯉のぼりを模した、何百もの鮎のぼりが風を吸って、元気よく泳いでいました.見物人は少ないのでゆったりと静かな空間で集中して魚を観察することができました.マス、ヤマメ、タナゴ、フナ、オイカワ、コイ、ドジョウ、ウナギ、カエル、イモリ、ザリガニ、サワガニなど淡水でよく観られる生物がゆったり暮らしていて、少し羨ましく思いました.ガラスから差し込む日光が眩しくて、蓮の葉は大きく葉を広げるのとは対称に、我々は瞳孔を小さくして少し暗い館内を探索します.淡水魚だけでなくて海水魚や汽水域の魚も少し展示してあって飽きることがありません.アジ、タイ、マグロ、サメ、ヒラメ、フグ、ウツボ.正直にいうと時々美味しそうだな思うときと、この魚、あな恐ろしと思うことが多かったです.読者諸兄には私の見識の狭さに呆れるかもしれませんね.しかし背びれ尾びれが動くときの一切の無駄の無さと優雅さ、光に反射するウロコ.しなるように動く細長い流線.そしてそれら形態へと至らしめた進化の道筋あるいは万象の妙技にはただただ感嘆するばかりでした.

 水族館や動物園を訪ねるときは、自分(の世界)と動物(の世界)の対比を行うことがもっぱらかと思います.自分の知識と実物を照らし合わせて違いを感じ取り、そこに感動する、思いを共有する、新たな情報を得ることが多いのではないでしょうか.水族館はそれが面白いのです.マリンスポーツをやる人は水中生物の知る力学に感動し競技への新たな着想を掴むのか、芸術家は生き物の息遣いや水と光が作り出す不可思議な空間に魅せられるのか、いずれもどうなのかはわかりませんが、私が少し考えたのは妻とのやり取りを介した以下のようなことです.

 砂場に潜って両眼だけを出しているヒラメを見て私はこう言いました.

「あのヒラメのように、平べったく砂の色とほとんど同じ色合いで景観に潜るというのは全く信じがたい技ではありませんか.ということはヒラメは砂の色と自分が砂に潜るときの体の形をよく理解している、自分が隠れたときにどのような姿になるかをおおよそ知っていて、まるで他者からの眼差しを意識して姿を発展させたかとしか思えないような造形です」

 妻は少し考えて言います.

「私は自然選択説というものを学んだことがあります」

「ほう」

「進化を説明するとき、自然環境が生物に無目的に起きる変異を選択し、進化に方向性を与えると」

「つまり、ヒラメは意識せずにあのようになったと」

「ええ、学者はそういいます、私はそう教わりました」

 妻はいつも冷静です.

「では、ヒラメの擬態と同じように、イカもタツノオトシゴが岩陰や海藻に紛れて身を隠すようになったのは、彼らの意識するところではない.しかし数ある子孫に現れた個性のうち生存に適さなかったものが、長い歴史の中で徐々に淘汰され、適したものがいつしか形質として選択される、と」「あんなに見事なのに.ナナフシの節足やハナカマキリの色彩もガの紋様は自身の体躯を客観的に認知せずにああなるだろうかねぇ」

「貴方の言いたいことはわかります、でも私はそういう知識を持っていると言ったに過ぎません」

「すごいねぇ」

 私は少し気まずくなって、妻の顔を見ずにガラス越しのヒラメと目を合わせようとしたのですが、ヒラメはじっと考え事をしているようで私にとりあってくれませんでした.

「少し喉が乾いたね、休憩しようか」「あすこのベンチがいい」「ええ」

 私達は日光が燦々と輝く外の景色を眺めながら休むことにしました.燕がヒューッと急降下して勢いよく高く揚がるのを見て、近くに巣があるんだね、帰りに見に行ってみようか、などと話をしました.蓮の花が咲き乱れ、アメンボがスイーッスイーッと水面を揺らします.実にのどかな光景に目を見張りました.ずっとこういう時間がつづくことはないと思いながらそれぞれヒラメのようにじっと考え事をしていたように思います.少し時が経って奥に進むと世界の淡水魚コーナーと称して、主に南米の熱帯に生息する巨大魚が展示されていました.いや、どちらかというと我々が見られていたのかもしれません.ピラルクーが悠々と泳ぎ、近くにはポルカドットスティングレイが張り付き、カンディルやピラニアがちょこちょこ水の中をかけっこしています.自分が水の中にいたら堪らないだろうと思いながら水中に設置されたガラスチューブを歩き、地上に上がります.外から見てルーブルの四面体のように見えたのは熱帯雨林を模した環境を保つためのガラスだったのです.鬱蒼とした森の中を歩いている気分で、なかなかおもしろいものでした.目の前にオウムのような鳥がいるのもびっくりしました.あとから知るとインコのようでしたが、妻は息が早くてあまり調子がよくなさそうだと心配していました.ほかにも何かいるかとキョロキョロしてみてもなかなか見つからないので立ち止まっていると、妻が

「ねぇちょっと、あれ」

Photo by Juhasz Imre on Pexels.com

 2mくらいの近さでそれは大きなイグアナが日光浴をしていたではありませんか.まったく物音せずにずっと林の定位置にいたのです.あんなに近くでイグアナを見ることはなかったし、気づかなかったこともびっくりです.かといって向こうは何かこちらに気を使うわけでもなく自分のことをしていたので、あたりに漂う空気は穏やかなものでした.怖いと思う気持ちは全然なくて、なんだか昔から知っている仲間に偶然出くわしたような嬉しい気持ちがしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと.

 帰ってから妻と話したことを調べてみました.もしかしたら私がヒラメを見て言ったことはJ. Lamarck(1744-1829) の唱えた用不用説に近いのかもしれません.現在進化論の潮流は妻が教えてくれたC. Darwinによる自然選択説にあるようですが、素人ながら確かによく観察と熟考を経て得られた学説だと思います.この自然選択説は変異は自然が淘汰し、偶然が支配するサバサバした学説であって、進化の過程において生物がああしよう、こうなりたいという密かな思いを排除したものとも考えられます.私自身、もっと知らなければならないことが沢山あるのを承知で言いますが、どんな生き物でも個々なりの密やかな思いがあっていいはずだと思います.これを主体性といえば少しすっきりした言い方になりますが、各々が形態・機能変化へ向かう何らかの力動が働いている、究極的には進化へと至る推進力<精神といっていいのだろうか?>が存在しているように感じるのです.私はロマンチックな話が好きなのでこういう考え方になりますが、この世界が確率や偶然だけでできているのではあまりにつまらなくありませんか.運命がきまぐれによって決まってしまうような考えはある意味単純明快ですが、我々がみな運命の囚われになるのは惨めでしょう.何か私達にとって捉えがたい生命固有の志向性が働いているだとか、運命に抗うベクトルが備わっているような、そんなある種の不可思議な方向づけがあるとしたら、僕らはカメレオンやタコともっと寄り添っていける気がするのです.

 こんな話、うちの事務所のスタッフくらいしか聞いてくれないかと思いましたが、あとで定向進化説(Orthogenesis)やNeo-Lamarckismといった生命の内的方向性を考える学説があると知りました.私よりずっと前に似たようなことを考えている人がいると知って、自分の凡庸さに気づきつつ、共感してくれそうな人が少しでもいるのだと思うとほっとしました.イグアナがそこにいてくれてよかったなと思う気持ちと同じでした.

結婚式を間近で見るということ

 結婚式というのは凄まじいエネルギーを要するものです.つい最近、兄の結婚式に参列してきました.神前式を以て粛々と執り行われました.奈良時代(神護景雲元年)から存在するという、とある神様の祝福が得られ、二人は無事夫婦として結ばれることができました.この神様は複数の神体の総称で、調べたところによると、大国主大神、多紀理姫、味耜高彦根命の三神を祀っているようです.味耜高彦根命は大国主大神と多紀理姫の子ということですから、家族経営のようなものでしょうか.縦二列で歩きながら、本殿に向かいます.スピーカーで繰り返し流れる越天楽の音色に乗って、巫女が舞い、神主が笛を吹く.新郎と新婦は紋付袴と白無垢を装い、親族は和装や洋装の正装で望む.実に現代的で微笑ましい風景でした.神酒が注がれ、少し口に含んで味を確かめると、足元に吹く冷たい風を体から暖めてくれるような気持ちがして、なんだか心地よい感じがしました.二人は誓いの言葉を仲良く読み上げ、結婚指輪をつけて無事に儀式が終わると今度は記念撮影.記念撮影はこの前後で何度も何度も行われるのですが、新郎新婦の嬉しそうな表情であることやいかに.これには、悠久の神々も恥じ入るような仲睦まじさで、私は視線をどこに向けてよいのかわからなくなってしまいました.

 本殿に参る前には有名な橋を渡るのですが、そこは一大観光地でもあります.夫妻はホテルの仕組んだロンドンタクシーを送迎車に見立てて乗車し、19世紀のおえらいさんのよう.我々は国産中型バスに乗り込み、昔なつかしバス旅行を思い出します.車を降りると様々な人々が偶然にも拍手など祝福をしてくれて嬉しいやら恥ずかしいやら.私が当人であったらあらゆる眼差しを受けてそのまま消え入りたいくらいでした.ただそういうわけにはいかないので真面目な顔をして歩きました.滅多に見ない景色でしたので、少しキョロキョロしてしまいました.澄んだ清流と、朱の橋が対照を成す色彩は見ていて飽きないものでした.自然といってもほとんどが人工物ではありますが、昔から工夫された景観を用いて催される結婚式もなかなかに立派です.いつまでも少年のような新郎と凛として溌剌な新婦の晴れ舞台にふさわしい景勝であったといえましょう.

 結婚式の披露宴会場は1873年創業の老舗ホテルでした.こちらで会食が催され、仏式洋食のフルコースが提供されました.その味は正統派であろう、万人に好まれる味で、丁寧な下準備と作り手の技巧が容易に想像できました.せっかくですからメニューを紹介しましょう.乾杯の音頭は私が務めましたが、あまりうまくまとまりませんでした.謹んでお詫び申し上げます.

 オードブルは帆立貝のムースいくら添え.ムースの濃厚な味は食欲をそそります.キウイフルーツの爽やかなソースが魚介の臭みを消して、彩りも豊かにしているようでした.食事の途中で新郎新婦は来賓をよそにまた記念撮影へ席を外してしまいました.夕刻に絶好の場所があるとカメラマンがそそのかしたようです.しばらく帰ってきませんでした.

 スープは湯波の入ったコンソメスープ.市販のコンソメ顆粒を使う身としては、これ以上ない肉の香り引き立つ濃厚なスープという感じがしました.台湾で飲んだ牛肉スープによく似ています.琥珀色の透き通る液体は素朴ですが極めて熟練を要するであろう一品でした.

 魚料理は真鯛のソテー トマトソース.真鯛の肉がふわりと口のなかで壊れてゆきます.トマトソースが酸味と塩味を乗せて風味を奥深くしていく、皮はサクサクとしてすべてが計算づくといった品でした.パンが止まりません.夫婦は帰ってきました.

 口直しにシャーベットがやってきました.おそらくラズベリーでしょうか.口直しとはこういうものだと思わせるキリリとした冷たさと清涼感で次に運ばれてくるメイン料理への期待感を掻き立てます.

 肉料理は霧降高原牛フィレ肉のステーキ キノコのソース.しめじとしいたけをソテーし赤ワインで仕立てたソースという感じでしょう.シンプルな構成ながらもフィレ肉のとほどよく合わさり、美味しいの一言です.付け合せはブロッコリーとクレソン、柑橘の香り付けした人参のグラッセ.匠の業が光ります.奇をてらわず、王道を突き進んだレシピは老舗ホテルの伝統としてずっとあるのでしょう.

 デザートはムース・オ・ショコラ、メロン.チョコレートムースのしっとりとした風味.ベタつかず香り高い上品な甘さ、メロンも少し若い程よいシャキシャキ具合でいずれも嫌なところが微塵もない品でした.最後に珈琲を頂戴し、いよいよお開きかと思うと、突如プロジェクタとスクリーンが用意され、結婚式の総括を動画で振り返るものでした.こういう演出は数ある結婚式で観たことあるのですが、其の中に自分の兄が写っているとなんとも奇妙な感じがしました.奥さんとなる方はなかなかに綺麗に写って、それは見栄えがいいのです.その対となる相手が自分の兄ですから、まるで兄が女性と一緒に芝居をしているような.うまいたとえが思いつきませんが、難しい感覚でした.親父は嬉しそうな表情でした.向こうのご両親は涙を浮かべておりました.ほんの一コマが巧妙なアングルで撮影され、うまくぼかし、頃合いの良い速度に調整しているのですから、あらゆる動作が神がかって見えてしまうので、涙を流しても無理はないかもしれません.これも大国主大神の為せる業か.いいえ、ちょうど夏至の日ですからきっと夏の夜の夢なのでしょう.他にも新郎新婦の両親に花束と記念品贈呈の場面もありました.なんともお涙頂戴の場面です.妖精の仕業に決まっています.

  私にとってはこういう演出はどちらかというと苦手な方で、このような状況がややもすれば絶命してしまうに違いありません.ものすごい集中を要します.ですが、当人たちは至極幸福に包まれ、絶頂に差し掛かっているので無粋なことはしませんでしたし、唯一の兄がめでたく結ばれるのですから誠に結構なことです.披露宴が大団円に終わり、解散かと思いきや、さらに記念撮影が二人の中で行われました.あたりは日が沈んで真っ暗ですが、二人には夜の帳は降りずキラキラしていたのです.カメラの閃光、この日だけ許される気取ったポーズ、最後の最後までまばゆい光を放つ新たな夫婦の誕生を目の当たりにしました.我々はすでにエネルギーがそこをついてしまい、幻惑してクラクラしてきたので帰路につくことになりましたが、彼らはその煌めきを我々の前で絶やすことはありませんでした.さぁ、いつまでやっていたのでしょうね.

 厳しく窮屈な時代で執り行われた結婚式でしたが、実にめでたい一日でした.そのめでたい夫婦に新たな生命が誕生するというのですから、この先も楽しみです.私は変な叔父さんとなって、お子さんが反抗期を迎えたころに優しく出迎えるべく、修練を重ねていく所存です.

亀吾郎法律事務所の仕事について

亀吾郎法律事務所はブログ業界では無名の新参者です.法律事務所とは名ばかりで、管理人ないしは編集者が日常を彷徨って思いついたことや考えたこと、拙い翻訳文や書評を載せたりします.管理人(吾郎)は精神医学をわずかにかじったことがあるようです.学校の課題を紹介するような少々せこいことも行います.このブログの主たる言語は日本語ですが、管理人(吾郎)は英語を少し解します.最近は中東情勢にも明るくなるべしとの啓示を受けてアラビア語(フスハー)を勉強することにしております.将来、ブログで紹介できるように努力をいたしますが、とある匿名の助言者からフランス語をやり直してはいかがかとのご指摘を頂き、まずは精神の安定と未来への投資の観点からフランス語の学習を再開することにしました.将来的に日本語ーインド・ヨーロッパ語族ーアフロ・アジア語族多岐にわたって知悉できることを夢見て生きていこうと思っております.

Photo by Caio on Pexels.com

 事務所は静かな田舎にある物件を借り、中をフレンチコロニアル様式で装っております.美味しい珈琲とルイボス茶の薫香が事務所に新しい風を運んでくれます.皆様と良いご縁があることをスタッフ一同心より願っています.どうぞよろしくお願いいたします.

管理人 吾郎

ある言葉をめぐる思弁

Photo by Oliur Rahman on Pexels.com

 私が仕事を初めて数年経ってから「精神」という言葉を強く考えるようになった.しかし考えるよりも優先しないといけないことが多く、以前は取り組むのが難しい課題であった.今でもとてもとても難しいことに違いないが、私自身少しましになった.改めて考えるだけのものでもあると思う.さて、少しだけ考えてみよう.建学の精神、精神論、精神的、精神病、精神と肉体.言葉は一緒なのにどれ一つ意味合いが何となく異なる.この何となくが引っかかる.人間にとって精神とは何だろうか、動物の精神という言葉はあまり聞かない.建学の精神.学校の入学式や卒業式で聞いたり額縁に飾ってある言葉だ.たとえば私の学校は質実剛健、文武両道であった.精神論.あの人はいつも精神論ばかり説く.ではあの人は肉体論ばかり言う、という用法があるだろうか.殆ど聞いたことがない.敬虔な筋肉の信奉者か.そもそも精神と肉体を対立させていいのか.昔から議論されている命題だ.精神的.この言葉は日常的によく使う.精神的にきついだとか、精神的に強い、といった使い方をする.しかし精神的な強さとはなんだろう.精神病.精神の病気というと色々あるが精神病というとおおよそ統合失調症を主とする一つの疾患群を指すだろう.とはいっても精神が病むというのはどういう状況だろうか.そもそも精神という臓器はないが、精神は人間のどこで働いているか、すなわち精神の座を探求する取り組みは有史以来行われてきた.結局は脳ということになり、大体の人が納得している.もちろん、脳が一義的に精神の機能を果たしているわけでもないことは承知しているが、大多数の人と会話するときには上記を念頭において私は言葉を選ぶ.精神は人間の生活において大きく存在するものだとも考える.建学の精神という言葉は人間が学び舎を建てるときに精神的支柱として掲げるものであろう.わざと精神的という言葉を用いたが、建学の精神という言葉を引くと、自立、知性、社会、滋養などといった単語を学是としているところが多い.どれも目に見えなくて捉えどころのないものを大切にしている、機能させているといって良さそうだ.掴み難くて難解な言葉を私はどのように理解したら良いのだろうか.

Photo by Archie Binamira on Pexels.com

 亀吾郎法律事務所に上記のような問い合わせが来た.当事務所はこのような相談を受けることもある.私は何冊かの書物を選んで次のような返答を行った.

 最近、私はP. Valéryの著したLa Cries de l’esprit(邦題:精神の危機)なる作品集を読んだ.彼は多くの戦争を経験し、人々が切迫した時代と混乱に飲み込まれる状況を見て危機感を抱いた.ヨーロッパは果たしてあらゆる分野における優位性を保つことができるのかと.有史から世界中で賛嘆すべき幾多の文明が栄え、また滅びた.そのような淘汰の中で最強の入力と最強の出力という物理的特性を備えた領域はヨーロッパを除いて存在しなかったと彼は序文で述べる.地球儀でも世界地図でもご覧になっていただきたいが、これは人間が住む土地の総体が描かれており、天然資源、豊穣な土地、豊かな地下資源、様々な特性が観察される.ここから彼は、「人間が住む地球の現状は、人間が居住する諸地域を対象とした一つの不平等系によって、定義することができる」という.Sid Meier’s Civilization という世界文明史ゲームをやったことがある人であれば、1ターン目で砂漠ばかりの土地や、氾濫原の広がる初期立地に嘆息することはよくある話であり、土地の不平等性には一定の納得を示していただけるだろう.荒涼とした山岳地帯よりも河川の流れる盆地のほうが文明は栄えやすかろう.かといってヨーロッパがそこまで資源豊かではないし地形的にも狭溢している.ヨーロッパが優位性を保ってきた一例についてValéryはギリシアの存在を挙げる.ギリシアによって発展を遂げた思想を例に、少しずつすべての学問が幾何学のように論理を厳密にし、即時的な敷衍可能性、徹底した夾雑物の排除を行うことを余儀なくされたとし、近代科学はそこから生まれたと指摘する.Hegelも似たようなことを述べている. 科学が発展し、その物質面の応用が進むと、どちらかというと、資本活用の刺激剤として科学は商品や貿易品と化する.学者の研究材料に過ぎなかった硝石がいつしか化学エネルギーを爆発に換えて火薬となりマスケット銃の弾丸を発射する手段となる.商品は模倣され、世界中で作られる.資源が採れる土地のほうが生産は容易い.人口が多ければその分力は富む.ヨーロッパが占めていた優位性は科学水準等の地域格差がなくなっていくごとに失われてゆく.パワーバランスが逆転しつつある.Valéryはここで拡散という物理現象を用いてさらなる説明を試みる.インクを水に垂らすとそれは一瞬色づいて忽ち消えてゆく.これが拡散である.しかし、もし水槽の中に垂らしたはずのインクが姿を現したら・・・といって物理学でありえない話をするが、この現象は人間においてはありえないことではない.我々は液体系が、自然発生的に、均質系から不均質系に移行しているのを目の当たりしているという.この逆説的なイメージこそ、私達が何千年も前から「精神」の世界における役割であると.ヨーロッパの奇妙な優位性はその「精神」によって、軽い方の秤が傾くように働かしむのであった.なかなか難しい説明であるが、別の小論、La liberté de l’esprit (精神の自由)を参照してみる.そこでは「精神」という言葉を我々の体の動きに必要な、身体機能の最適化を目指すようなものではない思想や行為を分離・発展させる可能性、あるいは欲求、あるいはエネルギーとしている.すでに私達の生命はある種の変形力、すなわち我々の体と周囲の環境が我々に課す生命維持に必要な問題を解決するための能力を持っている.これは他の動物もそうである.しかし、なぜか我々は生命維持の不可欠な欲求が満足してしまうと生命保存とは別の作業を自分に課そうと思うようになる.彼の表現を借りればこれは途方もない冒険である.彼が「精神」と呼ぶものはその冒険に瞬間的な方向づけ、行動の指針、刺激、推進力を与えると同時に行動に必要な口実、幻想のすべてを与える.口実や幻想は時代とともに変わる.この精神的な力と動物的力(生命維持の能力)はよく似ている.同じ歩行であっても、ただ歩くのと踊るのは、同じ器官、同じ神経回路の産物で、ちょうど私達の言語能力が欲求や観念を表現するのに役立つと同時に同じ言葉・形式が詩をつくるにも役立つのと同じであると.両者は同じメカニズムであるが、目的は全く異なる.生命維持か大いなる冒険か.もう少し別の簡潔な文章を引用してみる.彼のCahier (カイエ)の冒頭は、「精神とは作業である.それは運動状態でしか存在しない」から始まる.またこうも述べている.「精神は一度には一つのことしか見ることができない」「精神にはきっと然るべきメカニズムがあると私は確信している.精神のすべてがそのメカニズムに還元されるとは言わない.私が言いたいのはそうした基本的メカニズムが解明されない限り、それより先へ行こうとしても無駄ということである」Politique de l’esprit(精神の政策)からも引用しよう.おそらくこれが最も端的な表現であろう.「私の意味するところはごく単純に、一つの変換する力のことである」、「精神はまさに賢者の石、物心両面にわたる一切のものを変換させる動因である」と.そして先に述べたような叙述が続く.「精神は我々の周囲にある影響を及ぼし、我々を取り巻く環境を変化させるものであるが、其の働きは既知の自然エネルギーの作用とはかなり違ったところに求めるべきものであると.その働きは、与えられたエネルギーを対立させたり、結集させたりすることに存するものだからである.この対立あるいは結集の結果として、時間の節約ができたり、我々自身の力の節約ができたり、力や精度、自由や生命時間の増大がはかられるのである.〈中略〉かく見れば、精神とは、純粋に客観的な観察の総体をいわば象徴的に表したものの謂いである」

Photo by Ruvim on Pexels.com

 ここで少しまとめてみたい.精神とは一つの変形力であり、作業でもある.それは動的な状態である.それは自然の営みに逆らうこともできれば収束させることが可能な推進力である.例えば文字を書くということを考えてみる.薄っぺらい物体の表面に異なる物質を一定の浸透力で染み込ませ、これを規則的に延々と続ける.これは生命維持とは関係のない動的な状態と考えられる.さらに一定の様式で平面にインクなり墨なりを染み込ませるためには、「書く」主体の意志、すなわち推進力や行動の指針、もしかすれば冒険心が必要である.この営みによって、主体の思考は収束するかもしれないし、同じ文字を認識することのできる客体すなわち読み手がいれば自然の法則に則らない思考の伝達が行われるともいえよう.考えは収束するかもしれないが、読み手がどのように刺激を受けるかによってそれはさらに他者に伝播する可能性も持つ.もし扇動的であったり挑発的であればその思想に抗おうとする別の推進力が出現することも考えられる.音楽や絵画にも同じことがいえるだろう.こうしたところで、冒頭の問に答えられただろうか.建学の精神は、学び舎を興すときに創設者たちが掲げた教育の原動力(motive)となるキーワードとでもいえばよいだろうか.精神論とは主体に与えられたエネルギーに依拠すれば艱難辛苦に耐えうることができるであろう考え方と言えそうだ.精神を病むとすれば、何かを起こすための推進力に問題のある状態を考える.動的な状態を前提とすれば、それが緩慢な状態に陥ったり静止すればいわゆるうつ状態、暴走ないし危険な冒険を選ぶのは躁状態とも考えられる.このように彼の主張を演繹すると実に明快である.

 ValéryがLa Cries de l’espritを著したのは1919年だから今から100年以上前になる.彼の著作を読んでいてあまりそういう気がしなかったせいか抵抗なく読みすすめることができた.おそらく翻訳が優れていることが大きいのだろう.まだ自分の中でうまく落とし込めていない部分はあるが、一応の読了と総括をすることで、別の著作に取り組みたいと思う.

自動車について独り言つ

Photo by Pixabay on Pexels.com

 思ったことを書きます。

 最近のことに限らず、車を運転していると周囲の自動車のほとんどは制限速度にとらわれず走行しており、道路法規の速度制限は効力をなしていないように思う日々が続いています。

 かといって著しい速度で走行する車両はほとんどおらず道路環境に比して円滑な道路状況として機能していることが多いと思っています。

YouTubeなどの動画サイトを観ると、コクピットにぼかしを入れて車両の評価をするものが大多数ではないでしょうか。

 徹底的に解説を試みる、と謳いつつも車速についての感想は個々人の感性と洞察の豊かさに期待するしかない、道路法規を根底とした制約を自らに課しているぎこちなさや窮屈さ、他者からの凡ゆる眼差しを無視できない緊張感を私は感じてしまいます。

 一方で、此の車は法規に則って運転しても痛快で十分だ、と評する投稿は随所で認められます。これまた投稿者の実は苦しげな心中のようにも思えてしまいます。

 並立を意味する「も」という副助詞が示すように、法規を守らない場合の想定を許す表現がある以上、公的な場で速度を超えたときの愉悦を知っているとしか思えないのです。

 では彼等が無法者なのかと言うと、瞬間的にはそうなのかもしれませんが、冒頭で述べたように、彼らは柔軟に巡航している人々のごく一部なのだと考える方が親切かつ妥当でしょう。

 先程から速度の話ばかりしていますが、車の話をするときは皆、自動車のあらゆる事象に人間の心的動揺が生じ、加速への高揚感や操舵の一体感だけでなく各人の情緒的な物語を挿入して共感を誘うことは一般的かと思いますし、私自身も大いに享受しているところです。

 そういった要素では皆雄弁になり、それぞれの修辞で自動車を語るのは印象的です(流石に排気音を「咆哮」と喩えるのは陳腐であるように思います)が、速度性能になると、息を潜めて曖昧になり、申し訳程度に0-100㎞/h所要時間に言及する方が殊更気になってしまいます。

 近年の自動車性能の向上と相関しないように思われる速度制限は、実勢速度に即したと主張する制定側の見解を考慮に入れてもどうも合点がいかないものです.

最後の課題

大学院課題8:なぜ統合失調症は異種的(heterogenous)なのか説明せよ。

Photo by Tranmautritam on Pexels.com

 統合失調症における家系研究や遺伝子研究がなされてきたが、必ずしも遺伝形式に則らない発現が報告されている他、家庭や生育環境によって発症から病態の経過が異なる.また生化学研究で用いられる生理検体が非均一であり、病態の把握可能なバイオマーカーがいまだ同定されていないため、統合失調症が一つの疾患である保証がない.よって統合失調症を単一の疾患と捉えるよりも異種性を生じる複数の病態からなる疾患群と仮定せざるをえないため.

課題2つ分

大学院課題6:不眠の原因となる5つの頭文字Pについて説明しなさい.

Photo by Egor Kamelev on Pexels.com

 痛み、かゆみ、咳などの身体的要因(physical)、寝室環境の変化、騒音光などによる環境変化である生理的要因(physiological)、薬物の副作用や離脱による睡眠妨害がおこる薬理学的要因(pharmacological)、心配事やストレスなどによる緊張の高まりで生じる心理的要因(psychological)、気分障害や不安障害などの精神疾患に合併する不眠(psychiatric)が挙げられる.

大学院課題7:セロトニン症候群とドパミン神経系の関係を述べよ。またセロトニン症候群の既往のある患者に、安全に使用できると思われる抗うつ薬は何か。

 セロトニン症候群症例の50%近くにドパミン神経系の関与と思われる症状が認められたと報告があり、D1受容体刺激が体温上昇を引き起こしている可能性が指摘された.動物モデルの実験で、仮説通りセロトニン症候群にはドパミン神経系の興奮が関与し、D1受容体拮抗薬が高体温抑制に至った.Sternbachはセロトニン症候群は5HT1A受容体刺激によるものと提唱しているが、5HT1A受容体刺激薬は体温を低下させる作用がある.一方、5HT2A受容体刺激薬が高体温を引き起こすのではないかという懸念から動物モデルの実験で、5HT2A受容体刺激を行うと体温上昇が有意に認められた.以上の薬理学特性から、D1受容体拮抗作用と5HT2A受容体拮抗作用をもつmirtazapineが有用になりうると考えられた.さらに動物モデルでの試験でmirtazapineがセロトニン症候群の高体温を抑制した結果から、セロトニン症候群の既往のある患者に使用できると思われる抗うつ薬はmirtazapineといえる.

課題はあと半分くらい

大学院課題4:2000年代以降、精神疾患患者の増大により向精神薬、特に抗うつ薬の市場は活性化しているが、一部の製薬会社は新規抗うつ薬の開発から撤退する動きを見せている.その理由を説明せよ.

Photo by Pixabay on Pexels.com

 各国で向精神薬の売上が増大することにより行政の財政を圧迫するほどの問題が生じたこと、同種薬の開発に対する批判が相次いだことが挙げられるが、最たる理由はモノアミン仮設を超えた新規抗うつ薬が標的とする分子同定が困難であることが考えられるだろう.他にも英国のように認知行動療法のエビデンスが蓄積され、抗うつ薬以外の治療法にも行政が目を向けるようになったことも指摘される.

課題はまだまだある

大学院課題3:遺伝子の変化がどのようにして精神疾患の原因となるか、その概要について説明せよ.

Photo by Laura Woodbury on Pexels.com

 まずは単一遺伝子の突然変異による精神疾患、すなわちメンデル遺伝に従う遺伝子の変異が発症の引き金となることがある.例として女児のみに発症するRett 症候群(転写抑制因子MECP2の遺伝子変異)や常染色体優性遺伝する、huntington 遺伝子のCAG repeat 延長によりHuntington 病が知られる.一方でメンデル遺伝に従わない、遺伝子の多型による機能変化が精神疾患に関与することがある.主に発達障害(SHANK3遺伝子、CADPS2遺伝子)、統合失調症(DISC1遺伝子、COMT遺伝子)、うつ病(SERT遺伝子)において遺伝子多型がエンドフェノタイプとして知られている.他にはエピジェネティクスによる変化が挙げられる.DNAの塩基配列の変化なく可逆的に遺伝子機能の発現が変化することである.DNAメチル化、ヒストン修飾が関与することで遺伝子発現量の増減が生じる.栄養状態、生育環境が影響すること、妊娠中や生後早期に活発に生じることが知られることから環境に適応した遺伝子発現調節ともいえる.これらによる疾患に発達障害や統合失調症、うつ病の関連が考えられている.

こういう課題もある

大学院課題2:中世までの精神医学の歴史は組織的迫害の歴史でもあり、精神疾患患者は処罰にも似た残酷な扱いを受けていた.その概要について説明せよ.

Photo by Wendelin Jacober on Pexels.com

 中世まで、人々は合理的説明のつかない現象は超常現象と捉えていたとされる.精神疾患も神や悪魔といった超越的存在の為せる業と考えられ、なにか「悪いもの」が体の中に入ることによって生じるとしていた.精神の座をめぐる議論は有史以来続いていたが、治療法あるいは処置は上記の考えによって瀉血、浣腸、熱湯をかける、穿頭するといったものであった.

 模範解答を見るとあんまり頑張ってかかなくてもいいんだということがわかりました.